社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ニーバー「道徳的人間と非道徳的社会」社会教育論から

   ニーバー「道徳的人間と非道徳社会」社会教育論から
      現代キリスト思想叢書・白水社からの学び
 
 
 
 ニーバーは、1892年生まれである。1971年6月に他界したキリスト教倫理学、政治哲学者であった。1928年から60年まで、ニューヨーク神学大学の教授であった。かれの理論形成における1915年から1928年までの自動車産業の中心地であったデトロイトの牧師としての活動が大きな影響をもっている。
 本書の原書は、1932年の出版である。ドイツにおけるヒートラーの登場や日本の軍国主義国家主義的な「社会主義」のソ連邦成立、第一次世界大戦の反省から国際連盟の成立、世界恐慌という帝国主義的になった資本主義の矛盾の状況のなかで、書かれたものである。その時代的状況を直視しながら、本書を現代的に学ぶ必要があります。
 
 人間の集団的エゴイズムの恐ろしさ
 
 ニーバーは、集団的なエゴイズムが独自の力をもつ恐ろしさについて、その認識の重要性を次のようにのべています。
 
 「宗教的であれ、合理主義的であれ、すべてのモラリストたちに欠如していることは、人間の集団的行動における残虐な性格やあらゆる集団間の関係における自己利益や集団エゴイズムの力についての認識である。集団的エゴイズムは道徳的かつ普遍的な社会目的に強情な抵抗をするものだということを認識できないことが、彼らに非現実的にして混乱した政治思想をいだかしめるようにするのである」。208頁
 
 集団的なエゴイズムは、自らの自己利益を強引に推し進めていこうとする。そのために、現実的に混乱した政治思想をつくりだすというのである。ここには、個人的な次元では考えにくい。そこでは、独自の集団的エゴイズムの残虐性のおそろしさが潜んでいる。個人的な権力・支配の志向が組織として集団を動かしていくことの恐ろしさがある。個人の利益が集団エゴイズムに転化することによって、人間的な良心が失われていくのである。
 
 個々人の良心を築いていくうえで、知性をもっていくことは重要なことである。学校教育や社会教育は、個々の理性の形成にとって大きな役割を果たすことはいうまでもない。知性の発展は、正義心や慈愛心を増大させていくことをニーバーは次のようにのべる。
 
 「社会における闘争や不正義の究極的な源泉は、人間の無知と自己中心性とに見いだすことができるゆえに、正義を人間の知性や慈愛心を増大させることによって達成しようとうる希望がたえず新しく生じてくろことは当然である。
   宗教的アイデアリストは、通常社会的不正義の根は無知であるとよりも自己中心性にあると強調し、より純粋心を増大させ、人間精神のもつエゴイズムを減少させるだろうということに、希望をいだこうとするのである。これに反して合理主義は、不正義は人間の知性を増大させることによって克服されると信じる傾向がある」。233頁
 
理性の発達が正義や慈愛心の道徳形成の唯一の基礎ではない
 
 不正義や慈愛心が育たないなかには、無知や非合理主義が大きく影響している。知性の増大は、エゴイズムの減少をつくりだす要因になると、ニーバーは指摘するのである。しかし、知性が、道徳の唯一の基礎でもないとするのがニーバーの指摘する重要なことである。
  理性は、自分自身の生よりも他者の生を肯定する能力をつくりださいとニーバーは考えるのである。
 
「理性は、人間における道徳の唯一の基礎ではない。人間の社会的衝動は、人間の理性的な生のレヴェルよりもっと深いところに根をおろしているのである。理性は、彼自身の生よりも他者の生を肯定するという能力をつくり出しはしない、ただそれを拡大したり堅固なものにしたりするだけである」。236頁
 
他者への同情と社会教育
 
 知的な開発は重要であるが、その教育だけでは、人間の社会的良心が育っていかないことをニーバーは次のようにのべる。
 「知的な人間は、他者の必要や欲求をするために必要なあらゆる資源を開発するものであり、知的な人間は、知的な人間とくらべて、自分の行動をもっと他者の必要に合わせようとする傾向がある。
 こういう人間は、それが眼前にある場合だけでなく、地理的にもっと遠いところにあるところの悲惨にたいしても、同情を感じるのである」。
 
  「社会教育が、慈愛心をそれが密接な共同体でおのずとあらわせるほど豊かに発現させようとするが、その最も賢明な社会教育さえそれに失敗した事実は、人間の倫理的態度なるものは、社会を技術的に取り扱う人々が想像する以上にもっと個人的な密接かつ有機接触に依存するものだということを暗示している。
   倫理的態度が個人的接触や直接的関係に依存するものだということは、生と生の関係が機械的にー有機的ではなくてにー結び合わさられ、個人的接触は減少し相互責任が増大しつつあるところの文明社会においては、道徳的混乱を助長するものなのである」。238頁
 
 学ぶことによって、直接的に接触できない遠方の人びとにも同情をもつことが可能になる。しかし、それで密接な共同体と同じように慈愛心が豊かにつくりだされるか。このことで、多くの社会教育が失敗しているとニーバーは指摘する。社会が個人的な直接的に接触が少なくなることによって、道徳的な混乱が助長しているとするのである。
 知性の発達ということだけではなく、個人的な接触に依存関係による慈愛の精神の充実が大切としている。知性的な学びと同時に、直接的な接触して依存関係を持ちながらの慈愛の精神形成の場づくりが、独自に社会教育として求められ。
 
   知的な発達と人格の形成ということは、単純に結びつかない。このことは、教育学の課題であったのである。とくに、社会的正義の形成は、社会的知性との関連で大きな人格形成の要因である。国家権力を結んでの社会的な集団の自己利益と、それに帰属して、個人的な自己利益を実現しようとする個人のエゴイズムがある。
 さらに、最も大きな問題は、権力を握り、権力や社会的地位を得ようとする志向のエリート集団のエゴイズムは、社会的知性と社会的正義の課題は大きい。
 
社会的理性から特権と特権なき人びとの関係
 
 
 特権なき人びとの悲惨を暴露していくことは社会的良心を作り出すことにとって重要なことである。この問題は、社会的正義の問題であり、政治的な課題であるとニーバーは次のようにのべる。
 
 「社会的理性は、彼らの特権が、特権なき人びとの悲惨と結ぶついているという事実を暴露することによって、社会における彼らの威信を打破するであろう。さらにまた、それは、不正義に苦しむ者をして、その社会における権利をもって自覚せしめ、かれらの権利をもっと精力的に主張するよう促すであろう。
   その結果生じてくる社会的闘争は、理性的な正義というよりは、政治的正義を志向するのである。しかし、あまり親密な個人的な関係ではないとおろでは、正義とはすべて、理性的であると同時に政治的でもある。すなわち、正義とは、相克する権利と権利を理性的に理解したり調停したりするだけではなく、力にたいして力を対抗せしめることによって、確立するのである」。241頁
 
 社会的理性とは相克する権利と権利を理性的に調停するだけではなく、政治的な力に対抗していくという政治的正義が求められているとニーバーは問題提起するのである。
 
国家の道徳性と知性の役割
 
 社会的正義は、ひとつの国家の内部の経済的諸階級間の関係のほうが、国際的関係よりも重要であるとニーバーは考える。ニーバーは集団的行動の倫理を分析するときに、諸国家の倫理的あり方を研究する方が便利であるとする。
 
 「いかなる国家のなかにも、ふつうの人間よりも知的に高い一団の市民が存在する。こういう人びとは、無知な愛国主義者とくらべ、はるかに明白な仕方で、自分自身こ国家と他の諸国家との間の問題を、また国際的関係のなかで特殊利害を追求している支配階級の人間よりもはるかに公平な仕方でそれをみている。
   この集団の規模は、国家によって異なる。たしかにこの集団は、国家が自己利益追求において極端なものになる場合、しばしばそれを抑制する働きをするが、しかしそれは国家が危機に際して取る態度に影響をあたえるほどふつう強力なものでないものである」。297頁
 
国家の自己利益と戦争
 
 国家が社会的理性をもつのか、自己利益をおされているのか、これは、平和とと戦争の問題に端的にあらわれるのでる。国益という内容が、戦争や相手国のあらゆるかたちの侵略との関係があるのである。国益のまえに、人類的共通の利益の課題があることを忘れてはならない。
 
 国家の自己利益を追求して、他の国家を侵略して極端なナショナリズムは、知的に高い理性ある市民集団によって抑制される効果をもつことがある。その市民集団は、国家によって、異なる。国家の意志は政府であるが、一般大衆の感情や、経済的階級の巧妙な自己利益によって動かされていくと二ーバーはみる。
   知的に高い選挙民をもって、大衆の衝動や特殊集団の隠蔽された利害を国家的知性によって、統御することが可能である。それは、実際に、それらは、小さな力しかもたないとハーバーはみるのである。
 
 「国家的統一行動は、政府を牛耳っている支配集団の利害によって推進された計画とか、あるいはしばしば国内を走りぬける民衆の感情やヒステリーによって支持された計画などのもつずいてつくり上げるのでらう。つまり、国家とは、知性によるものではなく、むしろより多く力や感情いよって結び合わされた一個の結合体なのである」。
 
 選挙民が知性的になれば問題はないが、実際の選挙による政治は、民衆の感情やヒステリーによって支持された排外主義的な施策が進められていくのである。
 
 「倫理的行為なるものは、自己批判なしにありえないものであり、また、自己批判なるものは、自己超越という理性の能力なしにありえないものがある」「国家の利己主義は、国民共同体がその統一の実現のため力を用いざるをえないということと、またその力を用いる集団がその強制手段を必然的に自己中心的に行使するということによって、増大される」.
 
 
 国家の倫理的な行為は、異なる立場をもつ他党や第三者からの批判によって、施策を実行していく政府自身の自己批判に結びついていかねば、理性的機能は働かないのでらう。謙虚にならず、強引に国民の感情的、ヒステリックな自己利益の実現に邁進していけば、より強権的に国民を動員していくのである。
 
 ここで重要なことは、国民の感情的な自己利益にみえる施策が、特別な経済的特権をもつ支配集団の利益になっていることである。ニーバーは、国家の理性を働かせるには、支配集団の特別の利益を取り払うことによって、調和する国家の施策が可能になるとしている。
 
 「支配集団がその特別な経済的特権をとり去られるならば、彼らの利害は、国家全体の利害と、もっとよく調和するようになるであろう。現状において、一国家の経済的巨頭たちは、国際貿易の利潤や弱い一般人民の搾取や原料と市場の獲得などに特殊利益をもっているが、こういったすべてのことは、国民全体の福祉と遠くほとんど関係ないのである」。298頁~299頁
 
 国家の現実は、理性的によるものではなく、力関係や国民の感情によって成り立っているとしているのである。そして、現実国家は国民的共同体の実現は、特別な経済的巨頭の特殊な自己利益に機能しているのであり、国民の利益になる福祉とはほど遠いと二ーバーはみるのである。国家の理性と正義は、支配集団の特別利益を取り去ることであり、国民全体の福祉を優先的に考えていくことであるニーバーはしている。
 
 「国家の政府が階級的性格をもっているということは、たしかにこのことが唯一の国家的貪欲の原因でないけれども、その第一の原因となっているのであるが、そのことのゆえに今日の国際的無政府状態は、もしも破局の恐れが現在の社会体制を改良するか、それとも破局か、もっと協力的な国家社会を建設するのでなければ、じっとつづくかもしれないのである」。321頁
 
 国家は階級的な性格をもっており、それはますます対立が激化して、無政府的な状況によって、破局の恐れがあるとしている。現在の国家体制を改良するか、階級間の利害を調整していく協力的な国家社会の建設の必要性をニーバーは提起するのである。
 
 ここには、国家の理性としての国民全体の利益を考えるときに、弱い立場の人びと、搾取されている人びと、資源や原料を独占されている人びとのこと、社会全体の福祉の問題に向かっていくことであるとするのである。
 
「近代工業国家のなかでは階級間の対立が激化している。それはますます国家的統一を破壊し、また国際的友誼を危うくしつつある。われわれの工業文明のなかに経済的不平等と社会的不正義がたえまなく増大しているが、それは、諸国家を、彼らの破滅に終わらざるをえないような最後の衝突へといたらしめるかもしれない」
 「もし現代の状況における可能性と危険性とを十分理解すべきであるならば、どうしても国家内の階級対立を注意深く研究し、文明の将来にたいするその重要性を評価してみる必要があるだろう」。321頁~322頁
 
 いかにして階級対立の問題を克服していくのか。諸国家の破滅をとめていくためには、経済的な不平等、社会的な不正義の克服であるとしている。それを注意深く解明していく課題が人類史的につきつけられているとしているのである。
 
 これは、一部の知的に高度な人びとや社会的なエリート層の課題であることはいうまでもないが、重要なことは、国民的に国家の知性を増大して社会教育の役割があるのである。それは、単に知的に学ぶということだけではなく、様々な立場の異なる人びとが共感し、慈愛の精神をもっていく場づくりが求められているのである。
 
特権階級の倫理的態度
 
 支配的特権集団の道徳的態度は、普遍的な自己欺瞞や偽善によって特徴づけられているとニーバーは考える。かれらの特殊利害は普遍的な価値、普遍的な価値と意識に同一化されているというのである。
 
 「特権階級の知性は、たいがい、彼らがもっている特殊な特権は普遍的価値を生み出すものであり、またそれは普遍的利益に奉仕するものだという理論のためにいろいろみせかけの証拠を発明するという仕事ににとり組むものである。
 特権階級における最もふつうな偽善の形態は、彼らがもっている特権は、そのとくに有益かつ功績ある働きにたいして社会が支払った正当な報酬であると考えることである」。327頁
 
 特権階級の自己欺瞞や偽善は、普通教育の普及と選挙制度によって行われるとニーバーは考える。特権階級の教育的な優越、社会的地位の獲得は、生得的なな諸能力の発達させるものであるとする。普通教育のための闘争は、貧しい者の教育を受けることが重要であるとする。
 
 不平等な教育状況をそのままにして、労働者階級に教育を与えるのは、決して彼らの道徳性や幸福について害をもたらすものでると。教育を受けた黒人は、無教育で従順な黒人よりも、白人にいっそう憎まれる。
 教育ある黒人を優遇し、古い時代の奴隷的な黒人を差別することになる理由であった。支配集団は、自己の強さを信じて、被支配階級に特権にあずかる適合性がないと主張するとニーバーは指摘するのである。
 
 特権階級はアナーキーや暴力に対する恐れがあり、平和と秩序の擁護者であるという自覚を国内に発信する。しかし、国際問題の取り扱いにおいても平和主義的良心であれば疑いであろう。
 
「彼らは自国内では平和を強調しながら、、他国家との軍事的衝突の問題については、きわめてたやすく議論にのるのである。かれらの好戦的熱情は、しばしば特定の経済的な利害によって促されているものであり、また他の場合には、戦争熱やその結果としての愛国的ヒステリー状態を利して、冷静な国家では不可能なあるような自己の利害と普遍的福祉との完璧な融合をつくりあげ、国内における彼らの支配の強化にそれは好都合であると考えるのである」。350頁
 
 労働者階級と中産階級の社会的倫理 
 
 中産階級の社会的倫理は、自由とか個人生活の尊重とか財産権とか相互信頼や非利己主義などの道徳価値を強調する。また、個人的道徳の諸規範を、あらゆる社会関係にとって権威的なものに高めようとする。個人的な道徳性を理想として、人間集団行為の規範とするのである。
 労働者階級の道徳は、労働者集団への忠誠や連帯心を強調する。財産権を全体的社会福祉に従属させしめようとする。労働者階級は、特権階級よりも自己の集団に没入しており、集団の行動が自分の生活に影響することを感じいる。特権的人間たちほど個人的ではない。
 個人的道徳性が特権集団の圧倒的貪欲や権力欲を抑制するのもみいだしたことがないからである。あまりに深く社会集団のなかに没入してしまい、う集団的残虐性のいけにえになりすぎているので、人間的生のもつ道徳的資源に関する全真理を把握できないかもしれないのである。
 中産階級の理想主義者は、幻想のもとにおいて生活しているかもしれない。彼は、あまりにも徹底的に個人的であるがゆえに最も重要な集団的行動を自覚できないのである。彼は快適な立場にあり、集団的人間の残虐性にあまり苦しめられれないゆえに、集団的人間の強力な衝動を理解することができないのである。
 以上のように、中産階級と労働者階級の社会的倫理の基盤は異なっている。また、支配集団の衝動のもつ力の真実の意味を感受できない。中産階級は、個人的道徳諸規範が集団的抗争を解決すると想像すると、ニーバーは指摘するのである。386頁~388参照
 
 労働者階級の分裂の社会的基盤
 
 現代のテクノロジーの発達は、未熟練労働者よりもはるかに特権的な社会的な地位をもつにいたった熟練労働者や半熟練労働者層を発達させた。労働者階級全体として連帯していくという社会的意識が薄れていく現象が現れる。
 倫理的動機からいえば、熟練労働者たちは、未熟練労働者やもっと貧しい無産階級との連携へと促されるはずである。ところが、こういった倫理的動機がつねに十分に強いるということはない。こうして、経済的要因が連帯性を生み出すという理論が誤りであることが証明された。ドイツでは、このタイプの労働者は、カトリック政党と結び、右と左の革命的な動きにたいして、ブルジョア民主主義の主要な支援者になっている。これらの立場がニーバーの見方である。393頁
 
労働者階級の政府の倫理的社会統御の問題性
 
 労働者階級の政府により経済的不平等を打破するのに政治的権力の中心を強力につくりだすことなしに可能であろうか。この政治権力が倫理的に社会的に統御させるには、国家に巨大な権威をあたえることなしに経済権力の集中化を防ぐことはできない。
 強力な国家は、政治権力を、少数の個人や小さなグループに危険なまでに集中させるこを必然的にならしめる。この新しい権力が、完全な倫理的・社会的統御のもとにおかれるということは、なんの論証もないと、ニーバーは指摘するのである。400頁~421頁 
 
 議会主義的社会主義と社会的理性
 
 議会主義的社会主義は、政府の行政面において他政党と協力しなければならない。そのような協力において、自己の政策を相手が受け入れる範囲で実現していくしかなく、そのために取引きをしなければならない。
 この取引は、指導者たちによってなされざるをえない。しかし、かれらは、政府の高い地位にだんだん引き込まれるようになる。かれらが、並外れた識別力がり、知的に強固でもなければ、肉体労働者たちの視点を忘れ、権力と威信の誘惑によって、無意識的に特権階級の社会的政治的視点を取り入れてしまうのあろうとニーバーはのべるのである。429頁
 ニーバーの指摘は、議会的社会主義のリーダーにとっての絶えざる自分の属する階級的・階層的な社会的理性の重要性をのべている。それは、恵まれていない経済的不平等の階級的な集団的な利害がもつことの必要性である。
 議会主義による駆け引きは、労働者の要求を実現するためであり、権力と威信のためである。これは、あらゆるレベルの議会にいえることであり、労働委員会をはじめ、それぞれの機関に労働者が送り出したリーダーにもいえることである。議会主義的な見方は、協調と均衡のなかで現実の施策が遂行されていくのである。
 企業経営においても労働組合と経営者との関係の均衡と協調によって、現実の経営が遂行されていくのであり、労働組合の存在なくして、労働者自身の要求と主体的意欲ある労働過程の確立はないのである。
 日常的な上司との関係による職務遂行という側面ばかりではなく、労働組合をとおしての集団的な基本的な労働条件の契約と、そのチェックが求められ、また、行政的な労働基準監督署の役割も見逃せないのである。これが、正常に機能していくことによって、労働者の権利が保障されていくのである。
 
 議会主義的社会主義の指導者に対する権力の誘惑
 
 議会主義的な社会主義の指導者は、個人的な権力や威信の誘惑が起きるのであり、政治における個人の性格、資質の重要性を示すのである。ナショナリズムの感情は、国民共同体が有効に自己批判をなしうることは現実に不可能になっていく。
 議会主義的労働者政党にとって、ナショナルな偏見やヒステリーから批判的距離を保つこと、それこそが近代社会救済の使命をもっているのである。国家に服することは、階級闘争よりも国際戦争を選ぶことになるのでらう。そういう選択は、理性的に正当化されえないものである。国際戦争は、国内の不正義から生じるものでらい、そして階級闘争はその不正を除去することを求めるからである。435頁参照
 
 教育はプロパカンダではなく、真理の探究による道徳的理性
 
 教育がプロパガンダにまでに堕落してしまうことがある。教育は論争を超克する方法であるだけではなく、論争の道具となる。事実とか真理とかを抑圧する教育課程ならば、純粋にプロパカンダになる。人間の理性は、いわゆる自由な教育課程によって形づくられる。すべての強制がきけんであるように、心的強制の危険である。451頁
 
 人類愛的な白人が設立した学校は、教育的利益を黒人指導者にもたらした。かれらは、人種の自由のためにたたかうようになった。各種の両人種委員会は、人間間の誤解をなくし、相互の立場を理解し合うよう、すぐれた奉仕をなしてきた。
 しかしながら、これら教育的和解的諸事業は、すべてこのような純粋に理性的道徳的な諸努力と共通な限界をあらわしているのである。それらは既存の不正義の体制の枠内で活動している。白人の人類愛によって運営されている黒人のための学校は、黒人ひとりひとりをさらに高次な自己実現に勇気づくる。しかしながら、それは、黒人を苦しめている社会的正義を真正面からとりあげない。458頁
 白人がつくった学校は、黒人ひとりひとりを高次に自己実現の機会をつくりあげていくが、黒人自身の民族的差別を正面からとりあげることができない。そのことに気づきをもたないのである。これは、黒人自身が社会的正義に取り組むことが必要なのである。真理探究の道徳的な理性には、階級的な視点や差別されている人びとが、自ら真理を求めていくことが必要なのである。