エイミー・ガットマンは1987年に民主教育論の著書を刊行しています。かれは、1976年にハーバート大学で政治学の博士号を取得し、アメリカで活躍した政治学者です。神山正弘訳「民主教育論」民主主義社会における教育と政治ー同時代社より。
ガットマンの教育理念と審議民主主義の能力形成
ガットマンは、アメリカ政治において、教育の内容、教育の権力の配分を考える教育問題が重要な課題になっているという見方です。教育問題は国際化し、教育の内容は多文化になっているということです。また、学校教育における公共統制の抑制と親による統制の拡大も大きな課題になっているというのです。
公共性による統制と親の教育要求多様性との矛盾関係、調整は現代に難しい大切な課題であります。このことを考えながらガットマンの論を読みました。公共性が多様化すると教育要求します。現代社会は、格差と貧困化が進み、グローバル化していいます。このなかで要求が複雑化しています。多文化共生の地域社会が要請されているのです。市民的公共性のあり方は、重層的、複眼的にみていくことが重要になっています。公共性を画一的にみたり、多数決原理でみることは、人間の尊厳という民主主義の原理から極めて危険であるのです。
ガットマンは、親の選択擁護論から国民教育の制度構築も政治課題になっているというのです。親は学校のカリキュラムのどの部分を免除する権利をもつことができるのか。多文化主義での十分な教育とはなにかという課題があるのです。
ガットマンの強調することは、審議民主主義社会のための能力を育成することです。その柱が教育です。このことによって、自由で平等な諸個人の相互性の責任をもつ諸個人の能力形成がされるというのです。
民主主義と相互尊重
民主主義の重要な課題は、審議して、相互に異なる立場や価値観、意見を尊重して合意を形成していくことです。つまり、教育によって、その相互に尊重しあう能力をつくりあげていくことを考えたのです。いうまでもなく、この教育は学校教育で実践していくことは重要なことですが、生涯にわたって学習できる多様な教育の機会の保障が必要なのです。この意味で、成人教育・社会教育は民主主義社会を形成していくうえで、大きな役割を果たすのです。
審議民主主義のための能力形成には、批判的思考能力、数量的推論能力、識字能力、実際的な判断能力、国民としての個性が必要です。そして、市民的な道徳としての非暴力、誠実、寛大性、正義を追求する諸個人が求められ、それらは、集団の能力を不可欠とするのです。また、審議能力において、不一致でも相互に尊敬する資質、相互に受容できる社会的協同を見いだす誠実な努力をしていく技能と資質が求められるとしています。
読み書き、歴史、数学、科学に力と参加能力形成
ガットマンはアメリカ教育の「基礎に帰れ」運動を批判します。読み書き、歴史、数学、科学に力を集中することが、よりよい教育になるのであろうか。なぜ、審議民主主義の教育が必要とされるのか。多元主義のなかで審議し、集団的に同意し、民主的に参加していく能力形成が求められているのではないかということです。この指摘は、日本の現状からみても重要です。
ガットマンは民主的教育論において、非抑圧、被差別の問題を積極的に提起するのです。非抑圧を教育において重視することは、異なった生き方に対する制限をしないということです。生き方の干渉から自由を保証することは、教育による誠実、宗教的寛容、人間の尊厳の熟慮の教育から大切なことです。
非差別意識をもたないことは、子ども達すべてが将来わたって、よい生活、よい社会の形成の担い手になるために不可欠なことです。まずは、人種的少数派、女性、その他嫌われる子どもたちへの排除をやめていくことです。
審議する能力、社会の意識的な再生産に参加する能力を民主主義的な徳とガットマンは呼んだのです。子どものいじめは、国際的にも問題になっています。いじめの問題は、先進国での共通にみられのです。その根源に、グローバル化した弱肉強食の競争からくる差別と貧困の問題があるのです。これは、決して封建的な非近代社会の差別という面からだけみれない問題があるのです。
初等教育の目的と民主的徳
初等教育の目的として、ガットマンは、民主主的徳を強調するのです。子どもは理性的熟慮能力を持って生まれてくるのではないのです。子どもは模倣によって、よい習慣を身につけていくのです。ガットマンは民主主義的の徳を身につけていくには、権威によって行動するのではなく、権威を批判的に思考する学習によって身につけていくというのです。は最も民主主義の徳の形成に阻害要因になっているのです。教師の権威主義の克服は民主主義の教育の推進にとって大切なことです。
論理的に推論することに熟達しても道徳的人格に欠ける人間は最悪の詭弁家であります。科学や数学で教えられる論理的方法、文学で教えられる解釈的方法、歴史や文学で教えられる異なった生活理解、体育で教えられるスポーツマンシップさえも国民の道徳教育に貢献できます。
しかし、民主的人格の発達とういうことでの中心的な課題は、異なる文化や価値観のなかで、個々が意見を持って結論に至るまで、注意深い洞察力をもつ熟慮ある人格の形成ができるかどうかです。
ガットマンの初等教育論とコミュニティ
初等学校において、民主的統制は守るに値するが、しかし、抑圧的で差別的であるならば守るに値しない。民主的な統制ということで、ガットマンは、コミュニティコントロールの概念を民主的統制に効果的であるとするのです。意志決定が民主的結果になりやすいという理由からです。小規模な地域社会は民主的意志決定や民主的統制が合理的働くということです。
学区はできるだけ小さい方がよいということになります。学校のコミュニティコントロールと地方の民主的統制とは同一してはならない。学校政策を決定する正統的役割を担う団体は複数存在し、地域の多数派が保持する信条だけになってはならないとガットマンは強調するのです。
教師は民主的に作り出される共通の文化に批判的になるべきであり、教育専門職として、相対的になって、民主的審議のための能力をみ身につけさせ、非抑圧的の原則を擁護すべき人になるようにするというのです。
そして、ガットマンは、デューイの地域社会と学校の民主主義原則の前提は、共同の利益の確認と他者の利益を理解する立場があるというのです。教師は生徒が学校に持ち込んでくるかかわりを理解するために、地域社会と十分に結びつかねばならないというのです。また、同時に、生徒が対立するかかわりにそれぞれに批判的感覚をもって、地域社会から一歩離れてみることも必要であるとガットマンはのべるのです。
ガットマンは、現代の地域社会の状況で、民主的地域社会のミニチュアとして学校をとらえる位置づけは誤りとしているのです。学校にとって民主主義の社会をつくりだすための役割は、民主的人格に必須である参加の徳性と訓練の徳性を涵養するために学校を民主化することであると考えるのです。
現代日本の地域社会の状況をみていくと、個々の孤立化が進行し、格差の拡大のなかで、親と一緒にいる時間も少なく、食事も十分にとれない貧困の子どもが増えている現状です。
また、親の価値観も多様化して、地域社会として、特定の文化的価値観でまとまっていくことも難しい現状があるのです。このような、なかで多文化共生をどのように地域社会のなかでつくりだしていくのか。学校での多文化共生を理解し、その能力を身につけていくことは大切な課題となっているのです。
ガットマンが強調するように、多様性のなかでの孤立、無縁社会と格差をともなっての貧困のなかで、学校での審議民主主義の能力の形成は民主主義の地域社会形成に切実な課題になっているのです。
教師の専門能力と参加民主主義
教師は、非抑圧の原則から民主的審議のための能力を身につけさせる力をもっていることが求められるのです。教師の専門主義は抑圧や差別の防波堤になるのです。この意味で学校内は民主主義でなければならないのです。参加や学習への意欲をもたない生徒は民主的学習に強く反発します。
学習意欲をもたない彼らは、学校教育に否定的態度をもっているからです。教師はこのような生徒に訓練的方法を強化しがちです。ここでは、参加的方法によって生徒の興味を引き出して学習への関与を醸成することが大切になってくるのです。
しかし、それだけでうまくいくという単純な問題でないことも事実です。知的規律の伴った感情的規律の陶冶もとりわけ学習への関与の低い生徒には求められるのです。ガットマンは参加的徳性を涵養させるために、どのような感情的規律の陶冶のための訓練方法が必要なのかを考えるのです。ここに教師の専門職能力が必要であると言うのです。
教育の機会均等論
恵まれない子どものに対する教育の機会均等の解釈は、三つあるとガットマンはのべます。それは、将来の子どもの生活機会を最大化するために教育資源を充当せせるべきあるという最大化解釈、もっとも不利な立場にある子どもを有利な子どもの立場にあるところまで引き上げるための教育を施すという平等解釈、子ども達の自然的な能力が学習に応じて教育資源を配分するという能力主義解釈です。
ガットマンは、教育機会の民主的解釈の理解に、すべての子どもに同額の教育費を使うとか、子どもの集団にに同一の効果を生み出す必要もないとして、すべての教育可能な子ども達が民主主義のプロセスに実効的に参加するのに十分なように学習を求めるだでだとするのです。
民主的参加に十分な教育内容は、民主主義の様相とともに常に変化すると考えるのです。しかし、学校は貧困児童に対して、社会に替わって補償することができない。学校は、仕事の創出、住宅、地域サービス、子どもの世話の施策に依存するのです。
ガットマンの高等教育論
ガットマンの考える高等教育の目的論は、真理の探究です。そのためには、大学に勤務する教員の学問と自由と大学の自律性、自由が不可欠とされるのです。大学の現状についてガットマンは、次のように批判するのです。大部分の大学の教員は、基礎的知識や職業的技能を教えるように養成されていない。多くのアメリカのカレッジは、ハイスクール卒業生に基礎的知識の機会を提供しなければならない現状です。また、民主的な人格の形成にも十分でない青年が大学に入ってくるのです。学問の自由や大学の自律性についての理解が十分でないのです。
合衆国の義務教育の延長の時代が到来しているとガットマンはのべるのです。カレッジを初等教育の一部とすることは、すでに子どもでない青年に教えることになるというのです。むしろ、大切なことは、カレッジを義務教育の一部とする見方よりも義務教育をもっと早い年齢から開始することに力を入れるべきではないかとガットマンはのべるのです。現実に、カレッジは、補償教育教育プログラムを実施しなければ正規大学の学問的プログラムに参加できない状況もあるのです。
現実に、初等教育の内容を習得し、民主的人格の養成を十分に受けていない青年の存在が一定程度いるなかで、具体的にどう対処していくのかという問題もあるのです。ことを見落としてならないというのです。
この意味で、高等学校の補償教育という次元ばかりではなく、義務教育の補償教育ということが大学の大衆化のなかでつきつけられているのです。ガットマンの問題提起ばかりではなく、大学の大衆化と、同時に加熱化する日本の塾の普及、学力競争の現実の問題を大学の補習教育の必要性の現状から検討していくことも求められているのです。
学校外教育
ガットマンは、子どもの学校外教育として、図書館とテレビジョンをあげています。公共図書館の役割として、貧困の子どもは夏休み等の学校外でも十分な学習機会を家庭によって得られることが難しいとしています。
十分な教育を保証するために図書館の整備も必要です。つまり、貧しい子どもにとっては、公共図書館を用意することが求められるのです。低所得の地域の図書館支所には、特別の図書の整備が求められため、地域社会に地域図書館委員の選挙権を認める必要があるとしているのです。
テレビジョンと民主教育について、ガットマンは、公共的な学習文化にテレビは役割を果たすとしているのです。テレビは受動的で、娯楽であり、民主主義に貢献できなという論者にもガットマンは、民主教育の可能性があると反論しています。テレビジョンの公共性から商業主義ではない子ども向けテレビ番組が求められているとするのです。
成人教育について
ガットマンは、成人教育について、1,美術館や博物館等の文化的機会の享受、2,希望する成人への高等教育の機会の保障、3,必要とする成人の初等教育の確保についてのべています。
国家の文化的支援施策は正義ではないとする考えを批判するのです。一部の国民が文化的価値が認められないものは、正義、公共の福祉に役にたたないということです。ローズの主張は、高度な文化の享受者は、教育された人々だけではなく、教育を十分に受けられなかった貧しい人々にも機会を与えなければならなということです。ガットマンにとって、貧困はもっとも共通する文化的差別になるので、博物館、コンサート、オペラ等の入場料は値下げしなければならなとするのです。
民主主義の政府は、大学レベルの成人教育ブログラムをどのようにすれば実現できるのかを考えることが必要です。高等教育のレベルを引き下げるのではなく、オープンユニバシティーを用意することであるとするのです。ここでは、内容のレベルを下げるのではなく、入学資格を設ける必要がなく、経済的理由によって成人を差別することをしないことです。イギリスでは、この条件を整備することによって成功しているとガットマンはみるのです。
成人に初等教育を提供することは、16才以上の人口に多くの非識字者がアメリカにいるのです。この現実から成人教育を考える必要もあるのです。1976年で5700万人、16才以上の38%の人々がハイスクース以下の教育しか受けていないという現実です。このなかで半数近くが機能的な非識字といわれているのです。
成人の非識字の問題は、民主主義における深刻な問題であるというのです。アメリカ社会で、多くの成人非識字者がいるのです。このことは、国民に十分な教育が行われいないということばかりではなく、民主主義にとっても大きな問題であるとガットマンはみるのです。非識字者が多いことは、民主主義にとって大きな危機であるというのです。