近代社会構造の捉え方
この5つの近代化の要素は、高度経済成長が頂点に達したころから、自然生態系破壊、化学薬品の毒性問題、空気・大地・河川・海岸の汚染が問題にされ、成長の限界と弊害が誰の目にもわかるようになったとするのです。ローマ・クラブは成長の限界が指摘されたのです。人類がこれまでの行動をとりつづけると100年以内に世界は破局に陥ると考えているのです。
産業主義と資本主義の経済軸と近代国家と個人主義の社会軸という二つを座標軸において、共通要素の科学主義によって、その座標軸をみていくということです。マルクスの資本論のように資本主義の矛盾を土台に、政治、国家、文化を上部構造として、作用と反作用として社会構造をみていくことと異なります。
また、デュケムのように資本主義の近代化を社会分業として、孤立化、無政府化して、精神的病になって自殺の原因になる個人のアノミー化をとらえていく視点と異なっています。共通のエートスの科学主義によっての矛盾を座標軸にして、現実の社会問題を整理していくという方法です。
科学主義の人々の暮らしや地域社会の自然環境との関係が大切になるのです。一般的な教養ではなく暮らしや豊かな文化をもって自然環境をもっての持続可能性の教養が求められているのです。
資本主義の矛盾と科学主義
90年代に入ると奪われし未来として、ダイオキシンなど環境ホルモンによって、人体に生殖異常をもたらすという深刻な危機が生まれたというのです。人間がつくりだしたものが人間を滅ぼすという構図が生まれ、これに対しての新しい社会運動が起きてくると篠原氏はのべるのです。第1の近代化が追い求めてきた目標の反省が必要な時代、民主主義の資本が必要な時代になっているとするのです。
篠原にとっての見方で、資本主義の矛盾に対する運動は、19世紀から労働運動が生まれたが、現代は、この運動は衰退期になった。社会主義体制を打倒する資本主義は生命力、生産力があるが内部矛盾も大きくなり、反資本主義の運動として、南北問題にみられる著し格差による激しい対立になったとします。
消費者問題は、食品公害、遺伝子組み換え製品問題、破棄物処理の問題が深刻になっているのです。以上のように篠原氏は科学主義による生産力を発展させた産業主義と資本主義の現代的な矛盾をのべます。
資本主義矛盾の克服運動
資本主義の矛盾に対する運動は、資本の生産性、利潤追求のエートスから社会的無政府性が生まれることに対する人間尊厳の民主主義的ルールを求めたことによって起きたのです。
二〇世紀のソ連を中心とする社会主義を標榜する国家は、官僚的、価値画一的の独裁主義になり、多様な価値や文化や個性を開花していく自由主義が形骸化していったことによって、崩壊したのです。資本主義の力強さではないのです。資本主義の矛盾の克服は人々の運動によってであり、自然成長性ではないのです。
人々の様々な矛盾克服の運動によってであるのです。資本主義社会での競争主義によって、個々が分断されて孤立化していく側面が自然成長的にはあるのです。自己に閉じこもっている限り競争主義が襲いかかり、自己利益が拡大していくのです。他者との関係が矛盾克服にとって大切ですが、労働が一層に分業化して個別化しているのも現実です。
ロシアのようにツアーリズムのなかで、近代的自由や民主主義の発展が不十分で、国内の市場経済も未熟のなかで、国際的な資本主義の矛盾のなかで、社会主義が唱えられたのです。ここでは、自由と民主主義の思想的未熟が根強くあったのです。社会主義の崩壊ということよりも自由と民主主義の未成熟のなかでの独裁的体制をもった社会主義の標榜があったのです。
ソ連の崩壊は、人類史的に、社会主義の理念の実現に、自由と民主主義が不可欠であることを示したのです。マルクス的にみるならば、高度に発達した資本主義の矛盾のなかで、それを克服していくという道筋に社会主義が実現していくということです。
資本主義の形成していく近代社会の出現は、封建的な身分制を打破して、封建的特権をもった商人ではなく、自由な営業、生産者が活躍し、労働者も封建的な大地の縛りから自由に労働力市場に放り出されたのです。
しかし、働く喜び、生存の自由、人間らしく生きる自由は疎外されていくことが、その後の資本主義の発展によってもたたらされていくのです。低賃金、長時間労働、不安定の労働力市場、労働災害、公害、自然破壊が襲いかかってくるのです。この矛盾の克服に人々が立ち上がっていくのです。
社会的に自由と民主主義の発展は、その矛盾の克服の運動のなかで実っていくのです。とくに、社会権の発展によっての自由と民主主義の課題は、現代のように弱肉強食のグローバル化した資本主義の矛盾のなかで、人間尊厳の民主的ルールをつくっていくことで大切なことです。
独占的権力と分権・自治と参加民主主義
篠原一氏は、近代国家と個人主義の社会軸では、監視権力から生かす権力として一層に独占力は強固になっくとしています。強い行政国家が国民を従属させているとみます。これに対して、福祉国家、社会民主主義の政治運動があると考えるのです。強大化した政治権力を分権化し、市民自治の運動があり、分権と自治の実現は、参加民主主義、直接民主主義の運動であるとするのです。
第二の近代化は、近代社会が生み出したリスクに対して、自省的に洞察していくことであり、食糧や空気、水という人間にとって基礎的な必需品さえ汚染されるという不安の連帯であるとしているのです。
篠原一氏は、自省的近代化という新しい時代の創設がはじまっていると考えるのです。従前の巨大な組織や国家に依存するのではなく、自発的な小さな結社が創造性をもっていくという。社会的機能は国家から結社に移され、個人の選択と小さな集団主義が重要視されるというのです。
目的手段的な結社以上に人々は自発的に参加して自己実現していくことに大きな意味をもつようになっていくとするのです。貧しい人々のなかに自発的結社をつくり、市民社会の自由と民主主義を尊重するなかで、相互連携の協同行動によって社会主義をうち立てていくことが求められ時代であると考えるのです。
自由な労働と雇用問題
人間は好きな仕事を自由に選ぶことによって、人間は意欲的に生きるというのです。これらが第二の近代化なのです。これは国家に依存したり、巨大な組織に従属しての個々人ではないのです。従前の組織もこのことによって、より活性化していくというのです。
自発的結社は、すべての既存組織を破壊するのではなく、停滞している組織に対する補完物であるというのが、従来の結社論とは異なると篠原はのべているのです。そして、既成組織のあり方を第二次的なものにして、自発的組織を主たるものに変えていくとするのです。
完全雇用の破綻は、第二の近代化の特質と篠原はのべるのです。雇用問題が大きな政治問題になり、これまでのモノの生産とは異なる福祉、環境、教育、保育、地域生活、文化などの分野における雇用が重視され、NPOのような非営利的企業が地域ごとに設立され、新しい雇用がつくりだされ、全産業のなかでNPOの占比率が増大することが求められるようになっているとするのです。
オランダ等のヨーロッパやベック等の社会学者の考えに、篠原は、積極的に評価して、問題提起をしています。しかし、大切なことは、弱肉強食のグローバル競争社会のなかで格差と差別構造が広がっていることです。完全雇用は、不可能な時代ということは、今の弱肉強食の競争社会を前提にする限り、その通りですが、完全雇用を社会的につくりあげていくことが大切なのです。
まさに、人間としての生きがいを持てるのは、働く権利の保障なのです。働くことによって、人間らしく暮らせる生活の糧を得ることです。その条件のルールとその実効が大切です。これこそが自由と民主主義を保障していく近代国家の役割です。
雇用のための経営形態は、民間企業に雇われるだけではなく、自営分野の農業労働、自営専門職労働、特技をもった職人・芸術労働、非営利団体労働、協同組合労働、公務労働と様々な形態があります。いうまでもなく、大きな部分を占める営利事業が働く場であることはいうまでもないことです。
現代では、公務労働の場でさえ、民間営利企業から学ぶ経済性、効率性がいわれる時代です。そのことがいいのかどうかも含めて、それぞれの仕事のあり方が鋭く問われている時代です。財政のあり方と社会的に求められている公務労働や非営利事業など国家・社会全体として、制度設計をあらためてしていく必要があるのではないか。
第二の近代化の社会運動
第二の近代化の社会運動は自発的結社をつくり、政治に対してストレートに抵抗することに眼目があるののではない。運動が発するメッセージであるとするのです。運動は個人化し自らのアイデンティティを追求する傾向が強く、自分自身の生きがいと自分自身を取り戻す能力をもとめるようになったとするのです。
運動のネットワークは分散化しアトム化し、セクトや感情グループに分裂する可能性をもつ。集合行為を政党や政策などの政治的媒介によって代表することは難しく、日常生活に根ざしたものであるから前政治的で、政治勢力が行為を代表できないから超政治的と篠原はメッケルの論をのべながら自己実現の社会運動を第二の近代化の脈絡によって説明するのです。
市民的公共性と日本社会
日本では、1970年代に市民運動、住民運動が発展していくか、市民的公共性という概念は使われていなかった。むしろ、国家的公共性に対する対決の運動であった。この運動のなかからボランティア、介護、まちづくりなどの広範な社会参加が90年代生まれたことから市民的公共性が日本社会ではとかれるようになったと篠原はみるのです。
90年代からはじまったボランティア運動やまちづくりは、1970年代の市民運動や住民運動のなかからのポジティブな参加からのつらなっているというのです。日本では市民的公共性が説かれるのがまだ弱い社会状況があるとするのです。
社会の原子化と解体、それに訴えるポピリズムの台頭が、市民的公共性をつくりだす基盤を喪失させているとするのです。社会の原子化は、デュケムが問題にしてきた資本主義の分業化と競争によって、人々が孤立していくことが根本です。弱肉強食の競争と労働の専門性による分業化は、一層にひとびとを孤立化していく社会へとおいやっているのです。
現代は、SNSや様々なマスコミ等によって、情報があふれている状況で、より情緒情的、感情的に人々の判断がなりやすい状況になっているのではないか。多様な価値観や文化、意識が流動的に変化していく傾向が強くなっているのです。また、それぞれが個々の事項に対して学習をして、真理を探究し、、自己の理念を深めていくことのが弱くなっているのです。
第二の近代化におけるポピリズム右翼
21世紀に入り、福祉国家や政党政治に対する反発、移民等のグローバルからの多文化主義に対する反発から、民族排外主義のナショナリズムが先進国で起きているのです。篠原は、この移民排斥という新しいポピリズムは、これまでの歴史上のポピリズムと違って反動性が強いとするのです。既成体制に対する反抗が民主義の挑戦となっているのです。
強いリーダーシップと断定的言語は、原子化されて発言力をもたない人々を共鳴させ、人気を獲得することに集中していく。政治の世界は言語の貧困におちいり、また、相互に討論するのではなく、著名な講演者からの上からのメーセージ、日本人としての誇り、謝罪外交の批判にうなずき、それで癒やされるサイレント保守市民が生まれていると篠原は考えるのです。
討議デモクラシーと他者との協同
第二の近代化は、ポピリズム右翼・右翼的権威主義と他者の協同する自己実現する自律的市民運動との対抗関係にあると篠原はみるのです。自律した市民は、政治参加だけではなく、社会参加もあるのです。むしろ、福祉、介護、まちづくり、相互扶助に参加する人々が増えているのです。
このなかで、討議を活発にしていくことが、討議デモクラシーの発展になっていくのです。代議員制のデモクラシーに加えて、新たなデモクラシーの時代が起きようとしていると篠原は問題提起するのです。討議デモクラシーは、意見の異なることも公平に正確な情報を提供することと、十分に討議できるような工夫が求められるのです。
為政者が十分な情報提供なしに行われる住民投票は操作的になり、参加の過程に誰でも身近な問題として討議できるように情報を提供することが求められていると篠原はのべるのです。これらのこともどのように工夫すれば討議が活発に行われていくのかという工夫が大切なのです。討議は、参加する市民にとっての社会学習の場でもあるのです。当然ながら討議のなかで参加者が意見を変えていくことはあるのです。