社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

一橋大編「渋沢栄一と人づくり」を読んで

 

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

 

 

     一橋大編「渋沢栄一と人づくり」を読んで
       神田 嘉延
 一橋大日本企業研究センター研究叢書「渋沢栄一と人づくり」が有斐閣から2013年に出版されていますが、このたび新一万円札に選ばれた人物になったので、あらためて読みました。
 
 渋沢の唱えた合本主義と人材育成
 
 序論で橘川武郎氏が、渋沢栄一の人づくりに注目する理由をあげています。まず、合本(がっぽん)主義について、社会的資金の動員というお金の問題ではなく、人材を確保することと社会的資金の問題を結びつけていくことをあげているというのです。渋沢栄一は、生涯で「教育・学術」が最大の社会的寄付であったのです。それがなぜであろうかと橘川氏はつめていくのです。
 
 現在は、企業との関係で大学の教育や研究を考えると、産学共同として、国際競争力からの研究開発による特許など個別の利益の問題が出てきます。大学にとって公益性が強く求められているのです。人類的な視点からの社会貢献が大切なのです。渋沢の人材養成論は、公益の観点から現代的にみていくことが本来の彼に対する見方になるのです。また、現代社会の企業や政治家の不祥事が多発という問題があります。社会的退廃問題を克服していくうえで、渋沢栄一の人材養成論から学ぶことが多いのです。
 
 ところで、2008年のリーマンショック以降に、世界経済が危機的状況を呈しています。このようなかで、拝金主義というカネに重心を置く資本主義観に代わって、人を重視する資本主義観の再評価が要請されるようになっています。モラル資本主義ということから渋沢栄一の人づくりに注目したと橘川氏はのべるています。
 
 彼は後進国の工業化にとって人材確保がもっとも大切なことであるというのです。渋沢はこの視点から積極的に評価されるというのが橘川氏の問題提起です。合本主義研究は危機にたつ資本主義のなかで今日的意義をもつというのです。
 
 日本のオープンマーケットの仕組みと商業教育
 
 日本は後発国工業化でありましたが、渋沢をはじめとした人づくりいによって、独自の制度設計ができたのです。それは、しばしばみられる後発国の財閥型とは異なるオープンマーケットモデルをつくりあげたと橘川武郎はのべています。
 
 日本の商業教育機関は、オープンマーケットへの多数の企業経営者が排出したとするのでした。日本の財閥内部でも商業教育機関によって、学卒エリートを中心に優秀な人材が養成されたのです。人材養成なくして、近代産業の発展はなかったのです。日本は学問に裏付けられた職業教育によって、近代の産業発展の優秀な人材養成ができたことを見落としてはならないのです。
 
 合本主義と日本の商業高等教育
 
 島田昌和氏は合本資本主義と高等教育への反映として、東大、早稲田、一橋の支援をあげています。渋沢は非財閥系の多くの会社の創立にかかわり、その発展に貢献しています。その経営手法は、情報を重視して、人的ネットワークによっていることが大きいと島田は分析しているのです。
 非財閥系会社は資本と人材を独自に調達しなければならなっかったことで、第1銀行の頭取として、渋沢がその仕事にかかわったのです。日本の近代産業の発展に多くの中小企業が参加していく基盤があったのです。このことは、広く人材を国民的に求めていったことが大きいのです。
 
 渋沢が考えた合本主義は、欧米の株式会社を原型としますが、本質的に欧米とは異なるのです。渋沢は、民間に公共物をつくるということで、日本的な官尊民卑の克服にあたったのです。官に対して、民の力を蓄え、底上げしていくために私的利潤追求による富の蓄積を必要と考えたのです。この社会的要請の民間パブリックのために、論語を用いたと島田はみたのです。
 
 東京大学卒業生は、民業には名誉がないということで、民業につくことに進路を選ばなかったことから、東大の学長に民業についてもらうために渋沢は談判したのです。ところが、逆に講師を頼まれ、東大で講義することになるのです。
 経済学を空論にしないために、商工業の実情を知るために、銀行の組織を知るべしと講義をしています。銀行制度を通して近代的経営の手法を伝授したのが渋沢でした。近代産業発展のための優秀な人材を積極的に求めた渋沢の活動の様子がわかるのです。
 
 学長の人選をめぐる早稲田大学の紛争と渋沢栄一の調停
 
 渋沢が早稲田に深く関わったのは、1917年の6月から9月までの間、学内の総長をめぐって学内が二分したことで、調停に入ったことです。大隈内閣のもとに文部大臣であった高田早苗をふたたび学長にしようとする動きと、現学長の天野為之を再任しようとすることと紛争が起きたのです。天野は、ミルの自由経済論を信奉し、ジャーナリストとして活躍した人物です。この天野を大隈・高田勢力が失脚させようとしたのです。
 
 渋沢は、明治維新以来大熊重信と親しい関係にあり、人間関係としては、大隈重信高田早苗により近い存在であったのです。しかし、対立した天野為之の商業教育には渋沢の価値観に似たものがあったのです。渋沢は対立する両者から、調停役にもっとも適した人物でした。
 
 大隈の亡くなった後の1922年からの記念事業の後援会長に渋沢がなっています。大講堂建設、新図書館、学生ホール、野球場、プールなど1925年に整備され、渋沢は基金管理委員長としての講演を行っています。さらに、1927年からの演劇博物館建設計画にも渋沢は募金活動の発起人代表になっているのです。
 
 渋沢は、官尊民卑の陋習(ろうしゅう)を矯正するために、学問の民衆的発展を行い、私学を興して経済界に人材を輩出して、国家社会の隆盛をしたと大隈を積極的に評価しているのです。また、この間に、渋沢は、早稲田騒動の後の大学運営の難しいなかで、維持員会に毎月出席して、教員の待遇や施設の改善に財政的支援をするのでした。
 
 渋沢はなぜ東京高等商業学校を持続的に支援したのか

 渋沢は、官尊民卑の克服といいながら、官立になった東京高等商業学校になぜ支援を続けたのであろうか。渋沢は一国の貧富は、商業の盛衰にありと考えました。島田は渋沢の学生へのメッセージの分析から、その鍵は商業に従事する器が必要ということで、商業教育を重視したというのです。現在の商工業者の経営者は学問を応用していないと渋沢はみていた。渋沢は、学問をビジネスに応用することの必要性を持ってが,当時では、その実現のために東京高等商業学校しかなかったというのです。
 
 飯塚陽介氏は、東京高等商業学校への影響力の基盤とその変化についてのべています。教育機関の運営に実業家が関与する正当性がいかなるものであろうか。官立の学校に実業界の渋沢がなぜ指導的な立場になりえたのか。渋沢が教育とは無関係な実業家として、学校運営への関与を正当化する制度に商議委員会制度があったことを飯塚はのべるのです。
 
 文部科学省直轄の実業専門学校に対する諮問する商議委員会メンバーに嘱託された渋沢が、東京高等商業学校の運営に関与できたとするのです。実業学校の商談委員会制度は、1884年に東京商業ではじめて導入されましたが、1900年頃までほとんど実業学校に導入されました。
 
 当時、一般的に実業家による社会事業や教育事業への支援行為が行われていました。事業家が社会貢献していくという社会的環境もあったのです。商談委員会制度によって渋沢の東京高等商業学校への関与は正当化されますが、この制度は1900年以降次第に実行性を失っていきます。
 
 1899年に実業学校令がだされ、商業学校、工業学校、農業学校、実業補習学校の設置が文部省に認められることになったのです。実業学校の設置者は、府県、市町村、産業組合等の組合、私立であったのです。1903年に専門学校の改正がされて、程度の高い実業学校は、専門実業学校になったのです。
 
 1920年には、実業学校の目的に「徳性の涵養」という教育目的が入った改正がだされるのです。これは、1917年から1919年までの従前の教育制度や教育内容を抜本的に改革していくことした臨時教育会議で行われました。すべての分野にわたっての教育改革方策の答申がされました。実業学校の改善方策もだされ、徳性の涵養を教育目的につけ加えたのです。
 
 徳性の涵養には、兵式訓練のための精神主義による国家主義的意味からと、労働運動からの友愛会的解釈とがあります。友愛会の結成は、1912年(明治45年)8月で、労働者の「親睦・相互扶助」、「識見開発・徳性涵養・技術進歩」、「地位改善」を目的に掲げました。渋沢のかかげる道徳経済合一説からの徳性の涵養ということもあり、多義的にとらえることができるのです。
 
 1900年以降に設立された高等専門学校は、商談委員会制度を確認することができないのです。1903年に制定された専門学校令は、一定の基準を文部省が決め、それを遵守することで専門学校としての地位が法定に承認されるということになったのです。
 
 学校ごとの独自性をもって発展してきた実業教育の方針転換が行われたのです。文部省の許認可と教育内容の権限が実業学校でも強まっていくのです。このような状況変化のなかでも、渋沢の東京商業専門学校の学校運営における影響力・指導性を持ち続けたという特殊性があったと飯塚はのべるのです。
 
 東京高等商業学校の大学昇格への運動
 
 1900年以降に東京高等商業学校を大学にしようとする運動が起きます。そのけ結実として、1907年に国会に商科大学設置建議案が提出され、可決されます。しかし、文部科学省は東京帝大との関係を考慮して、東京帝大内に経済学科を設置し、東京高等商業学校の専攻部の廃止ということで対応するのでした。
 
  東京高等商業学校の教官や同窓会は、東京商科大学の設置の要望でした。文部省は、その要望を再三拒否をするのでした。そして、文部省は、帝大内に商科設置と東京高等商業学校の専攻部の廃止の決定をするのでした。
 
 この決定に、高等商業学校学生の抗議が起きます。抗議の激しい高まりは、1907年に学生大会で学生総退学ということになるのでした。東京商工会議所や渋沢たちも、その解決にむけて奔走します。渋沢は商談委員の立場を利用しての文部省に抗議をし、文部大臣に東京帝大の商科併置を撤回するように具申するのでした。
 渋沢の行動によって、学生の復学と専攻部存続の決定がされて、事態は解決するのでした。1919年4月から大学令が施行されて、東京商科大学が誕生するのでした。同時に、多くの私立大学が設立されていくのです。
 
 東京高等商業学校の大学昇格問題に対する渋沢の東京高等商業学校の影響力は、同窓会と渋沢の邸宅に寝起きしていた書生の竜門会のメンバーの人的な関係であったのです。この書生たちは、独自に渋沢の思想に共鳴して、勉強会を組織していました。すでに存在していた学友会にも影響力をもっていたのです。
 
 また、同窓会にも影響力を竜門会はもったのです。飯塚氏は、渋沢が東京高等商業学校での持続的な影響力を行使できたのは、竜門会などの強い人的なネットワークであるとしているのです。渋沢の人間的な影響力が書生たちからの人脈によって、強い社会的な力になったのです。
 
 渋沢栄一の東京高等商業学校での講話内容
 
 渋沢は東京高等商業学校でどのような講話をしたのでしょうか。渋沢の道徳経済合一論の真意はどこにあったのでしょうか。この問題について、田中一弘氏は、東京高等商業学校での卒業式の講話(1885年45才から1915年75才の14回)と77才から80才までの修身特別講義の分析から明らかにしています。
 
 講話では第1に、旧幕藩時代からの商業者が社会から低くみられている状況のなかで、その地位を高め、優秀な人材が商業に寄りつくようにしたのです。このために、その名誉と使命を訴え、商業と商業者の社会的地位の向上を強調したのでした。
 第2に、渋沢は、学問に裏打ちされた実務能力の必要性を重視したのです。そして、第3に、商業道徳の力説でした。商業道徳がなければ永続性もなく、社会に害をあたえるということです。
 
 道徳経済論は、商業の活力と健全さの根拠になるというのです。経済に道徳価値を与えることによって、商業に従事する人々に自信と使命感を与え、活力を生み出すというのです。そして、道徳は経済を妨げるのではなく、むしろ経済が健全に機能するというのです。
 
 商業活動が蔑視されてきたことは、不正に富を獲得してきたことがあったからです。経済活動に道徳が不可欠になることによって、商業に従事する人々が社会的に評価されて自信をもって、経済に活力を与える活動が出来るとしたのです。経世済民ということは、民間の事業活動こそが担い手になると渋沢は考えた。田中一弘氏はこのようにのべるのです。
 
 学問に裏打ちされた商業活動は、高い実務能力をもち、商工業を発展させることによって、社会的に評価されていくと考えていたのです。つまり、そこでは、旧来の習慣に基づく商業とのせめぎ合いになるのです。理屈は高尚だが、実際に役にたたないということでは、学校の存在の意義が問われるのです。商業者として利益が出るような学問に裏打ちされた実務能力をもたねばならないとしているのです。
 
 渋沢が本格的に道徳経済合一説を主張した時期
 
 渋沢が道徳経済合一説を明示したのは、69才のときです。1909年の竜門社の社則改定のときであったのです。それから、5年後の1914年の東京高等商業卒業式の講話で、利益にのみに走るのではなく、仁義道徳と利殖の一致をのべているのです。このとき、渋沢が74才です。この前年に、大学昇格問題をめぐっての文部省と東京高等商業学校との紛争により、学生総退学という問題が起きています。
 
 東京高等商業学校の創立40周年で、渋沢75才のときの講話では、商業の地位向上を喜ぶと同時に、利益のみに走る実業界に道徳欠如に憂えています。そこでは、商業教育における仁義道徳の必要性を強調したのです。渋沢は1917年から1919年に修身特別講義を東京高等商業学校でするのでした。それは、道徳と経済の一致、知識と道徳の密着という講義をするためでした。
 
 渋沢の私立商業学校と官立商業学校の支援
 
 渋沢は、私立の商業学校の卒業式に講話をするなどの関与をしたのです。1903年の専門学校令によって、私立の高等商業学校が生まれたのです。商業教育の体系は、実業補習学校、商業学校、高等商業学校になるのでした。渋沢は、私立京華商業学校、私立大倉商業学校、高千穂高等商業学校等の卒業式に講話をしています。
 
 さらに、渋沢は官立の名古屋商業学校や横浜中等商業学校の支援をしているのです。1918年に名古屋商業学校では、商業教育の必要に高尚なる人格養成の必要性を説いているのです。
 
 1910年に横浜商業学校の講話では、アメリカのビジネススクールを事例に、商工業者は秩序ある教育をうけていることを紹介しています。そこでは、学問と常識の融合、精神修養を怠らないように生徒達に講話しているのです。渋沢が広く商業学校の発展の気持ちをもっていたことは、私立の商業学校での講話や官立の中等教育学校の講話をしていたことからも伺うことができます。
 
 渋沢の商工業の人材育成を大学や中等教育に求めたことは、個別の企業と大学の利益の関係ではなく、社会的に人類的課題のなかで、学問の自由、教育の自由を大切にしていくことが必要であったからです。
 現代のように産学連携が盛んにいわれ、科学技術の立国論がいわれることが国際競争力という個別の企業利益重視ということではないのです。このことについて、平成15年4月の新時代の産学官連携の構築に向けての審議会のまとめが大切な視点を問題提起しています。
 
 これは、科学技術・学術審議会、技術・研究基盤部会、産学官連携推進委員会の合同審議会のまとめです。科学技術立国ををめざす産学官の構築にむけての答申です。大学の使命のなかに、学術研究の推進や高度の人材養成と同時に、社会的貢献のなかでの産学官連携の推進をうたっています。
 
 大学の社会的貢献は、大学の知的財産の国民への還元ということからの生涯学習的機能をもっています。国民的な還元というなかで、科学技術創造立国をめざす産学官連携という独自の課題をうちだしたのです。大学の使命としての社会的貢献は、地域コミュニティや福祉・環境問題といったより広い意味での社会全体の発展への寄与です。

 また、産学官連携の推進において、人材養成・活用面を審議会は重視したのです。産学連携は、大学の公共性という性格と、企業の私的利益性からの矛盾の問題をどう統一していくかということです。
 
 大学は、教育や研究を通じて広く社会の発展に貢献することを本質的な役割をもち、公共性の高い機関です。一方、企業の本質的な行動原理は私的経済利益の追求です。教職員が企業との関係で有する利益や責務が大学における教育・研究上の責務と衝突する状況が産学連携のなかで生じ得るのです。このような状況が「利益相反」「責務相反」と言われるものです。
 
 答申では、教育を受ける学生の学問の探究の自由性、学問の選択の自由という教育面の最大限の配慮を強調しています。産官学連携活動の重視によって、学生の教育を受ける権利の侵害、学問の選択の自由がおろそかになれば、大学としての大きな問題です。産官学連携は学生教育の充実という側面から問題を深めていく課題があるのです。
 
 渋沢の女子教育の奨励理念

    渋沢は、日本女子大学校に対する支持と尽力を積極的にしたと山内雄気氏はのべるのです。1888年に士族や貴族の子女を対象に東京女学館の創立にかわわりました。そして、1901年に大衆の子女を対象とする日本女子大学校の設立と運営にかかわったのです。
 
 渋沢の女子教育の理念は、女性の社会進出のためではなく、家庭と西洋式の家庭外の活動をしていく良妻賢母であったのです。渋沢は女子教育普及のために各地に寄付金を募る巡行の講演をしています。現代にみる女性の社会進出ということが家庭外の活動に限られていたということで、積極的に専門性をもって職業に携わるものではなかったのです。
 
 徳川家達渋沢栄一らを中心に1919年に設立した協調会は、 労働者学校として社会政策講習所と労働学院を開設しています。この労働者教育と渋沢がどのようなかかわりがあったのか、友愛会を創立した鈴木文治との関係も含めて、渋沢の人づくりという側面を労働者教育から深めていく課題があります。
  このなかで、労働者の権利問題としての労働組合員、団体交渉権の問題、さらに失業問題や貧困問題なども含めて、みていくことが必要です。当時の大正デモクラシーのなかでの労働運動や農民運動などの関連も含めて考えていむ課題があるのです。また、日本が植民地にしていった朝鮮半島や台湾の問題も資本主義の道徳問題、論語と算盤としては大切な課題なのです。