社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

民主主義と精神活動ートクヴィルの「アメリカ民主政治」から学ぶ

  民主主義制度は、自発的結社や団体など多様な価値を認めていく社会システムがなければ、国民を総動員して専制的な国家になっていくのである。自発的結社や団体をつくりあげていくのは、地域で生活している人々の精神的な活動が必要である。また、真の民主主義には、理性ある人間的感覚を基礎として、差別から平等への自由なる活動の保障が不可欠である。
 人類の歴史は、民主主義の制度でフランス大革命の自由・平等・友愛のあとに、ギロチンがあり、ナポレオン帝政を生み、ドイツでは議会選挙の多数によってヒトラーが生まれた。また、日本では普通選挙が生まれて、軍部の独裁のもとに国民総動員法が議会のもとで進められた。
 排除の論理から敵をつくるのではなく、多様な価値を認め、異なる文化や価値での世界の共存・共栄と人間の尊厳を尊重する社会システムとその教育活動がなければ民主主義制度は独裁による耐えがたい圧政を人々に強いていくのである。
 アメリカはフランスのように革命によって、民主主義を達成したのではない。 トクヴィルアメリカ民主政治下巻で民主主義が知的運動に及ぼす影響、感情への民主主義の影響、風習に対する民主主義の影響についてのべている。
  アメリカ連邦で民主主義が知的運動に及ぼす影響でアメリカ人の哲学的方法は思弁的な研究をせず、書物の中からくみ取るのではなく、自らの判断と尺度を習慣としているとトクヴィルはみるのである。まさに、アメリカは経験主義によっての自らの価値判断をするというのである。
 アメリカ人は民主的社会状態と民主的憲法をもっているけれどもフランスのように民主的革命を行ったわけではない。そこには、旧信仰を動揺させ、権威を無力させた。つまり、共通観念を忘却したりする革命は存在しなかった。人々は判断において互いに対立したり、個人的にのみ知識経験を求めたりするようになっている。アメリカは社会を二分するような厳しい対立のなかで、旧体制に対するギロチンなどにみられるように徹底した排除という革命的変革を経ての民主的社会状態の確立ではなかった。
 トクヴィルは、アメリカの人々が結びつきを利益によってのみ互いに結びついているとしている。そこでは、人々の意見は集合することも固定することもない。そこでは、個人的理性を使用し、狭い限界内にひきとどまれざるをえない。自分の狭い枠に閉じこもってそれを世界全体だと判断しがちであるとトクヴィルアメリカの民主的状態をみるのである。
 
 世論の役割の重大性

 トクヴィルは、共通の観念なくして共通の行動はないと考える。共通の行動がなければ、社会は存在しない。 社会が繁栄するためには、市民たちがいくつかの観念によって結集し団結していなければならない。
 トクヴィルは世論の役割を重視する。市民たちが平等になり、一層に似通ったものになるにしたがって、各人が大衆を盲信する傾向にあふれてゆくので、すべての人々を導くものはますます世論になっていくとドクヴィルは考える。
  世論は、個人的理性に残存している唯一の手引きであるばかりではなく、無限な強力な権力をもっている。世論は、大きな権力になっていくことをトクヴィルは指摘しているのである。世論が問題になってくるのは、近代の民主主義社会の実現以降であり、封建的社会では問題になっていなかった。
 平等の時代には、人々は互いに似かよっているために、相互に信じあうことは全く必要ないのである。似通っていることは、為政者自身の意向がすべて人々の意見であるということと同じではない。近代の民主主義による最大多数の支配は常に非常に専制的になっていくのである。
 トクヴィルにとっての平等の時代に人々を支配している政治的法則は、世論の信仰であり、多数者を予言している一種の宗教となると考える。ドクヴィルは、世論が信仰として大きな支配力をもつとする。世論は社会を動かしていく大きな力になっているのである。現代でも世論が社会的に大きな力になっている。
  世論の形成においてマスコミの果たす役割も大きい。マスコミのあり方やマスコミと権力の関係も問われるのである。世論をどのように民主主義の社会的な制度にしていくのか。深めていく課題である。
 ところで、アメリカの精神は、著しく純物質的なものごとに関心を集中せざるをえないとドクヴィルはみる。諸情熱、諸欲望、教育、諸事情などすべては、住民は地上のものごとに関心を集中させ、事実上協力しているようにみえる。そして、民主主義の制度による多数者による専制が起きるのである。                
 知識の効用は大衆の目につくほど明らかになると知識の役割を民主主義との関係でトクヴィルはのべる。知識のもっている魅力を味わったことのない人々でも、その効果を取り入れるように努力するようになる。民主的に啓蒙された自由の時代には、人々を差別し、地位を固定させるものではない。
 民衆の社会的地位は、著しく速い速度で上昇したり、下降したりする。民衆が精神労働に関心をもち始める瞬間から光栄や権勢や冨などを獲得する重大な手段は、相互の間で抜群の成績をあげるようになる。知識が競争による手段として大きな効果をあげることが目に見えるようになる。
 知識の効用が社会的に大きくなることが大衆にわかることによって、科学、文学、芸術を研究する人々の数は膨大になる。驚くばかりの活発な活動が知識の世界にあらわれるとトクヴィルはみる。科学の大衆化、知識の普及の一般化は、大衆自身がその効用を競争社会のなかでみるのである。
  
 アメリカ人は理論よりも実用に強い関心をもつ

 トクヴィルのみるアメリカ人は、科学理論についてよりも、その実用について一層に強い関心をもっているとする。体系理論を警戒して、事実に近づき、これを自分自身で研究することを好むのもアメリカ人である。アメリカでは、科学の純実用的部分がすばらしく開拓されている。
  そして、実用に直接必要な部分の理論だけにアメリカ人は関心をもつ。民主的民族が科学に専念し、これを理解して尊重するのは、実利的面においてである。
 彼らは、自分たちが占めている地位にあきたらず、それを離れることは自由である。財産を殖やし、冨を手に入れ、労働を省略するあらゆる機械や、生産費を減少させる方便は、人間の知能の最もすばらしい努力に委ねる。トクヴィルは、アメリカ人の科学の関心は実用であり、体系的科学理論ではないとする。
  トクヴィルは、高級な科学的天職ということを信じている。大衆のうちから真理愛だけに熱中して純理論に没頭する天才がいつでも生まれてくるとはとうてい信じられない。
 人間精神は放任されていれば実用に向かって急いで駆けてゆく。第二の知的な効果しか没頭するようにさせないで、第一原因を考察するように精神を高めることが望ましいとドクヴィルは考えるのである。
 トクヴィルは問う。アメリカ人は、どのような精神で技術を研究しているのであろうか。生活を美しくすることを目的とする技術よりも生活を安楽にして快くするために技術を研究開拓するのである。美しいものよりも有用なものを習性的に偏愛するのである。
 貴族社会ではえり好みの少数の限られた買い手たちを目当てにする。労働者たちは、商品を開発する。そこでは非常に高い値段で売ろうとする。自分たちの腕でつくれる最上のものを常につくろうとする。
 民主主義社会では少ない費用で大量生産によって、商品の値段を決める。ものを生産する者は、多くの不完全な品物を非常に早くつくらせて安価に提供して消費者に満足させるようにする。
 奢侈欲は、民主主義時代に属している。新しい虚栄心を満足させるためには、技術はあらゆる欺瞞によるのである。本物とまちがえられる巧みなダイヤモンドの模造品をつくれるようになる。
 偉大な作品よりも、はなやかな楽しいものが求められ、そして実質よりも見栄がもてはやされる。これらのトクヴィルの指摘は、資本主義的な消費社会をつくってきたことでの問題を深めていくうえで重要な指摘である。
  本物よりも模造品がはびこり、偉大な作品よりもはなやかな楽しい売れる商品が重要視される。伝統的な職人の本物の技術よりも機械で効率的な大量生産してできた安価なものが重宝される。ここでは、品質の競争、技術的な正確さと高度な洗練された精巧さはよりも安価で見栄えが優先されていくのである。

 アメリカでの文学や雄弁家の誇張した表現

 トクヴィルは、アメリカを今日における文学に最も無関心な文明国とする。アメリカの住民たちは、本来、いまだに文学をもっていない。雑然とした群衆がいるのであり、その知的欲望は常に変貌し、共通の伝統と習慣によって精神を結び付けられない。すべて同一の教育をうけていない。同一の文化的啓蒙をもっていない。文芸の何らかの気風をもっている人々は政治的生涯を送っているか、精神の悦楽をみつけて味あうために逸脱できるような職業を選んでいるかである。
 これらの人々は、文芸上の楽しみを自分たちの生存の魅力としていない。生活の真面目な労働のさなかで一時的な必要な気晴らしとして文芸的娯楽を得るためである。そこでは、文芸について優雅なものを感じるだけの深い知識を身につけていない。
  トクヴィルは、アメリカの作家と雄弁家は、自ら好んで誇張に陥り、アメリカ人の話は始めから終わりまで、ゆるみなく華麗で大げさであるとする。そして、あらゆるものについて情景や描写をやたらに多くしている。
 イギリス人たちがこのような欠点に陥ることはまれである。その原因は、アメリカの各市民は習慣的に非常に小さな対象を考えている。アメリカの市民がもっと高いところに眼をむけると、彼らは、巨大な社会像、または、偉大な人類像だけを認めるにすぎない。
  そのとき、かれらは、甚だ特殊な理念、甚だ漠然とした概念のみをもつのである。この非凡な対象のおかげでそれをきっかけとして、自らの生活をゆさぶり、楽しいものにし、こまごまとした複雑な配慮から逃れていることに同意しているのである。非常に広大な概念と並外れて異常な描写とを要求するのは以上の理由からであるとトクヴィルはのべる。
   演劇についてもトクヴィルは、半ば粗野の愛好が劇場に入り込んでいるとしている。アメリカの大衆によっては、娯楽の楽しむために準備や研究も必要ではない。没頭している仕事の最中に、無知のなかでも享楽できる娯楽が必要である。貴族的国民の劇場とは異なるのである。
 博識者たちと文人たちとが、人民の好みに対して貴族達が自分たちの洗練された趣味と性情を優越させるために、苦心を払っているのである。人間性を舞台で描写することに自分たちの美徳、悪徳をえり好みする。
 このことは、人間のある一面のみを描写することになる。しかし、アメリカの民主社会では、えり好みをせず、地位や感情や理念などの混合が入り交じって状態が舞台で表現されるのが好まれる。トクヴィルは、貴族階級国民とアメリカの大衆の好みがあらわれるとしている。

 貴族時代と民主主義時代の歴史観の違い

 貴族時代と民主主義時代とは、歴史家の著し方が異なるとトクヴィルはみる。貴族社会時代の著作は、歴史的な事件を個人の意志と人々の気質とに従属させてものごとを著す。貴族時代の歴史家は、あるひとりの人間の及ぼしうる影響を大きく考える。そして、群衆の運動を説明するには、個人の特定の行動までさかのぼらなければならないと信じる。
 しかし、民主主義時代の歴史家は、人類全体の運命、民族全体の運命に対する個人の影響を認めない。個々のすべての事実を一般的な大原因によって説明する。市民たちがひとりひとり弱いときは、大衆の上に極めて大きな永続的な権力を行使するものはみつからない。つまり、諸個人は大衆に対して全く無力のようにみえる。
 そのために、歴史家は、人間精神の自然的に一般理性を探究するようになる。民主主義時代の歴史家でもっとも危険な傾向をもつのは、民族全体の運動を意志的なものではないと、社会を支配しているある超越力にあると信じる傾向である。そこでは、民族の運命を不動の神の摂理にか、盲目的な宿命にかに従属させるかである。
 民主主義時代の歴史家たちにとって宿命論は多くの魅力をもっている。トクヴィルは、この宿命論は危険であるとする。自由意志を疑いすぎ、自らの力の弱さを狭く感じているのである。
 宿命論は、弱い人々でも社会に一体として結合して、力と独立を与えていることをことを全く不明瞭なものにしてしまう。トクヴィルは、自由意志による人々の結合の力が社会を動かしていくということを強調しているのである。
   トクヴィルは、民主主義時代は、自由が特性を形成するものではなく、人々を煽動する主要な情熱は平等への情熱とする。そして、自由と平等の害悪について次のようにのべている。
  政治的自由の極端なものは、諸個人の平安、資産、生命を危うくする。極端な平等をつくりだしうる諸害悪は、すこしずつあらわれるにすぎない。それらの害悪は時たま眼につくにすぎない。これらの害悪が最も烈しいものになっているときは、人々は害悪になれてしまっている。自由が与える福利は、長期間の経過のうちにのみあらわれてくる。これらの福利を生んでいる原因を忘れがちであるとトクヴィルはみる。

 個人主義と公共性の醸成方法

 個人主義と利己主義について、トクヴィルは次のようにみる。個人主義は、反省的な平和的感情である。自分を孤立させ、家族と友人たちとともに大衆から離れたところにひきこませる。みずからの小社会をつくりあげたあとで、大社会にまかせ放任するのである。個人主義は民主主義的起源のもとにある。地位が平等になるにしたがって、発展する傾向がある。
 利己主義は、自己自身の熱情的な誇張的な愛である。それは人間を自分ひとりだけに結びつけるようにさせるし、そして何ものにもまして、自分を偏重させるようにする。
 利己主義は盲目的な本能を受け入れ、個人主義は堕落した感情よりも、むしろ誤った判断から生じる。個人主義はその源泉を心の悪徳と同様に、精神の欠点に、くみとっている。
  利己主義は、すべての美徳の芽を枯らしてしまう。個人主義は、初めに公徳の源泉だけをからす。けれでもしまいには個人主義は他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そして最後に利己主義のうちにのみこまれる。以上のように、ドクヴィルは、個人主義と利己主義の違いを区別し、利己主義の危険性を指摘するのである。
 アメリカ人は自由な制度によってどのようなして個人主義と闘ってきたのであろう。このことについて、ドクヴィルは次のように考える。市民たちが公務に専念するときは、個人的利益から引き離される。共通のつとめが共通に取り扱われる瞬間から同類者たちと協力しなえればならないことを悟る。
 公共体が支配するときは、公共的善意の価値を感じない人はひとりもいない。人々の尊敬と愛情とを勝ち取ることによって、公共的善意をうけるようにつとめない人はひとりもいない。
 そのときには、人々の心を冷酷にし、分裂せせるいくつかの情熱は魂の奥底にひっこんでいく。傲慢の姿はかくれ、軽蔑の姿をあらわさない。自由な政治の下では、大多数の公務員が選挙される。選挙は陰謀や中傷などが起こり、憎悪が人々の相互の間にもたれる場合がある。これらの弊害があるが、選ばれたという欲望は、すべての人々に支持されたいとし、永続的に互いに接近させる。
 市民たちに、一緒に行動する機会を、そしてかれらが相互に依存しあっていることを毎日感じさせる機会を限りなくふやす目的で、領土の各部分に政治的生活を与えるようにする。トクヴィルは、市民が一緒に活動する機会を日々提供することによって、相互に依存しあう公共的な関係をつくりだしていくとする。
 そして、公共的福祉のために相互に協力する必要性を感じさせるためには、国の大事を処理する政治に参加させること以上に、地区的な小公務を処理する行政を市民に負担させることが必要であるとする。長期に亘って続けられる小公務の達成と人目につかない親切な世話、恒常的な善行の習慣が求められる。
 そして、公平無私の信頼のもとで、大多数の市民たちは、自分たちの隣人たちと親しい人々との愛情を尊重するようになる。この地方的自由によって、市民たちを引き離す本能にもかかわらず、人々は相互に絶えず近づきあうようになる。ここでは、相互に助け合うようなるとトクヴィルはみるのである。

 民主主義社会での結社や団体の重要性

 結社の役割について、トクヴィルは問題提起しているのである。民主的民族では、すべての市民がひとりひとり独立しており、ひとりでではほとんど無力である。政治的目的で団結する権利も好みももっていなければその人の独立は大変に危険にさらされる。
 彼らが、日常生活で団結する慣習を身につけていなかったとすれば、文明そのもが危うい状態になる。個々の人々が共通に大事をつくりだす能力を身につけていなく、孤立的に大事をなす力を失っていると、その民族はまもなく野蛮状態に後戻りすることであろうとトクヴィルはのべる。
 民主主義が発展していくと、人間が自らの生活に共通な必要なものを自分ひとりではつくれなくなってゆくとドクヴィルは考える。そして社会力(政治権力)の任務は絶えず増大していくとする。
 社会力は団体に代替えすればするほど、個々の人々が団結する理念を失って、社会力に助けてもらいたいという欲望は高まっていく。社会力の増大と個人の無力化は絶えず増えてゆく。このとき、公共的行政は、孤立的な市民が十分に遂行することのできないすべての産業を統制することになる。トクヴィルは、社会力としての公共的な行政の強力な統制を指摘するのである
 人々の相互作用によってのみ感情と理念は新しくされる。そして、心が拡大され、精神が発展するというのがトクヴィルの基本的な考えである。民主国家では、この相互作用が殆ど皆無である。このために、人為的に、この相互作用をつくりださねばならない。
 民主国では、自然状態で、社会力のみが存在している。この社会力は、常に不十分でしばしば危険なものになるとトクヴィルは警告する。つまり、政府は絶えることのできない圧政を行うことになるというのである。なぜかというと、正確な規則を履行することしかできないからである。
 政府は、自ら奨励する感情と理念とを強制する。政府が全く市民たちを感動させないような感情と理念とに、真実に関心をもって、それらを普及させるべきだと信ずるならば一層悪いことになる。それゆえに政府が感情と理念の活動しないことが必要であるというのがトクヴィルの主張である。
 このトクヴィルの見方は、多数派民主主義が独裁政府をつくりあげていく危険を的確にみている。政治的権力は相互作用によっての感情を一層に拡大して、為政者の意のままに専制をして、国民に絶えがたい圧政をしいていくというのである。その圧政は国民の熱狂的な統合された感情によって、打ち消されていく。多数派民主主義が国民を感情的に統合して、独裁国家を生み出していくのである。
 ところで、民主的民族で、地位の平等が消滅させる有力な諸個人にとって代わるべきものは団体である。人々が文明人としてとどまり、または文明人となるためには、人々の間の平等が増大するのに比例して、団結の術が発展し、そして完成させることが必要である。
 トクヴィルは、民主主義が発展することによって、個々人の自発性による結社や団結が自然状態では衰えていくとする。意識的に団結の術を発展させていかねば政府による圧政で危機的な状況になるというのである。
 多数派民主主義の独裁を防止していくうえで、個々人の自発性による結社や団結が大切であるとするのである。この自発的な結社の力がなければ政府の一方的な国民への統合された感情によって独裁がつくりあげ、国民の総動員が行われるのである。
  トクヴィルは新聞と団体の関係につても次のようにのべる。新聞は人々が一層に平等化することで、個人主義が一層恐るべきものとなるにしたがって、重要になっていく。民主国では、新聞がしばしば市民たちに、極めて軽率な企画事業を共同で行わせるようになる。新聞がなかったならば自発的共同の活動は殆どない。
 新聞は多数の人々に同一の構想を暗示する効果をもっているばかりでなく、人々が自ら考えている構想を、共同して実現する手段を与える。 新聞は、団体をつくるし、団体は新聞をつくる。
 新聞は多数の人々に共通の感情をつくりだす。この条件を満たすのみで存続できる。それ故に、新聞はその常習的読者たちが成員になっている団体を代表している。団体の存続には、新聞の存在が不可欠である。
 政治的団体が禁止されている民族では、市民団体はまれであるとトクヴィルはのべる。市民生活では、同一利益が自然的に多くの人々を共同行動にひきつけることはまれである。政治団体は、年齢、精神、財産などによって自然に引き離されている諸個人を接近させ、接触させる。
 政治団体では、人々は自分たちの意志を、他のすべての意志に従属させることを学ぶ。そして、かれらは、自分たちの個々の努力を共同的行動に従うことを学ぶ。政治団体はすべての市民の大きな無料の学校としてトクヴィルはみるのである。民主国では、政治団体を一種の本能的恐怖を感じている。政府は、あらゆる機会に団体と闘っている。
 しかし、政府は好意をよせる市民団体もある。政府に好意をよせる市民団体は、公の仕事から別の方向にそらせることに役立っている。市民たちを革命から遠ざけ、そらすようにしている。
 すべての年齢のアメリカ人は、団体への一般的な好みを培う。団体に親しんでいるのは、政治団体である。アメリカでは団体で多くの者が一緒になって互いに顔をあわせて話し合い、理解しあっており、あるやる種類の企業を共同でしている。トクヴィルは、以上のように市民団体や政治団体の役割についてのべるのである。

 実利説と文化的教養を身につける学びの大切さ

 アメリカ人は実利説によって、どのように個人主義と闘っているのかとトクヴィルは問う。貴族制時代は徳の美しさに絶えず語られたが、アメリカ連邦では、徳は美しいとは殆どいわれない。
 アメリカ人にとって、徳は有用であると主張する。市民たちは、個人的利益がすべての人たちの幸福に貢献できないかと探究する。私益が一般利益と出くわすときを発見したとき、私益は善をなすと信じる。アメリカ人の実利説は一般に容認されている。この説は大衆化されている。
 ヨーロッパでは、実立説は、俗悪で下品であるとされる。アメリカにおけるほど実利説は普及していない。アメリカ人たちは、自分たちの生活の殆どすべての行為を、実利によって説明する。彼らは啓蒙された自愛心によって、絶えずお互いにどうして助け合うようになるか、自分たちの冨の一部を国家の福利のために、どうして自発的に犠牲をあえてするのかと説明する。
 これらのことに、トクヴィルは、そのとおりになっていないことを次のように指摘する。市民たちは、自然の公平無私と、無反省な飛躍に身を委ねる。
 実利説は、偉大な献身をつくりださないが、日々小さな犠牲を暗示する。この説は人間を有徳なものにすることができない。しかし、この説は規則正しく節度ある、穏和な、用心深い、自主的な市民大衆をつくる。そして、直接的には意志によって徳に導かないとしても、習慣によって知らずしらずのうちに徳に近づける。
 この説は、どんな知能をもった人々にもわかりやすいので、各人はこの説をたやすく知り、苦もなく保持している。トクヴィルは、実利説を現代の人々の要求に最も適合しており、人々を自制させる最も有力な保障であるとみているのである。
 個人的利益が行動の主要な原動力となっていくことで、かれらが自らの個人的利益をどのように理解するかが、社会的な徳にとって大切である。市民たちが平等になっても、無知で粗野のままであるならば、彼らの利己主義がどのように極端な愚鈍なものに向かっていくは、とても分かったものではない。どのような恥ずべき惨禍におちこんでしまうか予言できない。
 実利説は、人々をあらゆる努力をはらって啓蒙すべきである。盲目的な献身と本能的な徳との時代はすでに遠ざかっている。自由、公共的な平和、そして、社会的秩序自体が、文化的教養なくして実現されない時代だからである。
 このように、トクヴィルは、個人的利益が人々の幸福、公共の福利に繋がっていくという実利説に、文化的教養をもたなくては、恥ずべき惨禍におちこんでいくことを示しているのである。文化的教養を身につけていう人々の学びの大切さを強調するのである。
 実利説と宗教の関係についてトクヴィルアメリカ的特徴につて次のようにのべる。人間は自らの知性によって、神的思想がはいりこむ。人間は神の目的が秩序であることも知る。人間はこの偉大な企画に自由に参加し協同する。この秩序のために私益を犠牲にする喜びをもち、報酬を期待しない。宗教的な人々の唯一の動機が利益であると信じていないとドクヴィルは考える。
 アメリカにおいて、利益は、宗教自体が人々を導くために用いる主たる手段であるとドクヴィルはみる。そして、宗教が大衆をとらえ、大衆化するようになっていくのは、この利益の面である。アメリカ人は、聖壇の下に導いているものが心情よりも理性であると思われほどに冷静に整然とした計算高いものがみいださせる。
 アメリカ人は、利益によって宗教にしたがっているばかりではなく、宗教にしたがうに当たってもたらされる利益を、この世にうちにいているのである。アメリカ的宣教師たちは、聴衆に一層よくふれるために、宗教的信仰がどのような自由と公共的秩序とを促進させているか日々明らかにしている。

 アメリカ人の物資的享楽欲と福祉の不安

 トクヴィルは、民主的民族のなかで生活している富者にたちの物資的欲望の状況について次のようにのべる。彼らは、貴族社会の外れた享楽の充足よりも、自分たちのささやかな欲望を満たすことを心がけており、小さな願望の充足で、常軌を逸した激情には陥っていないとしている。
 民主主義時代の人々が物資的享楽に対して抱いている特殊な好みには、自然的に秩序に反対していない。それどころか、その好みはしばしば満たされているために秩序を必要としている。この好みは風習の規則正しい敵でもない。善良な風習は、公共的安寧に有用であり、産業を促進し、一種の宗教的道徳観と結びつくようになっている。
 トクヴィルにとって、アメリカは世界中で一番幸福な境遇におかれてている人々であり、しかも最も自由で開花された人々であると考えている。しかし、彼らの容貌は暗雲におおわれている。歓楽にも厳粛であり、悲痛なおももちを表している。幸福な境遇におかれているのに、漠然とした不安になやまされているのはなぜかとトクヴィルは考える。
 彼らは幸福をすべてとらえても、しっかり握りしめていない。彼らがもっている幸福はまもなく手から離して、新しい幸福の追求に急ぐのである。家を建てると他人に売る。果樹を植えると果樹園を他人に貸す。畑を開墾すると収穫物は他人に他人にまかせる。あるひつとの職業につくと、それをやめてしまう。ひとつの場所に居を定めるとまもなく他のところに自分の変化を求める。
 この世の幸福を求めて自ら常にせきたてられている。彼の魂を一種の不断の振動状態においているため、魂は苦難、恐怖、悔やむ、恨みで満たされている。このために計画と場所とを変えるとドクヴィルは解釈するのである。
 門閥と財産の特権が打破され、平等になることによって、すべての職業が開放され、自力でどんな職業の最高位の地位に到達できるようになると、人々は野心と広大な希望を抱くようになる。
 しかし、平等は市民たちの願望を拡大させると同時に、あらゆる面で彼らの力を制限する。彼らはすべての人々から競争に出くわす。人々が互いに似かよっており、同一の道をたどり、彼を圧迫する。群衆のなかをつきぬけて素速く前進することが困難であることは明らかである。平等が生んでいる本能と、この本能が満たされるために、平等の提供する手段との間に恒久的対立がある。
 この対立は、人々の魂を苦しめ疲労させている。トクヴィルは、平等社会になったことによって、同一の志向をもって競争する人々が、常に上昇志向をもって、苦悩に陥っていることを指摘しているのである。
 トクヴィルは、公共的安寧を大なる福利であることを認めるが、同時に、公共的安寧が圧政に陥ることも指摘している。物資的享楽への好みが知的啓蒙よりも、自由の習慣よりも物資的享楽が一層急速に発展するときに、人々の繁栄に結びついている密接な紐帯を認めないのである。
 公共的なものごとを市民たちは、考えようとしなくなる。このような危機のときに、機敏な野心家が政治的権力をもつならば、自由を奪っていく。ドクヴィルは公共的安寧が大なる福利であることを認めるが、安寧だけを政府に求めるのは、自らの福祉の奴隷であるとする。
 すべての民族が圧政に陥るのは公共的な安寧を通じてである。公共的な安寧だけでは十分ではない。多数派民主主義の独裁は、大衆の名のもとに若干の政権担当者によって、気まぐれにすべてのことを処理し、意のままに法律を変え、そして風習に圧政を加えるのである。公共的情熱・福祉の情熱と自由の情熱の結合が必要である。市民たちの大衆が私事のみに没頭しているときに、どんな小さな党派でも、公務の主人公となることをあきらめたり、絶望したりすべきではない。
 アメリカ人は世界ではたった自分一人であるかのように、自らの私利に没頭している。しかし、私利を忘れていたかのように公共的なものに献身する。また、あるときは、最も熱心な愛国心によって活気づけられている。アメリカ人たちは、福祉のため、自由のためにと強い情熱を交互にあらわしている。
 アメリカ人は、地方において、福祉の情熱と自由の情熱を結合している。自由の内にその福祉を最上の手段と最大の保障と見て、一方を地方によって、他方で地方を愛して結合している。それ故に、公務にたずさわることが自分たちの仕事であるとする。政治によって自分たちの福利を手に入れることができと考えていることをドクヴィルは強調するのである。

  本来の風習に対する民主主義の影響

 地位が平等することによって、風習は緩和する。地位の平等化と風習の緩和は相互関連の事実であるとドクヴィルは語る。貴族的民族では、各カーストは自らの意見、自らの感情、自らの法律、自らの風習、自らの生活様式をもっている。それゆえに、各階級の人々は、他の階級の人々が感ずることを理解することができない。
 しかし、農奴は、自然的に貴族たちの運命に無関心であっても、貴族たちのうちの自らの首長である貴族のために献身しなければならないと思っている。貴族民族では、人間に対してはなく、家臣または領主に対して与えられねばならないと信じていた。人々は人類全体の惨禍に対してでは無く、若干の人々の災難に対して、極めて敏感であったのである。
 身分がほとんど平等化される民族では人々は同じような考え方と感じ方をもつようになる。各人は他のすべての人々と同じ気持ちでものごとを判断できるようになる。各人はどのような惨禍でもたやすく感じることができる。
 しかし、外国人または敵にたいしてはそうわいかない。想像によって各人はこれらの人々の立場に自分をおくことができる。ドクヴィルは敵と外国人については、社会が平等化されても同じように惨禍にたいして同情をもたないとするのである。そこには、厳しい相容れない感情があることを示しているのである。
 トクヴィルは、アメリカにおける奴隷の存在で、社会的な差別の厳しさを次のように説明する。アメリカの特異な状況は、奴隷を取り扱う社会状態から生まれる。アメリカ連邦の黒人の物理的状況が厳しいところは他の世界にはない。奴隷は、恐るべき惨苦、絶えず極めて残酷な懲罰にさらされているのである。
 奴隷の主人たちは、殆ど憐れみを起こさない。奴隷関係は災厄であるとみている。自分たちと平等でである人々には人道的になるが、奴隷に対しては平等が停止し、同類者たちの苦痛を感じなくなっているのである。
 それ故に、人間のやさしさ、おだやかさをつくりだしているのは、文明や教養であるよりも、むしろ人間社会の平等であるとドクヴィルは強調するのである。アメリカでは奴隷に対しては、人間社会の一員になっていない、差別的な位置であるのである。
  
 アメリカの家族と民主主義

 アメリカの家族について、トクヴィルは、息子たちを独立させるように、父親の権威の失墜を遠くからながめているとする。貴族的民族では、父は命令する政治的権利を与えられている。権力は、被支配者達全体に直接的に向かっていかない。父を仲介者として政府は、民衆を統治するとする。家長の権力あ非常に尊重され、非常に大きいのである。
 民主国では、共通法律に各人を孤立的に服従させるためにひとりひとりの人間を統治する。法律と風習によって人々は接近し、そして日ごとに同一の水準になるのである。法律と風習が一層民主化されることによって、父子の関係は緊密になり、なごやかなものになる。規則と権威から信頼と愛情が増大していく。社会的紐帯から自然的紐帯になっていく。
 民主主義が、兄弟達を相互に結びづけ執着させるのは、利益によってではなく、追憶の共同体、そして意見と好みとの自由な共感によってである。法律による市民相互を非常に緊密に結びづけることができるが、法律が廃止されれば市民たちは離れてしまう。人類における自然的感情をまげ、これを無力化することはまれである。
 民主主義は社会的紐帯から自然的紐帯をひきしめ、市民たちを引き離すと同時に、親族たちを接近させるとトクヴィルは考えたのである。
 風習をつくるのは女性であるとドクヴィルは考える。風習なくして自由な社会は存在しないともする。女性の地位は、重大な政治的利益をもっていると。
 アメリカの若い女性は、たわいものない臆病や無知をあらわすのはまれであり、ヨーロッパの若い女性のように、誰にでも気に入れられたいと思っている。けれでもどのような犠牲を払わねばならないかを正確にアメリカの女性は知っている。
 彼女は純潔な精神よりもむしろ純潔な風儀をもっている。彼女たちは、自分たちの考えと言葉とを実に巧みに大胆適切にあやつりながらきりぬけるのである。これがアメリカ女性のならわしである。
 トクヴィルは、女性の情熱の取り扱いで、アメリカ人は、自ら闘う術を若い女性に教える方法として、 世の中の腐敗堕落を隠すのではなく、彼女がまず初めてそれを見て、自らこれをさけるように訓練する。若い娘の無邪気さを過度に尊重することよりも、彼女の貞潔を保障することを一層強く望んでいるのである。
  さらに、アメリカ人たちは、清教徒的国民であると同時に商業的民族でもある。宗教的信仰並びに産業的習慣によって、女性から献身を要求している。自分たちの実務のために女性の歓楽の持続的犠牲を必要としている。
 アメリカ連邦では、過酷な峻厳な世論の下で、女性は家庭的利益と義務との小さな境界内に用心して閉じ込められ、外にでることを禁じられている。若い女性が社会で出て行ったときに、社会でこれらの概念が堅固に確立されていることを知るのである。
 この慣習から離脱することは自らの平安と名誉を危うくし、社会生活までも危険にさらされることを確信するようになるのである。
 夫を選ぶときに、アメリカの女性は、世間を自由な眼で眺める訓練で啓蒙され、冷静で厳しい理性によって、女性の幸福の源泉を夫婦生活の家庭にあることを学んでいるのである。トクヴィルは以上のようにアメリカ人の女性たちがもつ習慣について考えるのである。
 
 アメリカ人の男女の平等観

 トクヴィルは、男女の平等について次のように考えている。男女を似通ったものとして、同一の職能を与えて、両性に同一の義務を課し、同一の権利を与えるという。両性の平等化は、両性を共に堕落させるとしている。アメリカ人にとって、女性と男性との間は、自然的に非常に大きな相違があるとドクヴィルは考えている。
 アメリカ人は、男性と女性は同一ではなく、それぞれ異なった諸機能、異なった任務ある。そのことを尊重していくことが社会的進歩とアメリカ人は判断しているとしている。アメリカ的女性には、家庭の外部的実務に指導的にたずさわったり、商売を経営したり、そして政界に入り込んでいる女性は見いだされない。
 けれでも、なおまたアメリカには、肉体力の発達を促すような骨のおれる農耕労働や、その他の苦しい仕事に没頭させる女性も見いだされない。アメリカでは性的な分業が社会的にされているとドクヴィルはみるのである。
 アメリカの男性は、ヨーロッパで女性に集中するような色眼を使うことはない。男性は常に自らの行為によって有徳であり、優雅でやさしいと思っている。アメリカでは、女性の精神的自由を非常に尊重している。
 このため、女性たちの面前で彼女たちをきずつける言葉をきかせることのないように自らの談話に非常に用心するのである。アメリカでは若い女性は、一人で何の恐れも抱かずに長い旅を企てる。以上のように、トクヴィルは、アメリカの男性の女性に対する精神的自由の尊重をしていることを強調するのである。
 トクヴィルの生きていた19世紀中頃のアメリカの時代からみるならば、現代アメリカの女性社会的進出が大きく躍進している。女性は家庭生活の機能、男性は、社会的仕事という両性分業論は大きくかわっている。
 女性の経営者や女性の政治家の活躍は、今日のアメリカでは数多くみられるのである。トクヴィルアメリカ社会において両性の分業論をみたのは、貴族社会のなごりや、封建的制度ではなく、自由なアメリカの産業社会にみられたことである。
 両性の分業論の源泉がどこからきているのか。トクヴィルの男女の自然的機能的相違論や初期資本主義の発展や開拓時代のアメリカ社会、そして資本主義の発展による家庭にあった様々な私的機能が社会化していくことによっての女性の社会的な適切な機能も増大していくのである。
 つまり、子育ての社会化ということで保育園、幼稚園の増大、食堂やレストラン、惣菜、介護など様々な家庭の機能が社会化していくのである。このなかで消費市場も拡大していく。この社会化が保育所や介護など公的な福祉機能として、政治の役割も大きな位置を占めていくのである。
 
 アメリカの公的な生活と私的生活の区別

 アメリカ人は私的な生活の楽しみと公的な政治生活の場面を明確に区別しているとトクヴィルはみる。アメリカ連邦では、市民たちは相互の間に優劣の地位をつくっていない。彼らは相互的に服従をも尊敬をも義務づけられていない。彼らは一緒になって自治的に裁判し、そして国家を統治している。すべて共通な運命に影響することがらを取り扱うために団結している。
 しかし、政治的集会、裁判所内で容易にまじりあう彼らは、私生活の楽しみを別々に味わうために、非常に用心して著しくはっきりと区別される小集団にわかれるのである。政治的社会が拡大されることによって、私的関係の範囲は狭まれ、小さく引き締められることが期待されるとトクヴィルはみる。
   アメリカ人の謹厳な態度は彼らの自尊心から生まれているとトクヴィルは信じている。民主国では、貧乏人でも自らの人格的価値について高い理念をもっている。
 彼は、他の人々が自分を尊重していることに満悦している。自らの欠点をみつけられないように、自らの言葉と自らの言葉に慎重な注意を払っている。尊敬される人間となるために、慎み深く厳格な態度を持つことが必要であると思っている。アメリカ人は、この態度を本能的にもっているとトクヴィルは驚いているのである。
 ところで、独裁制では民衆は馬鹿騒ぎをして喜んでいるとトクヴィルはみる。民衆は心のうちに恐怖を抱いているために憂鬱であり、内気である。専制王国では、生活の最も重要な配慮から逃れるために、民衆はしばしば平等で陽気な気分をあらわしている。しかし、すべての自由な民族は慎み深く厳格である。
 トクヴィルの指摘することで、独裁制では民衆は、馬鹿騒ぎをして喜んでいるという。このことは、民をかえりみない独裁の為政者に対する大きな不満のあらわれてとして、いつの時代でもみられるのではないか。

 国民的誇りと名誉

 国民的な誇りはすべての民族に同じようにあらわれるのではないかとトクヴィルはみるのである。アメリカ人は、外国人との関係で少しでもけなされることに我慢できないようで、いくらほめられても気がすまないとみえる。彼らの虚栄心は貪欲であるばかりではなく、不安と嫉妬で満たされている。絶えずものほしそうであるが、何ものも与えない。その虚栄心はとりこもうとしていると同時に、騒々しく喧嘩腰である。
 イギリス人は、他の国民をほめないが、自らに対してほめられることを少しも求めない。彼は、外国人から非難されても全く心を動かされない。彼は、誰に対しても傲然たる態度で、蔑視し、目もくれない。自尊心は、外部からの支持を必要としない。彼は自分だけの力で生きている。
  トクヴィルアメリカ人とイギリス人は感じ方と話し方で互いに非常に対立しているとみる。貴族国では、高官たちの特権は強大であり、この特権に基づいて傲慢である。
 彼らは、この特権を人格に固有な自然的権利として考え、自分の優越に平静な気持ちをもっており、特権を誇ろうとしない。この特権に何も言われても驚かない。国民的な誇りは控えめである。無頓着な傲然とした態度を自然にとるのであり、国民の他のすべての階級もこの態度をまねるのである。
 民主国では、地位が著しく変動するので、人々は常に自分たちの利益になるものを手にいれようとする。自らの美徳を他の人々にみてもらうためにひとめにさらすことを喜びと感じる。民主国では、自らを愛するような調子で自国を愛する。民主的民族の不安定な満足することを知らない虚栄心は、平等と地位との変わりやすいことに基づいている。
 民主主義時代に生活している人々は、多くの情熱をもっているが、その大部分は冨への欲望に終止している。人々がけちくさいのはなく、金銭がひどく重視されていらからである。市民たちがすべて互いに独立的であり、そして無関心で冷淡であるときは、金銭を払わなければ各人の協力は得られない。ドクヴィルは、民主主義時代に生きる人々は金銭が重要であることを指摘しているのである。
  トクヴィルの見方で、封建的諸制度は、愛国心をあまり必要としなかったとみる。封建的諸制度は、一人の人間の領主に熱中させることである。封建的名誉も、自国に忠誠であることを法則としない。愛国心は封建時代から近代になってからである。
 アメリカ的名誉は好戦的勇気を必要としない。アメリカ的名誉はできるだけ港に早く着くために太洋の荒波を冒して進む勇気、すべて災禍のうちで、荒野と最も烈しい災禍に、不平をいわずに耐える勇気、苦労して手に入れた財産をすべて失っても、殆ど気にかけずに新しい財産をつくるために、直ちに新しい努力をする勇気である。
 民主主義時代における名誉の諸規則は、以前のものと異なっているばかりではなく、明確さを減じているいるし、はるかにおおまかにゆるかに服従されている。
 民主国民での名誉は特殊な欲望を表しており、一層少数の人々によって感じられる。それに比例して奇妙なものになる。名誉の諸規則の数は貴族制の社会においてよりも民主的国民においては少なくなっており、はっきりしないので、必然的にその力も弱くなっている。
 名誉は、平等が進むことによってなくなっていくとトクヴィルはみるのである。つまり、名誉をつくっているもんは、人々の非類似と不平等とである。名誉はこれらの相違が影がうすくなるにしたがって弱くなり、そしてこれらの相違とともに掃滅するであろうとドクヴィルは名誉についてまとめるのである。

  まとめ

 民主主義と精神活動で、多数派民主主義は独裁国家をつくりだすということがトクヴィルの論である。世論は民主主義社会では大きな役割はもつが、人々の自発的結社・団体の醸成は、多数派民主主義の独裁、専制をつくらないために重要なことである。
 アメリカ人はイギリス人とは異なる態度をもっている。貴族社会のなかった平等化されたアメリカ社会では、公共性の醸成も大切にされ、地域の小社会で大きな機能を果たし、男女の平等観、女性の育ちもイギリスと異なるとしている。
 風習の役割は、女性がつくるものであるとする。アメリカ人は、公共的な生活と私的な生活を厳粛に区別しており、風習がその役割を果たしている。アメリカでは知的体系において、理論よりも実用説が支配的であり、それは、アメリカ社会がつくりあげたきた産業優先、商業優先の利益を重視する社会からである。
 トクヴィルは、以上のように、アメリカ社会をみつめながら、民主主義政治のあり方を求めた思想家である。「アメリカ民主主義の政治」下巻では、精神活動の側面から民主主義のあり方を論じたのである。