社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

日本の伝統的な平和文化と有徳国家

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日本の伝統的な平和文化と有徳国家

  

 (1)近代以前民衆の暮らしのなかにあった文化

 

 憲法九条は、日本が世界に誇れる平和主義文化の証である。この平和主義の文化は、日本の歴史的な伝統文化とどのような関係にあるのであろうか。日本の国家は、戦前に軍国主義を経験した。日本の近代化は、朝鮮半島や台湾を植民地にし、さらに、中国をはじめアジア・太平洋に軍事的な力をもって、侵略を行った。

 これらの事実によって、戦後日本の平和主義憲法は、日本の伝統文化と無縁ということに思ってしまう。日本の文化の侵略性、軍国主義な側面を強調すると、それが民族的な運命論からとみてしまいがちである。このようななかから、戦後の憲法の平和主義が戦勝国から押しつけられたとみることになりがちである。

 近代以前の日本の神仏習合文化、神仏の同一体文化を価値の多様性と異質性を尊重し、話し合いをして、合意をつくりあげていくという文化を日本の伝統文化からみることができる。

 この文化は、縄文時代からの森の文化、弥生時代の稲作・畑作文化、古墳文化、古代律令制平安時代、鎌倉・室町時代徳川時代という、古代、中世、近世という日本の歴史を大きく2000年の歴史的なスパンから平和主義の文化を探ることが大切である。

 民衆の暮らしのなかにある習俗、慣習、村の掟、民衆の祟りや恐れの精神文化から探ることは、民衆の生きていくための平和主義文化である。それぞれの習俗、慣習、掟、祟りや恐れは、人間のもつ絶え間ない紛争、支配・権力欲望、己や自己の所属する集団のエゴを絶対するうえでの抑制力になった。

  日本の民族にとって、日本列島という、急傾斜と雨の多いところで、台風、水害、火山噴火、地震が頻繁に起きてきた。このなかで、エゴで生きることの厳しさがあったのである。これは、日本の民族的な平和文化のアイデンティティをつくっていくうえで重要なことである。

 ところで、稲盛和夫は、すばらしい伝統をもっている日本人の平和に対する善き思いの精神文化を発展させることだとしている。世界で率先してすばらしい社会をつくり、世界中から尊敬される国になってほしいという願いである。

 日本は、世界の他民族から尊敬されるためには、日本の地方の村にいた素封家のひとたちの姿があるとしている。素封家とは、公の職につかず、なんの権力をもたず、位はないが、その人の人間性や器量で、実質的なリーダーの役割をしていた村の文化人である。

 素封家は、田畑をすこしだけ多くもち、教養・学問があって、何よりも人間性が豊かである。村人は、困ったときに、その人に相談に行き、その人を中心に貧しく困っている村の人を物心両面に支援した。権力を誇示したり、威張ったりしない人たちであった。

 今後、世界のなかの日本は利他の心をもって、お金持ちとしてではなく、軍事大国ではなく、世界の素封家になれば、日本は、世界の人々から尊敬される国になることができると稲盛和夫はのべる。[1]

 また、日本の善き伝統は、共生と自然循環の社会であったと稲盛和夫はのべる。入会権のように森、キノコ、落ち葉もすべて村落共同体のもので村人が分かち合う文化があったのである。水の管理、水の配分には、村に共生のルールがあって、自分勝手を許さないことであった。また、堰や水路は、村人が共同で見張って管理していたのである。[2]

 稲盛和夫は、美しい心を持っていた江戸の日本人の見直しを強調する。それは、政官財を問わず各界の不祥事が起きる現代日本の問題状況のなかで、その克服の展望に江戸時代の日本人の心に大きな鏡があるという理由からである。

 明治以前の日本を訪れた外国の知識人はなんと美しい心を持った民族かと驚嘆していたと。資源を分かち合い、隣近所となかむづましく、礼儀作法と人間性をもっていた日本社会の姿があったとみる。稲盛和夫は、江戸時代にもっていた素晴らしい日本人の心の見直しを指摘するのである。

 

(2)日本の自然の恩恵を大切にする文化が平和を支えた

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 日本には、豊かな自然の恩恵を大切にしてきた文化があった。里山を日常に村人みんなで自然循環するように管理し、奥山は、聖なる山として材木として利用する以外は手をつけないで自然のままにしてきた。奥山の木を切るときは聖なる山の神に祈り、生活にどうしても必要であるときは、懇願して、山を大切にしながら木を切ったのである。

 山の恵みはすべて、循環するように掟を守ったのである。山芋をとるときも下の食べられる芋をとるが、根株は植えなおすことをしてきた。

 田んぼでの豊作を祈願するときは、山を大切にしたのである。田の神は、秋深くなると山にもどっていくという思いが村人にあり、山と田、山と農業の関係を大切にしてきたのである。

 漁業にとっても豊かな山の自然を大切にするということは同じである。漁民の大漁祈願には山を祈ったのである。今でも、漁民は、山に木を植え、山の自然循環を大切にする管理を山村民と協力しているのである。日本には自然循環と共生の文化が根強くあるのである。

 「しかし、近代以降、日本は軍事力を増大させ、周辺民族をも支配し、そこから経済発展を遂げてきた。現在も、植民地こそありませんが、やり方を変えて他国に干渉している。経済支援という美名のもと、やはり自国の権益の拡大をめざしている。いまこそ欲望を抑え、その対極にある「慈悲」「思いやり」「助け合い」「利他」という価値観に目覚め、「みんなで一緒に生き延びてこそという方向に、日本人がその思考を変えていくときではないでしょうか」と稲盛和夫はのべる。[3]

 江戸時代の美しい心を持った日本人の現代的な再評価は、慈悲、思いやり、助け合い、利他という価値観に日本人が目覚め、みんなで一緒に生きのびていこうという共生社会の構築を展望するのである。

 ところで、一方的に明治以降の近代化を稲盛和夫は否定しているわけでもない。物質的な豊かな文明を作ったことを評価している。その物質的な豊かな文明が一人歩きして、豊かであった日本人の心が置き去りにされて、不祥事などにみられる精神の荒廃が起きているのである。

 そして、物質文明も驕りがあるというのである。その驕りが持続可能な社会の危機の到来になっているというのである。まさに、物質文明の限界をきちんと認識していく時代になっている。

 稲盛和夫は、明治維新についても日本が植民地にならなかったことを積極的に評価している。日本の近代化を積極的な面と、江戸時代の分かち合い、小欲知足による自然循環等世界に誇れる精神の衰退、周辺民族の支配のマイナス面と二面性があったのである。

 「もし日本の明治維新が失敗していたら、我が国も植民地化され、他のアジア諸国と同じ状況に陥っていたかもしれません。そうすれば、現在のような繁栄した日本の姿は存在していないでしょう。明治政府以来の富国強兵政策や覇権主義が近隣諸国にたいへんな迷惑をかけたことは確かですが、国家としての日本の命運という点においては、近代化に向かったことはよかった。その点においては評価できるでしょう」。[4]

 平和についての日本の文化は、複合的で多様な価値観を包み込んでいることによって、寛容の精神を醸成してきた。単一の価値観、画一の文化ではないのである。海幸の民、山幸の民、交易の民、農耕の民、工芸の民と多様な文化が豊かな自然のなかで複合して蓄積してきたのである。日本という列島のなかで、複合的な文化と価値観をもった人々が共に暮らしてきたのである。

 北海道でとれるコンブが沖縄の食の伝統になくてはならない素材になっている。北海道の物産は、古くから関西の伝統料理の素材に不可欠であったのである。これは、交易の民としての日本人がいたから複合的な文化が形成されてきたのである。

 日本人は、交易の民によって広く開かれた交流をしてきた民族である。江戸の初期まで東南アジアまで広く交易をしていたことを決して忘れてはならないのである。

 その後幕府の貿易の独占によって特定に地域に交易の場が定められたが、広く世界との交流をも幕府独占であったが、行われていた。西洋や中国の窓口として長崎、朝鮮の窓口としての対馬、北方の窓口としての釧路があった。薩摩は沖縄ルートをとおして独自の交易のルートをもっていた。

 日本の江戸時代は、幕府独占の交易であった。西洋は、王権の支配が同一民族によって、地域に固定しているものではなく、王権自身の支配権が異民族に入れ替わっていった。新生ローマ帝国オスマン帝国など。

 また、近代過程で西洋諸国のように帝国主義的な領土を拡張して移民を行っていく歴史は日本にはなかった。民族間を超えての領土拡張の戦争は歴史的になかった。中国のように異民族を支配していく歴史もなかった。

 日本は漢民族以外にモンゴル、清・満州族が中国皇帝となっていく歴史もなかった。ここに異民族間が極端に敵対して憎しみ合う歴史もなかったのである。

 国内における武士の戦いであっても農地を荒らすことは基本的に行われなかった。戦国末期まで多くの武将は、農民も兼ねてきたのである。つまり、兵農分離は行われていなかった。職業的な武装集団の形成は極めて弱かったのである。

 日本の宗教観は、単一の価値観、単一の宗派をもっているのではなく、それぞれが融合して、寛容の精神をもっているのが特徴である。それは、神仏混合というなかに典型にみることができる。ここに、精神構造的に宗教的な価値観によって争う戦争は起きなかったのである。

 為政者は、この多様な価値観をもった宗教観を恐れたのである。一部には、民に深く根付いていた念仏を弾圧した薩摩藩のようなところと、幕府のもとに諸般が禁止したキリスト教もあったが、民衆は、隠れて信仰したのであるが、それらは、土地の信仰と深く結びついて継続したのである。

 

(2)神仏混合による日本の伝統文化と和の精神

 

 神仏習合の文化はすべての生き物を大切にする文化と共同体の安寧

 

 憲法九条の平和主義文化は、世界宗教である仏教の普遍主義と日本の地域社会で生きてきた自然主義的な共同体のもつ生活からの基層的信仰を習合した開かれた精神からきたものである。

 仏教のもつ普遍的な悟りの教典の抽象性と具体的な生活からの苦悩や恐れ、祈願という感情を信仰に高めながら、心を鎮めるように統合したものである。宗教のもつ絶対的な価値性を生活からの苦悩、恐れ、祈願という感情と統合して、紛争や人間のもつエゴ、欲望の増幅をコントロールしていく役割を果たしている。

 仏教や神道は、人間のみを救済の対象しか考えない信仰ではなく、すべての生き物、自然を包み込む救済の対象とする。日本では地震、台風、水害、急傾斜による自然災害の厳しさがあった。このなかでこそ自然循環、自然畏敬の文化を大切にしてきたのである。

 特別に自然の掟に付き合って、自然を観察し、自然と共に生き、自然循環を重視していく文化が醸成されてきたのである。そのゆえに、抽象的な悟りと具体的な生活感情をより深めたのである。

 さらに、神仏習合が、庶民の生活から乖離して、為政者によって権力支配を絶対化して、祈りと暴力が結びつくことがあった。儒教の導入から人の道、善悪、慈しみの心、正義などが、為政者に強く求められた。

 このことは、日本の伝統的な和の精神を作りだした。民の暮らしを大切にし、紛争を話し合いで解決していくという文化である。為政者にとって、神仏習合の精神、後の祟りが恐ろしいという文化、怨霊文化などは、権力支配欲の増幅に歯止めのの役割を果たしてきたのである。日本の伝統的な文化を破壊したのが廃仏毀釈である。

 廃仏毀釈は、日本の近代化のなかで、神仏習合文化から絶対主義的な国家神道をつくりあげたことである。国家神道は、決して日本の伝統的な文化ではなく、日本の国民全体を軍国主義的精神に統制していくためのものであった。

 天皇の民族的なアイデンティティという権威は、国家権力を結びつけたものであり、国家の軍事的統制の役割を果たしたものである。憲法九条の平和主義を日本の伝統的な文化から考える場合に、神仏習合の積極的な評価、廃仏毀釈の大いなる反省と日本文化の複合性、価値観の多様性、自然主義を見直しながら平和の構築をしていくことが必要である。

 歴史宗教学者義江彰夫は、著書「神仏習合」で日本の宗教構造の特徴について分析している。

 「8世紀から9世紀半ばに神宮寺生成過程を通して、日本各地に、多国に類例をみない神社(基層信仰)と寺院(普遍宗教)が正面から結合し、仏になろうとして神(菩薩)のための寺というかたちの神宮寺が生まれている」

 「神宮寺の出現は、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰が、各々の独自の信仰と教理の体系を維持したままで、開かれた系で結ばれている」「神宮寺を起点として、次々に生まれてくる怨霊信仰、浄土信仰、本地垂跡説、中世日本記など、神仏習合の諸問題は、いずれも神宮寺にみられた神仏の関係を起訴として発展的に生まれてくる問題なのである」。[5]

 義江彰夫氏は、神宮寺の出現の重要性を日本の宗教構造を解明していくうえで、重要性であるとしている。神仏習合の出現の過程で、それぞれの独自の教理と信仰の体系を維持したままで正面から維持して、開かれた系をもって習合していくことを強調しているのである。

 地方の豪族が神々を背負って支配してきたのが、8世紀後半に全国いたるところでゆきづまりに直面し、仏教にその打開の道に求めた時代である。

 地方神の神宮寺化の動きは、新嘗祭等の皇祖神の霊力という律令国家支配体制を物的に支えるものである。地方社会の共同体祭祀を国家的規模で変容編成していくのを認めていくのが神仏習合であると義江彰夫氏は述べている。[6]

 さらに、神仏習合によっても基層信仰の強い呪術的な共同体信仰の神祇信仰は、社会底辺に生き続けたのである。神々の霊力に奉ることが共同体成員のすべての安泰と繁栄が約束されるということであった。王朝国家の時代はもちろん中世の時代まで基層信仰の呪術的信仰とケガレ、忌避観念の信仰は継続したと考える。

 また、キリスト教の世界では、仏教と決定的に異なるのは、最初から呪術と奇跡を認め、人間しか救済されないということで、罪も人間だけで、人間の生物、物への罪などは問われなかったとしている。キリスト教は、異教と基層信仰の神々の名を唱えることを禁じたのであると。

 日本の神仏習合の歴史はヨーロッパと決定的に異なる普遍宗教と基層信仰の結合のしかたをみることができる。日本では、仏教が神祇信仰を排除・抑圧することは一度もなかった。

 仏教が神祇信仰を吸収する際に神祇の名を唱えることを禁ずる必要がなかった。日本の仏教と神祇信仰はヨーロッパののように、閉ざされた系でキリスト教の吸収ではなく、開かれた系で結びあい、仏教と神祇信仰の共存の上に、競合と結合を築け上げてきたと、義江彰夫氏は強調しているのである。[7]

 義江彰夫氏が指摘する日本の伝統的な宗教構造の基層信仰と普遍宗教の共存性が、神仏習合というなかにみることができるという指摘は、日本の宗教文化の構造論から平和文化を考えるうえで注目することである。

 閉ざされた系で、異教徒と基層信仰を禁じてきたことは、ぶつかり合う宗教的教理や価値に対して、寛容性をもっていくうえで、一段と高いレベルの伝統的な宗教的な要素を超えての多様性の価値を認め合う平和の理性が求められているのである。

 

神仏習合での僧兵をどうみるか ー平和文化との関係でー

 

  神仏習合の文化のすべてが、暴力を否定しているということではない。それは、僧兵ということで、祈りと暴力の力が結合していた歴史を直視しなければならない。 古代・中世時代の神仏習合における修験道寺には、僧兵と言われる武装集団があった。僧兵が活躍した時代は、社会が乱れるなかである。

 もうひとつの中世社会の権力というように神社勢力は、貴族社会とは別個に荘園を領有していく。それは、摂関政治の貴族の領有に対抗し、広大な寺領・神領を有していく。

 巨大になった神社領有は、いろいろなな勢力から襲われる危険性をもっていた。寺社を防衛することから武力を保持する必要があった。自衛的手段として、武力を保持していたのである。

 中世時代になると神仏習合の神社は、宗教的な権威による地域アイデンティティという側面ばかりでなく、為政者的側面としての地域の権力者になっていく。地域の暮らしの基層的信仰と普遍的な宗教という神仏習合にみられた祭りの神祇信仰が大きく変化していったのである。所領を巨大化した神社勢力は、特権化して武器をもって戦争を引き起こし、人々に恐怖を与える者たちがあらわれるようになった。

 衣川仁氏は「僧兵=祈りと暴力の力」の著書のなかで、中世社会の仏教の実践者がな祈りの世界とかけ離れた暴力をもって権力体として存在していたことを指摘している。寺院が最大限の権力基盤を寺院荘園の経済的基盤によってそなえていた。延暦寺興福寺の寺院では何千もの規模をほこっていたとする。

 そこでは、僧でありながら、武器をもって暴力を行使したのである。中世で「大衆」とよばれる最大級の巨大化した寺院はなぜ歴史上に登場し、なぜ存続できたのか。比叡山にみられるように秩序を乱す僧の基盤は、巨大化した寺院の大衆であるとすると衣川仁氏は問題を提起する。

 寺院と民衆との間には、霊験と帰依という双方向からの依存関係が存在している。その幸福な関係が続かなければ寺には不信と待っていた。それゆえ寺院は、人へ霊感を定着させるために帰依の持続的獲得に奔走する。その手法は穏やかなものことだけではなく、恐怖をからめることを厭わない。領主権力との集団的な抵抗で、中世民衆の主体性は、逃散等を行った。

 常に厳しい現実のなかで、平穏な生活を願って、神仏に素朴な望みを託し、霊験が現れることを待った。同時に、それと引き替えに個々人が蒙るかもしれない恐れというリスクをのみこんで冥顕の力を受け入れたのである。幸福を求めることとセットとなって神仏の恐怖が確実に入り込んでいくと著衣川仁氏はのべるのである。[8]

 中世の大きな寺院は、僧兵をもって為政者に対して徒党を組んで強硬に訴えることを行った。まさに貴族は、強訴の暴力性に恐れた。朝廷は強訴に対して、迅速に対応した。寺院側の大衆を討ってはならず、阻止することを目的として武士の派遣を行った。戦闘の回避である。[9]

 日本の歴史にも典型的に為政者によって、平和を社会の基盤としてつくった平和な2つの時代があった。その時代は、平安時代と江戸時代である。この二との時代を考えることは、日本の平和文化を探るうえで大切なことである。

 この平和文化は、神仏習合、神仏儒の三位一体ということが大きく影響している。この文化は、為政者の権力ということから民衆の精神いあった怨霊祟りの社会的役割や権力から権威が分離した儀式的な意味をもっての象徴天皇の民族的なアイデンティティの意味が大きい。

 この社会的、政治的役割について、山折哲雄は、パクス・ヤポニカの文明として、世界史的な戦争と平和を考えていくえで、大きな示唆をあたえるとしている。なぜ平安時代の350年や江戸時代の250年に平和が実現可能であったのか。その平和の条件を可能にしたのが何であったのか。それは、国家と宗教の相性が良好であったと山折哲雄氏は考える。

 平安時代の平和は怨霊、物の怪という祟りのイデオロギーが政治と社会の不穏な動きに抑制効果をもったとしている。密教僧たちが加持祈祷によって、怨霊鎮魂の仕事を洗練させ、神仏の協同体制によって祟りの排除の軌道をした。

 彼らは、憎悪と暴力衝動の蓄積を早い段階で阻止した。政治と宗教の複合運動であり、その神輿が天皇であった。以上のように、平安時代の平和をつくりあげた宗教構造と国家政治の均衡的な絡み合いを評価する。

 江戸時代の平和は、平安の宗教と国家の均衡以上に家や地域社会を統合する信仰の発展によって社会秩序が安定したとする。氏神や祖先信仰の祀りに精力を費やすようになり、それが、タテ社会身分社会の心の安定をつくりあげた。そして、祖先崇拝の檀家制度によって、大名、武士、一般庶民に至るまでのヨコの関係を強固にしたのである。神道氏神信仰や仏教の死者儀礼が階層を超えて共通の死生観をもった国民宗教的基盤をつくった。[10]

 我が国における二との平和の時代、第一が平安時代桓武天皇の平安遷都(七九四年)から後白河天皇保元の乱(一一五六年)まで、ほぼ三百五十年。第二が江戸時代、家康による開幕(一六〇三年)から明治維新(一八六八年)までほぼ二百五十年。

 平安時代では、神道は崇り現象の発生源であったが、江戸時代になると地域社会を統合する信仰へと発展する。村々の鏡守の森を中心とするカミ信仰である。それはむろん地域の共同体レベルにとどまるものではなかった。

 皇室における伊勢信仰、徳川将軍家における日光東照宮の場合をみればわかるだろう。皇室や将軍家も、庶民の場合と同じように氏神や祖先の祀りに精力を費やしたのであるというのが山折哲雄氏の平和の時代を作り上げていた精神的な基盤であるとしている。

 二つの平和の時代は、源平の合戦から江戸開城いたるほぼ450年の戦乱の時代があった。国家と宗教の近郊が二つの時代の平和を、社会秩序を保つことができたのである。神仏共存のシステムが均衡を保ったのである。

 タテの階層化がつらぬかれていたが、しかし氏神や祖先神への信仰によって心の安定を得ようとした点では、どの階層も共通していた。階層による信仰の分化という現象は、それほど進行してはいない。それが全体としての社会秩序の形成に役立っていた。明治近代国家が一刀両断のごとく神仏分離をしたことが均衡を破壊した山折哲雄は指摘するのである。[11]

 この山折哲雄氏の二つの平和時代は、相対的にとらえるべきであり、この二つの平和の時代に争いがまったくなかったことではない。竹内誠氏は江戸時代の百姓一揆について次のように指摘している。

 「江戸時代においても幕藩領主と農民との矛盾の百姓一揆、町人を中心とする都市騒擾、村役人と一般の農民抗争の村方騒動というように全国各地に起きている。1653年の佐倉藩の圧政を幕府に訴えた佐倉惣五郎の事件などは歌舞伎にでてくるほど有名である。

 1590年から1867年まで百姓一揆は3211件、都市騒擾488件、村方騒動3189件があった。領主の支配強化に対して、農民が絶え間ない抵抗をおこなっているのである。1769年には一揆がおきたら、近くの藩が出兵して鎮圧することを幕府は政策をとる。

 そして、鎮圧のために鉄砲の使用を公然と許可するようになる。個別領主ではなく、連合して一揆鎮圧体制を整備していく。寛成年間(1789~1801)以後、大規模な一揆は減少していった。しかし、農民闘争が沈静化したことを意味せず、全国各地で村方騒動とよばれる村役人の不正追及や村政の民主化の日常闘争が大きなうねりになっていくのである」。[12]

 山折哲雄氏の精神的な統合による社会的な秩序のシステムばかりではなく、この二つの時期は、日本の独自の精神文化やものづくりが発展した時期でもあることを見逃してはならない。

 この時代は、 ひらがな・カタカナが生まれ、源氏物語、枕草紙、つれつれ草、今昔物語、万葉集などの文学。日本女性の感性が発達した時期でもある。

 江戸時代も井原西鶴近松松門左衛門の文学、松尾芭蕉俳諧中江藤樹貝原益軒石田梅岩荻生徂徠本居宣長、平賀源内、細井平洲、安藤昌益、三浦梅園、横井小楠など多くの思想家が生まれた。歌舞伎、浮世絵、人形浄瑠璃、茶道の流行による陶磁器の活況、建築物織物業や工芸品等各地の地場産業の隆盛、宮大工、鋳物師、鍛冶屋などの芸術文化の物づくりが発展した。

 さらに、商業活動の発展、参勤交代、伊勢参り等の旅による交通網が整備されていった。これらは、日本的な精神と経済的な基盤を後世の近代に伝えられる精神や社会経済の日本的な型の基盤がつくられたのである。

 中世時代の僧兵は、寺社勢力が領地をもち、大きな社会的な基盤をもっていたことから、社会的騒乱や盗賊などから防衛的な側面を強くもっていたのである。僧兵を武装解除することは、大きな社会的改革であった。また、武士という社会的階層を農業から分離して、官吏階級として統治の学問と道徳を身につけさせ、社会秩序を打ち立てることも大きな社会改革であった。

 戦国大名が最も恐れたのも仏教を信ずる農民達の力であった。織田信長石山本願寺比叡山の僧兵達に対して、徹底して戦いを挑み、制圧していくのであった。

 江戸時代は、檀家制度によって、信仰を藩主が管理するようになったのである。しかし、薩摩藩隠れ念仏のように藩から自立して農民や下級武士、商人たちが信仰を続けた例などもある。これは、隠れキリシタンも同じである。

 

 (3)仏教における「殺すなかれ」という平和の戒律

 

自然を大切にする文化と仏教の平和主義

  梅原猛稲盛和夫の「人類を救う哲学」のなかで、梅原猛は、仏教の戒律のなかでの「殺すなかれ」を仏教の平和主義にとって大切な思想であり、これは自然を守る思想にも繋がると問題提起している。

 「核戦争の危機がこれだけ叫ばれる時代においては、仏教の殺すなかれこそ、人類の道徳にすべきです。これは動物を含みますから、自然を守れともなり、環境保全にもたいへんよいと思います」。[13]

 梅原猛氏は、人類は業、つまり、欲望によって滅ぶということで、欲望の奴隷にならないことが人類救済にとって大切なことであり、天台仏教、真言密教での神仏習合修験道は、山が聖なる場所で草木国土悉皆成仏という思想をもっていたものが、明治になって神仏習合が排除され、欲望を増進するばかりの受験勉強を奨励するようになったとしている。

「仏教は初期の段階から人類は業によって滅びると説いています。業というのは人間の欲望に支配されていることです。欲望を抑制し、欲望から自由になることが仏教の悟りです。この思想には人間が釈迦の当時よりももっと欲望の奴隷となっている。・・・・日本では神様は山にいます。

 そして、そこには死者の国でもある。だから最澄の天台仏教にせよ、空海真言密教にせよ本拠地をみな山に築きました。天台仏教の本山の比叡山は、いまでも誰も入ったことのないような森林がある鬱蒼とした山です。真言密教の本山の高野山も、たいへんな天然林がります。そいいう森林深き山を本拠地にしたのです。

 そこは、神様の住む土地でもありますから、必然的に神道と融合せざるをえません。そんな神仏習合が行われ、そこから生まれたのが修験道です。明治初期の神仏分離廃仏毀釈で仏教は捨てられましたが、このとき仏教以上に捨てられたのが修験道です。つまり、神仏習合の宗教が捨てられ、山が聖なる場所でなくなったのです。 

 ここにたいへんな大きな問題があります」「人間の利益を追求し、欲望を増進するばかりの教育が行われるようになった。欲望を抑えよと教えることはあっても、それはより大きな欲望を満たすためとなる。怠けたい心を抑え、厳しい受験勉強に耐える。そうして見事合格すれば、いい職業に恵まれるというわけです。これだといい職業には恵まれても、道徳はまったく身につきません。その結果、いい職業に恵まれた人たちが、とんでもない罪悪を犯す。その一方、落ちこぼれた人たちは、裸の欲望によって、めちゃくちゃなことをしでかす」。[14]

 ところで、霧島山麓には、六所権現として人間の欲望のために正しく物事がみられないために、山にこもって六根清浄する修行が行われた。つれつれ草の69段に性空聖人のことが書かれている。声を出して法華教を読み続けることによって六根清浄にかなうる人になったとしている。

 性空は、幼稚の時より、生き物を殺さず、人々と交わらなかったとされていた。10歳の時に師に就いて、法華経8巻を読んだ。27歳の時に元服して、後年母にしたがって日向国に赴き、36歳にして遂に出家した。殺生をひどく嫌った性空聖人は、霧島の山で若いときに修行して名僧になったといわれる。

 霧島の山は古代から平和のシンボルとしての存在価値があった。霧島の山には平和を求めた庶民の心が体現されていたのである。その典型が日本の説話の源流になった高僧の性空聖人が悟りをひらいた山でもあったのである。法華経を霧島の山に立て籠もって書写をして、修行を重ねたのである。

 性空聖人は、平安中期の天台密教の高僧であった。(910年から1007年、今昔物語や徒然草にもよく登場してくる高僧)。一本の針をもって生まれ、幼い頃から生き物を殺さず、静かな所で暮らす。けがれのない、目、耳、鼻、舌、身、意の六根清浄の境地になった高僧である。極楽浄土の山として、霧島は古代から信仰されてきた。

 

戦後仏教者の平和運動の思想

  戦後宗教者平和運動の出発として、全日本宗教者介護の森下 徹は、新憲法と宗教者の関わりを次のように書いている。

 「日本宗教連盟とは、大日本戦時宗教報国会が1945年9月、日本宗教会に改組し、翌年に日本宗教連盟と改称した組織で、神・仏・基各宗教団体の連合体であった。

 日本宗教連盟は、1946年12月13日の理事会において、同連盟ならびに神道教派連合会・仏教連合会・日本キリスト教連合会神社本庁・宗教文化協会との共催で、全日本宗教平和会議を開催することを決定した。この全日本宗教者平和会議は、新憲法施行にあわせて開催されたものである。 

 戦争責任の告白・懺悔が、ようやく近年になって行われ始めたことからもわかるように、敗戦時に自らの戦争責任を問い、なぜ戦争に協力したのか、なぜ天皇制や国家に迎合してしまったのか、その原因を教団のあり方や教学の内容にまで踏み込んで反省した宗教教団はほとんどなかったといえよう。

 たとえば、浄土真宗の真諦=仏への帰依と俗諦=天皇、国家への帰依とを「両立」させ、事実上俗諦に帰依、妥協する道を教義として説いた「真俗二諦論」に代表されるような、信仰(仏・神の論理)を世俗(国家の論理)に従属させる二元論的な考え、もしくは信仰の世界に逃げ込んで世俗から超越しようとする姿勢に対する反省が求められていた。

 しかし、信仰の立場と天皇制、国家との関係をどのように考えるか、また、信仰による「心の平和」と戦争や平和を巡る現実の課題とをどのように関係づけるのか。真摯な内省と自己改革は不十分なままであった。戦争の福音を唱え、宗教報国に邁進していた宗教界は、その看板を「平和」「民主主義」に付け替え、平和国家を道義面から下支えする役割を果たそうとしたのである」。[15]

 日本仏教者の平和声明は、1951年に出されている。この平和声明は、朝鮮戦争の勃発で再び、世界大戦危機での平和への強い祈りからである。日本国憲法の平和主義と、仏教の本来の自由、平和、慈愛の精神を堅固に守っていこうとする意志が次のように指摘している。

「日本仏教者の平和声明(1951年2月20日)。私たち仏教者は新憲法の発布によって信教の自由を保証されたのである。そして、仏教本来の自由、平和、平等、慈悲の精神に基づいて、日本の再建と世界恒久平和の樹立とを固く誓った。

 ところが、終戦後わずか五年にして平和への期待は裏切られ、国際政局は米ソ二大国を中心に他の東西両国を交えて対立を激化させ、とくに朝鮮戦争からアジアの一角では世界戦争への危機を招くに至っておる。

 また、わが国内のありさまも、保守と急進の両陣営に分かれ、世界の危機につながっているように思われる。まして、次にくる戦争の様相は原子力戦であり、これこそ世界の終末を意味することになるであろう。

 私たち仏教者は今こそこの危機を打開するために仏陀の示された慈悲の精神とその人間生活の信条である戒律の真意を世界の人々に示さなければならない。その戒律のうち、「不殺生」とはどんな生物の命をも奪ってはならぬという戒めで、戦争、暴力を否定するものである。

 また、「不愉盗」は資源の独占と権力による占取を禁じ、貧富の偏在を許さないことを意味し、「不妄語」は各国の不和を助長するデマ宣伝によって他を陥れることの否定である。ここに私たちは仏弟子としての重い使命を自覚し、第三次世界戦争の前夜に立ち、その危機を防ぎ、世界の平和を護ろうとするものである。

 仏教者平和懇談会 戦後宗教者平和運動の出発 綱 領

一.われらは仏教の大慈悲精神による世界恒久平和の実現を期す。

二.われらは不殺生の生活信条にもとづき戦争と暴力の絶滅を期す。

  森下 徹(全日本宗教平和会議)「戦後宗教者平和運動の出発」、立命館大学人文科学研究所紀要(82号)」145頁~146頁より

 この仏教者の声明の精神は、戦後宗教者の平和運動の支えになってきたものである。とくに、現代の戦争は、核兵器の恐ろしさがあり、世界を終末に陥れる可能性をもっているのである。

 仏教の不殺生の戒律は、戦争、暴力を否定するものである。仏教の不愉盗という意味は、戦争や暴力の原因になっていく貧富の偏在を許ことである。現代のグルーバル化は、弱肉強食の市場経済である。そこでは、先進国の多国籍企業が勝ち組になり、資源を独占していく構造になっていく。

 また、情報化が著しく進む現代社会は、マスコミの役割が極めて大きな影響をもっていく。現代社会は、マスコミが国をかえていく力をもっている。まさに、マスコミは、大きな社会的な力になっている。マスコミの情報を発信していくモラルは大きくとわれる時代である。

 仏教でいう不妄語は、真実を伝えていくうえで大きな妨げになっている。平和という理念を大切にしたマスコミの良心が求められているのである。国家の不和、民族の不和、宗教的な違いによる不和を煽り、民族排外主義的に敵対勢力を作り上げて、憎悪を煽ることは、許すことができないことである。マスコミを握るものたちの平和主義のあり方は大きく問われるのである。

 日本国憲法9条の平和主義は、世界紛争のなかでどのように考えたらよいのか。日本国の平和憲法は、理想主義のみで、現実に機能しないものか。

 憲法9条や前文の精神を考えていくうえで、日本の伝統的な平和思想を直視しなければならない。日本は、伝統的に平和を尊ぶ民族であったのである。神仏混合思想にみられるように、多様性の文化をもちながら、海外の文化を上手にとりいれてきた民族性をもっていた。

 これは、海洋文化と同時に、森林と結合した稲作農耕文化をもって豊かな文化を築きあげてきたのである。多様性を認めてきた文化が異なる価値観を認め合い、信仰的に土着文化と結びついて、宗教的な寛容性をもってきたのである。いわゆる民族間での宗教戦争ということはなかったのである。

 

仏教の在家信者に対する戒律と平和主義

  仏教では在家信者に五つの戒律を出している。これは、六波羅蜜持戒の内容である。五戒とは、1,生き物を殺してはならない。不殺生戒(ふせっしょうかい)-2,他人のものを盗んでいけない。不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。3,強姦不倫をしてはならない。不邪婬戒(ふじゃいんかい) 4,嘘をつかない。偽りを容認してはならない。不妄語戒(ふもうごかい)5,酒を飲まない。不飲酒戒(ふおんじゅかい)。 その最初の第一の戒律が「不殺生戒」の「いかなる生き物も、故意に殺傷しない。他人が殺害されるのを容認してはならない」ということである。

 ブッダの真理では、暴力の項目で殺すことに強く戒めている。「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。すべての(生きもの)にとって命は愛しい。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしてはならぬ」「生きとし生ける者は幸せを求めている。もう暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない」「16]

 「生きものを(みずから)殺してはならむ。また(他人をして)殺さしてはならぬ。また他人を殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者でもでも、また怯えている者でもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて」。[17]

 現代に呼びかける智恵として、ブッダの仏典のことばから仏教学者の中村元氏は、戦争と平和のことで明確に述べている。「自分よりもさらに愛しいものを見出しえなかった。同様に、他の人びとにもそれぞれ自分は愛しい。それゆえに、自己を愛するものは他人を傷つけてはならぬ」というブッダのことばから、物理的生理的な意味で、あるいは社会的な意味で、他人を害すうことは最大の罪悪としている。国王に対して原始仏教は、戦争放棄をすすめている。戦争手段に訴えて領土を拡張しようとする欲望を棄てなければならぬ。また、王族は権勢欲を棄てなければならぬとしている。原始仏教は、世俗的な国家権力に向かって戦争をとどめるように働きかけと中村元氏は指摘している。[18]

 法然親鸞等の日本の仏教に大きな影響を与えた浄土三部教・無量寿教では五つの悪、五つの現世の悪報をあげ、その悪をなくすために五つの善を保持し、福徳の重要性を述べている。その悪の第一として、征服、紛争、殺し合いの暴力の罪を次のようにあげている。

 「強いものは弱い弱いものを征服し、互いに争い、傷つけ、殺し合い、相手を呑みこもうとする。善をなすことを知らず、悪逆無道であり、犯した後にわざわいや罪を受け、罪に随って自然に果報に導かれる」「世の中には恒久的なきまりとして、王の法律による牢獄もあるけでも(悪人たちはこれを)恐れず、慎ます、悪をなし、罪に陥って罰を受けるのだ」。

 この世では、強いものの侵略、殺し合いの悪逆無道がある。この罪によって、王の裁きによって牢獄に入れられつこともあるが、命を終わった後の世界が言いようもない苦しみを受けることを次のように強調している。

 「目の前の世間においてさえ、このような有様を見るのであるから、命を終わって後に行く世界においては、さらに深く、さらに烈しいのだ。かれらは暗黒の仲に陥り、転々として生を受け、肉身を受ける。その苦しみは、譬えて言えば王の法律によって極刑に処せられる苦痛のようである。

 かくしてかれらは、地獄界の火に焼かれる火の途、畜生界の相食む血の途、餓鬼界の刀に斬られる刀の途という三つの途において無量の苦しみを経験する。体も形も途も次々に変わり、あるときは長い命を受け、あるときは短い命を受ける。精神や感情や識別力も自然にそれに応じて移って行く。

 一人が生ずると、すぐに他の者がこれに伴って生じ、互いに報復し合って、止むことがない。わざわいがなくなるとということがないから離れることができず、その仲を転々として、そこから逃れる出る時がなく、解脱を得がたい。その苦しみは言いようがない」。[19]

 以上のように「無量寿教」では、いようのな苦しみのすさましい様子をえがいている。まさに、三つの途において暗黒の地獄世界において、耐えがたい無量の苦しみに呑みこまれていくことを述べている。殺し合いの暴力に対する厳しい戒めを仏教では在家に求めているのである。ここに原始仏教から大乗仏教と殺し合いをはじめ暴力を戒め、平和に対する姿勢が明確に示されているのである。

 

[1]稲盛和夫「君の思いは必ず実現する」財界研究所。221頁

[2] 梅原猛稲盛和夫「人類を救う哲学」PHP、101頁、

 

[3] 前掲書、088頁

[4] 前掲書、084頁

[5] 義江彰夫神仏習合岩波新書、26頁~27頁

[6] 前掲書、37頁~39頁参照

[7] 前掲書、208頁~213頁参照

[8] 衣川仁「僧兵=祈りと暴力の力」、講談社選書、146頁~148頁参照

[9] 前掲書、174頁

[10] 山折哲雄「日本文明とはなにか」角川文庫、65頁~66頁参照、150頁~152頁参照

[11]前掲書、146頁~154頁参照

[12] 竹内誠「江戸と大坂ー体系日本の歴史10」小学館、188頁~218頁参照

[13] 梅原猛稲盛和夫「人類を救う哲学」PHP、122頁

[14] 前掲書、124頁~126頁

 

[15] 森下 徹(全日本宗教平和会議)「戦後宗教者平和運動の出発」、立命館大学人文科学研究所紀要(82号)」、136~137頁

[16]中村元訳「ブッタの真理のことば・感興のことば」岩波書店、28頁

[17] 中村元「ブッタのことば・スッタニパーク」81頁、岩波書店

[18] 中村元「仏典のことばー現代によびかける智恵」、岩波書店ら117頁~121頁

[19] 中村元他訳注「浄土三部教上」、岩波文庫107頁~108頁