社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

社会教育と大学の役割ー社会教育学会研究大会の報告を聞いて

 2019年度の社会教育学会の開催校企画として社会教育と大学の役割のシンポジウムが行われた。報告者は5名であった。社会教育士という新しい資格付与をめぐっての議論、大学と地域との関わり、学生教育における教育現場との関係の実践力などが報告の論点であった。

 社会教育士導入で問われる大学の役割として、開催校の早稲田大学の沖清豪会員から社会教育主事の養成はどの大学でも行われてきたのか。決して多くの大学で行われてきたのではないことをどう考えるのか。そのうえで、社会教育士の新たな資格付与をみるべきではないかという問題提起である。社会教育士は国際的資格付与の7段階のレベルで第5段階と考えら、決して高度の資格付与ではない。教員の専修免許は第7段階であり、それと比べると社会教育主事資格の基礎要件の高度化とは明らかに異なり、役割機能の多様化する高等教育改革の文脈全体のなかで位置づけていくことが大切とした。

 帯広大谷短期大学の岡庭義行氏からは社会教育主事養成において社会教育実習を必修科目として重視してきたことが報告された。実習の中心は小学校のボランティア活動であり、地域学校協働活動と結びつけていると。

 愛知教育大学の大村恵氏からは、大学教育に実践力科目を重視することから報告であった。その内容は、学校サポート活動入門、学校サポート活動、学校サポート活動Ⅱ、学校サポート活動ⅲを授業科目の設置というボランティア活動の授業科目である。

 さらに、自然体験活動、多文化体験活動、企業体験活動の科目を選択必修としている報告であった。学校サポート活動では学童保育に学生ボランティアとしての参加としている。

 本来、ボランティア活動は学生のサークルとして自発的的、自主的に行われてきた。大学の教師は顧問としての関係であった。それが必修科目としての強制を伴ったボランティア活動の参加になっているのである。

 愛知教育大学では学生たちの実践的な能力の修得を教育の目標としているということであった。ここに学生が自主的に活動し、自由に創造的に学ぶことがどうなっているのか。

 学生たちが教育思想、哲学を学び、さまざまな蓄積の教育実践を書物をとおして、学ぶことがどう保障され、体験活動をとおしてそれらがどう深められているかが大切である。

 戦前の教員養成では学術の府としての大学における教員養成ではなく、学問的に教育実践を深める教育がされなかった。絶対的教える内容と方法が決められており、師範学校の生徒は、それをうのみにして実践的能力の育成をされたのである。

 報告では、従前の教育科学や教科の専門を大学で教えてきた総括からの提起も実践的能力とはなにかという問は全くなく、ボランティア活動や体験をとおして、新しい子ども観の形成、子どもとのつきあい方、自己像の発見、信頼できる大人たちとの出会い、社会参加としている。

 福島大学からの千葉悦子氏は、地方国立大学の震災への取り組みからの大学の役割の報告であった。ふくしま未来学を大学内で立ち上げ、地域の復興・再生における大学の役割の問題提起であった。地域から学ぶ授業なども展開しているという。

 大学のふくしま未来支援センターは期限付きである。食や農業の再構築の村の大学は自腹で継続している状態である。それは自治体と連携して、それぞれの役割からの地域復興・再生である。大学は決して自治体の肩代わりになるものではなく、大学の本来の役割を研究と教育から深める立場としてのふくしま未来学や村の大学の実践の報告は興味深いものであった

 コメントとして、社会教育主事の大幅な減少、労働力市場では減っている現実をどうみるのか。社会教育士が出てくる意味はどこにあるのか。地方国立大学で教員養成はダーゲットにされて研究機能は必要でないとされているが、そのことをどう考えていくのか。大学評価の数量的把握が必要ではないかという問題提起があった。

 大学の社会教育教育の役割は知の拠点、学術の府として、大学開放事業として公開講座が行われてきた。大学人としてのそれぞれの専門性を地域の市民にわかりやすく話すための社会教育的工夫も行われた。また、地域に出かけのフィールド研究と大学の社会教育の役割を公開講座は果たした。多くの国立大学で生涯学習教育研究センターが設立された。現在は、そのセンターは消えているのである。

 生涯学習教育研究センターなど大学の授業を市民と学生が共に学ぶ工夫もつくり出した。それは市民への大学授業の公開である。

 大学の教育と研究の本来の役割を公開講座や公開授業をとおして深めてきた。今日に起きている学生教育の一環としてのボランティア活動の授業や実践的能力育成ということは学術の府としての大学本来の教員養成、社会教育職員養成につながっているのか大いに疑問である。

 人類が蓄積してきた科学的知恵、教育科学を踏まえることなしに実践的能力があるのであろうか。教員養成や社会教育職員の養成において大学の役割は、学術の府、教育科学の蓄積を教授するという意味で大きいのである。

 戦後の教員養成は大学の教育と研究のなかで実施するという原則を重視した。これは戦後憲法の民主主義の理念を実現する教育には、科学、学問を重視し、自由で自主的な態度をもつ教育職員養成を大切にしたのである。

 社会教育職員養成も同様である。社会教育職員は自らの実際生活に即する文化的教養の醸成という特殊な要件があり、その内容も総合的で地域での社会教育計画やコーディネート機能が求められているのである

 実践的能力形成ということでボランティア活動の重視や集団操作的教育方法のテクニックでうまくいくのか。子どもの発達の状況を個別的に把握して的確な判断をしていくには教育科学の知見が必要なのである。また、社会的に子どもや青年をみていくために教育関連領域や教育法の知識も必要である。

 それらを多くの実践的能力科目の設定で軽視していくことは教育専門職の養成を危惧するところである。社会教育職員はさまざまな領域との連携が求められ、社会教育計画が重要であり、地域の暮らしの学びにとって大切なコーディネート機能をもっている。そして、学びの組織者でもある。それぞれの分野を包括していける高い学識が要求される専門職である。

 

参考文献

神田嘉延「暮らしと民主主義の大学創造地方大学と生涯学習」高文堂出版 平成17年7月出版 現在絶版

 

暮らしと民主主義の大学創造―地方大学と生涯学習

暮らしと民主主義の大学創造―地方大学と生涯学習

 

 

 

 

高齢社会と社会教育ー社会教育学会のプロジェクト研究の報告感想

 日本社会教育学会のプロジェク研究「高齢社会と社会教育」の報告に参加した感想を書きます。報告は3本であった。

 最初はよく理解できなかった。超高齢社会における高齢者の学びという題で、高齢者の社会参加から主体を問い直すとう牧野篤会員の報告からはじまった。超高齢社会とは、75歳以上の後期高齢者が前期高齢者を上回った。認知症が1千万人の時代がやってくるというのである。そこでは、介護される人口が大幅に増えていくという問題意識である。その予防策としての孤立化していく高齢者の現実からの地域の絆のオーガナイザーの意義があるとする。

 地域の絆をつくっていくオーガナイザーは否定するものではないが、特定の価値や行政施策の下請けではなく、自由に生き甲斐をもって生きていく多様な高齢者の現実をみていくことが必要と感じた。超高齢化社会を何か大変な時代ととらえるかという問題ではなく、社会の進歩で人間の平均寿命がのび、さまざな方法で楽しめる、活躍できる場の創造によって、高齢者が楽しく生き、それが社会に貢献していることがある。それらが実現できるためのでその支援や学びが社会教育行政として必要なのである。

 平均寿命がのびているなかで、健康寿命ということが大切と私は考える。このためには保健、予防医学、地域医療整備、健康体操が気軽にできる地域整備、仲間づくり、福祉と社会教育が求められる。

 心も体も健康で生きている限り社会的介護の費用は少なくてすむ。また、最も大切なことは健康であることが人生を楽しく生きれる条件が増すのである。もちろん病をもっていても人生を楽しく懸命に生きている人びともいる。現役という年齢を伸ばして考えることも必要である。健康である限り社会的に活躍できる。

 牧野会員は、働くことと雇用ということが同じではないとのべ、働くことを再定位することが求められているとする。私生活と仕事を分ける時空間の区分がなくなり、生活することが働くことであり、学ぶことである提起する。そして、自立し続けることであり、社会からの孤立をなくすことであるとする。果たして、働くことと雇用ということが同じではないのか。生活と働くことの区別ができなくなると規定してよいのであろうか。それは社会的労働から生活費を得ることの重要性をあいまいにしていく。ボランティアの社会的役割を否定するものではないが、生活収入を得る社会的労働とは明らかに異なるのである。

 牧野会員は、高齢者にとって、常に他者とのかかわりのなかで新たな価値を生み出すことが求められているとする。高齢者の社会参加の重要性として、地域の福祉活動、地域学校協働活動の推進の参加などをあげる。この議論については、ついていけない面がある。たしかに高齢者がボランティア活動を積極的にしていくことは社会的価値である。

 しかし、すべての高齢者が、ボランティア活動をできる環境ではなく、その意識も条件もない高齢者も存在している。高齢者にとっての年金や貯金、家賃、配当金などの生活保障が十分なものと、生活不安で生きている高齢者と異なるのである。生活費用が不十分な高齢者にとっては元気なうち就労したい要求もある。高齢者の就労問題があることを見落としてはならない。高齢者でも可能な就労の開発があり、就労によって生きる喜び、仲間の絆もつくられている側面もある。

 高齢者の学びと地域貢献活動として、藤原佳典氏・東京都健康長寿医療センターからボタンティア活動に参加できるように高齢者の学習の実践事例の報告があった。高齢者が子どもに読み聞かせをするボランティア活動である。これは、公立小学校へのシニアボランティアである。子どもと高齢者が交流することによって、高齢者自身の役割が地域のなかで生まれ、生きがいにつながり、知的能動性によって健康にも効果があるとする。ハイリスク層を生まない増やさないということで、多世代交流は意味をもっているというのである。これらの実践は意味があることを否定できないが、高齢者の生き甲斐や社会的活動はボランティアだけではなく、さまざまな形態があり、多様な活動の側面を評価しながら位置づけてほしいと思った。

 斎藤ゆか会員は、高齢者ボランティアはプロダクティヴ・エイジングになるというのである。高齢者のボランティアを積極的に社会的生産的活動として評価するのである。高齢者は潜在的なボランティアが多くいるというのである。誰かに必要とされる場と仲間、役割を求めており、その人たちを活動に誘いだすことの重要性を指摘する。

 コメントの高橋満会員が、高齢者の意識の多様性を指摘する。家でのんびりしていたい、ボランティアをしたくない層もいるのではないか。老後の暮らし方はまちまちであり、いままでやれなかったことを自分の趣味、絵を描いたり、陶芸したり,旅をしたり、音楽をしたり、人によって、それぞれの多様な生きがいをもっている。報告を聞いて、シンポジウムの題目が高齢者と社会教育となっていることから、ボランティアに集中していることに疑問をもった。高齢者の生き方に多様性を求めることは大切であることを痛感しました。

 さらに、年金が少なく、余裕のない層もいるので、無償のボランティアにでていくのも容易でない層もいる。ボランティアをとおして、生活と働くことが学ぶことであり、自立していくことであるということにならないも層も数多くいるのある。

 むしろ、年金では十分にくらせないということで、高齢者にも可能な雇用を求めるも層いる。また、自給自足的な農業をして、それを楽しみに暮らしている高齢者もいる。ときには、わずかながらの農産物を販売して、充足観をもつこともある。また、単なるボランティアではなく、環境保護運動や平和問題などの社会的活動に積極的に参加して、高齢者であるが未来への社会づくりに喜びを感じているもいる層もいるのである。

 報告ではボランティアを無償として位置づけているが、ボランティアは必ずしも無償だけではなく、有償というボランティアもあるのです。雇用のように賃金として、契約のルールによって、責任をもって働くのではなく、自発的意志によって、公共性をもつ地域活動や社会的活動に奉仕をすることであるが、そこには、交通費、活動費、謝礼的金銭を受ける有償ボランティアもあるのである。 

 国連総会総会決議1991年の高齢者の人権の5原則である自立、参加、ケア、自己実現、尊厳の内容に社会教育としてどう深めていくかということが大切である。

 自立では仕事あるいは他の収入手段を得る機会、適切な教育や職業訓練に参加する機会を得る。日本では高齢者憲章が問題提起されている。ここでは、高齢者の能力を活用する事業や職種を社会全体で開発するなど高齢者が意欲を持って社会参加できる機会を広げることである。

 高齢者の多様な生き方を支援するため生涯にわたり学習できるしくみの整備がのぞまれる。高齢者の経験や知恵が子供や若者の教育に活用されるしくみづくりなどの提言をしている。これらの提言に真正面にたちむかう社会教育関係者が望まれるのである。

 

社会教育法70年と社会教育研究の課題ー社会教育学会特別企画を聞いて

 社会教育学会は特別企画として、社会教育法70年と社会教育研究の課題のシンポジュムを第66回研究大会で行いました。報告者は、3名で3名のコメンターと、会場からの自由な質疑応答が行われました。

 社会教育法制研究の課題として、人口減少のなかで、地域には社会教育に新たな期待が高まっているとするのである。また、社会教育行政が一般行政の他の部局の計画に絡め取られる傾向があらわれるとしているのが、石井山竜平会員の報告である。

 さらに、大切なことは、行政を超えたところで、地域主導の人材育成計画が展開されているとする。山形県川西町、宮城県大崎市鳴子地区、仙台市若林区を事例に、地域の産業の担い手計画づくりに、住民だけではなく、外部の加担者、外部資金の獲得という新たなプロジエクトが進められていることの意義をどう考えていくのか。拡大された社会教育概念に社会教育行政がどう再定位されるかの研究があるとしている。

 1949年の社会教育法制定では、社会教育行政は、社会教育施設を責任をもって設置することで、社会教育関係団体には、ノ-コントロ-ル・ノ-サポ-トであった。平成29年の文部科学省社会教育施設観は、地域における学びの拠点であり、よりよい地域づくりに向けた課題を適切に把握するとともに、地域住民の意向を十分にくみ取った運営を行うことが重要としている。しかし、教育機関としての社会教育施設の定義がないというのが上野景三会員の提起であった。

 社会教育施設を定義するとしたら、どういう内容になるのかということであった。70年の歩みをどうとらえていくのかという提起はあるが、内容については具体的にふれていない。社会教育法制ができていく過程について、戦後の憲法教育基本法での関係、とくに、日本の民主主義を育てていくうえでの社会教育ということで、トクヴィルアメリカ民主主義の著書から、分権、結社、市民の直接参加、オーガナイザーの役割などの示唆を上野会員は提起した。

 日本国憲法の制定によって、この内容をいかにして国民に定着していくのか。これは、学校教育ばかりではなく、社会教育の役割は大きくある。自らの実際生活に即しての社会教育活動は、参加民主主義にとって不可欠である。このことは、生涯とおしての課題でもあるという感想をもった。

 社会教育法第3条では国及び地方公共団体の任務として、「すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自らの実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成しなければならない」ということが70年の歴史のなかでどうであったのか。この探求が重要であると思った。

 なぜ、多くの社会教育行政や公民館が趣味やおけいこごとに集中していったのか。一般行政の暮らしの充実分野や地域づくりなどが縦割り行政のなかで細分化して、社会教育行政と公民館活動と分離していいたのではないか。

 生涯学習施策の問題とも絡んで、住民自らが地域民主主義の発展のなかで参加していく社会教育の役割がスポイルされていくのではないか。上からの行政施策の住民への啓蒙としての役割としての生涯学習施策が生まれてきたのではないか。 

 暮らしと結びついた農業改良、村づくり・街づくり運動、職業訓練・職業教育、地域の医療・保健や福祉活動などと密接な関係をもっての住民参加の方式がなぜ多くの市町村で展開できなかったのか。数少ない暮らしとむすびついた市町村の社会教育行政とどこが違っていたのか。戦後の社会教育行政や公民館活動をそれぞれの地域で分析していくことが求められているのではないか。

 社会教育法制70年のなかで社会教育職員の専門性はどうであったのか。社会教育主事のはどうであったのか。法律によって、都道府県と市町村に社会教育主事という専門職員をおくことができるということになった。

 しかし、市町村に社会教育主事をおくっことが少なくなり、平成30年度社会教育調査では、15年間で三分の一に減っていることをことと、非正規の社会教育関係職員、指定管理で雇用されている社会教育の増大などを村田和子はあげている。

 社会教育士という新たな資格制度の導入によって、社会教育専門職員を養成する大学には、期待する声がある。シンポジュウムのコメントのなかでも、その声が強くあったが、社会教育主事が大幅に減らされ、非常勤の社会教育職員の増大などで、社会教育の新たな資格が生まれたことによって、果たして市町村ので充実した社会教育が展開することは、見込めないと考えるのが一般的と。

 社会教育主事という名称は、教育行政の専門職とみられ、社会一般の社会教育活動を支えるものとはみられないがあった。この意味で、社会教育士の新たな資格付与は社会教育行政以外で、役割を果たすことは考えられる。

地域農業後継者教育と社会教育の課題ー鹿児島市曽於市からの地域活性化


地域農業後継者教育と社会教育の課題ー鹿児島県曽於市から

    鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

 

問題の所在

 

 多くの農村は人口減少と高齢化によって、過疎化に悩んでいます。そこでは、限界集落、廃村という厳しい局面にたたされています。その過疎化の根本に、地域農林業の衰退が大きな原因になっています。本報告の地域農業後継者教育は、過疎化していく現状のなかで、日本の農村活性化の方策としての社会教育という課題を立てています。そこでは、地域農業生産を基盤に、新たなコミュニティをつくりだしていくことです。そのためには、将来の展望を探求するために、地域住民の積極的参加による地域づくりのと社会教育が求められるのです。


 日本の農業担い手養成には、新規自営農業就農者、生産法人などの新規雇用就農者がいます。そして、生活農業として自らの食糧自給や教育・観光の補助的役割として活用している場合もあります。つまり、多面的な新規農業就農者がいるのです。また、外国人の技能実習生として、農業分野で活躍している人々が2万5千にも増加しています。今後、益々外国人の役割が大きな位置を占めるようになっていきます。

 新規就農者が5万人代になっていますが、40歳未満は、1万5千人ほどです。生産法人の雇用就農者も7650人ほどで外国人労働者の位置がいかに大きいか理解できます。
 過疎化を食い止める地域農業という視点からは、自営小農経営が大切なことはいうまでもありません。農業生産法人は食糧生産ということで大きな位置をもっていますが、地域のコミュニティを支えていくには、十分な機能を果たさないのです。

 農業所得から生計を維持するという農業の規模拡大経営という側面からは、集落機能の維持に大きな障壁があるのです。コミュニティを支える地域農業ということは、食糧の自給自足的な側面や家計補助的な兼業農業の役割も重要になっているからです。その農業生産形態は小規模な家族経営形態です。
 農業の生産法人は、地域の枠を超えて、生産効率経営によって発展しています。そこでは、地域の伝統的文化としての農業や自然環境保護の論理と矛盾していくことも起きています。


 地域農業という視点から個別の農業経営の後継という視点ばかりではなく、女性農業起業、地域複合経営、外国人労働者の課題を明らかにする必要があります。また、学校教育やグリーンツーリズムということからの地域興しをみていくことも必要です。このうえで、社会教育としての食農教育、食育教育は、地域のコミュニティの形成にとって大きな意味をもっています。また、地域における学校の農業体験学習は、長期の子どもの発達段階から国民教育を基礎にしての農業後継者教育として大切になっています。


 今日は、従前における親の自営農業経営を継承していくという後継者教育だけでは過疎化の問題を解決しないのです。それは、地域で育った人々だけではない、広く外国人労働者も含めて、地域外から地域農業の担い手の人材を求めていくことが必要な時代になっているのです。


 本論では、多様な農業の役割という視点から、地域農業の後継者教育を構造的に考えていくものです。つまり、多様な農業の役割ということを踏まえての構造的な農業者教育の視点をもつものです。ここでは、生産的な自営で農業所得から生計を維持しようとする新規就農に問題をしぼって問題を限定して考えていくものです。

 従って、家計補充的な兼業(年金も含めて)、生産法人の雇用就農や外国人実習生などを分析の対象からはずしています。今後の研究課題として農業の多様な役割から農村のコミュニティを新たに創造していくための社会教育の課題として、構造的に問題を深めていく計画です。


 新規就農対策も国は積極的に展開しています。この施策は、産業としての農業で生計をたてる施策です。地域での農業が果たす多面的機能ということから、地域環境保護における水田の役割や、農業の教育的役割、癒しなどの側面はでていません。国としては、専業農家として地域の農業生産を担う農業後継者対策です。就農初期段階の青年就農者に対する支援になるのです。


 この制度は、研修終了後1年以内及び交付期間の1.5倍(最低2年)以上就農を条件づけています。研修終了後は、就農から5年以内に認定新規就農者になるための制度です 。
 親元就農の場合、5年以内に経営を継承するか又は共同経営者になることの条件です。国内での2年間の研修に加え、将来の営農ビジョンとの関連性が認められて海外研修を受けることができます。その場合は延長することができます。これらは、国から交付金を受けるものです。


 農業次世代の人材事業の経営は、市町村が実施主体です。次世代を担う農業者となることです。原則として50歳未満で、独立自営就農する新規就農者に対し、市町村を通 じて、年間最150万円を最長5年間交付するものです。交付終了後、交付期間と同期間以上営農を継続することが条件です。市町村段階に経営・技術、資金、農地のそれぞれに対応するサポー ト体制を整備しています。自ら作成した青年等就農計画等に即して主体的に農業経営 をしていくものです。


 平成29年度に新たに採択した者は、準備型で1,394人、 経営開始型で2,130人でした。準備型は、 20代が最も多く(44%)、次いで30代(32%)、 40代(16%)、10代(7%)の順 。 非農家出身が64% 。経営開始型は、年齢別には、30代が約半数を占め、次に40代(36%)、20代(17%) の順。農家・非農家がほぼ半々です。


 新規就農対策の交付金をうけるものは、決して農家の後継者ではないのです。従前の農業後継者として親の農業を継ぐということではないのです。ここが大きな特徴です。

 

曽於市の特徴

 

 曽於市は伝統的に中央ではなく、地域の独自性を強く主張する土地柄です。それはヤゴロウドン祭りにみることができます。4,8メートルの竹かご製人形の巨大男を先頭に地域あげての神幸行列が11月3日の五穀豊穣祭りで行われてきました。1万人以上も集まる盛大なものです。古代の大和朝廷に対する隼人の抗戦で多数の志望者の慰霊のための放生会でもあるといわれます。


 曽於市は、人口36557人、世帯1634戸の市で、霧島市都城市、鹿屋市に囲まれた大隅半島の地域です。15歳から64歳の生産年齢人口比率は51、4%で65歳以上は37、5%と高齢化が進んでいます。人口の増減率は平成12年に44910人いました。それが、平成17年42287人、平成22年39221人、平成27年36557人と減少を続けています。


 総農家数は3818戸で、販売農家数2341戸、自給的農家数1477戸です。販売農家で50万円未満は815戸です。50万から100万円未満は281戸、100万円から200万円未満340戸です。


 200万円から300万円未満は203戸、300万円から500万円未満212戸です。500から700万円未満は98戸、700から1000未満108戸です。


 1000万円から1500未満92戸、1500万円から2000万円未満60戸です。2000から3000万円未満46戸、3000から5000万円未満は48戸です。5000万円から一億円未満は29戸で、一億以上が9戸あります。以上のように農家といっても大きな販売格差があります。


 経営耕地面積をもっている農家数は、2313戸です。このうち経営体としての田のある農家数は、2174戸、稲をつくった農家数2143戸です。農業経営体の畑のある農家数は、1779戸です。飼料用作物だけをつくっている農家数は810戸です。

 

 牧草地専用137戸です。畑作をつくった農家で、飼料畑の位置が大きいのです。家畜の経営体数は、乳用牛13戸、肉用牛1002戸、豚47戸、採卵6戸、ブロイラー32戸です。

 

 曽於市の農畜産生産額は、畜産が全体の81.9%を占めているのです。そのうち肉用牛生産13.6%、肥育牛13.9%、肉豚20.3%、鶏肉12.8%、鶏卵15.6%、生産豚4.9%、乳牛0.7%です。全体の生産額は、389億4149万円です。茶2.4%、野菜5.5%、さつまいも5.5%、水稲2.6%です。畜産に依存している曽於市の農業実態がみえるのです。
 
曽於市の新規就農の特徴

 

 鹿児島県曽於市では、平成17年度から新規就農対策として、昨年度まで186名を受け入れています。曽於市では、就農2年以内を対象に月額5万から15万円の補助金を交付しているのです。親の経営基盤を引きつかず新規就農は10万円になります。夫婦で新規就農15万円です。親の経営をひきつぎながら経営改善を行うもの5万円になります。夫婦で親の経営を引き継ぐもの7万円です。


 女性のみで農業者のたちあげもしています。女性の力で地域農業を支えていこうとするとりくみです。ここでは、農業の専門的なことばかりではなく、料理教室やヨガなどの活動を取り入れて、農村で暮らす楽しさを充実させている工夫をしています。
 学校教育としては、学校農園を整備し、食育事業として、地域の食材をつかっての教育活動を積極的に展開しているのも曽於の特徴です。


 新規就農者は脱サラで曽於市の「たからべ森の学校」で研修しながら、就農した事例などもみられます。たからべ森の学校は、中学校の廃校を職業訓練や田舎暮らしを体験して、曽於市の魅力や可能性を感じてもらう民間の社会教育施設です。地域に根ざした就職を支援する支援するとりくみをしています。

 

 当初は、パソコン関連の職業訓練をしていましたが、地元では、農業関係のニーズが強いことがわかり、農業、農産物加工、調理補助の講座を開くようになりました。この講座には、都市部から移住を見込んで訪れる人もいるのです。さらに、学校での宿泊体験学習にも利用されています。田舎暮らしを体験できるメニューも用意されています。移住先の環境や雰囲気も確認できる施設にもなっているのです。移住先の生活も簡単ではなく、不安解消のための相談活動もしています。


 曽於市では、民間に頼るのではなく、新規就農の公社などを整備して、責任をもって教育していく体制の準備中です。このことによって、さらに、充実した移住対策ができるとしているのです。地域とヨソ者が一緒になって田舎暮らしを楽しむということを合い言葉にして地域の環境を整備しているのです。移住応援施策は、仕事を確保することが最も大切なことですので、新規就農や起業お越しは重要な施策になるのです。


 さらに、子育て対策として、安心して子どもが育てられるように、18歳までの子どもの医療費は、全額曽於市が負担するしくみをとっています。また、第三子を出産した家庭には祝い金として10万円を支給しています。移住体験プログラムとして田舎体験講座を実施しています。一泊2日、2泊3日、6泊7日というコースがあります。移住して住宅取得した場合に、お祝い金として最大100万円の補助をしているのです。


 曽於市では農業生産法人の事業計画が活発ということから、規模拡大によって、いい土地は生産法人が利用していて、新規就農者には、いい土地が入らないという新しい状況が生まれています。


 また、水田の休耕地などが長く続いているところは、再び水田に戻すには費用負担が大きくかさみ、むしろ畜産の生産法人に飼料畑にしてもらった方が、費用が安くなるのです。地域農業の環境保全対策ということは、経費の面から単純ではない現状があります。市の担当者は、荒廃農地対策としてのあり方として、地域の環境保全ということからの水田の役割は否定しませんが、現実的に予算の面から困難があるということから悩むのです。現実的な選択は、飼料畑になっていくのです。


 生産法人に対して、環境保全という地域農業という視点からの農業経営をしてもらいことは大きな課題になっているのです。生産法人の経営者の意識改革は、過疎化という集落崩壊との関連づけながらの地域農業という側面から大切になっているのです。


 生産法人による地域の農業所得の向上は、地域の集落崩壊の防波堤にストレートになっていないことを直視することが重要なのです。ここに、家族経営の小農と生産法人の関係による地域農業の展開による施策が必要になってくるのです。新規就農対策も、そのような位置のなかで積極的にとらえていくことが求められていくのです。


 さらに、農業の多面的な機能としての地域文化の継承や教育的役割、癒やし、グリーンツーリズムの役割があることを決して忘れてはならないのです。これらの側面は社会教育行政と新規就農施策が積極的に結んでいく課題です。


 また、家計補充的な兼業としての農業の役割も地域農業を維持していくうえで大切な面があり、社会教育行政としての伝統文化、癒やし、子どもの人間形成という側面からの積極的な取り組みが必要になっているのです。女性農業者が農産物加工の開発、料理教室、文化的事業の取り組みが、新たに曽於市でおきていることは注目すべきことです。


 社会行政が農政の新規就農対策と結びついて農業の多面的機能から総合的に学習運動を展開していくことが重要です。とくに、農村における社会教育の固有性からの地域の伝統文化、農村のコミュニティづくりは、新たな都会での生活経験者とうなど外部の人が新規就農として移住してくる時代ですので、その役割はますます重要になっているのです。

 

 そこでは、地域の連帯意識は、目的意識的に行うことが不可欠になっているのです。むしろ、都会から移住してきた人々が地域の文化や行事で何に感動していくのか。それは、従前の地縁血縁的なまとまりの連帯意識ではない、喜びを共有しあう価値観の連帯なのです。


 親の農業を継承していく新規就農で最も困難な問題は、親子関係における価値観の違いです。新規就農者では、親子関係で離農するのもめずらしくないのです。

石井十次の福祉での教育理念― 宮崎県茶臼原と岡山の孤児院から学ぶ

 

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 石井十次は、宮崎県の高鍋が生んだ児童福祉の父といわれます。彼は、ルソーのエミールの思想の影響のもとに、児童福祉を積極的に教育の理念を取り入れて活動をしました。

 石井十次念友愛社は、宮崎県西都市木城町にあります。高鍋の市街地から茶臼原小学校の近くです。現在も児童養護施設と保育園があります。
 現代的貧困で家庭に恵まれない子どもたちが生活する園となっています。理想とする自然教育を茶臼原230ヘクタールの大地で農業の教育力を大切に農村共同体のロマンをかかげての人間主義の教育実践をしているのです。福祉と教育は、分離されがちなどが現代です。石井十次念友愛社の教育実践を歴史的なことも含めて学ぶことは貴重なことです。
 子どものおかれた貧困状況は極めて複雑です。経済的な貧困はもちろんのこと、子どものネグレクトなど家庭的機能が崩壊している精神的、文化的貧困状況があります。外面的にはみえにくい子どもの貧困状況があるのです。経済的な問題ばかりではなく、単身赴任、共働きなどによる鍵っ子問題、退廃問題など、社会的に子どもの居場所の確保が地域に求められる時代です。

 子どもの虐待で大切な命を親が殺すという痛ましい事件が頻繁に報道されるこの頃です。また、51歳の男性が包丁をもってバスを待ってい親子を次々に刺していく事件がありました。この事件のようなことを息子がするのではと思い、40代の息子を76歳の親が息子を刺し殺すという事件がありました。76歳の男性は農林事務次官までも勤めたエリート官僚の経歴をもつ人です。

 これらの事件にみるように現代の家庭の病理現象があちこちに起きているのです。家庭は決して安全な場所ではなはないのです。現代の家庭は、プライバシー問題の閉ざされたなかで虐待や極めて歪な親子関係があるのです。異常な病理現象のある家庭は、極めて危険な場であるのです。この閉ざされたなかで、家庭の異常な病理現象をみるのは、単なる連携論ではなく、社会的養護からの専門職の充実と抜本的的人数の配置が求められているのです。
 放課後児童クラブや児童館、親の生活現状に即したきめ細かい保育が不可欠な時代です。ここには当然ながら子どもを一時的にあずかるという次元ではない、子どもの人格形成などの広い意味での教育が必要なのです。

 

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 100年前に、石井十次は、孤児院における10人ほどの小集団の小寮生活と、そこに保母が世話をする家族主義の社会的養護を考えているのです。大規模の社会的養護では施設での暴力問題も起きます。様々な境遇で育った子どもたちにとって、生活指導は社会的養護の施設内大切なのです。きめの細かい家族主義が現代では切実に求められているのです。社会的養護における専門職や家族的ケアができる人員の配置は当然のことです。児童福祉行政も同じことがいえるのです。
 ところで、石井十次は、6年間学んだ医学の道をあきらめて児童福祉に生涯を支えたのです。彼は、教育を最も重視した社会的養護を実践しました。1887年に孤児教育会を設立し、1914年に永眠するまで岡山と宮崎木城茶臼原で福祉と教育に専念したのでした。

 茶臼原や岡山の孤児院の事業は石井十次の人格でなされたものが大きいが、新しい院長を大原孫三郎に託したのです。倉敷紡績の社長を継承して積極的に事業を継承した多忙の身であったが、院長としての責任を大原孫三郎は果たしていくのです。茶臼原の責任は石井辰子氏が果たすようになります。

 孫三郎は5年間にわたって孤児院経営を引き継ぐのです。孤児院経営は石井辰子氏に継承されましたが、1926年大正15年に解散するのでした。石井辰子氏は翌年の1927年に永眠するのでした。そして、石井記念協会を設立して残務整理や残留院児の保護にあたるのです。戦後に石井記念友愛社を1945年に設立して、1948年に孫の児嶋虎一郎氏が戦災孤児のための児童養護施設を設立するのでした。
 石井十次は、1865年に高鍋藩士の子どもとして生まれます。父は維新後に県庁の職員を務め、1878(明治10)年の西南戦争には、西郷軍に参加しています。十次は、このとき12歳でした。14歳で海軍士官を志望して、東京芝の攻玉舎(こうぎょくしゃ)に入学しますが、脚気を患い帰郷します。1880年岩倉具視の暗殺嫌疑で51日間収監されます。そこで、西郷隆盛の吉野開墾の話を聞き、感銘を受けます。釈放されると開墾事業の5指社を設立するのです。小学校の教師、宮崎県の警察をつとめ、宮崎病院長の勧めで岡山医学校に入学するのでした。
 医学を学んでいる1884年に熊本バント出身で同志社にいった金森通倫からキリスト教の洗礼を受け、新島襄同志社設立の趣意書を学び、同年に休暇中高鍋に帰郷中高鍋馬場原教育会を立ち上げています。

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 教育会は3つの柱で、ひとつは18以上で志があるが、貧しくてかなわない遊学を援助すること、2つは、神社社殿で朝晩の学校を開くこと、3つは書籍の貸与であった。石井十次は、早速に遊学援助を実行するのです。岡山に帰るときに、3名をつれていくのでした。後で、1名が加わり、岡山では、5名で生活するのでした。それぞれ、アルバイトをしながら、学ぶのでした。
 1887年に三友寺で貧困の子どもたちのために孤児教育会をたちあげます。そして、1889年に6年間学んだ医学書をすべて焼いて、孤児教育に専念することに決意するのです。このときに、三友寺に集まった子どもたちは20名になっていました。キリスト教の関係者に孤児教育会の協力をよびかけたのです。
 1894年にルソーのエミールの教育思想に感化されて、宮崎県の茶臼原の開拓をはじめるのです。60名の院児を宮崎に送ります。これは、後に時代教育法になっていくのです。石井十次の時代教育法は、幼児、少年、青年の発達段階に分けて、孤児院の子どもたちの教育をするのです。

 

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 10歳までの幼児のときは、自然のなかで遊ばせるということです。10歳から15歳までは、学校教育を受けさせて学問を学ぶことを徹底させることです。16歳から20歳は、生きていくための職業教育をしていくということで、実業教育を授けるということでした。茶臼原では、労働自治、労作教育をするのでした。それは、農業をとおして実践していくのでした。
 1897年には私立岡山尋常高等学校を設立します。1906年には茶臼原に農業小学校をつくるのでした。茶臼原では林の中の学習を展開し、稲作の収穫や養蚕作業をとおしての労作教育をするのでした。
 石井十次の孤児院の基本的理念は、天は父なり、人は同朋なれば、互いに相信じ、相愛するということです。教育の基本方針は、4つをたてています。自然主義、家族主義、友愛主義、自律主義です。

 自然主義は、日本の自然・風土・文化・農業とのふれあいをとおして人格と体を養うということでした。自然教育は、情操を豊かにし、敬天の感性を育てるということです。家族主義は、相信・相愛の原点になります。家族の絆を大切にしていくという見方です。友愛主義は、人は皆同朋ということで、自律へ向けて先人たちの築いてきたことを学んでいくということです。自律主義は、人倫を明らかにして、労働自治を大切にして、実業教育を積極的に展開して、自律して生きる力を育てていくということです。

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 石井十次は、悪いことをする子どもたちの教育にライオン教育として、密室教育である一対一の話し合いの教育を取り入れたのです。大勢のまえで子どもをしかってはならないということで、子どものこころを傷つけることになるのです。それでは、子どもは自分のしたことに反省しないのです。

 石井十次は、子どもに反省する機会を十分に与えることで、子どもとじっくり向かい合うことをしたのです。子どもは自己弁護をします。いいわけをします。石井十次は、自分のやった悪いことに向き合わないときには、鉛筆を削りながら間をとったといわれます。そして、非体罰主義を徹底して貫いたのです。
 孤児院の経営には、托鉢(たくはつ)主義がとられた。各種の寄付金集めをそうよんだのです。石井十次と大原孫三郎は、石井にいわせれば「炭素と酸素、合えばいつでも焔になるということであった。石井の最大の支援者は大原孫三郎であり、大原にとって、石井は、心の支えであったのです。また、自分を大きく変えたのも石井であったのです。

 十次は晩年に寄付金主義から1911年の孤児院経営者の全国救児事業協議会で寄付金を募集せずの宣言をするのでした。労働による自活をめざすということです。宮崎県の茶臼原での鍬鎌主義の自活体制を推進していくのです。岡山孤児院にとっての大きな展開で茶臼原の農業自活体制、高鍋製糸、大阪での白米販売部の事業計画でした。岡山孤児院の茶臼原の全面移転であった。高鍋活版印刷所には岡山孤児院の活版部から数名の職人が転勤してきたのです。石井十次自ら注文とりに回り、活字2万字と手回しの印刷機を備えたのです。従業員は13名からのスタートであったのです。

 参考文献

横田賢一著「岡山孤児院物語ー石井十次の足跡」

柴田善守石井十次の生涯と思想」

 

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農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 



 

 

 

 

第2の近代・個人化と青少年の孤立からの解放―南九州大学教授 澁澤透先生の最終講義を中心としてー

第2の近代・個人化と青少年の孤立からの解放
 ―南九州大学教授 澁澤透先生の最終講義を中心としてー

     神田 嘉延

 

 澁澤先生は30年間にわたって南九州学園で社会科学的視点から教育学を担当してきました。近代的な主体形成の社会的認識力をどう育っていくのか。学生時代は、貧困地域のセツルメント活動に参加し、子どもの遊びを大切にした活動をしました。
 そして、生活綴り方教育をとおして、子どもたちの人間形成を探ってきたことを紹介しました。それは、教師の教育実践の素晴らしさのひとつです。戦後の教育実践を4期に分けて説明しました。民主化と教育の第1期、第2期は、仮説実験授業や水道方式の教育の現代化、第3期は、問題行動と教育、第4期が、90年代後半、低成長期の心の教育、学力向上です。最終講義では、第4期に焦点をあてて、発達と社会ということから第2の近代化・個人と青少年の孤立からの解放の問題提起を講義しました。
 澁澤先生は、現代において、地域共同体、家族などの個人を守る中間集団が衰弱しているとみています。そこでは、個人化=社会形態と心の習慣が乖離しているというのです。渋沢先生は、U.べックの第2の近代と個人化の概念から問題を深めています。ベックの第2の近代と個人化にとって、渋沢先生は、全体像のベックの理論を最終講義で省いたので、渋沢先生の講義と一部重複することがありますが、簡単に説明しておこう。
 ベックにとって、現代は、階級間の不平等の拡大、高度科学の応用による環境破壊、ジェンダー問題からの家族のリスク、議会の民主的統制の機能不全、官僚制肥大化の問題など様々な分野でリスクが生まれている社会というのです。
 第2の近代においては、自己内省的近代化が必要としているのです。ここには、近代の個人化には、個々が自立した力をもつために、制度として、宗教の寛容、市民的基本権、政治的基本権、社会的基本権が内実していることが求められるというのです。つまり、制度化された個人化を社会的に確立していくことです。
 また、現代は、家族が安全の源泉からリスクの源泉になっているのです。家族が担ってきた機能が社会化しなければ家族そのものがリスクになっていくというのです。保育所の整備、介護施設の整備などの社会保障が不可欠になっている時代がそのことを物語るのです。
 リスク社会をどのようにコントロールしていくのか。U.ベックにとっての大きな問題提起にもなるのです。議会による民主的統制は、期限付きの選挙によって選ばれた専制政治からから民主的に保障された討議の場が必要なのです。官僚制の肥大化という問題点もあります。経済的システムの原理と利害に対して、政治=行政システムが相対的に自律性を有していることと、さらに、司法が独立していることをあげています。
 高度の科学発展によるリスク社会は環境問題にあらわれているようにきわめて大きな課題です。原子力発電所の事故は、その典型です。高度の専門のみで科学技術開発をすることを廃して、専門相互間の関連性を基礎に専門の道をさぐるべきとしています。危険予測できるために科学者自身がコントロールできるであろうか。リスク社会と孤立していくという第2の近代の現実で、いかにして、自立した個人、制度として保障されていく個人化をつくりあげるかという課題があるのです。
 澁澤先生は、日本の青少年は、自尊感情がとくに低いと統計的データーから示します。そして、このことは日本の社会環境、教育環境にあるとします。また、90年代後半以降に地域や家族の絆の弱まりによって、子どもの表現に家や家族の人物を描くことが小さくなったとしています。自己を肯定する意識も弱くなり、孤立している子どもが増えているというのです。子どもは、内的な動機で行動するのではなく、外的な動機によって行動することから、孤立に拍車がかかっているのが現代の特徴と澁澤先生はのべるのです。
 自己肯定感を高めるためには、自己主張をしながら自己抑制していく発達の援助が必要とします。また、承認の場と社会参画の追求が不可欠です。子どもの市民参加の教育をどのように進めていくのかという大きな課題があると渋沢先生は問題提起するのです。それは、大人と異なる子どもの自身の発想による参加です。社会参加をとおして、いくつかの段階の子供間の承認と社会的承認によって、子どもの自尊心の高まり、自己肯定が増していくというのです。
 澁澤先生は、南九州大学の退職後に、東京で青少年向けの塾を開いていく構想をもっているようです。先生の東京でのご活躍を期待します。

 

学校再生論の礎石―人間・国家・地域と学校 (現代教育学全書)

学校再生論の礎石―人間・国家・地域と学校 (現代教育学全書)

 
農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 

佐賀藩弘道館の教育 ー現代に問いかけるものはなにかー

佐賀藩校の弘道館明治維新の7賢人
    ー現代に問いかける教育の力とはなにかー

         神田 嘉延

 

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 佐賀藩では明治維新に活躍した7賢人がいわれます。明治維新のなぞを考えていくうえで、江藤新平島義勇等が率いた佐賀の乱がなぜ起きたのか。佐賀の征韓論憂国の党をどのように考えるのか。
 明治維新のなかで理想を求めたが報われずに没落していく下級士族の貧困化がありました。かれらを扇動し、謀略に利用された「ポピュリズム」の問題が当時にもあったのです。江藤と島の説得も及ばず、かれらに心情に巻き込まれた。

 征韓論は、明治維新における日本の近代化の尊皇思想のなかから生まれました。近隣諸国との友好、共存・共栄の共生関係を無視した自国民絶対という考えがありました。そのような国益主義は、侵略戦争と民族排外主義的なナショナリズムの形成にも利用されました。日本は、戦前に朝鮮半島を植民地にしたのです。そして、征韓論にあった自国民利益絶対主義の問題は、現代的にも解決されていない。

 日本国憲法の前文では、平和のうちに生存する権利を維持するために、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とうたっています。自国の主権の維持と他国との対等関係は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって安全と生存を保持できるというのが日本国憲法前文の精神です。

 日本と朝鮮、日本と中国との近代史関係を相互の信頼関係で正しく認識していくことは、未来志向的に平和と共存・共栄にとって、大切な課題です。この課題は教育によって達成するのです。教育の力が平和と友好関係をつくるのです。

 明治維新のなかで吉田松陰板垣退助征韓論を考えていくことは、欧米に対する優美な見方と、近隣諸国のアジアを蔑視する脱アジア論があったのです。この考えは国民意識にも浸透していくのです。また、尊皇ということが征韓論と結んだのです。

 征韓論者には、徳川幕府と朝鮮王朝の対等関係は許しがたいという認識でした。日本の新政府における朝廷親交となるには、皇と勅という文字を使用しなければならない。王政復古は、古代日本が朝鮮半島に支配権をもっていたという論拠です。これを認めない朝鮮は、無礼であり、武力で正さなければならないというのが征韓論です。

 一方的に日本の新政府の価値観をおしつけていく考えです。朝鮮側が、江戸時代の外交文書と異なっているので拒否する見解です。西郷隆盛のように、話し合いによって、外交関係を確立していくとする遣韓論もありました。遣韓によって、朝鮮との外交関係を確立していこうとすることが西郷筆頭参議の政府施策になるのです。しかし、大久保等による明治6年10月の政変が起きて、その施策は実行されませんでした。その後は日本の政治体制は、有司専制政府になっていくのです。

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 佐賀藩には、江戸時代まで、えびす信仰があったのです。その後も民衆の生活には深くえびす信仰が根付いていたのです。明治維新以降の為政者は、近隣の外国からやってくる人々が福をよび、航海の安全に、海にある富の恵みをもってくることと大きく異なります。
 副島種臣は、福岡孝弟などと明治新政府三権分立の政体書を起草した人物です。広く会議を興し万機公論に決すという五箇条のご誓文など明治維新の新政府の基本理念をつくりました。明治7年1月に板垣退助とともに、天賦人権論に基づき民選議院設立を求める愛国党を結成しました。

 大隈重信は、大蔵省を改革し、大久保と対立し、早期の憲法公布と国会開設を主張したのです。また、征韓論には反対したのです。早稲田大学を開校し、学問の自由を重視しています。後に、外務大臣、総理大臣にもなった人物です。

 7賢人は、弘道館を改革した藩主の鍋島直正をはじめ、他の6人も弘道館で学んだのです。弘道館は、尊皇思想の国学を中心にしていましたが、欧米の政治制度、思想、科学技術を積極的に取り入れました。弘道館は、明治維新における日本の改革の人材を輩出しているのです。この明治維新における日本の改革とは何であったのか。
 明治維新は、有司専制以降に、征韓論を起点に、明治8年の日本と朝鮮の武力衝突の江華事件になります。その後は、アジアへの武力による植民地獲得、絶対主義的中央集権など江戸時代の幕藩体制を大きく変えたのです。また、政治、行政と一体となった財閥体制を確立させました。その後に、商業活動と結びついての農民の貧困化、地主と小作関係がつくられていくのです。農村から絶対的な貧困者が都市の低賃金構造をつくりました。

 日本的な絶対権力と結びついたルールのない資本主義化が進み、明治新政府の金銭をめぐる金権退廃状況が起きるのです。徳のない、モラルのない社会へと進んでいくのです。このなかで、小野組、三井、住友等の政商が日本経済で大きな力をもっていきます。江戸時代の豪商は財閥となって政治権力と結んでいく社会構造をつくりあげていくのです。これらの動きに、佐賀の7賢人はどのように対応したのでしょうか。江藤新平は司法の力で、維新の新政府の要人であった山県有朋井上馨を裁いたのです。

 一方で、政府を離れ民間に移り、「論語と算盤」をあらわしして、渋沢栄一のような民間の経済人もいましたた。かれは、モラルを重視して第一銀行の頭取として、明治、大正期の日本の経済をリードしたのです。江戸時代には石田梅岩のように商人の道徳論も日本の文化にあったことを見落としてはならないのです。
 佐賀市内には、唐人町を中心にして、外国からやってくる人々が福をよぶということでえびすさまを大切にした信仰もありました。笑顔をもった様々な表情のえびす様が街角にいます。商人のあり方や海外からやってくる人々に対する人間的な情を考えていくうえで、現代でも学ぶことがたくさんあります。このことと、征韓論をどのように考えるのか。
 佐賀の7賢人は、県民が幕末から明治維新、明治の近代化のなかで活躍した人の総称として、今でも言われます。それぞれの人物の歴史的な評価は、明治の近代化をどうとらえていくかによって、異なると思います。佐賀がいち早く西洋の科学・技術を取り入れ、また、西洋の医療を取り入れるために、医学館をつくるなどして、西洋文明を積極的に取り入れたのが佐賀藩であったのです。この人材養成の中心になったのが、藩校の弘道館です。
 7賢人は、幕末の藩主の鍋島直正がまずあげられます。 鍋島直正は、1830年に藩主になりましたが、弘道館充実の施策を行いました。藩として、優秀な人材を養成して、かれらを積極的に藩政改革のために登用したのです。直正は、洋学の影響を受け、科学技術を発展させました。反射炉、鉄製等の科学・技術開発をして富国強兵策をはかったのです。そして、近代的な科学技術を利用しての工場をつくっていったのです。母方の従兄弟である島津斉彬蒸気機関等の技術を提供しています。
 さらに、医学の発展にも尽くし、佐賀藩医学館をつくり、西洋医学を積極的に取り入れて、種痘法なども行うのです。直正は、質素倹約と借金の整理策で藩財政を立て直すのでした。家臣には、生活に必要な相続米支給ということで、知行をすべて藩に収納することにしたのです。
 商人たちの農村での生活を禁止して、綿打ち、大工、鍛冶、家葺き(いえふき)の4つの職のみが農村の生活が許されたのです。農商分離施策を徹底させて、農民生活の安定策をしたのです。商人たちの無法な金儲け主義を規制するために、商人たちの農村での居住を制限したのです。

 商人たちの返済は、70年、100年という年賦返済ということで借金の棒引きをして、さらに、4分の1の支払いで、あとの残りは、商人の献金策ということでした。産業の起業によって、財政と人々の生活を豊かにしたのです。商人も新たな活路を得ていくのでした。お金を貸すことによっての高金利を得るという方法ではなく、産業振興によって、利益を得ていくという方法を奨励したのです。
 弘道館では、大義を基本にしての学問の推奨でした。国政の中心は、人材養成ということで、学問は普遍的な真理の探究にしたのです。教育のためには、大胆に予算を増やしたのです。学問のため、教育のためには、予算を削ってはならないことを藩の基本施策になったのです。

 上級の家臣ばかりではなく、下級の武士の子弟も含めて、弘道館では一定の学問の課業を与えて、卒業制度を設けていたのです。卒業できないものは、家禄の一部削減の罰をするのでした。
 弘道館の教師たちにも学問の大義として、独善的にならず、他人の意見を謙虚に受けることでの真理探究の奨励でした。そこでは洋学を含めて広く真理探究を求めたのです。
 佐野常民は、1855年に長崎の海軍予備伝習に参加して、海軍所の責任者になるのでした。そして、日本初の蒸気機関車模型を完成させたのです。明治維新後は、日本海軍の創設の基礎づくりに尽力しました。からは、パリ万博博覧会参加で、国際赤十字の組織と活動を知り、博愛社日本赤十字の発展に尽くすのです。

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 江藤新平は、初代司法卿として、日本の近代法制度の確立の端緒の問題提起をしています。また、三権分立の国家制度をめざしましたが、明治6年10月の政変によって、政府を去り、佐賀の乱で非業の死に至るのです。
 明治新政府内のカネと政治をめぐる不正問題は深刻であった。江藤新平等の追求で山県有朋井上馨汚職問題で政府の中枢部からおろされたのです。議会制は実現しなかったが熱心な検討がされたのです。民法と公法を区別しての法治主義、司法制度を考えたのです。
 日本の幕藩体制封建制度から絶対主義的な中央集権の至る過程において、江藤新平のような考えが士族民権、議会主義、憲法主義・法治主義が存在していたのです。江藤はヨーロッパの司法制度も熱心に学び、日本の現状にあわせて制度を考えました。
 島義勇は、北海道の開拓の父とよばれています。藩主の命で北海道、樺太の探検調査をしています。島は、札幌を開拓本府と定めて建設し、松前藩の請負制度を通告します。そのときは、時期尚早主張の開拓長官と対立し、実現することができなかったのです。
 大木喬任は、1907年の帝国教育会主催の明治6大教育家に顕彰されます。6大教育家は、森有礼近藤真琴中村正直新島襄福沢諭吉が賢章されたのです。大木は、大久保の側近として活躍します。戸籍制度の制定も行います。大蔵省の大隈と対立するのでした。
 以上のべてきたように明治維新での佐賀の賢人は、弘道館で結ばれていましたが、それぞれの立場は異なっていたのです。