日本語教育推進法と社会教育
神田 嘉延
日本語のできない問題状況を直視しての外国人の教育を充実
しかし、内容は抽象的です。本来、教育事業は、文部科学省や教育委員会が管轄する部署であるはずですが、そのことさえ明確にされておらず、連携の強化という抽象的なことで、実施の責任主体があいまいで、関係省庁間、日本語教育を行う機関との体制の整備ということが書かれています。
日本語教育機関で学ぶ外国人の生活問題が大きくあるのです。実際に、日本での日本語学校では、アルバイトに追われ、授業に集中できないことや学校にもこない「留学生」も数多くいるのです。これらも甘い言葉をかけられて安易に日本への留学をしているのです。これは、大学での日本語別科や研修生などにもみられるのです。社会問題になった東京福祉大がその典型です。
日本語がわからず、日本の法律制度も理解できずに、甘い言葉をかけられてだまされて働いている外国人労働者も少なくありません。多額な借金をして、日本に働きにくる外国人労働者は、悪徳中間業者にだまされてくるのです。
日本の現実は、予定していた時間あたりの賃金は低いのです。借金を返すため、本国の家族に仕送りをするため、将来の準備のためと、残業をせざるをえないのです。結果的に長時間労働になっていくのです。さらに、労働環境も悪く、また準備された生活のアパートも劣悪で、馬小屋を改造しての牧場のなかでの全く寂しい宿泊所を提供されている場合さえあります。
日本で過酷な労働や生活で死に至る外国人のケースもあります。自分の意志を表現できずに、訴えるすべもわからず死んでいった外国人労働者の現実を直視しなければなりません。日本語がわからないことがいかに過酷なことであるのかを知る必要があるのです。人権を守ることは、コミュニケーション能力を保障することです。日本語教育の推進は、外国人労働者や留学生の人権を守っていくことなのです。
少なくとも本国での初級段階を達成して日本で中級程度の日本語教育を受けられる国際的な連携体制をつけるべきです。日本語教育は、送り出す国での連携的な教育が重要なのです。日本語をまったくできないことで留学生や外国人技能実習生・外国人技能労働者を受け入れることに問題が大きいのです。この問題点を十分に認識しての市町村の責務があるのです。
日本語教育推進での市町村の社会教育と学校教育の役割
外国人労働者や家族の日本語教育推進は、市町村自治体の責務としての社会教育や学校教育の役割が大きくあるのです。地方の労働力不足のなかで、市町村自治体の地域振興計画のなかに外国人労働者の受け入れを考えなければならない時代です。
現行制度では、外国人の受け入れについて、市町村の責務が明らかにされておらず、入国管理機関や受け入れ協同組合組織、企業の雇用の側面が強くあります。地域で外国人が地域住民として共同の生活をしていくという側面からの市町村の役割が極めて不明確です。外国人が地域で暮らしていくうえで、多文化共生社会になっていないのです。
地方の地域活性化にとって、外国人労働者は貴重な人材になっているのです。外国人労働者が人間らしい生活が職場でも保障され、地域の人びとのとの生活共同体の一員になるために、多文化共生の地域社会づくりが求められのです。
外国人労働者や家族の日本語教育推進は、地域活性化のなかに位置づけられるのです。そして、地域で人間らしい生活を外国人ができるために、日本語教育推進があるのです。地方中小都市や農山漁村では、人間らしい生活を保障していくために、地域の学習活動の場として、公民館があります。外国人労働者と家族の日本語教育推進は身近な学習の場での公民館活動に求められているのです。
日本語教育推進法では、財政上の措置をとることが書かれています。国や自治体は、日本語教育機関への補助金支出が責務ということになりかねない。理念ぬきの補助金獲得の競争になる場合もあります。また、外国人実習生や外国人技能労働者の受け入れの問題状況を覆い隠すアルバイづくりのひとつの要因になる危険性をもっています。
国や自治体の責任ということを公立の学校教育や社会教育行政・生涯学習施策のなかで明確に位置づけていくべきです。日本語教育を責任ある実施主体は、教育委員会です。このことを明確にして、各機関との連携が必要になってくるのです。
外国人の子どものため、日本語がわからない児童・生徒の特別教育課程を設置して、責任ある公立の教員配置を行うことが必要なのですが、それは、教育委員会の仕事です。責任主体の不明確のままで、非常勤による「教員」の配置ではないのです。
歴史の教訓は、外国人によって、地域が活性化したことがあった
多文化共生は、歴史の教訓から学ぶことも必要です。450年前に戦国の世の中から大航海時代、天下統一の平和の時代に進んで行きますが、このときに多くの外国人が城主の側近待遇で受け入れられたのです。彼らは、商業や街並みづくり、開墾技術の担い手として活躍したのです。南九州では、そのことが唐人町として、今日まで残っています。その子孫は今日でも地域づくりの担い手として活躍しています。例えば、初代の国分市長になった林家、日本一の焼酎酒造になった江夏家など霧島山麓ではいまだに活躍しているのです。
日本における近代の歴史は、アジアへの植民地獲得に乗り出し、帝国主義政策によって、アジアの人びとと共存共栄をせず、脱アジア、民族排外主義をとりました。隣の朝鮮半島の人々や中国の人々との共生社会ではなく、非人間的な扱いをしたのです。
この歴史は、アジアの人々に日本人は差別意識を強くもったのです。その典型が労働動員、徴用工にみられる強制連行による過酷な労働を強いたことです。いまでも日本は経済大国意識があることによって、アジアの人びとに対する差別意識が残り、近隣諸国から日本の人々は助けられ、共生し、共存共栄していかねば生きていけないことの認識が十分ではないのです。
外国人の日本で暮らす権利としての日本語教育と教員養成の重大性
日本に居住する外国人の様々な生活や労働の問題を直視して、世界人権宣言、ユネスコの学習権、社会権の条約、子どもの権利条約の視点をきちんと踏また分析のうえで、具体的に理念をあきらかにしていくことが必要です。
とくに、日本の国籍をもたない外国人や日本語がわからない日系ブラジル人等の子どもの日本語教育は義務教育を受けるということから特別の意味をもっています。日本語教育推進法は、日本で居住する外国人が日本語教育を受ける権利としての視点もなく、また、外国人に対する教員養成の課題が基本理念のなかに欠けています。
公立学校では責任ある正規の外国人のための日本語教育を推進する教員の配置が求められているのです。その教員養成の制度を国は責任をもってつくっていくことが必要なのです。教員養成は大学におけることを原則にして、その充実を「日本語教育人材育成の養成・研修の在り方」の平成30年3月の文化審議会の報告にもとにしていくべきです。
外国人の国語教育のための教員養成における3つの領域としての社会文化領域、言語領域、教育の領域、5つの区分、社会・文化・地域、言語と社会、言語と心理、言語と教育、言語のカリキュラムも充実させ、科目内容の点検も求められているのです。その科目の教えていく大学教員の資格も当然に不可欠なのです。
大学における教員養成として、国立大学の教育学部等の教員養成大学は大きな役割を果たしていますが、国は積極的に外国人のための国語教育の教員養成の在り方として、大学の重要性を明確にしていないのです。
地方では、国立大学の教育学部の定員削減が大幅に行われていますが、教員養成は、小学校や中学校の従前の枠の定員からではなく、新たな社会的な教員養成の需要から改革をしていくべきです。
社会教育という視点を積極的に考えていけば、教員の人材養成が大幅に求められているのです。外国人のための日本語教育のための教員養成もそのひとつです。それは、外国人の子どもばかりはなく、外国人労働者として働く人々にとって日本語教員の意味もあるのです。
教員養成における担当科目者の審査をきちんと行っていくことが必要です。この意味で、民間の日本語教員養成機関で実施している420時間のカリキュラムの充実も検討すべきです。
日本語教育法を充実していく方向性
重大な欠点をもっている日本語教育推進法でありますが、外国人に対する日本語教育推進の法律がなかったことで、この法律を具体的に現実の外国人の生活や労働で日本語ができないことで、権利が保障されずに、現代的な奴隷的な状況になっていることへの解放につなげていくことが必要です。
法律の目的のなかに、多様な文化を尊重した共生社会を実現するため、諸外国との友好関係のことが記されていることから、この趣旨を深めていくことからの現代的奴隷的状況からの解放に日本語教育の成果が利用することが必要です。日本人との共生連帯、外国人によって助けられている側面での感謝への施策が具体的につくりあげていくことが不可欠です。
日本の少子高齢化のなかで、労働力不足が深刻になり、地域や職場のなかで外国人との生活共同体をつくりあげていくために日本語教育推進があることを明確にしていくべきです。それは、単に、多文化共生ということではないのです。
生活共同体は、日本人も外国人も区別なく、同等に同じ権利をもち、待遇も給与面も同じで共に生きていくことであるのです。外国人の子どもも当然ながら教育を受ける権利を日本の国籍をもつ子どもたちと同様にもっている認識を地域や職場の人々がもっていくことが求められるのです。
このように中小企業の様々な団体が外国人を受け入れるときに、教育事業にとりくむ課題があるのです。このことは外国人労働者を受け入れている農業生産法人も同じことがいえるのです。日本語教育も外国人労働者の能力開発及び向上のなかで積極的に位置づけてキャリアアップしていくことが求められているのです。
外国人の教育を受ける権利の憲法と条約の解釈
憲法26条の解釈で、政府は、外国人の教育を受ける権利は、義務でないとしています。「すべて国民、法律の定めることにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護う子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は無償とする」。
つまり、憲法26条の教育を受ける権利は、人類普遍の人権原理として定められているのです。憲法97条において、基本的人権は、人類普遍の原理で犯すことのできない永久の権利として規定され、憲法98条では、憲法の最高法規のことと、国際条約や国際法規の誠実なる巡視の必要性がのべられているのです。
憲法26条の教育を受ける権利は、人類普遍の原理として日本に居住する外国人にも認められていると解釈すべきです。憲法98条の憲法の最高法規ということと、すべて国民は、日本人のみという解釈で人類普遍の原理という共通内容をもっている条約も無視して、政府は排外主義的な解釈をしているのです。
外国人にとっての特別に学習言語の取得の重要性
外国人の子どもに対する日本語教育は特別の課程が必要なのです。学校で教育を受けるということは、日常生活や職場家庭で会話することばだけではないのです。特別に、それぞれの教科ごとに学習言語があるのです。 理科や数学、社会など、それぞれの知識や知恵を積み重ねていく学習言語があるのです。これは、職場でキャリアアップしていくための資格取得のための日本語教育も同じことです。資格取得していくための学習言語があるのです。
それは、単なる専門用語ということの範疇はもちろんこと、それに至るまでの基礎的なそれぞれの分野の学習言語があることを決して見落としてなならないのです。生活者としての外国人の日本語教育と日本で働いてキャリアアップしていくことが同時にあるのです。
留学生の場合は、それぞれの専門を学ぶために来ているので、その専門性からの学習言語が求められるのです。母国での専門分野の学習がどの程度に取得して、日本で何を学びたいのかを明確にしていく作業があるのです。決して、日本語教育という狭い枠ではなく、青年の興味関心や問題意識、生き方を豊かにしていくことも課題になってくるのです。
日本語の取得にとって、母国の文化や外国人の学習者としての気分や感情、慣習も必要なことです。学習していくうえで、一律的にいかない場面があります。日本語教師として、当然ながら学習者を理解していく国際的な文化を共有していく感覚が求められているのです。
また、日本の文化も加味しての日本語を理解することも大切です。お互いに感情的な側面も含めて共有していくことをどういたら確立していくことができるのか。日本語を教えていく場合にも、日本文化のお年寄りに対して敬うところの丁寧語も必要になってくるのです。介護労働に携わる人であればなおさらです。介護記録重視で翻訳機でまかなうことができないのです。介護は心のふれあいが大切で、そこに日本語の大切さがあるのです。
海外における日本語教育の推進
日本語教育推進法は、日本語教育の機会の拡充の項目をたて、企業への就職の円滑化と現地における日本語教育の持続的な体制整備、日本語教員養成の施策を講ずることをあげていますが、具体的な視点が欠けているのです。
海外における日本文化の関心の高まりに対する日本文化や日本社会の理解の増進のために日本学の研究機関との日本語教育の連携や日本に留学や働きに行きたい青年に対する日本語教育の充実など具体的に問題を深めていき課題があるのです。
また、日系企業などが、その国に進出していく場合に、理解を十分にしてもらうためにも、その地域住民との共生社会を構築していくためにも日本文化の理解や企業の現地での社会貢献の在り方があるのです。
日本に留学したい青年、働きに行きたい青年には、生活者としての日本語能力として、最低の基準として、初等教育段階の日本語の取得が求められているのです。日本文化を言語からも理解できるように丁寧語や生活習慣のことばが必要になってくるのです。日本語の試験もそれらを理解して、読んで書けるような能力をみる工夫が必要になっているのです。
日本語能力試験は、択一式の選択方法だけではなく、書く力をみていく試験の工夫が必要です。技能実習生等の日本に働きにいく場合に、面接において、最初から通訳が入ってすることは適切ではないと考えます。それなりの日本語の初等教育の力をつけての面接が求められるのです。そのうえにたっての詳しいことでわからないことでの通訳です。