社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

佐賀藩弘道館の教育 ー現代に問いかけるものはなにかー

佐賀藩校の弘道館明治維新の7賢人
    ー現代に問いかける教育の力とはなにかー

         神田 嘉延

 

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 佐賀藩では明治維新に活躍した7賢人がいわれます。明治維新のなぞを考えていくうえで、江藤新平島義勇等が率いた佐賀の乱がなぜ起きたのか。佐賀の征韓論憂国の党をどのように考えるのか。
 明治維新のなかで理想を求めたが報われずに没落していく下級士族の貧困化がありました。かれらを扇動し、謀略に利用された「ポピュリズム」の問題が当時にもあったのです。江藤と島の説得も及ばず、かれらに心情に巻き込まれた。

 征韓論は、明治維新における日本の近代化の尊皇思想のなかから生まれました。近隣諸国との友好、共存・共栄の共生関係を無視した自国民絶対という考えがありました。そのような国益主義は、侵略戦争と民族排外主義的なナショナリズムの形成にも利用されました。日本は、戦前に朝鮮半島を植民地にしたのです。そして、征韓論にあった自国民利益絶対主義の問題は、現代的にも解決されていない。

 日本国憲法の前文では、平和のうちに生存する権利を維持するために、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とうたっています。自国の主権の維持と他国との対等関係は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって安全と生存を保持できるというのが日本国憲法前文の精神です。

 日本と朝鮮、日本と中国との近代史関係を相互の信頼関係で正しく認識していくことは、未来志向的に平和と共存・共栄にとって、大切な課題です。この課題は教育によって達成するのです。教育の力が平和と友好関係をつくるのです。

 明治維新のなかで吉田松陰板垣退助征韓論を考えていくことは、欧米に対する優美な見方と、近隣諸国のアジアを蔑視する脱アジア論があったのです。この考えは国民意識にも浸透していくのです。また、尊皇ということが征韓論と結んだのです。

 征韓論者には、徳川幕府と朝鮮王朝の対等関係は許しがたいという認識でした。日本の新政府における朝廷親交となるには、皇と勅という文字を使用しなければならない。王政復古は、古代日本が朝鮮半島に支配権をもっていたという論拠です。これを認めない朝鮮は、無礼であり、武力で正さなければならないというのが征韓論です。

 一方的に日本の新政府の価値観をおしつけていく考えです。朝鮮側が、江戸時代の外交文書と異なっているので拒否する見解です。西郷隆盛のように、話し合いによって、外交関係を確立していくとする遣韓論もありました。遣韓によって、朝鮮との外交関係を確立していこうとすることが西郷筆頭参議の政府施策になるのです。しかし、大久保等による明治6年10月の政変が起きて、その施策は実行されませんでした。その後は日本の政治体制は、有司専制政府になっていくのです。

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 佐賀藩には、江戸時代まで、えびす信仰があったのです。その後も民衆の生活には深くえびす信仰が根付いていたのです。明治維新以降の為政者は、近隣の外国からやってくる人々が福をよび、航海の安全に、海にある富の恵みをもってくることと大きく異なります。
 副島種臣は、福岡孝弟などと明治新政府三権分立の政体書を起草した人物です。広く会議を興し万機公論に決すという五箇条のご誓文など明治維新の新政府の基本理念をつくりました。明治7年1月に板垣退助とともに、天賦人権論に基づき民選議院設立を求める愛国党を結成しました。

 大隈重信は、大蔵省を改革し、大久保と対立し、早期の憲法公布と国会開設を主張したのです。また、征韓論には反対したのです。早稲田大学を開校し、学問の自由を重視しています。後に、外務大臣、総理大臣にもなった人物です。

 7賢人は、弘道館を改革した藩主の鍋島直正をはじめ、他の6人も弘道館で学んだのです。弘道館は、尊皇思想の国学を中心にしていましたが、欧米の政治制度、思想、科学技術を積極的に取り入れました。弘道館は、明治維新における日本の改革の人材を輩出しているのです。この明治維新における日本の改革とは何であったのか。
 明治維新は、有司専制以降に、征韓論を起点に、明治8年の日本と朝鮮の武力衝突の江華事件になります。その後は、アジアへの武力による植民地獲得、絶対主義的中央集権など江戸時代の幕藩体制を大きく変えたのです。また、政治、行政と一体となった財閥体制を確立させました。その後に、商業活動と結びついての農民の貧困化、地主と小作関係がつくられていくのです。農村から絶対的な貧困者が都市の低賃金構造をつくりました。

 日本的な絶対権力と結びついたルールのない資本主義化が進み、明治新政府の金銭をめぐる金権退廃状況が起きるのです。徳のない、モラルのない社会へと進んでいくのです。このなかで、小野組、三井、住友等の政商が日本経済で大きな力をもっていきます。江戸時代の豪商は財閥となって政治権力と結んでいく社会構造をつくりあげていくのです。これらの動きに、佐賀の7賢人はどのように対応したのでしょうか。江藤新平は司法の力で、維新の新政府の要人であった山県有朋井上馨を裁いたのです。

 一方で、政府を離れ民間に移り、「論語と算盤」をあらわしして、渋沢栄一のような民間の経済人もいましたた。かれは、モラルを重視して第一銀行の頭取として、明治、大正期の日本の経済をリードしたのです。江戸時代には石田梅岩のように商人の道徳論も日本の文化にあったことを見落としてはならないのです。
 佐賀市内には、唐人町を中心にして、外国からやってくる人々が福をよぶということでえびすさまを大切にした信仰もありました。笑顔をもった様々な表情のえびす様が街角にいます。商人のあり方や海外からやってくる人々に対する人間的な情を考えていくうえで、現代でも学ぶことがたくさんあります。このことと、征韓論をどのように考えるのか。
 佐賀の7賢人は、県民が幕末から明治維新、明治の近代化のなかで活躍した人の総称として、今でも言われます。それぞれの人物の歴史的な評価は、明治の近代化をどうとらえていくかによって、異なると思います。佐賀がいち早く西洋の科学・技術を取り入れ、また、西洋の医療を取り入れるために、医学館をつくるなどして、西洋文明を積極的に取り入れたのが佐賀藩であったのです。この人材養成の中心になったのが、藩校の弘道館です。
 7賢人は、幕末の藩主の鍋島直正がまずあげられます。 鍋島直正は、1830年に藩主になりましたが、弘道館充実の施策を行いました。藩として、優秀な人材を養成して、かれらを積極的に藩政改革のために登用したのです。直正は、洋学の影響を受け、科学技術を発展させました。反射炉、鉄製等の科学・技術開発をして富国強兵策をはかったのです。そして、近代的な科学技術を利用しての工場をつくっていったのです。母方の従兄弟である島津斉彬蒸気機関等の技術を提供しています。
 さらに、医学の発展にも尽くし、佐賀藩医学館をつくり、西洋医学を積極的に取り入れて、種痘法なども行うのです。直正は、質素倹約と借金の整理策で藩財政を立て直すのでした。家臣には、生活に必要な相続米支給ということで、知行をすべて藩に収納することにしたのです。
 商人たちの農村での生活を禁止して、綿打ち、大工、鍛冶、家葺き(いえふき)の4つの職のみが農村の生活が許されたのです。農商分離施策を徹底させて、農民生活の安定策をしたのです。商人たちの無法な金儲け主義を規制するために、商人たちの農村での居住を制限したのです。

 商人たちの返済は、70年、100年という年賦返済ということで借金の棒引きをして、さらに、4分の1の支払いで、あとの残りは、商人の献金策ということでした。産業の起業によって、財政と人々の生活を豊かにしたのです。商人も新たな活路を得ていくのでした。お金を貸すことによっての高金利を得るという方法ではなく、産業振興によって、利益を得ていくという方法を奨励したのです。
 弘道館では、大義を基本にしての学問の推奨でした。国政の中心は、人材養成ということで、学問は普遍的な真理の探究にしたのです。教育のためには、大胆に予算を増やしたのです。学問のため、教育のためには、予算を削ってはならないことを藩の基本施策になったのです。

 上級の家臣ばかりではなく、下級の武士の子弟も含めて、弘道館では一定の学問の課業を与えて、卒業制度を設けていたのです。卒業できないものは、家禄の一部削減の罰をするのでした。
 弘道館の教師たちにも学問の大義として、独善的にならず、他人の意見を謙虚に受けることでの真理探究の奨励でした。そこでは洋学を含めて広く真理探究を求めたのです。
 佐野常民は、1855年に長崎の海軍予備伝習に参加して、海軍所の責任者になるのでした。そして、日本初の蒸気機関車模型を完成させたのです。明治維新後は、日本海軍の創設の基礎づくりに尽力しました。からは、パリ万博博覧会参加で、国際赤十字の組織と活動を知り、博愛社日本赤十字の発展に尽くすのです。

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 江藤新平は、初代司法卿として、日本の近代法制度の確立の端緒の問題提起をしています。また、三権分立の国家制度をめざしましたが、明治6年10月の政変によって、政府を去り、佐賀の乱で非業の死に至るのです。
 明治新政府内のカネと政治をめぐる不正問題は深刻であった。江藤新平等の追求で山県有朋井上馨汚職問題で政府の中枢部からおろされたのです。議会制は実現しなかったが熱心な検討がされたのです。民法と公法を区別しての法治主義、司法制度を考えたのです。
 日本の幕藩体制封建制度から絶対主義的な中央集権の至る過程において、江藤新平のような考えが士族民権、議会主義、憲法主義・法治主義が存在していたのです。江藤はヨーロッパの司法制度も熱心に学び、日本の現状にあわせて制度を考えました。
 島義勇は、北海道の開拓の父とよばれています。藩主の命で北海道、樺太の探検調査をしています。島は、札幌を開拓本府と定めて建設し、松前藩の請負制度を通告します。そのときは、時期尚早主張の開拓長官と対立し、実現することができなかったのです。
 大木喬任は、1907年の帝国教育会主催の明治6大教育家に顕彰されます。6大教育家は、森有礼近藤真琴中村正直新島襄福沢諭吉が賢章されたのです。大木は、大久保の側近として活躍します。戸籍制度の制定も行います。大蔵省の大隈と対立するのでした。
 以上のべてきたように明治維新での佐賀の賢人は、弘道館で結ばれていましたが、それぞれの立場は異なっていたのです。