社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

子どもの虐待問題を考える- 野田市の児童虐待問題の悲惨さ

子どもの虐待問題を考える

   野田市児童虐待問題の悲惨さ

 千葉県野田市で今年1月24日に両親の虐待による子どもの死亡事件が起きた。自宅浴室での虐待である。両親は逮捕され、その痛ましい数々の虐待が明らかになった。子どもは学校のアンケートに父親からの虐待について訴えていた。

 このアンケートを虐待している父親に教育委員会は渡すという信じられないことをしていたのである。また、児童相談所と学校との連携もせずに独断で教育委員会は父親の訴訟するという脅しにおびえて、要求にこたえるいるのである。2017年11月に学校のアンケートにより、児童相談所は、虐待の確認をして、一時保護をするが、親族のもとで暮らすことで解除する。

 その後に学校の長期欠席が目立つようになる。学校は市の児童課に連絡したが、市の児童課は児童相談所に特別に問題がないと判断して、連絡をしていない。学校は直接に児童相談所に連絡をとるのではないというルールになっているという。児相は、1月21日に小学校での連絡で長期欠席の事実を知るが、死亡する24日まで対応はなかった。

 この4日間に虐待件数が24件あり、相談も含めると77件である。一保護は28人で定員25名を超えている。直近1年の虐待受付件数1594件で非常勤を含めて児童福祉士41人、勤続年数3年未満が56%である。

 児童の虐待件数は急激に増大しているのである。児童相談所が把握する児童虐待件数は、平成29年度133778件で、平成24年66701と2倍以上の急増である。 警察庁が、2018年に児相に通知した虐待件数は8万超である。実に5年間で2.8倍である。これは、2月7日の公表である。

 子どもは家庭の愛護のもとで育つはということであるが、現代社会では、親の虐待が増大している。なぜか、統計的児童相談所の通告が急増しているが、児童福祉や家庭裁判所等の、それに対応する機関の専門職員の配置や研修が極めて不十分である。児童福祉士の専門職の養成に多くの課題をもっているのである。児童福祉士のあり方も含めて抜本的な改正が求められている。
のである。

 現代社会の親の虐待件数の急増をどうみるのか。親の子育てのなかで何が起きているのか。野田の事件にみるように、単純な一時的な親の怒りの感情で体罰を行っているということではなく、繰り返し、子どもに対してヒステリックに虐待を繰り返していることである。親の非人間的な残虐性を帯びた人格が潜んでいるとしか思えない。
人間関係では問題なくても家庭のなかでは、別人のように非人間的暴力をふるう異常者になる人格の例もある。家庭のなかは、私的な世界で、なかなかみえない。また、わがままがきく空間である。隣近所でも親が暴力をふるっててもなかなか児童福祉機関に通告をすることはない。

 国連の子どもの権利委員会の日本への児童虐待に対する勧告

 2月7日に国連子ども権利委員会は、日本の子どもの虐待の深刻性について懸念を表明している。虐待防止の包括的戦略のために、子どもを含めた教育プログラム強化を要請している。虐待の調査と加害者の厳格な刑事責任追及を要請している。
 子どもの権利条約の第19条「親による虐待・放任・搾取からの保護」あらゆる適当な立法上、行政上、社会上および教育上の措置をとること。必要な援助を与える社会計画の確立、・・・適当な場合には、司法的関与のための効果的な手続き」をのべている。

 子どもの虐待と親権喪失・停止の対応

 子どもの虐待問題では、親権に正面から向き合っていくことが必要である。民法では、こどもの虐待に対処するために、親権喪失と親権制限がある。親権は、子どもの利益第1ということから、親が監護し、教育する義務がるのです。このために、親が、その役割を果たさない状況では、子どもを保護し、子どもの成長発達のために最善の環境を提供することが求められている。家庭裁判所は、子どもの虐待に対処するために大切な役割があるのである。児童相談所家庭裁判所との関係を密接にとりながら、ときには、親権の喪失や親権の一時停止が求められるのである。子どもを親権者から離す、一時保護ということだけでは、不十分なのである。

 子どもの虐待で学校教育に求められる福祉の視点

 政府は、2月8日に子ども虐待緊急対策をまとまたが、児相や学校に緊急点検を一ケ月以内に実施するということであるが、今最も必要なことは、政府自身の児童虐待対策の包括的な戦略、教育プログラムに対する反省である。自らの反省からの出発が前提である。教育委員会がなぜ子どもの訴えのアンケートを加害者である父親に写しを渡したのか。
 学校を文書管理統制する教育委員会のあり方も含めて抜本的な改正が必要である。本来、子どもの教育の責任は学校にあり、学校は児童相談所と密接に連携し、ときには、子どもの最善の利益のために、家庭裁判所とかかわるときも大切である。
 学校には、児童福祉の専門家が配属されているニュージーランドなど多くの国で教育と福祉の連携をしている。日本の学校教育制度では、福祉とのかかわりが大きな弱点である。これは、虐待問題ばかりでなく、子どもの貧困問題、非行問題も含めてである。
 日本の学校教育では、教科指導と並んで生活指導が大きな柱になっている特徴があるが、それらは、教師だけの仕事としてされてきたが、児童福祉の専門機関との連携していくことがより一層に重要になっており、教員養成にも福祉の重要性についてカリキュラムも整備していくことが求められる。

 児童の虐待問題と社会教育

 社会教育としても学校との連携をしていくうえで、地域の教育力としての虐待防止のための活動をしていくことが求められている。子どもの虐待を知ったすべての大人は、福祉事務所、児童相談所への通告義務がある。児童福祉法25条の要保護児童発見者の通告義務が書かれている。
 また、児童虐待の防止等に関する法律第6条「児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、福祉事務所、児童相談所に通告しなければならないとしている。この地域の大人達の通告義務と、親の子育てにおける虐待防止のための大人の社会教育として、子どもは社会で育てるという視点が必要である。社会教育と児童相談所との連携も深刻化する児童虐待の増大のなかで大切である。

 児童の虐待の事例から抜本的な対策を

 少しふるい、子どもの虐待による死亡事例等の検証結果の専門委員会による第七次報告が平成23年7月にださ れている。この報告書は、平成21年4月から平成 22年3月までの事例分析を行ったものである。
 この期間に厚生労働省が把握した事例は、虐待死事 例47例、49人。心中事例(未遂も含む)30例、39 人であった。虐待死事例は、6割が身体虐待であ り、ネグレクトは4割である。

 虐待死事例で 48.9%が実母であり、心中事例は実母が56.4%で ある。 報告書では、望まない妊娠と出産の問題として 次のようにのべている。「これまでの報告におい て、主たる加害者で最も多い実母の妊娠期・周産 期の問題として、虐待死事例では「望まない妊娠 /計画していない妊娠」(以下「望まない妊娠」 という。)、「妊婦健診未受診」、「母子健康手帳未 発行」が多くみられたが、第7次報告でも同様の 傾向がみられた。
 「望まない妊娠」の問題は虐待 死事例のうち11人(22.9%)になる。そのうち5 人(45.5%)は「妊婦健診未受診」及び「母子健 康手帳未発行」の問題にも該当していた。また、 3人(27.3%)は妊婦健診を受診しており、母子 健康手帳も発行していた」。 望まない妊娠ということから、妊婦健診の受診 をしていなかったのであり、また、母子健康手帳 の未発行ということで、生まれてくる子どもにつ いて十分な心の準備がされていないのである。望 まない妊娠・出産の問題を現代にどうみていくか。

 かつても日本の歴史のなかで子どもの間引きの 問題があった。伝統的には、子どもを育てる経済的な力がなくて、間引きをしたのである。避妊の 方法や人工的な流産の方法が、発達していなかっ たために、家族計画が合理的にできなくて間引き が行われたのである。この間引きと同時に水子供 養の信仰があり、死んでいった子どもが神のもと に帰っていくということで、傷ついた女性の心を 癒やすための風習があったのである。

  虐待死事例において、1歳未満の乳児の場合と 1歳以上3歳未満と3歳以上の場合では、加害の 動機も異なっていると報告書は指摘している。かつての貧困な農村の家族で子どもを間引きしたこ とと重ねてみると、一歳未満の子どもとそれ以上 の子どもの虐待死亡の事例とは、動機が本質的に 異なるとみられる。

  報告書では「日齢0日が「子どもの存在の拒 否・否定」、日齢1日以上3歳未満では、「保護を 怠ったことによる死亡」、「泣きやまないことにい らだったため」、3歳以上では「しつけのつも り」の割合が高く、「保護を怠ったことによる死 亡」も複数みられた。 また、「保護を怠ったこと による死亡」(8人)では、自宅や車中に放置し 火災や熱中症によって子どもが死亡した事例のほか、必要な栄養を与えないなどによって死亡した 事例がみられた」。

  望まない妊娠での日齢0日の虐待では、子ども の存在それ事態を拒否する精神構造があるのであ る。3歳未満では、放任・養育放棄ということで 保護を怠ったことによる死亡事例が多い。 3歳以上になるとしつけのつもりとして、感情 的に暴力を振るうことが多くなっていく。報告書 では「「しつけのつもり」(8人)について加害者 の内訳をみると、実父3人、継父2人、両親2 人、実母の交際相手1人であり、「子どもが反抗 した」、「おねしょ(夜尿)に腹が立った」などが きっかけとなっていた。子どもの成長・発達の過 程で見られる変化についての養育者の理解が乏し い。「しつけのつもり」として、感情に任せて力で 子どもの言動を制しようとする虐待は例年複数み られる」としている。ここでは、実父や継父など の事例が目立ってくるのである。

 しつけのつもりで子どもを虐待している事例 は、子どもの人権そのものを否定し、子どもを自己の従属物としてしかみていない意識が根底にあ る。子どもに対する愛情を基礎に、子どもにも一 人の人間としての尊厳をもっている。このことの 意識が希薄な側面があるとこを見逃してはならな い。

 3歳以上になると、実父や継父などが感情的に反抗したから、おねしょをしたからと暴力をふるって死亡させてしまうのは、自己中心性の男性 のもっている支配欲と結びついた暴力性である。 女性の場合は、感性的に我が子意識からくる自 然的な母性からの本能による子どもを守り育てようとするものが身についている。
 しかし、男性の場合 は、目的意識的にならなければ、子どもに対する 愛情意識をもてない。家族を培って、愛情で結ば れた夫婦の関係で生まれた子どもには、父親は、 その基盤のうえに愛情を注ぎ、子どもの成長への 期待をはずませていくが、その心も目的意識性がなければ、生まれてこないものである。
 
 ところで、虐待の子どもの家庭の経済状況は、 極めて厳しい状況である。報告書では経済状況と の関係で次のようにのべている。「実父母の就労 状況について「無職」の構成割合をみると、虐待死 事例で実母が50.0%、実父が16.1%、心中事例で 実母が40.0%、実父が15.4%であった。

 特に実父 の「無職」の割合は年々高くなっている。家族の経 済状況について構成割合をみると、「生活保護世 帯」ないしは「市町村民税非課税世帯」は、虐待死 事例で27.7%、心中事例で13.3%と第6次報告よ りも高くなっている。
 無職ということで、経済基 盤がなかったりするなど、貧困問題が子どもの虐 待に大きく関係している現実を直視しなければな らないのである。 心中事例は、加害者が「実母」である事例が多 い。ここにも無職や非課税所得層などの貧困層の 割合が高く、貧困問題が深く関係しているのであ る。

 報告書では、「心中事例について加害者が「実 母」である事例は17例(22人)、「実父」である事例 は10例(14人)であった。死亡した子どもの年齢 別に構成割合を見ると、主たる加害者が「実母」 である割合は6歳未満まで高く、1歳未満の心中 事例の60.0%、1歳以上3歳未満の75.0%、3歳以上6歳未満の61.5%であった。
 6歳以上では 「実母」、「実父」がそれぞれ47.1%と同じ割合で あった。 実母が子どもの虐待の加害者となっている場合 は無職である場合やパート就労という低所得であ ることが指摘されている。このことについて、報 告書は次のように指摘している。「加害者が「実 母」である場合の「実母」の状況は、年齢は平均 36歳(26~48歳)、就労状況は無職が8事例、 パート就労が4事例、不明が5事例であった。ま た、ひとり親(離婚・未婚)は6事例で、うち5 事例は無職あるいはパート就労であった」と。

 母 子世帯など、無職やパート就労などで厳しい経済 状況に置かれて、生活苦が重くのしかかって将来 の展望も描くことができず、絶望になって心中に 陥るケースが多いというのである。 「子ども虐待による死亡事例等の検証結果」の 専門委員会の第6次報告書(平成20年4月1日か ら平成21年3月31日)までの事例は、死亡事例は 心中以外が64例、67人であり、死亡した子ども (心中以外)の年齢別では、0歳児が39人(59.1 %)と最も多く、うち0か月児が26人(0か月児 の66.7%)と集中している。

 この報告書では、ア ダルトチルドレンの問題や過去の虐待を悩まされ ていることがみられると次のようにのべている。
 「機能不全家族で成長したと自覚するアダルトチ ルドレンの問題や過去の家庭環境における虐待の 記憶やイメージ(心像)に悩まされ続ける人の問 題にも関係してくるが、虐待による後遺症的な副 作用を簡潔にまとめると『自分の存在や行動に自 信が持てなくなり、他人を信用できなくなること によって、通常の日常生活や対人関係を送ること が極めて困難になる』ということである。・・・ ・・児童虐待とは精神的・社会的に無力な子ども から『心身の疲れを癒せる物理的な居場所(家 庭)』を奪うだけでなく、『精神的な安全基地とし ての家族関係』をも奪う行為であり、その後の子 どもの精神発達過程や対人関係の能力に好ましく ない影響を及ぼす危険が高い」と分析している。

  児童虐待は、家庭の愛護のなかで子どもが豊かな 環境のなかで育つ場を奪うだけではなく、子ども の精神的発達や対人関係の成長を奪っていくことを指摘している。 虐待のなかで育った子ども、アルコール依存の なかで育った子ども、夫の家庭内暴力のなかで 育った子ども、絶えざる夫婦喧嘩のなかで育った 子どもは、大人になって虐待をする確率が高くなっていく。
 
 子育てをしていく家庭の役割が機能不全で成長 した大人は、アダルトチルドレンとして、本来的 に人間的に成長していくことができずに、人格的 に様々な問題をもって大人になっていくのであ る。

 過去の家庭環境の劣悪さは、子どもの虐待を 惹き起こす精神的な問題の確率を高くしているの である。 つまり、虐待の家庭で育った子どもが大人にな ると、虐待を起こす確立が高くなっていくという のである。虐待は子どもの人格形成に大きな影響 をあたえていく。子どもに対する深い愛情をもて ずに、感情的にしつけや教育と称する虐待は、人 間的に子どもが成長していくうえで、大きなマイ ナスになっていく。

  子育ての家庭機能を奪っていく貧困化は、子ど もの人格を破壊していく要因をつくりだす。医師 で幼児教育に力を入れたイタリアのモンテッソー リは、どんなにひどい状態で逸脱して発育した子 どもでも一人の人間として成長していけるように と、虐待を受けた子どもでも人間的に成長できる 可能性をもつとしている。
 そのためには特別な教育 環境や援助が必要であるとしている。 子どもは自然からの宿題をもらっている。子ど もは自然のプログラムにそって、今やらなければ ならないことに本気で向き合うことが大切である。

地域主権国家と明治の中央集権化の再検討

     地域主権国家と明治の中央集権化の再検討

    (1)明治維新廃仏毀釈と民権の対抗的精神構造

 現代日本の中央集権国家の矛盾を地域の国民の暮らしからみつめていくためには、明治維新期の中央集権への動きから日本の近代化の歴史的にみる必要がある。地域の伝統的な文化を崩壊させていく大きな契機は、廃仏毀釈であった。
 廃仏毀釈は、中央集権国家づくりのための行動でああた。国家のための神社を中心とした祭政一致の施策の手段であったのである。これに対して、自由民権運動は、地域主権からの国会開設を求めるものである。廃仏毀釈からはじまる欽定憲法と自由民権の憲法草案は、相対立国家理念である。

 霧島の神仏習合文化

 霧島山系は、豊作祈願や自然を大切にする山岳信仰、神仏混合の六所権現などが古代から江戸時代まで存在していた。霧島山系は、大伽藍地域であったのである。この地域は、明治維新期に廃仏毀釈の嵐が吹き、仏教的要素の文化は消えていった。ここでの仏教と結びついていた豊作祈願や自然信仰、神仏混合の文化の偶像がことごとく破壊された。
 天孫降臨のニニギノのミコトの神話は、高千穂の峰に降りてきたとして、霧島六所権現に祭られていた。霧島の信仰文化は、古墳時代に、地下式横穴墳墓をもって、地域の独自の文化をもって栄えていた。明治維新は、この地方の文化を破壊し、祭政一致の中央集権国家のための「文化」をあらたにつくりあげた。

中央集権から地域主権国家へー明治維新の見直しー

 現代の地域主権国家の構築には、日本の明治維新以来の中央集権国家体制を見直すことでもあり、1500年以上続いてきた神話の伝統文化をもつ地域から再検討することが必要である。日本の神宮などの伝統文化と称していることが、実は明治以降の祭政一致国家神道からつくられた側面があることを見落としてはならない。明治維新によって破壊された日本の伝統文化は、偶像物としては消えたが、地域の民衆の伝統行事や心のなかに今でも深く生きている。

 幕藩体制の村落の自治的暮らし

 明治維新は、幕藩体制自治的な村落の暮らし、藩による地方政府的しくみから、中央集権的国家のしくみに変えていった。明治維新による中央集権的国家体制は、1889(明治22)の大日本帝国憲法の成立によって確立したのである。翌年、集権的な国家の精神を教育によって成し遂げようとする教育勅語が発布された。これにさきだって、1888年(明治21)年に市制・町村制の制定がされ、地方は、中央集権的な国家体制にくみこまれていく。

 明治維新の中央集権国家体制づくりは、王政復古の大号令とともに、廃仏毀釈による国家神道への道である。さらに、学制による中央集権的な学校制度の普及であった。中央集権国家による地方制度の確立過程は、廃藩置県大区小区制、地方三新法、市制町村制までの近世行政の解体施策からはじまる。

 廃仏毀釈の問題

 廃仏毀釈の徹底は、地域的に大きな差があった。薩摩藩の地域では、寺の破壊が徹底して行われ、歴史的な貴重な文化財が失われていった。霧島の天孫降臨高千穂峰にあった神仏混合の文化は、廃仏毀釈によって完全に失われた。

下級武士の二側面

 明治の維新政府の中央集権的な施策に対する地方からの抵抗や民衆の下からの民主主義を求める運動は、日本の近代化の中央集権の問題を考えていくうえで、大切なことである。日本の地方や地域、民衆の暮らしとの対抗関係を持ちながら、中央集権化していったのである。

権力を握った下級武士の問題点

 下級武士から明治新政権の山形県福島県、栃木県の県令(知事)を歴任し、警視総監になった薩摩藩出身の三島通庸は、増税や労役賦課、寄付金強要を実施した名物県令であり、批判に対しては弾圧一辺倒であった。戊辰戦争等の功績により、下級武士から新政権の重臣として、国民弾圧の官僚を直視しなければならない。
 三島通庸の場合、福島では、不況下の農民に労役を課して道路を建設し、抵抗する農民、千数百名を弾正した。福島自由党員が根こそぎ入獄させられ、鬼の県令とよばれたのである。中央集権国家体制を確立していくなかで、日本の官僚制度もつくられていくが、このなかで、地域の暮らしを大切にしていこうとする新たな官吏のあり方が問われたのである。

下級武士の民権論

 霧島山系の霧島神宮のあった襲山郷に居住していた竹下彌平が明治8年3月に朝野新聞(東京)に発表した憲法草案にみられるように、地域のなかでも新しい自由民権の思想が根付きはじめていたのである。
 西南戦争に九州各地の多くの自由民権思想家が参加していった。竹下彌平は、自主自立と自由の理による国会開設のための憲法草案を提唱した民間人である。県治や民会の役割を重視し、国会の代表の3分の1は下級官吏からの選出すろことを提唱するなど決して、近代的な官吏組織それ自身の役割を否定していたのではない。
 下級の官吏が最も地域の暮らしの人々と直接に接触し、民衆の立場からの官吏の役割を立法化するうえで、大切と考えたのではないか。鹿児島では明治維新によって、藩政改革が抜本的に行われ、下級士族の行政の役割を重視したのである。

 近代化の二つの側面

 鹿児島のように明治維新を担ったところでも近代化の過程では、二つの側面があった。地方を重視する西郷隆盛のように、明治2年、3年と鹿児島に戻り、藩政改革、県治に重点をおき、また、明治6年の政変から再び鹿児島に戻り、西南戦争まで、鹿児島の地域振興、県治に力を注いだ明治のリーダーを重視することは大切である。

 鹿児島は、独立王国といわれるほど、中央集権体制と一線を画した潮流であった。命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして、国家の大業は成し得られぬなり(西郷遺訓の30番目)のように、新しい国家の大業を成し遂げるリーダーの側面があったのである。

 西南戦争はなんであったのか

 鹿児島では政府の家禄処分策を西南戦争後までは受け入れなかった。それは、下級武士にとって極めて厳しいものであったからである。新たな仕事を見つけない限り、土方人足の日給24銭よりもはるかに低い日給8銭の収入といわれたほど、人間的に暮らせるものではなかったのである。
 明治維新政府にとって、封建的な幕藩体制身分制度を廃止し、新たに四民平等をはかっていくうえで、武士の秩禄処分は大きな問題であった。下級武士の生活をいかにして保障していくのかという大きな課題があったのである。
 維新政府に士族の反乱が起きたのは、秩禄処分など新しい世の中を求めて幕府を倒したが、一部の出世したものを除き、多くの下級武士にとって、決して生活はよくならなかった。むしろ、厳しくなったことに対する士族の不満が爆発した。西南戦争は、その不満の爆発である。

大久保利通等の薩摩出身官僚と西南戦争

 もう一方は明治維新によって、中央政府に入った動きである。大久保利通のように、中央集権国家体制づくりに専念した潮流とがある。大久保は、祭政一致による絶対主義的な天皇制の官僚機構を整備し、さらに、維新に貢献した旧藩主を優遇した秩禄処分による新たな大資産家づくりをした。巨大な華族銀行の創設、政商による財閥づくりの側面とがある。

   (2)明治維新における地域の暮らしの論理と地域主権国家

 日本の近代化を考えていくうえでは、中央集権的な論理だけではなく、地方や地域、民衆の暮らしを重視した人々がいたのである。近代の学校制度は、地域の暮らしに根づかない画一的な普及の論理のみではない。もう一方に、地域の民衆の動きからとらえていく必要がある。義務教育の有償に対する農民の学校打ち壊し一揆の展開があった。全国各地に展開した自由民権運動は、明治維新を民衆の立場から考えていくうえで重要な要素である。
 つまり、上からの維新政府の施策によって、中央集権的な体制が一方的につくられていったのではない。つまり、民衆の地域のくらしや抵抗との関係で、それを懐柔し、弾圧する過程のなかで中央集権化が進んでいったのである。
 明治6年の政変で下野した板垣退助などが民撰議院設立建白書を明治7年1月に政府に提出したが、その後に板垣退助等は、維新政府のなかに、組み入れられていく。明治8年に参議に復帰し大阪での第1回地方官会議に参加する。地方民会の議論になるが、公選民会をしりぞけ、区戸長民会となり、板垣は、間もなく辞職して自由民権運動を推進する。 

明治近代化での小学校の役割

 小学校の存在は、学制から教育令の大きな変更にみられるように地域に根ざしてつくられていったのである。徳川時代の村落秩序を小学校の校区制度に取り入れて、国家的主義的な精神を注入していったのである。また、国家神道明治憲法で信仰の自由を認めながら、神社や万世一系天皇制の精神を骨格とした。
 国家神道は、宗教概念からはずして、民族的な精神としたのである。国家神道の形成過程のなかで、廃仏毀釈の嵐が起き、さらに明治の地方改良施策のなかでは、神社の合祀が積極的に行われた。日本の伝統的な地域の暮らしの精神文化が、この過程のなかで破壊していったのである。

 村の鎮守と民衆

 村の鎮守を守ったのは、地域の暮らしの文化を大切にした民衆である。村の鎮守さま、地域の氏神さま、地域の田の神信仰、山の神信仰、水神信仰などは、中央集権的な国家神道との論理とは別であり、それは、地域の暮らしの文化の論理である。

 地域主権とは、伝統的に培ってきた地域の暮らしの文化を尊重することである。真に日本の伝統文化を尊重することは、決して明治の祭政一致の伝統文化と称する中央集権国家体制の文化ではない。日本の全国各地に存在する多様な地域文化を尊重していくことである。地域主権の国家の精神を豊かにしていくためには、明治維新によって、破壊された地域の伝統文化を、もう一度再興してことである。それによって、地域の暮らしの文化を豊かにしていくことができる。

地域主権国家と地域文化

 地域主権国家とは、人間にとって地域で文化的に豊かに暮らせることが基本である。そこでは、地域での基本的な人権の享有、地域の災害からの安全と平和の尊重、豊かな地域文化のもとで暮らせることが求められる。豊かな暮らしの文化には、その地域で培われてきた伝統的な文化の尊重が不可欠であり、その伝統文化には、その地域の暮らしの歴史の重みがある。古代からそれぞれの地域には文化が蓄積されてきたのである。

 地域主権国家とは、地域で自己完結していく地域ごとの独立政治を意味しているのではなく、地域で民主主義的に住民が参画できる政治と文化のしくみを構築していくことである。地域の暮らしや文化は、自然条件や歴史的な違いなどによって、多様性をもっている。全国一律的な基準によっては、地域の多様な暮らしの文化にはならない。

 中央政府によって、国家財政の補助金の基準によって、地域の条件整備を行ってきたことは、地域主権の見方から大きく乖離してきた。地域主権とは、暮らしの範域に、住民の暮らしや文化、教育、福祉の統治権を積極的に認めていく国家を指すものである。


 日本国憲法主権在民という精神を地域のレベルまでおりて、憲法でいう基本的人権、とくに生存権・国の社会保障の義務、教育を受ける権利、教育の義務、勤労の権利、義務という国民の暮らしと文化の豊かさを地域で保障していく国家のしくみが、地域主権国家である。そこには、国民の幸福の実現を地域の暮らしのレベルで実感できるような国家の仕組みの創造である。

 日本国憲法では地方自治の原則が定められている。国と地方公共団体の役割は、「住民に身近な行政はできるかぎり地方公共団体にゆだねることを基本として」としている。これが地方自治法の精神である。この精神を実現していくには、地方自治体の独自の統治権を認めていく財政的基盤の整備がある。この財政基盤の整備ということから、国家の財政制度のあり方が求められている。

 地域の暮らしの充実

 地域のでの豊かな暮らしを充実していくという視点から、基礎的な自治体は、市町村自治体になる。広域合併などによって、基礎的な自治体が地域の暮らしの範域から大きく乖離している現実がある。このなかで、地方自治法202条で明記された地域自治区の役割が大切である。この充実によって、一層に地域主権国家論の内容が豊かになっていくのである。

 地方自治法では、「市町村は、市町村長の権限に属する事務を分掌させ、及び地域の住民の意見を反映させつつこれを処理させるため、条例で、その区域を分けて定める区域ごとに自治区を設けることができる」としている。

 自治区の事務所は、地方公共団体の長の補助機関である職員をもってあてることができる。そして、住民の意思決定や地域管理の地域協議会をおくことができるとしたのである。自治区が機能するためには、十分なる予算や適切な職員の配置を伴っていくことが求められている。

 地域の自立的発展と大学

 中央と地方、都市と農村、過疎化、都市の貧困地域という格差の問題が存在するなかで、地域主権国家の理念は、その格差を是正していく政治のしくみを地域から構築していくことである。従って、地域主権国家は、恵まれない地域に対して、豊かな文化的暮らしができるように特別の地域的施策を国家政策として目配りをしていく政治のしくみを求めている。

 恵まれない地域を豊かに文化的暮らせるようにしていくためには地域の自立的発展が欠かせない。そのためには、学校教育や社会教育の整備という、そこに暮らす人々の自立的な諸能力の発展、創造的な地域資源や地域の人材を生かした地域づくりが求められている。教育の地域間格差は、大学の配置などに典型に現れている。

 日本の大学は、東京や京都・大阪の大都市に集中している。地方大学が、極めて貧困な現状である。地域の人材養成や地域の資源の活用、地域の創造的な開発など地方大学の役割が大きい。
 地方大学も十分な研究施設や人材の不足から組織的に地域に根ざした教育や研究が展開できない状況である。農村地域の高等学校も過疎化や少子化のもとに統廃合が行われ、地域から高等学校が消えているのが目立って増えている。

 学校教育の体系が弱肉強食の競争主義原理をもちこみ、子ども達に画一的な偏差値教育をおしつけて、大都市志向や学校歴的学歴社会志向を強要して、地域の暮らしから遠ざかった教育になっている。

 現代の央集権国家体制では、地域での国民の暮らしを豊かにしていくことが困難になっている。明治維新の地域での中央集権に対抗する様々な動きを現代的に再評価して、日本の近代化のあり方を歴史的に見直していく必要がある。明治維新によって、日本の近代化を志向した人々は、必ずしも中央集権的な国家を考えた人だけではなく、また、単一の日本の祭政一致国家神道を求めたものだけではない。

   (3)明治維新の近代化による中央集権化と新たな地域主権国家の創造

 中央集権による画一的基準は、日本の明治以降の近代化の産物である。現代は、一層、中央集権的な画一意的な基準による行政施策が強まっている。それは、補助金行政のなかで典型的にみることができる。
 つまり、地域の暮らしとの乖離が一層強まった。財政の側面から補助基準がより詳細になり、地域での福祉や教育行政、地域での産業や雇用など、現実の暮らしを充実させていくことよりも行政による基準に合わせての上からの指導が徹底されていく傾向が強くなっている。

 地域主権国家と21世紀の課題

 ところで、地方分権の施策は、21世紀に入り、日本の国家のしくみの改革と大きな課題になっている。この地方分権の推進も全く異なる合い矛盾する視点から進められている。中央集権的な国家財政が膨大な赤字を抱えている。

 その矛盾は、国家のしくみそれ自身が危機的な生み出す。このことから、効率的な行政、民営化ということで、市場原理によって、公共的な分野を転化する方法と、国民の生活の豊かさを地域の暮らしから充実させようと、地域からの主権在民、地域からの生活権の保障、地域からの基本的な人権の保障ということで地域主権国家を構築させていこうとする道とがある。

 地域主権国家の道を求めていくうえでは、日本の明治以降の近代化による中央集権国家体制、官僚制度のしくみを抜本的に見直す時期にきている。この作業のなかで、明治以前の日本の伝統文化にみる多様性や地域性をみていく必要がある。多様性や地域性は、現代における価値観の多様性という個々人の利己主義に依存しての機能的な分散化、孤立化していく個人の尊重という意味では決してない。多様性を持ちながら、地域のなかで共同し、相互扶助し、地域のなかで人間の絆で結ばれていることで地域の協同
がつくられていく。

 ここでは、住民の自治が最も尊重され、地域のなかで協同し、共に協力しながら働いていく社会をめざすものである。そして、伝統的に存在していた自然との共生、地域のなかで循環していく持続可能な社会を求めていくことである。

 ここでは、複雑な高度に発達した市場経済による格差問題を直視しながらの地域の協同、福祉の実現をしていくことである。さらに、人類社会を破壊してしまうほどの専門的な科学技術のあり方を抜本的に巻が直す時期である。まさに、総合的に地域の人々の暮らしのなかで、持続可能な社会のしくみをつくっていくための高度な科学技術の必要性である。

 地域の自然環境

 それには、地域にこだわった自然循環による持続性が鋭く求められているのである。国際化の問題についても同様で、地域の暮らしの中から、それぞれの民族、地域の人々が豊かに、幸福に暮らせるための共存と連帯の国際化の視点が不可欠である。

 平成20年5月から平成21年11月まで、地方分権改革推進委員会は、四次の勧告書をだしているが、第1 次勧告は、 生活者の視点に立つ「地方政府」の確立を提言した。ここでは、市町村自治体を地方政府として高めていく施策を積極的に、提言している。地方分権改革推進委員会は、従前の中央集権的な官僚制度に多くの矛盾が噴出しているという認識をもった。

 国の行政は、国民の生活者の視点をおろそかにされてきた現実があると。政府の分権推進委員会は国民の生活をおろそこにしてきたことを認めたのである。それらが、社会保険庁年金記録問題に典型的にあらわたという。
 「社会保険庁年金記録漏れ問題に始まり、新しくは道路特定財源の不明朗な使途や後期高齢者医療制度をめぐる混乱に対する憤懣と不満の噴出など、従来国の官僚の能力や資質に寄せられてきた国民の信頼は急速に低下している。そして、そこでの大きな問題として、これまでの行政、特に国の行政では、生活者の視点がおろそかにされていた」。

 地域主権国家をめざすためには、自由に住民自治のもとに、生活を豊かにしていくための条件整備が必要である。そのための多彩な活動が求められ、それを保障していく地方財政基盤の確立が不可欠である。日本の国家が地域主権をかかげていくことは、地域での豊かな文化的な潤いをもった暮らしを保障していくためである。

 コミュニティの充実

 地域のコミュニティの役割を充実していくことは、地域の暮らしの伝統的な文化を尊重し、地域住民が自ら意志決定して、自治の担い手になっていくことが求めあれている。このためには、市町村レベルまで降りた地方政府の豊かな財政基盤が必要なのである。現在あるような地方交付金の制度をより充実して、地方ごととの極端な財政格差を生じないようにすることである。この財政基盤の確立によってこそ、地方の伝統的な文化、生き甲斐のもてる豊かな暮らしを充実できるのである。

国際平和の道徳教育ー日本と世界の平和観ー

国際平和の道徳教育ー日本と世界の平和観ー
                神田 嘉延
 
「平和で暮らしたい」、「戦争はいやだ」というのは、多くの人々の共通の願いである。平和の徳育は、道徳教育の大きな課題である。
 人類は、古代国家から戦争を絶えず続けてきた。その都度、戦争の悲惨から人々は平和を願ってきたのである。なぜ、戦争を起こすのか。いつの時代も民衆の最大の為政者に対する疑問であった。

 核など大量破壊兵器の開発時代

 現代は、科学技術の発達によって大量破壊兵器が開発された。その典型が核兵器である。現代の戦争は、地球全体の破滅につながりかねない恐ろしさをもっている。核兵器の被害は、一瞬にして多くの人々を死に追いやり、何年も後遺症で苦しむことを起こす。戦争を起こさない世の中をどうしたらつくれるのか。それは、現代の人類の持続可能な社会をつくっていくうえで緊急の課題である。
 この核兵器の全廃という課題に、国連は核兵器禁止条約の締結を呼び掛けた。2021年1月から50の国の批准によって条約が効力をもつようになった。
 残念ながら唯一の被爆国である日本は、この条約に賛成をしていない。もちろん賛成署名をしていない。
 本来ならば、核の唯一被爆国であるので、その恐ろしさが最もわかっているのである。率先して条約の批准の世界のリーダーシップをとる立場にいるのです。このことと、全くの反対の立場にいるという重大な問題がある。

 戦争は統治者によって

 戦争は国家、宗派、民族、地域の統治者によって引き起こされる。民衆は誰でも平和で暮らすことを求めてきた。
 戦争は、個々の人々の争いではなく、国家等の統治者の意志によって起こさてきたことを見逃してならない。この意味で為政者、政治家、教育者、経済人、言論界・マスコミ等、社会リーダーの平和に対する有徳問題は決定的に重要だ。

 戦争は、個々の争い、憎しみの意識問題に還元できない。個々の人々の意志は、為政者、政治家の戦争動員、戦争協力のための世論づくりのなかで、本当のことをみることがおろそかにされた。
 近代の立憲主義、議会主義の国家体制では、人々の意識、世論が戦争遂行を防止するうえで、極めて大きな役割をもつはずである。戦争遂行には、国民への協力体制、戦争のための秩序を要求するのが常である。


 戦争は、国家、民族、宗派、地域の集団的なエゴが大きくある。民族排外主義のナショナリズムの醸成は、その典型である。
 民族等のエゴは、国際関係での利害関係者との敵対行動へと発展する。平和には、共存・共栄、平等互恵、領土・主権の相互尊重である。そして、相互不可侵、内政不干渉が大切である。これらは、近代の国際関係の平和主義にとって極めて大切な課題である。

 民主主義国家であるためには、戦争をしないように努力することが、基本姿勢になることが求められる。しかし、恐ろしいことに、仮想敵国を目的意識的につくり、防衛と称して、軍事力を強化してきたことが日本の現実である。戦争を誘発してきたことは何かを重視しなければならない。このことは、近代の歴史が証明した。国家として、どうしたら国際協調による共存・共栄の関係ができるか。

 国際協調主義の重要性

  国際協調主義は、平和を守っていくうえで、基本的な姿勢である。国際協調主義は敵をつくることではなく、軍事力を強化することでもない。お互いが共存共栄し、相互信頼による話し合いによる国際協調の関係をつくることである。
 民族の誇りは国家間の愛他主義であり、このためには価値観の多様性を認め、多文化共生の国際関係を作っていくことである。
 世界は軍縮が求められている時代である。軍縮から戦争放棄の道が開かれていくことを忘れてはならない。戦争は国家間の争いである。為政者の有徳で最大の課題は、平和を守ることである。道徳教育として平和を積極的に取り上げていくことは学校教育、社会教育にとって、基本的な公正なる社会正義の大切な課題である。

 歴史のなかで道徳教育と平和主義を

 日本においては、道徳というと封建的な身分秩序を維持するための忠君愛国や国家に対する責務ということであった。それは、個人の尊厳を否定していく徳育思想であった。この徳育思想が、戦前に強く存在していたことを見落としてならない。それが、民族拝外の軍国主義的なイデオロギーと結びついたのが日本の歴史的事実であっ。

 このような歴史的状況をもっていたことから、戦後は、道徳教育に、平和主義、基本的人権、民主主義的人格形成が大きな課題になった。
 日本の戦後の道徳教育は、軍国主義、封建的な尊王愛国の士気や国家主義的な道徳教育との闘いからはじめなければならならなかったのである。

人類普遍原理としての異民族の共生

 現代は、民族の伝統的な道徳文化を人類的な普遍的原理のなかで民族共生という国際主義のなかで、位置づけていくことが求められている。
 平和主義の立場からみれば、民族的共生、文化的価値の多様性、基本的人権、民主主義、人間的連帯性、人間の自由という客観的な普遍的認識が求められる。そして、自己の良心に内面化する人類的な課題として、平和主義、現代ヒーマニズムの人格形成が必要になる。

学校教育の道徳教育は教育活動の全体で

 学校での道徳教育の目標は、教育活動全体活動を通じて、道徳的心情、判断力、実践と態度などの道徳性を養うことである。このことは、文部科学省の学習指導要領になったのである。
 道徳の時間は、各教科、特別活動及び総合的な学習時間との密接な関係を図りながら、補充、深化、統合し、道徳価値及び人間としての生き方の自覚を深め、道徳実践力を育成するものとした。

 学校教育の全体活動のなかでの道徳時間との関係をどのように設定していくか。道徳の時間をこなすだけではなく、各教科、特別活動、総合的学習の時間などの教育活動との関係で道徳教育を位置づけていく必要があった。

 しかし、学校教育での道徳教育は、読み物中心の道徳時間で、読み物をとおして子どもの道徳的葛藤を引き出していくということである。現代の日本の道徳教育は価値を教育のなかでおしつけてはいけないということになっている。
 そして、特設の道徳の時間の授業が行われている。教育活動全体の構造のなかで道徳教育をどう組み立てていくのかという問題意識は、極めて弱いのである。
  平成27年3月に小学校及び中学校の学習指導要領等を改正し、これまでの「道徳の時間」が新たに「特別の教科 道徳」と位置づけられることとなった。このことにより、学校教育活動全体のなかで道徳教育を実施していくことに危惧をもつようになった。読み物中心にやってきた道徳教育を教科と同じように評価するようになった。社会科学、自然科学をはじめ各教科との関係で人格を形成していくという総合的な視野から道徳を位置づけていくことがおろそかになっていくのである。
 徳育平和教育は、学校教育活動全体のなかでの話し合いの自治活動が大切である。自分で主体的に考え、みんなと議論し、自律的に参加していく人格形成は、平和教育に大きく貢献していくのである。
 道徳教育の目標に、他者とともに、よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことが強調される必要がある。多様性を尊重し、答えが一つではないが平和を守っていく融和、協調、協働という徳育的な課題を子供が自分自身の問題として、考え、議論する道徳への質的な転換を図ることが求められいく。

 つまり、平和のための道徳教育は価値観の多様性の容認、多文化共生ということで、話し合いから、合意を形成していく徳育が大切になったのである。 
 そして、「特別の教科 道徳」が、小学校で平成30年度から、中学校で平成31年度からとなっている。つまり、個々の子どもたちが主体的に考え、議論していくことが文部科学省の学習指導要領でも求められている。

 主権在民と平和の構築

 ところで、平和構築は、為政者に特別に与えられた権限と役割である。民衆はいかに為政者に平和の願いを伝え、為政者の心を動かしていくかである。
 戦争を行うのは為政者の政治施策からである。主権在民という民主主義の国家では、民衆自身が平和を愛する統治者をいかにして選ぶかである。

 国会議員選挙は、代議員制であり、国民の求める平和主義、民主主義、基本的人権の充実が基本にある。それは、地域のエゴ、業界のエゴ、経済界のエゴ、労働組合のエゴであってはならない。エゴを乗り越えての平和主義ということが最も大切な課題である。

 エゴを乗り越えて、個々の要求、地域の要求、業界の要求、団体の要求を具体的に政策化していくことが求められる時代である。この場合もいかにしてエゴを乗り越えて、利他の心、循環と小欲知足による文明・文化の持続可能性が必要である。

  代議員制と平行して、人々が自律的に地域の暮らしのなかで話し合いによって民主的に参加していく行動が不可欠な時代である。
 討議民主主義は、代議員制の国会や地方自治体ばかりではなく、様々な社会的組織、地域での構築で実現していく。孤立や無縁社会からの克服に、参加民主主義による話し合いが地域の生活や職場のレベルで必要になっている。

 それぞれの国家、民族、宗派、地域は自由で自立した存在として認められ、お互いの主権、自治を尊重して共に生きていく共存・共栄の姿勢が平和の時代の要請である。
 国益を守ることは、しばしば利害関係の相手国に対して傲慢になることがある。国際的な関係で利害関係者がそれぞれ利他主義になることが共生文明になり、平和を構築していくことにもなる。この思想は世界連邦構想である。

 現代の戦争と貧困問題ー人間の安全保障ー

 現代の戦争と平和を考えるうえで、格差や貧困を克服し、人間のもっている能力を発展させることは重要である。このことから、平和な社会を築いていく「人間の安全保障」の視点が極めて大切になっていく。

 また、発展途上国の格差や貧困問題を正面から明らかにするために非同盟諸国の連帯をとりあげことが必要である。平和の問題は、先進国と発展途上国との共存・共栄という共生文明が大切なのである。貧困と格差をなくしていくことは、テロを根絶するためにも根本的なことである。

 平和のための憲法9条の役割

 日本が平和で国際貢献していくのは、憲法9条という平和主義の国是をもっていることからである。この平和主義の憲法は世界に誇れるものであり、この日本の誇りを掘り下げる意味で、伝統的な歴史にあった平和文化と平和思想を積極的にとりあげる必要がある。憲法9条の平和主義は、決して敗戦によって戦勝国から押しつけられたものではなく、日本の伝統文化という視点から解くことが求められる。

日本の伝統的な平和思想

 日本の伝統的な平和文化や平和思想には、近代以前にも存在した。それは、神仏習合平安時代徳川時代の平和時代のなかでみることができる。
 武器の全廃を唱えた安藤昌益、世界兄弟で貿易を盛んにする日本を考えた横井小楠など江戸時代の儒学者に典型にみることができる。
 近代以前に、日本は伝統的な平和文化をもっていたが、なぜ、大日本帝国憲法をつくったのか。なぜ、明治の近代以降に、近隣諸国を侵略し、植民地獲得の戦争をしたのか。また、世界を相手に戦争をしたのか。

 戦前に日本人が活躍した国際平和機関

 世界へ戦争に突入していくことは、日本の近代化のマイナスの一面であった。しかし、そのなかでも国際機関で積極的に平和のために貢献した人々がいたことを見落としてならない。その具体的な例として国際連盟の事務次長として活躍した新渡戸稲造や、国際司法裁判所裁判長として活躍した安達峰一郎がいた。世界平和に貢献した二人の日本人の平和思想を現代に評価する意義は大きい。

  かれらの活躍は、パリ不戦条約と紛争の処理を国際法に基づいて、話し合いによって解決していくことであった。それは、戦後における憲法9条の平和主義につながっていく。
 憲法9条をマッカサーに提案しのは、戦後初代の首相であった幣原喜重郎である。彼は、戦前の外務省にあった国際協調主義の流れをくむ外交官の経験をもち、大正デモクラシーの成果のもとで、外務大臣を務めた政治家でもある。

討議民主主義を篠原一「市民の政治学」から考える

 篠原一は「市民の政治学岩波新書で、討議デモクラシーをのべています。そして、80年代後半から新しい「第2の近代化」がはじまったとするのです。

近代社会構造の捉え方

 近代の構造は、資本主義と産業主義という経済軸、近代国家と個人主義という社会軸という組み合わせがあり、共通のエートスは科学主義であり、5つの要素からなりたっていると篠原一はのべます。
 この5つの近代化の要素は、高度経済成長が頂点に達したころから、自然生態系破壊、化学薬品の毒性問題、空気・大地・河川・海岸の汚染が問題にされ、成長の限界と弊害が誰の目にもわかるようになったとするのです。ローマ・クラブは成長の限界が指摘されたのです。人類がこれまでの行動をとりつづけると100年以内に世界は破局に陥ると考えているのです。

 産業主義と資本主義の経済軸と近代国家と個人主義の社会軸という二つを座標軸において、共通要素の科学主義によって、その座標軸をみていくということです。マルクス資本論のように資本主義の矛盾を土台に、政治、国家、文化を上部構造として、作用と反作用として社会構造をみていくことと異なります。
 また、デュケムのように資本主義の近代化を社会分業として、孤立化、無政府化して、精神的病になって自殺の原因になる個人のアノミー化をとらえていく視点と異なっています。共通のエートスの科学主義によっての矛盾を座標軸にして、現実の社会問題を整理していくという方法です。
 科学主義の人々の暮らしや地域社会の自然環境との関係が大切になるのです。一般的な教養ではなく暮らしや豊かな文化をもって自然環境をもっての持続可能性の教養が求められているのです。

資本主義の矛盾と科学主義

 90年代に入ると奪われし未来として、ダイオキシンなど環境ホルモンによって、人体に生殖異常をもたらすという深刻な危機が生まれたというのです。人間がつくりだしたものが人間を滅ぼすという構図が生まれ、これに対しての新しい社会運動が起きてくると篠原氏はのべるのです。第1の近代化が追い求めてきた目標の反省が必要な時代、民主主義の資本が必要な時代になっているとするのです。

 篠原にとっての見方で、資本主義の矛盾に対する運動は、19世紀から労働運動が生まれたが、現代は、この運動は衰退期になった。社会主義体制を打倒する資本主義は生命力、生産力があるが内部矛盾も大きくなり、反資本主義の運動として、南北問題にみられる著し格差による激しい対立になったとします。
 消費者問題は、食品公害、遺伝子組み換え製品問題、破棄物処理の問題が深刻になっているのです。以上のように篠原氏は科学主義による生産力を発展させた産業主義と資本主義の現代的な矛盾をのべます。

資本主義矛盾の克服運動

 資本主義の矛盾に対する運動は、資本の生産性、利潤追求のエートスから社会的無政府性が生まれることに対する人間尊厳の民主主義的ルールを求めたことによって起きたのです。
 二〇世紀のソ連を中心とする社会主義を標榜する国家は、官僚的、価値画一的の独裁主義になり、多様な価値や文化や個性を開花していく自由主義が形骸化していったことによって、崩壊したのです。資本主義の力強さではないのです。資本主義の矛盾の克服は人々の運動によってであり、自然成長性ではないのです。

 人々の様々な矛盾克服の運動によってであるのです。資本主義社会での競争主義によって、個々が分断されて孤立化していく側面が自然成長的にはあるのです。自己に閉じこもっている限り競争主義が襲いかかり、自己利益が拡大していくのです。他者との関係が矛盾克服にとって大切ですが、労働が一層に分業化して個別化しているのも現実です。

 ソ連社会主義崩壊の理由と自由・民主主義 

 ロシアのようにツアーリズムのなかで、近代的自由や民主主義の発展が不十分で、国内の市場経済も未熟のなかで、国際的な資本主義の矛盾のなかで、社会主義が唱えられたのです。ここでは、自由と民主主義の思想的未熟が根強くあったのです。社会主義の崩壊ということよりも自由と民主主義の未成熟のなかでの独裁的体制をもった社会主義の標榜があったのです。

   ソ連の崩壊は、人類史的に、社会主義の理念の実現に、自由と民主主義が不可欠であることを示したのです。マルクス的にみるならば、高度に発達した資本主義の矛盾のなかで、それを克服していくという道筋に社会主義が実現していくということです。
 資本主義の形成していく近代社会の出現は、封建的な身分制を打破して、封建的特権をもった商人ではなく、自由な営業、生産者が活躍し、労働者も封建的な大地の縛りから自由に労働力市場に放り出されたのです。
 しかし、働く喜び、生存の自由、人間らしく生きる自由は疎外されていくことが、その後の資本主義の発展によってもたたらされていくのです。低賃金、長時間労働、不安定の労働力市場、労働災害、公害、自然破壊が襲いかかってくるのです。この矛盾の克服に人々が立ち上がっていくのです。

 資本主義の矛盾の克服には、社会権的な意味からの自由と民主主義の発展が必要なのです。資本主義の矛盾の克服の過程としての社会主義の運動があることをみる必要があります。
 社会的に自由と民主主義の発展は、その矛盾の克服の運動のなかで実っていくのです。とくに、社会権の発展によっての自由と民主主義の課題は、現代のように弱肉強食のグローバル化した資本主義の矛盾のなかで、人間尊厳の民主的ルールをつくっていくことで大切なことです。

独占的権力と分権・自治と参加民主主義

 篠原一氏は、近代国家と個人主義の社会軸では、監視権力から生かす権力として一層に独占力は強固になっくとしています。強い行政国家が国民を従属させているとみます。これに対して、福祉国家社会民主主義の政治運動があると考えるのです。強大化した政治権力を分権化し、市民自治の運動があり、分権と自治の実現は、参加民主主義、直接民主主義の運動であるとするのです。
 第二の近代化は、近代社会が生み出したリスクに対して、自省的に洞察していくことであり、食糧や空気、水という人間にとって基礎的な必需品さえ汚染されるという不安の連帯であるとしているのです。 

 篠原一氏は、自省的近代化という新しい時代の創設がはじまっていると考えるのです。従前の巨大な組織や国家に依存するのではなく、自発的な小さな結社が創造性をもっていくという。社会的機能は国家から結社に移され、個人の選択と小さな集団主義が重要視されるというのです。
 目的手段的な結社以上に人々は自発的に参加して自己実現していくことに大きな意味をもつようになっていくとするのです。貧しい人々のなかに自発的結社をつくり、市民社会の自由と民主主義を尊重するなかで、相互連携の協同行動によって社会主義をうち立てていくことが求められ時代であると考えるのです。

自由な労働と雇用問題

 人間は好きな仕事を自由に選ぶことによって、人間は意欲的に生きるというのです。これらが第二の近代化なのです。これは国家に依存したり、巨大な組織に従属しての個々人ではないのです。従前の組織もこのことによって、より活性化していくというのです。
 自発的結社は、すべての既存組織を破壊するのではなく、停滞している組織に対する補完物であるというのが、従来の結社論とは異なると篠原はのべているのです。そして、既成組織のあり方を第二次的なものにして、自発的組織を主たるものに変えていくとするのです。

 完全雇用の破綻は、第二の近代化の特質と篠原はのべるのです。雇用問題が大きな政治問題になり、これまでのモノの生産とは異なる福祉、環境、教育、保育、地域生活、文化などの分野における雇用が重視され、NPOのような非営利的企業が地域ごとに設立され、新しい雇用がつくりだされ、全産業のなかでNPOの占比率が増大することが求められるようになっているとするのです。
 また、オランダのワークシェアリング1.5人型共稼ぎによって、公共的福祉事業に自発的に働く市民労働を推奨するのです。完全雇用が不可能な時代に多様な働き方を提唱するのです。
 オランダ等のヨーロッパやベック等の社会学者の考えに、篠原は、積極的に評価して、問題提起をしています。しかし、大切なことは、弱肉強食のグローバル競争社会のなかで格差と差別構造が広がっていることです。完全雇用は、不可能な時代ということは、今の弱肉強食の競争社会を前提にする限り、その通りですが、完全雇用を社会的につくりあげていくことが大切なのです。

 まさに、人間としての生きがいを持てるのは、働く権利の保障なのです。働くことによって、人間らしく暮らせる生活の糧を得ることです。その条件のルールとその実効が大切です。これこそが自由と民主主義を保障していく近代国家の役割です。
 雇用のための経営形態は、民間企業に雇われるだけではなく、自営分野の農業労働、自営専門職労働、特技をもった職人・芸術労働、非営利団体労働、協同組合労働、公務労働と様々な形態があります。いうまでもなく、大きな部分を占める営利事業が働く場であることはいうまでもないことです。

 現代では、公務労働の場でさえ、民間営利企業から学ぶ経済性、効率性がいわれる時代です。そのことがいいのかどうかも含めて、それぞれの仕事のあり方が鋭く問われている時代です。財政のあり方と社会的に求められている公務労働や非営利事業など国家・社会全体として、制度設計をあらためてしていく必要があるのではないか。

第二の近代化の社会運動

 第二の近代化の社会運動は自発的結社をつくり、政治に対してストレートに抵抗することに眼目があるののではない。運動が発するメッセージであるとするのです。運動は個人化し自らのアイデンティティを追求する傾向が強く、自分自身の生きがいと自分自身を取り戻す能力をもとめるようになったとするのです。
 運動のネットワークは分散化しアトム化し、セクトや感情グループに分裂する可能性をもつ。集合行為を政党や政策などの政治的媒介によって代表することは難しく、日常生活に根ざしたものであるから前政治的で、政治勢力が行為を代表できないから超政治的と篠原はメッケルの論をのべながら自己実現の社会運動を第二の近代化の脈絡によって説明するのです。

 市民的公共性と日本社会

日本では、1970年代に市民運動住民運動が発展していくか、市民的公共性という概念は使われていなかった。むしろ、国家的公共性に対する対決の運動であった。この運動のなかからボランティア、介護、まちづくりなどの広範な社会参加が90年代生まれたことから市民的公共性が日本社会ではとかれるようになったと篠原はみるのです。
 90年代からはじまったボランティア運動やまちづくりは、1970年代の市民運動住民運動のなかからのポジティブな参加からのつらなっているというのです。日本では市民的公共性が説かれるのがまだ弱い社会状況があるとするのです。
 むしろ、市民的公共性よりも国家は、公共の非能率性を改革するために民営化の必要性を説き、公に対する私の必要性を強調するようになっていると篠原は、近年の中央政府や地方の地方自治体の政治状況をみるのです。
 社会の原子化と解体、それに訴えるポピリズムの台頭が、市民的公共性をつくりだす基盤を喪失させているとするのです。社会の原子化は、デュケムが問題にしてきた資本主義の分業化と競争によって、人々が孤立していくことが根本です。弱肉強食の競争と労働の専門性による分業化は、一層にひとびとを孤立化していく社会へとおいやっているのです。
 現代は、SNSや様々なマスコミ等によって、情報があふれている状況で、より情緒情的、感情的に人々の判断がなりやすい状況になっているのではないか。多様な価値観や文化、意識が流動的に変化していく傾向が強くなっているのです。また、それぞれが個々の事項に対して学習をして、真理を探究し、、自己の理念を深めていくことのが弱くなっているのです。

 第二の近代化におけるポピリズム右翼

 21世紀に入り、福祉国家政党政治に対する反発、移民等のグローバルからの多文化主義に対する反発から、民族排外主義のナショナリズムが先進国で起きているのです。篠原は、この移民排斥という新しいポピリズムは、これまでの歴史上のポピリズムと違って反動性が強いとするのです。既成体制に対する反抗が民主義の挑戦となっているのです。
 強いリーダーシップと断定的言語は、原子化されて発言力をもたない人々を共鳴させ、人気を獲得することに集中していく。政治の世界は言語の貧困におちいり、また、相互に討論するのではなく、著名な講演者からの上からのメーセージ、日本人としての誇り、謝罪外交の批判にうなずき、それで癒やされるサイレント保守市民が生まれていると篠原は考えるのです。

討議デモクラシーと他者との協同

 第二の近代化は、ポピリズム右翼・右翼的権威主義と他者の協同する自己実現する自律的市民運動との対抗関係にあると篠原はみるのです。自律した市民は、政治参加だけではなく、社会参加もあるのです。むしろ、福祉、介護、まちづくり、相互扶助に参加する人々が増えているのです。
 このなかで、討議を活発にしていくことが、討議デモクラシーの発展になっていくのです。代議員制のデモクラシーに加えて、新たなデモクラシーの時代が起きようとしていると篠原は問題提起するのです。討議デモクラシーは、意見の異なることも公平に正確な情報を提供することと、十分に討議できるような工夫が求められるのです。
 為政者が十分な情報提供なしに行われる住民投票は操作的になり、参加の過程に誰でも身近な問題として討議できるように情報を提供することが求められていると篠原はのべるのです。これらのこともどのように工夫すれば討議が活発に行われていくのかという工夫が大切なのです。討議は、参加する市民にとっての社会学習の場でもあるのです。当然ながら討議のなかで参加者が意見を変えていくことはあるのです。


エイミー・ガットマンの考える多文化共生社会での民主教育論

 

学校再生論の礎石―人間・国家・地域と学校 (現代教育学全書)

学校再生論の礎石―人間・国家・地域と学校 (現代教育学全書)

 

 

 エイミー・ガットマンは1987年に民主教育論の著書を刊行しています。かれは、1976年にハーバート大学で政治学の博士号を取得し、アメリカで活躍した政治学者です。神山正弘訳「民主教育論」民主主義社会における教育と政治ー同時代社より。
 
 ガットマンの教育理念と審議民主主義の能力形成
 
 ガットマンは、アメリカ政治において、教育の内容、教育の権力の配分を考える教育問題が重要な課題になっているという見方です。教育問題は国際化し、教育の内容は多文化になっているということです。また、学校教育における公共統制の抑制と親による統制の拡大も大きな課題になっているというのです。
 公共性による統制と親の教育要求多様性との矛盾関係、調整は現代に難しい大切な課題であります。このことを考えながらガットマンの論を読みました。公共性が多様化すると教育要求します。現代社会は、格差と貧困化が進み、グローバル化していいます。このなかで要求が複雑化しています。多文化共生の地域社会が要請されているのです。市民的公共性のあり方は、重層的、複眼的にみていくことが重要になっています。公共性を画一的にみたり、多数決原理でみることは、人間の尊厳という民主主義の原理から極めて危険であるのです。
 
 ガットマンは、親の選択擁護論から国民教育の制度構築も政治課題になっているというのです。親は学校のカリキュラムのどの部分を免除する権利をもつことができるのか。多文化主義での十分な教育とはなにかという課題があるのです。
  ガットマンの強調することは、審議民主主義社会のための能力を育成することです。その柱が教育です。このことによって、自由で平等な諸個人の相互性の責任をもつ諸個人の能力形成がされるというのです。
 
民主主義と相互尊重
 
 民主主義の重要な課題は、審議して、相互に異なる立場や価値観、意見を尊重して合意を形成していくことです。つまり、教育によって、その相互に尊重しあう能力をつくりあげていくことを考えたのです。いうまでもなく、この教育は学校教育で実践していくことは重要なことですが、生涯にわたって学習できる多様な教育の機会の保障が必要なのです。この意味で、成人教育・社会教育は民主主義社会を形成していくうえで、大きな役割を果たすのです。
 
 審議民主主義のための能力形成には、批判的思考能力、数量的推論能力、識字能力、実際的な判断能力、国民としての個性が必要です。そして、市民的な道徳としての非暴力、誠実、寛大性、正義を追求する諸個人が求められ、それらは、集団の能力を不可欠とするのです。また、審議能力において、不一致でも相互に尊敬する資質、相互に受容できる社会的協同を見いだす誠実な努力をしていく技能と資質が求められるとしています。
 
読み書き、歴史、数学、科学に力と参加能力形成
 
 ガットマンはアメリカ教育の「基礎に帰れ」運動を批判します。読み書き、歴史、数学、科学に力を集中することが、よりよい教育になるのであろうか。なぜ、審議民主主義の教育が必要とされるのか。多元主義のなかで審議し、集団的に同意し、民主的に参加していく能力形成が求められているのではないかということです。この指摘は、日本の現状からみても重要です。
 ガットマンは民主的教育論において、非抑圧、被差別の問題を積極的に提起するのです。非抑圧を教育において重視することは、異なった生き方に対する制限をしないということです。生き方の干渉から自由を保証することは、教育による誠実、宗教的寛容、人間の尊厳の熟慮の教育から大切なことです。
 
 非差別意識をもたないことは、子ども達すべてが将来わたって、よい生活、よい社会の形成の担い手になるために不可欠なことです。まずは、人種的少数派、女性、その他嫌われる子どもたちへの排除をやめていくことです。
 
 審議する能力、社会の意識的な再生産に参加する能力を民主主義的な徳とガットマンは呼んだのです。子どものいじめは、国際的にも問題になっています。いじめの問題は、先進国での共通にみられのです。その根源に、グローバル化した弱肉強食の競争からくる差別と貧困の問題があるのです。これは、決して封建的な非近代社会の差別という面からだけみれない問題があるのです。
 
初等教育の目的と民主的徳
 
 初等教育の目的として、ガットマンは、民主主的徳を強調するのです。子どもは理性的熟慮能力を持って生まれてくるのではないのです。子どもは模倣によって、よい習慣を身につけていくのです。ガットマンは民主主義的の徳を身につけていくには、権威によって行動するのではなく、権威を批判的に思考する学習によって身につけていくというのです。は最も民主主義の徳の形成に阻害要因になっているのです。教師の権威主義の克服は民主主義の教育の推進にとって大切なことです。
 
 論理的に推論することに熟達しても道徳的人格に欠ける人間は最悪の詭弁家であります。科学や数学で教えられる論理的方法、文学で教えられる解釈的方法、歴史や文学で教えられる異なった生活理解、体育で教えられるスポーツマンシップさえも国民の道徳教育に貢献できます。
 しかし、民主的人格の発達とういうことでの中心的な課題は、異なる文化や価値観のなかで、個々が意見を持って結論に至るまで、注意深い洞察力をもつ熟慮ある人格の形成ができるかどうかです。
 
ガットマンの初等教育論とコミュニティ
 
 初等学校において、民主的統制は守るに値するが、しかし、抑圧的で差別的であるならば守るに値しない。民主的な統制ということで、ガットマンは、コミュニティコントロールの概念を民主的統制に効果的であるとするのです。意志決定が民主的結果になりやすいという理由からです。小規模な地域社会は民主的意志決定や民主的統制が合理的働くということです。
 
 学区はできるだけ小さい方がよいということになります。学校のコミュニティコントロールと地方の民主的統制とは同一してはならない。学校政策を決定する正統的役割を担う団体は複数存在し、地域の多数派が保持する信条だけになってはならないとガットマンは強調するのです。
 
 教師は民主的に作り出される共通の文化に批判的になるべきであり、教育専門職として、相対的になって、民主的審議のための能力をみ身につけさせ、非抑圧的の原則を擁護すべき人になるようにするというのです。
 
 そして、ガットマンは、デューイの地域社会と学校の民主主義原則の前提は、共同の利益の確認と他者の利益を理解する立場があるというのです。教師は生徒が学校に持ち込んでくるかかわりを理解するために、地域社会と十分に結びつかねばならないというのです。また、同時に、生徒が対立するかかわりにそれぞれに批判的感覚をもって、地域社会から一歩離れてみることも必要であるとガットマンはのべるのです。
 
 ガットマンは、現代の地域社会の状況で、民主的地域社会のミニチュアとして学校をとらえる位置づけは誤りとしているのです。学校にとって民主主義の社会をつくりだすための役割は、民主的人格に必須である参加の徳性と訓練の徳性を涵養するために学校を民主化することであると考えるのです。
 
 現代日本の地域社会の状況をみていくと、個々の孤立化が進行し、格差の拡大のなかで、親と一緒にいる時間も少なく、食事も十分にとれない貧困の子どもが増えている現状です。
 また、親の価値観も多様化して、地域社会として、特定の文化的価値観でまとまっていくことも難しい現状があるのです。このような、なかで多文化共生をどのように地域社会のなかでつくりだしていくのか。学校での多文化共生を理解し、その能力を身につけていくことは大切な課題となっているのです。
 ガットマンが強調するように、多様性のなかでの孤立、無縁社会と格差をともなっての貧困のなかで、学校での審議民主主義の能力の形成は民主主義の地域社会形成に切実な課題になっているのです。
 
教師の専門能力と参加民主主義
 
 教師は、非抑圧の原則から民主的審議のための能力を身につけさせる力をもっていることが求められるのです。教師の専門主義は抑圧や差別の防波堤になるのです。この意味で学校内は民主主義でなければならないのです。参加や学習への意欲をもたない生徒は民主的学習に強く反発します。
 
 学習意欲をもたない彼らは、学校教育に否定的態度をもっているからです。教師はこのような生徒に訓練的方法を強化しがちです。ここでは、参加的方法によって生徒の興味を引き出して学習への関与を醸成することが大切になってくるのです。
 しかし、それだけでうまくいくという単純な問題でないことも事実です。知的規律の伴った感情的規律の陶冶もとりわけ学習への関与の低い生徒には求められるのです。ガットマンは参加的徳性を涵養させるために、どのような感情的規律の陶冶のための訓練方法が必要なのかを考えるのです。ここに教師の専門職能力が必要であると言うのです。
 
教育の機会均等論
 
 恵まれない子どものに対する教育の機会均等の解釈は、三つあるとガットマンはのべます。それは、将来の子どもの生活機会を最大化するために教育資源を充当せせるべきあるという最大化解釈、もっとも不利な立場にある子どもを有利な子どもの立場にあるところまで引き上げるための教育を施すという平等解釈、子ども達の自然的な能力が学習に応じて教育資源を配分するという能力主義解釈です。
 
 ガットマンは、教育機会の民主的解釈の理解に、すべての子どもに同額の教育費を使うとか、子どもの集団にに同一の効果を生み出す必要もないとして、すべての教育可能な子ども達が民主主義のプロセスに実効的に参加するのに十分なように学習を求めるだでだとするのです。
 民主的参加に十分な教育内容は、民主主義の様相とともに常に変化すると考えるのです。しかし、学校は貧困児童に対して、社会に替わって補償することができない。学校は、仕事の創出、住宅、地域サービス、子どもの世話の施策に依存するのです。
 
ガットマンの高等教育論
 
 ガットマンの考える高等教育の目的論は、真理の探究です。そのためには、大学に勤務する教員の学問と自由と大学の自律性、自由が不可欠とされるのです。大学の現状についてガットマンは、次のように批判するのです。大部分の大学の教員は、基礎的知識や職業的技能を教えるように養成されていない。多くのアメリカのカレッジは、ハイスクール卒業生に基礎的知識の機会を提供しなければならない現状です。また、民主的な人格の形成にも十分でない青年が大学に入ってくるのです。学問の自由や大学の自律性についての理解が十分でないのです。
 
 合衆国の義務教育の延長の時代が到来しているとガットマンはのべるのです。カレッジを初等教育の一部とすることは、すでに子どもでない青年に教えることになるというのです。むしろ、大切なことは、カレッジを義務教育の一部とする見方よりも義務教育をもっと早い年齢から開始することに力を入れるべきではないかとガットマンはのべるのです。現実に、カレッジは、補償教育教育プログラムを実施しなければ正規大学の学問的プログラムに参加できない状況もあるのです。
 
 現実に、初等教育の内容を習得し、民主的人格の養成を十分に受けていない青年の存在が一定程度いるなかで、具体的にどう対処していくのかという問題もあるのです。ことを見落としてならないというのです。
 この意味で、高等学校の補償教育という次元ばかりではなく、義務教育の補償教育ということが大学の大衆化のなかでつきつけられているのです。ガットマンの問題提起ばかりではなく、大学の大衆化と、同時に加熱化する日本の塾の普及、学力競争の現実の問題を大学の補習教育の必要性の現状から検討していくことも求められているのです。
 
学校外教育
 
 ガットマンは、子どもの学校外教育として、図書館とテレビジョンをあげています。公共図書館の役割として、貧困の子どもは夏休み等の学校外でも十分な学習機会を家庭によって得られることが難しいとしています。
 十分な教育を保証するために図書館の整備も必要です。つまり、貧しい子どもにとっては、公共図書館を用意することが求められるのです。低所得の地域の図書館支所には、特別の図書の整備が求められため、地域社会に地域図書館委員の選挙権を認める必要があるとしているのです。
 
 テレビジョンと民主教育について、ガットマンは、公共的な学習文化にテレビは役割を果たすとしているのです。テレビは受動的で、娯楽であり、民主主義に貢献できなという論者にもガットマンは、民主教育の可能性があると反論しています。テレビジョンの公共性から商業主義ではない子ども向けテレビ番組が求められているとするのです。
 
成人教育について
 
  ガットマンは、成人教育について、1,美術館や博物館等の文化的機会の享受、2,希望する成人への高等教育の機会の保障、3,必要とする成人の初等教育の確保についてのべています。
 国家の文化的支援施策は正義ではないとする考えを批判するのです。一部の国民が文化的価値が認められないものは、正義、公共の福祉に役にたたないということです。ローズの主張は、高度な文化の享受者は、教育された人々だけではなく、教育を十分に受けられなかった貧しい人々にも機会を与えなければならなということです。ガットマンにとって、貧困はもっとも共通する文化的差別になるので、博物館、コンサート、オペラ等の入場料は値下げしなければならなとするのです。
 
 民主主義の政府は、大学レベルの成人教育ブログラムをどのようにすれば実現できるのかを考えることが必要です。高等教育のレベルを引き下げるのではなく、オープンユニバシティーを用意することであるとするのです。ここでは、内容のレベルを下げるのではなく、入学資格を設ける必要がなく、経済的理由によって成人を差別することをしないことです。イギリスでは、この条件を整備することによって成功しているとガットマンはみるのです。
 
 成人に初等教育を提供することは、16才以上の人口に多くの非識字者がアメリカにいるのです。この現実から成人教育を考える必要もあるのです。1976年で5700万人、16才以上の38%の人々がハイスクース以下の教育しか受けていないという現実です。このなかで半数近くが機能的な非識字といわれているのです。
 
 成人の非識字の問題は、民主主義における深刻な問題であるというのです。アメリカ社会で、多くの成人非識字者がいるのです。このことは、国民に十分な教育が行われいないということばかりではなく、民主主義にとっても大きな問題であるとガットマンはみるのです。非識字者が多いことは、民主主義にとって大きな危機であるというのです。
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 

幕末維新期の議会主義と立憲主義

幕末維新期の議会主義と為政者の権力を縛る憲法を考える
                    神田 嘉延

 安井息軒は、近代日本の法治国家への素地をつくった思想家

 現代日本は、立憲主義が大きく問われている時代です。また、法と道徳の結びつきも為政者と民との関係で大きな課題となっていいます。徳治主義法治主義は対立するのではなく、民のため、仁政に、法があることを忘れてならないのです。
  法は統治手段、権力を握るためのものではないのです。法のルールを、どうして人間社会はつくってきたのでしょうか。東洋と西洋との違いはどうであったのか。安井息軒から考えてみましょう。
 安井息軒の政務論は、民のために法を大切にする論です。つまり、法というのは、為政者の統治手段ではないのです。民のために為政者は尽くすということが、政治の本来の姿だというのです。民との関係で法のルールは存在する。
 安井息軒は、法整備を政策綱領として重視しました。法制を整備するのは、衣食住の3つを首として、冠婚葬祭の四礼より始めるべしと考えています。「限りある有限の財を以て、無限の欲を奉ずれば、天下の冨を以て、人を養うとも窮することになり、倹約は礼に及ばざる」という考えを呈するのです。法整備は、為政者の欲を抑え、有限の財を民の衣食住という暮らしのために活用していくことにあるのです。
  また、投機や贅沢を謳歌するところの商業活動、商家に冨が集中することを抑制する政策を力説したのでした。そして、質素倹約は大切にすべきとするのです。農業の奨励として、飫肥藩では二期作や養蚕の研究を書物にまとめています。人びとの敬老への取り組みも実践したのでした。

 教育者としての安井息軒

   安井息軒は、生涯で、教育者として、多くの人を育てています。清武の明教堂、飫肥の振徳堂、そして、40才以降から晩年までの江戸での三計塾、昌平坂学問所で、多くの人材を育てています。土佐藩出身で、後の陸軍中将・農商務相の谷干城(たてき)や紀州藩の後の外務大臣陸奥宗光は、三計塾の開設してから20年後の塾生です。谷は1859年に入塾し、三年間の学びでした。
 安井息軒の教育方針は、谷の三計塾の記録からわかります。そこでの教育は、自由に勉学がおこなわれていたのです。学科は、息軒の講義と息軒の参加のもとでの古典等の表会、現代的にいえばゼミナールです。
 また、塾生自身の勉強会の内会と2つの会読からなっていました。講義の出席は自由で欠席も容認されていました。
  しかし、ゼミナール形式の表会の欠席は許されなかったのです。塾外での教育として、親しい友人達を集めての「文社」の活動がありました。しばしば時事におよぶこともあったのです。息軒自身も文社をつくって当時の学者達と交流をはかっています。学派や形式にとらわれない学問的態度で息軒の三計塾の教育が行われていたことは特記するところです。この文社の活動は、社会的に大きな影響を与えたのです。

三計塾で学んだ谷・陸奥・小倉と西郷隆盛による議会制度の構想

 三計塾から議会主義を志向する多くの人材が育っています。谷は、土佐を代表する志士で薩摩と土佐の盟約を結ぶ場に列席しているのです。西郷隆盛との日本の国の未来像の盟約を結ぶのです。
  その内容は、議会制民主主義を展望したものでした。大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきであるという公議政体論論からです。上院と下院に議事院を分け、議員は公卿から諸侯、庶民に至るまで正義のものを選挙し、弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球に恥じない国体を建てるということで、人類的理想を模索したのです。また、議事にあたる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うということで、公議には、私欲を挟まないという原則をたてたのです。
  この盟約は薩長同盟によって挫折します。維新の新政府はこの盟約を部分的に取り入れて、公議所集議院の制度を取りいれるのでしたが、機能せずに薩長藩閥政府、官僚独裁専制政府になっていくのでした。

  陸奥宗光は、江戸に出て、三計塾で学びますが、坂本龍馬の人間的な魅力、包括力にほれこみ海援隊に加わります。陸奥は、明治新政府では、外国事務局御用掛、岩倉具視一行の欧米視察に同行しています。明治8年憲法制定のための元老院幹事に任命されて、立憲主義の国家体制の模索をします。
 明治10年2月の西南戦争が勃発しますが、陸奥は、土佐立志系の林有三、大江卓とともに政府転覆を企てたということで逮捕投獄されるのです。陸奥には、大久保をはじとする薩長藩閥政府に対する政権独占からの不満が強くあったのです。
  陸奥は、4年4ケ月間の獄中生活から解放されて、1年9ケ月間、ヨーロッパに留学するのでした。帰国後に外務省に雇われ、駐米大使、農商務大臣、外務大臣などの要職を務めます。陸奥はヨーロッパからの帰国当時の明治19年憲法論を書いていますが、憲法と国会組織は分離すべきで、憲法は根本法で、国会は時代の変化に応じて変更していくという考えをもっていました。

 小倉処平は、江戸の三計塾で学び、飫肥藩に洋学を学ぶ必要性を提言して、長崎留学3名を実現させました。その一人が後の外相となる小村寿太郎です。そして、東京の大学南校に進学させるのでした。処平は、英国の租税年表や地方条例を翻訳して、明治4年に欧米に留学するのでした。処平は、江藤新平西郷隆盛に会い、鹿児島から飫肥に逃亡したときに、船を出して土佐に逃れるのに手伝っています。西南戦争のときは、飫肥隊として400名の総指揮官として西郷軍に参加したのです。

維新新政府の万機公論と議会主義

 維新政府は、「広く会議を起こして万機公論の決す」の制度設計をしたのです。
 五箇条の御誓文は、明治新政府の基本方針でありました。明治元年の6月に15条からなる政体書が発布され、立法、行政、司法の三権分立、参与6名、六官知事・副知事などの官吏の公選(4年任期・半数交代)などがだされたのです。

  公選は、3等官以上(9等まであった)以上の投票で決まられて、明治2年5月にはじめて実施されました。実際は、維新政府の勢力の各藩均衡の役割を果たしまた。この公選は一度しか行われていません。広く会議を興し万機公論に決すということでの公議所の機能は、明治6年10月の政変によってなくなっていくのでした。

  幕末の議会主義の構想は、坂本龍馬船中八策、上田藩士の赤松小三郎による越前、薩摩、幕府への「御改正口上書」、会津山本覚馬の「菅見」、横井小楠の貿易振興による世界兄弟論・議院内閣制の建白書などがありました。
議会政治、立憲主義の見方は、すでに、日本の幕末の体制変革を唱える志士や思想家にあったのです。藩の枠を越えての日本という国のあり方を考えていたのです。
  現実には、薩摩と長州を中心とした武力倒幕と絶対主義的、軍事的な中央集権の明治政府になったのです。議会主義を重視した赤松小三郎、坂本龍馬横井小楠は、テロにあって暗殺されています。また、日本の伝統的な話し合いの合意文化や神仏混合文化が廃仏毀釈によって破壊されます。武士の仁、義、礼、智、誠から謀略、金権、軍閥が幅をきかしていくのです。議会主義、話し合い文化、多様な価値を認め合う面から明治維新の負の側面があったことを見落としてならないのです。

  武力倒幕の進行のなかで、官軍の江戸への円満なる進行、江戸城無血開城など新政府の移行があった面もあります。明治維新によって、長期による内乱で国が二分されることがなかったのです。安政条約という不平等条約が結ばれたが、幕藩体制が崩壊して、統一した国家が生まれたことによって、列強諸国の植民地支配にならなかった大きな理由のひとつでもあったのです。

西郷隆盛と議会主義の国家像

  西郷は、すでに薩摩と土佐の盟約が結ばれた1867年6月の翌月にイギリス人のアーネスト・サトウと2回の会談をもっています。そこで、西郷は「国民議会」の構想を語ったことが、サトウの証言から記録に残っています。サトウは、それは狂気じみた考えであったとしています。
「現在の大君政府の代わりに国民議会を設立すべきであると言って、大いに論じた」「これは狂気じみた考えのように思われた」「西郷は政府は大坂と兵庫の貿易の全部を日本人豪商20名から成る組合の手にゆだねて、自らこれを独占する計画をたてていることを私に漏らした。・・・この情報が長官の耳に入るや、彼は烈火のようにおこって、直ちに首席閣老に会い、この計画を放棄することを主張した」アーネースト・サトウ「一外交官の見た明治維新(下)」岩波より

 薩土盟約は、議会主義による国をつくる内容でありました。薩土盟約では、大政を朝廷に奉還し、上下の議事院を建立し、下院は、陪臣庶民に至るまで正義純粋の者を選挙し、上院は諸侯とする案でした。朝廷の制度も弊風を一新改革して地球上に恥じない国の姿を建てるとしたのでした。諸侯会議を開いて、人民共和をめざして万国に恥じないような国体を薩摩と土佐の盟約にしたのでした。

薩摩と土佐盟約の議会主義が崩れた背景

  西郷自身も同じ年の5月に、島津久光への建白書でも政権は天朝に帰し、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に、朝廷を補佐し、天下の公議を以て統治を行うようにと提言しているのです。ここでも公議の問題が大切なことになっています。つまり、ここでは、天皇を利用した絶対主義的国家、有司専制の官僚的な独裁国家による経済的な近代化を考えていたのではないのです。

 この薩土摩盟約の結果、京都の大久保邸で武力倒幕の会合をした長州の品川弥三郎、山形有朋との約束であった西郷隆盛の長州派遣は中止されたのです。武力倒幕派の一時的な後退があったのです。新しい統一した国家体制をつくろうとする動きは、平和的移行と武力路線と単純ではなかったのです。これは、列強諸国に対する植民地に対する危機から国の二分を恐れたことによるものです。

明治維新政府の公議所と国憲のあり方

   明治になっての新政府による公議所は、各藩と諸学校から選ばれた公務人で構成され、議案提出権を有していました。19部門に分かれて審議を行ったのです。任期は4年で2年ごとの半数改選とされました。 存続したのは1年数ヶ月の期間でしたが、開明的な議案が多く出されたのです。この公議所所・集議院の研究課題は、日本の民主的な議会主義を歴史的に考えていくうえで、重要なことです。

 さらに、廃藩置県以降においては、西郷隆盛をはじめ、維新政府内で国憲のあり方が議論されたのです。この議論も遣韓論・征韓論によって、西郷隆盛が参議で決定されたことが、天皇への上奏によって、覆い隠されたたのです。このことを契機にして、「広く会議を起こして、万機公論に決する」という明治維新の誓詞の理念が崩壊し、有司専制という体制になっていくのです。

 日本は、明治憲法によって、法治国家の確立をしましたが、しかし、民のためではなく、天皇主権による為政者の意図を実現する手段となったのです。そこでは、為政者を拘束する憲法とはならず、絶対主義国家の権力を強化することになったのです。法は、民衆を縛るということはあっても、為政者を縛る考え方は定着しなかったのです。このことは、国家像として、憲法で、為政者を縛る意味での国家の基本理念は生まれてこなかったのです。

明治5年・6年の新政府の憲法制定議論

 明治5年から6年の新政府では、憲法を定め、国会を開設しようとする統治体制の議論が行われていたのです。明治6年に、西郷は、板垣等と共に、左院に立法権の権限を与えることの案を作成していました。しかし、島津久光等をはじめ封建的な特権を維持しようとする旧体制派の非難が強くあったのです。

  国会開設を西郷自身が熟慮せざるを得ない状況になっていくのでした。左院の議官を勤めていた宮島誠一郎の国憲編纂起源には、明治5年4月から明治7年5月の左院における国憲編纂の事項が記載されています。国憲編纂の「立国憲義」は、明治5年4月に左院議長に建白しています。しかし、島津久光の不平論により西郷は躊躇することがそこでのべられています。

 立国憲議の内容は、要約すると次のとおりです。「君主独裁から人民の自主自由の権利を誇張して、義務を勤める共和政治論を為すものあり、君権を確定し、君権国憲により相当なる民法を定めて人民の権利を与え、義務を行なわせる。君民同治の法を定めるとしている。君民定律の中に国憲を定めて、万機憲法に徴して国政を行うべし。憲法を定めるは左院で確定して、これを正院に致し、右院及び諸省の長官同一するに至り採決する」としています。

  正院に内閣を設けて、国権、立法を編纂する常職とする案です。この立国憲議は島津久光の不平が強く、その矛先は西郷に向けられたのです。西郷にとって、どのようにしたら新政府内での融和をしながら立国憲議を進めていくのかということであったのです。後藤は民営経営創始のためと称して官職引退の意を示しました。そして、伊地知正治副議長も辞職意向になりました。そのときは、新政府として廃藩置県という幕藩体制の根本を改革した事業がありました。

  しかし、その後の統治体制をどうするのかということで、一致したビジョンを強く持って断行することができなかったのです。これは、旧薩摩藩の新政府のメンバーと島津久光との関係のなかで典型にみることができます。島津久光をはじめ守旧派は、廃藩置県には強力に反対したのでしたが、不測の事態に備えて武力を背景に、新政府は押し切ったのです。

 全国人民の代議員による公議興論を採用して、立法機関を作り出そうとする左院改定であったのです。地方からの代議員で構成する左院の議員選挙は、明治6年開催の府県会議で決められていく予定でした。明治6年10月の政変で、その案は消えていくのです。( 明治文化全集第一巻・憲政編に「国憲編纂起源」掲載されているので、詳しく知りたい人は、それを参考にしてください)。

明治6年10月政変以降の西郷隆盛

 明治6年10月の政変によって、西郷隆盛は鹿児島に帰っても、援助や協力を求める客が絶えませんでした。そのような事情から俗世界の争いからはなれ,霧島の静寂な地で、人生をみつめるのです。
  西郷隆盛は、竹下が上京する際に,大山巌に手紙を書いています。その手紙は明治7年10月です。西郷の辞職に伴って、近衛兵、陸海軍の旧薩摩藩出身の多くの士官達が鹿児島に戻りました。

 政府は混乱を避けるために辞職願を受理せず、非役扱いにしていました。西郷は県庁をとおして給与返還の口上書を166名の旧下士官の署名によって提出しています。政府は、給料を鹿児島県庁に仕送りしていたのでした。
  西郷は、働いてもいないのに給料が県庁に送られていることはおかしいということで、大山に下士官達の調査と免官許可手続き依頼の手紙をだしているのです。大山から暮れに返事がきて、政府よりの達書が届いているにもかかわらず、県庁が捨て置いているのではないかということで、ぜひ県庁に問い合わせてほしいという手紙を篠原宛てに出します。

  この手紙を託したのが竹下という人物ですが、この竹下がだれなのか。大山が手紙を受けるうえで面識があり,信頼のおける人物であると思われます。西郷の側近叉は,親類に限られてくると思われます。そして、密偵が頻繁に西郷のまわりを見張っていたことから、竹下という名前も偽名であると思われます。

 その人物は,明治8年2月に朝野新聞に国会中心の民主憲法草案を書いた竹下弥平なのか。興味ある課題です。明治8年4月に明治天皇の立憲国体詔書(しょうしょ)がだされ、木戸や板垣が参議に復帰する時期です。これにより、元老院大審院の設置,地方官会議の開催がさることになりました。一方で,大久保の有司専制の体制も強化されていくことも同時に進んでいきます。
 竹下弥平の名前で、ほかに書いたものは現在のところ見つかっていません。西郷は、明治9年9月28日の副島種臣宛ての返信で、「民選論の盛んな今日、所見あるものは十分意見をのべるのは人民の義務」とのべています。

  霧島白鳥温泉の3ケ月の滞留は、明治7年6月に私学校をつくった後の7月13日です。弟の小兵衛に鹿児島出帆の便船を頼み隼人の浜之市につき、そこから霧島の白鳥温泉に向かっています。白鳥温泉の滞在中には甥の市来宗助が訪ねています。
 そこで、海軍にいた樺山資紀の情報を得ていることが書かれています。市来宗助には、篠原国幹あてに東京からの手紙の開封を頼みます。また、有川十右衛門に弾薬の注文を頼んでいます。市来宗介は、西郷の息子菊次郎と共にアメリカ留学をした若者です。西郷隆盛がかわいがった親類です。市来宗助には、日常的にも頼みやすい間柄であったのです。

  絶対主義的中央集権が進む明治政権のなかで、寺島宗則陸奥宗光等の自主外交や国際協調の努力や自由民権運動がありました.その後に大正デモクラシーのなかで、1924年から1932年まで議会を基礎に政党による責任内閣制が行われました。明治憲法は、首相を選ぶのことを天皇の大権で、元老会議で決まられていたが、多数党が首相を選ぶことが憲政の常道となったのです。この状況において、国際的協調主義と国内民主化が進んでいくのです。

 1932年の5・15事件による軍部独裁の国民総動員制への移行よって、民主主義の可能性をもった議会制度は崩壊しました。幕末から明治初期の士族層の立憲主義の動きや明治10年代の自由民権運動、さらに、大正デモクラーなどがあったことを忘れてはいけません。
 一方で,国家主義による中央集権体制・植民地獲得の覇権主義が進んでいきますが,他方で、政党制による議会主義、民主主義の運動、国際協調主義,自由と民権の運動がありました.この二つの対抗のなかで日本の近代史をみていくことが必要です。
  
  鹿児島霧島における明治8年民主憲法制定の草案 ―憲法学習のための地域史―
                神田 嘉延

   はじめに.

 竹下彌平の憲法草案は、明治8年3月1日付けの朝野新聞に発表されたものですが、執筆は、明治8年2月1日となっています。竹下彌平は、朝野新聞で、鹿児島県襲山郷在中と書いています。この郷の現在の市町村は、霧島市です。その範囲は、霧島山麓の旧霧島町から日当山温泉地域です。
  民主主義の根幹である国民主権者の教育は、選挙権を有する青年・成人教育にとって大切な課題です。地域に根ざした社会教育には、憲法を暮らしにという考えが求められています。戦後の民主憲法自由民権運動の様々な憲法草案から見つめていくことは、現代においても重要な課題です。
 それらの運動は、歴史的に挫折しましたが、日本における近代化過程の自主自立精神にもとづく民主主義形成の伝統文化でもあるのです。戦後の憲法は決しておしつけ憲法ではなく、戦後の帝国議会でしっかりみんなで議論して、日本人の手によって決めたものです。憲法9条の平和主義を内容は、幣原首相がマッカサーに提案して、占領軍のもとにつくられたのです。戦後の憲法は、日本の歴史のなかでの民主主義の運動、人権や平和主義の継承でもあったのです。
 明治初期に民主憲法の骨格が鹿児島でもつくられていたのです。その理念は明治維新の五個条の御誓文の拡充ということであったのです。憲法教育は内容をきちんと押さえていくことは大切なことであすが、同時に自由民権運動明治維新にあった万機公論に決すという日本の統治文化として歴史的にみる視点も大切です。

1. 明治8年鹿児島での民主憲法素案の歴史的意義

 竹下彌平憲法草案は、国民のための民主憲法を歴史的に考えていくうえで、重要な資料です。かれの憲法草案の理念的特徴は、国会の早期創設によって憲法を制定して、立憲主義のもとに、為政者を豹変させないという趣旨でした。国会は、国の重要な行政的責任者の太政大臣、左右大臣を選び、国の歳入歳出を定める特権を有するという提言です。
 左右両院の特権は、いかなる行政官、司法官、武官といえども犯すことができないとして、国会の権限は、立国の本旨から最重要とするのです。明治維新の5箇条の御誓文は、広く会議を起こして万機公論に決すという理念であったことから、その理念を早急に拡充して国会を開設すべきという。まさに、立憲主義と、国権の最高機関という国会の役割の主張がみられます。
 竹下彌平の憲法草案で注目されることは、天皇の位置である。天皇は、左右両院の開閉の特権をもつとしているが、国を統治する権限としての国会の役割を特別に重視していることである。また、両院に武官や司法官がなれないようにしていることも重要です。
  明治10年代に自由民権運動との関連でつくられた植木枝盛や五日市の私偽憲法案は、国民の基本的権利を尊重するが、天皇の統治のもとに国会を位置づけていることと異なります。
  しかし、竹下彌平も天皇については、「恭しく聞く、我が帝国専世、聖哲ナル天皇之敕ニ曰、天、君主ヲ設クルハ国民ノ為ニスルノミ、君ノ為ニ人民ヲ置クニ非ズト」とのべるように、古事記にみられる仁徳天皇等の君主に対する尊敬と「嚶鳴館遺草」等の経世済民による愛民思想が見られます。竹下彌平の考える日本の伝統的な為政者は、国民のためにするのみで、君のために人民を置くものではないことが基本になっています。
  そして、中国の先哲として、「天下ハ天下ノ天下ニシテ、一人ノ天下ニ非ズト」としている。これは、中国の伝統的な兵法書六韜の考えです。さらに、フランス革命などによって形成された欧米の人権思想の大切さを次のように指摘しています。
 「我国ヲ愛スベシ、吾人、自由ノ理ハ我国ヨリモ愛スベシ」(パトリア、カーラ、カーリヲル、リベルタス」(ラテン語)。つまり、祖国も大切ですが、さらに重要なものは自由であるとしているのです。ここには、人類の普遍的な人間尊厳の統治の論理探求の姿がみられます。
  自由の理は、「英雄起ルニ非ルヨリハ、宿習ヲ勇截浄濯選シテ真理ヲ実行ニ著見スルヲ得ンヤト」と過去の世の習わしをいさぎよく断ち切り洗い清めて、真理を明らかにすることを強調しています。以上のように、明治8年に、自由の理による国民のための立憲主義の理念がすでに提起されていたことは特記すべきです。
  自由の理、国民のための憲法制定の運動は、明治8年6月の言論の自由を奪う新聞条例、西南戦争、明治14年政変、福島・秩父などの自由民権の激化事件などによって、日本の政治から消えていったのです。
  しかし、自由民権運動に参加していった多くの日本の国民のなかに、その精神は、明治維新の五個条の御聖誓の拡大として残っていったのです。
 明治23年の国会開設の第1回衆議院議員は、自由民権を訴えていた民党系が過半数以上を占めますが、国会は、国権の最高権限ではないことから、国政の絶対的権限をもっている専制政府のもとに、弾圧と懐柔されていくのですた。結果的に、かつての自由民権運動の思想は、骨抜きにされていったのです。
  自由民権運動は、安政条約による日本の植民地化に対する危機のなかで、国民的に自由と民主主義をつくりあげる必要があったのです。その危機意識から国民国家の形成というナショナリズムの問題も内包していったこともあります。それが、後に慈愛的国際主義、民族平等と共存共栄の意識になっていくか、民族排外主義による帝国主義になっていくかのという両面を含んでいたのでした。
 それは、その後の日本の歴史の事実が教えています。絶対主義的中央集権制と軍事独裁政権による戦争への道と、大正デモクラシーによる議会主義の尊重と国際協調主義の道があったのです。
 竹下彌平の憲法草案は、日本近代における天皇主権の立憲主義憲法の骨格がつくられていく過程の政治情勢からみなければならないのです。現実の明治憲法は、竹下彌平の憲法草案の自由の理と国民のための立憲主義とは全く異なるものでした。
  明治8年2月は愛国社が結成され、全国的に国会開設の声が高まったときです。また、明治8年1月の大坂会議で、自由民権への融和懐柔が行われました。下野していた板垣退助木戸孝允井上馨大久保利通伊藤博文との政治的合意がされました。愛国社総裁の板垣退助が多くの愛国社のメンバーから批判されるなかで、参議に復帰していく時期です。
 すでに、木戸孝允は、井上周蔵に依頼して、ドイツ・プロシア憲法をモデルに絶対主義的な憲法草案(大日本政規)を明治6年につくっています。
 大坂会議の合意によって、板垣退助木戸孝允の参議復帰が行われ、明治8年4月14日に立憲政体の詔書がでます。この詔書は、漸次立憲政体にしていくということで、元老院大審院、地方官会議を詔勅によって設置することであったのです。その後は、天皇主権による絶対主義的な天皇の協賛としての国会という明治憲法になっていくのが歴史の事実でした。
  当時の明治政府部内にあった民選議員設立の反対理由は、加藤弘之に典型にみられるように、時期尚早論で、天賦人権論は否定できなかったのです。加藤弘之の見方は、今日の我が国では制度憲法は難しいということです。我国では、英国のように賢智者が多いことと異なっているということです。天下のことを公議する知識が無知不学の民が多く、適切なる者を選ぶことができないという理由からです。
  未開の国は、自由の権利を得るとき、その正道を知らずして、自暴自棄に陥り、国家治安の障害になるという考えです。学校を興し人材を教育することをすすめて、人民の自主の心を旺盛にしてから民選議院を設立すべきという時期尚早論です。(加藤弘之民選議院ヲ設立スルノ疑問」明治啓蒙思想集・明治文学全集3巻、筑摩書房、154頁~157頁参照)。これらの論に対して、竹下は、憲法制定の緊急性をのべているのです。
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2.竹下彌平の憲法草案にみる明治維新の見方

  竹下彌平は、明治維新によって、旧習の下手な説や藩閥政治も一掃され、県治に大きく方向転換したことを次のようにのべています。「既ニシテ戊辰ノ転覆ニ会シ。逆乱旧習之陋説(ろうせつ)、義兵錦旌(きんしょう)之下ニ一掃シテ尽キ、海内(かいだい)一変、群藩幡然(はんぜん) 方嚮(ほうこう)ヲ改メ県治ニ皈(き)ス」。また、戊辰戦争後の新政府は、五箇条の御聖誓の万機公論に決するということであったのです。竹下彌平は、このことを次のようにのべています。
  「此之時ニ当リテ所謂萬機公論ニ決スル云々等之聖誓ハ、即、恐多クモ曩ニ所述、天地ニ亘(わたり)リ萬世ヲ究メ不可易(かゆるべかざる)真理ニ根拠シテ発スル所ノ者ニテ、而 (しかして)直ニ此真理ヲ実行ニ施スヲ見ル。我輩幼児之疑恠(ぎかい)、頓ニ氷釈(ひょうしゃく)スルヲ覚フ」。
  幕府を倒し、新しい国、理想を掲げた五箇条の御誓文の精神が全く形骸していることを問題にしているのです。幕府を倒したときの新しい世の中をつくっていくときの意気が消えたことを歎いているのです。現実の社会経済、政治をよくみて、真理を発展させて、欧米文明諸国と対等になることを期待していたのです。
  そして、この真理をのびやかに発達させて欧米文明諸国と「并馳共峠」(へいちきょうじ」と並び馳せ、共に目標に達するようになることを望むとしているのです。しかし、明治6年5月の井上大蔵の退職の前後より政治は失調したとみているのです。そのときから、すこぶる国民のため、自由の理の政治が消えていると考えています。
 竹下彌平は、明治6年の政変を井上大蔵大輔等退職前後から捉えています。「政機失調アルガ如く」と、新しい国づくりの危機をあげているのです。それは、政商と藩閥政治汚職問題からです。政治とカネという徳政の問題、国家財政問題のあり方も大きく問われていたのです。
  井上馨は、日本主力鉱山の尾去沢(おさりざわ)銅山汚職問題で江藤新平等に追及されて辞職しています。井上参議の辞職は、汚職問題が直接的理由です。近代化していくなかでの汚職の問題は、為政者の德の問題として大きくあったことを見落としてはなりません。この汚職問題を竹下彌平は、政機の失調のはじまりと見ていたのです。ここには、「新政厚徳」の精神が読み取れます。
  廃藩置県が行われ、徴兵制がしかれ、学制による義務教育の整備がだされていった時期は、旧幕府体制の制度をあらためることが急務であったのです。このためには、国家としての財政的な確立が不可欠です。財源ぬきの学制が発布されたのです。西郷をはじめ朝鮮問題で政府の中枢メンバーが下野していくのも明治6年10月です。
 明治6年5月から10月の政変は、内務省の設置にみられるように大久保利通岩倉具視等の独裁化です。その独裁は天皇を利用しての官吏の権限強化をはかっていくのです。大久保は、明治6年11月に内務省をつくります。内務省は、政権の中枢的機能になっていくのです。
  下野した板垣退助などは、民撰議院設立建白書を明治7年1月17日に政府に対して要望します。その内容は民選による議会開設です。「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」。
  今の政権は、天皇にも人民にもなく、ただ有司=官僚の独裁であるとしていたのです。
  そして、「臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン」という建白をしています。国を救う道を講究することは、広く天下の公議を張ることであるとしたのです。このことによって、官僚の独裁をやめさせることができるというのです。
  竹下彌平は、「維新之基礎タル聖誓之大旨」として、この時代的状況のなかで明治元年五箇条の御誓文を大切にすべきであるとしています。それは、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベス」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」ということです。
 広く会議を興して万機公論に決すべきということは、国民とともに議論して、国民のために政治を行って、国民みんなが位に関係なく一致して、国家を治めていくことをめざしていくことです。このためには、国会を開設して、憲法を制定し、その下で国政をしていくということです。さらに、旧来の悪い習慣を破り、天地の公道に基づき、知識を世界に求めることを指摘しているのです。
 竹下彌平の憲法草案は、この時代のもとで、民会の役割の重要性を次のようにのべています。
「既ニシテ、民会之議起ル。其得失、利害、尚早、既可(きか)詳(つまびら)カニ諸賢之説アリ。又贅(ぜい)スルヲ須(ま)タズ。吾謂(い)フ聖誓ヲ将ニ湮晦(いんかい)セントスルノ日ニ、維持挽回スルモノ民会ヲ舎(おい)テ又、他ニ求ムベカラズ。真理ヲ将ニ否塞(ひそく)セントスルノ際ニ,開闡暢進(かいせんちょうしん)スルモノ亦民会ヲ舎(おい)テ他ニ求ムベカラズ」。
 民会の議論は、利害がぶつかりあい、時期が成熟していないという意見がありますが、五箇条の御聖誓をうずもれさせないために、国政失調の挽回をするには、民会に求める他にないというのです。自主自立、自由の理の真理を切り開き、国を発展せるためには、早期に民会を開くことしかないとしています。
  明治8年6月の大阪での第1回地方官会議に地方民会の議論になりますが、鹿児島県令の大山は、時期が早いとして不要論を主張していました。「人情未タ安寧ナラス、生産未タ繁殖セス、風俗未タ醇厚ナラス、盗賊末タ衰止セス、而ルオ況ヤ各地ニ於テヲヤ。故ニ民会ヲ開キ広議興論ヲ采リ、以テ政に施サント欲ス、其意美ナラサルニ非ス、然レトモ方今民会ヲ開ニ於テ、其妨害極テ多シ」。「民会ヲ開クニハ、他日人民開化進歩ノ時ヲ待チ、朝廷地方ノ官員協心同力、今日着実ノ政事ニ勉力シ、徒ニ文具ヲ事とセサルベシ」。 (都丸泰助「現代地方自治の原型―明治地方自治制度の研究」大月書店、148頁~149頁参照)。
  政府内には、民会について時期が早いという考えであったのです。その見方が大山県令にも反映していたのです。竹下彌平の地元鹿児島県令ですら、地方民会も時期が早いという論であったのです。
 鹿児島県令は、民会を開くことの将来的な意味は認めていますが、今はその時期ではないというのです。国民の開明の進展までまつべきだとしているのです。この地方官会議では、民選ではなく、官選で決定されます。
  しかし、竹下彌平は、県治と民会の役割を今こそ重視しているのです。このことは、注目することです。戊辰戦争によって幕府を倒し、逆乱旧習の狭い考えを一変する方向性は、改められた県治によるところが大きいいというのです。緊急に民会を開くことを重視しているのが竹下彌平の見方です。

3.国会の役割と立憲主義

  竹下彌平は、最も切望するところとして、国会を開設するために、憲法骨格草案の八条を提起すます。この憲法草案は国会を開設するための基本的見方です。
 第一条は、為政者・君子の豹変を防止するために憲法の制定の重要性を指摘する。
「己巳平定以来、此ニ七年、蓋シ国歩又一歩ヲ進メ、君子豹変スベキハ此之時ヲ然リトス。故ニ吾帝国、宜シク益其廟謨(びようびぼ)ヲ宏遠(こうえん)ニ運ラシテ、我帝国ノ福祉ヲ暢達スベキ憲法典則ヲ鈐呈(けんてい)スベシ」。
 国の福祉を発展させるためには、憲法制定をすべきであるとするのです。ここでは、君主による統治の欽定憲法ではないのです。そして、第2条では、即、聖誓の拡充を実現するための憲法制定というのです。そして、国権の最高機関としての国会の役割を重視しているのです。
 ここでは、国民のための立憲主義による国のかたちを明らかにしたのです。その国会は、今の左院と右院を改めて、新たにつくれとしています。当面の緊急時なる議員構成については、第3条と4条に示しています。
  「第二条 右憲法ヲ定メルハ、即聖誓ヲ拡充スル所以ナレバ、立法権ヲ議院(現今之左右院ヲ改メ、新ニ立ル処ノ左右両院之議院ヲ云)ニ悉皆委任スベシ」。
 第三条では左院の憲法を制定していく議員構成である。左院の定員は百名で、三分の一は、現今各省の奏任官四等以下七等に至り、判任官八等より10等までのうち、主務に練達諳塾して、才識あるものから人選を提起しています。ここでは、上級の官吏を外しての各省ごとからの若干名の選出の提案です。
  三分の一は、著名に功労ある人望家、旧参議諸公のごとき在野の俊傑及び博識卓見なるものから選挙するとしています。その例として、福沢、福地、箕作、中村等と新聞家成島、栗本をあげています。
 っp最初は、太政官より命令して選び、議会がたった後は、別に選挙方法を立てて選ぶとしています。例としてあげられた知識人の4名は、竹下彌平と同じように国会即時開設論ではない。むしろ、当時の代表的在野の文化人として竹下彌平はあげているのです。
  三分の一は、府県知事、令参事に命じて、その管下、秀俊老練、民事を通暁し、地方の利弊を考えながら選べとしています。最初は太政官より地方官に示諭して、乱選なきを注意し、適宜に選ぶことも妨げないとしています。議会がたった後は別に詳細に選挙法を設けるとしています。
  板垣退助等は、民選議院の設立の建白書を提出しましたが、左院は、広く会議を起すという意味で重要な役割をもっていたのです。この左院の構成について、竹下彌平は、広く国民の代表者による会議として、上級の官吏を除く、直接に一般の民に近い行政の仕事をしている人から憲法制定のための国会議員を選ぶという方法をとっています。
 これは、上層部のリーダーだけによって憲法制定の意志にならないように、民の身近な官吏からの代表を大切したのです。また、在野の博識卓見ある文化人から議員を選ぶということも国民教育が普及していない明治8年の情勢からの緊急提案です。
  さらに、左院の議員構成に地方の代表を位置づけていることは、国家レベルの憲法を中央集権的に決めていかないという見識です。
  第四条は、右院の議員の規定で、定員は左院と同じ百名です。その構成は、行政官勅任官以上ということで、高級官吏からの代表と皇族華族中より選挙するとしています。ここで、注目することは、司法官と武官は議員を禁ずるとしています。左院の選出方法を含めて、司法官と武官は、両院の議員になることができないしくみの構想になっているのです。
 ところで両院の権限として、三つをあげています。まず、第1は、行政の最高の権限をもっている太政大臣と左右両大臣は国会で選ぶことをのべています。
「第五条 太政大臣及左右大臣は左右両院の選挙をもって定める」。当時の藩閥政治では、広く会議を起こして行政の最高責任者を選ぶしくみがなかったのです。形式上は、天皇の勅命によって太政大臣、左右大臣が決められていたのです。実質的に政府の権限は、それを支える参議や高級官僚が握ったのです。行政の最高権限者を国会によって、選ぶという仕組みにかえていこうとするが竹下憲法草案のねらいがあるのです。
  天皇の特権は左右両院の開閉にあるということで、行政の最高の責任権限者ではないことは重要な指摘です。明治維新によって、新政府の統合的なシンボルになっている天皇を位置づけているのです。広く会議を興し万機公論に決すという聖誓の理念の重要な場の設定としての天皇です。「第六条 左右院を開閉するは天皇の特権にあり」。
 国会の第二の役割は、国の統治で根幹になる歳入・歳出を定める特権です。「第七条 帝国の歳入出を定める特権は左右両院にあり」。
 さらに、立憲主義ということから憲法の制定や改正は、極めて重要なことであるので、この特権は、いかなる行政官、司法官、武官は犯してはならないとしています。それは、立国の本旨であると第八条でのべています。
 「凡帝国の憲法典則ヲ鈐定スル、若シクハ更正増減スルハ一切左右両院之特権ニ在ルヲ以テ、仮令行政官、司法官及武官、如何様之威権、如何様之時宜アルトモ、決シテ立法上ノ権ヲ毫モ干犯スルヲ得ザラシムハ、立国之本旨最重スル所トス」。
  これは、有司専制というように官僚的独裁によって憲法を犯してはならないことです。また、武力によって、国の基本施策や憲法を動かしてはならないという立国の本旨からです。
 司法と国会を分離する意味から司法官の国会議員を禁止しています。以上のように、竹下彌平は、国権の最高の権限を国会におくことを憲法草案にうたっているのです。竹下彌平は、民間人としての憲法草案を提唱したのですが、政府の急務としています。「左右議員ヲ速ニ立セラレント、今日、政府ノ急務」として、現在の国の情勢からみて、議会を開く緊急性を強調しているのです。

 4.日本の未来の危機意識と自主自立精神の重要性

 竹下彌平の我が国に対する危機意識は、インドのように植民地になってしまうという懸念です。つまり、早く挽回しなければ日本の未来は大変なことになるということです。それは、欧米の列強諸国の外圧による植民地の危惧です。
  「我ガ帝国之民、淳朴(じゅんぼく)忠愛、・・・奴隷之習気脳髄ニ印シテ、精神恍惚、亦覚醒ナキガ如キニ至ル。彼之印度ノ奴ト偽リシモ亦、職トシテ、是之由ル。今ニシテ早ク是ヲ挽回セザルバ、印度之覆轍ヲ踏ザルモノ幾希ナリ」。
 国会を開設し、憲法を設定することは、自由を大切にして、学校を盛んにして、兵力を増強し、近代技術、近代施設を整備していくことになるというのです。
  「外国人ト婚娶(こんじゅ)ヲ許スガ如キ、出版ヲ自由ニスルガ如キ、学校ヲ盛ニスルガ如キ、兵力ヲ張ルガ如キ、拷掠(ごうりゃく)ノ苛酷ヲ除キ、審判之傍聴ヲ縦(ほしいまま)ニスルガ如キ汽車山川を縮メ、電線宇宙ヲ縛(ばく)スルガ如キ、皆、開花之衆肢體ニ非ザルハナシ。然レドモ、徒(いたずら)ニ其肢體ヲ獲テ、而(しかして)未ダ其精神ヲ具(ぐ)セズンバ、偶人塑像ニ均シキノミ」。
  外国人と結婚を許す自由のごとき、出版の自由、学校を盛んにすること、汽車を走らせ、電線をひくことであるとしています。そのためには、自主自立の理の精神を備えていくことであるとしています。その結果によって、真に開化することができるとしています。近代化しても、自主自立の精神をもたねば、粘土でつくった人形像のようなものであると訴えています。
  国民的に自主自立の精神を旺盛にしていくには、国会を開き、憲法を制定して、出版の自由、学校を盛んにして、大いに議論していくことであるというのです。このことによって、奴隷の気質、精神恍惚を一掃して、立憲主義の国家をつくっていくことになると竹下は考えたのです。
  自由の理ということで、竹下彌平は、最初に、外国人と結婚を許すということをあげています。この時期は、国際結婚は極めて例外的でしたが、明治初期に鹿児島医学校でイギリスの地域医療による多くの医師を養成したウイリアム・ウイリスは、地域の日本人女性と結婚し、子どもをもうけ、日本での永住を決意していました。西南戦争によって、それは、挫折しています。
 欧米の民の気質についても「忠厚温良」が不足しているという興味ある問題提起をしています。「欧米之民、沈毅果断、忠厚温良不足。其之弊ヤ、君主ヲ威逼(いひつ)シ、政府ヲ倒制スルモノ往々之有リ」ということで国の恥さらしになり、為政者をおどしおびやかして、国を倒すこともたびたびありますと欧米の問題点も指摘し、建設的にならないことも欧米ではあるとしています。
  出版の自由については、海老原穆の活動は、注目するところです。明治4年西郷隆盛と共に上京し、明治6年に、明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞し、明治8年2月に、集思社を創設し、「評論新聞」を創刊したのです。その新聞では、太政官政府に対する痛烈な批判を展開しました。海老原穆は、新聞条例によって、讒謗律に違反するとして逮捕投獄されます。
  集思社は、新聞条例によって発刊停止になった後も、中外評論を発行します。また、発禁になり、さらに、文明雑誌を発行して粘り強く言論活動を展開していくのです。集思社と同時期に栗原亮一社長の自主社系の草莽雑誌も反政府、西郷支持の論陣を張ったのです。評論新聞と同様に発行禁止の弾圧を受けますが、草莽事情として発行を続けます。両社とも西南戦争のさなかで消えていったのです。
  評論新聞には、西南戦争に熊本隊として、ルソーを教本にしていた植木学校の教師であった宮崎八郎も記者として勤務していたのです。このように、明治の初期には、在野の人々が自由の理を求めての出版活動がはじまっていたのです。
 
まとめ.自由の国づくり
 
 竹下彌平の憲法草案は、左右両院を開いて、自主自立の精神によって自由の理の国づくりをしていこうとするものです。国会の開設、憲法の制定によって、日本の毅然とした自立の志気がつくられていくとするのです。幕府を倒し、新しい世の中を宣言した五箇条の御誓文をふさいでしまった現政府に、国会の開設によっての自主自立の道を拓いていくことを強く訴えたのです。
 竹下彌平の憲法草案のねらいは、毅然として自主自立、自由の理の志気をもって、 両院を開くためです。その両院の初期目的が、憲法制定です。左院は、三つの層から代表を選挙していくということも竹下彌平の独創的な見方です。官僚組織の中下級層からの選出、知識あるもの、功労人望ある著名人からの選出、地方からの選出となっています。これは、憲法制定議会の構成に社会的な三つの機能層から選出しようとするものです。
  竹下彌平の描く、自主自立と自由の理の拡充暢達とは、具体的にどのようなことを考えていたのでしょうか。印度の覆轍を踏まずということで、日本の植民地に対して、強い危惧の念をもっていたことは確かです。自由の理を大切にして、学校を盛んにすることを強く抱いていたことも確かです。また、自由の制度をつくっても、また、汽車や電線を整備しても、自主自立、自由の理の精神が育っていかねば全く意味をもたないことを強調していたのです。
  出原政雄は、「鹿児島県における自由民権思想」についてまとめていますが、鹿児島新聞(現在の南日本新聞の前進)の初代主筆を努めた元吉秀三郎は、鹿児島での民権運動の重要な一翼を担っていたとしています。また、西南戦争によって、竹下彌平などの流れは中断しましたが、その後、明治13年3月に鹿児島市内で自由民権運動の「同志社」がつくられ、「国会開設の建言」を元老院に提出しています。
  さらに、同じ年の12月に3500名が、国会開設建言書を元老院に提出しているのです。明治14年11月に旧私学校関係者によって三州社が完全なる立憲政体を目的として結成されます。このような状況のなかで、鹿児島県内の多くの民権論を唱える人々が結集され、それらに支えられて、民権運動擁護のための言論として鹿児島新聞が明治15年10月に創設されたと出原政雄は分析しています。(出原政雄「鹿児島県における自由民権思想「鹿児島新聞」と元吉秀三郎」志學館法学第4号75頁~100頁参照)。
 鹿児島県での自由民権の思想の発展は、西南戦争以降において、鹿児島新聞を支えた多くの民権論者によって推進されていきます。明治23年の第1回の国会選挙では、全員が民党系で占められたのです。
 その後の弾圧と懐柔で、吏党系が多数を占めるようになっていきます。(芳 即正・松永明敏「権力に抗った薩摩人」南方社、参照)  明治8年霧島山系の裾の襲山郷在住の竹下彌平によって提唱された憲法草案は、明治維新の地域における民衆思想として特記されるものです。(ふりかなは、鹿児島社会運動史が史料の出典をだす際にふりがなをつけたものをそのまま引用しました。久米雅章「明治初期の民権運動議会士族」川嵜兼孝・久米雅章・松永明敏『鹿児島近代社会運動史』南方新社54頁~63頁参照、家長三郎・松永昌三・江村栄一編「明治前期の憲法構想 福村出版、25頁~26頁、171頁~173頁参照 )
 

主権者教育と憲法学習

 主権者教育と憲法の学習
          神田 嘉延(鹿児島大学名誉教授)
  
文部科学省の考える主権者教育
       
 文部科学省は,「主権者教育の推進に関する検討チーム」の中間報告を 平成28年3月31日に発表した。これは、公職選挙法改正による満18歳以上の選挙権によって,主権者教育の推進の施策のための検討チームの報告です。

 検討チームは,主権者教育の目的を、単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせることとしました。ここでは、社会のなかで他者と協働しながら、社会や地域で生き抜く力を強調しています。
 
現代社会と主権者教育

 主権者教育の狙いは、18才選挙権導入ということからの政治のしくみの教育ばかりではないことを示してしいます。現代は、政治的な無関心層の増大、いわゆるポピュリズム、先進国に共通にみられる排外主義と反知性主義による非合理的な感覚主義の横行が起きている。群衆化とエリートによる官僚化のもとで、マスコミやソーシャルネットワーク等で大衆操作されやすい状況もつくりだされています。

 激しい弱肉強食競争が進むなかで,能力主義的な見方,自己責任論が横行し,新自由主義による勝ち組に対する高額な報酬を当然のこととする風潮があります。それらは、人間の価値を金銭で換算する拝金主義を絶対化するものです。一方で、負け組ということでの無権利な層が広範に作り出されています。
 
 その不満は社会的権利を歴史的にかちとってきた様々なことに攻撃が向けられます。社会的人権、労働者の権利が奪い取られ,弱肉強食の世界に働く人々が分断され、人々の孤立化、地域のコミュニティの衰退、人間的な絆の文化が後退しているのです。そして、消費過剰社会のなかで人々の利己的な欲望の増大もみられるのです。

 官僚化や学歴競争のなかで公務員や教員に対する不満が強くでているのも特徴です。公務員攻撃は、競争社会のなかで,不安定な層に突き落とされていった層から受けやすい基盤もあります。それを感覚的に政治煽動する新自由主義等の社会的層も生まれています。日本の歴史を学びながらの民主主義のあり方を考える大切さを示しているのです。

 協働での営み,相互支援による連帯ということは現代で生きていくうえで極めて大切な課題です。貧困化が進むなかで社会のなかで自らの生活基盤で体験し、知性的に協働していく主権在民の民主主義形成が欠かせない時代です。主権者教育は、これらの意味からも重要なのです。
 
主権在民憲法精神の重要性

 主権者教育は18才選挙権導入によってはじまったことは否定できないため、投票行動を中心とした政治教育が中心になりがちです。現代の政治的無関心層の増大ということから投票行動という政治的参加ということに集中する側面が強いのです。そのことから、異なる政治意見を議論し、対話し、それぞぞれで考えさせる教育が行われます。ここには、自らの暮らしや将来への夢や希望、地域の未来への展望、日本や人類の未来への課題として、主権者教育を位置づけていくことが極めて弱いのです。
 
 主権者教育は、日本国の憲法精神である主権在民ということから問題を設定し,暮らしのなかから政治のあり方を深めていくことが根本的です。それは、政治的な教育も国内における差別や格差、発展途上国との関係、グローバル化していくなかでの様々な経済的、文化的な矛盾を射程にする必要があります。

 日本国憲法の国民は、民族排外主義的な国民国家ではなく、人類普遍の原理である主権在民の国民の解釈が特別に必要です。国民を日本国籍を有することと解釈して、さまざまな人権保障、とくに社会的な権利の問題を日本に生活する外国人を除外して考えていくことは大いに問題です。
 
 たとえば、NHKですらこの解釈で放映し、外国人労働者の子弟について、憲法上は、教育の権利は保障されていないということで報道しています。これは全くの間違いです。1978年に最高裁判決のマクリーン事件アメリカ人英語教師の日本文化研究での在留延期申請を市民的政治活動理由に不許可した事件)で,日本国憲法の国民からはじまる人権保障は,性質説から外国人も含めれるという解釈をしているのです。
 
人類普遍の原理から学ぶ必要性

 日本国の憲法精神は、諸国民との協和、自由、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去していく人類普遍原理を共有しているのです。また,国際人権規約条約に日本国は加盟しているのです。日本国憲法の精神と、国際人権規約条約を歴史的なことから人類普遍の成果から学ぶことが極めて大切です。戦前の国民イコール臣民ということで,外国人は含まれないということではないのです。戦前と戦後の憲法の国民概念はまったくことなります。

 あるべき主権者教育は、憲法国際人権規約条約による市民像と社会のあり方を基本にすべきです。この基本的な原理を学ぶことをせずに、異なる政治意見の議論参加の教育では主権在民の育成の教育にはならないのです。教師としての役割は基本的な人類普遍的原理の人権保障,主権在民,平和主義をきちんと踏まえて、暮らしから考えさせる対話の場を教育的につくっていくことです。
 
主権者教育と地域の暮らし

 主権者教育には,様々な体験や観察・フィールドを取り入れていくことが求められています。子ども・青年自身の体験、地域での観察体験やフィールドフールドも大きな効果をもつ教育実践です。地域での歴史や暮らしから発見という主権者教育もみれるのです。

 政治をより身近なことから、考えていくうえで、国政ばかりではなく,地方自治ということから,日常の暮らしから投票行動をみることも大切です。解散解職の請求権,条例の直接請求権など,住民の参加民主主義を行使していくことを考えることも必要です。住民が直接に選挙するということで,外国人の永住者で地方選挙権を付与することは,憲法上禁止されるものではないのです。外国人の地方参政権-平成7年2月28日最高裁判決です。

 憲法地方自治に関する規定は、住民の日常生活に密接に関連します。公共的事務は、在留する外国人のうちでも永住者等であって,その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙権を付与する措置を講ずることが大切です。
 
 そのことは、憲法上禁止されているものではないという判例です。国際人権規定の条約からも外国人の市民権を考えていくことも必要です。社会的権利ということが重要になっているのです。

 国際化するなかで、地域の暮らしに多文化共生社会をつくっていくことは不可欠です。外国人の権利の問題は、多文化共生社会ということから、日本国憲法の国民概念もあらためて深めていく課題があるのです。
 
 それらは、主権者教育として,地域での協働,相互支援の社会を形成していくうえで,欠かすことのできないことです。この意味で、日本国憲法の精神ということからシチズンシップ教育と主権者教育を結びつけてることは大切です。
 
シチズンシップ教育と主権者教育

 シチズンシップ教育では、形式主義的な多数獲得による独裁主義、国家主義や総動員主義の克服が不可欠です。民主主義の基本である少数意見の尊重、少数の民族文化の尊重という多文化共生の社会には、求められているのです。

 第2次世界大戦のファッシズム経験を人類は経験したことを決して忘れてはならないのです。ナチスヒトラーにしても,日本の軍国主義による国家総動員にしても議会主義の多数決原理によって軍事独裁と民族排外主義を行ったのです。
 
 歴史の事実をきちんと教えていくことは,思想・信条の異なる立場を乗り越える意味でも極めて大切です。多数決原理に,人権,少数の尊重,多文化共生の平和主義をもっていなければ独裁的な民族排外主義の国家になっていくのです。
 
文部科学省の考える主権者教育の方法

 文部科学省の検討チームの主権者教育は,推進方法を次のようにのべています。「主権者教育を進めるに当たっては、子供たちの発達段階に応じて、それぞれが構成員となる社会の範囲や関わり方も変容していくことから、学校、家庭、地域が互いに連携・協働し、社会全体で多様な取組を行うことが必要性です。その取組を行うに当たっては、学校等のみならず、教育委員会等の地方公共団体の関係部署が、積極的な役割を果たすことを基本的な考え方とした」。

 教育委員会地方公共団体の連携は,実際の地域の暮らしからの学びということで欠かせないことです。子どもの発達段階に応じての地域の暮らしからの学びが求められているのである。それは,単に国政における投票行動を高めるための「選挙のための学習」ではないことはいうまでもないのです。

  主権者教育のチームのまとめでは,実際の生活との関係の重要性を次のようにのべています。「社会全体で主権者教育の推進を図るためには、学校だけではなく、基本的な生活習慣・生活能力を身に付け、実生活・実社会について体験的・探究的に学習できる場として、家庭や地域も主権者教育の担い手としての役割を果たす必要がある」。ここで重要なことは,実際に問題や困難をかかかえていることに創造的に探究していくことを学ぶことです。
 
アクティブ・ラーニングとは
 
  アクティブ・ラーニングは,方法的な問題ではなく,実際的な問題や課題に対する探究的なことです。そこには,科学的な精神がそれぞれの矛盾や課題に求められているのである.このために,「「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」のアクティブ・ラーニングの三つの視点」があるのです。
 
 主権者教育のチームのまとめは,社会で生き抜く力と地域課題解決の学習をのべています。「社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を養う」という主権者教育の目的にも資するものであり、その一層の推進を図ることが期待されるとしています。
 加えて、主権者教育は、主権者として求められる能力を育むだけではなく、地域への愛着や誇りを持ち、ふるさとに根付く子供たちを育てるなど、地域の振興・創生の観点からも重要である」。 

 アクティブラーニングを推進していくうえでも、憲法国際人権規約条約を踏まえながら、常に問題を人類普遍的原理である民主主義と人権を基本にすえて、国家主義や動員主義、民族排外主義、地域偏狭主義にならないように、多文化共生という視点から地域の愛着や誇り、ふるさとの創造を考えていく教育が必要です。

 グローバル化した国際競争主義のなかで,多くの貧困層が生まれている。民族排外主義の生まれやすい社会的な感覚状況も生まれている。国際化というなかでの多文化共生,すべての人々の人権尊重による地域の愛着,民族の誇りが必要なのです。それは,多民族,他の地域の人々を尊重,平和共存,平等互恵の相互依存精神よって,まさに,国際連帯のなかで真の民族の誇りが生まれてくるものです。

 検討チームが把握した平成28年以降の主な取り組みは次のとおりです。模擬選挙を行った上で、他の世代(お年寄り、子育て世代等)の立場にたった論議をグループでするなど多面的・多角的な考察を進める取組を行った学校。(東京都)大学と連携して主権者教育を実施。行政学を専攻する大学教授による講演と日本への留学生を含めたパネルディスカッションを実施。(札幌市)弁護士会所属の3人が市長候補となって政見演説を行う模擬選挙を実施。投票後、弁護士及び選挙管理委員会職員が講評。(千葉市
 
シチズンシップ教育の大学での実践

 沖縄で科学者会議の総合学術研究集会が12月7日から9日に開かれました。そこで,教育の分科会に参加したが,主権者教育に対する批判として,シチズンシップ教育の分科会が設定されました。

  琉球大学の名嶋義直氏は,「主権者教育は国家にとっての主権者を育てる教育で,よき国民を育てる教育であるともいえる。全体主義国家や強権独裁国家であっても主権者教育はなりたつ.しかし,非民主的な国家においては,シチズンシップ教育は成立しない。日本においては,主権者教育は日本国籍をもつ人で,国籍のないものは排除されている」。

 「ドイツでは民主的シチズンシップ教育が基本で,コミュニティーの中で共に生きる人ということで教育を実施している.ドイツの教育の核は政治教育である.市民性を育てる教育として,異なる意見の人との対話を重視している.ドイツをひつつのモデルとして,シチズンシップ教育から学ぶことは大きい」と提起しています。

 アクティブラーニングプログラムとシチズン教育として中央大学のマイクニックス氏等が報告しました。「日本の多くの学生は,多くの社会問題をかかえている現実に沈黙し,無意識状況になっている。この状況に学生に知識を強化するだけではなく,意識化が非常に困難ななかで,どのように,民主的な市民性を育てていくのか。オーストラリアのマイノリティの教育実践から学び,比較法的アプローチから問題をもたせていくことが必要である。日本では考える力の教育が失われている。ポヒュリズの精神的基盤になっている。自立した個人の強調が自己責任論によこすべりしている」。

 市民と学ぶフィールドワークとして,学生の4週間のドイツ語海外研修から学ぶとして,関西大学の中川慎二氏が報告しました。「欧州委員会は,アクティブラーニングは,代表制民主主義,コミュニティでの生活,抗議と社会変革,民主的価値の4つの指標から構成される.ドイツにおける政治教育は,ナチスドイツの負の遺産から出発した.他に外国語教育や留学への日本語教育などがシチズンシップ教育との関連で報告された」。

 全般的な感想として,シチズンシップ教育が政治教育に偏っていて,現実の社会的な矛盾,経済的な矛盾などからの経済的民主主義についての差別や貧困の問題からの人権の問題が深められなかったのです。
 現実にヨーロッパ各国で起きてる民族排外主義の動きや発展途上国からの差別の問題について真正面から向き合っていくことが必要です。欧米のシチズンシップ教育をことさらに評価して,日本がその水準に達していないという問題の提起のように思われました。

 日本においても様々な教師達の人権教育,平和教育のとりくみがあります。それらが,地域を巻き込みながら教育実践してきたとりくみをどう評価し,それらが主権在民としての主権者教育にどう育てていくことにつなげていくのか。そして,それを阻害している要因が何なのか。また,大学生達が政治的無関心になっているのかなぜなのかということをもっと,学生達の現状から分析していくことが必要ではないかと思われました。