「外国人労働者と生き生き地域づくり」
はじめに
日本の社会の発展の画期には、古代から中世、そして、近代にかけて外国人雇用に大きな飛躍をとげてきた。
現代日本の外国人労働者の扱いは、安価な単純労働者として、きつい労働現場で長時間にわたって働かさている現状が多い。
日本は深刻な労働力不足で、外国人労働者によって大いにたすけられています。むしろ、感謝すべき外国人労働者であるが、差別的な待遇になっています。
西郷隆盛は遺訓において、150年前に文明とはなにかとのべています。慈愛の心をもって、開明をとくとくと説得していくことであるとしているのです。この意味で、西洋は、途上国に対して、むごく残念なふるまいをしているので、野蛮な国として断罪しています。(西洋の刑法は、苛酷なみせしめや制裁的ではなく、もっぱら罪の重さを悟らせて善良に導くと西郷は、評価しています)。
現代日本の多くのが外国人労働者を低賃金で長時間、さらに多額な借金を作り出す、中間の斡旋・管理団体のしくみは日本の野蛮なしくみといわざるをえません。
日本の未来を考えるうえで、過去の日本の歩んできた外国人雇用から教訓を得て、日本が歴史的に積み重ねてきた助け合いの精神、共同の働き方、自然を敬う心が、途上国の人びとには強くのこっており、そこから深く学ぶ必要があると思っています。
外国人労働者は、異なる文化、異なる風俗からやってきた人々です。日本は古代から異なる風習、慣習、異なる信仰など、様々な文化を受け入れて、複合的な文化を日本の自然的な条件に融合させて、和の文化として発展してきた国です。
話し合は、大変に重視するのが日本の伝統的な民族性です。単純にAにするかBにするかという選択制をとらないで、話し合いによって、様々な矛盾を解決してきたのです。矛盾をそのままにして、選択制にして、多数決にゆだねるならば、少数者に対して、むごく残忍な野蛮なふるまいになるのです。
明治になって、中央集権化と、国家神道ということで、徹底した中央からの単一の見方がおしつけられました。日本の伝統的な異なる考え方の共存・共生と話し合い、神仏混合にみられる複合性による包括的文化、包容力をもっていた民族性は消えていったのです。
為政者によって、近世時代のキリスト教や南九州における浄土真宗は、厳しい弾圧をうけました。しかし、民衆のなかでは、弾圧された信仰でも、共感したものは支えて、それぞれ生きのびるのに助けたのです。この結果、弾圧された宗教も、地域の暮らしに根強く根づいて継続的に存在していたのです。
現代の日本における課題と新たなに未来への挑戦
日本は、少子高齢化の大きな矛盾をかかえています。とくに、地方など深刻な労働力不足で経済もまわらない状況が出ています。とくに、農業分野は、深刻です。また、中小企業分野も労働力不足に悩んでいます。
農林漁業は、命の源になる食糧と新たな工業資源を生産してくれます。新しい地域循環の持続可能な社会をつくっていくうえで、セルロースナノファイバー技術による工業分野の資源を提供していくものです。
エネルギーも自然の力に依存してのバイオマス発電、豊かな水を確保するための天然の貯水湖も果たしてくれます。南九州の地域では竹や木材を利用しての新たなセルロースナノテクテクファイバーの技術に挑戦している企業も生まれています。自動車の原材料を木材から鉱物資源の5分の1の軽さで丈夫な炭素繊維技術による鋼鉄に代わるものを作り上げているのです。
屋久杉の廃材をプラスチックの子供の動物のおもちゃに代えてセルロースナノナノテクの技術でなめても大丈夫と健康にやさしい動物おもちゃをつくっています。また、竹を利用してプラスチックに代わる店の料理メニュー案内に変えています。人類史的な大きな科学技術の飛躍的な発展からの産業革命が現在起きているのです。
原子力発電は、持続可能な循環経済という視点からは、極めて古いエネルギー発電であるのです。地域を発展させるためには、新しい未来に向かって、再生可能なエネルギーに転換していく社会をつくっていくことが必要なのです。
また、電気を効率的に利用できる省エネルギーの科学技術も発展しているのです。地域循環的な発電供給網のシステムができれば一挙に省エネルギーができるのです。
住宅やビル、工場の合理的な省エネ建築材やペロブスカイト方式による建築物そのものが発電になっていくことなど、今後の地域循環型のエネルギーの仕組みの大きな可能性をもっているのです。この原料は、日本に大量にあるヨウ素なのです。
すぐには完全に実現できなくなくとも一歩一歩と築いていくことです。まずは古い原発ではなく、未来へのエネルギー発電をめざすことからはじめることです。
未来社会への実現には、多くの優秀な若い人材が必要なのです。絶対的な労働力不足の状況ではさまざまな分野で活躍してもらえる人材養成は、不可能です。
未来への人材養成と外国人労働者
未来社会の創造は、特定分野の専門家の養成では不可能です。総合的に人材養成をしていくことが求められているのです。狭い範囲での人材からではなく、広く文化も、発想も異なる人々の集団的叡智によって達成することができるのです。
現代社会は、分業化が進み、特定の狭い専門分野が重宝されます。AIの発達によって、決まりきった特定分野の機械的な仕事は人間的な労働から離れていくのです。未来社会に求められる養成は、人間的な労働になっているのです。
ここで、人間的な労働とはなにかということが問われてくるのです。それは、総合的な視野からの創造性、人間的な細やかな感性、協働性が強く求められていくのです。共に、学び、共に創造していくことが必要な時代になっていくのです。人間的な感性をも含めてのコミュニュケーション能力は極めて大切になってくるのです。このことから言語の共有は極めて大切なのです。
若い外国人労働者は、貴重な人材です。外国人の青年と共に、未来社会に向けての養成も共生の文化という視点から創造的なものが生まれてくるのです。共に学び、創造していくためには、最も大切なことで、自由に心から話し合えることが必要で、言語の共通性は、極めて大切なのです。閉鎖的な、保守的な思考の脱皮からも異文化による共生社会を地域の暮らしのレベルで作り上げていくことが必要なのです。
異なる価値観、異なる文化、異なる風俗、異なる年齢層、異なる階層を包摂して、人類の地域循環型の持続可能な未来社会に向けての大きな目的によっての統一性が必要なのです。多様性、包摂性、協同性の共に生きていくことをもつことが、その民族や国家を発展させるのです。そのことは世界の歴史が証明しています。
ここには、対話、話し合い、相互理解と相互協力という協働の営みによる創造が求められるのです。それがないところは争いに発展して、ひどいときは戦争という殺しあいになっていくのです。
海洋文化、農耕文化、森林文化の複合的日本の民族性
南九州は、日本の歴史文化の海洋国家としての異文化の人々との交易によるさまざまな価値や文化を包み込み、独自に発展させてきたものがたくさんあります。
鹿児島の遺跡からは中国や東南アジアの交易品が多数発見されています。また、外国人が住んでいた地域名が残っています。海を通して開かれて、話し合いの文化が南九州にあったのです。
これは沖縄も同様です。とくに直接中国や東南アジアと交易をしていた沖縄は強いものがあります。しかし、沖縄は、日本国から、アメリカから、日本の米軍基地7割ということで、差別されている地方になっています。日本の地方も全体的に過疎化が進み、大きな意味で日米の新自由主義経済の犠牲にされています。
日本の歴史文化発展、経済や科学技術の発展には海洋国家の側面からの要因が大きくあります。また、自然災害も頻繁に起きています。しかし、豊かな自然の要因もあったのです。
日本文化には常に、自然災害が襲ってくるので、その警戒をもって、自然に対する畏敬と自然もみる観察力・洞察力があったのです。実生活に密着した科学技術の発展、創造的な工夫、職人的気質の発展も、このようななかで育ってきたのだと考えられます。
歴史の教訓は、外国人によって、地域が活性化したことがあったのです。多文化共生は、歴史の教訓から学ぶことも必要です。450年前に戦国時代から大航海時代、天下統一の平和の時代に進んで行きますが、このときに多くの外国人が城主の側近待遇で受け入れられたのです。
彼らは、商業や街並みづくり、開墾技術の担い手として活躍したのです。南九州では、そのことが唐人町として、今日まで残っています。その子孫は今日でも地域づくりの担い手として活躍しています。例えば、初代の国分市長になった林家、日本一の焼酎酒造になった江夏家など霧島山麓ではいまだに活躍しているのです。
日本における近代の歴史は、アジアへの植民地獲得に乗り出し、帝国主義政策によって、アジアの人びとと共存共栄をせず、脱アジア、民族排外主義をとりました。隣の朝鮮半島の人々や中国の人々との共生社会ではなく、非人間的な扱いをしたのです。
この歴史は、アジアの人々にたいして、日本人が差別意識を強くもったあらわれです。その典型が労働動員、徴用工にみられる強制連行による過酷な労働を強いたことです。いまでも日本は経済大国意識があることによって、アジアの人びとに対する差別意識が残っています。ここでは、近隣諸国から日本の人々は助けられ、共生し、共存共栄していかねば生きていけないことの認識がないのです。
日本の近代化のなかで、廃仏毀釈や国家神道は、多様性、包容性を否定していくことが、為政者によって進められ、軍国主義体制を築き、第二次世界大戦の悲劇を招いたのです。
戦後は、平和憲法のもとに主権在民、自由と民主主義、人間の尊厳から社会権を保障したのです。このもとで、日本は、戦後著しい経済発展を遂げたのです。
しかし、アメリカ的な新自由主義の横行によって、弱肉強食の競争によって、格差が極端に広がり、新自由主義的な能力主義によって日本のもっていた支え合いの社会、多様性や包摂性、協同性の文化が衰退したのです。この結果は、経済が停滞し、少子高齢化の社会になったのです。外国人労働者の、それぞれの助け合い、相互協力、話し合いの民族の文化から学ぶべきものがあるのです。
現実の外国人労働者は、厳しいものがあります。外国人労働者の実態は、低賃金と過酷な労働 過大な借金と騙される現実です。
斡旋する中間期間の問題で苦しんでいる外国人労働者の問題がマスコミで大きく報道される今日です。これらは、一部であると思いますが、日本語が全くわからず日本で働く外国人労働者が多いのが現実です。優れた人材の可能性をもっている異文化の貴重な日本の未来への人材確保にとっても大きなマイナスです。
地方の中小企業・農業の深刻な労働力不足
地方の中小企業・農業業生産法人の深刻な労働力不足問題をかかえています。地方経済は、労働力不足で深刻な状況にたたされています。2024年度の中小企業の倒産数は、2024年度1万件を越える状況です。
中小企業基盤整備機構は、全国の中小企業の経営者を対象に「人手不足に関する中小企業への影響と対応状況」というアンケートを実施しました。その結果、73%もの企業が人手不足を感じていると回答しています。また、データによるとその半数以上が深刻な課題であると回答していることがわかりました。
人手不足ということで、倒産するところが生まれているのです。長期の人手不足は離職者を増やします。人手が足りないと、社員の業務負担が大きくなるものです。長時間労働を招きやすいのです。社員のストレスや疲労がたまっていきます。労働力不足は、離職につながるリスクがあるのです。
そして、ブラック企業と称されて、社員募集をしてもなかなか集まらないのです。根本的には、働く人びとが楽しく、生きがいをもって、自分の働いた価値をしっかりと認められる賃金の保障と、家族との生活や自由な余暇が保障される労働時間短縮が求められているのです。それには、安定的な労働力の確保が不可欠なのです。
これらには、現実の労働力不足のなかで、魅力ある職場づくりとして、業務や事業規模の見直しが迫られていくのです。これらが、実施しなければ地域経済の衰退にもつながっていきます。
外国人労働者の数実態
日本における外国人労働者数(2023年10月末時点)は204万8,675人となり、過去最高を更新。外国人労働者数を国籍別にみると、ベトナムが最も多く51万8,364人(前年比12.1%増)で、全体の4分の1を占めている。次いで、中国39万7,918人(3.1%増)、フィリピン22万6,846人(10.1%増)。
鹿児島県は、現在全国で第32位、9,900人の外国人労働者数が届け出をしています。雇用事業所数では全国で第27位の2,048事業所です。全国的な流れとして毎年外国人労働者数は伸びており、鹿児島県でも前年同期比11.5%増加しています。事業所数も前年同期比10.0%増となり、過去最高を更新しています。
「技能実習」が最も多く5,220人(構成比52.7%)、次いで「専門的・技術的分野の在留資格」2,584人(同26.1%)、「身分に基づく在留資格」1,401人(同14.2%)の順となっています。対前年増加数および増加率は、「専門的・技術的分野の在留資格」は1,200人(86.7%)の増加、「資格外活動(留学を含む)」は100人(25.9%)の増加を示した一方で、「技能実習」は274人(5.0%)の減少となっています。
日本語のできない問題状況を直視して、外国人の教育を充実
日本で暮らす外国人労働者と共生していくには、外国人の日本語教育が不可欠です。2019年6月21日に日本語教育推進法が国会を通過しました。この法律は、日本に居住する外国人が日常生活や社会生活を円滑に営むことができるように、国と自治体、事業主の責務を明らかにするための法律です。しかし、内容は抽象的です。
本来、教育事業は、文部科学省や教育委員会が管轄する部署であるはずですが、そのことさえ明確にされておらず、連携の強化という抽象的なことで、実施の責任主体があいまいで、関係省庁間、日本語教育を行う機関との体制の整備ということが書かれているのみです。
日本語教育機関で学ぶ外国人の生活問題が大きくあるのです。実際に、日本の日本語学校では、アルバイトに追われ、授業に集中できないことや学校にもこない「留学生」も数多くいるのです。これらは、甘い言葉をかけられて安易に日本への留学をしていることで起こることです。これは、大学での日本語別科や研修生などにもみられるのです。
社会問題になった東京福祉大がその典型です。日本語がわからず、日本の法律制度も理解できずに、甘い言葉をかけられてだまされて働いている外国人労働者も少なくありません。多額な借金をして、日本に働きにくる外国人労働者は、悪徳中間業者にだまされているのです。
日本の現実は、予定していた時間あたりの賃金は低いのです。借金を返すため、本国の家族に仕送りをするため、将来の準備のためと、残業をせざるをえないのです。結果的に長時間労働になっていくのです。さらに、労働環境も悪く、また準備された生活のアパートも劣悪で、馬小屋を改造しての牧場のなかでの全く寂しい宿泊所を提供されている場合さえあります。
日本で過酷な労働や生活で死に至る外国人のケースもあります。自分の意志を表現できずに、訴えるすべもわからず死んでいった外国人労働者の現実を直視しなければなりません。日本語がわからないことがいかに過酷なことであるのかを知る必要があるのです。人権を守ることは、コミュニケーション能力を保障することです。日本語教育の推進は、外国人労働者や留学生の人権を守っていくことなのです。
少なくとも本国での初級段階を達成して日本で中級程度の日本語教育を受けられる国際的な連携体制をつくるべきです。日本語教育は、送り出す国での連携的な教育が重要なのです。日本語がまったくできないことで留学生や外国人技能実習生・外国人技能労働者を受け入れることに問題が大きいのです。この問題点を十分に認識しての市町村の責務があるのです。
日本語教育推進での市町村の社会教育と学校教育の役割
外国人労働者や家族の日本語教育推進は、市町村自治体の責務としての社会教育や学校教育の役割が大きくあるのです。地方の労働力不足のなかで、市町村自治体の地域振興計画のなかに外国人労働者の受け入れを考えなければならない時代です。
現行制度では、外国人の受け入れについて、市町村の責務が明らかにされておらず、入国管理機関や受け入れ協同組合組織、企業の雇用の側面が強くあります。地域で外国人が地域住民として共同の生活をしていくという側面からの市町村の役割が極めて不明確です。外国人が地域で暮らしていくうえで、多文化共生社会になっていないのです。
地方の地域活性化にとって、外国人労働者は貴重な人材になっているのです。外国人労働者が人間らしい生活が職場でも保障され、地域の人びとのとの生活共同体の一員になるために、多文化共生の地域社会づくりが求められるのです。
外国人労働者や家族の日本語教育推進は、地域活性化のなかに位置づけられるのです。そして、地域で人間らしい生活を外国人ができるために、日本語教育推進があるのです。地方中小都市や農山漁村では、人間らしい生活を保障していくために、地域の学習活動の場として、公民館があります。外国人労働者と家族の日本語教育推進は身近な学習の場での公民館活動に求められているのです。
日本語教育推進法では、財政上の措置をとることが書かれています。国や自治体は、日本語教育機関への補助金支出が責務ということになりかねない。理念ぬきの補助金獲得の競争になる場合もあります。また、外国人実習生や外国人技能労働者の受け入れの問題状況を覆い隠すアルバイづくりのひとつの要因になる危険性をもっています。
日本語教育を充実していく方向性
重大な欠点をもっている日本語教育推進法でありますが、外国人に対する日本語教育推進の法律がなかったことで、この法律を具体的に現実の外国人の生活や労働で日本語ができないことで、権利が保障されずに、現代的な奴隷的な状況になっていることへの解放につなげていくことが必要です。
法律の目的のなかに、多様な文化を尊重した共生社会を実現するため、諸外国との友好関係のことが記されていることから、この趣旨を深めていくことからの現代的奴隷的状況からの解放に日本語教育の成果を利用することが必要です。日本人との共生連帯、外国人によって助けられている側面での感謝への施策が具体的につくりあげていくことが不可欠です。
日本の少子高齢化のなかで、労働力不足が深刻になり、地域や職場のなかで外国人との生活共同体をつくりあげていくために日本語教育推進があることを明確にしていくべきです。それは、単に、多文化共生ということではないのです。
生活共同体は、日本人も外国人も区別なく、同等に同じ権利をもち、待遇も給与面も同じで共に生きていくことで必要であるのです。外国人の子どもも当然ながら教育を受ける権利を日本の国籍をもつ子どもたちと同様にもっているのです。この認識を地域や職場の人々がもっていくことが求められるのです。
このように中小企業の様々な団体が外国人を受け入れるときに、教育事業にとりくむ課題があるのです。このことは外国人労働者を受け入れている農業生産法人も同じことがいえるのです。日本語教育も外国人労働者の能力開発及び向上のなかで積極的に位置づけてキャリアアップしていくことが求められているのです。