社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

幕末維新期の議会主義と立憲主義

幕末維新期の議会主義と為政者の権力を縛る憲法を考える
                    神田 嘉延

 安井息軒は、近代日本の法治国家への素地をつくった思想家

 現代日本は、立憲主義が大きく問われている時代です。また、法と道徳の結びつきも為政者と民との関係で大きな課題となっていいます。徳治主義法治主義は対立するのではなく、民のため、仁政に、法があることを忘れてならないのです。
  法は統治手段、権力を握るためのものではないのです。法のルールを、どうして人間社会はつくってきたのでしょうか。東洋と西洋との違いはどうであったのか。安井息軒から考えてみましょう。
 安井息軒の政務論は、民のために法を大切にする論です。つまり、法というのは、為政者の統治手段ではないのです。民のために為政者は尽くすということが、政治の本来の姿だというのです。民との関係で法のルールは存在する。
 安井息軒は、法整備を政策綱領として重視しました。法制を整備するのは、衣食住の3つを首として、冠婚葬祭の四礼より始めるべしと考えています。「限りある有限の財を以て、無限の欲を奉ずれば、天下の冨を以て、人を養うとも窮することになり、倹約は礼に及ばざる」という考えを呈するのです。法整備は、為政者の欲を抑え、有限の財を民の衣食住という暮らしのために活用していくことにあるのです。
  また、投機や贅沢を謳歌するところの商業活動、商家に冨が集中することを抑制する政策を力説したのでした。そして、質素倹約は大切にすべきとするのです。農業の奨励として、飫肥藩では二期作や養蚕の研究を書物にまとめています。人びとの敬老への取り組みも実践したのでした。

 教育者としての安井息軒

   安井息軒は、生涯で、教育者として、多くの人を育てています。清武の明教堂、飫肥の振徳堂、そして、40才以降から晩年までの江戸での三計塾、昌平坂学問所で、多くの人材を育てています。土佐藩出身で、後の陸軍中将・農商務相の谷干城(たてき)や紀州藩の後の外務大臣陸奥宗光は、三計塾の開設してから20年後の塾生です。谷は1859年に入塾し、三年間の学びでした。
 安井息軒の教育方針は、谷の三計塾の記録からわかります。そこでの教育は、自由に勉学がおこなわれていたのです。学科は、息軒の講義と息軒の参加のもとでの古典等の表会、現代的にいえばゼミナールです。
 また、塾生自身の勉強会の内会と2つの会読からなっていました。講義の出席は自由で欠席も容認されていました。
  しかし、ゼミナール形式の表会の欠席は許されなかったのです。塾外での教育として、親しい友人達を集めての「文社」の活動がありました。しばしば時事におよぶこともあったのです。息軒自身も文社をつくって当時の学者達と交流をはかっています。学派や形式にとらわれない学問的態度で息軒の三計塾の教育が行われていたことは特記するところです。この文社の活動は、社会的に大きな影響を与えたのです。

三計塾で学んだ谷・陸奥・小倉と西郷隆盛による議会制度の構想

 三計塾から議会主義を志向する多くの人材が育っています。谷は、土佐を代表する志士で薩摩と土佐の盟約を結ぶ場に列席しているのです。西郷隆盛との日本の国の未来像の盟約を結ぶのです。
  その内容は、議会制民主主義を展望したものでした。大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきであるという公議政体論論からです。上院と下院に議事院を分け、議員は公卿から諸侯、庶民に至るまで正義のものを選挙し、弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球に恥じない国体を建てるということで、人類的理想を模索したのです。また、議事にあたる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うということで、公議には、私欲を挟まないという原則をたてたのです。
  この盟約は薩長同盟によって挫折します。維新の新政府はこの盟約を部分的に取り入れて、公議所集議院の制度を取りいれるのでしたが、機能せずに薩長藩閥政府、官僚独裁専制政府になっていくのでした。

  陸奥宗光は、江戸に出て、三計塾で学びますが、坂本龍馬の人間的な魅力、包括力にほれこみ海援隊に加わります。陸奥は、明治新政府では、外国事務局御用掛、岩倉具視一行の欧米視察に同行しています。明治8年憲法制定のための元老院幹事に任命されて、立憲主義の国家体制の模索をします。
 明治10年2月の西南戦争が勃発しますが、陸奥は、土佐立志系の林有三、大江卓とともに政府転覆を企てたということで逮捕投獄されるのです。陸奥には、大久保をはじとする薩長藩閥政府に対する政権独占からの不満が強くあったのです。
  陸奥は、4年4ケ月間の獄中生活から解放されて、1年9ケ月間、ヨーロッパに留学するのでした。帰国後に外務省に雇われ、駐米大使、農商務大臣、外務大臣などの要職を務めます。陸奥はヨーロッパからの帰国当時の明治19年憲法論を書いていますが、憲法と国会組織は分離すべきで、憲法は根本法で、国会は時代の変化に応じて変更していくという考えをもっていました。

 小倉処平は、江戸の三計塾で学び、飫肥藩に洋学を学ぶ必要性を提言して、長崎留学3名を実現させました。その一人が後の外相となる小村寿太郎です。そして、東京の大学南校に進学させるのでした。処平は、英国の租税年表や地方条例を翻訳して、明治4年に欧米に留学するのでした。処平は、江藤新平西郷隆盛に会い、鹿児島から飫肥に逃亡したときに、船を出して土佐に逃れるのに手伝っています。西南戦争のときは、飫肥隊として400名の総指揮官として西郷軍に参加したのです。

維新新政府の万機公論と議会主義

 維新政府は、「広く会議を起こして万機公論の決す」の制度設計をしたのです。
 五箇条の御誓文は、明治新政府の基本方針でありました。明治元年の6月に15条からなる政体書が発布され、立法、行政、司法の三権分立、参与6名、六官知事・副知事などの官吏の公選(4年任期・半数交代)などがだされたのです。

  公選は、3等官以上(9等まであった)以上の投票で決まられて、明治2年5月にはじめて実施されました。実際は、維新政府の勢力の各藩均衡の役割を果たしまた。この公選は一度しか行われていません。広く会議を興し万機公論に決すということでの公議所の機能は、明治6年10月の政変によってなくなっていくのでした。

  幕末の議会主義の構想は、坂本龍馬船中八策、上田藩士の赤松小三郎による越前、薩摩、幕府への「御改正口上書」、会津山本覚馬の「菅見」、横井小楠の貿易振興による世界兄弟論・議院内閣制の建白書などがありました。
議会政治、立憲主義の見方は、すでに、日本の幕末の体制変革を唱える志士や思想家にあったのです。藩の枠を越えての日本という国のあり方を考えていたのです。
  現実には、薩摩と長州を中心とした武力倒幕と絶対主義的、軍事的な中央集権の明治政府になったのです。議会主義を重視した赤松小三郎、坂本龍馬横井小楠は、テロにあって暗殺されています。また、日本の伝統的な話し合いの合意文化や神仏混合文化が廃仏毀釈によって破壊されます。武士の仁、義、礼、智、誠から謀略、金権、軍閥が幅をきかしていくのです。議会主義、話し合い文化、多様な価値を認め合う面から明治維新の負の側面があったことを見落としてならないのです。

  武力倒幕の進行のなかで、官軍の江戸への円満なる進行、江戸城無血開城など新政府の移行があった面もあります。明治維新によって、長期による内乱で国が二分されることがなかったのです。安政条約という不平等条約が結ばれたが、幕藩体制が崩壊して、統一した国家が生まれたことによって、列強諸国の植民地支配にならなかった大きな理由のひとつでもあったのです。

西郷隆盛と議会主義の国家像

  西郷は、すでに薩摩と土佐の盟約が結ばれた1867年6月の翌月にイギリス人のアーネスト・サトウと2回の会談をもっています。そこで、西郷は「国民議会」の構想を語ったことが、サトウの証言から記録に残っています。サトウは、それは狂気じみた考えであったとしています。
「現在の大君政府の代わりに国民議会を設立すべきであると言って、大いに論じた」「これは狂気じみた考えのように思われた」「西郷は政府は大坂と兵庫の貿易の全部を日本人豪商20名から成る組合の手にゆだねて、自らこれを独占する計画をたてていることを私に漏らした。・・・この情報が長官の耳に入るや、彼は烈火のようにおこって、直ちに首席閣老に会い、この計画を放棄することを主張した」アーネースト・サトウ「一外交官の見た明治維新(下)」岩波より

 薩土盟約は、議会主義による国をつくる内容でありました。薩土盟約では、大政を朝廷に奉還し、上下の議事院を建立し、下院は、陪臣庶民に至るまで正義純粋の者を選挙し、上院は諸侯とする案でした。朝廷の制度も弊風を一新改革して地球上に恥じない国の姿を建てるとしたのでした。諸侯会議を開いて、人民共和をめざして万国に恥じないような国体を薩摩と土佐の盟約にしたのでした。

薩摩と土佐盟約の議会主義が崩れた背景

  西郷自身も同じ年の5月に、島津久光への建白書でも政権は天朝に帰し、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に、朝廷を補佐し、天下の公議を以て統治を行うようにと提言しているのです。ここでも公議の問題が大切なことになっています。つまり、ここでは、天皇を利用した絶対主義的国家、有司専制の官僚的な独裁国家による経済的な近代化を考えていたのではないのです。

 この薩土摩盟約の結果、京都の大久保邸で武力倒幕の会合をした長州の品川弥三郎、山形有朋との約束であった西郷隆盛の長州派遣は中止されたのです。武力倒幕派の一時的な後退があったのです。新しい統一した国家体制をつくろうとする動きは、平和的移行と武力路線と単純ではなかったのです。これは、列強諸国に対する植民地に対する危機から国の二分を恐れたことによるものです。

明治維新政府の公議所と国憲のあり方

   明治になっての新政府による公議所は、各藩と諸学校から選ばれた公務人で構成され、議案提出権を有していました。19部門に分かれて審議を行ったのです。任期は4年で2年ごとの半数改選とされました。 存続したのは1年数ヶ月の期間でしたが、開明的な議案が多く出されたのです。この公議所所・集議院の研究課題は、日本の民主的な議会主義を歴史的に考えていくうえで、重要なことです。

 さらに、廃藩置県以降においては、西郷隆盛をはじめ、維新政府内で国憲のあり方が議論されたのです。この議論も遣韓論・征韓論によって、西郷隆盛が参議で決定されたことが、天皇への上奏によって、覆い隠されたたのです。このことを契機にして、「広く会議を起こして、万機公論に決する」という明治維新の誓詞の理念が崩壊し、有司専制という体制になっていくのです。

 日本は、明治憲法によって、法治国家の確立をしましたが、しかし、民のためではなく、天皇主権による為政者の意図を実現する手段となったのです。そこでは、為政者を拘束する憲法とはならず、絶対主義国家の権力を強化することになったのです。法は、民衆を縛るということはあっても、為政者を縛る考え方は定着しなかったのです。このことは、国家像として、憲法で、為政者を縛る意味での国家の基本理念は生まれてこなかったのです。

明治5年・6年の新政府の憲法制定議論

 明治5年から6年の新政府では、憲法を定め、国会を開設しようとする統治体制の議論が行われていたのです。明治6年に、西郷は、板垣等と共に、左院に立法権の権限を与えることの案を作成していました。しかし、島津久光等をはじめ封建的な特権を維持しようとする旧体制派の非難が強くあったのです。

  国会開設を西郷自身が熟慮せざるを得ない状況になっていくのでした。左院の議官を勤めていた宮島誠一郎の国憲編纂起源には、明治5年4月から明治7年5月の左院における国憲編纂の事項が記載されています。国憲編纂の「立国憲義」は、明治5年4月に左院議長に建白しています。しかし、島津久光の不平論により西郷は躊躇することがそこでのべられています。

 立国憲議の内容は、要約すると次のとおりです。「君主独裁から人民の自主自由の権利を誇張して、義務を勤める共和政治論を為すものあり、君権を確定し、君権国憲により相当なる民法を定めて人民の権利を与え、義務を行なわせる。君民同治の法を定めるとしている。君民定律の中に国憲を定めて、万機憲法に徴して国政を行うべし。憲法を定めるは左院で確定して、これを正院に致し、右院及び諸省の長官同一するに至り採決する」としています。

  正院に内閣を設けて、国権、立法を編纂する常職とする案です。この立国憲議は島津久光の不平が強く、その矛先は西郷に向けられたのです。西郷にとって、どのようにしたら新政府内での融和をしながら立国憲議を進めていくのかということであったのです。後藤は民営経営創始のためと称して官職引退の意を示しました。そして、伊地知正治副議長も辞職意向になりました。そのときは、新政府として廃藩置県という幕藩体制の根本を改革した事業がありました。

  しかし、その後の統治体制をどうするのかということで、一致したビジョンを強く持って断行することができなかったのです。これは、旧薩摩藩の新政府のメンバーと島津久光との関係のなかで典型にみることができます。島津久光をはじめ守旧派は、廃藩置県には強力に反対したのでしたが、不測の事態に備えて武力を背景に、新政府は押し切ったのです。

 全国人民の代議員による公議興論を採用して、立法機関を作り出そうとする左院改定であったのです。地方からの代議員で構成する左院の議員選挙は、明治6年開催の府県会議で決められていく予定でした。明治6年10月の政変で、その案は消えていくのです。( 明治文化全集第一巻・憲政編に「国憲編纂起源」掲載されているので、詳しく知りたい人は、それを参考にしてください)。

明治6年10月政変以降の西郷隆盛

 明治6年10月の政変によって、西郷隆盛は鹿児島に帰っても、援助や協力を求める客が絶えませんでした。そのような事情から俗世界の争いからはなれ,霧島の静寂な地で、人生をみつめるのです。
  西郷隆盛は、竹下が上京する際に,大山巌に手紙を書いています。その手紙は明治7年10月です。西郷の辞職に伴って、近衛兵、陸海軍の旧薩摩藩出身の多くの士官達が鹿児島に戻りました。

 政府は混乱を避けるために辞職願を受理せず、非役扱いにしていました。西郷は県庁をとおして給与返還の口上書を166名の旧下士官の署名によって提出しています。政府は、給料を鹿児島県庁に仕送りしていたのでした。
  西郷は、働いてもいないのに給料が県庁に送られていることはおかしいということで、大山に下士官達の調査と免官許可手続き依頼の手紙をだしているのです。大山から暮れに返事がきて、政府よりの達書が届いているにもかかわらず、県庁が捨て置いているのではないかということで、ぜひ県庁に問い合わせてほしいという手紙を篠原宛てに出します。

  この手紙を託したのが竹下という人物ですが、この竹下がだれなのか。大山が手紙を受けるうえで面識があり,信頼のおける人物であると思われます。西郷の側近叉は,親類に限られてくると思われます。そして、密偵が頻繁に西郷のまわりを見張っていたことから、竹下という名前も偽名であると思われます。

 その人物は,明治8年2月に朝野新聞に国会中心の民主憲法草案を書いた竹下弥平なのか。興味ある課題です。明治8年4月に明治天皇の立憲国体詔書(しょうしょ)がだされ、木戸や板垣が参議に復帰する時期です。これにより、元老院大審院の設置,地方官会議の開催がさることになりました。一方で,大久保の有司専制の体制も強化されていくことも同時に進んでいきます。
 竹下弥平の名前で、ほかに書いたものは現在のところ見つかっていません。西郷は、明治9年9月28日の副島種臣宛ての返信で、「民選論の盛んな今日、所見あるものは十分意見をのべるのは人民の義務」とのべています。

  霧島白鳥温泉の3ケ月の滞留は、明治7年6月に私学校をつくった後の7月13日です。弟の小兵衛に鹿児島出帆の便船を頼み隼人の浜之市につき、そこから霧島の白鳥温泉に向かっています。白鳥温泉の滞在中には甥の市来宗助が訪ねています。
 そこで、海軍にいた樺山資紀の情報を得ていることが書かれています。市来宗助には、篠原国幹あてに東京からの手紙の開封を頼みます。また、有川十右衛門に弾薬の注文を頼んでいます。市来宗介は、西郷の息子菊次郎と共にアメリカ留学をした若者です。西郷隆盛がかわいがった親類です。市来宗助には、日常的にも頼みやすい間柄であったのです。

  絶対主義的中央集権が進む明治政権のなかで、寺島宗則陸奥宗光等の自主外交や国際協調の努力や自由民権運動がありました.その後に大正デモクラシーのなかで、1924年から1932年まで議会を基礎に政党による責任内閣制が行われました。明治憲法は、首相を選ぶのことを天皇の大権で、元老会議で決まられていたが、多数党が首相を選ぶことが憲政の常道となったのです。この状況において、国際的協調主義と国内民主化が進んでいくのです。

 1932年の5・15事件による軍部独裁の国民総動員制への移行よって、民主主義の可能性をもった議会制度は崩壊しました。幕末から明治初期の士族層の立憲主義の動きや明治10年代の自由民権運動、さらに、大正デモクラーなどがあったことを忘れてはいけません。
 一方で,国家主義による中央集権体制・植民地獲得の覇権主義が進んでいきますが,他方で、政党制による議会主義、民主主義の運動、国際協調主義,自由と民権の運動がありました.この二つの対抗のなかで日本の近代史をみていくことが必要です。
  
  鹿児島霧島における明治8年民主憲法制定の草案 ―憲法学習のための地域史―
                神田 嘉延

   はじめに.

 竹下彌平の憲法草案は、明治8年3月1日付けの朝野新聞に発表されたものですが、執筆は、明治8年2月1日となっています。竹下彌平は、朝野新聞で、鹿児島県襲山郷在中と書いています。この郷の現在の市町村は、霧島市です。その範囲は、霧島山麓の旧霧島町から日当山温泉地域です。
  民主主義の根幹である国民主権者の教育は、選挙権を有する青年・成人教育にとって大切な課題です。地域に根ざした社会教育には、憲法を暮らしにという考えが求められています。戦後の民主憲法自由民権運動の様々な憲法草案から見つめていくことは、現代においても重要な課題です。
 それらの運動は、歴史的に挫折しましたが、日本における近代化過程の自主自立精神にもとづく民主主義形成の伝統文化でもあるのです。戦後の憲法は決しておしつけ憲法ではなく、戦後の帝国議会でしっかりみんなで議論して、日本人の手によって決めたものです。憲法9条の平和主義を内容は、幣原首相がマッカサーに提案して、占領軍のもとにつくられたのです。戦後の憲法は、日本の歴史のなかでの民主主義の運動、人権や平和主義の継承でもあったのです。
 明治初期に民主憲法の骨格が鹿児島でもつくられていたのです。その理念は明治維新の五個条の御誓文の拡充ということであったのです。憲法教育は内容をきちんと押さえていくことは大切なことであすが、同時に自由民権運動明治維新にあった万機公論に決すという日本の統治文化として歴史的にみる視点も大切です。

1. 明治8年鹿児島での民主憲法素案の歴史的意義

 竹下彌平憲法草案は、国民のための民主憲法を歴史的に考えていくうえで、重要な資料です。かれの憲法草案の理念的特徴は、国会の早期創設によって憲法を制定して、立憲主義のもとに、為政者を豹変させないという趣旨でした。国会は、国の重要な行政的責任者の太政大臣、左右大臣を選び、国の歳入歳出を定める特権を有するという提言です。
 左右両院の特権は、いかなる行政官、司法官、武官といえども犯すことができないとして、国会の権限は、立国の本旨から最重要とするのです。明治維新の5箇条の御誓文は、広く会議を起こして万機公論に決すという理念であったことから、その理念を早急に拡充して国会を開設すべきという。まさに、立憲主義と、国権の最高機関という国会の役割の主張がみられます。
 竹下彌平の憲法草案で注目されることは、天皇の位置である。天皇は、左右両院の開閉の特権をもつとしているが、国を統治する権限としての国会の役割を特別に重視していることである。また、両院に武官や司法官がなれないようにしていることも重要です。
  明治10年代に自由民権運動との関連でつくられた植木枝盛や五日市の私偽憲法案は、国民の基本的権利を尊重するが、天皇の統治のもとに国会を位置づけていることと異なります。
  しかし、竹下彌平も天皇については、「恭しく聞く、我が帝国専世、聖哲ナル天皇之敕ニ曰、天、君主ヲ設クルハ国民ノ為ニスルノミ、君ノ為ニ人民ヲ置クニ非ズト」とのべるように、古事記にみられる仁徳天皇等の君主に対する尊敬と「嚶鳴館遺草」等の経世済民による愛民思想が見られます。竹下彌平の考える日本の伝統的な為政者は、国民のためにするのみで、君のために人民を置くものではないことが基本になっています。
  そして、中国の先哲として、「天下ハ天下ノ天下ニシテ、一人ノ天下ニ非ズト」としている。これは、中国の伝統的な兵法書六韜の考えです。さらに、フランス革命などによって形成された欧米の人権思想の大切さを次のように指摘しています。
 「我国ヲ愛スベシ、吾人、自由ノ理ハ我国ヨリモ愛スベシ」(パトリア、カーラ、カーリヲル、リベルタス」(ラテン語)。つまり、祖国も大切ですが、さらに重要なものは自由であるとしているのです。ここには、人類の普遍的な人間尊厳の統治の論理探求の姿がみられます。
  自由の理は、「英雄起ルニ非ルヨリハ、宿習ヲ勇截浄濯選シテ真理ヲ実行ニ著見スルヲ得ンヤト」と過去の世の習わしをいさぎよく断ち切り洗い清めて、真理を明らかにすることを強調しています。以上のように、明治8年に、自由の理による国民のための立憲主義の理念がすでに提起されていたことは特記すべきです。
  自由の理、国民のための憲法制定の運動は、明治8年6月の言論の自由を奪う新聞条例、西南戦争、明治14年政変、福島・秩父などの自由民権の激化事件などによって、日本の政治から消えていったのです。
  しかし、自由民権運動に参加していった多くの日本の国民のなかに、その精神は、明治維新の五個条の御聖誓の拡大として残っていったのです。
 明治23年の国会開設の第1回衆議院議員は、自由民権を訴えていた民党系が過半数以上を占めますが、国会は、国権の最高権限ではないことから、国政の絶対的権限をもっている専制政府のもとに、弾圧と懐柔されていくのですた。結果的に、かつての自由民権運動の思想は、骨抜きにされていったのです。
  自由民権運動は、安政条約による日本の植民地化に対する危機のなかで、国民的に自由と民主主義をつくりあげる必要があったのです。その危機意識から国民国家の形成というナショナリズムの問題も内包していったこともあります。それが、後に慈愛的国際主義、民族平等と共存共栄の意識になっていくか、民族排外主義による帝国主義になっていくかのという両面を含んでいたのでした。
 それは、その後の日本の歴史の事実が教えています。絶対主義的中央集権制と軍事独裁政権による戦争への道と、大正デモクラシーによる議会主義の尊重と国際協調主義の道があったのです。
 竹下彌平の憲法草案は、日本近代における天皇主権の立憲主義憲法の骨格がつくられていく過程の政治情勢からみなければならないのです。現実の明治憲法は、竹下彌平の憲法草案の自由の理と国民のための立憲主義とは全く異なるものでした。
  明治8年2月は愛国社が結成され、全国的に国会開設の声が高まったときです。また、明治8年1月の大坂会議で、自由民権への融和懐柔が行われました。下野していた板垣退助木戸孝允井上馨大久保利通伊藤博文との政治的合意がされました。愛国社総裁の板垣退助が多くの愛国社のメンバーから批判されるなかで、参議に復帰していく時期です。
 すでに、木戸孝允は、井上周蔵に依頼して、ドイツ・プロシア憲法をモデルに絶対主義的な憲法草案(大日本政規)を明治6年につくっています。
 大坂会議の合意によって、板垣退助木戸孝允の参議復帰が行われ、明治8年4月14日に立憲政体の詔書がでます。この詔書は、漸次立憲政体にしていくということで、元老院大審院、地方官会議を詔勅によって設置することであったのです。その後は、天皇主権による絶対主義的な天皇の協賛としての国会という明治憲法になっていくのが歴史の事実でした。
  当時の明治政府部内にあった民選議員設立の反対理由は、加藤弘之に典型にみられるように、時期尚早論で、天賦人権論は否定できなかったのです。加藤弘之の見方は、今日の我が国では制度憲法は難しいということです。我国では、英国のように賢智者が多いことと異なっているということです。天下のことを公議する知識が無知不学の民が多く、適切なる者を選ぶことができないという理由からです。
  未開の国は、自由の権利を得るとき、その正道を知らずして、自暴自棄に陥り、国家治安の障害になるという考えです。学校を興し人材を教育することをすすめて、人民の自主の心を旺盛にしてから民選議院を設立すべきという時期尚早論です。(加藤弘之民選議院ヲ設立スルノ疑問」明治啓蒙思想集・明治文学全集3巻、筑摩書房、154頁~157頁参照)。これらの論に対して、竹下は、憲法制定の緊急性をのべているのです。
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2.竹下彌平の憲法草案にみる明治維新の見方

  竹下彌平は、明治維新によって、旧習の下手な説や藩閥政治も一掃され、県治に大きく方向転換したことを次のようにのべています。「既ニシテ戊辰ノ転覆ニ会シ。逆乱旧習之陋説(ろうせつ)、義兵錦旌(きんしょう)之下ニ一掃シテ尽キ、海内(かいだい)一変、群藩幡然(はんぜん) 方嚮(ほうこう)ヲ改メ県治ニ皈(き)ス」。また、戊辰戦争後の新政府は、五箇条の御聖誓の万機公論に決するということであったのです。竹下彌平は、このことを次のようにのべています。
  「此之時ニ当リテ所謂萬機公論ニ決スル云々等之聖誓ハ、即、恐多クモ曩ニ所述、天地ニ亘(わたり)リ萬世ヲ究メ不可易(かゆるべかざる)真理ニ根拠シテ発スル所ノ者ニテ、而 (しかして)直ニ此真理ヲ実行ニ施スヲ見ル。我輩幼児之疑恠(ぎかい)、頓ニ氷釈(ひょうしゃく)スルヲ覚フ」。
  幕府を倒し、新しい国、理想を掲げた五箇条の御誓文の精神が全く形骸していることを問題にしているのです。幕府を倒したときの新しい世の中をつくっていくときの意気が消えたことを歎いているのです。現実の社会経済、政治をよくみて、真理を発展させて、欧米文明諸国と対等になることを期待していたのです。
  そして、この真理をのびやかに発達させて欧米文明諸国と「并馳共峠」(へいちきょうじ」と並び馳せ、共に目標に達するようになることを望むとしているのです。しかし、明治6年5月の井上大蔵の退職の前後より政治は失調したとみているのです。そのときから、すこぶる国民のため、自由の理の政治が消えていると考えています。
 竹下彌平は、明治6年の政変を井上大蔵大輔等退職前後から捉えています。「政機失調アルガ如く」と、新しい国づくりの危機をあげているのです。それは、政商と藩閥政治汚職問題からです。政治とカネという徳政の問題、国家財政問題のあり方も大きく問われていたのです。
  井上馨は、日本主力鉱山の尾去沢(おさりざわ)銅山汚職問題で江藤新平等に追及されて辞職しています。井上参議の辞職は、汚職問題が直接的理由です。近代化していくなかでの汚職の問題は、為政者の德の問題として大きくあったことを見落としてはなりません。この汚職問題を竹下彌平は、政機の失調のはじまりと見ていたのです。ここには、「新政厚徳」の精神が読み取れます。
  廃藩置県が行われ、徴兵制がしかれ、学制による義務教育の整備がだされていった時期は、旧幕府体制の制度をあらためることが急務であったのです。このためには、国家としての財政的な確立が不可欠です。財源ぬきの学制が発布されたのです。西郷をはじめ朝鮮問題で政府の中枢メンバーが下野していくのも明治6年10月です。
 明治6年5月から10月の政変は、内務省の設置にみられるように大久保利通岩倉具視等の独裁化です。その独裁は天皇を利用しての官吏の権限強化をはかっていくのです。大久保は、明治6年11月に内務省をつくります。内務省は、政権の中枢的機能になっていくのです。
  下野した板垣退助などは、民撰議院設立建白書を明治7年1月17日に政府に対して要望します。その内容は民選による議会開設です。「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」。
  今の政権は、天皇にも人民にもなく、ただ有司=官僚の独裁であるとしていたのです。
  そして、「臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン」という建白をしています。国を救う道を講究することは、広く天下の公議を張ることであるとしたのです。このことによって、官僚の独裁をやめさせることができるというのです。
  竹下彌平は、「維新之基礎タル聖誓之大旨」として、この時代的状況のなかで明治元年五箇条の御誓文を大切にすべきであるとしています。それは、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベス」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」ということです。
 広く会議を興して万機公論に決すべきということは、国民とともに議論して、国民のために政治を行って、国民みんなが位に関係なく一致して、国家を治めていくことをめざしていくことです。このためには、国会を開設して、憲法を制定し、その下で国政をしていくということです。さらに、旧来の悪い習慣を破り、天地の公道に基づき、知識を世界に求めることを指摘しているのです。
 竹下彌平の憲法草案は、この時代のもとで、民会の役割の重要性を次のようにのべています。
「既ニシテ、民会之議起ル。其得失、利害、尚早、既可(きか)詳(つまびら)カニ諸賢之説アリ。又贅(ぜい)スルヲ須(ま)タズ。吾謂(い)フ聖誓ヲ将ニ湮晦(いんかい)セントスルノ日ニ、維持挽回スルモノ民会ヲ舎(おい)テ又、他ニ求ムベカラズ。真理ヲ将ニ否塞(ひそく)セントスルノ際ニ,開闡暢進(かいせんちょうしん)スルモノ亦民会ヲ舎(おい)テ他ニ求ムベカラズ」。
 民会の議論は、利害がぶつかりあい、時期が成熟していないという意見がありますが、五箇条の御聖誓をうずもれさせないために、国政失調の挽回をするには、民会に求める他にないというのです。自主自立、自由の理の真理を切り開き、国を発展せるためには、早期に民会を開くことしかないとしています。
  明治8年6月の大阪での第1回地方官会議に地方民会の議論になりますが、鹿児島県令の大山は、時期が早いとして不要論を主張していました。「人情未タ安寧ナラス、生産未タ繁殖セス、風俗未タ醇厚ナラス、盗賊末タ衰止セス、而ルオ況ヤ各地ニ於テヲヤ。故ニ民会ヲ開キ広議興論ヲ采リ、以テ政に施サント欲ス、其意美ナラサルニ非ス、然レトモ方今民会ヲ開ニ於テ、其妨害極テ多シ」。「民会ヲ開クニハ、他日人民開化進歩ノ時ヲ待チ、朝廷地方ノ官員協心同力、今日着実ノ政事ニ勉力シ、徒ニ文具ヲ事とセサルベシ」。 (都丸泰助「現代地方自治の原型―明治地方自治制度の研究」大月書店、148頁~149頁参照)。
  政府内には、民会について時期が早いという考えであったのです。その見方が大山県令にも反映していたのです。竹下彌平の地元鹿児島県令ですら、地方民会も時期が早いという論であったのです。
 鹿児島県令は、民会を開くことの将来的な意味は認めていますが、今はその時期ではないというのです。国民の開明の進展までまつべきだとしているのです。この地方官会議では、民選ではなく、官選で決定されます。
  しかし、竹下彌平は、県治と民会の役割を今こそ重視しているのです。このことは、注目することです。戊辰戦争によって幕府を倒し、逆乱旧習の狭い考えを一変する方向性は、改められた県治によるところが大きいいというのです。緊急に民会を開くことを重視しているのが竹下彌平の見方です。

3.国会の役割と立憲主義

  竹下彌平は、最も切望するところとして、国会を開設するために、憲法骨格草案の八条を提起すます。この憲法草案は国会を開設するための基本的見方です。
 第一条は、為政者・君子の豹変を防止するために憲法の制定の重要性を指摘する。
「己巳平定以来、此ニ七年、蓋シ国歩又一歩ヲ進メ、君子豹変スベキハ此之時ヲ然リトス。故ニ吾帝国、宜シク益其廟謨(びようびぼ)ヲ宏遠(こうえん)ニ運ラシテ、我帝国ノ福祉ヲ暢達スベキ憲法典則ヲ鈐呈(けんてい)スベシ」。
 国の福祉を発展させるためには、憲法制定をすべきであるとするのです。ここでは、君主による統治の欽定憲法ではないのです。そして、第2条では、即、聖誓の拡充を実現するための憲法制定というのです。そして、国権の最高機関としての国会の役割を重視しているのです。
 ここでは、国民のための立憲主義による国のかたちを明らかにしたのです。その国会は、今の左院と右院を改めて、新たにつくれとしています。当面の緊急時なる議員構成については、第3条と4条に示しています。
  「第二条 右憲法ヲ定メルハ、即聖誓ヲ拡充スル所以ナレバ、立法権ヲ議院(現今之左右院ヲ改メ、新ニ立ル処ノ左右両院之議院ヲ云)ニ悉皆委任スベシ」。
 第三条では左院の憲法を制定していく議員構成である。左院の定員は百名で、三分の一は、現今各省の奏任官四等以下七等に至り、判任官八等より10等までのうち、主務に練達諳塾して、才識あるものから人選を提起しています。ここでは、上級の官吏を外しての各省ごとからの若干名の選出の提案です。
  三分の一は、著名に功労ある人望家、旧参議諸公のごとき在野の俊傑及び博識卓見なるものから選挙するとしています。その例として、福沢、福地、箕作、中村等と新聞家成島、栗本をあげています。
 っp最初は、太政官より命令して選び、議会がたった後は、別に選挙方法を立てて選ぶとしています。例としてあげられた知識人の4名は、竹下彌平と同じように国会即時開設論ではない。むしろ、当時の代表的在野の文化人として竹下彌平はあげているのです。
  三分の一は、府県知事、令参事に命じて、その管下、秀俊老練、民事を通暁し、地方の利弊を考えながら選べとしています。最初は太政官より地方官に示諭して、乱選なきを注意し、適宜に選ぶことも妨げないとしています。議会がたった後は別に詳細に選挙法を設けるとしています。
  板垣退助等は、民選議院の設立の建白書を提出しましたが、左院は、広く会議を起すという意味で重要な役割をもっていたのです。この左院の構成について、竹下彌平は、広く国民の代表者による会議として、上級の官吏を除く、直接に一般の民に近い行政の仕事をしている人から憲法制定のための国会議員を選ぶという方法をとっています。
 これは、上層部のリーダーだけによって憲法制定の意志にならないように、民の身近な官吏からの代表を大切したのです。また、在野の博識卓見ある文化人から議員を選ぶということも国民教育が普及していない明治8年の情勢からの緊急提案です。
  さらに、左院の議員構成に地方の代表を位置づけていることは、国家レベルの憲法を中央集権的に決めていかないという見識です。
  第四条は、右院の議員の規定で、定員は左院と同じ百名です。その構成は、行政官勅任官以上ということで、高級官吏からの代表と皇族華族中より選挙するとしています。ここで、注目することは、司法官と武官は議員を禁ずるとしています。左院の選出方法を含めて、司法官と武官は、両院の議員になることができないしくみの構想になっているのです。
 ところで両院の権限として、三つをあげています。まず、第1は、行政の最高の権限をもっている太政大臣と左右両大臣は国会で選ぶことをのべています。
「第五条 太政大臣及左右大臣は左右両院の選挙をもって定める」。当時の藩閥政治では、広く会議を起こして行政の最高責任者を選ぶしくみがなかったのです。形式上は、天皇の勅命によって太政大臣、左右大臣が決められていたのです。実質的に政府の権限は、それを支える参議や高級官僚が握ったのです。行政の最高権限者を国会によって、選ぶという仕組みにかえていこうとするが竹下憲法草案のねらいがあるのです。
  天皇の特権は左右両院の開閉にあるということで、行政の最高の責任権限者ではないことは重要な指摘です。明治維新によって、新政府の統合的なシンボルになっている天皇を位置づけているのです。広く会議を興し万機公論に決すという聖誓の理念の重要な場の設定としての天皇です。「第六条 左右院を開閉するは天皇の特権にあり」。
 国会の第二の役割は、国の統治で根幹になる歳入・歳出を定める特権です。「第七条 帝国の歳入出を定める特権は左右両院にあり」。
 さらに、立憲主義ということから憲法の制定や改正は、極めて重要なことであるので、この特権は、いかなる行政官、司法官、武官は犯してはならないとしています。それは、立国の本旨であると第八条でのべています。
 「凡帝国の憲法典則ヲ鈐定スル、若シクハ更正増減スルハ一切左右両院之特権ニ在ルヲ以テ、仮令行政官、司法官及武官、如何様之威権、如何様之時宜アルトモ、決シテ立法上ノ権ヲ毫モ干犯スルヲ得ザラシムハ、立国之本旨最重スル所トス」。
  これは、有司専制というように官僚的独裁によって憲法を犯してはならないことです。また、武力によって、国の基本施策や憲法を動かしてはならないという立国の本旨からです。
 司法と国会を分離する意味から司法官の国会議員を禁止しています。以上のように、竹下彌平は、国権の最高の権限を国会におくことを憲法草案にうたっているのです。竹下彌平は、民間人としての憲法草案を提唱したのですが、政府の急務としています。「左右議員ヲ速ニ立セラレント、今日、政府ノ急務」として、現在の国の情勢からみて、議会を開く緊急性を強調しているのです。

 4.日本の未来の危機意識と自主自立精神の重要性

 竹下彌平の我が国に対する危機意識は、インドのように植民地になってしまうという懸念です。つまり、早く挽回しなければ日本の未来は大変なことになるということです。それは、欧米の列強諸国の外圧による植民地の危惧です。
  「我ガ帝国之民、淳朴(じゅんぼく)忠愛、・・・奴隷之習気脳髄ニ印シテ、精神恍惚、亦覚醒ナキガ如キニ至ル。彼之印度ノ奴ト偽リシモ亦、職トシテ、是之由ル。今ニシテ早ク是ヲ挽回セザルバ、印度之覆轍ヲ踏ザルモノ幾希ナリ」。
 国会を開設し、憲法を設定することは、自由を大切にして、学校を盛んにして、兵力を増強し、近代技術、近代施設を整備していくことになるというのです。
  「外国人ト婚娶(こんじゅ)ヲ許スガ如キ、出版ヲ自由ニスルガ如キ、学校ヲ盛ニスルガ如キ、兵力ヲ張ルガ如キ、拷掠(ごうりゃく)ノ苛酷ヲ除キ、審判之傍聴ヲ縦(ほしいまま)ニスルガ如キ汽車山川を縮メ、電線宇宙ヲ縛(ばく)スルガ如キ、皆、開花之衆肢體ニ非ザルハナシ。然レドモ、徒(いたずら)ニ其肢體ヲ獲テ、而(しかして)未ダ其精神ヲ具(ぐ)セズンバ、偶人塑像ニ均シキノミ」。
  外国人と結婚を許す自由のごとき、出版の自由、学校を盛んにすること、汽車を走らせ、電線をひくことであるとしています。そのためには、自主自立の理の精神を備えていくことであるとしています。その結果によって、真に開化することができるとしています。近代化しても、自主自立の精神をもたねば、粘土でつくった人形像のようなものであると訴えています。
  国民的に自主自立の精神を旺盛にしていくには、国会を開き、憲法を制定して、出版の自由、学校を盛んにして、大いに議論していくことであるというのです。このことによって、奴隷の気質、精神恍惚を一掃して、立憲主義の国家をつくっていくことになると竹下は考えたのです。
  自由の理ということで、竹下彌平は、最初に、外国人と結婚を許すということをあげています。この時期は、国際結婚は極めて例外的でしたが、明治初期に鹿児島医学校でイギリスの地域医療による多くの医師を養成したウイリアム・ウイリスは、地域の日本人女性と結婚し、子どもをもうけ、日本での永住を決意していました。西南戦争によって、それは、挫折しています。
 欧米の民の気質についても「忠厚温良」が不足しているという興味ある問題提起をしています。「欧米之民、沈毅果断、忠厚温良不足。其之弊ヤ、君主ヲ威逼(いひつ)シ、政府ヲ倒制スルモノ往々之有リ」ということで国の恥さらしになり、為政者をおどしおびやかして、国を倒すこともたびたびありますと欧米の問題点も指摘し、建設的にならないことも欧米ではあるとしています。
  出版の自由については、海老原穆の活動は、注目するところです。明治4年西郷隆盛と共に上京し、明治6年に、明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞し、明治8年2月に、集思社を創設し、「評論新聞」を創刊したのです。その新聞では、太政官政府に対する痛烈な批判を展開しました。海老原穆は、新聞条例によって、讒謗律に違反するとして逮捕投獄されます。
  集思社は、新聞条例によって発刊停止になった後も、中外評論を発行します。また、発禁になり、さらに、文明雑誌を発行して粘り強く言論活動を展開していくのです。集思社と同時期に栗原亮一社長の自主社系の草莽雑誌も反政府、西郷支持の論陣を張ったのです。評論新聞と同様に発行禁止の弾圧を受けますが、草莽事情として発行を続けます。両社とも西南戦争のさなかで消えていったのです。
  評論新聞には、西南戦争に熊本隊として、ルソーを教本にしていた植木学校の教師であった宮崎八郎も記者として勤務していたのです。このように、明治の初期には、在野の人々が自由の理を求めての出版活動がはじまっていたのです。
 
まとめ.自由の国づくり
 
 竹下彌平の憲法草案は、左右両院を開いて、自主自立の精神によって自由の理の国づくりをしていこうとするものです。国会の開設、憲法の制定によって、日本の毅然とした自立の志気がつくられていくとするのです。幕府を倒し、新しい世の中を宣言した五箇条の御誓文をふさいでしまった現政府に、国会の開設によっての自主自立の道を拓いていくことを強く訴えたのです。
 竹下彌平の憲法草案のねらいは、毅然として自主自立、自由の理の志気をもって、 両院を開くためです。その両院の初期目的が、憲法制定です。左院は、三つの層から代表を選挙していくということも竹下彌平の独創的な見方です。官僚組織の中下級層からの選出、知識あるもの、功労人望ある著名人からの選出、地方からの選出となっています。これは、憲法制定議会の構成に社会的な三つの機能層から選出しようとするものです。
  竹下彌平の描く、自主自立と自由の理の拡充暢達とは、具体的にどのようなことを考えていたのでしょうか。印度の覆轍を踏まずということで、日本の植民地に対して、強い危惧の念をもっていたことは確かです。自由の理を大切にして、学校を盛んにすることを強く抱いていたことも確かです。また、自由の制度をつくっても、また、汽車や電線を整備しても、自主自立、自由の理の精神が育っていかねば全く意味をもたないことを強調していたのです。
  出原政雄は、「鹿児島県における自由民権思想」についてまとめていますが、鹿児島新聞(現在の南日本新聞の前進)の初代主筆を努めた元吉秀三郎は、鹿児島での民権運動の重要な一翼を担っていたとしています。また、西南戦争によって、竹下彌平などの流れは中断しましたが、その後、明治13年3月に鹿児島市内で自由民権運動の「同志社」がつくられ、「国会開設の建言」を元老院に提出しています。
  さらに、同じ年の12月に3500名が、国会開設建言書を元老院に提出しているのです。明治14年11月に旧私学校関係者によって三州社が完全なる立憲政体を目的として結成されます。このような状況のなかで、鹿児島県内の多くの民権論を唱える人々が結集され、それらに支えられて、民権運動擁護のための言論として鹿児島新聞が明治15年10月に創設されたと出原政雄は分析しています。(出原政雄「鹿児島県における自由民権思想「鹿児島新聞」と元吉秀三郎」志學館法学第4号75頁~100頁参照)。
 鹿児島県での自由民権の思想の発展は、西南戦争以降において、鹿児島新聞を支えた多くの民権論者によって推進されていきます。明治23年の第1回の国会選挙では、全員が民党系で占められたのです。
 その後の弾圧と懐柔で、吏党系が多数を占めるようになっていきます。(芳 即正・松永明敏「権力に抗った薩摩人」南方社、参照)  明治8年霧島山系の裾の襲山郷在住の竹下彌平によって提唱された憲法草案は、明治維新の地域における民衆思想として特記されるものです。(ふりかなは、鹿児島社会運動史が史料の出典をだす際にふりがなをつけたものをそのまま引用しました。久米雅章「明治初期の民権運動議会士族」川嵜兼孝・久米雅章・松永明敏『鹿児島近代社会運動史』南方新社54頁~63頁参照、家長三郎・松永昌三・江村栄一編「明治前期の憲法構想 福村出版、25頁~26頁、171頁~173頁参照 )