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憲法九条を提案した幣原喜十郎戦後初代首相

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憲法九条を提案した幣原喜十郎戦後初代首相

 

 (1)戦前と戦後の平和外交継承としての幣原喜重郎

 

 第二次世界大戦の敗戦により、戦後の初代の総理大臣に1945年10月に就任したのが、幣原喜重郎であった。当時、貴族院議員で、昭和6年外務大臣辞任から政界の第一線から身を引いていたが、昭和天皇の説得により首相を引き受けるのであった。

 幣原は、若いときから外交官として活躍し、外務大臣をたびたび引き受け、国際協調外交をしてきた人物である。対外強行圧力路線や拡張主義外交と対抗し、中国への内政不干渉および正当なる中国権益の擁護を重ねて表明してきた外務大臣であった。

 このために、軍部や対外邦人権益者との軋轢が強くあった。たびたび大臣を辞任させられるのである。日本の近代において、軍閥に抵抗し、国際的視野をもって自由主義を大切に国際協調路線をとった西園寺公望等の流れにそった人物ともいえるのである。西園寺は、広く知識を世界に求める国際主義、女子教育の振興などのリベラルな第二次教育勅語案を明治27年の文部大臣就任のときに尽力したたが、実際は埋もれてしまったのである。

 

戦前の軍部との対立のなかでの平和外交

 

 日露戦争後は、軍部の政治的台頭が大きくなっていく。小村寿太郎全権大使によるポーツマスの日露講和条約の調印に領土拡張主義影響による国民の不満が日比谷焼打ち事件として爆発したのである。西園寺は領土拡張の動向に便乗することなく、列強の利権獲得の衝突から不測になる可能性を懸念して、外交による努力による紛争の阻止という信念を貫くのである。しかし、天皇統帥権を利用して、軍部は外交や国際情勢の判断に政府と協議することなく、天皇に上奏し、軍令による内閣の知らぬままに軍事行動をしていく。日露戦争後の1907年7月に軍令第一号が施行される。軍令によって陸海軍は内閣から自由に軍事勅令を制定することになったのである。

 そして、国内では、呉海軍工廠ストライキや足尾鉱山事件に軍隊が出動する不幸な事件が起きた。軍部の巨頭といわれた山県有朋は、現内閣の社会党取り締まりの不完全を天皇に上奏したのである。山県によって、軍部の国家機構での比重が増して、国防方針の策定がされていくことを見落としてならない。

 1919年1月に西園寺は、70才で病弱であったが、第一次世界大戦後の世界平和秩序を確立するためのパリ講和に日本の全権大使として出席した。列強の代表者として見劣りしない人物という元老山県、原首相、内田外相など政府の思惑からであった。西園寺は、フランス留学をとおしての封建主義に反対する自由主義思想を身につけて、国際主義の考えをもっていたが、皇室史上主義を強くもち、民衆の感情的運動を抑えてきた。

 パリ講和会議は、日本として交渉しなければならない重要な課題があった。アメリカのウィルソン大統領は1919年1月に世界平和のための国際連盟の構想を発表していた。日本が占領した青島などの山東省や南洋諸島のドイツがもっていた権利と財産問題をどうするのか。アメリカでの日本人移民に対する差別問題などがあった。

 西園寺は国際連盟の問題をとくに重視し、講和会議から日本が離脱しないように日本の代表団の役割を大きく果たしたのである。1919年6月にヴェルサイユ宮殿で中国を除く、日本、ドイツ、アメリカ、フランス、イタリアと共に主たる同盟連合国となり、1920年に発足した国際連盟結成では、常任理事国になるのである。人種差別の撤廃の問題は実現しなかった。中国は山東省問題でも日本の要求を拒否した。アメリカは、自ら提唱した国際連盟に参加することをしなかった。世界の紛争に巻き込まれる危険がある国際連盟に参加するのはアメリカ第1主義をとる共和党であった。

 上院の議会では、前回の選挙で多数を占めるように、1920年の議会で否決された。そして、大統領選挙でもウィルソンは敗北したのである。そして、極東を重視してのアメリカ海軍の増強が行われていく。日英同盟アメリカとの関係で解消していくのである。山東省の問題は、1922年のワシントン条約で日本の権益の放棄されることになるのである。9

 幣原喜重郎は、パリ講和会議ヴェルサイユ条約締結の年、1919年9月に駐米特命全権大使に任命されている。それ以前の職責は、1915年10月に外務次官に任命され外務省の事務方の責任者になっている。

 

 駐米大使であった幣原喜十郎は、1922年のワシントン会議の全権大使として任命されて、交渉にあたるのである。他に全権大使は、海軍大臣加藤友三郎貴族院議長徳川家達であった。ワシントン会議は、国際連盟加盟の反対で当選したアメリカ大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議であった。国際連盟との関係とは別に実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加した。アメリカが主催した初の国際会議であった。

 米・英・仏・日による、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約を締結し、それに伴う日英同盟の破棄がされる。米・英・仏・日にイタリアを加えた、主力艦の保有量の制限を定めた海軍軍縮条約でああた。日本は対米英6割であった。そして、全参加国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める九カ国条約を締結されたのである。 

 中国の主権尊重・領土保全の原則を各国が承認したのである。日本が1915年の二十一カ条の要求の山東半島権益を放棄した。日本はワシントン会議を転機として国際協調外交に順応していくのであった。膨張政策を採り続けた元老山県有朋ワシントン会議閉会の直前に85才で死去する。

 中国は1911年に辛亥革命が起こり、1912年にアジアで最初の共和制国家の中華民国が発足した。日本は共和制の中国政府に1915年1月に21ケ条の主権侵害、属国化する帝国主義的要求をしたのである。その要求は、五項目21条からなる。中国政府は憤激し、交渉にはならなかった。中国各地に日本品の排斥運動や日本商店が襲撃され、政府には要求を拒否の請願が殺到したのである。

 

日本の中国への帝国主義的侵略施策と大正デモクラシー

 

 日本政府が中国政府に要求した21ヶ条の要求は、日本の帝国主義的な施策が露骨に出されたものであり、強大化する軍部の力を背景にしたものである。この21ヶ条の要求は、日本の非常に恥ずべき帝国主義的侵略と中国の主権国家確立のわが仇敵の関係史になったのである。日本人の多くは、大国主義的意識に助長され、21ヶ条の不当な帝国主義的な要求について非難する世論がなかった。民本主義として大正デモクラシーで大きな影響を与えた吉野作造も主権を侵害した側面はあるが、帝国の立場からは最小限度の要求であり、西洋諸国との関係からみればすこぶる好適の時期を選んだものである。日本の生存のために必要欠くべからざるおのであるという立場であった。自国の生存のために他国の主権をふみじってもかまわないという領土拡張主義を善であり、正義という国家エゴイズムをもっているのである。9

 国家エゴイズムと膨張主義が日本をおおっているなかで、例外的に中国への21ヶ条要求に反対し、青島、旅順の領土侵略を排し、一日も早く中国に還した方が我らの利益は増進するという見方があったのである。9

 吉野作造民本主義論は、言論の自由、選挙権の拡張、政党内閣制の大正デモクラシーをリードした。山県有朋などの元老や軍人や官僚で固めた専制政府批判に有効性を発揮した。1918年9月に陸軍、海軍、外相を除く原敬立憲政友会が率いる内閣が成立したのである。

 ここに日本の憲政史上はじめての政党内閣の成立と言われるのである。1921年11月に右翼の青年に殺害されるのである。原内閣の時代に国際連盟が樹立して、日本は主要な役割を果たし、常任理事国になる。教育改革でも熱心にとりくみ大学令をだすなどして国立の帝国大学以外の私立大学を認めたのである。

 さらに、交通機関の整備、産業の奨励を実施した、しかし、国防の充実など軍部の要求も積極的に取り入れ、歳出の49%まで軍事費になった。民衆の普通選挙要求の高まりで、衆議院議員有権者を倍増させ、政友会と憲政会の二大保守政党のなかで、選挙を有利にするため党利党略的財政誘導を行った。この結果、国家財政の赤字は増大し、汚職事件など金権的な政治の腐敗を招いた。

 

 原内閣の成立の2ヶ月前に富山からはじまった米騒動が全国的に展開するのであった。米商人が買占めと投機に走って米価が高騰し、民衆の生活に大きな打撃を与えたのである。米騒動は、2ヶ月間にわたって、全国で主婦を中心として自然発生的に資産家や米屋に押しかけた。七〇万人の民衆が参加したと警察当局の数字になっているが、実際は最多くの民衆が参加したとみられる。

 騒動の鎮圧には軍隊が出動しなければならなかった。軍人と官僚で固めた寺内内閣の総辞職によって原内閣が誕生したのである。米騒動は、民衆運動が一斉に起こっていくきっかけとなった。友愛会は、全国的な労働者のナショナルセンターに成長して1919年に大日本労働総同盟友愛会に名称を変えて労働時間の8時間制、労働組合の自由、普通選挙制の実施などの労働者の要求をかかげた。

 また、学生団体でつくる新人会は、1919年に2月に憲法発布三〇周年を記念して2千名の学生が集まり、普通選挙実施を要求する請願を行ったのである。1920年に日本最初のメーデー友愛会などの主催で、東京上野公園にて一万人の参加で行われたのである。1922年に部落解放運動のための水平社が全国各地から3千名の参加のもと、人権宣言によって結成されるのである。日本農民組合は1922年に創立大会を開くのである。創立は253名であったが、3年後は五万人の組合に成長していくのである。

 1924年6月に幣原喜重郎は、外務大臣に任命されるのである。外交官試験に合格した外交官としての最初の外務大臣であった。幣原の信念である国際協調主義の外交が展開されていく。幣原は、国際連盟ワシントン会議の結果による国際協調主義を積極的に展開した。中国への内政干渉主義を貫いたいくのである。元老西園寺は、幣原外交を積極的に支持した。

 

普通選挙の実施と民衆の運動弾圧の治安維持法

 

 日本は、大正デモクラシーの影響によって、1925年に普通選挙法を公布した。しかし、同時に、国体護持と称して、民衆の運動を弾圧する治安維持法を公布したのである。治安維持法は、国家体制の変革と私有財産制度否認を目的とする結社を組織したり、参加したりすることを取り締まるものであった。当局が判断すれば、本人の意図に関わらず検挙できる「目的遂行罪」で逮捕できるものであった。この法律によっての逮捕者は数十万人、7万人以上が送検され、刑務所や拘置所の獄死者は400人余に上ったとされる。

 1928年の最初の普通選挙では、無産政党に激しい選挙干渉が行われ、治安維持法違反で全国一斉に千数百名の検挙が行われ、拷問を加えて488名を起訴した。いわゆる3.15事件である。さらに、1928年に治安維持法をさらに改悪して、全県に特別高等警察を設置して思想取り締まりの強化をはかったのである。

 日本は、1927年に金融恐慌が発生し、2年後の1929年の世界恐慌が重なり、日本経済は危機的な状況になっていく。幣原外交の国際協調主義は、対中国にたいして軟弱外交として、中国での権益、領土拡張を求める財界や軍部から批判をあび、国民もその声に同調していくのである。

 幣原は、平和外交推進の手段として日本経済の危機を救うために中国市場のための経済外交を重要視した。1925年に中国の関税自主権回復の国際会議が北京で開催された。しかし、列強諸国の対立からうまくいかなかった。日本の軍部による中国への内政干渉を幣原は努力したのであった。幣原外交は、財界などの中国の権益をもつ強行攻策の要求から、また、保守野党の政友会による南京事件による現内閣の一大失態の攻撃によって総辞職に追い込まれていく。

 1929年7月に浜口雄幸首相のもとに外相に幣原喜重郎が返り咲き、荒廃した日中関係をとりもどすために、関税自主権の交渉を行う。1930年1月開始され、3月に仮調印し、5月に正式に調印されるのである。幣原外交に対し、中国での邦人、中国での権益をもっている財界人から不満が高まる。浜口首相1930年11月に狙撃され、幣原は臨時の総理大臣になる。1931年4月に若槻内閣は満蒙は日本の生命線と演説する。同じ年の9月に満州事変が勃発して日中戦争に突入していく。幣原は、外務大臣を退陣するのである。

                                        (2) 戦後に日本国憲法9条の内容を提唱した幣原喜十郎戦後初代首相

 

 マッッカサーに憲法九条の内容を提言する

 

 1964年(昭和39年)2月に平野三郎衆議員は憲法調査会に「幣原先生から聴衆した戦争放棄条項等の生まれた事情について」の報告書を提出している。平野は、1949年2月に衆議院議長に就任しているが、そのときに秘書官を務めている。1949年から5期連続衆議院議員、66年から3期岐阜県知事を歴任している。その報告書の内容は「日本国憲法9条に込められた魂」鉄筆文庫に載せられている。9

 平野は、昭和26年2月下旬に幣原邸で憲法9条のことで幣原自身に聞き取りを行っている。「今までの常識ではこれはおかしなことだ。しかし、原始爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼にに帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」。

 戦後初代の首相になった幣原喜重郎は、広島と長崎の原子爆弾投下の恐ろしい現実をみての非武装論であった。この現実から、憲法9条という非武装論の切実な考えが生まれたのである。

  第二次世界大戦に、人類は核兵器という無残な人びとの地獄をみた。この悲惨な経験の直後での考えで、武器をもたない必要性を幣原喜重郎は認識したのであった。

  幣原喜重郎は、自分の天命として、当時では、狂気の沙汰といわれようとも非武装宣言を決意したのである。原子爆弾という悪魔の武器から、悪魔を武器を投げ捨てるために、神の民族としての日本は、歴史の大道として、世界に非武装宣言をするというのである。

 「恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではないか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕を天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く凶器の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史的使命を日本が果たすのだ。日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。

 神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第9条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依って再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である」。

 幣原喜重郎は、マッカサーに憲法9条を提案するのである。1946年1月24日という歴史的な会談が行われた。

 「僕はマッカサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。・・・昭和21年1月24日である。その日、僕と元帥と二人切りで長い時間話し込んこんだ。すべてはそこで決まった訳だ」。

 幣原喜重郎は、戦前における欧米での独自のパイプを用いて活躍した外交活動の実績が高く評価されて、新しい日本の憲法を築いていくうえで、74才という高齢であったが首相に抜擢されたのである。マッカーサーと会談して憲法九条の提案をするのが幣原喜重郎であったという重要なことを見落としてはならない。

 ところで、日本側の憲法草案をGHQが拒否したのは、国務大臣の松本烝治を長とする憲法問題調査会案である。戦前からの権力構造の継承から考えが保守的な側面が強く、軍国主義体制による日中戦争や太平洋戦争の反省が十分にないままの憲法草案であった。

 

  (3)安倍内閣以前の戦後内閣の憲法9条遵守策と自衛隊

 

必要最小限の個別的自衛権憲法9条

 

  戦後の帝国憲法の改正による新しい日本国憲法衆議院の上程に、吉田首相は、自衛権を否定しないが、自衛権の発動としての戦争も、一切の軍備と交戦権は認めないと次のように答弁しているのである。

 「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしていないが、第9条第2項に おいて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、 又交戦権も放棄したものであります。」(吉田茂首相、衆議院本会議、1946年6月26日)

 「私の言わんと欲した所は、自衛権に依る交戦権の放棄と云うことを強調すると云うよりも、自衛権に依る戦争、叉侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は云った積もりで居ります」。(吉田首相、衆議院特別委員会、昭和21年7月4日)

 憲法を上程したときの衆議院の議論で、吉田首相は、憲法9条の規程は、自衛権発動の戦争であろうとも一切の戦争放棄をしたものであり、軍備と国の交戦権を否定しているものであるとのべたのである。自衛権を否定しないことと、自衛権発動としての戦争、交戦権を否定しているのである。

 

 そして、日本がサンフランシスコ平和条約によって、独立を達成していくが、このときの国会の答弁でも吉田首相は、武力なしの自衛権は存在すると、警察予備隊の創設は、軍隊ではなく、自衛のための交戦権の行使をするための実力組織ではないと次のように強調するのである。

「いやしくも国家である以上、独立を回復し た以上は、自衛権はこれに伴って存するもの。 安全保障なく、自衛権がないかのどとき議論があるが、武力なしといえども自衛権はある。」 (吉田茂首相 1950年1月31日)

「自衛のためといえども軍隊の保持は憲法第9条によって禁止されている」という立場を堅持しつつ、警察予備隊の創設について「治安維持の目的以上のものではない。再軍備の意味は、全然含んでいない。目的は国内治安の維持であり、性格は軍隊ではない。自衛権を放棄するとまで申したことはない。」(吉田茂首相 1950年7月29日)

 1950年6月には、朝鮮戦争が勃発し、日本の隣国での緊張関係が起きるのである。朝鮮戦争の結果、警察予備隊などを経て1954年に自衛隊が設立されることになる。警察行政の一環からはじまっての自衛権の実力組織として出発したのである。

 

 当時の鳩山一郎首相は「自衛のための必要最小限度の武力を行使することは認められている」と発言したのである。自衛隊の実力組織は、「自衛のための必要最小限度を超える実力」ではないので、「自衛隊は軍隊ではない」と解釈されることになったのである。ここで重要なことは、自衛するための必要最小限の実力組織ということで、軍隊ではないことで、憲法9条2項の解釈から直接に必要最小限の実力組織を位置つけていくことではないのである。あくまでも、憲法は、自衛権を否定していないという解釈からの憲法前文の平和的生存権憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政上最大源に尊重することからであった。自衛隊の英訳は、Self‐Defense Forcesである。

 1954年に自衛隊の創立のときに、自衛隊の海外出動を国会決議をしているのである。「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章 と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、 海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する 。(1954年6月2日 参議院本会議)

 1960年の日米安保条約の改定のときに、国民的に大きな反対運動が起きるが、そのときに集団自衛権は、憲法上はできなということを当時の岸首相は次のようにのべている。「実は集団的自衛権という観念につきまして は、学者の間にいろいろと議論がありまして、 広狭の差があると思います。しかし、問題の要点、中心的な問題は、自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵略されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的な問題になると思います。そういうものは、日本国憲法においてそういうことができないことはこれは当然。」(岸信介首相 1960年2月10日)

 

  国連憲章では、集団自衛権は認められているが、日本国憲法では認められないことを次のようにのべる。「日本国が主権国として、独立国として国連憲章51条による個別的ならびに集団的自衛権を持ってはいるが、憲法9条の規定から海外へ出て締約国の領土を守るという集団的自衛権の行使はできない。第5条の場合に、日本の施政下にある領域が武力攻撃を受けるのであるから 日本が個別的自衛権でこれを防衛するに必要な武力行動をするのだということは十分説明できると思う。」(岸信介首相 1960年4月20日)

 日本の防御は、あくまでも個別的自衛権であり、集団的自衛権は含まれないとするのである。

 1972年10月の田中内閣では、憲法前文の平和的生存権憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政上最大源保障ということから、自衛隊の存在が強調されていくのである。田中内閣が国会に提出した内容は、次のようにのべている。

 「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」 ことを確認し、また、第13条において「生 命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とす る」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかで あって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために 必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 

 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法 が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまでも他国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。

 そうだとすれば、わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する 急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得な い。」(政府資料 1972年10月14日)

 さらに、田中内閣では、自衛隊専守防衛の基本的方針として、相手の基地を攻撃するものでなく、他国に侵略的脅威を与える実力組織を持たないことの重要性を次のようにのべている。

 「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行うということでございまして、これはわが国防衛の基本的な方針であり、この考え方を変えるということは全くありません。 なお戦略守勢も、軍事的な用語としては、この専守防衛と同様の意味のものであります。積極的な意味を持つかのように誤解されない。」(1972年10月31日 衆議院本会議 田中角栄首相)「他国に対して侵略的脅威を与えるようなものは保持しない。」 (田中角栄首相1972年11月13日衆議院予算委員会)

 さらに、21世紀に入り、小泉内閣でも集団自衛権について、日本国憲法から認められないことを国会答弁しているのである。衆議院議員土井たか子の質問で、「小泉内閣発足にあたって国政の基本政策」の集団的自衛権に関する答弁書(平成13年5月8日提出)で、小泉内閣での政府答弁は、次のように答えている。

 「政府は、従来から、我が国が国際法集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えてきている。憲法は我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第9条については過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える」。

 

 憲法9条の解釈の変更は慎重にしなければならないという小泉内閣の答弁であった。政府は、日米安全保障体制のもとで、戦後憲法の制定から50年間にわたって、集団的自衛権の行使は憲法上許されないと答弁しているのである。自衛権の行使は、わが国を防衛するための必要最小限の範囲としているのである。

 日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持」「平和のういちに生存する権利」という理念のもとに、専守防衛に徹し、他国に武力による威嚇にならないこと、文民統制を確保と非核三原則の遵守の自衛のための実力組織であるということを小泉内閣までの自民党政府は貫いてきたのである。

 唯一の被爆国である日本は、核兵器の恐ろしさを身にしみている。核兵器の全廃は、戦後の国民的な平和運動の課題として取り組んできたのである。しかし、戦後の歴代の日本政府は、核兵器の脅威ということから、米国の核抑止力に依存してきたのである。国連で核兵器禁止条約の締結が決議されて、その条約締結が国際的な課題になっているが、核抑止論との関係で、日本政府をはじめ、核を保有する国などがこれに背を向けているのである。核兵器のない世界を目指すことは、現代の人類の平和的生存権にとって緊急の課題である。核兵器全廃の課題を放置すれば人類の破滅的な危機に陥る可能性がある。国連は、核兵器の全廃と根絶を目的とした国際条約を提唱したのである。「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」。

 

 自衛隊の機能として、国民の命、自由、幸福を守るための国政上の最大の仕事の一貫としての存在していることがある。大規模・特殊災害等人命又は財産の保護を必要とする任務は、国内のどの地域においても災害救援を実施し得る部隊や専門能力を備えた体制をとることはいうまでもない。この機能は、日本が火山、地震、台風などが常時に襲ってくることであり、自衛隊の大切な任務であるのである。

 憲法9条では、戦力の保持が禁止されている。自衛隊の個々の兵器の保有は、専守防衛という必要最小限の自衛のための実力で、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のために用いられる、攻撃的兵器は認められないものである。攻撃的兵器は、自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されないのである。

 自衛権発動の要件は、憲法第9条の下で認められる自衛権の発動としての武力の行使について、政府は、従来から、1,わが国に対する急迫不正の侵害があること。2,この場合にこれを排除するためにほかの適当な手段がないこと。3,必要最小限度の実力行使にとどまるべきことという三要件に該当する場合に限られるとしている。

 憲法9条は、戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認であり、国際紛争を解決する手段として武力による威嚇、武力行使を放棄するということである。そして、戦力を保持しないということになる。この意味で、自衛隊は、戦力ではない。憲法9条からの自衛隊の存続の解釈からではなく、憲法前文の「平和のうちに生存する権利」、憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政のうえで最大限に尊重する施策としての必要最小限の実力組織の自衛隊なのである。つまり、憲法9条は、自衛権を放棄していないという解釈からの自衛隊憲法上の容認である。

 

現代的な憲法九条を守る課題としての東アジア平和ブロック構想の実現 

 

 東アジア地域で、どのように平和的なブロックをつくることができるのか真剣に考える時期である。自衛隊の役割が集団的自衛権の容認と近隣諸国の脅威論から兵器装備が拡大するなかで、憲法9条の改正の問題も大きな政治的な焦点になっている。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにと世界に誓った日本国憲法の理念の意義を人類史的な側面からあらためて認識することが大切な時代ではないか。

 日本が世界平和にもっとも貢献していくことはなにか。第1次世界大戦を経てのパリ不戦条約、第2次世界戦争後の日本国憲法の世界史な意味を考えてことではないか。

 第2次世界戦争後には、世界の平和のために国連が生まれたのである。その憲章の前文では、二度にわたる言語に絶する戦争の惨害から人類をすくために、次のように国際的な平和の構築を求めたのである。

 「われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」。

 正義と条約その他の国際法から義務と尊重という国際的平和秩序を国連は求めたのである。国際法の義務と尊重や平和構築のための条約などの役割が強調されているのである。ここでは、紛争解決のために国際司法裁判所の役割があるのである。

 

 互いに平和的に生活するためには、武力を原則的に用いないこと、寛容の実行、世界の人々がすべてに経済的及び社会的発達を促進するために、努力を結集することを次のようにのべるのである。

「並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」。

 国連憲章前文の精神を含めて、平和の問題を深めていくことが必要である。世界平和のために名誉ある国際的地位と日本人としての誇りをもてることはなにかということで、憲法9条や憲法の前文を見ていくことが重要ではないか。

 

9 岩井忠熊著「西園寺公望岩波新書伊藤之雄著「元老西園寺公望」文芸新書参照

江口圭一「二つの大戦ー体系日本の歴史14巻」小学館、40頁~41頁

9 前掲書、45頁

9鉄筆編「日本国憲法9条に込められた魂」鉄筆文庫、125頁~185頁