社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

霧島における明治8年民主憲法の草案

 霧島における明治8年民主憲法の草案
 鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

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はじめに.

 霧島山麓は、古来から六所権現として、殺生を嫌って、修行したといわれる性空上人の僧など、極楽浄土の地であった。まさに、平和を祈る山であった。ここには、神仏混合、隠れ念仏の洞窟が多数あり、多様な複合的文化をもっていた安楽の地であった。そして、多様な価値を融合しての和の精神が色濃く山に映えるのであった。

 わき出る温泉の地であったので、霧島の山々に、西郷がよく湯治に来ていた。また、明治の学制がひかれるまえに、学問所が独自に各大字ごとにつくられていたとこも注目するところでもある。 

 竹下彌平の名前でだされた憲法草案は、彼が投稿したとき、霧島居住者であった。この憲法草案は、明治8年3月1日付けの朝野新聞に発表された。執筆は、明治8年2月1日となっている。竹下彌平は、鹿児島県襲山郷在中とある。この郷の現在市町村は、霧島市であり、霧島山麓の旧霧島町から日当山温泉地域をさしている。
 戦後の民主憲法を様々な地域での自由民権運動憲法草案から見つめていくことは、現代においても重要なことである。それは、挫折したが、日本における近代化過程の自主自立精神にもとづく民主主義形成の伝統であるからである。
 明治初期に民主憲法の骨格が鹿児島でもつくられていたのである。その理念は明治維新の五個条の御誓文の拡充と自由の真理という精神、立憲主義による国会中心主義である。

 そして、行政官、武官、司法官も左右両院の特権は侵すことができないとしている。さらに、行政の最高責任を担う太政大臣、左右両大臣と予算は国会の権限と明記する。国権の最高機関としての国会の役割、三権の分立と国会の政治における役割、政治の軍部からの自立を明らかにしている。明治8年の時期に画期的な民主主義の原理になる国会重視の立憲主義と自由の理念を打ち出している。

 武官はあらゆる国会の有する特権をおかすことができないとしている。このことは、政治における平和の問題を考えていくことで大切なことである。
 なぜ、霧島での在住の竹下弥平(偽名と思われる)がこのような憲法明治8年3月1日の朝野新聞に書いたのか。当時の政治情勢と鹿児島での地域の士族民権の動きも含めて検討する課題が重要である。

 

 

1. 明治8年鹿児島での民主憲法素案の歴史的意義

 竹下彌平憲法草案は、国民のための民主憲法を歴史的に考えていくうえで、重要な資料である。かれの憲法草案の理念的特徴は、国会の早期創設によって憲法を制定して、立憲主義のもとに、為政者を豹変させないという趣旨であった。国会は、国の重要な行政的責任者の太政大臣、左右大臣を選び、国の歳入歳出を定める特権を有するという提言である。
 
 左右両院の特権は、いかなる行政官、司法官、武官といえども犯すことができないとして、国会の権限は、立国の本旨から最重要であるとする。明治維新の5箇条の御誓文は、広く会議を起こして万機公論に決すという理念であったことから、その理念を早急に拡充して国会を開設すべきという。まさに、立憲主義と、国権の最高機関という国会の役割の主張がみられるのである。

 竹下彌平の憲法草案で注目されることは、天皇の位置である。天皇は、左右両院の開閉の特権をもつとしているが、国を統治する権限としての国会の役割を特別に重視していることである。また、両院に武官や司法官がなれないようにしていることも重要である。
 明治10年代に自由民権運動との関連でつくられた植木枝盛や五日市の私偽憲法案は、国民の基本的権利を尊重するが、天皇の統治のもとに国会を位置づけていたことと明らかに異なる。
 しかし、竹下彌平も天皇については、国民の象徴の権威性を次のように大切にしている。「恭しく聞く、我が帝国専世、聖哲ナル天皇之敕ニ曰、天、君主ヲ設クルハ国民ノ為ニスルノミ、君ノ為ニ人民ヲ置クニ非ズト」と。ここには、古事記にみられる仁徳天皇等の君主に対する尊敬と「嚶鳴館遺草」等の経世済民による愛民思想が見られる。竹下彌平の考える日本の伝統的な為政者は、国民のためにするのみで、君のために人民を置くものではないということが基本である。

 そして、中国の先哲として、「天下ハ天下ノ天下ニシテ、一人ノ天下ニ非ズト」としている。これは、中国の伝統的な兵法書六韜の考えである。さらに、フランス革命などによって形成された欧米の人権思想の大切さを次のように指摘する。「我国ヲ愛スベシ、吾人、自由ノ理ハ我国ヨリモ愛スベシ」(パトリア、カーラ、カーリヲル、リベルタス」(ラテン語)。つまり、祖国も大切であるが、さらに重要なものは自由であるとしている。人類の普遍的な人間尊厳の統治の論理探求の姿がみられる。


 自由の理は、「英雄起ルニ非ルヨリハ、宿習ヲ勇截浄濯選シテ真理ヲ実行ニ著見スルヲ得ンヤト」と過去の世の習わしをいさぎよく断ち切り洗い清めて、真理を明らかにすることを強調している。以上のように、明治8年に、自由の理による国民のための立憲主義の理念がすでに提起されていたことは特記すべきである。
 自由の理、国民のための憲法制定の運動は、明治8年6月の言論の自由を奪う新聞条例、西南戦争、明治14年政変、福島・秩父などの自由民権の激化事件などによって、日本の政治勢力から消えていったのである。
 しかし、自由民権運動に参加していった多くの日本の国民のなかに、その精神は、明治維新の五個条の御聖誓の拡大として残っていった。

 明治23年の国会開設の第1回衆議院議員は、かつて自由民権を訴えていた人々とつながりのある民党系が過半数以上を占めるが、国会は、国権の最高権限ではない。このことから、国政の絶対的権限をもっている専制政府のもとに、弾圧と懐柔が民党系にされていく。結果的に、かつての自由民権運動の思想は、政治舞台では骨抜きにされていったのである。


 自由民権運動は、安政条約による日本の植民地化に対する危機感からであった。その危機意識から国民国家の形成というナショナリズムの問題も内包していった。

 それが、後に慈愛的国際主義、民族平等と共存共栄の意識になっていくか、民族排外主義による帝国主義になっていくかの問題を含んでいた。それは、その後の日本の歴史の事実が教えている。

 竹下彌平の憲法草案は、日本近代における天皇主権の立憲主義憲法の骨格がつくられていく過程の政治情勢からみなければならない。現実の明治憲法は、竹下彌平の憲法草案の自由の理と国民のための立憲主義とは全く異なるものになった。
 明治8年2月は愛国社が結成され、全国的に国会開設の声が高まったときである。また、明治8年1月の大坂会議で、自由民権への融和懐柔が行われた。下野していた板垣退助木戸孝允井上馨大久保利通伊藤博文との政治的合意がされた。愛国社の総裁の板垣退助が多くの愛国社のメンバーから批判されるなかで、参議に復帰していく時期である。
 すでに、木戸孝允は、井上周蔵に依頼して、ドイツ・プロシア憲法をモデルに絶対主義的な憲法草案(大日本政規)を明治6年につくっている。大坂会議の合意によって、板垣退助木戸孝允の参議復帰が行われ、明治8年4月14日に立憲政体の詔書がでる。

 この詔書は、漸次立憲政体にしていくということで、元老院大審院、地方官会議を詔勅によって設置することであった。その後は、天皇主権による絶対主義的な天皇の協賛としての国会という明治憲法になっていく。


 当時の明治政府部内にあった民選議員設立の反対理由は、加藤弘之に典型にみられるように、時期尚早論で、天賦人権論は否定できなかった。

 加藤弘之の見方は、今日の我が国では制度憲法は難しいということである。我国では、英国の賢智者多いことと異なり、天下のことを公議する知識が無知不学の民多く、適切なる者を選ぶことができないという理由からである。

 未開の国は、自由の権利を得るとき、その正道を知らずして、自暴自棄に陥り、国家治安の障害になる。学校を興し人材を教育することをすすめて、人民の自主の心を旺盛にしてから民選議院を設立すべきという時期尚早論である。(加藤弘之民選議院ヲ設立スルノ疑問」明治啓蒙思想集・明治文学全集3巻、筑摩書房、154頁~157頁参照)。これらの論に対して、竹下は、憲法制定の緊急性をのべているのである。
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2.竹下彌平の憲法草案にみる明治維新の見方

 

 竹下彌平は、明治維新によって、旧習の下手な説や群藩の幡も一掃され、県治に大きく方向転換したことを次のようにのべる。

 「既ニシテ戊辰ノ転覆ニ会シ。逆乱旧習之陋説(ろうせつ)、義兵錦旌(きんしょう)之下ニ一掃シテ尽キ、海内(かいだい)一変、群藩幡然(はんぜん) 方嚮(ほうこう)ヲ改メ県治ニ皈(き)ス」。

 また、戊辰戦争後の新政府は、五箇条の御聖誓の万機公論に決するということであった。竹下彌平は、このことを次のようにのべる。
 「此之時ニ当リテ所謂萬機公論ニ決スル云々等之聖誓ハ、即、恐多クモ曩ニ所述、天地ニ亘(わたり)リ萬世ヲ究メ不可易(かゆるべかざる)真理ニ根拠シテ発スル所ノ者ニテ、而 (しかして)直ニ此真理ヲ実行ニ施スヲ見ル。我輩幼児之疑恠(ぎかい)、頓ニ氷釈(ひょうしゃく)スルヲ覚フ」。
 幕府を倒し、新しい国、理想を掲げた五箇条の御誓文の精神が全く形骸していることを問題にしている。幕府を倒したときの新しい世の中をつくっていくときの意気が消えたことを歎いているのである。現実の社会経済、政治をよくみて、真理を発展させて、欧米文明諸国と対等になることを期待していた。
 そして、この真理をのびやかに発達させて欧米文明諸国と「并馳共峠」(へいちきょうじ」と並び馳せ、共に目標に達するようになることを望むとしている。しかし、明治6年5月の井上大蔵の退職の前後より政治は失調しているとする。そのときから、すこぶる国民のため、自由の理の政治が消えていると考える。


 竹下彌平は、明治6年の政変を井上大蔵大輔等退職前後から捉えている。「政機失調ルアルガ如く」と、新しい国づくりの危機をあげている。それは、政商と藩閥政治汚職問題からであり、政治とカネという徳政の問題、国家財政問題のあり方も大きく問われたのである。
 井上馨は、日本主力鉱山の尾去沢(おさりざわ)銅山汚職問題で江藤新平等に追及されて辞職している。井上参議の辞職は、汚職問題が直接的理由である。近代化していくなかでの汚職の問題は、為政者の德の問題として大きくあった。この汚職問題を竹下彌平は、政機の失調のはじまりと見ていたのである。ここには、「新政厚徳」の精神が読み取れる。
 廃藩置県が行われ、徴兵制がしかれ、学制による義務教育の整備がだされていった。この時期は、旧幕府体制の制度をあらためることが急務であった。このためには、国家としての財政的な確立が不可欠であった。財源ぬきの学制が発布される。

 西郷をはじめ朝鮮問題で政府の中枢メンバーが下野していくのも明治6年10月であった。そして、明治6年5月から10月の政変は、地租改正や内務省の設置にみられるように大久保利通岩倉具視等は、天皇を利用しての官吏の権限強化をはかっていく。大久保は、明治6年11月に内務省をつくる。内務省は、政権の中枢的機能になっていく。


 下野した板垣退助などは、民撰議院設立建白書を明治7年1月17日に政府に対して最初に民選の議会開設を要望する。「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」。
 今の政権は、天皇にも人民にもなく、ただ有司=官僚の独裁であるとしている。
 そして、「臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン」ということで建白をしている。

 国を救う道を講究することは、広く天下の公議を張ることである。そのためには、民選議院を設立することであると。このことによって、官僚の独裁をやめさせることができるというのである。


 竹下彌平は、「維新之基礎タル聖誓之大旨」として、この時代的状況のなかで明治元年五箇条の御誓文を大切にすべきであるとしている。それは、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベス」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」ということである。


 広く会議を興して万機公論に決すべきということは、国民とともに議論して、国民のために政治を行って、国民みんなが位に関係なく一致して、国家を治めていくことをめざしていくことである。

 このためには、国会を開設して、憲法を制定し、その下で国政をしていくということである。さらに、旧来の悪い習慣を破り、天地の公道に基づき、知識を世界に求めることを指摘している。
 竹下彌平の憲法草案は、この時代のもとで、民会の役割の重要性を次のようにのべる。
「既ニシテ、民会之議起ル。其得失、利害、尚早、既可(きか)詳(つまびら)カニ諸賢之説アリ。又贅(ぜい)スルヲ須(ま)タズ。吾謂(い)フ聖誓ヲ将ニ湮晦(いんかい)セントスルノ日ニ、維持挽回スルモノ民会ヲ舎(おい)テ又、他ニ求ムベカラズ。真理ヲ将ニ否塞(ひそく)セントスルノ際ニ,開闡暢進(かいせんちょうしん)スルモノ亦民会ヲ舎(おい)テ他ニ求ムベカラズ」。
 民会の議論は、利害がぶつかりあい、時期が成熟していないという意見があるが、五箇条の御聖誓をうずもれさせないために、国政失調を挽回するには、民会に求める他にない。自主自立、自由の理の真理を切り開き、国を発展せるためには、早期に民会を開くことしかないとしている。


 明治8年6月の大阪での第1回地方官会議に地方民会の議論になるが、鹿児島県令の大山は、時期が早いとして不要論を主張していた。「人情未タ安寧ナラス、生産未タ繁殖セス、風俗未タ醇厚ナラス、盗賊末タ衰止セス、而ルオ況ヤ各地ニ於テヲヤ。故ニ民会ヲ開キ広議興論ヲ采リ、以テ政に施サント欲ス、其意美ナラサルニ非ス、然レトモ方今民会ヲ開ニ於テ、其妨害極テ多シ」。「民会ヲ開クニハ、他日人民開化進歩ノ時ヲ待チ、朝廷地方ノ官員協心同力、今日着実ノ政事ニ勉力シ、徒ニ文具ヲ事とセサルベシ」。 (都丸泰助「現代地方自治の原型―明治地方自治制度の研究」大月書店、148頁~149頁参照)。 
 政府内には、民会について時期が早いという考えであったが、その見方が大山県令にも反映していたのである。竹下彌平の地元鹿児島県令ですら、地方民会も時期が早いという論であった。鹿児島県令は、民会を開くことの将来的な意味は認めているが、今はその時期ではない、国民の開明の進展までまつべきだとしている。

 この地方官会議では、民選ではなく、官選で決定される。しかし、竹下彌平は、県治と民会の役割を今こそ重視している。このことは、注目することである。戊辰戦争によって幕府を倒し、逆乱旧習の狭い考えを一変する方向性は、改められた県治によるところが大きく、緊急に民会を開くことを重視しているのが竹下彌平の見方である。

 

3.国会の役割と立憲主義

 

 竹下彌平は、最も切望するところとして、国会を開設するために、憲法骨格草案の八条を提起する。この憲法草案は国会を開設するための基本的見方である。
 第一条は、為政者・君子の豹変を防止するために憲法の制定の重要性を指摘する。「己巳平定以来、此ニ七年、蓋シ国歩又一歩ヲ進メ、君子豹変スベキハ此之時ヲ然リトス。故ニ吾帝国、宜シク益其廟謨(びようびぼ)ヲ宏遠(こうえん)ニ運ラシテ、我帝国ノ福祉ヲ暢達スベキ憲法典則ヲ鈐呈(けんてい)スベシ」。
 国の福祉を発展させるためには、憲法制定をすべきであるとする。ここでは、君主による統治の欽定憲法ではない。そして、第2条では、即、聖誓の拡充を実現するための憲法制定であり、国権の最高機関としての国会の役割を重視しているのである。

 ここでは、国民のための立憲主義による国のかたちを明らかにした。その国会は、今の左院と右院を改めて、新たにつくれとしている。当面の緊急時なる議員構成については、第3条と4条に示している。
 「第二条 右憲法ヲ定メルハ、即聖誓ヲ拡充スル所以ナレバ、立法権ヲ議院(現今之左右院ヲ改メ、新ニ立ル処ノ左右両院之議院ヲ云)ニ悉皆委任スベシ」。
 第三条では左院の議員構成である。左院の定員は百名で、三分の一は、現今各省の奏任官四等以下七等に至り、判任官八等より10等までのうち、主務に練達諳塾して、才識あるものから人選を提起している。ここでは、上級の官吏を外しての各省ごとからの若干名の選出の提案である。
 三分の一は、著名に功労ある人望家、旧参議諸公のごとき在野の俊傑及び博識卓見なるものから選挙するとしている。その例として、福沢、福地、箕作、中村等と新聞家成島、栗本をあげている。最初は、太政官より命令して選び、議会がたった後は、別に選挙方法を立てて選ぶとしている。例としてあげられた知識人の4名は、竹下彌平と同じように国会即時開設論ではない。むしろ、当時の代表的な在野の文化人として竹下彌平はあげている。
 三分の一は、府県知事、令参事に命じて、その管下、秀俊老練、民事を通暁し、地方の利弊を考えながら選べとしている。最初は太政官より地方官に示諭して、乱選なきを注意し、適宜に選ぶことも妨げないとしている。議会がたった後は別に詳細に選挙法を設けるとしている。
 板垣退助等は、民選議院の設立の建白書を提出したが、左院は、広く会議を起すという意味で重要な役割をもっていた。この左院の構成について、竹下彌平は、広く国民の代表者による会議として、上級の官吏を除く、直接に一般の民に近い行政の仕事をしている人から憲法制定のための国会議員を選ぶという方法をとっている。

 これは、上層部のリーダーだけによって憲法制定の意志にならないように、民の身近な官吏からの代表を大切したのである。また、在野の博識卓見ある文化人から議員を選ぶということも国民教育が普及していない明治8年の情勢からの緊急提案である。
 さらに、左院の議員構成に地方の代表を位置づけていることは、国家レベルの憲法を中央集権的に決めていかないという見識である。
 第四条は、右院の議員の規定で、定員は左院と同じ百名である。その構成は、行政官勅任官以上ということで、高級官吏からの代表と皇族華族中より選挙するとしている。

 ここで、注目することは、司法官と武官は議員を禁ずるとしている。左院の選出方法を含めて、司法官と武官は、両院の議員になることができないしくみの構想になっている。
 ところで両院の権限として、三つをあげている。まず、第1は、行政の最高の権限をもっている太政大臣と左右両大臣は国会で選ぶことをのべる。
「第五条 太政大臣及左右大臣は左右両院の選挙をもって定める」。

 当時の藩閥政治では、広く会議を起こして行政の最高責任者を選ぶしくみがなかった。形式上は、天皇の勅命によって太政大臣、左右大臣が決められていた。実質的に政府の権限は、それを支える参議や高級官僚が握っていた。行政の最高権限者を国会によって、選ぶという仕組みにかえていこうとするが竹下憲法草案のねらいである。
 天皇の特権は左右両院の開閉にあるということで、行政の最高の責任権限者ではない。明治維新によって、新政府の統合的なシンボルになっている天皇を位置づけていることである。広く会議を興し万機公論に決すという聖誓の理念の重要な場の設定としての天皇である。「第六条 左右院を開閉するは天皇の特権にあり」。
 国会の第二の役割は、国の統治で根幹になる歳入・歳出を定める特権である。「第七条 帝国の歳入出を定める特権は左右両院にあり」。


 さらに、立憲主義ということから憲法の制定や改正は、極めて重要なことである。この特権は、いかなる行政官、司法官、武官は犯してはならない。それは、立国の本旨であると第八条でのべる。「凡帝国の憲法典則ヲ鈐定スル、若シクハ更正増減スルハ一切左右両院之特権ニ在ルヲ以テ、仮令行政官、司法官及武官、如何様之威権、如何様之時宜アルトモ、決シテ立法上ノ権ヲ毫モ干犯スルヲ得ザラシムハ、立国之本旨最重スル所トス」
 これは、有司専制というように官僚的独裁によって憲法を犯してはならないことであり、また、武力によって、国の基本施策や憲法を動かしてはならないという立国の本旨からである。そして、司法と国会を分離する意味から司法官の国会議員を禁止している。以上のように、竹下彌平は、国権の最高の権限を国会におくことを憲法草案にうたっている。

 竹下彌平は、民間人としての憲法草案を提唱したのであるが、「左右議員ヲ速ニ立セラレント、今日、政府ノ急務」として、現在の国の情勢からみて、議会を開く緊急性を強調しているのである。

 

4.日本の未来の危機意識と自主自立精神の重要性

 

 竹下彌平の我が国に対する危機意識は、インドのように植民地になってしまうという懸念である。つまり、早く挽回しなければ日本の未来は大変なことになるということである。それは、欧米の列強諸国の外圧による植民地の危惧である。「我ガ帝国之民、淳朴(じゅんぼく)忠愛、・・・奴隷之習気脳髄ニ印シテ、精神恍惚、亦覚醒ナキガ如キニ至ル。彼之印度ノ奴ト偽リシモ亦、職トシテ、是之由ル。今ニシテ早ク是ヲ挽回セザルバ、印度之覆轍ヲ踏ザルモノ幾希ナリ」。
 国会を開設し、憲法を設定することは、自由を大切にして、学校を盛んにして、兵力を増強し、近代技術、近代施設を整備していくことになる。「外国人ト婚娶(こんじゅ)ヲ許スガ如キ、出版ヲ自由ニスルガ如キ、学校ヲ盛ニスルガ如キ、兵力ヲ張ルガ如キ、拷掠(ごうりゃく)ノ苛酷ヲ除キ、審判之傍聴ヲ縦(ほしいまま)ニスルガ如キ汽車山川を縮メ、電線宇宙ヲ縛(ばく)スルガ如キ、皆、開花之衆肢體ニ非ザルハナシ。然レドモ、徒(いたずら)ニ其肢體ヲ獲テ、而(しかして)未ダ其精神ヲ具(ぐ)セズンバ、偶人塑像ニ均シキノミ」。


 外国人と結婚を許す自由のごとき、出版の自由、学校を盛んにすること、汽車を走らせ、電線をひくことである。そのためには、自主自立の理の精神を備えていくことである。その結果によって、真に開化することができるとしている。近代化しても、自主自立の精神をもたねば、粘土でつくった人形像のようなものであると訴えている。


 国民的に自主自立の精神を旺盛にしていくには、国会を開き、憲法を制定して、出版の自由、学校を盛んにして、大いに議論していくことであると。このことによって、奴隷の気質、精神恍惚を一掃して、立憲主義の国家をつくっていくことになると竹下は考える。


 自由の理ということで、竹下彌平は、最初に、外国人と結婚を許すということをあげている。この時期は、国際結婚は極めて例外的であったが、明治初期に鹿児島医学校でイギリスの地域医療による多くの医師を養成したウイリアム・ウイリスは、地域の日本人女性と結婚し、子どもをもうけ、日本での永住を決意していたが、西南戦争によって、それは、挫折している。
 欧米の民の気質についても「忠厚温良」が不足しているという興味ある問題提起をしている。「欧米之民、沈毅果断、忠厚温良不足。其之弊ヤ、君主ヲ威逼(いひつ)シ、政府ヲ倒制スルモノ往々之有リ」ということで国の恥さらしになり、為政者をおどしおびやかして、国を倒すこともたびたびあり、建設的にならないことを指摘している。
 出版の自由については、海老原穆の活動は、注目するところである。明治4年西郷隆盛と共に上京し、明治6年に、明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞し、明治8年2月に、集思社を創設し、「評論新聞」を創刊した。その新聞では、太政官政府に対する痛烈な批判を展開した。海老原穆は、新聞条例によって、讒謗律に違反するとして逮捕投獄される。
 集思社は、新聞条例によって発刊停止になった後も、中外評論を発行する。また、発禁になり、さらに、文明雑誌を発行して粘り強く言論活動を展開していく。集思社と同時期に栗原亮一社長の自主社系の草莽雑誌も反政府、西郷支持の論陣を張ったのである。評論新聞と同様に発行禁止の弾圧を受けるが、草莽事情として発行を続ける。両社とも西南戦争のさなかで消えていったのである。
 評論新聞には、西南戦争に熊本隊として、ルソーを教本にしていた植木学校の教師であった宮崎八郎も記者として勤務していた。このように、明治の初期には、在野の人々が自由の理を求めての出版活動がはじまっていたのである。

 

 まとめ.自由の国づくり

 

 竹下彌平の憲法草案は、左右両院を開いて、自主自立の精神によって自由の理の国づくりをしていこうとする。国会の開設、憲法の制定によって、日本の毅然とした自立の志気がつくられていくとする。幕府を倒し、新しい世の中を宣言した五箇条の御誓文をふさいでしまった現政府に、国会の開設によっての自主自立の道を拓いていくことを強く訴えたのである。
 竹下彌平の憲法草案の最大のねらいは、毅然として自主自立、自由の理の志気をもって、 両院を開くためである。その両院の初期目的が、憲法制定である。左院は、三つの層から代表を選挙していくということも竹下彌平の独創的な見方である。官僚組織の中下級層からの選出、知識あるもの、功労人望ある著名人からの選出、地方からの選出となっているが、これは、憲法制定議会の構成に社会的な三つの機能層から選出しようとするものである。
 竹下彌平の描く、自主自立と自由の理の拡充暢達とは、具体的にどのようなことを考えていたのか興味ある問題である。印度の覆轍を踏まずということで、日本の植民地に対して、強い危惧の念をもっていたことは確かであり、自由の理を大切にして、学校を盛んにすることを強く抱いていたのである。また、自由の制度をつくっても、また、汽車や電線を整備しても、自主自立、自由の理の精神が育っていかねば全く意味をもたないことを強調していた。
 出原政雄は、「鹿児島県における自由民権思想」についてまとめているが、鹿児島新聞(現在の南日本新聞の前進)の初代主筆を努めた元吉秀三郎は、鹿児島での民権運動の重要な一翼を担っていたとしている。また、西南戦争によって、竹下彌平などの流れは中断したが、その後、明治13年3月に鹿児島市内で自由民権運動の「同志社」がつくられ、「国会開設の建言」を元老院に提出している。
 さらに、同じ年の12月に3500名が、国会開設建言書を元老院に提出している。明治14年11月に旧私学校関係者によって三州社が完全なる立憲政体を目的として結成される。このような状況のなかで、鹿児島県内の多くの民権論を唱える人々が結集され、それらに支えられて、民権運動擁護のための言論として鹿児島新聞が明治15年10月に創設されたと出原政雄は分析している。(出原政雄「鹿児島県における自由民権思想「鹿児島新聞」と元吉秀三郎」志學館法学第4号75頁~100頁参照)。
 鹿児島県での自由民権の思想の発展は、西南戦争以降において、鹿児島新聞を支えた多くの民権論者によって推進されていく。明治23年の第1回の国会選挙では、全員が民党系で占められる。その後の弾圧と懐柔によって、吏党系が多数を占めるようになっていく。(芳 即正・松永明敏「権力に抗った薩摩人」南方社、参照)
 明治8年霧島山系の裾の襲山郷在住の竹下彌平によって提唱された憲法草案は、明治維新の地域における民衆思想として特記されるものである。
 (ふりかなは、鹿児島社会運動史が史料の出典をだす際にふりがなをつけたものをそのまま引用した。久米雅章「明治初期の民権運動議会士族」川嵜兼孝・久米雅章・松永明敏『鹿児島近代社会運動史』南方新社54頁~63頁参照、家長三郎・松永昌三・江村栄一編「明治前期の憲法構想 福村出版、25頁~26頁、171頁~173頁参照 )