社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

幕末維新期の議会主義と立憲主義

幕末維新期の議会主義と為政者の権力を縛る憲法を考える
                    神田 嘉延

 安井息軒は、近代日本の法治国家への素地をつくった思想家

 現代日本は、立憲主義が大きく問われている時代です。また、法と道徳の結びつきも為政者と民との関係で大きな課題となっていいます。徳治主義法治主義は対立するのではなく、民のため、仁政に、法があることを忘れてならないのです。
  法は統治手段、権力を握るためのものではないのです。法のルールを、どうして人間社会はつくってきたのでしょうか。東洋と西洋との違いはどうであったのか。安井息軒から考えてみましょう。
 安井息軒の政務論は、民のために法を大切にする論です。つまり、法というのは、為政者の統治手段ではないのです。民のために為政者は尽くすということが、政治の本来の姿だというのです。民との関係で法のルールは存在する。
 安井息軒は、法整備を政策綱領として重視しました。法制を整備するのは、衣食住の3つを首として、冠婚葬祭の四礼より始めるべしと考えています。「限りある有限の財を以て、無限の欲を奉ずれば、天下の冨を以て、人を養うとも窮することになり、倹約は礼に及ばざる」という考えを呈するのです。法整備は、為政者の欲を抑え、有限の財を民の衣食住という暮らしのために活用していくことにあるのです。
  また、投機や贅沢を謳歌するところの商業活動、商家に冨が集中することを抑制する政策を力説したのでした。そして、質素倹約は大切にすべきとするのです。農業の奨励として、飫肥藩では二期作や養蚕の研究を書物にまとめています。人びとの敬老への取り組みも実践したのでした。

 教育者としての安井息軒

   安井息軒は、生涯で、教育者として、多くの人を育てています。清武の明教堂、飫肥の振徳堂、そして、40才以降から晩年までの江戸での三計塾、昌平坂学問所で、多くの人材を育てています。土佐藩出身で、後の陸軍中将・農商務相の谷干城(たてき)や紀州藩の後の外務大臣陸奥宗光は、三計塾の開設してから20年後の塾生です。谷は1859年に入塾し、三年間の学びでした。
 安井息軒の教育方針は、谷の三計塾の記録からわかります。そこでの教育は、自由に勉学がおこなわれていたのです。学科は、息軒の講義と息軒の参加のもとでの古典等の表会、現代的にいえばゼミナールです。
 また、塾生自身の勉強会の内会と2つの会読からなっていました。講義の出席は自由で欠席も容認されていました。
  しかし、ゼミナール形式の表会の欠席は許されなかったのです。塾外での教育として、親しい友人達を集めての「文社」の活動がありました。しばしば時事におよぶこともあったのです。息軒自身も文社をつくって当時の学者達と交流をはかっています。学派や形式にとらわれない学問的態度で息軒の三計塾の教育が行われていたことは特記するところです。この文社の活動は、社会的に大きな影響を与えたのです。

三計塾で学んだ谷・陸奥・小倉と西郷隆盛による議会制度の構想

 三計塾から議会主義を志向する多くの人材が育っています。谷は、土佐を代表する志士で薩摩と土佐の盟約を結ぶ場に列席しているのです。西郷隆盛との日本の国の未来像の盟約を結ぶのです。
  その内容は、議会制民主主義を展望したものでした。大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきであるという公議政体論論からです。上院と下院に議事院を分け、議員は公卿から諸侯、庶民に至るまで正義のものを選挙し、弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球に恥じない国体を建てるということで、人類的理想を模索したのです。また、議事にあたる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うということで、公議には、私欲を挟まないという原則をたてたのです。
  この盟約は薩長同盟によって挫折します。維新の新政府はこの盟約を部分的に取り入れて、公議所集議院の制度を取りいれるのでしたが、機能せずに薩長藩閥政府、官僚独裁専制政府になっていくのでした。

  陸奥宗光は、江戸に出て、三計塾で学びますが、坂本龍馬の人間的な魅力、包括力にほれこみ海援隊に加わります。陸奥は、明治新政府では、外国事務局御用掛、岩倉具視一行の欧米視察に同行しています。明治8年憲法制定のための元老院幹事に任命されて、立憲主義の国家体制の模索をします。
 明治10年2月の西南戦争が勃発しますが、陸奥は、土佐立志系の林有三、大江卓とともに政府転覆を企てたということで逮捕投獄されるのです。陸奥には、大久保をはじとする薩長藩閥政府に対する政権独占からの不満が強くあったのです。
  陸奥は、4年4ケ月間の獄中生活から解放されて、1年9ケ月間、ヨーロッパに留学するのでした。帰国後に外務省に雇われ、駐米大使、農商務大臣、外務大臣などの要職を務めます。陸奥はヨーロッパからの帰国当時の明治19年憲法論を書いていますが、憲法と国会組織は分離すべきで、憲法は根本法で、国会は時代の変化に応じて変更していくという考えをもっていました。

 小倉処平は、江戸の三計塾で学び、飫肥藩に洋学を学ぶ必要性を提言して、長崎留学3名を実現させました。その一人が後の外相となる小村寿太郎です。そして、東京の大学南校に進学させるのでした。処平は、英国の租税年表や地方条例を翻訳して、明治4年に欧米に留学するのでした。処平は、江藤新平西郷隆盛に会い、鹿児島から飫肥に逃亡したときに、船を出して土佐に逃れるのに手伝っています。西南戦争のときは、飫肥隊として400名の総指揮官として西郷軍に参加したのです。

維新新政府の万機公論と議会主義

 維新政府は、「広く会議を起こして万機公論の決す」の制度設計をしたのです。
 五箇条の御誓文は、明治新政府の基本方針でありました。明治元年の6月に15条からなる政体書が発布され、立法、行政、司法の三権分立、参与6名、六官知事・副知事などの官吏の公選(4年任期・半数交代)などがだされたのです。

  公選は、3等官以上(9等まであった)以上の投票で決まられて、明治2年5月にはじめて実施されました。実際は、維新政府の勢力の各藩均衡の役割を果たしまた。この公選は一度しか行われていません。広く会議を興し万機公論に決すということでの公議所の機能は、明治6年10月の政変によってなくなっていくのでした。

  幕末の議会主義の構想は、坂本龍馬船中八策、上田藩士の赤松小三郎による越前、薩摩、幕府への「御改正口上書」、会津山本覚馬の「菅見」、横井小楠の貿易振興による世界兄弟論・議院内閣制の建白書などがありました。
議会政治、立憲主義の見方は、すでに、日本の幕末の体制変革を唱える志士や思想家にあったのです。藩の枠を越えての日本という国のあり方を考えていたのです。
  現実には、薩摩と長州を中心とした武力倒幕と絶対主義的、軍事的な中央集権の明治政府になったのです。議会主義を重視した赤松小三郎、坂本龍馬横井小楠は、テロにあって暗殺されています。また、日本の伝統的な話し合いの合意文化や神仏混合文化が廃仏毀釈によって破壊されます。武士の仁、義、礼、智、誠から謀略、金権、軍閥が幅をきかしていくのです。議会主義、話し合い文化、多様な価値を認め合う面から明治維新の負の側面があったことを見落としてならないのです。

  武力倒幕の進行のなかで、官軍の江戸への円満なる進行、江戸城無血開城など新政府の移行があった面もあります。明治維新によって、長期による内乱で国が二分されることがなかったのです。安政条約という不平等条約が結ばれたが、幕藩体制が崩壊して、統一した国家が生まれたことによって、列強諸国の植民地支配にならなかった大きな理由のひとつでもあったのです。

西郷隆盛と議会主義の国家像

  西郷は、すでに薩摩と土佐の盟約が結ばれた1867年6月の翌月にイギリス人のアーネスト・サトウと2回の会談をもっています。そこで、西郷は「国民議会」の構想を語ったことが、サトウの証言から記録に残っています。サトウは、それは狂気じみた考えであったとしています。
「現在の大君政府の代わりに国民議会を設立すべきであると言って、大いに論じた」「これは狂気じみた考えのように思われた」「西郷は政府は大坂と兵庫の貿易の全部を日本人豪商20名から成る組合の手にゆだねて、自らこれを独占する計画をたてていることを私に漏らした。・・・この情報が長官の耳に入るや、彼は烈火のようにおこって、直ちに首席閣老に会い、この計画を放棄することを主張した」アーネースト・サトウ「一外交官の見た明治維新(下)」岩波より

 薩土盟約は、議会主義による国をつくる内容でありました。薩土盟約では、大政を朝廷に奉還し、上下の議事院を建立し、下院は、陪臣庶民に至るまで正義純粋の者を選挙し、上院は諸侯とする案でした。朝廷の制度も弊風を一新改革して地球上に恥じない国の姿を建てるとしたのでした。諸侯会議を開いて、人民共和をめざして万国に恥じないような国体を薩摩と土佐の盟約にしたのでした。

薩摩と土佐盟約の議会主義が崩れた背景

  西郷自身も同じ年の5月に、島津久光への建白書でも政権は天朝に帰し、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に、朝廷を補佐し、天下の公議を以て統治を行うようにと提言しているのです。ここでも公議の問題が大切なことになっています。つまり、ここでは、天皇を利用した絶対主義的国家、有司専制の官僚的な独裁国家による経済的な近代化を考えていたのではないのです。

 この薩土摩盟約の結果、京都の大久保邸で武力倒幕の会合をした長州の品川弥三郎、山形有朋との約束であった西郷隆盛の長州派遣は中止されたのです。武力倒幕派の一時的な後退があったのです。新しい統一した国家体制をつくろうとする動きは、平和的移行と武力路線と単純ではなかったのです。これは、列強諸国に対する植民地に対する危機から国の二分を恐れたことによるものです。

明治維新政府の公議所と国憲のあり方

   明治になっての新政府による公議所は、各藩と諸学校から選ばれた公務人で構成され、議案提出権を有していました。19部門に分かれて審議を行ったのです。任期は4年で2年ごとの半数改選とされました。 存続したのは1年数ヶ月の期間でしたが、開明的な議案が多く出されたのです。この公議所所・集議院の研究課題は、日本の民主的な議会主義を歴史的に考えていくうえで、重要なことです。

 さらに、廃藩置県以降においては、西郷隆盛をはじめ、維新政府内で国憲のあり方が議論されたのです。この議論も遣韓論・征韓論によって、西郷隆盛が参議で決定されたことが、天皇への上奏によって、覆い隠されたたのです。このことを契機にして、「広く会議を起こして、万機公論に決する」という明治維新の誓詞の理念が崩壊し、有司専制という体制になっていくのです。

 日本は、明治憲法によって、法治国家の確立をしましたが、しかし、民のためではなく、天皇主権による為政者の意図を実現する手段となったのです。そこでは、為政者を拘束する憲法とはならず、絶対主義国家の権力を強化することになったのです。法は、民衆を縛るということはあっても、為政者を縛る考え方は定着しなかったのです。このことは、国家像として、憲法で、為政者を縛る意味での国家の基本理念は生まれてこなかったのです。

明治5年・6年の新政府の憲法制定議論

 明治5年から6年の新政府では、憲法を定め、国会を開設しようとする統治体制の議論が行われていたのです。明治6年に、西郷は、板垣等と共に、左院に立法権の権限を与えることの案を作成していました。しかし、島津久光等をはじめ封建的な特権を維持しようとする旧体制派の非難が強くあったのです。

  国会開設を西郷自身が熟慮せざるを得ない状況になっていくのでした。左院の議官を勤めていた宮島誠一郎の国憲編纂起源には、明治5年4月から明治7年5月の左院における国憲編纂の事項が記載されています。国憲編纂の「立国憲義」は、明治5年4月に左院議長に建白しています。しかし、島津久光の不平論により西郷は躊躇することがそこでのべられています。

 立国憲議の内容は、要約すると次のとおりです。「君主独裁から人民の自主自由の権利を誇張して、義務を勤める共和政治論を為すものあり、君権を確定し、君権国憲により相当なる民法を定めて人民の権利を与え、義務を行なわせる。君民同治の法を定めるとしている。君民定律の中に国憲を定めて、万機憲法に徴して国政を行うべし。憲法を定めるは左院で確定して、これを正院に致し、右院及び諸省の長官同一するに至り採決する」としています。

  正院に内閣を設けて、国権、立法を編纂する常職とする案です。この立国憲議は島津久光の不平が強く、その矛先は西郷に向けられたのです。西郷にとって、どのようにしたら新政府内での融和をしながら立国憲議を進めていくのかということであったのです。後藤は民営経営創始のためと称して官職引退の意を示しました。そして、伊地知正治副議長も辞職意向になりました。そのときは、新政府として廃藩置県という幕藩体制の根本を改革した事業がありました。

  しかし、その後の統治体制をどうするのかということで、一致したビジョンを強く持って断行することができなかったのです。これは、旧薩摩藩の新政府のメンバーと島津久光との関係のなかで典型にみることができます。島津久光をはじめ守旧派は、廃藩置県には強力に反対したのでしたが、不測の事態に備えて武力を背景に、新政府は押し切ったのです。

 全国人民の代議員による公議興論を採用して、立法機関を作り出そうとする左院改定であったのです。地方からの代議員で構成する左院の議員選挙は、明治6年開催の府県会議で決められていく予定でした。明治6年10月の政変で、その案は消えていくのです。( 明治文化全集第一巻・憲政編に「国憲編纂起源」掲載されているので、詳しく知りたい人は、それを参考にしてください)。

明治6年10月政変以降の西郷隆盛

 明治6年10月の政変によって、西郷隆盛は鹿児島に帰っても、援助や協力を求める客が絶えませんでした。そのような事情から俗世界の争いからはなれ,霧島の静寂な地で、人生をみつめるのです。
  西郷隆盛は、竹下が上京する際に,大山巌に手紙を書いています。その手紙は明治7年10月です。西郷の辞職に伴って、近衛兵、陸海軍の旧薩摩藩出身の多くの士官達が鹿児島に戻りました。

 政府は混乱を避けるために辞職願を受理せず、非役扱いにしていました。西郷は県庁をとおして給与返還の口上書を166名の旧下士官の署名によって提出しています。政府は、給料を鹿児島県庁に仕送りしていたのでした。
  西郷は、働いてもいないのに給料が県庁に送られていることはおかしいということで、大山に下士官達の調査と免官許可手続き依頼の手紙をだしているのです。大山から暮れに返事がきて、政府よりの達書が届いているにもかかわらず、県庁が捨て置いているのではないかということで、ぜひ県庁に問い合わせてほしいという手紙を篠原宛てに出します。

  この手紙を託したのが竹下という人物ですが、この竹下がだれなのか。大山が手紙を受けるうえで面識があり,信頼のおける人物であると思われます。西郷の側近叉は,親類に限られてくると思われます。そして、密偵が頻繁に西郷のまわりを見張っていたことから、竹下という名前も偽名であると思われます。

 その人物は,明治8年2月に朝野新聞に国会中心の民主憲法草案を書いた竹下弥平なのか。興味ある課題です。明治8年4月に明治天皇の立憲国体詔書(しょうしょ)がだされ、木戸や板垣が参議に復帰する時期です。これにより、元老院大審院の設置,地方官会議の開催がさることになりました。一方で,大久保の有司専制の体制も強化されていくことも同時に進んでいきます。
 竹下弥平の名前で、ほかに書いたものは現在のところ見つかっていません。西郷は、明治9年9月28日の副島種臣宛ての返信で、「民選論の盛んな今日、所見あるものは十分意見をのべるのは人民の義務」とのべています。

  霧島白鳥温泉の3ケ月の滞留は、明治7年6月に私学校をつくった後の7月13日です。弟の小兵衛に鹿児島出帆の便船を頼み隼人の浜之市につき、そこから霧島の白鳥温泉に向かっています。白鳥温泉の滞在中には甥の市来宗助が訪ねています。
 そこで、海軍にいた樺山資紀の情報を得ていることが書かれています。市来宗助には、篠原国幹あてに東京からの手紙の開封を頼みます。また、有川十右衛門に弾薬の注文を頼んでいます。市来宗介は、西郷の息子菊次郎と共にアメリカ留学をした若者です。西郷隆盛がかわいがった親類です。市来宗助には、日常的にも頼みやすい間柄であったのです。

  絶対主義的中央集権が進む明治政権のなかで、寺島宗則陸奥宗光等の自主外交や国際協調の努力や自由民権運動がありました.その後に大正デモクラシーのなかで、1924年から1932年まで議会を基礎に政党による責任内閣制が行われました。明治憲法は、首相を選ぶのことを天皇の大権で、元老会議で決まられていたが、多数党が首相を選ぶことが憲政の常道となったのです。この状況において、国際的協調主義と国内民主化が進んでいくのです。

 1932年の5・15事件による軍部独裁の国民総動員制への移行よって、民主主義の可能性をもった議会制度は崩壊しました。幕末から明治初期の士族層の立憲主義の動きや明治10年代の自由民権運動、さらに、大正デモクラーなどがあったことを忘れてはいけません。
 一方で,国家主義による中央集権体制・植民地獲得の覇権主義が進んでいきますが,他方で、政党制による議会主義、民主主義の運動、国際協調主義,自由と民権の運動がありました.この二つの対抗のなかで日本の近代史をみていくことが必要です。
  
  鹿児島霧島における明治8年民主憲法制定の草案 ―憲法学習のための地域史―
                神田 嘉延

   はじめに.

 竹下彌平の憲法草案は、明治8年3月1日付けの朝野新聞に発表されたものですが、執筆は、明治8年2月1日となっています。竹下彌平は、朝野新聞で、鹿児島県襲山郷在中と書いています。この郷の現在の市町村は、霧島市です。その範囲は、霧島山麓の旧霧島町から日当山温泉地域です。
  民主主義の根幹である国民主権者の教育は、選挙権を有する青年・成人教育にとって大切な課題です。地域に根ざした社会教育には、憲法を暮らしにという考えが求められています。戦後の民主憲法自由民権運動の様々な憲法草案から見つめていくことは、現代においても重要な課題です。
 それらの運動は、歴史的に挫折しましたが、日本における近代化過程の自主自立精神にもとづく民主主義形成の伝統文化でもあるのです。戦後の憲法は決しておしつけ憲法ではなく、戦後の帝国議会でしっかりみんなで議論して、日本人の手によって決めたものです。憲法9条の平和主義を内容は、幣原首相がマッカサーに提案して、占領軍のもとにつくられたのです。戦後の憲法は、日本の歴史のなかでの民主主義の運動、人権や平和主義の継承でもあったのです。
 明治初期に民主憲法の骨格が鹿児島でもつくられていたのです。その理念は明治維新の五個条の御誓文の拡充ということであったのです。憲法教育は内容をきちんと押さえていくことは大切なことであすが、同時に自由民権運動明治維新にあった万機公論に決すという日本の統治文化として歴史的にみる視点も大切です。

1. 明治8年鹿児島での民主憲法素案の歴史的意義

 竹下彌平憲法草案は、国民のための民主憲法を歴史的に考えていくうえで、重要な資料です。かれの憲法草案の理念的特徴は、国会の早期創設によって憲法を制定して、立憲主義のもとに、為政者を豹変させないという趣旨でした。国会は、国の重要な行政的責任者の太政大臣、左右大臣を選び、国の歳入歳出を定める特権を有するという提言です。
 左右両院の特権は、いかなる行政官、司法官、武官といえども犯すことができないとして、国会の権限は、立国の本旨から最重要とするのです。明治維新の5箇条の御誓文は、広く会議を起こして万機公論に決すという理念であったことから、その理念を早急に拡充して国会を開設すべきという。まさに、立憲主義と、国権の最高機関という国会の役割の主張がみられます。
 竹下彌平の憲法草案で注目されることは、天皇の位置である。天皇は、左右両院の開閉の特権をもつとしているが、国を統治する権限としての国会の役割を特別に重視していることである。また、両院に武官や司法官がなれないようにしていることも重要です。
  明治10年代に自由民権運動との関連でつくられた植木枝盛や五日市の私偽憲法案は、国民の基本的権利を尊重するが、天皇の統治のもとに国会を位置づけていることと異なります。
  しかし、竹下彌平も天皇については、「恭しく聞く、我が帝国専世、聖哲ナル天皇之敕ニ曰、天、君主ヲ設クルハ国民ノ為ニスルノミ、君ノ為ニ人民ヲ置クニ非ズト」とのべるように、古事記にみられる仁徳天皇等の君主に対する尊敬と「嚶鳴館遺草」等の経世済民による愛民思想が見られます。竹下彌平の考える日本の伝統的な為政者は、国民のためにするのみで、君のために人民を置くものではないことが基本になっています。
  そして、中国の先哲として、「天下ハ天下ノ天下ニシテ、一人ノ天下ニ非ズト」としている。これは、中国の伝統的な兵法書六韜の考えです。さらに、フランス革命などによって形成された欧米の人権思想の大切さを次のように指摘しています。
 「我国ヲ愛スベシ、吾人、自由ノ理ハ我国ヨリモ愛スベシ」(パトリア、カーラ、カーリヲル、リベルタス」(ラテン語)。つまり、祖国も大切ですが、さらに重要なものは自由であるとしているのです。ここには、人類の普遍的な人間尊厳の統治の論理探求の姿がみられます。
  自由の理は、「英雄起ルニ非ルヨリハ、宿習ヲ勇截浄濯選シテ真理ヲ実行ニ著見スルヲ得ンヤト」と過去の世の習わしをいさぎよく断ち切り洗い清めて、真理を明らかにすることを強調しています。以上のように、明治8年に、自由の理による国民のための立憲主義の理念がすでに提起されていたことは特記すべきです。
  自由の理、国民のための憲法制定の運動は、明治8年6月の言論の自由を奪う新聞条例、西南戦争、明治14年政変、福島・秩父などの自由民権の激化事件などによって、日本の政治から消えていったのです。
  しかし、自由民権運動に参加していった多くの日本の国民のなかに、その精神は、明治維新の五個条の御聖誓の拡大として残っていったのです。
 明治23年の国会開設の第1回衆議院議員は、自由民権を訴えていた民党系が過半数以上を占めますが、国会は、国権の最高権限ではないことから、国政の絶対的権限をもっている専制政府のもとに、弾圧と懐柔されていくのですた。結果的に、かつての自由民権運動の思想は、骨抜きにされていったのです。
  自由民権運動は、安政条約による日本の植民地化に対する危機のなかで、国民的に自由と民主主義をつくりあげる必要があったのです。その危機意識から国民国家の形成というナショナリズムの問題も内包していったこともあります。それが、後に慈愛的国際主義、民族平等と共存共栄の意識になっていくか、民族排外主義による帝国主義になっていくかのという両面を含んでいたのでした。
 それは、その後の日本の歴史の事実が教えています。絶対主義的中央集権制と軍事独裁政権による戦争への道と、大正デモクラシーによる議会主義の尊重と国際協調主義の道があったのです。
 竹下彌平の憲法草案は、日本近代における天皇主権の立憲主義憲法の骨格がつくられていく過程の政治情勢からみなければならないのです。現実の明治憲法は、竹下彌平の憲法草案の自由の理と国民のための立憲主義とは全く異なるものでした。
  明治8年2月は愛国社が結成され、全国的に国会開設の声が高まったときです。また、明治8年1月の大坂会議で、自由民権への融和懐柔が行われました。下野していた板垣退助木戸孝允井上馨大久保利通伊藤博文との政治的合意がされました。愛国社総裁の板垣退助が多くの愛国社のメンバーから批判されるなかで、参議に復帰していく時期です。
 すでに、木戸孝允は、井上周蔵に依頼して、ドイツ・プロシア憲法をモデルに絶対主義的な憲法草案(大日本政規)を明治6年につくっています。
 大坂会議の合意によって、板垣退助木戸孝允の参議復帰が行われ、明治8年4月14日に立憲政体の詔書がでます。この詔書は、漸次立憲政体にしていくということで、元老院大審院、地方官会議を詔勅によって設置することであったのです。その後は、天皇主権による絶対主義的な天皇の協賛としての国会という明治憲法になっていくのが歴史の事実でした。
  当時の明治政府部内にあった民選議員設立の反対理由は、加藤弘之に典型にみられるように、時期尚早論で、天賦人権論は否定できなかったのです。加藤弘之の見方は、今日の我が国では制度憲法は難しいということです。我国では、英国のように賢智者が多いことと異なっているということです。天下のことを公議する知識が無知不学の民が多く、適切なる者を選ぶことができないという理由からです。
  未開の国は、自由の権利を得るとき、その正道を知らずして、自暴自棄に陥り、国家治安の障害になるという考えです。学校を興し人材を教育することをすすめて、人民の自主の心を旺盛にしてから民選議院を設立すべきという時期尚早論です。(加藤弘之民選議院ヲ設立スルノ疑問」明治啓蒙思想集・明治文学全集3巻、筑摩書房、154頁~157頁参照)。これらの論に対して、竹下は、憲法制定の緊急性をのべているのです。
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2.竹下彌平の憲法草案にみる明治維新の見方

  竹下彌平は、明治維新によって、旧習の下手な説や藩閥政治も一掃され、県治に大きく方向転換したことを次のようにのべています。「既ニシテ戊辰ノ転覆ニ会シ。逆乱旧習之陋説(ろうせつ)、義兵錦旌(きんしょう)之下ニ一掃シテ尽キ、海内(かいだい)一変、群藩幡然(はんぜん) 方嚮(ほうこう)ヲ改メ県治ニ皈(き)ス」。また、戊辰戦争後の新政府は、五箇条の御聖誓の万機公論に決するということであったのです。竹下彌平は、このことを次のようにのべています。
  「此之時ニ当リテ所謂萬機公論ニ決スル云々等之聖誓ハ、即、恐多クモ曩ニ所述、天地ニ亘(わたり)リ萬世ヲ究メ不可易(かゆるべかざる)真理ニ根拠シテ発スル所ノ者ニテ、而 (しかして)直ニ此真理ヲ実行ニ施スヲ見ル。我輩幼児之疑恠(ぎかい)、頓ニ氷釈(ひょうしゃく)スルヲ覚フ」。
  幕府を倒し、新しい国、理想を掲げた五箇条の御誓文の精神が全く形骸していることを問題にしているのです。幕府を倒したときの新しい世の中をつくっていくときの意気が消えたことを歎いているのです。現実の社会経済、政治をよくみて、真理を発展させて、欧米文明諸国と対等になることを期待していたのです。
  そして、この真理をのびやかに発達させて欧米文明諸国と「并馳共峠」(へいちきょうじ」と並び馳せ、共に目標に達するようになることを望むとしているのです。しかし、明治6年5月の井上大蔵の退職の前後より政治は失調したとみているのです。そのときから、すこぶる国民のため、自由の理の政治が消えていると考えています。
 竹下彌平は、明治6年の政変を井上大蔵大輔等退職前後から捉えています。「政機失調アルガ如く」と、新しい国づくりの危機をあげているのです。それは、政商と藩閥政治汚職問題からです。政治とカネという徳政の問題、国家財政問題のあり方も大きく問われていたのです。
  井上馨は、日本主力鉱山の尾去沢(おさりざわ)銅山汚職問題で江藤新平等に追及されて辞職しています。井上参議の辞職は、汚職問題が直接的理由です。近代化していくなかでの汚職の問題は、為政者の德の問題として大きくあったことを見落としてはなりません。この汚職問題を竹下彌平は、政機の失調のはじまりと見ていたのです。ここには、「新政厚徳」の精神が読み取れます。
  廃藩置県が行われ、徴兵制がしかれ、学制による義務教育の整備がだされていった時期は、旧幕府体制の制度をあらためることが急務であったのです。このためには、国家としての財政的な確立が不可欠です。財源ぬきの学制が発布されたのです。西郷をはじめ朝鮮問題で政府の中枢メンバーが下野していくのも明治6年10月です。
 明治6年5月から10月の政変は、内務省の設置にみられるように大久保利通岩倉具視等の独裁化です。その独裁は天皇を利用しての官吏の権限強化をはかっていくのです。大久保は、明治6年11月に内務省をつくります。内務省は、政権の中枢的機能になっていくのです。
  下野した板垣退助などは、民撰議院設立建白書を明治7年1月17日に政府に対して要望します。その内容は民選による議会開設です。「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」。
  今の政権は、天皇にも人民にもなく、ただ有司=官僚の独裁であるとしていたのです。
  そして、「臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン」という建白をしています。国を救う道を講究することは、広く天下の公議を張ることであるとしたのです。このことによって、官僚の独裁をやめさせることができるというのです。
  竹下彌平は、「維新之基礎タル聖誓之大旨」として、この時代的状況のなかで明治元年五箇条の御誓文を大切にすべきであるとしています。それは、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベス」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」ということです。
 広く会議を興して万機公論に決すべきということは、国民とともに議論して、国民のために政治を行って、国民みんなが位に関係なく一致して、国家を治めていくことをめざしていくことです。このためには、国会を開設して、憲法を制定し、その下で国政をしていくということです。さらに、旧来の悪い習慣を破り、天地の公道に基づき、知識を世界に求めることを指摘しているのです。
 竹下彌平の憲法草案は、この時代のもとで、民会の役割の重要性を次のようにのべています。
「既ニシテ、民会之議起ル。其得失、利害、尚早、既可(きか)詳(つまびら)カニ諸賢之説アリ。又贅(ぜい)スルヲ須(ま)タズ。吾謂(い)フ聖誓ヲ将ニ湮晦(いんかい)セントスルノ日ニ、維持挽回スルモノ民会ヲ舎(おい)テ又、他ニ求ムベカラズ。真理ヲ将ニ否塞(ひそく)セントスルノ際ニ,開闡暢進(かいせんちょうしん)スルモノ亦民会ヲ舎(おい)テ他ニ求ムベカラズ」。
 民会の議論は、利害がぶつかりあい、時期が成熟していないという意見がありますが、五箇条の御聖誓をうずもれさせないために、国政失調の挽回をするには、民会に求める他にないというのです。自主自立、自由の理の真理を切り開き、国を発展せるためには、早期に民会を開くことしかないとしています。
  明治8年6月の大阪での第1回地方官会議に地方民会の議論になりますが、鹿児島県令の大山は、時期が早いとして不要論を主張していました。「人情未タ安寧ナラス、生産未タ繁殖セス、風俗未タ醇厚ナラス、盗賊末タ衰止セス、而ルオ況ヤ各地ニ於テヲヤ。故ニ民会ヲ開キ広議興論ヲ采リ、以テ政に施サント欲ス、其意美ナラサルニ非ス、然レトモ方今民会ヲ開ニ於テ、其妨害極テ多シ」。「民会ヲ開クニハ、他日人民開化進歩ノ時ヲ待チ、朝廷地方ノ官員協心同力、今日着実ノ政事ニ勉力シ、徒ニ文具ヲ事とセサルベシ」。 (都丸泰助「現代地方自治の原型―明治地方自治制度の研究」大月書店、148頁~149頁参照)。
  政府内には、民会について時期が早いという考えであったのです。その見方が大山県令にも反映していたのです。竹下彌平の地元鹿児島県令ですら、地方民会も時期が早いという論であったのです。
 鹿児島県令は、民会を開くことの将来的な意味は認めていますが、今はその時期ではないというのです。国民の開明の進展までまつべきだとしているのです。この地方官会議では、民選ではなく、官選で決定されます。
  しかし、竹下彌平は、県治と民会の役割を今こそ重視しているのです。このことは、注目することです。戊辰戦争によって幕府を倒し、逆乱旧習の狭い考えを一変する方向性は、改められた県治によるところが大きいいというのです。緊急に民会を開くことを重視しているのが竹下彌平の見方です。

3.国会の役割と立憲主義

  竹下彌平は、最も切望するところとして、国会を開設するために、憲法骨格草案の八条を提起すます。この憲法草案は国会を開設するための基本的見方です。
 第一条は、為政者・君子の豹変を防止するために憲法の制定の重要性を指摘する。
「己巳平定以来、此ニ七年、蓋シ国歩又一歩ヲ進メ、君子豹変スベキハ此之時ヲ然リトス。故ニ吾帝国、宜シク益其廟謨(びようびぼ)ヲ宏遠(こうえん)ニ運ラシテ、我帝国ノ福祉ヲ暢達スベキ憲法典則ヲ鈐呈(けんてい)スベシ」。
 国の福祉を発展させるためには、憲法制定をすべきであるとするのです。ここでは、君主による統治の欽定憲法ではないのです。そして、第2条では、即、聖誓の拡充を実現するための憲法制定というのです。そして、国権の最高機関としての国会の役割を重視しているのです。
 ここでは、国民のための立憲主義による国のかたちを明らかにしたのです。その国会は、今の左院と右院を改めて、新たにつくれとしています。当面の緊急時なる議員構成については、第3条と4条に示しています。
  「第二条 右憲法ヲ定メルハ、即聖誓ヲ拡充スル所以ナレバ、立法権ヲ議院(現今之左右院ヲ改メ、新ニ立ル処ノ左右両院之議院ヲ云)ニ悉皆委任スベシ」。
 第三条では左院の憲法を制定していく議員構成である。左院の定員は百名で、三分の一は、現今各省の奏任官四等以下七等に至り、判任官八等より10等までのうち、主務に練達諳塾して、才識あるものから人選を提起しています。ここでは、上級の官吏を外しての各省ごとからの若干名の選出の提案です。
  三分の一は、著名に功労ある人望家、旧参議諸公のごとき在野の俊傑及び博識卓見なるものから選挙するとしています。その例として、福沢、福地、箕作、中村等と新聞家成島、栗本をあげています。
 っp最初は、太政官より命令して選び、議会がたった後は、別に選挙方法を立てて選ぶとしています。例としてあげられた知識人の4名は、竹下彌平と同じように国会即時開設論ではない。むしろ、当時の代表的在野の文化人として竹下彌平はあげているのです。
  三分の一は、府県知事、令参事に命じて、その管下、秀俊老練、民事を通暁し、地方の利弊を考えながら選べとしています。最初は太政官より地方官に示諭して、乱選なきを注意し、適宜に選ぶことも妨げないとしています。議会がたった後は別に詳細に選挙法を設けるとしています。
  板垣退助等は、民選議院の設立の建白書を提出しましたが、左院は、広く会議を起すという意味で重要な役割をもっていたのです。この左院の構成について、竹下彌平は、広く国民の代表者による会議として、上級の官吏を除く、直接に一般の民に近い行政の仕事をしている人から憲法制定のための国会議員を選ぶという方法をとっています。
 これは、上層部のリーダーだけによって憲法制定の意志にならないように、民の身近な官吏からの代表を大切したのです。また、在野の博識卓見ある文化人から議員を選ぶということも国民教育が普及していない明治8年の情勢からの緊急提案です。
  さらに、左院の議員構成に地方の代表を位置づけていることは、国家レベルの憲法を中央集権的に決めていかないという見識です。
  第四条は、右院の議員の規定で、定員は左院と同じ百名です。その構成は、行政官勅任官以上ということで、高級官吏からの代表と皇族華族中より選挙するとしています。ここで、注目することは、司法官と武官は議員を禁ずるとしています。左院の選出方法を含めて、司法官と武官は、両院の議員になることができないしくみの構想になっているのです。
 ところで両院の権限として、三つをあげています。まず、第1は、行政の最高の権限をもっている太政大臣と左右両大臣は国会で選ぶことをのべています。
「第五条 太政大臣及左右大臣は左右両院の選挙をもって定める」。当時の藩閥政治では、広く会議を起こして行政の最高責任者を選ぶしくみがなかったのです。形式上は、天皇の勅命によって太政大臣、左右大臣が決められていたのです。実質的に政府の権限は、それを支える参議や高級官僚が握ったのです。行政の最高権限者を国会によって、選ぶという仕組みにかえていこうとするが竹下憲法草案のねらいがあるのです。
  天皇の特権は左右両院の開閉にあるということで、行政の最高の責任権限者ではないことは重要な指摘です。明治維新によって、新政府の統合的なシンボルになっている天皇を位置づけているのです。広く会議を興し万機公論に決すという聖誓の理念の重要な場の設定としての天皇です。「第六条 左右院を開閉するは天皇の特権にあり」。
 国会の第二の役割は、国の統治で根幹になる歳入・歳出を定める特権です。「第七条 帝国の歳入出を定める特権は左右両院にあり」。
 さらに、立憲主義ということから憲法の制定や改正は、極めて重要なことであるので、この特権は、いかなる行政官、司法官、武官は犯してはならないとしています。それは、立国の本旨であると第八条でのべています。
 「凡帝国の憲法典則ヲ鈐定スル、若シクハ更正増減スルハ一切左右両院之特権ニ在ルヲ以テ、仮令行政官、司法官及武官、如何様之威権、如何様之時宜アルトモ、決シテ立法上ノ権ヲ毫モ干犯スルヲ得ザラシムハ、立国之本旨最重スル所トス」。
  これは、有司専制というように官僚的独裁によって憲法を犯してはならないことです。また、武力によって、国の基本施策や憲法を動かしてはならないという立国の本旨からです。
 司法と国会を分離する意味から司法官の国会議員を禁止しています。以上のように、竹下彌平は、国権の最高の権限を国会におくことを憲法草案にうたっているのです。竹下彌平は、民間人としての憲法草案を提唱したのですが、政府の急務としています。「左右議員ヲ速ニ立セラレント、今日、政府ノ急務」として、現在の国の情勢からみて、議会を開く緊急性を強調しているのです。

 4.日本の未来の危機意識と自主自立精神の重要性

 竹下彌平の我が国に対する危機意識は、インドのように植民地になってしまうという懸念です。つまり、早く挽回しなければ日本の未来は大変なことになるということです。それは、欧米の列強諸国の外圧による植民地の危惧です。
  「我ガ帝国之民、淳朴(じゅんぼく)忠愛、・・・奴隷之習気脳髄ニ印シテ、精神恍惚、亦覚醒ナキガ如キニ至ル。彼之印度ノ奴ト偽リシモ亦、職トシテ、是之由ル。今ニシテ早ク是ヲ挽回セザルバ、印度之覆轍ヲ踏ザルモノ幾希ナリ」。
 国会を開設し、憲法を設定することは、自由を大切にして、学校を盛んにして、兵力を増強し、近代技術、近代施設を整備していくことになるというのです。
  「外国人ト婚娶(こんじゅ)ヲ許スガ如キ、出版ヲ自由ニスルガ如キ、学校ヲ盛ニスルガ如キ、兵力ヲ張ルガ如キ、拷掠(ごうりゃく)ノ苛酷ヲ除キ、審判之傍聴ヲ縦(ほしいまま)ニスルガ如キ汽車山川を縮メ、電線宇宙ヲ縛(ばく)スルガ如キ、皆、開花之衆肢體ニ非ザルハナシ。然レドモ、徒(いたずら)ニ其肢體ヲ獲テ、而(しかして)未ダ其精神ヲ具(ぐ)セズンバ、偶人塑像ニ均シキノミ」。
  外国人と結婚を許す自由のごとき、出版の自由、学校を盛んにすること、汽車を走らせ、電線をひくことであるとしています。そのためには、自主自立の理の精神を備えていくことであるとしています。その結果によって、真に開化することができるとしています。近代化しても、自主自立の精神をもたねば、粘土でつくった人形像のようなものであると訴えています。
  国民的に自主自立の精神を旺盛にしていくには、国会を開き、憲法を制定して、出版の自由、学校を盛んにして、大いに議論していくことであるというのです。このことによって、奴隷の気質、精神恍惚を一掃して、立憲主義の国家をつくっていくことになると竹下は考えたのです。
  自由の理ということで、竹下彌平は、最初に、外国人と結婚を許すということをあげています。この時期は、国際結婚は極めて例外的でしたが、明治初期に鹿児島医学校でイギリスの地域医療による多くの医師を養成したウイリアム・ウイリスは、地域の日本人女性と結婚し、子どもをもうけ、日本での永住を決意していました。西南戦争によって、それは、挫折しています。
 欧米の民の気質についても「忠厚温良」が不足しているという興味ある問題提起をしています。「欧米之民、沈毅果断、忠厚温良不足。其之弊ヤ、君主ヲ威逼(いひつ)シ、政府ヲ倒制スルモノ往々之有リ」ということで国の恥さらしになり、為政者をおどしおびやかして、国を倒すこともたびたびありますと欧米の問題点も指摘し、建設的にならないことも欧米ではあるとしています。
  出版の自由については、海老原穆の活動は、注目するところです。明治4年西郷隆盛と共に上京し、明治6年に、明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞し、明治8年2月に、集思社を創設し、「評論新聞」を創刊したのです。その新聞では、太政官政府に対する痛烈な批判を展開しました。海老原穆は、新聞条例によって、讒謗律に違反するとして逮捕投獄されます。
  集思社は、新聞条例によって発刊停止になった後も、中外評論を発行します。また、発禁になり、さらに、文明雑誌を発行して粘り強く言論活動を展開していくのです。集思社と同時期に栗原亮一社長の自主社系の草莽雑誌も反政府、西郷支持の論陣を張ったのです。評論新聞と同様に発行禁止の弾圧を受けますが、草莽事情として発行を続けます。両社とも西南戦争のさなかで消えていったのです。
  評論新聞には、西南戦争に熊本隊として、ルソーを教本にしていた植木学校の教師であった宮崎八郎も記者として勤務していたのです。このように、明治の初期には、在野の人々が自由の理を求めての出版活動がはじまっていたのです。
 
まとめ.自由の国づくり
 
 竹下彌平の憲法草案は、左右両院を開いて、自主自立の精神によって自由の理の国づくりをしていこうとするものです。国会の開設、憲法の制定によって、日本の毅然とした自立の志気がつくられていくとするのです。幕府を倒し、新しい世の中を宣言した五箇条の御誓文をふさいでしまった現政府に、国会の開設によっての自主自立の道を拓いていくことを強く訴えたのです。
 竹下彌平の憲法草案のねらいは、毅然として自主自立、自由の理の志気をもって、 両院を開くためです。その両院の初期目的が、憲法制定です。左院は、三つの層から代表を選挙していくということも竹下彌平の独創的な見方です。官僚組織の中下級層からの選出、知識あるもの、功労人望ある著名人からの選出、地方からの選出となっています。これは、憲法制定議会の構成に社会的な三つの機能層から選出しようとするものです。
  竹下彌平の描く、自主自立と自由の理の拡充暢達とは、具体的にどのようなことを考えていたのでしょうか。印度の覆轍を踏まずということで、日本の植民地に対して、強い危惧の念をもっていたことは確かです。自由の理を大切にして、学校を盛んにすることを強く抱いていたことも確かです。また、自由の制度をつくっても、また、汽車や電線を整備しても、自主自立、自由の理の精神が育っていかねば全く意味をもたないことを強調していたのです。
  出原政雄は、「鹿児島県における自由民権思想」についてまとめていますが、鹿児島新聞(現在の南日本新聞の前進)の初代主筆を努めた元吉秀三郎は、鹿児島での民権運動の重要な一翼を担っていたとしています。また、西南戦争によって、竹下彌平などの流れは中断しましたが、その後、明治13年3月に鹿児島市内で自由民権運動の「同志社」がつくられ、「国会開設の建言」を元老院に提出しています。
  さらに、同じ年の12月に3500名が、国会開設建言書を元老院に提出しているのです。明治14年11月に旧私学校関係者によって三州社が完全なる立憲政体を目的として結成されます。このような状況のなかで、鹿児島県内の多くの民権論を唱える人々が結集され、それらに支えられて、民権運動擁護のための言論として鹿児島新聞が明治15年10月に創設されたと出原政雄は分析しています。(出原政雄「鹿児島県における自由民権思想「鹿児島新聞」と元吉秀三郎」志學館法学第4号75頁~100頁参照)。
 鹿児島県での自由民権の思想の発展は、西南戦争以降において、鹿児島新聞を支えた多くの民権論者によって推進されていきます。明治23年の第1回の国会選挙では、全員が民党系で占められたのです。
 その後の弾圧と懐柔で、吏党系が多数を占めるようになっていきます。(芳 即正・松永明敏「権力に抗った薩摩人」南方社、参照)  明治8年霧島山系の裾の襲山郷在住の竹下彌平によって提唱された憲法草案は、明治維新の地域における民衆思想として特記されるものです。(ふりかなは、鹿児島社会運動史が史料の出典をだす際にふりがなをつけたものをそのまま引用しました。久米雅章「明治初期の民権運動議会士族」川嵜兼孝・久米雅章・松永明敏『鹿児島近代社会運動史』南方新社54頁~63頁参照、家長三郎・松永昌三・江村栄一編「明治前期の憲法構想 福村出版、25頁~26頁、171頁~173頁参照 )
 

主権者教育と憲法学習

 主権者教育と憲法の学習
          神田 嘉延(鹿児島大学名誉教授)
  
文部科学省の考える主権者教育
       
 文部科学省は,「主権者教育の推進に関する検討チーム」の中間報告を 平成28年3月31日に発表した。これは、公職選挙法改正による満18歳以上の選挙権によって,主権者教育の推進の施策のための検討チームの報告です。

 検討チームは,主権者教育の目的を、単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせることとしました。ここでは、社会のなかで他者と協働しながら、社会や地域で生き抜く力を強調しています。
 
現代社会と主権者教育

 主権者教育の狙いは、18才選挙権導入ということからの政治のしくみの教育ばかりではないことを示してしいます。現代は、政治的な無関心層の増大、いわゆるポピュリズム、先進国に共通にみられる排外主義と反知性主義による非合理的な感覚主義の横行が起きている。群衆化とエリートによる官僚化のもとで、マスコミやソーシャルネットワーク等で大衆操作されやすい状況もつくりだされています。

 激しい弱肉強食競争が進むなかで,能力主義的な見方,自己責任論が横行し,新自由主義による勝ち組に対する高額な報酬を当然のこととする風潮があります。それらは、人間の価値を金銭で換算する拝金主義を絶対化するものです。一方で、負け組ということでの無権利な層が広範に作り出されています。
 
 その不満は社会的権利を歴史的にかちとってきた様々なことに攻撃が向けられます。社会的人権、労働者の権利が奪い取られ,弱肉強食の世界に働く人々が分断され、人々の孤立化、地域のコミュニティの衰退、人間的な絆の文化が後退しているのです。そして、消費過剰社会のなかで人々の利己的な欲望の増大もみられるのです。

 官僚化や学歴競争のなかで公務員や教員に対する不満が強くでているのも特徴です。公務員攻撃は、競争社会のなかで,不安定な層に突き落とされていった層から受けやすい基盤もあります。それを感覚的に政治煽動する新自由主義等の社会的層も生まれています。日本の歴史を学びながらの民主主義のあり方を考える大切さを示しているのです。

 協働での営み,相互支援による連帯ということは現代で生きていくうえで極めて大切な課題です。貧困化が進むなかで社会のなかで自らの生活基盤で体験し、知性的に協働していく主権在民の民主主義形成が欠かせない時代です。主権者教育は、これらの意味からも重要なのです。
 
主権在民憲法精神の重要性

 主権者教育は18才選挙権導入によってはじまったことは否定できないため、投票行動を中心とした政治教育が中心になりがちです。現代の政治的無関心層の増大ということから投票行動という政治的参加ということに集中する側面が強いのです。そのことから、異なる政治意見を議論し、対話し、それぞぞれで考えさせる教育が行われます。ここには、自らの暮らしや将来への夢や希望、地域の未来への展望、日本や人類の未来への課題として、主権者教育を位置づけていくことが極めて弱いのです。
 
 主権者教育は、日本国の憲法精神である主権在民ということから問題を設定し,暮らしのなかから政治のあり方を深めていくことが根本的です。それは、政治的な教育も国内における差別や格差、発展途上国との関係、グローバル化していくなかでの様々な経済的、文化的な矛盾を射程にする必要があります。

 日本国憲法の国民は、民族排外主義的な国民国家ではなく、人類普遍の原理である主権在民の国民の解釈が特別に必要です。国民を日本国籍を有することと解釈して、さまざまな人権保障、とくに社会的な権利の問題を日本に生活する外国人を除外して考えていくことは大いに問題です。
 
 たとえば、NHKですらこの解釈で放映し、外国人労働者の子弟について、憲法上は、教育の権利は保障されていないということで報道しています。これは全くの間違いです。1978年に最高裁判決のマクリーン事件アメリカ人英語教師の日本文化研究での在留延期申請を市民的政治活動理由に不許可した事件)で,日本国憲法の国民からはじまる人権保障は,性質説から外国人も含めれるという解釈をしているのです。
 
人類普遍の原理から学ぶ必要性

 日本国の憲法精神は、諸国民との協和、自由、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去していく人類普遍原理を共有しているのです。また,国際人権規約条約に日本国は加盟しているのです。日本国憲法の精神と、国際人権規約条約を歴史的なことから人類普遍の成果から学ぶことが極めて大切です。戦前の国民イコール臣民ということで,外国人は含まれないということではないのです。戦前と戦後の憲法の国民概念はまったくことなります。

 あるべき主権者教育は、憲法国際人権規約条約による市民像と社会のあり方を基本にすべきです。この基本的な原理を学ぶことをせずに、異なる政治意見の議論参加の教育では主権在民の育成の教育にはならないのです。教師としての役割は基本的な人類普遍的原理の人権保障,主権在民,平和主義をきちんと踏まえて、暮らしから考えさせる対話の場を教育的につくっていくことです。
 
主権者教育と地域の暮らし

 主権者教育には,様々な体験や観察・フィールドを取り入れていくことが求められています。子ども・青年自身の体験、地域での観察体験やフィールドフールドも大きな効果をもつ教育実践です。地域での歴史や暮らしから発見という主権者教育もみれるのです。

 政治をより身近なことから、考えていくうえで、国政ばかりではなく,地方自治ということから,日常の暮らしから投票行動をみることも大切です。解散解職の請求権,条例の直接請求権など,住民の参加民主主義を行使していくことを考えることも必要です。住民が直接に選挙するということで,外国人の永住者で地方選挙権を付与することは,憲法上禁止されるものではないのです。外国人の地方参政権-平成7年2月28日最高裁判決です。

 憲法地方自治に関する規定は、住民の日常生活に密接に関連します。公共的事務は、在留する外国人のうちでも永住者等であって,その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙権を付与する措置を講ずることが大切です。
 
 そのことは、憲法上禁止されているものではないという判例です。国際人権規定の条約からも外国人の市民権を考えていくことも必要です。社会的権利ということが重要になっているのです。

 国際化するなかで、地域の暮らしに多文化共生社会をつくっていくことは不可欠です。外国人の権利の問題は、多文化共生社会ということから、日本国憲法の国民概念もあらためて深めていく課題があるのです。
 
 それらは、主権者教育として,地域での協働,相互支援の社会を形成していくうえで,欠かすことのできないことです。この意味で、日本国憲法の精神ということからシチズンシップ教育と主権者教育を結びつけてることは大切です。
 
シチズンシップ教育と主権者教育

 シチズンシップ教育では、形式主義的な多数獲得による独裁主義、国家主義や総動員主義の克服が不可欠です。民主主義の基本である少数意見の尊重、少数の民族文化の尊重という多文化共生の社会には、求められているのです。

 第2次世界大戦のファッシズム経験を人類は経験したことを決して忘れてはならないのです。ナチスヒトラーにしても,日本の軍国主義による国家総動員にしても議会主義の多数決原理によって軍事独裁と民族排外主義を行ったのです。
 
 歴史の事実をきちんと教えていくことは,思想・信条の異なる立場を乗り越える意味でも極めて大切です。多数決原理に,人権,少数の尊重,多文化共生の平和主義をもっていなければ独裁的な民族排外主義の国家になっていくのです。
 
文部科学省の考える主権者教育の方法

 文部科学省の検討チームの主権者教育は,推進方法を次のようにのべています。「主権者教育を進めるに当たっては、子供たちの発達段階に応じて、それぞれが構成員となる社会の範囲や関わり方も変容していくことから、学校、家庭、地域が互いに連携・協働し、社会全体で多様な取組を行うことが必要性です。その取組を行うに当たっては、学校等のみならず、教育委員会等の地方公共団体の関係部署が、積極的な役割を果たすことを基本的な考え方とした」。

 教育委員会地方公共団体の連携は,実際の地域の暮らしからの学びということで欠かせないことです。子どもの発達段階に応じての地域の暮らしからの学びが求められているのである。それは,単に国政における投票行動を高めるための「選挙のための学習」ではないことはいうまでもないのです。

  主権者教育のチームのまとめでは,実際の生活との関係の重要性を次のようにのべています。「社会全体で主権者教育の推進を図るためには、学校だけではなく、基本的な生活習慣・生活能力を身に付け、実生活・実社会について体験的・探究的に学習できる場として、家庭や地域も主権者教育の担い手としての役割を果たす必要がある」。ここで重要なことは,実際に問題や困難をかかかえていることに創造的に探究していくことを学ぶことです。
 
アクティブ・ラーニングとは
 
  アクティブ・ラーニングは,方法的な問題ではなく,実際的な問題や課題に対する探究的なことです。そこには,科学的な精神がそれぞれの矛盾や課題に求められているのである.このために,「「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」のアクティブ・ラーニングの三つの視点」があるのです。
 
 主権者教育のチームのまとめは,社会で生き抜く力と地域課題解決の学習をのべています。「社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を養う」という主権者教育の目的にも資するものであり、その一層の推進を図ることが期待されるとしています。
 加えて、主権者教育は、主権者として求められる能力を育むだけではなく、地域への愛着や誇りを持ち、ふるさとに根付く子供たちを育てるなど、地域の振興・創生の観点からも重要である」。 

 アクティブラーニングを推進していくうえでも、憲法国際人権規約条約を踏まえながら、常に問題を人類普遍的原理である民主主義と人権を基本にすえて、国家主義や動員主義、民族排外主義、地域偏狭主義にならないように、多文化共生という視点から地域の愛着や誇り、ふるさとの創造を考えていく教育が必要です。

 グローバル化した国際競争主義のなかで,多くの貧困層が生まれている。民族排外主義の生まれやすい社会的な感覚状況も生まれている。国際化というなかでの多文化共生,すべての人々の人権尊重による地域の愛着,民族の誇りが必要なのです。それは,多民族,他の地域の人々を尊重,平和共存,平等互恵の相互依存精神よって,まさに,国際連帯のなかで真の民族の誇りが生まれてくるものです。

 検討チームが把握した平成28年以降の主な取り組みは次のとおりです。模擬選挙を行った上で、他の世代(お年寄り、子育て世代等)の立場にたった論議をグループでするなど多面的・多角的な考察を進める取組を行った学校。(東京都)大学と連携して主権者教育を実施。行政学を専攻する大学教授による講演と日本への留学生を含めたパネルディスカッションを実施。(札幌市)弁護士会所属の3人が市長候補となって政見演説を行う模擬選挙を実施。投票後、弁護士及び選挙管理委員会職員が講評。(千葉市
 
シチズンシップ教育の大学での実践

 沖縄で科学者会議の総合学術研究集会が12月7日から9日に開かれました。そこで,教育の分科会に参加したが,主権者教育に対する批判として,シチズンシップ教育の分科会が設定されました。

  琉球大学の名嶋義直氏は,「主権者教育は国家にとっての主権者を育てる教育で,よき国民を育てる教育であるともいえる。全体主義国家や強権独裁国家であっても主権者教育はなりたつ.しかし,非民主的な国家においては,シチズンシップ教育は成立しない。日本においては,主権者教育は日本国籍をもつ人で,国籍のないものは排除されている」。

 「ドイツでは民主的シチズンシップ教育が基本で,コミュニティーの中で共に生きる人ということで教育を実施している.ドイツの教育の核は政治教育である.市民性を育てる教育として,異なる意見の人との対話を重視している.ドイツをひつつのモデルとして,シチズンシップ教育から学ぶことは大きい」と提起しています。

 アクティブラーニングプログラムとシチズン教育として中央大学のマイクニックス氏等が報告しました。「日本の多くの学生は,多くの社会問題をかかえている現実に沈黙し,無意識状況になっている。この状況に学生に知識を強化するだけではなく,意識化が非常に困難ななかで,どのように,民主的な市民性を育てていくのか。オーストラリアのマイノリティの教育実践から学び,比較法的アプローチから問題をもたせていくことが必要である。日本では考える力の教育が失われている。ポヒュリズの精神的基盤になっている。自立した個人の強調が自己責任論によこすべりしている」。

 市民と学ぶフィールドワークとして,学生の4週間のドイツ語海外研修から学ぶとして,関西大学の中川慎二氏が報告しました。「欧州委員会は,アクティブラーニングは,代表制民主主義,コミュニティでの生活,抗議と社会変革,民主的価値の4つの指標から構成される.ドイツにおける政治教育は,ナチスドイツの負の遺産から出発した.他に外国語教育や留学への日本語教育などがシチズンシップ教育との関連で報告された」。

 全般的な感想として,シチズンシップ教育が政治教育に偏っていて,現実の社会的な矛盾,経済的な矛盾などからの経済的民主主義についての差別や貧困の問題からの人権の問題が深められなかったのです。
 現実にヨーロッパ各国で起きてる民族排外主義の動きや発展途上国からの差別の問題について真正面から向き合っていくことが必要です。欧米のシチズンシップ教育をことさらに評価して,日本がその水準に達していないという問題の提起のように思われました。

 日本においても様々な教師達の人権教育,平和教育のとりくみがあります。それらが,地域を巻き込みながら教育実践してきたとりくみをどう評価し,それらが主権在民としての主権者教育にどう育てていくことにつなげていくのか。そして,それを阻害している要因が何なのか。また,大学生達が政治的無関心になっているのかなぜなのかということをもっと,学生達の現状から分析していくことが必要ではないかと思われました。
 

中央教育審議会「人口減少時代の新しい地域づくりに向けた社会教育の振興策の答申案」ーパブリックコメントー

  
 中央教育審議会「人口減少時代の新しい地域づくりに向けた社会教育の振興策の答申案」ーパブリックコメント
              神田 嘉延
             
 人口減少時代の地域づくりと社会教育の振興策答申の案をだしたことは、社会教育の地域課題解決学習を充実していくことで大いに意味をもっていると思う。しかし、社会教育の奨励の原則である学問の自由、自主性、主体性、相互性、協働性が失われていく危惧が答申案の内容にある。
 
  人口減少という地域課題学習を考えていくうえで、住民の主体的な参画のもとに新しい地域づくりを進める学習や活動のあり方を深めていくうえで、今回の答申は一定の意味をもっていると考える。
 しかし、答申案では、社会教育の専門職の役割として、地域づくりの戦略としての社会教育計画の策定に取り組むことがでていない。専門による学問的な視点からの生涯学習社会の実現が提起されているが、そこにおける市町村自治体の役割、長期的に地域づくりを支えていく社会教育計画や社会教育の専門職員の役割がでていない。
 
  また、地域づくりにおける社会教育の意義を強調しても住民まかせで、市町村の自治体や社会教育専門職の担い手の充実と配置の増員による施策がなければ十分に機能しない。どのようにして住民主体の参画による地域づくりをしていくかは、社会教育専門職の仕事である。教師のいない学校などなりたたないと同じように、市町村自治体の地域振興による社会教育専門職の充実、増員なくして、社会教育による地域づくりはないのである。
 
  地域における学びということで地域学校協働活動が提起されているが、地域学校協働活動は、学校での学びを住民の暮らしや労働、地域の伝統文化から子ども達、青年達が地域で生きる夢をもたせるこで必要なことある。その際に、重要なことは、地域の大人達が地域づくりの視点をもって学校教育活動に積極的に参画し、地域で生きる必要な能力を展望しての社会教育活動が大切である。

 答申案は、社会教育行政のあり方として、首長部局やNPO等の地域団体と連携・協働していく大切さを提起しているが、このことは、地域づくりと社会教育の施策を考えていくうえで基本的なことである。しかし、なぜ、社会教育行政が壁をつくり自己完結していくのか、その問題点を探っていくことが重要である。
 
 基本的に地域課題に基づいた社会教育計画が市町村自治体でつくられていないことが大きな問題である。ここには、首長部局の地域振興計画での社会教育の役割が十分に位置づいてなく、社会教育専門職員や社会教育施設の役割が不明確なことが起因している。

 地域の学びを活性化させる専門性の人材の役割を答申案では強調しているが、これはもっともなことである。この地域の学びの専門的人材をどのように理解していくのか。地域の学習内容が多様化していることで、関係者の間をつないだり、学習の場における調整役割を答申案は提起しているが、果たして、それだけなのか。そのことは否定しないが、大切なことが欠落しているのではないか。

 地域課題解決学習の社会教育主事の専門性は、首長部局と連携して、地域づくりのための社会教育計画の策定に主導的役割を果たし、その計画のもとに学びのオーガナイザーの役割を果たすべきである。地域課題解決学習のための社会教育計画なくして地域づくりの人材養成のオーガナイザーはないのである。

 社会教育計画は、首長部局との連携が不可欠である。この際に、社会教育の奨励の個人の要望や社会の要請は、学問の自由・教育の自由のもとに、自主的、主体的に行われるもので、社会的要請も地域での相互学習、協働学習が尊重されることによって、本来の役割を果たすものである。

 社会教育は行政の不当な支配に服することではなく、学問の自由・教育の自由のもとに、住民の学習権の保障から人間らしく生きるための人格の完成をめざすものである。社会教育はとりわけ、住民の自発性と興味関心によって成り立っていくものであり、組織的継続的に学習を進めいくには、社会教育専門職の創意工夫が求められているのである。
 
 そこでは、文化や科学・技術の継承ばかりではなく、自発的で、創造的なものでなければならない。人口減少時代の地域課題解決学習は、とりわけて、自発的、創造的な側面が求められている。学問の自由、教育の自由、自主性、相互性、協働による学習なくして、創造性は生まれない。

 社会教育施設の首長部局の管理問題も、この問題を基本にすべきである。目先の特定経済事業施策に従属するために利用されるものではない。地域の発展は、学問の自由尊重によって、地域の豊かな文化の発見であり、それらを創造して、持続可能な地域社会を基本にすえることである。
 まちづくり行政や観光行政と社会教育施設との連携は、学問の自由尊重による地域文化の豊かさの発信が求められている。答申案は、社会教育における学問の自由、創造性と、自主性と主体的な参画をもっと強調すべきである。また、社会教育専門職の地域課題学習のための充実と増員が不可欠であることを答申案は欠落している。

 

村づくりと公民館

村づくりと公民館

 
農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 


 
 
 
 

 

地域づくりと新たな視点からの人材養成ー学校教育と社会教育の連携・自治体の地域振興計画の役割ー

  地域づくりと新たな視点からの人材養成ー学校教育と社会教育の連携・自治体の地域振興計画の役割ー
                        神田 嘉延
  
地方での人材育成の大切さ
                     
 2018年3月現在、日本の人口は約1億2000万人と言われています。ただ、80年後の2100年には半分以下の5200万人になるといった予想も。出生率が全国で最低の東京に人が集まることによる出生率の低下が大きな課題となっています。

 政府が策定した「まち・ひと・しごと創生総合戦略」があります。地方活性化の人材養成による雇用を創出し、東京一極集中を是正していくといった取り組みです。地方創生は、言うまでもなく「ひと」が中心です。長期的には、地方で「ひと」の養成をして、その「ひと」が「しごと」をつくり、「まち」をつくるということです。

 地方への新しい「ひと」の流れをつくるため、「しごと」の創生を図りつつ、若者の地方での就労を促すことです。若者をはじめとして、暮らしの環境を心配することなく、地方での「しごと」にチャレンジでき、安心して子供を産み育てられるように支援を実現するということです。

 「地方創生人材支援制度」地方への人材還流、地方での人材育成、雇用対策・「地域しごと支援センター」の整備・稼働・「プロフェッショナル人材センター」の稼働・地方が自立につながるよう自らが考え、責任を持って戦略を推進。各地域の自治体が、産業・人口・社会インフラなどに関し必要なデータ分析の必要性があります。
 
 都城農業高校の地域人材養成の挑戦

   時代の変化に適切に対応するため、柔軟な発想を持ち、豊かな創造性を発揮して、明日の本県の農業及び関連産業を支え、発展させる人材を育成に都城農業高校は挑戦しています。

   デュアルシステム(学びながら働く、働きながら学ぶ)を実践し、学校・地域・行政が積極的に連携し農業担い手及び理解者を育成するという実践です。
  JA都城と共に担い手育成事業にしっかり取り組んでいます。日本農業にとって後継者育成の課題は危機的な状況にあると言っても過言ではない。このことから、都城農業高校は、農業担い手育成事業(デュアルシステム:学びながら働く、働きながら学ぶ)を実践しています。
 
 学校と農家や農業法人、農業関連企業が一緒になって農業後継者や農業理解者を育てていく事業をはじめたのです。現在22の農家や農業法人へ年間を通して毎週木曜日の午後に農業体験実習を実施しています。JAからの支援金は本事業成功のために、有効に活用させています。 農業を取り巻く環境の変化に伴い、関係機関の連携が強まっていると感じているのです。
 
 このような中、都城農業高校が取り組んでいる「デュアルシステム」のように、学校だけでなく地域においての研修も行うような取組がさらに広まればと考えているのです。この実践について、平成29年度第2回宮崎県農政審議会では期待する発言がだされています。
 
  各地域における地域学校協働活動と地域福祉 
 
 「キャリア学習」と「地域貢献」ということで、総合的な学習の時間を活用したキャリア教育と福祉教育の結合が都城の中学校で実践されています。そこでは、福祉施設訪問、疑似体験活動ということで、車いす体験、職場体験学習をして、さらに、生徒がお祭りなど地域の行事へ積極的に参加している活動をしています。

 中学校の学校経営として、社会福祉協議会との連携を強めることで、高齢者福祉施設訪問など多くの支援ができるように工夫がされています。生徒がお祭りなど地域の行事に積極的に参加できるよう、中学校の生徒会担当の教員に行事一覧表、ボランティア活動やボランティア講習会等への参加募集のチラシを提供し、参加者を募集をしているのです。PTA 関係者や学校関係者も校務分掌に位置づけて、参画しています。

  都城盆地の人口減少は厳しいものがあります。農林業、介護・医療をはじめ、労働力不足は深刻になっています。このようななかで、ベトナムをはじめ外国人労働者によって、地域が支えられているのが現実になっていますが、日本語・日本文化の取得など十分な教育が保障されて来日していない現実があります。
 
 そこでは、単なる安価な労働力で使用されたり、労働条件も十分でない職場もなかにはあります。地域の人材育成という視点からベトナム人をはじめとする質の高い外国人労働者の確保のために、新たな教育システムを地域で確立する必要があるのです。
 
 ところで、地域では、子どもの貧困問題も進んでいます。子ども食堂のとりくみも各地ではじまっています。経済の問題と結びつけて子ども達に夢と希望を持たせていく教育は、学校と地域企業が共に連携していかねばならない課題です。
 
 貧困家庭で育った子どもの中には、自分の将来を生活保護で暮らせばいいと、進路には夢も希望もないと答える子どもさえ生まれています。労働力不足の地域の状況のなかで仕事に夢や希望を持てない子どもが生まれているのです。
 
 コミュニティスクールと学校支援地域本部
 
 学校教育の新しい考え方として、 中央教育審議会平成27年12月に「学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策」を答申しています。
  「学校を核とした地域力強化の観点から,全公立小・中学校において,学校と地域が連携・協働する体制を構築するために,コミュニティ・スクールや学校支援地域本部等の取組を一層促進する旨が示されています。地方創生の実現に向けて,これからの子供たちには,地域への愛着や誇り,地域課題を解決していく力が求められているのです。

   この答申での開かれた学校とは、地域の将来の担い手を育てるために、地域でどのような子どもを育てるかという教育目標やビジュンを住民と共につくりあげていくことの提言がでているのですが、それをどのように具体的に実現していくのかは明確ではありません。行政の役割や社会教育の役割を含めて検討していく課題があるのです。
 
 学校教育では、社会教育と連携して、地域の人々と共に、地域に誇りがもてるような教育をしていくことです。地域で働き、生活する人々が学校教育に出かけていくことが期待されているのです。また、地域の教材を積極的に授業で活用する教師の実践も求められます。
 
 都城盆地の歴史文化を教材にして、日本や世界の歴史文化を理解できる授業の工夫も必要です。それは、授業の工夫ばかりではなく、子ども達が実際に目でみて直観できる遺跡博物館や遺跡展示物の教育行政での条件整備も求められるのです。

 子ども達に将来、地域で活躍できる夢や希望をもたせるには、どういう進路指導、職業教育をしたらよいのか。都城盆地でどのようにしたら地域・企業と学校が一緒になって、地域の担い手になる子どもをどう育てるのかという教育目標を定めることができるのか。
 
社会教育法改正による地域学校協働活動の推進

 社会教育法が改正され、平成29年4月25日に文部科学省は、地域学校協働活動の推進にむけたガイドライインを出しています。ここでは、学校を核とした地域創生を積極的に打ち出し、学校には、社会に開かれた教育課程を推奨しています。地域学校協働本部が地域住民からつくられていく時代です。

 都城では様々な地域団体が積極的な活動をしています。しかし、それらが、統一的に地域振興計画や社会教育計画と結びついているわけではありません。つまり、行政による地域づくりの長期的な戦略が不足しているのです。
 
 都城では、盆地祭りの継続性の問題やおかげ祭りなどとの連携・各種機関や団体との横のつながりをつくる必要性と講座の開設が求められているのです。地域デザインの仕事としての、地域社会教育計画と策定という社会教育専門職員が重要なのです。それは単なる社会教育職員がオーガナイザーになることではありません。 


 どの地域でも同様な傾向があります。地域デザインの仕事の実際はどのようなものでしょうか。まちの住民、行政、民間団体とともに地域づくりやビジョンづくりをするコーディネーターやコンサルタントの仕事がこれにあたります。また、地域づくりの戦略づくりが求められるのです。ここいは、地域振興計画と社会教育による人材育成という仕事が長期的な社会教育計画と結びついて展開される必要があるのです。

 

村づくりと公民館

村づくりと公民館

 

 

 
 

民主主義と精神活動ートクヴィルの「アメリカ民主政治」から学ぶ

  民主主義制度は、自発的結社や団体など多様な価値を認めていく社会システムがなければ、国民を総動員して専制的な国家になっていくのである。自発的結社や団体をつくりあげていくのは、地域で生活している人々の精神的な活動が必要である。また、真の民主主義には、理性ある人間的感覚を基礎として、差別から平等への自由なる活動の保障が不可欠である。
 人類の歴史は、民主主義の制度でフランス大革命の自由・平等・友愛のあとに、ギロチンがあり、ナポレオン帝政を生み、ドイツでは議会選挙の多数によってヒトラーが生まれた。また、日本では普通選挙が生まれて、軍部の独裁のもとに国民総動員法が議会のもとで進められた。
 排除の論理から敵をつくるのではなく、多様な価値を認め、異なる文化や価値での世界の共存・共栄と人間の尊厳を尊重する社会システムとその教育活動がなければ民主主義制度は独裁による耐えがたい圧政を人々に強いていくのである。
 アメリカはフランスのように革命によって、民主主義を達成したのではない。 トクヴィルアメリカ民主政治下巻で民主主義が知的運動に及ぼす影響、感情への民主主義の影響、風習に対する民主主義の影響についてのべている。
  アメリカ連邦で民主主義が知的運動に及ぼす影響でアメリカ人の哲学的方法は思弁的な研究をせず、書物の中からくみ取るのではなく、自らの判断と尺度を習慣としているとトクヴィルはみるのである。まさに、アメリカは経験主義によっての自らの価値判断をするというのである。
 アメリカ人は民主的社会状態と民主的憲法をもっているけれどもフランスのように民主的革命を行ったわけではない。そこには、旧信仰を動揺させ、権威を無力させた。つまり、共通観念を忘却したりする革命は存在しなかった。人々は判断において互いに対立したり、個人的にのみ知識経験を求めたりするようになっている。アメリカは社会を二分するような厳しい対立のなかで、旧体制に対するギロチンなどにみられるように徹底した排除という革命的変革を経ての民主的社会状態の確立ではなかった。
 トクヴィルは、アメリカの人々が結びつきを利益によってのみ互いに結びついているとしている。そこでは、人々の意見は集合することも固定することもない。そこでは、個人的理性を使用し、狭い限界内にひきとどまれざるをえない。自分の狭い枠に閉じこもってそれを世界全体だと判断しがちであるとトクヴィルアメリカの民主的状態をみるのである。
 
 世論の役割の重大性

 トクヴィルは、共通の観念なくして共通の行動はないと考える。共通の行動がなければ、社会は存在しない。 社会が繁栄するためには、市民たちがいくつかの観念によって結集し団結していなければならない。
 トクヴィルは世論の役割を重視する。市民たちが平等になり、一層に似通ったものになるにしたがって、各人が大衆を盲信する傾向にあふれてゆくので、すべての人々を導くものはますます世論になっていくとドクヴィルは考える。
  世論は、個人的理性に残存している唯一の手引きであるばかりではなく、無限な強力な権力をもっている。世論は、大きな権力になっていくことをトクヴィルは指摘しているのである。世論が問題になってくるのは、近代の民主主義社会の実現以降であり、封建的社会では問題になっていなかった。
 平等の時代には、人々は互いに似かよっているために、相互に信じあうことは全く必要ないのである。似通っていることは、為政者自身の意向がすべて人々の意見であるということと同じではない。近代の民主主義による最大多数の支配は常に非常に専制的になっていくのである。
 トクヴィルにとっての平等の時代に人々を支配している政治的法則は、世論の信仰であり、多数者を予言している一種の宗教となると考える。ドクヴィルは、世論が信仰として大きな支配力をもつとする。世論は社会を動かしていく大きな力になっているのである。現代でも世論が社会的に大きな力になっている。
  世論の形成においてマスコミの果たす役割も大きい。マスコミのあり方やマスコミと権力の関係も問われるのである。世論をどのように民主主義の社会的な制度にしていくのか。深めていく課題である。
 ところで、アメリカの精神は、著しく純物質的なものごとに関心を集中せざるをえないとドクヴィルはみる。諸情熱、諸欲望、教育、諸事情などすべては、住民は地上のものごとに関心を集中させ、事実上協力しているようにみえる。そして、民主主義の制度による多数者による専制が起きるのである。                
 知識の効用は大衆の目につくほど明らかになると知識の役割を民主主義との関係でトクヴィルはのべる。知識のもっている魅力を味わったことのない人々でも、その効果を取り入れるように努力するようになる。民主的に啓蒙された自由の時代には、人々を差別し、地位を固定させるものではない。
 民衆の社会的地位は、著しく速い速度で上昇したり、下降したりする。民衆が精神労働に関心をもち始める瞬間から光栄や権勢や冨などを獲得する重大な手段は、相互の間で抜群の成績をあげるようになる。知識が競争による手段として大きな効果をあげることが目に見えるようになる。
 知識の効用が社会的に大きくなることが大衆にわかることによって、科学、文学、芸術を研究する人々の数は膨大になる。驚くばかりの活発な活動が知識の世界にあらわれるとトクヴィルはみる。科学の大衆化、知識の普及の一般化は、大衆自身がその効用を競争社会のなかでみるのである。
  
 アメリカ人は理論よりも実用に強い関心をもつ

 トクヴィルのみるアメリカ人は、科学理論についてよりも、その実用について一層に強い関心をもっているとする。体系理論を警戒して、事実に近づき、これを自分自身で研究することを好むのもアメリカ人である。アメリカでは、科学の純実用的部分がすばらしく開拓されている。
  そして、実用に直接必要な部分の理論だけにアメリカ人は関心をもつ。民主的民族が科学に専念し、これを理解して尊重するのは、実利的面においてである。
 彼らは、自分たちが占めている地位にあきたらず、それを離れることは自由である。財産を殖やし、冨を手に入れ、労働を省略するあらゆる機械や、生産費を減少させる方便は、人間の知能の最もすばらしい努力に委ねる。トクヴィルは、アメリカ人の科学の関心は実用であり、体系的科学理論ではないとする。
  トクヴィルは、高級な科学的天職ということを信じている。大衆のうちから真理愛だけに熱中して純理論に没頭する天才がいつでも生まれてくるとはとうてい信じられない。
 人間精神は放任されていれば実用に向かって急いで駆けてゆく。第二の知的な効果しか没頭するようにさせないで、第一原因を考察するように精神を高めることが望ましいとドクヴィルは考えるのである。
 トクヴィルは問う。アメリカ人は、どのような精神で技術を研究しているのであろうか。生活を美しくすることを目的とする技術よりも生活を安楽にして快くするために技術を研究開拓するのである。美しいものよりも有用なものを習性的に偏愛するのである。
 貴族社会ではえり好みの少数の限られた買い手たちを目当てにする。労働者たちは、商品を開発する。そこでは非常に高い値段で売ろうとする。自分たちの腕でつくれる最上のものを常につくろうとする。
 民主主義社会では少ない費用で大量生産によって、商品の値段を決める。ものを生産する者は、多くの不完全な品物を非常に早くつくらせて安価に提供して消費者に満足させるようにする。
 奢侈欲は、民主主義時代に属している。新しい虚栄心を満足させるためには、技術はあらゆる欺瞞によるのである。本物とまちがえられる巧みなダイヤモンドの模造品をつくれるようになる。
 偉大な作品よりも、はなやかな楽しいものが求められ、そして実質よりも見栄がもてはやされる。これらのトクヴィルの指摘は、資本主義的な消費社会をつくってきたことでの問題を深めていくうえで重要な指摘である。
  本物よりも模造品がはびこり、偉大な作品よりもはなやかな楽しい売れる商品が重要視される。伝統的な職人の本物の技術よりも機械で効率的な大量生産してできた安価なものが重宝される。ここでは、品質の競争、技術的な正確さと高度な洗練された精巧さはよりも安価で見栄えが優先されていくのである。

 アメリカでの文学や雄弁家の誇張した表現

 トクヴィルは、アメリカを今日における文学に最も無関心な文明国とする。アメリカの住民たちは、本来、いまだに文学をもっていない。雑然とした群衆がいるのであり、その知的欲望は常に変貌し、共通の伝統と習慣によって精神を結び付けられない。すべて同一の教育をうけていない。同一の文化的啓蒙をもっていない。文芸の何らかの気風をもっている人々は政治的生涯を送っているか、精神の悦楽をみつけて味あうために逸脱できるような職業を選んでいるかである。
 これらの人々は、文芸上の楽しみを自分たちの生存の魅力としていない。生活の真面目な労働のさなかで一時的な必要な気晴らしとして文芸的娯楽を得るためである。そこでは、文芸について優雅なものを感じるだけの深い知識を身につけていない。
  トクヴィルは、アメリカの作家と雄弁家は、自ら好んで誇張に陥り、アメリカ人の話は始めから終わりまで、ゆるみなく華麗で大げさであるとする。そして、あらゆるものについて情景や描写をやたらに多くしている。
 イギリス人たちがこのような欠点に陥ることはまれである。その原因は、アメリカの各市民は習慣的に非常に小さな対象を考えている。アメリカの市民がもっと高いところに眼をむけると、彼らは、巨大な社会像、または、偉大な人類像だけを認めるにすぎない。
  そのとき、かれらは、甚だ特殊な理念、甚だ漠然とした概念のみをもつのである。この非凡な対象のおかげでそれをきっかけとして、自らの生活をゆさぶり、楽しいものにし、こまごまとした複雑な配慮から逃れていることに同意しているのである。非常に広大な概念と並外れて異常な描写とを要求するのは以上の理由からであるとトクヴィルはのべる。
   演劇についてもトクヴィルは、半ば粗野の愛好が劇場に入り込んでいるとしている。アメリカの大衆によっては、娯楽の楽しむために準備や研究も必要ではない。没頭している仕事の最中に、無知のなかでも享楽できる娯楽が必要である。貴族的国民の劇場とは異なるのである。
 博識者たちと文人たちとが、人民の好みに対して貴族達が自分たちの洗練された趣味と性情を優越させるために、苦心を払っているのである。人間性を舞台で描写することに自分たちの美徳、悪徳をえり好みする。
 このことは、人間のある一面のみを描写することになる。しかし、アメリカの民主社会では、えり好みをせず、地位や感情や理念などの混合が入り交じって状態が舞台で表現されるのが好まれる。トクヴィルは、貴族階級国民とアメリカの大衆の好みがあらわれるとしている。

 貴族時代と民主主義時代の歴史観の違い

 貴族時代と民主主義時代とは、歴史家の著し方が異なるとトクヴィルはみる。貴族社会時代の著作は、歴史的な事件を個人の意志と人々の気質とに従属させてものごとを著す。貴族時代の歴史家は、あるひとりの人間の及ぼしうる影響を大きく考える。そして、群衆の運動を説明するには、個人の特定の行動までさかのぼらなければならないと信じる。
 しかし、民主主義時代の歴史家は、人類全体の運命、民族全体の運命に対する個人の影響を認めない。個々のすべての事実を一般的な大原因によって説明する。市民たちがひとりひとり弱いときは、大衆の上に極めて大きな永続的な権力を行使するものはみつからない。つまり、諸個人は大衆に対して全く無力のようにみえる。
 そのために、歴史家は、人間精神の自然的に一般理性を探究するようになる。民主主義時代の歴史家でもっとも危険な傾向をもつのは、民族全体の運動を意志的なものではないと、社会を支配しているある超越力にあると信じる傾向である。そこでは、民族の運命を不動の神の摂理にか、盲目的な宿命にかに従属させるかである。
 民主主義時代の歴史家たちにとって宿命論は多くの魅力をもっている。トクヴィルは、この宿命論は危険であるとする。自由意志を疑いすぎ、自らの力の弱さを狭く感じているのである。
 宿命論は、弱い人々でも社会に一体として結合して、力と独立を与えていることをことを全く不明瞭なものにしてしまう。トクヴィルは、自由意志による人々の結合の力が社会を動かしていくということを強調しているのである。
   トクヴィルは、民主主義時代は、自由が特性を形成するものではなく、人々を煽動する主要な情熱は平等への情熱とする。そして、自由と平等の害悪について次のようにのべている。
  政治的自由の極端なものは、諸個人の平安、資産、生命を危うくする。極端な平等をつくりだしうる諸害悪は、すこしずつあらわれるにすぎない。それらの害悪は時たま眼につくにすぎない。これらの害悪が最も烈しいものになっているときは、人々は害悪になれてしまっている。自由が与える福利は、長期間の経過のうちにのみあらわれてくる。これらの福利を生んでいる原因を忘れがちであるとトクヴィルはみる。

 個人主義と公共性の醸成方法

 個人主義と利己主義について、トクヴィルは次のようにみる。個人主義は、反省的な平和的感情である。自分を孤立させ、家族と友人たちとともに大衆から離れたところにひきこませる。みずからの小社会をつくりあげたあとで、大社会にまかせ放任するのである。個人主義は民主主義的起源のもとにある。地位が平等になるにしたがって、発展する傾向がある。
 利己主義は、自己自身の熱情的な誇張的な愛である。それは人間を自分ひとりだけに結びつけるようにさせるし、そして何ものにもまして、自分を偏重させるようにする。
 利己主義は盲目的な本能を受け入れ、個人主義は堕落した感情よりも、むしろ誤った判断から生じる。個人主義はその源泉を心の悪徳と同様に、精神の欠点に、くみとっている。
  利己主義は、すべての美徳の芽を枯らしてしまう。個人主義は、初めに公徳の源泉だけをからす。けれでもしまいには個人主義は他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そして最後に利己主義のうちにのみこまれる。以上のように、ドクヴィルは、個人主義と利己主義の違いを区別し、利己主義の危険性を指摘するのである。
 アメリカ人は自由な制度によってどのようなして個人主義と闘ってきたのであろう。このことについて、ドクヴィルは次のように考える。市民たちが公務に専念するときは、個人的利益から引き離される。共通のつとめが共通に取り扱われる瞬間から同類者たちと協力しなえればならないことを悟る。
 公共体が支配するときは、公共的善意の価値を感じない人はひとりもいない。人々の尊敬と愛情とを勝ち取ることによって、公共的善意をうけるようにつとめない人はひとりもいない。
 そのときには、人々の心を冷酷にし、分裂せせるいくつかの情熱は魂の奥底にひっこんでいく。傲慢の姿はかくれ、軽蔑の姿をあらわさない。自由な政治の下では、大多数の公務員が選挙される。選挙は陰謀や中傷などが起こり、憎悪が人々の相互の間にもたれる場合がある。これらの弊害があるが、選ばれたという欲望は、すべての人々に支持されたいとし、永続的に互いに接近させる。
 市民たちに、一緒に行動する機会を、そしてかれらが相互に依存しあっていることを毎日感じさせる機会を限りなくふやす目的で、領土の各部分に政治的生活を与えるようにする。トクヴィルは、市民が一緒に活動する機会を日々提供することによって、相互に依存しあう公共的な関係をつくりだしていくとする。
 そして、公共的福祉のために相互に協力する必要性を感じさせるためには、国の大事を処理する政治に参加させること以上に、地区的な小公務を処理する行政を市民に負担させることが必要であるとする。長期に亘って続けられる小公務の達成と人目につかない親切な世話、恒常的な善行の習慣が求められる。
 そして、公平無私の信頼のもとで、大多数の市民たちは、自分たちの隣人たちと親しい人々との愛情を尊重するようになる。この地方的自由によって、市民たちを引き離す本能にもかかわらず、人々は相互に絶えず近づきあうようになる。ここでは、相互に助け合うようなるとトクヴィルはみるのである。

 民主主義社会での結社や団体の重要性

 結社の役割について、トクヴィルは問題提起しているのである。民主的民族では、すべての市民がひとりひとり独立しており、ひとりでではほとんど無力である。政治的目的で団結する権利も好みももっていなければその人の独立は大変に危険にさらされる。
 彼らが、日常生活で団結する慣習を身につけていなかったとすれば、文明そのもが危うい状態になる。個々の人々が共通に大事をつくりだす能力を身につけていなく、孤立的に大事をなす力を失っていると、その民族はまもなく野蛮状態に後戻りすることであろうとトクヴィルはのべる。
 民主主義が発展していくと、人間が自らの生活に共通な必要なものを自分ひとりではつくれなくなってゆくとドクヴィルは考える。そして社会力(政治権力)の任務は絶えず増大していくとする。
 社会力は団体に代替えすればするほど、個々の人々が団結する理念を失って、社会力に助けてもらいたいという欲望は高まっていく。社会力の増大と個人の無力化は絶えず増えてゆく。このとき、公共的行政は、孤立的な市民が十分に遂行することのできないすべての産業を統制することになる。トクヴィルは、社会力としての公共的な行政の強力な統制を指摘するのである
 人々の相互作用によってのみ感情と理念は新しくされる。そして、心が拡大され、精神が発展するというのがトクヴィルの基本的な考えである。民主国家では、この相互作用が殆ど皆無である。このために、人為的に、この相互作用をつくりださねばならない。
 民主国では、自然状態で、社会力のみが存在している。この社会力は、常に不十分でしばしば危険なものになるとトクヴィルは警告する。つまり、政府は絶えることのできない圧政を行うことになるというのである。なぜかというと、正確な規則を履行することしかできないからである。
 政府は、自ら奨励する感情と理念とを強制する。政府が全く市民たちを感動させないような感情と理念とに、真実に関心をもって、それらを普及させるべきだと信ずるならば一層悪いことになる。それゆえに政府が感情と理念の活動しないことが必要であるというのがトクヴィルの主張である。
 このトクヴィルの見方は、多数派民主主義が独裁政府をつくりあげていく危険を的確にみている。政治的権力は相互作用によっての感情を一層に拡大して、為政者の意のままに専制をして、国民に絶えがたい圧政をしいていくというのである。その圧政は国民の熱狂的な統合された感情によって、打ち消されていく。多数派民主主義が国民を感情的に統合して、独裁国家を生み出していくのである。
 ところで、民主的民族で、地位の平等が消滅させる有力な諸個人にとって代わるべきものは団体である。人々が文明人としてとどまり、または文明人となるためには、人々の間の平等が増大するのに比例して、団結の術が発展し、そして完成させることが必要である。
 トクヴィルは、民主主義が発展することによって、個々人の自発性による結社や団結が自然状態では衰えていくとする。意識的に団結の術を発展させていかねば政府による圧政で危機的な状況になるというのである。
 多数派民主主義の独裁を防止していくうえで、個々人の自発性による結社や団結が大切であるとするのである。この自発的な結社の力がなければ政府の一方的な国民への統合された感情によって独裁がつくりあげ、国民の総動員が行われるのである。
  トクヴィルは新聞と団体の関係につても次のようにのべる。新聞は人々が一層に平等化することで、個人主義が一層恐るべきものとなるにしたがって、重要になっていく。民主国では、新聞がしばしば市民たちに、極めて軽率な企画事業を共同で行わせるようになる。新聞がなかったならば自発的共同の活動は殆どない。
 新聞は多数の人々に同一の構想を暗示する効果をもっているばかりでなく、人々が自ら考えている構想を、共同して実現する手段を与える。 新聞は、団体をつくるし、団体は新聞をつくる。
 新聞は多数の人々に共通の感情をつくりだす。この条件を満たすのみで存続できる。それ故に、新聞はその常習的読者たちが成員になっている団体を代表している。団体の存続には、新聞の存在が不可欠である。
 政治的団体が禁止されている民族では、市民団体はまれであるとトクヴィルはのべる。市民生活では、同一利益が自然的に多くの人々を共同行動にひきつけることはまれである。政治団体は、年齢、精神、財産などによって自然に引き離されている諸個人を接近させ、接触させる。
 政治団体では、人々は自分たちの意志を、他のすべての意志に従属させることを学ぶ。そして、かれらは、自分たちの個々の努力を共同的行動に従うことを学ぶ。政治団体はすべての市民の大きな無料の学校としてトクヴィルはみるのである。民主国では、政治団体を一種の本能的恐怖を感じている。政府は、あらゆる機会に団体と闘っている。
 しかし、政府は好意をよせる市民団体もある。政府に好意をよせる市民団体は、公の仕事から別の方向にそらせることに役立っている。市民たちを革命から遠ざけ、そらすようにしている。
 すべての年齢のアメリカ人は、団体への一般的な好みを培う。団体に親しんでいるのは、政治団体である。アメリカでは団体で多くの者が一緒になって互いに顔をあわせて話し合い、理解しあっており、あるやる種類の企業を共同でしている。トクヴィルは、以上のように市民団体や政治団体の役割についてのべるのである。

 実利説と文化的教養を身につける学びの大切さ

 アメリカ人は実利説によって、どのように個人主義と闘っているのかとトクヴィルは問う。貴族制時代は徳の美しさに絶えず語られたが、アメリカ連邦では、徳は美しいとは殆どいわれない。
 アメリカ人にとって、徳は有用であると主張する。市民たちは、個人的利益がすべての人たちの幸福に貢献できないかと探究する。私益が一般利益と出くわすときを発見したとき、私益は善をなすと信じる。アメリカ人の実利説は一般に容認されている。この説は大衆化されている。
 ヨーロッパでは、実立説は、俗悪で下品であるとされる。アメリカにおけるほど実利説は普及していない。アメリカ人たちは、自分たちの生活の殆どすべての行為を、実利によって説明する。彼らは啓蒙された自愛心によって、絶えずお互いにどうして助け合うようになるか、自分たちの冨の一部を国家の福利のために、どうして自発的に犠牲をあえてするのかと説明する。
 これらのことに、トクヴィルは、そのとおりになっていないことを次のように指摘する。市民たちは、自然の公平無私と、無反省な飛躍に身を委ねる。
 実利説は、偉大な献身をつくりださないが、日々小さな犠牲を暗示する。この説は人間を有徳なものにすることができない。しかし、この説は規則正しく節度ある、穏和な、用心深い、自主的な市民大衆をつくる。そして、直接的には意志によって徳に導かないとしても、習慣によって知らずしらずのうちに徳に近づける。
 この説は、どんな知能をもった人々にもわかりやすいので、各人はこの説をたやすく知り、苦もなく保持している。トクヴィルは、実利説を現代の人々の要求に最も適合しており、人々を自制させる最も有力な保障であるとみているのである。
 個人的利益が行動の主要な原動力となっていくことで、かれらが自らの個人的利益をどのように理解するかが、社会的な徳にとって大切である。市民たちが平等になっても、無知で粗野のままであるならば、彼らの利己主義がどのように極端な愚鈍なものに向かっていくは、とても分かったものではない。どのような恥ずべき惨禍におちこんでしまうか予言できない。
 実利説は、人々をあらゆる努力をはらって啓蒙すべきである。盲目的な献身と本能的な徳との時代はすでに遠ざかっている。自由、公共的な平和、そして、社会的秩序自体が、文化的教養なくして実現されない時代だからである。
 このように、トクヴィルは、個人的利益が人々の幸福、公共の福利に繋がっていくという実利説に、文化的教養をもたなくては、恥ずべき惨禍におちこんでいくことを示しているのである。文化的教養を身につけていう人々の学びの大切さを強調するのである。
 実利説と宗教の関係についてトクヴィルアメリカ的特徴につて次のようにのべる。人間は自らの知性によって、神的思想がはいりこむ。人間は神の目的が秩序であることも知る。人間はこの偉大な企画に自由に参加し協同する。この秩序のために私益を犠牲にする喜びをもち、報酬を期待しない。宗教的な人々の唯一の動機が利益であると信じていないとドクヴィルは考える。
 アメリカにおいて、利益は、宗教自体が人々を導くために用いる主たる手段であるとドクヴィルはみる。そして、宗教が大衆をとらえ、大衆化するようになっていくのは、この利益の面である。アメリカ人は、聖壇の下に導いているものが心情よりも理性であると思われほどに冷静に整然とした計算高いものがみいださせる。
 アメリカ人は、利益によって宗教にしたがっているばかりではなく、宗教にしたがうに当たってもたらされる利益を、この世にうちにいているのである。アメリカ的宣教師たちは、聴衆に一層よくふれるために、宗教的信仰がどのような自由と公共的秩序とを促進させているか日々明らかにしている。

 アメリカ人の物資的享楽欲と福祉の不安

 トクヴィルは、民主的民族のなかで生活している富者にたちの物資的欲望の状況について次のようにのべる。彼らは、貴族社会の外れた享楽の充足よりも、自分たちのささやかな欲望を満たすことを心がけており、小さな願望の充足で、常軌を逸した激情には陥っていないとしている。
 民主主義時代の人々が物資的享楽に対して抱いている特殊な好みには、自然的に秩序に反対していない。それどころか、その好みはしばしば満たされているために秩序を必要としている。この好みは風習の規則正しい敵でもない。善良な風習は、公共的安寧に有用であり、産業を促進し、一種の宗教的道徳観と結びつくようになっている。
 トクヴィルにとって、アメリカは世界中で一番幸福な境遇におかれてている人々であり、しかも最も自由で開花された人々であると考えている。しかし、彼らの容貌は暗雲におおわれている。歓楽にも厳粛であり、悲痛なおももちを表している。幸福な境遇におかれているのに、漠然とした不安になやまされているのはなぜかとトクヴィルは考える。
 彼らは幸福をすべてとらえても、しっかり握りしめていない。彼らがもっている幸福はまもなく手から離して、新しい幸福の追求に急ぐのである。家を建てると他人に売る。果樹を植えると果樹園を他人に貸す。畑を開墾すると収穫物は他人に他人にまかせる。あるひつとの職業につくと、それをやめてしまう。ひとつの場所に居を定めるとまもなく他のところに自分の変化を求める。
 この世の幸福を求めて自ら常にせきたてられている。彼の魂を一種の不断の振動状態においているため、魂は苦難、恐怖、悔やむ、恨みで満たされている。このために計画と場所とを変えるとドクヴィルは解釈するのである。
 門閥と財産の特権が打破され、平等になることによって、すべての職業が開放され、自力でどんな職業の最高位の地位に到達できるようになると、人々は野心と広大な希望を抱くようになる。
 しかし、平等は市民たちの願望を拡大させると同時に、あらゆる面で彼らの力を制限する。彼らはすべての人々から競争に出くわす。人々が互いに似かよっており、同一の道をたどり、彼を圧迫する。群衆のなかをつきぬけて素速く前進することが困難であることは明らかである。平等が生んでいる本能と、この本能が満たされるために、平等の提供する手段との間に恒久的対立がある。
 この対立は、人々の魂を苦しめ疲労させている。トクヴィルは、平等社会になったことによって、同一の志向をもって競争する人々が、常に上昇志向をもって、苦悩に陥っていることを指摘しているのである。
 トクヴィルは、公共的安寧を大なる福利であることを認めるが、同時に、公共的安寧が圧政に陥ることも指摘している。物資的享楽への好みが知的啓蒙よりも、自由の習慣よりも物資的享楽が一層急速に発展するときに、人々の繁栄に結びついている密接な紐帯を認めないのである。
 公共的なものごとを市民たちは、考えようとしなくなる。このような危機のときに、機敏な野心家が政治的権力をもつならば、自由を奪っていく。ドクヴィルは公共的安寧が大なる福利であることを認めるが、安寧だけを政府に求めるのは、自らの福祉の奴隷であるとする。
 すべての民族が圧政に陥るのは公共的な安寧を通じてである。公共的な安寧だけでは十分ではない。多数派民主主義の独裁は、大衆の名のもとに若干の政権担当者によって、気まぐれにすべてのことを処理し、意のままに法律を変え、そして風習に圧政を加えるのである。公共的情熱・福祉の情熱と自由の情熱の結合が必要である。市民たちの大衆が私事のみに没頭しているときに、どんな小さな党派でも、公務の主人公となることをあきらめたり、絶望したりすべきではない。
 アメリカ人は世界ではたった自分一人であるかのように、自らの私利に没頭している。しかし、私利を忘れていたかのように公共的なものに献身する。また、あるときは、最も熱心な愛国心によって活気づけられている。アメリカ人たちは、福祉のため、自由のためにと強い情熱を交互にあらわしている。
 アメリカ人は、地方において、福祉の情熱と自由の情熱を結合している。自由の内にその福祉を最上の手段と最大の保障と見て、一方を地方によって、他方で地方を愛して結合している。それ故に、公務にたずさわることが自分たちの仕事であるとする。政治によって自分たちの福利を手に入れることができと考えていることをドクヴィルは強調するのである。

  本来の風習に対する民主主義の影響

 地位が平等することによって、風習は緩和する。地位の平等化と風習の緩和は相互関連の事実であるとドクヴィルは語る。貴族的民族では、各カーストは自らの意見、自らの感情、自らの法律、自らの風習、自らの生活様式をもっている。それゆえに、各階級の人々は、他の階級の人々が感ずることを理解することができない。
 しかし、農奴は、自然的に貴族たちの運命に無関心であっても、貴族たちのうちの自らの首長である貴族のために献身しなければならないと思っている。貴族民族では、人間に対してはなく、家臣または領主に対して与えられねばならないと信じていた。人々は人類全体の惨禍に対してでは無く、若干の人々の災難に対して、極めて敏感であったのである。
 身分がほとんど平等化される民族では人々は同じような考え方と感じ方をもつようになる。各人は他のすべての人々と同じ気持ちでものごとを判断できるようになる。各人はどのような惨禍でもたやすく感じることができる。
 しかし、外国人または敵にたいしてはそうわいかない。想像によって各人はこれらの人々の立場に自分をおくことができる。ドクヴィルは敵と外国人については、社会が平等化されても同じように惨禍にたいして同情をもたないとするのである。そこには、厳しい相容れない感情があることを示しているのである。
 トクヴィルは、アメリカにおける奴隷の存在で、社会的な差別の厳しさを次のように説明する。アメリカの特異な状況は、奴隷を取り扱う社会状態から生まれる。アメリカ連邦の黒人の物理的状況が厳しいところは他の世界にはない。奴隷は、恐るべき惨苦、絶えず極めて残酷な懲罰にさらされているのである。
 奴隷の主人たちは、殆ど憐れみを起こさない。奴隷関係は災厄であるとみている。自分たちと平等でである人々には人道的になるが、奴隷に対しては平等が停止し、同類者たちの苦痛を感じなくなっているのである。
 それ故に、人間のやさしさ、おだやかさをつくりだしているのは、文明や教養であるよりも、むしろ人間社会の平等であるとドクヴィルは強調するのである。アメリカでは奴隷に対しては、人間社会の一員になっていない、差別的な位置であるのである。
  
 アメリカの家族と民主主義

 アメリカの家族について、トクヴィルは、息子たちを独立させるように、父親の権威の失墜を遠くからながめているとする。貴族的民族では、父は命令する政治的権利を与えられている。権力は、被支配者達全体に直接的に向かっていかない。父を仲介者として政府は、民衆を統治するとする。家長の権力あ非常に尊重され、非常に大きいのである。
 民主国では、共通法律に各人を孤立的に服従させるためにひとりひとりの人間を統治する。法律と風習によって人々は接近し、そして日ごとに同一の水準になるのである。法律と風習が一層民主化されることによって、父子の関係は緊密になり、なごやかなものになる。規則と権威から信頼と愛情が増大していく。社会的紐帯から自然的紐帯になっていく。
 民主主義が、兄弟達を相互に結びづけ執着させるのは、利益によってではなく、追憶の共同体、そして意見と好みとの自由な共感によってである。法律による市民相互を非常に緊密に結びづけることができるが、法律が廃止されれば市民たちは離れてしまう。人類における自然的感情をまげ、これを無力化することはまれである。
 民主主義は社会的紐帯から自然的紐帯をひきしめ、市民たちを引き離すと同時に、親族たちを接近させるとトクヴィルは考えたのである。
 風習をつくるのは女性であるとドクヴィルは考える。風習なくして自由な社会は存在しないともする。女性の地位は、重大な政治的利益をもっていると。
 アメリカの若い女性は、たわいものない臆病や無知をあらわすのはまれであり、ヨーロッパの若い女性のように、誰にでも気に入れられたいと思っている。けれでもどのような犠牲を払わねばならないかを正確にアメリカの女性は知っている。
 彼女は純潔な精神よりもむしろ純潔な風儀をもっている。彼女たちは、自分たちの考えと言葉とを実に巧みに大胆適切にあやつりながらきりぬけるのである。これがアメリカ女性のならわしである。
 トクヴィルは、女性の情熱の取り扱いで、アメリカ人は、自ら闘う術を若い女性に教える方法として、 世の中の腐敗堕落を隠すのではなく、彼女がまず初めてそれを見て、自らこれをさけるように訓練する。若い娘の無邪気さを過度に尊重することよりも、彼女の貞潔を保障することを一層強く望んでいるのである。
  さらに、アメリカ人たちは、清教徒的国民であると同時に商業的民族でもある。宗教的信仰並びに産業的習慣によって、女性から献身を要求している。自分たちの実務のために女性の歓楽の持続的犠牲を必要としている。
 アメリカ連邦では、過酷な峻厳な世論の下で、女性は家庭的利益と義務との小さな境界内に用心して閉じ込められ、外にでることを禁じられている。若い女性が社会で出て行ったときに、社会でこれらの概念が堅固に確立されていることを知るのである。
 この慣習から離脱することは自らの平安と名誉を危うくし、社会生活までも危険にさらされることを確信するようになるのである。
 夫を選ぶときに、アメリカの女性は、世間を自由な眼で眺める訓練で啓蒙され、冷静で厳しい理性によって、女性の幸福の源泉を夫婦生活の家庭にあることを学んでいるのである。トクヴィルは以上のようにアメリカ人の女性たちがもつ習慣について考えるのである。
 
 アメリカ人の男女の平等観

 トクヴィルは、男女の平等について次のように考えている。男女を似通ったものとして、同一の職能を与えて、両性に同一の義務を課し、同一の権利を与えるという。両性の平等化は、両性を共に堕落させるとしている。アメリカ人にとって、女性と男性との間は、自然的に非常に大きな相違があるとドクヴィルは考えている。
 アメリカ人は、男性と女性は同一ではなく、それぞれ異なった諸機能、異なった任務ある。そのことを尊重していくことが社会的進歩とアメリカ人は判断しているとしている。アメリカ的女性には、家庭の外部的実務に指導的にたずさわったり、商売を経営したり、そして政界に入り込んでいる女性は見いだされない。
 けれでも、なおまたアメリカには、肉体力の発達を促すような骨のおれる農耕労働や、その他の苦しい仕事に没頭させる女性も見いだされない。アメリカでは性的な分業が社会的にされているとドクヴィルはみるのである。
 アメリカの男性は、ヨーロッパで女性に集中するような色眼を使うことはない。男性は常に自らの行為によって有徳であり、優雅でやさしいと思っている。アメリカでは、女性の精神的自由を非常に尊重している。
 このため、女性たちの面前で彼女たちをきずつける言葉をきかせることのないように自らの談話に非常に用心するのである。アメリカでは若い女性は、一人で何の恐れも抱かずに長い旅を企てる。以上のように、トクヴィルは、アメリカの男性の女性に対する精神的自由の尊重をしていることを強調するのである。
 トクヴィルの生きていた19世紀中頃のアメリカの時代からみるならば、現代アメリカの女性社会的進出が大きく躍進している。女性は家庭生活の機能、男性は、社会的仕事という両性分業論は大きくかわっている。
 女性の経営者や女性の政治家の活躍は、今日のアメリカでは数多くみられるのである。トクヴィルアメリカ社会において両性の分業論をみたのは、貴族社会のなごりや、封建的制度ではなく、自由なアメリカの産業社会にみられたことである。
 両性の分業論の源泉がどこからきているのか。トクヴィルの男女の自然的機能的相違論や初期資本主義の発展や開拓時代のアメリカ社会、そして資本主義の発展による家庭にあった様々な私的機能が社会化していくことによっての女性の社会的な適切な機能も増大していくのである。
 つまり、子育ての社会化ということで保育園、幼稚園の増大、食堂やレストラン、惣菜、介護など様々な家庭の機能が社会化していくのである。このなかで消費市場も拡大していく。この社会化が保育所や介護など公的な福祉機能として、政治の役割も大きな位置を占めていくのである。
 
 アメリカの公的な生活と私的生活の区別

 アメリカ人は私的な生活の楽しみと公的な政治生活の場面を明確に区別しているとトクヴィルはみる。アメリカ連邦では、市民たちは相互の間に優劣の地位をつくっていない。彼らは相互的に服従をも尊敬をも義務づけられていない。彼らは一緒になって自治的に裁判し、そして国家を統治している。すべて共通な運命に影響することがらを取り扱うために団結している。
 しかし、政治的集会、裁判所内で容易にまじりあう彼らは、私生活の楽しみを別々に味わうために、非常に用心して著しくはっきりと区別される小集団にわかれるのである。政治的社会が拡大されることによって、私的関係の範囲は狭まれ、小さく引き締められることが期待されるとトクヴィルはみる。
   アメリカ人の謹厳な態度は彼らの自尊心から生まれているとトクヴィルは信じている。民主国では、貧乏人でも自らの人格的価値について高い理念をもっている。
 彼は、他の人々が自分を尊重していることに満悦している。自らの欠点をみつけられないように、自らの言葉と自らの言葉に慎重な注意を払っている。尊敬される人間となるために、慎み深く厳格な態度を持つことが必要であると思っている。アメリカ人は、この態度を本能的にもっているとトクヴィルは驚いているのである。
 ところで、独裁制では民衆は馬鹿騒ぎをして喜んでいるとトクヴィルはみる。民衆は心のうちに恐怖を抱いているために憂鬱であり、内気である。専制王国では、生活の最も重要な配慮から逃れるために、民衆はしばしば平等で陽気な気分をあらわしている。しかし、すべての自由な民族は慎み深く厳格である。
 トクヴィルの指摘することで、独裁制では民衆は、馬鹿騒ぎをして喜んでいるという。このことは、民をかえりみない独裁の為政者に対する大きな不満のあらわれてとして、いつの時代でもみられるのではないか。

 国民的誇りと名誉

 国民的な誇りはすべての民族に同じようにあらわれるのではないかとトクヴィルはみるのである。アメリカ人は、外国人との関係で少しでもけなされることに我慢できないようで、いくらほめられても気がすまないとみえる。彼らの虚栄心は貪欲であるばかりではなく、不安と嫉妬で満たされている。絶えずものほしそうであるが、何ものも与えない。その虚栄心はとりこもうとしていると同時に、騒々しく喧嘩腰である。
 イギリス人は、他の国民をほめないが、自らに対してほめられることを少しも求めない。彼は、外国人から非難されても全く心を動かされない。彼は、誰に対しても傲然たる態度で、蔑視し、目もくれない。自尊心は、外部からの支持を必要としない。彼は自分だけの力で生きている。
  トクヴィルアメリカ人とイギリス人は感じ方と話し方で互いに非常に対立しているとみる。貴族国では、高官たちの特権は強大であり、この特権に基づいて傲慢である。
 彼らは、この特権を人格に固有な自然的権利として考え、自分の優越に平静な気持ちをもっており、特権を誇ろうとしない。この特権に何も言われても驚かない。国民的な誇りは控えめである。無頓着な傲然とした態度を自然にとるのであり、国民の他のすべての階級もこの態度をまねるのである。
 民主国では、地位が著しく変動するので、人々は常に自分たちの利益になるものを手にいれようとする。自らの美徳を他の人々にみてもらうためにひとめにさらすことを喜びと感じる。民主国では、自らを愛するような調子で自国を愛する。民主的民族の不安定な満足することを知らない虚栄心は、平等と地位との変わりやすいことに基づいている。
 民主主義時代に生活している人々は、多くの情熱をもっているが、その大部分は冨への欲望に終止している。人々がけちくさいのはなく、金銭がひどく重視されていらからである。市民たちがすべて互いに独立的であり、そして無関心で冷淡であるときは、金銭を払わなければ各人の協力は得られない。ドクヴィルは、民主主義時代に生きる人々は金銭が重要であることを指摘しているのである。
  トクヴィルの見方で、封建的諸制度は、愛国心をあまり必要としなかったとみる。封建的諸制度は、一人の人間の領主に熱中させることである。封建的名誉も、自国に忠誠であることを法則としない。愛国心は封建時代から近代になってからである。
 アメリカ的名誉は好戦的勇気を必要としない。アメリカ的名誉はできるだけ港に早く着くために太洋の荒波を冒して進む勇気、すべて災禍のうちで、荒野と最も烈しい災禍に、不平をいわずに耐える勇気、苦労して手に入れた財産をすべて失っても、殆ど気にかけずに新しい財産をつくるために、直ちに新しい努力をする勇気である。
 民主主義時代における名誉の諸規則は、以前のものと異なっているばかりではなく、明確さを減じているいるし、はるかにおおまかにゆるかに服従されている。
 民主国民での名誉は特殊な欲望を表しており、一層少数の人々によって感じられる。それに比例して奇妙なものになる。名誉の諸規則の数は貴族制の社会においてよりも民主的国民においては少なくなっており、はっきりしないので、必然的にその力も弱くなっている。
 名誉は、平等が進むことによってなくなっていくとトクヴィルはみるのである。つまり、名誉をつくっているもんは、人々の非類似と不平等とである。名誉はこれらの相違が影がうすくなるにしたがって弱くなり、そしてこれらの相違とともに掃滅するであろうとドクヴィルは名誉についてまとめるのである。

  まとめ

 民主主義と精神活動で、多数派民主主義は独裁国家をつくりだすということがトクヴィルの論である。世論は民主主義社会では大きな役割はもつが、人々の自発的結社・団体の醸成は、多数派民主主義の独裁、専制をつくらないために重要なことである。
 アメリカ人はイギリス人とは異なる態度をもっている。貴族社会のなかった平等化されたアメリカ社会では、公共性の醸成も大切にされ、地域の小社会で大きな機能を果たし、男女の平等観、女性の育ちもイギリスと異なるとしている。
 風習の役割は、女性がつくるものであるとする。アメリカ人は、公共的な生活と私的な生活を厳粛に区別しており、風習がその役割を果たしている。アメリカでは知的体系において、理論よりも実用説が支配的であり、それは、アメリカ社会がつくりあげたきた産業優先、商業優先の利益を重視する社会からである。
 トクヴィルは、以上のように、アメリカ社会をみつめながら、民主主義政治のあり方を求めた思想家である。「アメリカ民主主義の政治」下巻では、精神活動の側面から民主主義のあり方を論じたのである。







村づくりと学校ー奄美宇検村安室校区の親子留学から

 

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 

    村づくりと学校ー奄美宇検村安室校区の親子留学からー2018年10月6日・沖縄社教学会のレジュメ
                             神田 嘉延
 
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 1,問題の所在

 村づくりを社会教育からみていく場合に地域の人々の人材養成、個々の諸能力形成の問題がある。学校教育では、子ども・青年の諸能力形成があるが、地域人材養成という視点からは、地域教材による諸能力形成が欠かせない。本報告の親子留学は、従前の地域で暮らして人々ではなく、都会などの外からくる家族である。
 なかには、外国で暮らしていた子弟が祖父母と共に大都市では子どもが暮らせないということで、奄美宇検村に留学してくる世帯もいる。そこには、文化的な違いをもった親子世帯が、村の人々と共存して暮らしていくという大きな課題がある。親子留学ということで、現役世代の親たちにとっては、地域で暮らすための職場の確保、農業技術の課題などがある。それらを乗り越えての親子留学である。

 従前の山村留学のような子どもだけの留学で、地域の人が里親になるということではない。そこでは、学校教育の課題が大きくあったが、親子留学は、親自身が地域で暮らして行けるのかという独自の課題がある。ここには、今までの山村留学以上に、社会教育からの大人の人材養成、地域のリーダーの育成が極めて大切になってくる。そこには、新たな村づくりの課題が全面的に要求されてくる。
 村づくりの視点は、親子留学してきた世帯と共に、従前に村で暮らしてきた人々が、共存と相互扶助によって、共に地域で生きていくための諸能力の形成が新たに求められるのであり、そこでは地域全体が社会経済的に自立できることが求められる。その共に生きていく結び役が、Uターンである。

 農山漁村では、過疎化、高齢化が進行し、集落の機能さえも崩壊する危機がみられた。集落機能の崩壊は、人間的生活をおくれる社会経済基盤のない問題である。子育てをしていくために、学校の存在は不可欠である。地域に学校がなくなっていくことは、教育と文化的な側面から地域崩壊の大きな契機になっていく。

 学校は、地域住民にとって、文化の灯火であり、未来を担う子どもが地域で学んでいるということは、地域の活性化の基盤である。この意味で、地域の人々は学校教育の支援に積極的に貢献しようとするのである。学校の地域支援活動は、地域住民の村づくりの活力になっていく。学校の運動会は地域住民の運動会となっており、学校行事は地域の住民の行事となっている。

 また、学校での稲作体験学習などの地域教材のとりくみに住民が積極的に協力する。これは、地域の文化を継承していくためである。稲作が地域でなくなっても学校教育として、稲作体験学習をしているのも、その地域文化継承と食育教育のためである。

 本報告では、地域の自立発展という視点から、人材育成、地域の人々の自立のための諸能力育成の大切さを問題提起するものである。自立発展は、内発的な発展ということで、地域の資源、地域の人材、地域の伝統的な文化を生かしての生きるための経済を支えていくうえで、無視することができない重要な視点である。過疎化のなかで、現代の消費生活、情報化、教育の高度化、交通網の発展などから内発的な発展論では、自立した社会経済的生活が不可能になっている。

 また、都市と農村の経済的な生産力第一主義の不均等発展も著しく進行している。そこでは、持続可能性の問題も問われている。そのなかで、都市内部の矛盾も深刻である。日本の企業の国際化のなかで、外国で暮らす子弟も多くなっている。帰国子女の問題もある。大都市での厳しい学力競争の学校では、子どもが育てられないと農山漁村の学校を求める親もいる。ここには、都市での学校教育の問題がある。この矛盾を捉えながら、農山漁村の自然の中での人間的な暮らしの再評価も必要である。

 内発的な発展ということからの地域の諸能力の形成、人材育成ということを乗り越えて、都市と農村の連帯、不均等発展の矛盾から積極的な農山漁村への支援のもとに、自立的な発展の構築がある。
 本報告での過疎化した奄美宇検村の安室校区は、役場から車で約40分かかるところである。交通手段からみた場合、極めて不利な条件のところである。そのなかでの学校をまもろうとして、地域住民が親子留学に取り組み、新しい地域産業をつくりあげている。このことは、地域の自立的発展として注目するところである。

 2,本報告の奄美本島の宇検村安室校区の特徴
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  宇検村は、奄美群島の最高峰「湯湾岳」をはじめ険しい連峰によって、近隣市町と隔てられ、90%以上が山林に占められている。集落はそれぞれ、海岸沿いに形成されている。人口1765人(平成28年)14の集落で深い入り江の湾を取り囲んでいる。昔から漁業と林業で生きてきた地域である。
 
 宇検村の14集落は、それぞれ特色をもっている集落である。そのことが集落ガイドに出ている。集落ガイドによると、安室集落は、旧暦の8月初壬(みずえの)の日に迎え火の煙で先祖霊を呼び寄せ、シバサシの神様を祀っている。精霊殿と呼ばれる共同墓地には広いスペースが設けられ、集落の人々が集まり八月踊りで、ご先祖様を供養する行事が行われる。
 
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 集落の共同墓地は、3集落とも整備して島をでていった人々が供養のために戻れるように集落の人々が管理をしている。3集落とも神事のために、相撲の土俵が設けられている。3集落とも集会所があり、村人が集う場所を確保している。相互に助け合う結の精神が強くあるところである。
 安室校区は、宇検村のなかでもも最も南に位置する平田(へだ)安室、屋鈍(やどん)の三つの集落からなる。校区の人口は213人である。総世帯121戸、農業就業人口34人、農家戸数28戸です。このうち販売戸数は9戸である。タンカンや路地野菜が基幹作物であったが、65才人口が39.8%で過疎と高齢化が進んで地域である。
 
3,親子留学の動機とその実施過程

 平成21年度小学生4名、中学生3名にまで減少し、23年度以降の4年間は中学生がいなくなり、このまままでは、学校の廃校が確実視された。この危機的状況で安室小中学校を残したいという有志が全世帯を対象にアンケートを実施した。集落から子ども達の声が聞こえなくなるのは寂しい。今、対策を講じるべきであるということになり、安室校区活性化対策委員会を立ちあげた。しかし、20%の人は賛成でもなかった。人口減少は自然なことで、児童生徒減少による学校統廃合は仕方ない。教育は大人数で受けるのがよいという意見もあった。

 校区活性化委員会の中心となったのは、昭和33年生まれで宇検村生まれで、高校卒業後に関西の自動車会社に勤務して、16年前に故郷の安室校区平田集落にUターンしてきた前田博哉(まえだひろや)氏であった。村内の養殖会社に勤務し、平成25年まで活性化対策委員会の会長をしている。現在は、副会長である。現在の活性化委員会の代表は、後藤恭子さんでパッションフルーツを手がけているI・Uターンの代表格である。
 親子留学は住民と何度も協議しての結論であった。里親制度や寄宿舎制度を取らずに、募集が困難な制度をあえて取り入れたのである。親子一緒に安室校区に住むことが必要であるということである。親がこの校区に住んでもらうために、住民自身が留学してくる親子の生活を保障していくという取り組みが必要になってくる。養殖業での仕事や農業などの就労の斡旋が必要になるのである。

 留学希望者希望者は、まず体験留学をして実際に安室校区に数日間滞在し、学校に通い、地域の行事に参加して交流を深めることからである。地域活性化委員会は留学希望者との日程調整、体験用の住宅の準備、レンターなどの準備など様々な活動が要求されるのである。
 校区にある空き家の情報収集や、その持ち主との賃貸契約、改修費用の費用の捻出など村や持ち主との交渉をしなければならないのである。村の行政から親子留学世帯への援助として、児童生徒一人当たり月額3万円の交付がうけられるようにしてもらったのである。
 
 4,親子留学による地域活性化と地域の教育力の醸成

 平成22年から親子留学制度を実施してから、延べ14世帯、24人の児童生徒を受け入れている。現在児童数は14人、生徒数7人となっている。親子留学を始めたときの平成22年当時の児童数4人、生徒数3人であった。学校で学ぶ児童生徒数の増大で、地域に大きな活力が生まれている。地域全体のなかで移住者を受け入れる体制をつくり、移住者と共に在来ニンニク生産、パッションフルーツ生産などの特産づくりをしている。

 UターンやIターンを中心に安室校区活性化委員会をつくり、元気な高齢者も積極的に地域の担い手となって、地域営農や地域資源を活用した特産品開発にとりくんでいる。親子留学がきっかけとなり、集落ぐるみの地域農業の活性化がはかられているのである。
 高齢者の技術を生かして、在来ニンニクを生産加工して商品化している。村の結の館の直販所へ安定供給して、さらに、島外の企業との取引がはじまっている。これらは、UターンやIターンを中心に設立した「あおばとカンパニー」の役割が大きい。UターンやIターンと担い手農家で「共同防除」を設立して、高齢者のタンカン園の労力補充を行っているのである。耕作放棄地を活用して、新たな地域資源を生かしての農業の取り組みを行っている。

 パッションフルーツ栽培等は、新たな挑戦である。担い手農家に農地が集積している。結の精神を息づく共同売店は所和初期に住民の共同出資で運営してきたものである。集落で選出した従業員が交代で勤務しているが、安室校区にとっては、大切な地域拠点になっている。Iターン、Uターンの雇用先にもなっている。収益は資本金の繰り入れや住民の配当に割り当てられている。墓は、地域力で守っている。三集落とも共同墓地として整備して、宗派を超えて祖先との関係をつくっている。共同清掃や持ち回りの花当番を実施している。

 農協観光と連携して、農業体験を行う「援農隊」を受け入れ、都市農村交流を行っている。タンカンの収穫作業の軽減や地域農業の理解促進を目的に、高齢者から子どもまで参加して収穫体験イベントを実施している。安室校区でNPO法人環境教育推進協議会をたちあげ、地域食材の掘り起こし検討会をしている。

 安室校区活性化委員会が学校教育活動にも積極的に協力している。それは、稲作体験活動に典型的にみられる。地域教材として、稲作を年間とおして実施し、各集落の老人会が協力している。種まき、田植え、稲刈り、脱穀、餅つき、しめ縄つくりをしている。水泳教室や持久走大会等の学校行事に地域の人々がコース安全管理や応援をしている。

 安室校区活性化委員会は会長と対策本部を中心に山村留学班、企画班、農業班を分かれている。留学班は、移住者との連絡調整、学校との連絡調整、移住者の住宅確保・整備、移住者の雇用確保に関する情報提供、移住者体験ツアーの実施。企画班は、各種イベントの企画、移住者と住民との交流のための夏祭り、フリーマーケットの開催など。農業班は、耕作放棄地の解消活動、タンカン防除活動、ニンニクの生産販売。安室校区活性化委員会は、共同防除班や合同会社アオバカンパニーとの連携や3集落との関係強化、宇検村との産業振興課、教育委員会NPO法人、うけん市場、宇検村漁業協同組合、養殖場との連携を積極的にしているのである。

 

民主主義による多数派専制と教育ートクヴィル思想から

        民主主義による多数派の専制と教育ートクヴィルの思想よりー
                  神田 嘉延

 ドクヴィルによるアメリカ民主主義論

 トクヴィル1830年代のアメリカをみながら、フランスの民主主義を考える思想家であった。かれは、1789年のフランス大革命の「自由、平等、友愛」の民主主義の精神の成果を打ち砕いて、反動的な王政復古をもたらした1815年のルイ18世に対する1830年の民衆蜂起の7月革命にも国民軍として参加している。

 フランスは、1804年に近代民主主義にとって画期的な「法の前の平等」「国家の世俗生」「宗教の自由」「経済の自由」などのナポレオン法典を成立させた。フランスは、国民議会と国民投票によって人民の皇帝としてナポレオンを選んだのである。

 1830年の7月革命後に、トクヴィルは、フランスの民主主義を考えるためにアメリカ合衆国を視察する。その成果が、「アメリカの民主主義」の出版である。1835年第1巻と第2巻の出版をする。ここでは、アメリカの民主主義の政治、法律、陪審、社会の実態を明らかにした。そして、多数派による専制権力の問題点も提起した。第3巻は、1840年出版であるが、そこでは、民主主義が知的運動に与えた影響、アメリカ人の感情と民主主義の影響、風習と民主主義の影響、民主主義理念と感情とが政治社会に及ぼす影響について論じている。

 ドクヴィルは、1938年にフランスの下院議員に当選し、議会活動を続け、1849年に外務大臣に就任する。1851年にルイ・ナポレオン三世のクーダーで身柄を拘束され、政界を引退する。1856年に「旧体制と大革命」を出版する。1859年に死去している。

 ここでは、ドクヴィル・井伊玄太郎訳「アメリカの民主政治(上・中)」講談社と小山勉「ドクヴィル・民主主義の三つの学校」を読んでの社会教育論から感想をのべる。下の第3巻については、「民主主義と民衆の感情と風習」として別にのべる。
 小山勉によれば、ドクヴィルは「まったく新しい世界には新しい政治学必要である」ということで、民主主義教育論を説いたとしている。「民主主義の信条を活気づけ、その習俗を浄化し、その運動を統御し、その未経験を克服するために少しずつ公務処理を教え、その盲目的な本能を抑えるためにその正しい価値を教える」。
 この民主主義教育が今日、社会を指導する者に課せられた第一の義務であるとしている。民主主義の教育にとって必要なのは、未来に対して絶えず警戒心を抱かせ、その闘争に立ち上がる健全な恐れ、懸念をもつことであると。

 トクヴィル専制的な民主主義論と教育の関係

 民主的な社会状態は民主的な政治形態の発展を可能にする。ドクヴィルは、国民性は習俗を通して形成されるということから、それぞれの国の精神文化として、倫理的規範、慣習、統合的な形態の実態を重視したのである。アメリカでは人民主権の原理が習俗によって認められ、法律によって宣言されているとドクヴィルは考えたのである。

 ドクヴィルは、イギリス系アメリカ人の東部のアメリカ人では、民主主義は法律のなかだけでなく、社会生活のあらゆる細部にわたって見いだされ、民主主義の政治のもっとの長い慣行をもち、政治の維持に好都合な習慣をつくり、最も都合のよい思考をしているとみたのである。これに対してヨーロッパでは民主的諸制度の持続に習俗は軽視され、民主主義革命は実現されながら、革命を有益なものにすることができなとドクヴィルは考えるのである。

 さらに、フランスでは、中央集権が習俗化され、その行きすぎの抑制措置がなく、後見的権力と行政権力をもたらしたとする。フランスの大革命当初は、中央集権に反対し、地方生活の促進施策をもっていたが、実際は、人民主権と結合して民主専制を生み出したとドクヴィルはみる。これとは反対に、アメリカ連邦は人民主権原理に基づく地方分権が習俗された考える。ドクヴィルにとって民主主義を持続されるためには、地方分権人民主権、自由を習俗化しているとみるのである。

 フランス大革命後に民主的専制をつくりだしたとドクヴィルは考えたのである。万人の平等と主権だけでは、人間の尊厳を大切にする民主主義をつくりだすことはできない。民主的専制を可能にする「自由なき平等」は、近代民主主義制度の発展によって生まれたのである。
 ドクヴィルは、民主的専制の可能性を理論的に追求したのである。かれは民主主義に対する健全な恐れから民主主義教育のための自由体験学習の学校の課題を提起したのである。
 民主主義は権力者にいかに利用されてきたのか。民主主義は専制に利用されやすいというの問題意識からドクヴィルは、歴史的に考察したと小山勉は指摘する。社会状態が「民主的」であっても、すなわち平等の条件だけでは、自由なき民主主義という新しい専制が生まれるというのである。

 平等の一人一票制という「議会制民主主義」は、多数派による中央集権政府と行政機構の中央集権と結びつくことによって、人間の尊厳や自由の尊重を崩壊させる専制権力になるというのである。中央政府によってつくられていく法規範と中央集権的行政の遂行が人々を画一的に支配し、自由と人権を犯すというのである。

 多数派による新しい専制的な抑圧は、過去の時代に決してみられなかった全国民を無差別に一つの画一的な法規にの網目に従わせようと国民一人ひとりにまで降りて人間の尊厳の喪失による自由の抑圧になるのである。
 この巨大な権力は、人間の尊厳を失わせ、個人の意志、思考、イニシアチブと責任を弱め、市民を自立への準備をさせないという依存精神を病状化するというのである。これは、中央政府・行的中央集権と人民主権との結合によって生まれた産物である。
 人間の尊厳、自由の尊重のためには、多様性を容認し、少数意見を尊重して、地方分権地方自治の確立が極めて大切ということである。このためには、実際の生活に即しての民主主義の教育が不可欠になっている。
 地方自治は自由のための小学校であり、陪審は法的精神の学校であり、共同の精神の学校である相互の協同結社になるアソシアシオンが必要であるとドクヴィルの民主主義と人間尊厳の自由の政治論研究から小山勉はまとめているのである。

 この指摘は、議会制民主主義の多数派による専制と中央集権的な行政機構が結びことによって、人々の人間の尊厳、自由が剥奪されていく危険性があるのである。これは、現代にも通ずる重要な指摘である。つまり、現代の「議会制民主主義」の制度は、人々の人権を抑圧し、自由を奪っていく過酷な独裁が生み出すことがあるのである。
 井伊玄太郎氏の訳したドクヴィル著「アメリカの民主政治」から、「アメリカ連邦における多数者の専制と、その効果について」中巻・第7章から、アメリカの民主的専制について、さらに、詳しく問題提起する。
 
 愛国心と民主主義

民主的専制をつくりだす基盤に、国民を総動員するための愛国心の問題がある。愛国心は、民族的なアイデンティティを形成していくうえで、避けられない課題である。人々の人権を犯し、平和を否定していくもっとも危険な愛国心は、本能的な感情のみに左右される意識である。ドクヴィルは、本能的な愛国心と反省的合理的な愛国心と二つにわけている。
 本能的愛国心
 アメリカでは、理性を用いないで信じ、感じ、行動する何らかの形で祖国し、自らの民族を誇って、自らの賢勢を信頼する本能的愛国心から合理的な人間を尊厳を尊厳とする反省的な愛国心への努力がされているとドクヴィンは考える。本能的愛国心は、すべて無反省な情熱と同様に、偉大な一時的努力を行わせるが、努力の持続性をつくらない。フランス人が王の専断によることなく、自ら進んで献身しながら一種の喜びを感じていた時代があった。その当時、フランス人はわれわれは世界中で一番強い王のの下でいきていると言った。

 反省的合理的愛国心
 反省的愛国心は、文化的啓蒙から生まれ、法律の助けを受けて発展し、権利の行使と相まって増大する。いくらか私益と混合するようになる。人はそのとき国の福祉が私益に与える影響を理解する。法律によって。自ら国益をもたることに貢献できるようになることを知る。はじめに有用なことに関心をもち、次いで自らの仕事に関心をもっていると同様に、自国の繁栄に関心をもつ。

 ドクヴィルは、どこにも祖国をもたない恐ろしさと偏狭な無知の利己主義について述べる。生活では古い習慣が変化し、または、風習が滅びていくと、人々が持っていた伝統的な信念がゆらいでいく。そして、アイデンティティを形成する威信がなくなる。

 人間の尊厳や自由の民主主義の啓蒙がまだ不完全なままにとどまっていて、政治的権利も確保されないときは、祖国は弱くなり疑わしいものになる。そこでは、活気のない土地に、祖先達の習慣にも宗教も今は疑って、法律も自ら恐れ、立法者も軽蔑していく。その場合に、かれらは、どこにも祖国をもたない。かれらは、偏狭な無知な利己主義の中に閉じこめられ、理性の支配を認めることができない。

 これらの人々に対する雄一の手段は、政治的権利を直ちにすべての人々にあたえねばならないということではなく、人々を自国の政治に参加させることであるとドクヴィルは考えるのである。
 さらに、ドクヴィルは、今や共同体の精神は政治的権利とひきはなすことのできないものになっているとする。アメリカ連邦では、伝統的な慣習をもっていない。かれらは、新天地で互いに知り合い、本能的愛国心も各人が自分自身のことに関心をもつのと同じように、自らの共同体や自らの郡や州に関心をもつ。

 これらの自らの共同体や郡や州への関心は、みずからの範囲で社会の政治に活発な持ち分をもって自ら参加しているからである。アメリカ人は、一般的繁栄を自分がつくったものだと見るような習慣を身につけている。公共的運命のうちに自らの運命を見るし、国益のために努力する。以上のように、アメリカ人が持っている公共性的習慣の身につけたかをドクヴィルは積極的に評価する。

 民主主義の政治と最下層市民の利益

 ドクヴィルはアメリカの民主主義の政治が最下層の市民まで浸透していることを観察する。アメリカ連邦では、一般民衆の人間は政治的権利及び高邁な観念をもっている。なぜかというと、支持的権利をもっているからである。
 アメリカ人は他人から自分の政治的権利を犯さないために、他人の政治的権利を攻撃しないのである。ヨーロッパでは、主権的権威まで否認する。これに反してアメリカ人は自分たちの最下級の役人の権力にも、ぶつぶつ不平もいわずに服従する。
 民主主義の政治では、政治的権利の観念は最下層の市民たちまで普及している。そのことは、財産の分与が所有権の観念を一般にすべての人の手にとどくのと同様、これは、民主主義の最大の貢献である。

 アメリカ連邦では、法律を恐怖と疑惑でみつめる群衆はいないとドクヴィルは次のようにみる。アメリカ連邦では、すべての人々が法律に服従していることが、一種の私益につながると見られている。なぜかといえば多数者に加っていない人も明日には多数者の陣営内に加わると思うからである。自分自身の意志に対して要求すべき機会をもつことができると思う。
 
 アメリカ連邦では法律を自然的な敵とみなして、法律を恐怖と疑惑の眼でながめ、常に騒いでいる多数の群衆というものはない。そこではすべての階級は国を規制している法制に大なる信頼をようせい、法制に対して一種の父性愛を感じている。
 アメリカ人は、討論することが好きで、政治にかかわることで人々が集められるとドクヴィルはみている。

  アメリカ連邦の政治団体はすべての部分にゆきわたって活発な活動をしている。その活動は、立法議会を絶えず動かし、外部から認められる唯一の政治運動として最下層の民衆から始まって次から次へと市民たちの全階級に波及していく。
 女性たち自身もしばしば公けの集会に出かけて、政治的講演を聞いて、家事の倦怠感を癒すのである。アメリカ人は対談することはできないが、討論する。彼らは、談話しないが、論争する。彼は、常に会衆に話しかけるように諸君に話す。

 社会の政治に関わりをもつようによび集められ一般大衆の人間は、自分自身に何らの敬意を持つようになる。彼は、そのとき、ひとかどの権力者であるからして、極めて啓蒙された諸知識が彼の知性に役立つように用いられる。彼は自らの知性に支持を求められるように絶えず勧められる。そして無数ののやり方でだまされ、はぐらかせながらも、彼は啓蒙される。

 多数者による専制権力と従順に服従する構造

 ドクヴィルは、民主政治では、多数者が専制権力をもつことがあることを否定しない。立法議会はもっとも自発的に多数者に従順に服従するというのである。選挙人たちは代議員を任命するに当たって、彼のために一定の行動の枠をつくり、決して離脱できない幾つかの積極的な義務を彼に課す。

 多数者の道徳支配支配は、ただひとりの人間においてよりも多数の人々の団体において、また卓越した個人においても多数の立法者たちにおいて、より大なる知識を経験と叡智とがあるという観念に基づいていく。これは知性に適用された平等論ということになる。この理論は、人間の自尊心をその根底において攻撃するものである。多数者は事実を動かす巨大な力となる。そして、これとほとんど同じくらい偉大な世論の力をもっていく。

 多数者というものは人気を博するのに唯一の権力であって、それが企てる事業には人々は熱心に協力する。けれでも多数者の注意が横にそれると、すべての努力はとまってしまう。これに反して、行政的権力が独立的存在と確固たる地位をもっているヨーロッパの自由諸国では、立法者が他の諸目的に専心しているときでも、続けて執行されている。

 不正な法律に服従することを拒んでも、命令権を多数者は否認しない。この命令権は、人民の主権から人類全体の主権に向かうようにする。
 多数者の権力が少数者とよばれる別の個体が拒むことに何をしてもよいということは与えるべきでない。王政治、共和政治で行使される権力になにをしてもよい権利と能力とがあたえるられるときに、そこに圧政の芽がある。ドクヴィルは圧政の根源に権力のおごりをあげている。

 ある人、ある党派が多数派の不正に苦しんでいるとき、一体それを誰に訴えたらよいのであろうか。世論に対してあろうか。多数者を作り出しているのは世論である。立法団体も多数者を代表して、多数者に盲従している。執行権力も多数者によって任命されている。

 警察権力は武装した多数者にすぎない。陪臣は逮捕を宣告する権利を与えられいる多数者である。判事たち自身も幾らかの州では多数者によって選ばれている。それゆえどのような不公平な、不条理な処置が諸君に対してとられるにせよ、諸君はそれに服従しなければならない。

 多数者の専制的権力は立法者の合法的独裁を促進すると同時に、役人達の自由裁量をも促す。多数者は法律をつくり、そして法律の執行を監視する絶対的主人であり、治者と被治者とに対して平等な制御を行う。

 この多数者は公務員を自らの受動代理人とみなしており、そして自らの計画に配慮をもつものとして公務員に自ら進んで依存している。それゆえに多数者は、公務員の義務のことがらには、あらかじめ頭をつっこんえいないし、公務員の権利をはっきり規定しようとなどともほとんど考えていない。多数者は主人が召使いを取り扱うと同じように公務員を取り扱っている。

 ところで、王は人々の行動に対して働きかける物質力しかもっていない。そして彼は人々の意志にまでその力を及ぼすことができないであろう。けれども多数者は、全く物質的並びに道徳的な力を与えられて、人々の行動にも意志にも同じように働きかける。アメリカ連邦におけるほどに精神の独立と真の言論の自由の少ない国はない。ヨーロッパ唯一の権力のみに服従している国はないからである。

 アメリカ連邦での多数者が思想の周囲に恐るべき柵をめぐらしているところは、その限界内では著作者は自由であるが、その限界から外に出ようとすると彼に不幸がふりかかってくる。それはかれが火刑を恐れねばならないということではない。けれでも限界外にでようとすると、いつでもあらゆる種類のいやがらせや迫害とたたかわねばならない。
 かれにとっては政治生活はとざされて、できなくなる。多数者の民主共和国の圧政は、暴力を知的なものにしている。多数の独裁政治は魂にまで襲いかかるために、肉体を残酷に打ちのめすのである。

 多数者の専制アメリカ人の国民性にあたえる影響は、偉大な人物の発展が阻止されている。アメリカ連邦のように多数によって、組織された民主国家では、大胆な率直さと思想の勇敢な独立性をあらわしている人々は極めて少ない。
 それらの人々は前時代のアメリカ人にきわだっていた。専制的王国では王はしばしば偉大な美徳をもっているが、宮廷人たちは常に下劣なやからである。人間が堕落するのを阻止するには、誰にも人々を愚劣なものにする全権を、主権者に与えないことである。

 アメリカ的諸共和国の最大の危機は多数者の専制的権力から生ずることである。アメリカの自由が失われるとすれば、その責任は多数者の専制的権力にある。多数者の専制的権力は少数者を絶望に追い込み、そして、少数者が物力に訴えざるを得ないようになるであろう。
 そのとき、無政府状態が出現するであろう。多数の独裁結果としての無政府性である。弱者が強者に対して全く保障されない自然状態と同様に無政府状態が支配されると考えよう。

 現代の高度に発達した資本主義の社会は、国家の財政誘導が議会制民主主義の専制権力で大きな意味をもつ時代になっている。この財政誘導施策は、中央政府と中央集権的な行政機構の専制をより強固にさせ、主権者である国民の権力への服従や従順をtくりあげていることをみなければならない。

 これは、都市と農村の不均等発展、地方の過疎化の進行、高齢化や社会保障の問題から、様々な財政誘導がおこなわれているのである。より一層に公共性のあり方が問われる時代になっている。この公共性の教育は、人権と自由の尊重の民主主義の政治教育にとって極めて大切な課題である。政治の私物、政治の特定の党派、団体の優遇ではなく、全国民的に公平に行われていくという公共性が鋭く問われているのである。

 多数者の専制的権力を緩和するには

 ドグヴィルは問う。多数者の専制を緩和するのはなにか。それは、中央集権は政治的中央集権と行政的中央集権とがある。アメリカ連邦では行政的中央集権が欠けているので、それからの危険性はない。このために、圧政の最も完成された手段を欠いている。中央政府の命令の執行は、代理者たる行政官にたよらねばならないが、代理者たちは、中央政府に従属もしていないし、中央政府が統轄することもできないのがアメリカ連邦である。

 アメリカ連邦は、法学精神が民主政治のからの逸脱の強力な防壁となっているとドクヴィルは考える。ヨーロッパの法学者たちは、中世から王の支配を拡大するために、めざましいほど協力してきた。このとき以来、法学者は、王権を制限するために強力に努力してきた。

 法学者たちは、法律を研究することによって、身につけた特殊知識によって、社会における特権階級を保持している。知識は一般に普及されていないので、市民たちの仲裁者として奉仕する。
 かれらは、相互に理解しあう団体をつくり、群衆の判断を軽蔑し、貴族階級と同じ秩序を好み、大衆の活動を嫌い、人民政治を軽蔑している。法学者は、秩序ある生活を愛好し、秩序の最大の保障の権威を重視する。法学者は、専制よりも気儘を恐れる。

 法学者の貴族的な性格はアメリカ連邦とイギリスとに著しく現れている。それは、法律解釈者が占める社会的な地位に基づいている。英米的法学者は他人の意見を引用し、祖先の思想をたより、自分の意見をあまりのべない。

 フランス法学者は、自分の思想体系をどんな小さな事件でもとりいれる。アメリカ連邦では、貴族も文人もいないので、法学者たちは、社会の優越的政治階級をつくりあげ、最も知的な人々になっている。
 アメリカの法学者は、民衆的政治のつきものの諸弊害を中和してくれる。激情によって、熱狂におかされ、幻滅的な観念にひきずまれたときに、法学者たちは、人民に節度を守らせ、人民の暴走を阻止するんである。

 彼らは、人民の民主的本能に自らの貴族的性情を秘かに対抗させる。人民の革新欲に、かれらの古いものへの迷信的尊敬を、人民の巨大内計画に、かれらの狭小な見解を、人民の規律への蔑視に、かれらの形式好みを、人民の狂風に、かれらのゆっくりと進む習慣を、それぞれ対抗させる。法学者は、アメリカの民主政治の最も強力な平衡力をつくっているのであるとドクヴィルはみるのである。

 さらに、アメリカ連邦の多数派専制の抑制機能として、陪審という政治制度があることをドクヴィルは強調する。陪審人民主権の一様式である。陪審が人民に民主政治に与える教育的な機能は大きなものがあるとしているのである。その陪審は、刑事事件だけではなく、民事に拡大していることが人々の権利意識に形成に大きな影響を与えているとしている。

 陪審は司法制度として考察するだけでは、民主政治における陪審の役割を理解することにはならない。陪審は、人民主権という政治制度という理解が必要である。民事陪審はすべての市民に裁判官精神の習慣を与え、人民の自由を準備する。すべての階級に裁判されるものへの尊重の念と権利の理念を普及させる。このふたつを除いてしまえば、独立欲は破壊的情熱にすぎないものになるとドクヴィルは強調するのである。

 独立欲と他人の権利と自由の尊重のアメリカ的構造

 ドクヴィルの指摘の独立欲のみに走っていけば、それは、破壊的な情熱にすぎないとする。この見方は、現代的においても極めて大切なことである。独立欲は、人間の自立的精神にとって重要な要件であるが、それは、他人の権利の尊重、すべての人々の相互の自由への尊重との関係でみていくことが求められる。

 陪審は、他人の権利を裁くことで相互の尊重のバランアスの精神が作られていくとドクヴィルは考える。しかし、ドクヴィルのこの指摘と同時に、自立精神をもたない権力や組織に従属した人間が他人の権利を裁くときにどうなるのかをみることも必要である。

 それは、現状の秩序を優先するということばかりではなく、権力者に従属しての裁きにならないかである。民事において、対等の他人の関係を裁くときに、陪審することと、現代のように独占的な大企業や、行政権力た中央政府権力と結びついての経済活動が展開される時代とは根本的に異なることがあるのではないか。
 このことを考えて、1830年代のアメリカ連邦の陪審とは異なる状況があることをみておかねばならない。資本主義の高度の発展によって、個人の尊厳や自由を保障していく民主主義が構造的に難しい問題にぶつかっていくのである。

 陪審は、人々に公平無私を実行することを教える。陪審は驚くほど人民の審判力を育成し、その自然的叡智を増やすことに役立てている。陪審は無料の常に公開されている学校のようなものである。陪審は、法の実際の生活機能を学ぶことになる。アメリカ人の実際的知性と政治的良識は、民事についての陪審を長い間使用していることによって身についてきたとドクヴィルはみるのである。

 ドクヴィルは、アメリカ連邦の人権と自由の尊重する民主共和国維持を促す原因に三つあると考える。第1は、神の摂理であり、第2は、法律であり、第3は、習性と風習からであるとしている。

 第1の神の摂理アメリカの地理的条件で、隣国がなく、大戦争も財政的危機もなかった。土地は若く、その冨も無尽蔵であた。枯れることのない水源をもっている大河、湿っぽい緑野、耕作者の鋤のあともない無限の荒野、自然豊かな北米の土地がアメリカ人を支えていた。これは、アメリカ人が享受している物資的福祉があった。

 1830年代のアメリカ共和国は、新世界を共同で開拓するためにつくられ、繁盛する商売に従事している商社のようなものである。アメリカ人を最も強くゆり動かしている情熱は、政治的情熱ではなく、商業的な情熱であり、商売の習慣を政治に移植して、秩序を形成しているとドクヴィルはみるのである。

 アメリカ連邦は、大首府をもっていない。首都が諸地方を従属させることもなかった。首都の偏重は、代表制に重大な被害をもたらす。首都の偏重のために古代のすべての共和国は代表制を知らず滅亡した。現代の諸共和国も首都に偏重すると代表制を採用できないという欠陥をもつ。
  
 アメリカ連邦ににおける宗教と政治の分離

 アメリカ連邦における宗教は、政治制度のなかでどのように考えられるのか。イギリス系のアメリカ人は、ローマ法王の権威から脱して、宗教的至上権に服従しなかった人々によって植民されたということである。民主的、共和的な宗教とよぶのにふさわしいキリスト教を新世界にもってきた。宗教と政治は同一意見をもっていたのである。

 アメリカ連邦で最も熱烈な旧教徒たちは、信仰にについて熱烈であると同時に、共和的、民主的な階級をなしている。司教と人民のみに構成されているので、司教のもとでは、すべてが平等である。カトリック教は、富者にも貧者にも同じように義務づけ、強者も弱者にも同様に同一苦行を課している。

 新教は人々を平等にするよりも独立させるようにしている。カトリック教は、専制的王国のようなものである。そこから君主を除けば、共和国においてより以上に平等である。アメリカ連邦では民主的、共和的制度を敵視する宗教的教理はひとつもない。

 アメリカでは無数の宗派がある。人々相互間の義務は宗派は一致している。すべての宗派は神の名において同一の道徳を説く。
 法律によってならば、アメリカ民族は何をしても許されると同時に、宗教はアメリカ民族があらゆることを自由に考えるのを阻止している。そして、あらゆることをあえて行うことを妨げている。それゆえにアメリカ人たちは、社会の政治に直接的に介入しない。宗教は、彼らの政治的諸制度の中の第一の制度として考えなければならないのである。

 フランスでは宗教的精神と自由精神とは常に逆方向に進んでいる。アメリカ連邦では、二つの精神は緊密に結合して一体となっている。アメリカ連邦では教会と国家との完全な分離に基づいている。
 アメリカ連邦では牧師たちが政治的社会を占める地位は、全く公職につかないことである。かれらは、行政職につかないし、集会の代表者たちでさえもなかった。聖職者たちは、自発的に権力から遠ざかっているのである。それが一種の職業的な誇りを感じている。
 ドクヴィルは宗教が政治と結びつく恐ろしさを強調するのである。宗教は災厄の慰安である憐れみの感情に基づいている限り、人類全体の心をひきつけることができる。宗教は、この世の苛烈な激情にまきこまれてと、時として愛よりもむしろ利益が与える連合を擁護せざるをえなくなる。
 そして、宗教は、これに結びついている人々を打倒しようと闘うことになる。しばしば宗教を愛している人々の反対者となって、行動せざるをえなくなる。それゆえに宗教は、治者たちの物力を分けもつようになれば必ず、治者たちが生みだす憎悪の一部を身につけることになる。
 宗教を生き続けさせるためには、政治権力の援助を必要としない。宗教は政治権力に奉仕することによって死滅するだけのことである。民主的社会状態をとり、社会が共和国に向かって進むにしたがって、宗教が国民の権威に結びつくことはますます危険になっていく。
 政治理論が次から次へと変わり、法律も憲法も毎日消え去ったり、変わったりする時代になっていくのである。宗教の力はある時代にそしてある民族では強力であった。アメリカ連邦では宗教の影響力が弱いが、長期にわたって、持続性をもって、宗教の固有の社会的な役割を維持しているのである。

 実際生活での民衆教育、風習と民主主義

 アメリカ連邦では、民主共和国の維持のために、民衆教が強力に役立っているとドクヴィルはみる。精神を啓蒙する教育を風習を規制する教育から引き離さないようにしているところではそうなっている。真の啓蒙は、主として経験から生まれる。
 アメリカ連邦の人々の教育全体は、政治の方向に向けれている。ヨーロッパでは、教育の主たる目的は、私生活を準備することであり、公務における市民たちの活動に向けられるのは稀である。
 ヨーロッパでは、公生活のうち、しばしば私生活の観念と習慣とが混入されている。アメリカ人は常に私生活にはびこませているのは、公生活の習慣である。

 アメリカ的民主政治は風習が貢献している。風習を無視しては憲法を維持することができない。風習は最悪の法律をうまく利用する。アメリカの法律には多くの欠点がある。アメリカ人の風習と法律のみが民主的諸民族に適合しうる唯一のものではない。けれでも、アメリカ人は法律と風習とに助けられて民主政治を規制しうることを示している。

 民主的制度と風習とを少しずつ発展させることが、われわれが自由にとどめく唯一の手段である。人々が民主主義の政治を愛することなくして、社会の現在の諸害悪に対抗させて、最も誠実なモデルとして、民主主義の政治を採用することができない。
 人民を政治的に参加させることは、難しいことえある。そして政治を行うために人民に欠けている経験と感情とを人民に与えることは、なお一層むずかしいことである。
 民主政治の受託者は素朴であり、その法律は不完全である。民主政治と唯一者の専制との間の中間的なものはない。われわれは自ら進んで唯一者に奴隷的に服従するよりも、民主政治に向かうべきではないだろうか。誰でも独裁者によってよりも自由によって平等化される方が望ましいと考えるだろう。

 民主的自由の発展によって人間尊厳の民主主義は、生まれたのである。このために、民主主義のための自由な体験学習である三つの学校が必要になってくる。
 民主主義は権力者にいかに利用さたのか。民主主義は専制に利用されやすい。民主的専制は、見せかけの選挙と民衆の権力を存続させて人民投票による個人独裁、人民主権による専制からである。これらは、ナポレオン帝政をつくりあげたことに現れたこととして、ドクヴィルの問題関心であった。

 その後の人類の歴史は、議会制民主主義によって、ドイツでナチス独裁政権をつくりあげ、ユダヤ人の大虐殺、ヨーロッパへの侵略戦争を遂行した。日本でも普通選挙が実施され、議会主義によって、軍国主義体制をつくりあげ、国民総動員によって、アジアへの侵略、太平洋戦争を遂行した。あらためて、人間の尊厳、自由の尊重の民主主義の民衆教育の重要性が問われているのである。これを担うのが社会教育、公民館活動であることを決して忘れてはならない。

 アメリカにおける人種差別問題と民主主義

 ドクヴィルは、アメリカ連邦に、民主政治とは別のものがあることをインディアンとニグロと白人との関係でのべている。ヨーロッパ人と他の人種との関係は、人間と動物のようなものである。アフリカの子孫たちは、すべての特権を圧政のなかで奪われていった。ニグロは奴隷状態においている。
 古代の奴隷は、自由になることによって、元の身分であることは見分けがつかないが、アメリカでの奴隷は、ユーロッパ人の関係で異邦人とみなされて人種差別を受けているのである。現代のアメリカの奴隷制は、主人の偏見、人種の偏見、そしれ、白人の偏見を打破しなければならないのである。ニグロは、陪審をあてにするおとができない。彼の息子はヨーロッパ人の子孫が教育される学校から排除されている。
インディアンは白人が新世界に渡来する以前は平穏に生活していたが、ヨーロッパの圧政は、インディアンたちを遠くに追いやり、漂白放浪の生活を強いたのであり、かれらの祖国愛の感情を弱め、その家族をばらばらに分散させ、その伝統を見失わせた。