社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

民主主義による多数派専制と教育ートクヴィル思想から

        民主主義による多数派の専制と教育ートクヴィルの思想よりー
                  神田 嘉延

 ドクヴィルによるアメリカ民主主義論

 トクヴィル1830年代のアメリカをみながら、フランスの民主主義を考える思想家であった。かれは、1789年のフランス大革命の「自由、平等、友愛」の民主主義の精神の成果を打ち砕いて、反動的な王政復古をもたらした1815年のルイ18世に対する1830年の民衆蜂起の7月革命にも国民軍として参加している。

 フランスは、1804年に近代民主主義にとって画期的な「法の前の平等」「国家の世俗生」「宗教の自由」「経済の自由」などのナポレオン法典を成立させた。フランスは、国民議会と国民投票によって人民の皇帝としてナポレオンを選んだのである。

 1830年の7月革命後に、トクヴィルは、フランスの民主主義を考えるためにアメリカ合衆国を視察する。その成果が、「アメリカの民主主義」の出版である。1835年第1巻と第2巻の出版をする。ここでは、アメリカの民主主義の政治、法律、陪審、社会の実態を明らかにした。そして、多数派による専制権力の問題点も提起した。第3巻は、1840年出版であるが、そこでは、民主主義が知的運動に与えた影響、アメリカ人の感情と民主主義の影響、風習と民主主義の影響、民主主義理念と感情とが政治社会に及ぼす影響について論じている。

 ドクヴィルは、1938年にフランスの下院議員に当選し、議会活動を続け、1849年に外務大臣に就任する。1851年にルイ・ナポレオン三世のクーダーで身柄を拘束され、政界を引退する。1856年に「旧体制と大革命」を出版する。1859年に死去している。

 ここでは、ドクヴィル・井伊玄太郎訳「アメリカの民主政治(上・中)」講談社と小山勉「ドクヴィル・民主主義の三つの学校」を読んでの社会教育論から感想をのべる。下の第3巻については、「民主主義と民衆の感情と風習」として別にのべる。
 小山勉によれば、ドクヴィルは「まったく新しい世界には新しい政治学必要である」ということで、民主主義教育論を説いたとしている。「民主主義の信条を活気づけ、その習俗を浄化し、その運動を統御し、その未経験を克服するために少しずつ公務処理を教え、その盲目的な本能を抑えるためにその正しい価値を教える」。
 この民主主義教育が今日、社会を指導する者に課せられた第一の義務であるとしている。民主主義の教育にとって必要なのは、未来に対して絶えず警戒心を抱かせ、その闘争に立ち上がる健全な恐れ、懸念をもつことであると。

 トクヴィル専制的な民主主義論と教育の関係

 民主的な社会状態は民主的な政治形態の発展を可能にする。ドクヴィルは、国民性は習俗を通して形成されるということから、それぞれの国の精神文化として、倫理的規範、慣習、統合的な形態の実態を重視したのである。アメリカでは人民主権の原理が習俗によって認められ、法律によって宣言されているとドクヴィルは考えたのである。

 ドクヴィルは、イギリス系アメリカ人の東部のアメリカ人では、民主主義は法律のなかだけでなく、社会生活のあらゆる細部にわたって見いだされ、民主主義の政治のもっとの長い慣行をもち、政治の維持に好都合な習慣をつくり、最も都合のよい思考をしているとみたのである。これに対してヨーロッパでは民主的諸制度の持続に習俗は軽視され、民主主義革命は実現されながら、革命を有益なものにすることができなとドクヴィルは考えるのである。

 さらに、フランスでは、中央集権が習俗化され、その行きすぎの抑制措置がなく、後見的権力と行政権力をもたらしたとする。フランスの大革命当初は、中央集権に反対し、地方生活の促進施策をもっていたが、実際は、人民主権と結合して民主専制を生み出したとドクヴィルはみる。これとは反対に、アメリカ連邦は人民主権原理に基づく地方分権が習俗された考える。ドクヴィルにとって民主主義を持続されるためには、地方分権人民主権、自由を習俗化しているとみるのである。

 フランス大革命後に民主的専制をつくりだしたとドクヴィルは考えたのである。万人の平等と主権だけでは、人間の尊厳を大切にする民主主義をつくりだすことはできない。民主的専制を可能にする「自由なき平等」は、近代民主主義制度の発展によって生まれたのである。
 ドクヴィルは、民主的専制の可能性を理論的に追求したのである。かれは民主主義に対する健全な恐れから民主主義教育のための自由体験学習の学校の課題を提起したのである。
 民主主義は権力者にいかに利用されてきたのか。民主主義は専制に利用されやすいというの問題意識からドクヴィルは、歴史的に考察したと小山勉は指摘する。社会状態が「民主的」であっても、すなわち平等の条件だけでは、自由なき民主主義という新しい専制が生まれるというのである。

 平等の一人一票制という「議会制民主主義」は、多数派による中央集権政府と行政機構の中央集権と結びつくことによって、人間の尊厳や自由の尊重を崩壊させる専制権力になるというのである。中央政府によってつくられていく法規範と中央集権的行政の遂行が人々を画一的に支配し、自由と人権を犯すというのである。

 多数派による新しい専制的な抑圧は、過去の時代に決してみられなかった全国民を無差別に一つの画一的な法規にの網目に従わせようと国民一人ひとりにまで降りて人間の尊厳の喪失による自由の抑圧になるのである。
 この巨大な権力は、人間の尊厳を失わせ、個人の意志、思考、イニシアチブと責任を弱め、市民を自立への準備をさせないという依存精神を病状化するというのである。これは、中央政府・行的中央集権と人民主権との結合によって生まれた産物である。
 人間の尊厳、自由の尊重のためには、多様性を容認し、少数意見を尊重して、地方分権地方自治の確立が極めて大切ということである。このためには、実際の生活に即しての民主主義の教育が不可欠になっている。
 地方自治は自由のための小学校であり、陪審は法的精神の学校であり、共同の精神の学校である相互の協同結社になるアソシアシオンが必要であるとドクヴィルの民主主義と人間尊厳の自由の政治論研究から小山勉はまとめているのである。

 この指摘は、議会制民主主義の多数派による専制と中央集権的な行政機構が結びことによって、人々の人間の尊厳、自由が剥奪されていく危険性があるのである。これは、現代にも通ずる重要な指摘である。つまり、現代の「議会制民主主義」の制度は、人々の人権を抑圧し、自由を奪っていく過酷な独裁が生み出すことがあるのである。
 井伊玄太郎氏の訳したドクヴィル著「アメリカの民主政治」から、「アメリカ連邦における多数者の専制と、その効果について」中巻・第7章から、アメリカの民主的専制について、さらに、詳しく問題提起する。
 
 愛国心と民主主義

民主的専制をつくりだす基盤に、国民を総動員するための愛国心の問題がある。愛国心は、民族的なアイデンティティを形成していくうえで、避けられない課題である。人々の人権を犯し、平和を否定していくもっとも危険な愛国心は、本能的な感情のみに左右される意識である。ドクヴィルは、本能的な愛国心と反省的合理的な愛国心と二つにわけている。
 本能的愛国心
 アメリカでは、理性を用いないで信じ、感じ、行動する何らかの形で祖国し、自らの民族を誇って、自らの賢勢を信頼する本能的愛国心から合理的な人間を尊厳を尊厳とする反省的な愛国心への努力がされているとドクヴィンは考える。本能的愛国心は、すべて無反省な情熱と同様に、偉大な一時的努力を行わせるが、努力の持続性をつくらない。フランス人が王の専断によることなく、自ら進んで献身しながら一種の喜びを感じていた時代があった。その当時、フランス人はわれわれは世界中で一番強い王のの下でいきていると言った。

 反省的合理的愛国心
 反省的愛国心は、文化的啓蒙から生まれ、法律の助けを受けて発展し、権利の行使と相まって増大する。いくらか私益と混合するようになる。人はそのとき国の福祉が私益に与える影響を理解する。法律によって。自ら国益をもたることに貢献できるようになることを知る。はじめに有用なことに関心をもち、次いで自らの仕事に関心をもっていると同様に、自国の繁栄に関心をもつ。

 ドクヴィルは、どこにも祖国をもたない恐ろしさと偏狭な無知の利己主義について述べる。生活では古い習慣が変化し、または、風習が滅びていくと、人々が持っていた伝統的な信念がゆらいでいく。そして、アイデンティティを形成する威信がなくなる。

 人間の尊厳や自由の民主主義の啓蒙がまだ不完全なままにとどまっていて、政治的権利も確保されないときは、祖国は弱くなり疑わしいものになる。そこでは、活気のない土地に、祖先達の習慣にも宗教も今は疑って、法律も自ら恐れ、立法者も軽蔑していく。その場合に、かれらは、どこにも祖国をもたない。かれらは、偏狭な無知な利己主義の中に閉じこめられ、理性の支配を認めることができない。

 これらの人々に対する雄一の手段は、政治的権利を直ちにすべての人々にあたえねばならないということではなく、人々を自国の政治に参加させることであるとドクヴィルは考えるのである。
 さらに、ドクヴィルは、今や共同体の精神は政治的権利とひきはなすことのできないものになっているとする。アメリカ連邦では、伝統的な慣習をもっていない。かれらは、新天地で互いに知り合い、本能的愛国心も各人が自分自身のことに関心をもつのと同じように、自らの共同体や自らの郡や州に関心をもつ。

 これらの自らの共同体や郡や州への関心は、みずからの範囲で社会の政治に活発な持ち分をもって自ら参加しているからである。アメリカ人は、一般的繁栄を自分がつくったものだと見るような習慣を身につけている。公共的運命のうちに自らの運命を見るし、国益のために努力する。以上のように、アメリカ人が持っている公共性的習慣の身につけたかをドクヴィルは積極的に評価する。

 民主主義の政治と最下層市民の利益

 ドクヴィルはアメリカの民主主義の政治が最下層の市民まで浸透していることを観察する。アメリカ連邦では、一般民衆の人間は政治的権利及び高邁な観念をもっている。なぜかというと、支持的権利をもっているからである。
 アメリカ人は他人から自分の政治的権利を犯さないために、他人の政治的権利を攻撃しないのである。ヨーロッパでは、主権的権威まで否認する。これに反してアメリカ人は自分たちの最下級の役人の権力にも、ぶつぶつ不平もいわずに服従する。
 民主主義の政治では、政治的権利の観念は最下層の市民たちまで普及している。そのことは、財産の分与が所有権の観念を一般にすべての人の手にとどくのと同様、これは、民主主義の最大の貢献である。

 アメリカ連邦では、法律を恐怖と疑惑でみつめる群衆はいないとドクヴィルは次のようにみる。アメリカ連邦では、すべての人々が法律に服従していることが、一種の私益につながると見られている。なぜかといえば多数者に加っていない人も明日には多数者の陣営内に加わると思うからである。自分自身の意志に対して要求すべき機会をもつことができると思う。
 
 アメリカ連邦では法律を自然的な敵とみなして、法律を恐怖と疑惑の眼でながめ、常に騒いでいる多数の群衆というものはない。そこではすべての階級は国を規制している法制に大なる信頼をようせい、法制に対して一種の父性愛を感じている。
 アメリカ人は、討論することが好きで、政治にかかわることで人々が集められるとドクヴィルはみている。

  アメリカ連邦の政治団体はすべての部分にゆきわたって活発な活動をしている。その活動は、立法議会を絶えず動かし、外部から認められる唯一の政治運動として最下層の民衆から始まって次から次へと市民たちの全階級に波及していく。
 女性たち自身もしばしば公けの集会に出かけて、政治的講演を聞いて、家事の倦怠感を癒すのである。アメリカ人は対談することはできないが、討論する。彼らは、談話しないが、論争する。彼は、常に会衆に話しかけるように諸君に話す。

 社会の政治に関わりをもつようによび集められ一般大衆の人間は、自分自身に何らの敬意を持つようになる。彼は、そのとき、ひとかどの権力者であるからして、極めて啓蒙された諸知識が彼の知性に役立つように用いられる。彼は自らの知性に支持を求められるように絶えず勧められる。そして無数ののやり方でだまされ、はぐらかせながらも、彼は啓蒙される。

 多数者による専制権力と従順に服従する構造

 ドクヴィルは、民主政治では、多数者が専制権力をもつことがあることを否定しない。立法議会はもっとも自発的に多数者に従順に服従するというのである。選挙人たちは代議員を任命するに当たって、彼のために一定の行動の枠をつくり、決して離脱できない幾つかの積極的な義務を彼に課す。

 多数者の道徳支配支配は、ただひとりの人間においてよりも多数の人々の団体において、また卓越した個人においても多数の立法者たちにおいて、より大なる知識を経験と叡智とがあるという観念に基づいていく。これは知性に適用された平等論ということになる。この理論は、人間の自尊心をその根底において攻撃するものである。多数者は事実を動かす巨大な力となる。そして、これとほとんど同じくらい偉大な世論の力をもっていく。

 多数者というものは人気を博するのに唯一の権力であって、それが企てる事業には人々は熱心に協力する。けれでも多数者の注意が横にそれると、すべての努力はとまってしまう。これに反して、行政的権力が独立的存在と確固たる地位をもっているヨーロッパの自由諸国では、立法者が他の諸目的に専心しているときでも、続けて執行されている。

 不正な法律に服従することを拒んでも、命令権を多数者は否認しない。この命令権は、人民の主権から人類全体の主権に向かうようにする。
 多数者の権力が少数者とよばれる別の個体が拒むことに何をしてもよいということは与えるべきでない。王政治、共和政治で行使される権力になにをしてもよい権利と能力とがあたえるられるときに、そこに圧政の芽がある。ドクヴィルは圧政の根源に権力のおごりをあげている。

 ある人、ある党派が多数派の不正に苦しんでいるとき、一体それを誰に訴えたらよいのであろうか。世論に対してあろうか。多数者を作り出しているのは世論である。立法団体も多数者を代表して、多数者に盲従している。執行権力も多数者によって任命されている。

 警察権力は武装した多数者にすぎない。陪臣は逮捕を宣告する権利を与えられいる多数者である。判事たち自身も幾らかの州では多数者によって選ばれている。それゆえどのような不公平な、不条理な処置が諸君に対してとられるにせよ、諸君はそれに服従しなければならない。

 多数者の専制的権力は立法者の合法的独裁を促進すると同時に、役人達の自由裁量をも促す。多数者は法律をつくり、そして法律の執行を監視する絶対的主人であり、治者と被治者とに対して平等な制御を行う。

 この多数者は公務員を自らの受動代理人とみなしており、そして自らの計画に配慮をもつものとして公務員に自ら進んで依存している。それゆえに多数者は、公務員の義務のことがらには、あらかじめ頭をつっこんえいないし、公務員の権利をはっきり規定しようとなどともほとんど考えていない。多数者は主人が召使いを取り扱うと同じように公務員を取り扱っている。

 ところで、王は人々の行動に対して働きかける物質力しかもっていない。そして彼は人々の意志にまでその力を及ぼすことができないであろう。けれども多数者は、全く物質的並びに道徳的な力を与えられて、人々の行動にも意志にも同じように働きかける。アメリカ連邦におけるほどに精神の独立と真の言論の自由の少ない国はない。ヨーロッパ唯一の権力のみに服従している国はないからである。

 アメリカ連邦での多数者が思想の周囲に恐るべき柵をめぐらしているところは、その限界内では著作者は自由であるが、その限界から外に出ようとすると彼に不幸がふりかかってくる。それはかれが火刑を恐れねばならないということではない。けれでも限界外にでようとすると、いつでもあらゆる種類のいやがらせや迫害とたたかわねばならない。
 かれにとっては政治生活はとざされて、できなくなる。多数者の民主共和国の圧政は、暴力を知的なものにしている。多数の独裁政治は魂にまで襲いかかるために、肉体を残酷に打ちのめすのである。

 多数者の専制アメリカ人の国民性にあたえる影響は、偉大な人物の発展が阻止されている。アメリカ連邦のように多数によって、組織された民主国家では、大胆な率直さと思想の勇敢な独立性をあらわしている人々は極めて少ない。
 それらの人々は前時代のアメリカ人にきわだっていた。専制的王国では王はしばしば偉大な美徳をもっているが、宮廷人たちは常に下劣なやからである。人間が堕落するのを阻止するには、誰にも人々を愚劣なものにする全権を、主権者に与えないことである。

 アメリカ的諸共和国の最大の危機は多数者の専制的権力から生ずることである。アメリカの自由が失われるとすれば、その責任は多数者の専制的権力にある。多数者の専制的権力は少数者を絶望に追い込み、そして、少数者が物力に訴えざるを得ないようになるであろう。
 そのとき、無政府状態が出現するであろう。多数の独裁結果としての無政府性である。弱者が強者に対して全く保障されない自然状態と同様に無政府状態が支配されると考えよう。

 現代の高度に発達した資本主義の社会は、国家の財政誘導が議会制民主主義の専制権力で大きな意味をもつ時代になっている。この財政誘導施策は、中央政府と中央集権的な行政機構の専制をより強固にさせ、主権者である国民の権力への服従や従順をtくりあげていることをみなければならない。

 これは、都市と農村の不均等発展、地方の過疎化の進行、高齢化や社会保障の問題から、様々な財政誘導がおこなわれているのである。より一層に公共性のあり方が問われる時代になっている。この公共性の教育は、人権と自由の尊重の民主主義の政治教育にとって極めて大切な課題である。政治の私物、政治の特定の党派、団体の優遇ではなく、全国民的に公平に行われていくという公共性が鋭く問われているのである。

 多数者の専制的権力を緩和するには

 ドグヴィルは問う。多数者の専制を緩和するのはなにか。それは、中央集権は政治的中央集権と行政的中央集権とがある。アメリカ連邦では行政的中央集権が欠けているので、それからの危険性はない。このために、圧政の最も完成された手段を欠いている。中央政府の命令の執行は、代理者たる行政官にたよらねばならないが、代理者たちは、中央政府に従属もしていないし、中央政府が統轄することもできないのがアメリカ連邦である。

 アメリカ連邦は、法学精神が民主政治のからの逸脱の強力な防壁となっているとドクヴィルは考える。ヨーロッパの法学者たちは、中世から王の支配を拡大するために、めざましいほど協力してきた。このとき以来、法学者は、王権を制限するために強力に努力してきた。

 法学者たちは、法律を研究することによって、身につけた特殊知識によって、社会における特権階級を保持している。知識は一般に普及されていないので、市民たちの仲裁者として奉仕する。
 かれらは、相互に理解しあう団体をつくり、群衆の判断を軽蔑し、貴族階級と同じ秩序を好み、大衆の活動を嫌い、人民政治を軽蔑している。法学者は、秩序ある生活を愛好し、秩序の最大の保障の権威を重視する。法学者は、専制よりも気儘を恐れる。

 法学者の貴族的な性格はアメリカ連邦とイギリスとに著しく現れている。それは、法律解釈者が占める社会的な地位に基づいている。英米的法学者は他人の意見を引用し、祖先の思想をたより、自分の意見をあまりのべない。

 フランス法学者は、自分の思想体系をどんな小さな事件でもとりいれる。アメリカ連邦では、貴族も文人もいないので、法学者たちは、社会の優越的政治階級をつくりあげ、最も知的な人々になっている。
 アメリカの法学者は、民衆的政治のつきものの諸弊害を中和してくれる。激情によって、熱狂におかされ、幻滅的な観念にひきずまれたときに、法学者たちは、人民に節度を守らせ、人民の暴走を阻止するんである。

 彼らは、人民の民主的本能に自らの貴族的性情を秘かに対抗させる。人民の革新欲に、かれらの古いものへの迷信的尊敬を、人民の巨大内計画に、かれらの狭小な見解を、人民の規律への蔑視に、かれらの形式好みを、人民の狂風に、かれらのゆっくりと進む習慣を、それぞれ対抗させる。法学者は、アメリカの民主政治の最も強力な平衡力をつくっているのであるとドクヴィルはみるのである。

 さらに、アメリカ連邦の多数派専制の抑制機能として、陪審という政治制度があることをドクヴィルは強調する。陪審人民主権の一様式である。陪審が人民に民主政治に与える教育的な機能は大きなものがあるとしているのである。その陪審は、刑事事件だけではなく、民事に拡大していることが人々の権利意識に形成に大きな影響を与えているとしている。

 陪審は司法制度として考察するだけでは、民主政治における陪審の役割を理解することにはならない。陪審は、人民主権という政治制度という理解が必要である。民事陪審はすべての市民に裁判官精神の習慣を与え、人民の自由を準備する。すべての階級に裁判されるものへの尊重の念と権利の理念を普及させる。このふたつを除いてしまえば、独立欲は破壊的情熱にすぎないものになるとドクヴィルは強調するのである。

 独立欲と他人の権利と自由の尊重のアメリカ的構造

 ドクヴィルの指摘の独立欲のみに走っていけば、それは、破壊的な情熱にすぎないとする。この見方は、現代的においても極めて大切なことである。独立欲は、人間の自立的精神にとって重要な要件であるが、それは、他人の権利の尊重、すべての人々の相互の自由への尊重との関係でみていくことが求められる。

 陪審は、他人の権利を裁くことで相互の尊重のバランアスの精神が作られていくとドクヴィルは考える。しかし、ドクヴィルのこの指摘と同時に、自立精神をもたない権力や組織に従属した人間が他人の権利を裁くときにどうなるのかをみることも必要である。

 それは、現状の秩序を優先するということばかりではなく、権力者に従属しての裁きにならないかである。民事において、対等の他人の関係を裁くときに、陪審することと、現代のように独占的な大企業や、行政権力た中央政府権力と結びついての経済活動が展開される時代とは根本的に異なることがあるのではないか。
 このことを考えて、1830年代のアメリカ連邦の陪審とは異なる状況があることをみておかねばならない。資本主義の高度の発展によって、個人の尊厳や自由を保障していく民主主義が構造的に難しい問題にぶつかっていくのである。

 陪審は、人々に公平無私を実行することを教える。陪審は驚くほど人民の審判力を育成し、その自然的叡智を増やすことに役立てている。陪審は無料の常に公開されている学校のようなものである。陪審は、法の実際の生活機能を学ぶことになる。アメリカ人の実際的知性と政治的良識は、民事についての陪審を長い間使用していることによって身についてきたとドクヴィルはみるのである。

 ドクヴィルは、アメリカ連邦の人権と自由の尊重する民主共和国維持を促す原因に三つあると考える。第1は、神の摂理であり、第2は、法律であり、第3は、習性と風習からであるとしている。

 第1の神の摂理アメリカの地理的条件で、隣国がなく、大戦争も財政的危機もなかった。土地は若く、その冨も無尽蔵であた。枯れることのない水源をもっている大河、湿っぽい緑野、耕作者の鋤のあともない無限の荒野、自然豊かな北米の土地がアメリカ人を支えていた。これは、アメリカ人が享受している物資的福祉があった。

 1830年代のアメリカ共和国は、新世界を共同で開拓するためにつくられ、繁盛する商売に従事している商社のようなものである。アメリカ人を最も強くゆり動かしている情熱は、政治的情熱ではなく、商業的な情熱であり、商売の習慣を政治に移植して、秩序を形成しているとドクヴィルはみるのである。

 アメリカ連邦は、大首府をもっていない。首都が諸地方を従属させることもなかった。首都の偏重は、代表制に重大な被害をもたらす。首都の偏重のために古代のすべての共和国は代表制を知らず滅亡した。現代の諸共和国も首都に偏重すると代表制を採用できないという欠陥をもつ。
  
 アメリカ連邦ににおける宗教と政治の分離

 アメリカ連邦における宗教は、政治制度のなかでどのように考えられるのか。イギリス系のアメリカ人は、ローマ法王の権威から脱して、宗教的至上権に服従しなかった人々によって植民されたということである。民主的、共和的な宗教とよぶのにふさわしいキリスト教を新世界にもってきた。宗教と政治は同一意見をもっていたのである。

 アメリカ連邦で最も熱烈な旧教徒たちは、信仰にについて熱烈であると同時に、共和的、民主的な階級をなしている。司教と人民のみに構成されているので、司教のもとでは、すべてが平等である。カトリック教は、富者にも貧者にも同じように義務づけ、強者も弱者にも同様に同一苦行を課している。

 新教は人々を平等にするよりも独立させるようにしている。カトリック教は、専制的王国のようなものである。そこから君主を除けば、共和国においてより以上に平等である。アメリカ連邦では民主的、共和的制度を敵視する宗教的教理はひとつもない。

 アメリカでは無数の宗派がある。人々相互間の義務は宗派は一致している。すべての宗派は神の名において同一の道徳を説く。
 法律によってならば、アメリカ民族は何をしても許されると同時に、宗教はアメリカ民族があらゆることを自由に考えるのを阻止している。そして、あらゆることをあえて行うことを妨げている。それゆえにアメリカ人たちは、社会の政治に直接的に介入しない。宗教は、彼らの政治的諸制度の中の第一の制度として考えなければならないのである。

 フランスでは宗教的精神と自由精神とは常に逆方向に進んでいる。アメリカ連邦では、二つの精神は緊密に結合して一体となっている。アメリカ連邦では教会と国家との完全な分離に基づいている。
 アメリカ連邦では牧師たちが政治的社会を占める地位は、全く公職につかないことである。かれらは、行政職につかないし、集会の代表者たちでさえもなかった。聖職者たちは、自発的に権力から遠ざかっているのである。それが一種の職業的な誇りを感じている。
 ドクヴィルは宗教が政治と結びつく恐ろしさを強調するのである。宗教は災厄の慰安である憐れみの感情に基づいている限り、人類全体の心をひきつけることができる。宗教は、この世の苛烈な激情にまきこまれてと、時として愛よりもむしろ利益が与える連合を擁護せざるをえなくなる。
 そして、宗教は、これに結びついている人々を打倒しようと闘うことになる。しばしば宗教を愛している人々の反対者となって、行動せざるをえなくなる。それゆえに宗教は、治者たちの物力を分けもつようになれば必ず、治者たちが生みだす憎悪の一部を身につけることになる。
 宗教を生き続けさせるためには、政治権力の援助を必要としない。宗教は政治権力に奉仕することによって死滅するだけのことである。民主的社会状態をとり、社会が共和国に向かって進むにしたがって、宗教が国民の権威に結びつくことはますます危険になっていく。
 政治理論が次から次へと変わり、法律も憲法も毎日消え去ったり、変わったりする時代になっていくのである。宗教の力はある時代にそしてある民族では強力であった。アメリカ連邦では宗教の影響力が弱いが、長期にわたって、持続性をもって、宗教の固有の社会的な役割を維持しているのである。

 実際生活での民衆教育、風習と民主主義

 アメリカ連邦では、民主共和国の維持のために、民衆教が強力に役立っているとドクヴィルはみる。精神を啓蒙する教育を風習を規制する教育から引き離さないようにしているところではそうなっている。真の啓蒙は、主として経験から生まれる。
 アメリカ連邦の人々の教育全体は、政治の方向に向けれている。ヨーロッパでは、教育の主たる目的は、私生活を準備することであり、公務における市民たちの活動に向けられるのは稀である。
 ヨーロッパでは、公生活のうち、しばしば私生活の観念と習慣とが混入されている。アメリカ人は常に私生活にはびこませているのは、公生活の習慣である。

 アメリカ的民主政治は風習が貢献している。風習を無視しては憲法を維持することができない。風習は最悪の法律をうまく利用する。アメリカの法律には多くの欠点がある。アメリカ人の風習と法律のみが民主的諸民族に適合しうる唯一のものではない。けれでも、アメリカ人は法律と風習とに助けられて民主政治を規制しうることを示している。

 民主的制度と風習とを少しずつ発展させることが、われわれが自由にとどめく唯一の手段である。人々が民主主義の政治を愛することなくして、社会の現在の諸害悪に対抗させて、最も誠実なモデルとして、民主主義の政治を採用することができない。
 人民を政治的に参加させることは、難しいことえある。そして政治を行うために人民に欠けている経験と感情とを人民に与えることは、なお一層むずかしいことである。
 民主政治の受託者は素朴であり、その法律は不完全である。民主政治と唯一者の専制との間の中間的なものはない。われわれは自ら進んで唯一者に奴隷的に服従するよりも、民主政治に向かうべきではないだろうか。誰でも独裁者によってよりも自由によって平等化される方が望ましいと考えるだろう。

 民主的自由の発展によって人間尊厳の民主主義は、生まれたのである。このために、民主主義のための自由な体験学習である三つの学校が必要になってくる。
 民主主義は権力者にいかに利用さたのか。民主主義は専制に利用されやすい。民主的専制は、見せかけの選挙と民衆の権力を存続させて人民投票による個人独裁、人民主権による専制からである。これらは、ナポレオン帝政をつくりあげたことに現れたこととして、ドクヴィルの問題関心であった。

 その後の人類の歴史は、議会制民主主義によって、ドイツでナチス独裁政権をつくりあげ、ユダヤ人の大虐殺、ヨーロッパへの侵略戦争を遂行した。日本でも普通選挙が実施され、議会主義によって、軍国主義体制をつくりあげ、国民総動員によって、アジアへの侵略、太平洋戦争を遂行した。あらためて、人間の尊厳、自由の尊重の民主主義の民衆教育の重要性が問われているのである。これを担うのが社会教育、公民館活動であることを決して忘れてはならない。

 アメリカにおける人種差別問題と民主主義

 ドクヴィルは、アメリカ連邦に、民主政治とは別のものがあることをインディアンとニグロと白人との関係でのべている。ヨーロッパ人と他の人種との関係は、人間と動物のようなものである。アフリカの子孫たちは、すべての特権を圧政のなかで奪われていった。ニグロは奴隷状態においている。
 古代の奴隷は、自由になることによって、元の身分であることは見分けがつかないが、アメリカでの奴隷は、ユーロッパ人の関係で異邦人とみなされて人種差別を受けているのである。現代のアメリカの奴隷制は、主人の偏見、人種の偏見、そしれ、白人の偏見を打破しなければならないのである。ニグロは、陪審をあてにするおとができない。彼の息子はヨーロッパ人の子孫が教育される学校から排除されている。
インディアンは白人が新世界に渡来する以前は平穏に生活していたが、ヨーロッパの圧政は、インディアンたちを遠くに追いやり、漂白放浪の生活を強いたのであり、かれらの祖国愛の感情を弱め、その家族をばらばらに分散させ、その伝統を見失わせた。