社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

貝原益軒と習俗からの学び

    貝原益軒と習俗からの学び

 はじめに

 

 f:id:yoshinobu44:20211203155232j:plain

 貝原益軒が少年時代を過ごしたのは、筑前飯塚市八木山の集落です。現在は、その地に貝原益軒学習の碑があります。飯塚市から福岡市への国道201号の山を登っていく道路沿いに、八木山小学校があります。その向かいの道を入ったところに学習碑があります。ここは、のどかな田園風景です。益軒は、少年時代の感性強いときに、この自然の山に囲まれた田園風景で育ったのです。

f:id:yoshinobu44:20211203155406j:plainf:id:yoshinobu44:20211204104233j:plain

f:id:yoshinobu44:20211204103915j:plain 

 貝原益軒の父親は武士でしたが、幼いときに、父の転職で各地に転居しました。民間で生活した経験もありました。父は益軒13歳のとき、知行を失い、医業を営むようになります。益軒は少年期のときから、父親によって、儒学を学びました。利発であった益軒は、18歳で忠之の近侍として任官されますが、諫言することで、20歳のときに忠之の怒りにふれ、失職します。7年間の浪人生活をするのでした。

 しかし、黒田藩の重臣より、益軒の学問的能力が27歳のときに認められ、藩の費用で京都などに留学できるようになるのです。7年間京都などで学び、34歳のときに福岡に戻り、150石の知行をもらいました。

 福岡では、若い藩士のために儒学の大学の講義をするのでした。益軒は、黒田藩の儒学者として、若い藩士の教育者として、また、儒学者として藩の相談役を勤めます。さらに、黒田家の歴史をまとめる仕事をします。そして、くまなく調査した筑前国風土記をあらわすのでした。
 貝原益軒(1630年~1714年)は81歳の晩年に「和俗童子訓」で、民衆の中に根づいていた習俗の子育てを儒学的な孝の精神によって整理しました。83歳のときには、自然の力、民衆の暮らしの健康術を学んだものを養生訓として書いています。

 益軒の暮らした同時代では、「仁愛、恕(思いやり)」と日本的ヒューマニズムを説いた伊藤仁斎がいます。この時代は、子どもの教育は僧によって行われていた時代から次第に民間の学問をする人々に変わっていくのです。
 貝原益軒の学問は、民間の人々の生活習慣を大切にして、孝の道徳が大きな柱になるのです。それは、天地すなわち自然の心は仏教によって定着していた恩の観念に通じるものです。仁の心は、恩に応えるということで、万物に対してあわれみ、愛をもち、報恩の精神を形成するというのです。
 習俗としての親子関係は報恩の精神からです。自然のなかにある法則性が人間の習俗を支配するとみるのです。孝によって、秩序を考え、忠義と孝は次元が異なると、貝原益軒は考えたのです。

 f:id:yoshinobu44:20211204103733j:plain

 

貝原益軒の子育て・教育論


 貝原益軒の子育て、教育論では、過保護を戒め、とくに富貴の家の子どもは、特別に注意が必要としています。彼は、儒学的な忠義の精神ではなく、民衆の暮らしのなかにある孝行から儒学を考えたのです。ここに貝原益軒儒学思想の特徴があります。
 小さいときから早く善い人に近づけ、良い道を教えるべきというのが益軒の子育て論です。人はみな天地の徳を生まれつきもっていますが、教えがなくては、人の道を知ることができないと益軒は考えるのです。
 益軒は、善い人を選んで教育にあたるべきとのべます。子どもが悪くなるのは、そばについている人が教えの道を知らないからというのです。学問をするのは、善を好み、善を行うためという志が重要だと益軒は強調します。

 子どもを育てるのは、人としてのまもるべき義の教えをするのがよいというのです。子どもは厳しく教え、かわいがりすぎると、父母を尊敬する教えが行われず、規律を守らず、したがって父母をあなどって孝の道がたたなくなるというのです。

 貝原益軒にとって、子どもを愛して、大事にするには、その子に苦労させる必要があるというのです。困難に耐えられる子どもが大切というのです。その家の位よりも貧しく、何でも足りないことに遭遇して、もてなしを薄くして、気ままにさせないほうがよいというのです。
 さらに、人間として最も大切なことで、教育の本質でもある善の志を身につけていくことで、うそをいわぬ、偽りをいわないことを教えの本道にするのです。約束を違えては、偽りとなり、信用を失えば人の道ではないと。子育てにとって大切なことは、子どもの時から心をおだやかに、人を愛し、なさけをもつようにし、人を苦しめたり、あなどったりせず、つねに善を愛し、仁を行うことを志としなければならないと益軒は強調するのです。
 益軒の生きていた時代に、子どもを早くから教育するといじけるからよくないという人がいました。つまり、知恵は自然とつくということで、ただ思うようにさせておくがよいという考えがありましたが、これは愚かな人のいうことですと益軒は、子どもの自然成長性を否定するのです。
 子どもの好きなことは、まずその好むところのわざをえらばないといけないというのです。人間らしく生きるうえで好むことが最も大事というのです。しかし、益軒は、人間的な善によって、子どもの好むことに気をつけて、よく選び、好みにまかせてはいけないというのです。子どもの好みにまかせては善悪を選ばないことになるというのです。ここに、教育の大切さがあるというのです。
 人には三愚あると益軒はいうのです。すぐれた才能があっても傲慢で自分の才をほこり、人をあなどるという人がいます。親が子どもをほめるのは、子どもが悪くなるというのです。諫言をきいたら喜んでそれを受け入れなければならぬ習慣を身につける必要があるというのです。諫言されたら、けっして怒ったり、そむいたりしてはいけませんし、諫言をきいて喜んで受けたならば、その人は善人になっていくというのです。諫言を積極的に受け入れて、自分のものにしていくというのが、益軒の見方です。
 四民(士農工商)とも、その子の幼児から礼儀作法、聖経を読ませ、仁義の道理、書き方、算数を習わせることが必要ということで、すべての人々の子弟に学ぶことの大切さを強調しているのも益軒の見方です。六芸という礼、楽、射、御(ぎょう=馬術)、書、数は、大切ですが、義理の学問が本道で、芸は、末です。六芸のうち、書き方、算数は、金持ちも貧乏人も四民共に学ぶことが必要というのです。

 算数は卑しいわざであるという日本の風俗は誤りですと益軒はのべるのです。身分の高い者、低い者も、算数を知らないと自分の財産や禄の限度を考えず、みだりに財産を使ってしまって困窮するというのです。
 貝原益軒は随年教法をとったのです。六才の子には、はじめて字を教えるのに「あいうえを」。七才の子には、男女席を同じにしないように。この年齢の子どもの知恵は少しずつでてきます。だんだんと礼法を教えます。八才の子どもは、古人が小学を学びはじめたときです。幼い子どもに、とくに義を教えることが大切になっていきます。
 10歳になったら、5常の道(仁、義.礼、智、信)5倫(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)の道をおおまかに教えることが必要というのです。10歳になると外に出して昼夜、師につかえます。これらの教育のためには、父母の家におくことを推奨しませんでした。子どもをいつも父母のそばにつけておきますと、恩愛になれて、日々あまえ、気ままになり、努力して艱難にたえられないからというのです。
 15歳になったら、大学の学問をはじめる年です。身を修め、人を治める道を学ぶのです。20歳には冠をかぶるということで、大人の徳に従うのです。大学は、少しずつ教え、好きになることです。難しく面倒で、その気を屈するようなことはしてはならというのです。難しく教えると学問を苦しんでいやがる心がでてくるのです。
 教えるには順序が必要というのです。はじめて本を読む時はまず文句を短くして、読みやすく覚えやすいことを教えるがよいというのです。本を読むには早くさきを読んではいけない、毎日読む努力させる必要があるというのです。

 そこでは、学ぶことがきらいにならぬようにする工夫が必要だということです。一度にたくさん教えても意味がない、一字、二字、三字ずつ字を知らせ、そのあと一句ずつ教えるが工夫が求められるというのです。そして、句読をはっきりさせて読ませ、文章の意味を教えていくことが必要なのです。

 以上にように、貝原益軒は、教える方法についても年齢ごとに配慮しての子育て、教育の工夫を求めているのです。


 貝原益軒の女子を教える法

 

 貝原益軒は、女子を教えるのは親というのです。ここが、男子と異なるのです。師にしたがい、ものを学び、友達と交わり、世上の礼法を見聞することが多い男子と違う現実があるというのです。

 女子は、いつも家のなかにいるので、師にしたがって道を学ぶことがない。女子は、心を本道として、和と順の女徳、貞信に、なさけが深く、つつましやかで、静かな心をもつように育てられて、教育される必要があるとするのです。

 婦人の職分は人に仕えて、家庭内を治めるものというのです。女には、4つの行として、婦徳、婦言、婦容貌、婦効があるといいます。子を思う道に迷って、愛におぼれててはいけないと益軒は、女子教育の家での教育の難しさを語るのです。

 4つの女性の行について、益軒は次のようにのべるのです。婦徳とは、こころだてのよいことを言う。こころがただしくきれいで、和順の徳とすることです。婦言とは、嘘を言わず、言葉をえらんでいい、ふさわしくない悪い言葉を使わない。言うべきときにのべて、不要なことは言わない。また、人のいうことをよく聞く。

 婦容とは、無理にかざっていないが、よそおいが上品でふるまいがきれいで、衣服もさっぱりしていることです。婦効とは、女性の勤めるべきことの織物、糸つむぎ、衣服を整えることです。

 益軒は、女性にも学問が必要と強調します。女性にとっての学問を身につけていくことを強調した益軒の子育て・教育論を見逃してはならない。7歳からかなを習わせ、漢字も習わせるのがよいとしています。そして、古い歌を読ませ、風雅を知らせる必要があるというのです。

 貝原益軒の女性の勤めということは、家族的共同体における男が外で、女は、内という家族内分業と封建的な家父長制が支配していた時代の産物です。現代に貝原益軒の女子を教える法から学ぶことは、女性も読み書きからの学問が必要ということで、生きる志を学ぶということを見逃してはならないのです。

 婦人に起こるこころの病は、和順でないことにあるというのです。それは、怒り、うらむのと、人をそしのると、ものをねたむと、知恵がないということですと益軒はのべますが、これらの心のなかにある弱点は、女性ばかりではなく、人間のもっている悪の業のようなものです。常に人間の善のこころとして克服していく教育や修行の課題があるのです。

 

 貝原益軒のみる学ぶことの本質ー大和俗訓からー

 

 貝原益軒にとって、天地の理と人の道とは、聖人経典の学にあるというのです。天地は万物の父母で、仁義礼智信という五常は、天地のこころをもっているというのです。天地は万物を生み養うことで、人は天地の大恩をうけているというのです。

 仁の理は天より生まれた本性で、人倫をあつく愛し、鳥獣草木をあわれんで天地の恵みを力を助けるをもって、天地に仕える仁義とするのです。人は天地の恵みによって生まれ、天地の心を受けているのです。人は、天地のうちにすみ、天地の養い受けているのです。益軒にとって、天地の心は絶対的であるのです。天地の恵みによって、人は生まれ、生きることができるというのです。

 人は無限の大恩を天地から受けているのです。人欲によって、天理に従わないのは、天地の大恩にそむくものと益軒はみるのです。仁者は、人を愛し、われを愛する心をもって、人を愛するものです。仁者は、自分がきらうことは人にほどこさないのです。そして、我が身をたてようとして、人をたてようとするのです。

 益軒は、人欲と天理の矛盾を指摘して、天地の大恩をもって、人を愛することを強調するのでした。益軒のヒューマニズムは天理と密接に結びついているのです。

 益軒の学問の推奨には、志を根本としているのです。かれの学問論はまず志をたてることを根本ということから出発するのです。志は大きく高くするのがよいとするのです。志が小さく、低くすると小さな成功に案じて成就しにくくなるというのです。天下第一等の人となると平生から志すが強く、大きく、高い志をもって日々勤めて行えば長い間に、その効がつもって、かならず人にまさることになるとみているのです。

 博学で経書に通じていても、その心だてや行いが悪くて俗人に劣っている人がいると益軒は指摘するのです。これは道に志がなくて、道にわが心を得ていないからというのです。道に志がなかったならば、文字を知っているだけで、心に益がなく、無用の学問と益軒は切り捨てます。

 益軒にとって、志をたてることは、広く古い書を読んで、我が身を誤りを改め、善にうつって、身を修める工夫をするということです。学問をするには、師を尊ぶことになるのです。およそ人が不幸不忠であったり、いろいろと悪を行ったり、欲をほしいままにして、身や家を滅ぼすのは知がないからと、知の重要性を強調します。

 益軒は、知があれば善悪を知るというのです。書を読み聞く見るという知と真知とがあります。真実の知は、書物を読んで聞く見る知によって、わが心に道理の真を知ることです。真に知ればよく行うことです。学問をすればわがために、人のために益となるのです。それは、有用の学になるというのです。

 有用の学問ということで、益軒は、次のようにのべます。有用の学問は、身を修め、人倫の道を篤く行い、善をして人を助けることです。疑いを人に尋ねることは、知恵を求める道です。問うのは知恵を人に求めることです。思うのは知恵をわれに求めるのです。

 益軒は、ふだんの身近なことから有用の学問の行いをするのがよいと言うのです。心が大きいとおごって慎みがなく、細かい小さな行ないに努めない。学問の基は謙虚です。我が身をほこらず、人にたかぶらないので、人に問うことを好み、師友をうやまって、教えをよく聞き、人の諫めをよろこび、人を責めずに、我が身を責めるのをへりかだるというのです。

 益軒は、人の性は本来善というのです。人はたいてい気質と人欲に妨げられて善を失うのです。人欲の妨げを去って本性の善になっていくことが学問の道です。学問の法は、知と行の二つを要するのです。

 知行には5つがあると益軒はのべます。中庸、博(ひろ)く学ぶ、審(つまびらか)に問い、謹んで思い、明らかに弁(わきま)え、篤(あつ)く行うということです。博く学ぶ方法は、見ること、聞くことです。天下の道理は無限です。その道理を知らないと行うべき方法がわからないで誤ることが多いというのです。

 道理はわが一心に備わり、その作用は万物の上にあるから、まずわが一心の道理をきわめ、次に万物のついてひろい道理を求めて、自分の心中に自得すべきです。博く学ぶことは本を読むほど益のあるものですが、文字だけを好んで義理を求めないのは博く学ぶことではないと益軒はみるのです。

 審らかに問うとは、すでに学んだことで、自分の心にうたがわしいことを明師や良友に近づいて詳しく問うて、その理を明らかにして、疑いと解くことです。謹んで思うは、学び尋ねたことを心を静かにして慎重に考えて、とく納得しなければならということです。

 学問は自得を尊ぶことですと益軒はのべます。自得とは謹んでよく思って、心中に道理を納得して自分のものにしたことです。明らかに弁えることは、すでに謹んで思案して、なお善悪のまぎらわしいことがあったら明らかにその是非をきわめることです。

 篤く行うにはすでに学び問いて学び弁えて、その道理を知ったならば、その道理を篤く行うことで、その道がたっていくことです。篤く行うには、ことばに忠信にしていつわりなく、行いを謹んで誤りを少なくすることです。人のわざわいは多ければ言葉と行いとの二つを出ない。言葉をまことにして行いを慎めば身がおさまるのです。

 ところで、人の身の行動は7つの情から起きると益軒はのべます。喜怒哀楽愛悪欲という7つの情です。7情はみなこれ人情であるから、それはなくてはならないというのです。過不足なく適度なことが必要です。過ぎたるはもっとも害が多いのです。人をあわれるものはまことの善です。

 しかし、自分の気に入った人を愛することで、愛におぼれ、その人の悪いことがわからず禍となることがあります。怒るべき時に怒るのは人の不善をいましめる道です。怒りすぎると、その人の善のあることを知らず、小さな誤りを大きくすることがあるのです。悲しむべきときに、悲しまず、楽しむべき楽しまないのはひたすら情がないことです。7情のうち怒りと欲の二つはもっともわが心を害し、身をそこなうと益軒はいうのです。

 禍を生じないためには、欲を少なくする工夫が必要です。十分に心がかなうと禍があるのです。常に不足がよいというのです。足ることを知ることが大切なのです。我が身に事が足りていることを知ったならば、貧賊であっても楽しい。足ることを知らないと富貴であっても楽しくないのです。益軒にとって、公の見方は、天道の恵みで人に愛敬をもって集まることです。

 公益を考えていくうえで、私欲の克服は重要なことです。益軒の考える私欲とは、ひたすらわが身を利しようとばかり思って、人のためにかえりみないことです。これは人とわれをへだてることです。公益とは、人とわれをへだてることがなく、われと人を同じく利することです。これは天意にかない、人心にかなうことです。だからその心の誠は、自然にあらわれて、人の誉れも喜びもあつくなるのです。

 私欲は争いのもとであると益軒はみるのです。私欲は人間が生まれつき自然に持っている楽しみ失うと益軒は指摘するのです。

 君子に私欲があると人に生まれついた楽しみが失われていくのです。すべての鳥獣がさえずり鳴くのも、草木がさかえ、花が咲き、実がみのるのも、みなこれは天機の発生するところで万物自然の楽しみです。これゆえ人の心ももとから楽しみがあることを知るべきです。

 欲にひかれてこの楽しみを失うと、それは天道の道にそむいているのです。利は天地から生じて、天下の人に与え養う理であるから、天下の公物です。自分の一人の私すべきものではないのです。

 われ一人利を得ようとすれば争いが生じて、かえってわが身の害となるのです。むさぼって求める利は、真の利ではない。これは、利を求めるのではなく、害を求めるのです。私欲のおおいがあって心と体をふさぐからくらくて道理が通じない。だから心を明るくするには、私欲を去るがよいのです。以上のように貝原益軒は、私欲の害について、禍を起こす真の利で人の道ではないことを強調するのでした。

 

 貝原益軒の養生訓

 

 貝原益軒の養生訓は、内欲と外邪から身を守ることであるとしています。内欲とは、7情の欲をがまんすることであるとみているのです。内欲をがまんすることで、大事なことが、飲食を適量にして飲み過ぎないことをあげています。

 外邪は、天の風、寒、暑、湿の四気です。外邪を恐れて防ぐのです。畏れることは、慎みで我慢することで、身を守る心法です。それは、健康を保って養生するうえで大切なことであると益軒はのべるのです。

 心をやすらかにすることは、体を守ることです。養生の術はまず心気を養うことです。心をやわらかくにして、気を平らにして、怒りと欲を抑え憂いと思いを少なくして、心を苦しめず気をそこなわずというのが心気を養う要領です。

 およそ薬と鍼灸を使うのはやもえない下策です。薬も病気にあわなかったら害になります。針は余分な気を除くが足りない気を補うことはできない。やもえない時でないと鍼灸と薬を使ってはならなと益軒はいうのです。

 養生の道は元気を保存することです。元気を保存するのは、元気を害するものを取り去ることで、元気を養うことです。人間の3つの楽しみは、第1に道を行って、自分に間違いなく、善を楽しむことで、第2には、自分の体に病気がなく気持ちよく楽しむことです。第3に、長生きして長く楽しむことです。

 養生とは庭に草木を植えて愛する人は、朝晩に心にかけて水をやったり、土をかぶせたり、肥料をかけたり、虫をとったりして、よく養い、その成長を喜ぶと益軒はみるのです。どうして自分の体を草木ほど愛さないでいいことかと益軒は問うのです。人間のからだは父母をもとにし、天地をはじまりとしたものです。天地・父母の恵みを受けて生まれ、また、養われた自分のからだであるから自分だけの所有物ではないのです。

 自分の体力でつらくない程度で、からだをうごかすことは、血気循環がよく食事がとどこおらないので、養生の要術になるというのです。自分に相応の事をしようと、手足を働かすことだと考えるのです。いつもからだを怠けてはならないのが養生の道であるというのです。

 益軒は人は養生のためには、じっとしてはならないというのです。人間のからだは、欲を少なくして、ときどき運動をして、手足をはたらかせ、歩いて一ヶ所に長く座っていないようにすれば血気は循環してとどこおらない。これが養生の術です。

 養生の道で過信は禁物です。自分のからだの強いのを過信したり、若さを過信したり、病気が軽快を過信したりするのはみな不幸のもとになるというのです。過信は、健康を守っていく養生にとって、大きな害になるというのが益軒の見方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナムディン省農業高校の開校にあたってのあいさつ

f:id:yoshinobu44:20210928115955j:plain
 ベトナムナムディン省農業高校が2021年9月6日に開校しました。日本の農業高校をモデルにしてつくったナムディン省の農業高校です。日本とベトナムの友好発展をめざす学校です。第1外国語は日本語です。農業クラブなどクラブ活動を大切に、体験活動を重視しての創造力と人間形成も大事にしていくということです。
 
ナムディン省農業高校の開校にあたっての挨拶
 鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延より
 
 入学おめでとうございます。多くの夢と希望をもって入学してこられたと思います。ナムディン農業高校は、日本とベトナムの友好発展のための学校です。日本もベトナムも世界の環境問題のなかで、農業や林業をとおして、新しい持続可能な社会づくりをめざしているところです。農業や林業を原材料に工業の発展、自然や農林業を通してのエネルギーの創出、健康や観光、そして、教育にと、新しい経済や社会づくりをめざす時代です。これらには、人材養成が極めて大切になっています。
 ベトナムは、太陽と水に恵まれ、素晴らしい自然条件をもって、農業も盛んな国です。人類的な未来社会をつくっていくうえで、大きな条件をもっています。農業高校で、しっかりと農業や林業の自然科学、社会科学の基礎を学び、実際に役にたち、応用と創造的な能力を体験をとおして身につけてください。
 とくに、なんでも自分で考え、自分で試して、仲間のみんなで議論して、基礎的な能力を身につけてください。新しい未来をつくっていくためには、創造的な力が必要ですが、その創造力も思いつきだけでは生まれません。人類が積み重ねてきた学問の基礎を体験をとおして、身につけていくことで、創造力が身についていくものです。
 まずは、農業や林業のもつすばらしい未来社会にとっての大いなる可能性をみんなで出し合ってみましょう。先生にもどんどん質問していくことです。ベトナムの農村は、ちょっと前まで、自給自足の生活をしていました。エネルギーはどうしていたか。健康はどうしていたか。
 VAC運動というものもありました。現代ではなくなりましたが、今一度、未来社会を考えるときに、石炭や石油の資源はなくなります。また、それは、地球環境にも非常に悪い燃料です。
 どうしたらよいのか。じっくりと考えてください。答えは、すぐにでなくてもいいです。高校3年間でじっくりと考えてください。そして、自分の将来も未来社会に役に立つように、個性を大いにのばしてください。
 高校3年間は、もっとも社会との関係や自分の将来を真剣に考える時期です。また、人間的にも成長していく時期です。生き方や哲学・思想の勉強も重要なことです。素晴らしい人間性をもつことは、一生の宝になるのです。自分をじっくりみつめ、自分のやりたいことを高校3年間で探ってください。
 農業高校では、クラブ活動を大切にしていくことが大切と思います。日本の農業高校では、農業クラブ活動をして、自分たちのアイデアで、高校生でできる食品加工の商品づくりや、農村の地域振興などの計画案を高校生として提言しています。
 また、スポーツクラブも盛んで、日本では高校野球高校サッカーなどの全国大会が有名です。ここから、一流の選手が育っていきます。絵画や音楽のサークルもあり、感性の豊かな高校生の時代に、芸術文化にふれることは、一生の人生に大切なことです。
 ベトナムはすばらしい歴史と文化をもち、独立と自由を大切にしてきた国です。未来社会をつくっていくのは青年です。農業や林業のもつ大いなる可能性をぜひとも一歩一歩実現していくこと、素晴らしい人間成長を期待して、入学にあたってのわたしのあいさつにしたいと思います。
 

Lời chúc mừng nhân dịp khai giảng trường cấp ba Nông nghiệp
Nam Định
 Xin chào mừng các em!
Thầy nghĩ rằng các em đặt chân đến ngôi trường này với rất nhiều ước mơ và hy
vọng. Trường cấp 3 nông nghiệp Nam Định là ngôi trường góp phần cho sự phát
triển mối quan hệ hữu nghị Việt Nam – Nhật Bản. Trước vấn đề môi trường toàn
cầu, cả Việt Nam cũng như Nhật Bản đều đang hướng tới mục tiêu xây dựng một xã
hội bền vững thông qua sự phát triển của nền nông nghiệp và lâm nghiệp. Thời đại
hiện nay là thời đại mà chúng ta hướng tới việc xây dựng một xã hội mới, một nền
kinh tế mới, trên cơ sở nông nghiệp và lâm nghiệp cung cấp nguyên liệu để phát
triển công nghiệp, dựa vào thiên nhiên và nền nông, lâm nghiệp để tạo ra nguồn năng
lượng, phát triển du lịch, giáo dục, sức khoẻ con người. Để làm được điều này, việc
đào tạo con người vô cùng quan trọng.
 Việt Nam là đất nước có điều kiện tự nhiên tuyệt vời, được thiên nhiên ưu đãi về
ngày nắng, nguồn nước và nông nghiệp là một trong những ngành kinh tế chính. Đây
là điều kiện quan trọng để tạo ra tương lai cho nhân loại. Tại ngôi trường này, các
em sẽ được học những kiến thức căn bản về nông nghiệp, lâm nghiệp, khoa học xã
hội và thông qua những trải nghiệm thực tế, các em sẽ có được năng lực ứng dụng
và khả năng sáng tạo cho bản thân.
 Đặc biệt, các em hãy tự mình suy nghĩ về mọi thứ, tự mình làm thử, thảo luận với
bạn bè để học được những kỹ năng cơ bản. Để tạo ra một tương lai mới, chúng ta
cần có khả năng sáng tạo, nhưng khả năng sáng tạo không tự nhiên mà có được. Nó
được hình thành thông qua việc học các kiến thức căn bản mà loài người đã tích luỹ
được từ trước tới nay và trải nghiệm thực tế.
 Đầu tiên các em hãy cùng nhau suy nghĩ làm sao để xây dựng được nền nông
nghiệp, lâm nghiệp sạch và thân thiện với môi trường, làm tiền đề xây dựng xã hội
bền vững cho tương lai. Và các em hay mạnh dạn hỏi giáo viên thật nhiều. Cách đây
không lâu thì nông nghiệp Việt Nam vẫn mang tính tự cung tự cấp. Đun nấu, thắp
sáng thì thế nào? Sức khoẻ của con người thì ra sao? Phong trào VAC ( Vườn- aochuồng ) đã từng phát triển tại miền Bắc Việt Nam. Tuy nhiên, hiện nay hầu như
không còn nữa. Cả một thời gian dài, con người phụ thuộc vào nhiên liệu hoá thạch
( dầu mỏ, than đá ) nhưng đến một lúc nào đó những nguyên liệu này sẽ cạn kiệt. Sử
dụng nguyên liệu hoá thạch là nguyên nhân gây ô nhiễm môi trường trên toàn Trái
Đất. Khi suy nghĩ về xã hội tương lai, các em sẽ dùng năng lượng gì? Cũng không
cần phải đưa ra câu trả lời ngay lập tức. Các em hãy suy nghĩ kĩ càng về vấn đề này
trong ba năm cấp 3 của mình. Và hãy phát huy mặt mạnh của bản thân mình sao cho
sau này chúng ta đều sẽ trở thành người có ích cho xã hội.

 Ba năm cấp 3 chính cũng là khoảng thời gian rất quan trọng để các em suy nghĩ,
định hướng về tương lai của bản thân. Và cũng là ba năm để các em trưởng thành
hơn về mặt con người. Việc học cách sống, cách làm người là những điều thực sự
quan trọng. Có một nhân cách tốt, suy nghĩ và làm điều thiện chính là báu vật của
con người vậy. Các em hãy nhìn lại mình, thực sự mình muốn gì trong ba năm cấp
3.
 Hoạt động câu lạc bộ rất được coi trọng ở ngôi trường này. Tại các trường cấp 3
nông nghiệp ở Nhật Bản, thông qua việc sinh hoạt tại câu lạc bộ, học sinh làm ra sản
phẩm từ việc chế biến nông sản, thực phẩm và đề xuất kế hoạch phát triển nông
nghiệp tại khu vực mình sinh sống bằng ý tưởng của chính bản thân mình. Hơn nữa,
các câu lạc bộ thể thao cũng rất phổ biến. Các giải đấu bóng chày, bóng đá cho học
sinh cấp 3 toàn quốc rất nổi tiếng. Từ đây cho ra đời những cầu thủ, vận động viên
chuyên nghiệp. Trường cấp 3 nông nghiệp của Nhật Bản cũng có câu lạc bộ hội hoạ,
âm nhạc. Việc các em làm quen với nghệ thuật ở lứa tuổi cấp 3 - là lứa tuổi cảm xúc
cảm thụ nghệ thuật sâu sắc nhất sẽ đem lại những giá trị lớn với cuộc đời các em.
 Việt Nam là đất nước coi trọng nền độc lập tự do với lịch sử hào hùng cùng nền
văn hoá lâu đời. Lớp trẻ chính là những nhân tố xây dựng lên một xã hội mới. Thầy
hi vọng rằng các em sẽ từng bước từng bước xây dựng được nền nông nghiệp, lâm
nghiệp sạch và thân thiện với môi trường. Mong các em sẽ trưởng thành và trở thành
những người tuyệt vời tại ngôi trường này.
 Hẹn gặp các em trong thời gian tới!
Kanda Yoshinobu - Giáo sư danh dự đại học Kagoshima
Trưởng đoàn chuyên gia hỗ trợ trường cấp 3 nông nghiệp Nam Định

 
 

f:id:yoshinobu44:20210928115350j:plainf:id:yoshinobu44:20210928115441j:plain

 

f:id:yoshinobu44:20210928115506j:plain

 

学校の説明会の前日にナムディン日本語・日本文化学院の学生の準備

 

f:id:yoshinobu44:20210928140244p:plainf:id:yoshinobu44:20210928140512p:plain

 

学校の説明会

f:id:yoshinobu44:20210928131313p:plainf:id:yoshinobu44:20210928141213p:plain

 

  

f:id:yoshinobu44:20210928131523p:plain

 

 f:id:yoshinobu44:20210928131711p:plainf:id:yoshinobu44:20210928131757p:plainf:id:yoshinobu44:20210928131419p:plain

 

授業の様子です。

 

f:id:yoshinobu44:20210928133156p:plainf:id:yoshinobu44:20210928133242p:plain

 

f:id:yoshinobu44:20210928133408p:plainf:id:yoshinobu44:20210928133518p:plain

 

f:id:yoshinobu44:20210928133712p:plainf:id:yoshinobu44:20210928133811p:plain

 

f:id:yoshinobu44:20210928133918p:plainf:id:yoshinobu44:20210928134039p:plainf:id:yoshinobu44:20210928134209p:plain


 

yoshinobu44.hateblo.jp

yoshinobu44.hateblo.jp

 

 

 

 

 

大原幽学の協同組合思想と教育論

 f:id:yoshinobu44:20210921135050j:plain

非常にわかりやす書かれたものです‼️

 

大原幽学の協同組合思想と教育論

 

 大原幽学は、農村における商品生産の発展のなかで、窮乏化する家族農業経営と生活を先祖株組合という方式によって、問題解決をした実践的な思想家です。日本ではじめて協同組合を幕末につくった指導者です。

 天保9 (1838 )年、現在の千葉県旭市の長部村に11名(翌年25名で領主の許可)の組合員が出資した5両分の耕地で先祖株組合をつくったのです。このときに4ケ村で計画されたのです。

 困窮する農家にとって、5両の出資金は大変な金額です。ここには、農村の富豪の名主や名望家の金銭的な貢献の役割があったのです。先祖株組合によって、それを共同管理しています。

 そして、合理的な農業経営のために、耕地整理と交換分合を行ったのです。共同管理のなかで、年間農作業計画の合理化、合理的田植え法の指導など地域の振興技術・技能的な教育、現代でいうところの社会教育実践をしています。

 その思想の根幹は、各農家の天地の和による自然の原理を大切にしたのです。彼は、合理的な技術・技能を発揮しての生産性と品質を高めていく方法を重視したのです。

 ここで注目することは、天地自然の原理を大切にするということで、当時の農業生産向上で爆発的に利用さていた干鰯(ほしか)を買っての農業肥料を禁止しているのです。小農的家族経営には、循環的に自然農法の発酵を大切に堆肥などの自給肥料を奨励したのです。

 干鰯は農業生産力を急激に増収していきますが、しかし、イワシが不漁であれば、価格が高騰になり、農業経営の危機をもたらします。不安定な商品経済に依存すれば、農業経営の危機にみまわれ、商品経済に飲み込まれて、農業経営は貧困になっていくというのです。爆発的に流行しているという干鰯を購入しなければならない肥料は、市場に大きく作用されるのです。

 安定的に自然循環的に得ることができる肥料は、落ち葉やわらくずでつくる堆肥です。また、客土も大切な自然農法です。砂質土には粘土を入れて、粘土質には腐葉土、砂を入れていく。土に酸素が供給されやすいように、水もち、肥料もち、排水を良くしていくような対策をしていく指導をしたのです。

 

 ところで、大原幽学は、市場を協同で開発して利益を高めたのです。その利益を積み立て、質流れたした農地を買い戻したのです。

  さらに、重要なことに、農具・食品・生活用品を共同購入したことです。先祖株協同組合は、共同購入による消費組合的活動もようなことをしたのです。商品経済の発展にともなって、農家の貧困化が進み、消費協同組合的な活動をしていることです。

 幽学は、諸国を遍歴していた経験から、どこにいいものがあり、安く仕入れることができるかを理解していたのです。つまり、それぞれの産地を承知していたのです。大量に共同購入仕入れ、中間マージンを省き、生産や生活に必要なものを安く購入することを考え出したのです。

 そして、贅沢なもの、華美なものなど必要でないものを購入しないように、指導して、みんなで私的な強欲を規制しあったのです。消費的な協同組合の世話役を中心に、注文、配給、代金の受領などの業務をしています。共同購入の品物は、イワシ、茶、砂糖などの食糧品から膳、茶碗、皿、鏡、農具、たね、薬品、下駄などに及んでいます。

 

 先祖株組合は、産業協同組合的要素と消費協同組合的要素をもって、経営と生活を安定させ、現代で言う社会教育的活動を協同の力でしているのです。ここには、名主や名望家の存在も無視できず、お金のあるものはお金を、労力のあるものは労力ということであったのです。

 幽学の社会教育活動では、相手の立場を尊重しての相談したのです。幽学の指導法の基本には、必ず人間関係における人のもつ情を大切にしたのです。人を導くのに、はじめは、必ず情を施して、その情がよく通るに至る後に、理を学ばせたいうことを幽学は、強調しているのです。彼は、会うときはそのたびごとに快く穏やかに、理を話すことをしたのです。

 幽学は、決して理詰めだけではなく、道友になった相手から信頼を得て、関心あることを重視して興味をもたせて学ぶことだというのが基本姿勢であったのです。人に教えるには聞く耳をもたないとだめだと道友に説くのです。人間関係ができてから指導した方が早道という見方です。

 そして、一方的な講義ではなく、入札、廻文、突き合わせ、心得などでの方法で指導しているのです。入札は道友が札に文章を書き、会合の席で、廻して行う方法があります。廻文は道友の間で文章を回覧する方法です。

 この場合に、注意書きと質問書を回覧する方法があります。突き合わせは意見の交換や討論です。相互に議論しながら学ぶことを大切にしているのです。心得は、箇条書きで分かりやすく守るべきことを決めているのです。

 そして、家族での話し合いを大切にした指導をしたのです。家族農業経営において、それぞれの家族内の役割が分担が不可欠であるということから、家族内の話し合いを重視したのです。

 家族会議の延長に先祖株組合の会議があったのです。この会議は、前夜と呼ばれ、性学の精神による先祖株組合の運営会議になったのです。運営会議や寄り合いは、小前夜(執行部の役員会)、中前夜(代表者会議)、大前夜(全員参加の全体会議)、惣(村全体)前夜、男達、女共と呼んだ会合が定期的に開かれたのです。

 それぞれが話し合って管理運営を決めていくという村落単位の組合での全員参加の寄り合いによる会議・相談会の方式ということをしたのです。ここでは、組合員の話し合い重視の合意をとっていたことが特徴です。当初は4ケ村での先祖株組合結成をめざしましたが、この運動は大きく広がっていくのです。

 明日の仕事の予定を前夜に家族で相談するということです。毎月17日に大原幽学が道友・先祖株組合員を集めての男子会がひらかれたのです。そして、18日は婦人会がもたれたのです。

 幽学は合理的考えから家族農業経営における女性の社会的役割の教育をしたのでした。健全な農家、円満な明るい家族を築くためにと女子教育に力を入れたのです。z男性と同様に女性も同じように道友と幽学は称したのです。

 また、不定期的に子どもの教育を道友・先祖組合の大人達の参加による子供会が開かれたのです。子どもの教育は、家族・家庭から実施していくということも幽学の特徴です。

 親から子へ、そして、孫へとと人材育成に成功しなければ家族農業経営、家の子孫繁栄は出来ない。先祖株組合という発想も子孫繁栄、末代まで継続的に持続可能性をもっていく農村社会を考えたのです。

 後生末代に至るまで、先祖株組合を持続性をもたせるためには、いかなる方法があるのかということを真剣に組合員たちは考えたのです。人も変わり、天地の変動もある。道友たちが精魂込めて、志を子孫のことまでも考えて、熱心に孝を本として、自分の心を正し、道友はじめ他人までの及ぶ限り世の道を楽しく生きるということをみたのです。

 道友たちの丹精を忘れず、真心をもって子孫に言い伝え、勤めて後生の守りを求めていくほかにない。人は支え合っていきるものとして、足を知ることが大切で、ぜいたくをしたがる人の言葉に惑わされては、決して幸福になれない。必ず人の道の規則を忘れず、みんな兄弟と思えるように、人生の楽しみをひろげるばけなど、道友の間で議論をつくしているのです。

 

 村落という農業生産と農村生活という地域を大切にしての協同組合運動です。地域の相互扶助の機能を市場対応を個別的にではなく、協同組合的に活用しているのです。まさに、協同組合原則の地域の貢献ということが発祥当初からあったのです。

 ICA が1995年にロッジジールの協同組合成立から百周年を記念して作られた協同組合の定義・価値・原則になっている共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすためにという定義をもっていたのです。

 また、第7原則として、新たに付け加えられた21世紀への原則になるコミュニティへの関与ということが日本をはじめアジア的協同組合の活動特徴として、国際的に原則として認知されたのです。

 

大原幽学の天地自然の理・性学

 

 先祖組合の結成以前に、大原幽学は、性学同門中子孫永々相続講の定款が検討されていたのです。性学は大原幽学の思想の根幹です。人間の本性の普遍性を天と地の和、土地や気候が違っても和、自然と和するということで、人は天の道によってによっていかされるというのです。性学は天地自然の理です。

 それは、あらゆる天地の和になるというのです。大原幽学の先祖株組合の発想に、子々孫々ということで、永続的に持続可能性をもって、代々相続可能な家族経営と家族生活を考えたのです。このための協同組合なのです。

 大原幽学は「微味幽幻考」(びみゆうげんこう)の著書でのべます。人の心には徳があるのですが、それは養い導くものです。善事は自ら世に伝わり、滅びないのです。悪事は一旦盛んになることもあるが、必ず滅ぶものです。天地の和は自然の導くように養うものです。

 孝道をもって自ら親子、兄弟、夫婦の中に、分相応の礼に立ち、家内一に和睦すれば自らつくる災いはなく、富めること疑いない。その心の穏やかなる徳に、農民は農業の手続きよく耕すことに至るのです。富は和睦にあり、和睦は礼をもってなし、礼は養いをもってなすのです。

 養いは孝道をもって善きを移すことにあり、だた大金を蓄えるは無益です。まずは災いの起きることを知り、そのもとを知るのは子孫永続であるというのです。強欲、淫犯、飲酒、遊楽にふける者は父母の心を痛め、妻や兄弟の嘆き、盟友や親類の憤りになるのです。

 己は人欲の私の中に襲われて、実際の信の心が乱れては、天道になっていかないのです。人の導く己の志があれば、自ら人欲の私を失って、自然と本心の正しきに至るのです。これが徳に至ることというのです。

 人欲の私に襲われて、天地自然の孝道の導くことを知らざることは、互いに心が離ればなれになっていくのです。それでは、人間の自然本性の徳を養い導くことができないのです。人は、それぞれの分相応と器量相応に導いていくのです。己は人を愛すれば、人もまた我を愛して、即ち和するということになるのです。大原幽学の基本思想は天道・孝道にそって、養い導くていくいくというのです。人間のもっている強欲から人間自然本性の愛と和・相互扶助へとつながっていくのです。。

 幽学の思想の根底は易学、儒教です。また、講の組織として、日本の農村社会の伝統的な相互扶助の関係である講の文化に依存したとみれるのです。協同組合における地域の貢献ということは、日本の協同組合運動の発祥ということからも、その後、協同組合運動の重要な日本的な原理でもあったのです。また、暮らしの単位の地域での話し合いを重視しての先祖株組合の管理運営や世話人の選出も村の寄合慣習に依存したものとみられるのです。

 長部(ながべ)村で日本における最初の協同組合結成がされたのです。イギリスのマンチェスターのロッチジィール公正開拓者組合の結成が1844年になりますので、世界で最も古い協同組合になるのです。

 f:id:yoshinobu44:20210921135523j:plain

 大原幽学は寛政年( 1797)年、尾張藩(現名古屋)の生まれと伝えられています。文化11 (1814 )年生家を勘当され漂泊の生活になります。当初は、剣道での道場破りをしていました。その後、放浪の旅を続けながら、神道儒教、仏教を一体とする性学の学問を開き、その学問を世のために役立てたいと各地で講話をするようになります。天保6 (1835 年)8月、房総の講話先で、利根川河口干拓地の名主遠藤伊兵衛の依頼で、1835年に長部村を訪れるのです。

 この時、幽学は39歳です。放浪の生活から定住地が定まるのです。長部村を拠点に、現在の千葉県旭市を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革や地域振興運動を指導するのです。

 

教導所の改心楼・社会教育での基本思想と先祖株組合

 

 長部村に腰を落ち着けた幽学は、門人達を道友(どうゆう)と呼び、性学道友の教導所の改心楼を創設したのです。幽学の思想にとって重要な概念は、天地の和即ち性理・性学です。天と地の和を根源として、人間関係から土と肥料の和など、すべてに和を貫徹するなかから人間平等論、協同論がでてくるのです。

 己人を愛すれば、人もまた我を愛して即ち和す。幽学は、長谷村で、先祖株協同組合の教育、耕地整理、質素倹約、子どもの教育・しつけの指導をするのでした。

 農村の復興は、協同組合である先祖株組合で、農民が協力しあって自活できるように、生産したものを協同で販売するなど、実践仕法を行って成果をあげていくのです。

 しかし、村を越えて協同労働と販売、学習を共にした結社が反幕府の運動になるのではないかと怪しまれるようになります。幽学は幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858)自殺により62歳の生涯をとじるのです。

 

 利根川河口に水運と海運によって栄えた銚子市の近くに干潟(ひかた)の広大な干拓地に、そこは、現在の旭市です。ここに幽学の先祖株組合実践があったのです。銚子は水運と海運の要で栄えた都市です。各藩の米倉も建っていました。水路で江戸と結んでいた中継地であったのです。さらに、漁業と醤油の町であったのです。

 銚子は江戸時代に商品経済の発展の中心地でもあったのです。商品経済の発展によって、農民層における格差の拡大が起きていくのです。また、格差拡大のなかでばくちなどもはやり、近世社会秩序の村落行政から一切の保護のない人別・戸籍をもたない無宿人が生きる場を求めて集まってきたところです。親分子分のやくざもののの世界もはびこっていたのです。地域社会の退廃も起きていくのです。

 江戸初期まで、ここには椿海(つばきうみ)という大きな湖がありました。この湖は、1674年干拓され、8万石と呼ばれる美田に変わったのです。この米作地域は、江戸中期以降には、発展する商品経済の波に飲み込まれ、農民の生活は苦しくなっていくのです。

 そこへ天明の時期に続いた凶作の影響も加わり農民はますます困窮化したのです。人々の心は荒れ、地域社会は、退廃的な状況になったのです。この結果、益々田畑も荒れはてて、農村の社会は崩壊へ向かっていたのです。

 このような状況のなかでの先祖株協同組合結成です。先祖株の運動は、それから後に、大原幽学のざん新な農業経営策と彼独自の精神論によって農村復興に努め結果、領主から模範村と1848年に表彰されるまでの実績を上げていくのです。先祖株協同組合の指導を受けた門人は4千人を越えるのです。

 

 当時は農業を基盤とした封建制度が崩れつつあった時代で、幕府は村落社会の変質に過敏であったのです。彼の名声で農民の門人が急増し、その実績が上昇すると、逆に幕府は警戒するようになったのです。

 幕府にとって、農民が特定の指導者の下に精神的・実践的行動に団結するのを喜ぶはずはなく、介入してきたのです。はじめは、1852年、取り調べは、幽学をはじめ道友9ヶ村38人に及んでいるのです。

 幕府の取り調べ・裁判は、改心楼の活動、先祖株協同組合など数年にも及ぶのでした。教育施設の改心楼の取り壊しを命じられます。結局、自害に追い込まれるのです。遺書には自分の不手際で幕府の介入を招いた責任を取り、かつ運動の永続を願う内容が記載されていたのです。

 

 ところで、大原幽学は現代的にいえば社会教育に力を入れています。貧困のなかで荒廃していた農民の勤労的精神、農業技術の振興などに力を入れたのです。彼は弟子との気持ちが通じ合うまでは教えず、教える人に応じた指導法を採用したといわれ、彼は教育者としても優れた人だったのです。

 

 1841年の正月の21日から2月7日まで、15ヶ村の34人の道友を集め子ども大会を開いています。子ども達を組に編成して、共同生活をさせて、相互に競わせながら意欲や働きを評価して、役割を体得させるという行事です。

 幽学は、子どもの教育や女子教育にも積極的に取り組むのでした。子どもを育てるには、生得的な素質よりも社会的、文化的生活環境が需要であると幽学はみるのです。「然らば性質よりは育てる人の風気を撰ぶ事こそ大事なるべし」。

f:id:yoshinobu44:20210825175259j:plain

 

大原幽学の子育て・教育論

 

 幽学における子どもの発達段階の見方は、5,6歳の時は、才ばかりのびて智を増すことで、暇なしで、物ごとに才ばしる事、騎馬の如しということです。心身の発達は6才から年齢によって異なっていくというのです。男子は7才遠慮するようにあり、8才まで人の我慢の種になります。女子は7才から8才まで、人の心と、己の心が育っていくのです。この時期に、人の心を推察していくという心の芽生えがでるのです。

 9才にして人の心を探り気味になります。10才にして言葉が柔らかくなるのです。11才にて学びの志に力を得る頃になります。12才から14才とだんだん学びは集団的になっていくというのです。これらの教育には、具体的実践を媒介にして学習をすすめていく方法をとっています。

 

 幽学の教育方針で換子(かんし)教育という自分の子どもを他人に預けて教育してもらうという方法を推奨したのです。事を知らざる者は、己が子を余所の親子・兄弟に情愛深き、孝行なる人の側に置くべし。痩せ我慢の強き者や親子の・兄弟の情薄き者の側に置いては、何程書物を読ませても何の役にも立たぬ」、「子を育てるに、食いたい、飲みたいと思う根性ばかりを育てては、人となりてよろしき了見の者にならない」という考え方からの換子教育です。

 7歳から16歳までを対象ととして、複数の家で、道友の間で行われたのです。他人の子どもを預かるのも責任が重いのです。自分の家が子どもにとって見本となるぐらいで親の教育にとっても大切であったのです。

「預かる子どもの教育について心得の掟を示しているのです。預かりし子、可愛くなり人目をしのび落涙する程の情なければならぬ事」。「すべて物事口で教えれば、口で覚える、とかく行いをもって教えるべし。家内中の者どうしの話など聞かせておき、また一言二言は言うて教えるもよし」。「無理に仕込みたがるは悪く、子供の気の進む時を待ってすべす」。

 大原幽学は、先祖株協同組合をつくって農村振興をすると同時に、地域の協同精神の社会教育や、換子教育などの独特な子どもの教育に力を入れたのでした。

参考文献: 鈴木久仁直「大原幽学伝」アテネ社、中井信彦「大原幽学」吉川弘文堂、高橋敏「大原幽学と村落社会」岩波

中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)

f:id:yoshinobu44:20210825175226j:plain

 

中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)


 日本における戦国時代に儒学の学問を修めて平和を考えようとした学校があったのです。それが足利学校です。現代の混迷した政治状況と平和を考えていくうえで、為政者のモラルをみていくうえでひとつのヒントを与えてくれるのではないか。

 足利地方では、中世時代から儒学の高度な教育を実施していた学校があったのです。大隅の国で育った第7代庠主=校長の伊集院九華は、なぜ足利学校まで学びに行き、半世紀にわたって、そこで暮らし、30年間近くも校長を務めたのでしょうか。また、長く務められたことは、九華自身の人格的な優れた面により、多くの学徒に慕われたことも考える必要があると思います。

 九華が、大隅の国を離れて足利学校まで行ったことを考えるうえで、大隅・薩摩・日向の島津家一族の絶えざる内紛と地方国人豪族との戦乱の状況をみる視点も大切です。

 室町時代の後期には、国内の交通網も発展していったということで、足利は、渡良瀬川利根川の水上交通も利用できる交通の要衝でもあリ、海をとおしての交易も発達して海外にもいく時代で、足利と大隅の国との精神的な距離も近くなっていたと思われます。

 

足利学校での中世後期の校長出身地と九州

 

 中世後期足利学校は、沖縄を含めて全国から学徒が集まっていました。琉球国から派遣された鶴翁智仙は、中国の明ではなく、日本の足利学校で学びたいという強い意欲をもって、12年間、そこで学びました。また、1年間、1537年に伊集院九華等と京都の東福寺で禅の修業をしています。琉球国に帰り、琉球国の社寺で学僧になるのです。
 足利学校では、3000名以上の学徒が学んでいたといわれますが、これは儒学的表現で、誇大ではないかともいわれます。3000名学徒の学びはフランシスコ・ザビエルが日本の坂東の大学として、イエズス会書簡でも紹介されています。

 足利学校の中世後期における校長の出身地域は、九州の人が多いのも特徴です。再興してからの2代肥後国、3代筑前国、7代大隅国、8代日向国、9代備前国となっています。7代と8代が南九州の出身者が校長を務めていたのです。ここには、当時の海洋をはじめ、交通の発達と九州地区の人々の広い交流があったからです。
 幕府の勘合貿易に島津家が守護職として、大きくかかわり、土佐沖から南九州から明に行くという堺商人と結んだ細川家と、博多商人と結んだ瀬戸内海をとおして、博多から平戸経由との大内家の争いもあったのです。島津家は幕府から海上警備を委託されていたのです。

 島津家は、1508年に朱印状を持たない商船の取り締まりをして、中継貿易の琉球を独占しようとしていました。中世後期における諸大名の海洋をめぐる争いがあったことを見落としてはならないのです。

 

足利学校中興祖の上杉憲実

 f:id:yoshinobu44:20210825175259j:plain

 足利学校は、関東管領上杉憲実が、1439年、幕府に反発して挙兵して鎮圧され、自害した足利持氏の供養の意味もあったといわれます。学問によって、平和をつくっていきたいという願いということです。

 幕府側にたった上杉憲実の人間的やさしさがあらわれています。平和を願って、儒学を学ぶために再興したといわれます。再興した初代の校長には、鎌倉の円覚寺から仏教と易学等儒学の造詣の深い快元をつけています。
 上杉憲実は、1446年に学則三条を定めています。学ぶべき三註四書六経列荘老史記文選の書籍を列挙。法を守らないものは処罰。学問を日頃怠けたものの処罰。この3つの項目です。

 かれは、四経を寄進して、漢学専門学校の継続によって、平和の世を考えたとみられます。学則三条の制定の翌年に、上杉憲実は放浪の旅路に出ます。足利学校の基本的方針を定めて、将来の社会を作っていくために教育の役割を期待したのです

 

第7代伊集院九華をはじ室町後期時代の教育内容

 

 第7代伊集院九華の時代に、儒学関係の遺置本は、非常に多くなります。儒学が講堂で講釈されていたのですが、仏教書は遺置本になく、私蔵本でした。釈学は、客殿などでした。僧侶になることは学ぶうえで、前提になっていますが、足利学校では儒学を重視したのです。

 講義は、例えば易学など、10旬が必要としたのです。一旬は10日間です。為政者としての人間的生き方、統治の方法、重要な決断をするときの易学などを学んでいたのです。
 さらに、ここでは、易学などの儒学によって、東洋医療を実証的な臨床学を学んでいました。そこでは、望診したうえで、舌診、脈診、腹診を経て病態を決め、薬を処方する察病弁知(さつびょうべんち)ということで、診断する方法での学びをしたのです。

 陰と陽のふたつの相反する関係と、陰陽五行説の理論のもとに、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓の五蔵の経路から、人体の相互に関連づけて、全体をひとつのものとして考えていたのです。
 足利学校では、このような臨床的な医療を発展させ、啓迪院という学校をつくって、多くの医学僧侶の弟子を育てたのです。また、医療の倫理として、慈仁ということで情け深く、相手を思いやる心を重視したのです。足利学校で育った曲直瀬道三は、日本東洋医学中興の祖といわれるのです。
 曲直瀬道三は、明で学んで、朱子医学を日本に導入した田代三喜齋から学びました。曲直瀬道三は、1528年に足利学校で入学しています。かれは、戦いのない世の中を目指した室町時代後期、日本僧侶の医者としても注目するところです。


 徳川家康に仕えた天海上人も足利学校で学んでいます。第9代の校長である三要は、豊臣秀次に仕え、徳川家康にも五経の「毛詩」の講義をしています。北条氏の崩壊によって、足利学校の存続の危機がありました。家康は、三要に京都伏見に上方の学校として、円光寺を開山させます。第十校長寒松以降も徳川家康のもとで足利学校の保護整備がされていくのです。

 

 中世後期の足利学校の学習形態

 

 中世後期の足利学校の学習形態は、講義、輪読、素読などでした。そこでは、自己に必要な書籍を一字一句間違えないように、自分のノートに正確に書きながら学ぶものでした。まさに、自学自習が基本的でした。また、「字降り松」ということで孔子廟の前に、学徒がわからない漢字がありますと、学徒は紙に書いて松に結んでおくのです。

 翌日に伊集院九華が読み方と意味を書いておくというのです。このような学習方法の説話が残っています。この学習方法は、自学自習として、現代でも足利市教育委員会は奨励していることです。
 足利学校の入学のときに、僧侶になるということはなぜでしょうか。中世時代は、学問を教えるのは、僧侶が担っていたからです。学校に入るには、すべての階層に開かれたものです。しかし、儒学以外は、講義をしていません。

 儒学の内容は、宋や明時代の五経の新解釈ではなく、すでに中国では棄てられていた古い漢や唐の時代の解釈でした。儒学孔子老子の唱えた原点に即して学ぶという態度をとっていたのです。

 

伊集院九華との関係で大隅・薩摩の文化・政治との関係

 f:id:yoshinobu44:20210825175423j:plain

 南九州の儒学の形成発展で見逃してはならないのは、桂庵玄樹の存在です。かれは、島津忠昌に1478年招かれて、大隅国正興寺(大隅八幡宮三柱寺のひとつ)、日向国櫛間龍源寺、薩摩国桂樹院で、朱子学を講じたのです。その結果、日本における戦国の世の中で薩南学派という学問の形成がされたのです。南九州での一族や地方豪族の国人層との激しい戦いの続く戦乱の世の中で、注目することです。戦乱の続くなかで、学問の花が咲いたのです。

  足利学校の第7代校長の伊集院九華の時代では、積極的に朱子学ではなく、旧注によって、講義を行っていたのは注目するところです。

 伊集院九華(玉崗瑞璵)は、大隅国出身(現在の大隅半島霧島市姶良市)です。かれは、1530年頃に足利学校に入ったとみられますが、なぜ、かれが儒学を学びに坂東までいったのでしょうか。また、九華は16世紀はじめの伊集院家のどの家系に属していたのでしょうか。

 伊集院という地名までも現在残っていますが、鹿児島市から川内市までの途中の町です。薩摩の国の地域です。伊集院九華は大隅の出身者ということになっています。大隅の国で育ったとみるのが一般的ですが、かれの兄弟などの縁者がいる地域で故郷として帰ろうとした地域とも考えられます。

 かれの育ちはどうであったのでしょうか。30歳まで何をしていたのでしょうか。室町時代の後期に、伊集院を名のることですので、苗字を許された名家で、学問を幼い頃からしていた家柄の育ちではないかと思われます。伊集院九華は、禅宗臨済宗といわれますが、出家はいつ頃になるのでしょうか。これらは興味ある課題です。
 九華の前校長であった文伯は、20年間足利学校の校長をしていました。足利学校で学び、京都の建仁寺の僧侶でありました。第5代の校長の時代に再度足利学校で骨をうめる覚悟で戻ってきたのです。

 九華は、文泊のもとで、学び、その影響を強く受けていました。九華は、文泊が建仁寺の僧をしていたときに接触があったのでしょうか。もし接触があれば、かれが直接に足利学校にいったことにはなりません。大隅国臨済宗の寺は、大隅八幡宮の3柱の正興寺も京都の建仁寺の末寺です。島津家が支配していた日向櫛間龍源寺も薩南学派の拠点で、桂庵玄樹が住持していて、学徒を教えていたところです。

 明との貿易港でもあった志布志大慈寺(臨済宗)も南九州第1の寺で大隅半島全体を勢力化にしていた権威ある寺です。大慈寺は明朝との交易での通訳などに僧侶がしていたなど明の文化の影響を強くもっていたのです。
 伊集院九華が足利学校に行った背景を考えるうえで、当時の大隅・薩摩・日向の状況と伊集院家の系図を考える必要があります。伊集院の本家は、14世紀前半に、島津家の重要な家臣として、姻戚関係もつくり、権勢を振るっていたのです。また、14世紀後半に島津家の後継争いで没落した伊集院家は、その弟になる別系の伊集院家が島津家の中興祖といわれる島津忠良(日新公)の重臣として活躍するのです。この時代は、伊集院九華と同世代の時代です。

 

島津家一族の内紛と伊集院家

 

 室町時代は、島津家の身内や一族、また、地方の豪族を巻き込んでの戦乱が絶えないときです。当時、太平の世の中は大きな課題でした。島津家は、一族、有力豪族との融和関係で婚姻、養子などの積極策が行われました。しかし、それで平和を築くことは無理があったのです。娘の婚姻や息子の養子は、島津一族の身内・一族の後継争い、地方豪族を巻き込んでの争いの解決にならないばかりか、後継での争いの原因にもなるのです。


 島津家での伊集院家が関わった大きな争いは、伊集院頼久の乱とよばれるものがあります。島津当主になるはずであった島津元久(母は伊集院忠国の娘)の嫡男子であったものが1395年に出家しています。かれの名前は、仲翁守邦人禅師です。関東に留学したと言われます。仲翁禅師は元久が開山した福昌寺の住職になっています。

 伊集院頼久の乱は、1411年の元久死後に後継の争いです。伊集院頼久の嫡男(母元久妹)を元久が後継指名していたことで争いになるのです。それは、伊集院家と島津元久の弟である久豊の争いです。

 これは、島津一族や地方豪族を巻き込んでの長い紛争になります。1449年に伊集院頼久の嫡男である煕久は肥後に逃亡して、この争いは終わります。孫の代の伊集院久雄が島津家に帰参します。所領は、大隅桑原中津川村です。


 伊集院頼久の息子で、守護に後継指名された伊集院煕久の弟であった倍久の孫になる伊集院忠朗は、16世紀前期に活躍した島津中興祖といわれる島津忠良に仕えます。伊集院忠朗は、その後に島津家筆頭家老になるのです。この島津忠明が、伊集院九華と同世代です。

 かれは、親子で島津家の大隅・日向・薩摩の統一と九州制覇に活躍します。後に、伊集院家は秀吉のもとで、都城8万石を与えられ、秀吉死後に、島津である義久の筆頭家老で、伊集院家の当主の忠棟が、島津義久の弟である義弘3男で、後に島津藩初代の藩主になる忠恒(家久)に謀殺されるのです。

 筆頭家老という島津家のなかで、強い影響力をもっていたため、忠恒(家久)は自分に家督相続を支持してくれないと伊集院忠棟に憎悪をもっていたのです。父が謀略にあって殺されて、息子の伊集院忠真は、島津忠恒(家久)・義弘親子に対して乱を起こすのです。これが庄内の乱です。一旦は和解しますが、油断させて1602年に日向の野尻での狩りの最中に射殺するのです。

 本来ならば、筆頭家老の惨殺、庄内の乱など、家を断絶させられる事件であったが、家康の思惑、島津義久の家康への嘆願の尽力によって、島津家は存続を許されたのです。同年に島津家の家督を継ぎ、島津家の初代藩主になります。

 その後に、島津家久は伊集院忠真の3人の弟と家族を皆殺しにするのです。義久の家老の平田増宗も暗殺し、その後に増宗の子孫まで皆殺にされたのです。非常に痛ましい島津家の三州統一後の歴史的汚点事件です。さらに、家久は義久の娘である妻とは不仲で、子どもはなく、義久亡き後は、彼女を追い出して、8人の側室をかかえます。その間に33人の子女がさずかり、次々に分家の家督相続や重臣らの養子や妻におしつけ、権力を思うままにしたのです。これが、江戸時代になっての薩摩藩主の島津家の出発でした。

 

室町時代の島津家の争いは何世代にも及ぶ


 室町時代の島津家の争いは、何世代も長期にわたり、凄まじいものがあります。1363年に島津家は、薩摩守護職の総州家と大隅守護職豊州家(鹿児島郡も含む)になります。反島津の国人一揆は、1361年から1397年まで4回起きるのです。

 幕府と島津家の対立も起き、守護職解任と復帰ということで、両島津家の対立に幕府も加味していくのです。薩州家と豊洲家は、強引に家督相続した久豊の時期に総州家の完全な軍事的敗北で終わるのです。
 強引に島津家の守護職を後継した久豊の死後に、島津忠国家督を継承して、薩摩と大隅守護職は、ひとつになり、島津家は統一されます。しかし、地方の国人との大規模な一気に悩まされます。南九州では、地方ごとに国人層の力が強く、島津家は、南九州での実質的な支配者ではなく、守護職としての権威にすぎなかったのです。このなかでの島津家の一族の内紛です。

 国人層の地域ごとの平定に、島津家守護職は苦労するのです。また、それに加えて、新たに、総州家と豊洲家の対立がなくなった後で、後継になった島津忠国と弟の好久との争いが起きるのです。さらに、薩南学派形成の桂庵玄樹を招いた忠昌の時期には、一族の反乱が絶え間なく起きます。
 大隅国の肝属家反乱に苦慮して、守護職であった島津忠昌は、1508年に自害します。島津忠昌は学問を重視しましたが、悲惨な人生でもあったのです。伊集院九華は、この事件に、その後に話を聞かされ、少年ながら大きな矛盾をもったのではないかと思います。

 伊集院九華の育った大隅・薩摩・日向は、近親者の反乱、一族の反乱、有力な家臣の反乱などで、悲惨な時代であったのです。この時代に、伊集院九華は、相次ぐ反乱、争いについてどのように感じ、思いをもっていたのでしょうか。伊集院九華が出家して、僧侶になっていく経緯、その後の薩摩・大隅・日向での活動についても興味ある課題です。この戦乱を終わらせ、島津家をまとめていくのが、伊集院九華よりも7歳年上の島津忠良(日新公)です。

 

島津中興祖の日新公と南九州三州統一


 島津再興の祖といわれる忠良は1492年生まれです。父と祖父は殺されて、母が伊作家の後継になって育てられました。母の再婚で、伊作家から島津相州家の養子になります。1512年に相州家の当主になります。島津忠良の祖父は、1500年に一族の争いに巻き込まれての死去でした。父は、下男に1494年に殺されています。
 忠良の祖父の伊作久逸は、島津忠国の3男で伊作家に養子にされた武将です。かれは、1473年に日向櫛間城主になりますが、1484年に飫肥城主との勢力争いで、伊作に戻るように守護の忠昌から命がでます。この命を聞き入れず、反旗をあげるのです。忠昌の時期は、一族反乱が相次ぐのです。1477年に薩州家の国久、豊州家季久の反乱が起きています。そして、1484年に伊作久逸らが一族を率いて反乱を起こし、翌年に降伏します。そして、伊作に戻るのでした。


 島津中興の祖である忠良は、桂庵玄樹の門弟で少年期に儒学を熱心に学んでいます。島津忠良の息子貴久は、守護職島津勝久の養子になって、1527年に島津家の宗家を一時的に継承します。しかし、そのことを島津実久が反対し、再び勝久が守護職に復帰します。勝久は、守護職に復帰しますが、弟の実久に1535年に攻撃されて、出奔するのでした。
 強引に武力によって、守護職をとった実久の本拠地は、出水です。鹿児島清水城には、距離があり、その間を島津忠良・直久親子は、寸断するのです。その間の渋谷一族を味方につけてのでした。そして、1536年に伊集院の城を奪還するのです。忠良は、1538年には実久の南薩の拠点である加世田城を落とし、1539年に鹿児島の紫原・谷山決戦で実久に勝利して、名実ともに守護としての地位を確立するのでした。

 忠良親子は、島津本宗家の地域の国人を被官化して、その層の家臣団を組織化して一族と家臣団の話し合いを重視していく老中制度を整備していきます。

 

大隅国での戦乱と大隅八幡宮

 f:id:yoshinobu44:20210830135924j:plain

 大隅の国では、大隅八幡宮の権威は大きなものが平安時代の荘園の形成からありました。大隅八幡宮は、巨大な荘園をかかえていたのです。中世後期になっても、その宗教的権威はあったのです。

 大隅国府のあった国分地方は、守護職の島津家が支配する以前は、正八幡宮政所職や霧島座主を務めた税所家が支配していたのです。税所家は、1483年に帖佐城の島津家を攻めて破れ、崩壊するのでした。
 その後、1519年に島津勝久の襲封以後の混乱で、伊集院尾張守為長が曽於郡の橘木城に拠って背き、新納忠武もこれに応じて、同城にたてこもっています。島津勝久(1503~1573)は、1520年に肝属兼演らに攻略を命じて、降伏させているのです。この伊集院為長については、反旗の理由がわからない状況です。島津勝久は、父の忠昌が自害したあとに、後継した長男、次に、後継した次男とが相次いでなくなり、短命の守護職でしたが、忠昌の3男でした。兄弟で守護職を三代にわたって後継するのです。

 伊集院九華の家系を調べていくうえで、大隅国のいくつかの伊集院家の動向を調べていくことも必要です。今後の課題です。
 大隅の国の本田家は、南北朝以来島津家の忠臣として仕えて、大隅国守護代になっていました。1522年に曽於郡を本田兼親に島津勝久は与えますが、これに対して一族で内紛が起きるのです。一族の執政本田親尚との対立で起きます。

 この戦いは、兼親が勝利します。その後を継承した本田薫親は、1527年に自分に反対する大隅八幡宮を襲い、社殿に火をつけ、薩南学派の儒学を教えていた神宮の3柱寺院であった正興寺(臨済宗建仁寺の末寺)も焼失するのです。
 大隅八幡宮の再興は、1558年と37年後です。本田薫親は乱暴の限りを尽くしたのです。正八幡宮領を我が物にし、自ら火をつけて消失させた社殿の修復はなかったのです。暴虐は、時を経るに激しくなって、家臣十数人を殺すのです。本田薫親は、1548年に忠良・直久軍に滅ぼされます。
 謀反を起こした本田家での戦いに活躍した伊集院忠朗・忠倉親子は、本田家が拠点のひとつてしていた城の主になるのです。現代の国分姫城の小高い断崖絶壁に囲まれた城で、橘木城にもつながっていくのです。

 古代から隼人がたてこもり、近くに大隅国府大隅八幡宮があったところです。姫木城と向かいあった山には、清水城が築かれていましたが、そこで、島津貴久が1年有余居住し、その後は、弟の忠将に治めさせています。

 

島津家中興祖の忠良(日新公)のいろは歌からみる思想

 f:id:yoshinobu44:20210830140048j:plain

 1550年に、島津直久は、伊集院の城から鹿児島の清水城に移るのです。島津忠良は、1550年に隠居しますが、為政者のあり方、人間として生きる道に、儒教の教えを47首のいろは歌方式で、まとめたのです。
 「いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし」と昔の賢者の学問を唱えても、実践しなければ意味をもたないという日新公は考えたのです。ここには、学問のみの学びということではなく、実際に実践して、役にたっていく学びで、学問を考えたのです。
 「学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ」と、学問をするには明日の昼も常にしなければならない。とくに、特に夜は静かで学問をするのに適しているというのです。


 「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高きいやしき」と、どんな立派な家にすもうと貧しい小屋に住もうと、心の高きに価値があると日新公は語るのです。心のあり方が人間の価値を決めるということです。
「理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の 行くにまかすな」と、理も法も大切にしない世の中でも、自分の心を流されずに、自分の信念をもって生きよと日新公は述べています。

 日新公の生きていた時代は、理や法ではなく、権力をめぐっての島津家での身内や一族で争い、地方ごとに豪族勢力拡大のための武力の衝突があったのです。ここでは、力の関係をみながらの寝返りや謀略があったのです。武力な力関係で時流にのりやすい環境があったのです。ここでは、学びによって、義や理、法を守って生きることを日新公は説いたのです。


「種子となる心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ」と、私利私欲の心にまかせれば、人の道に外れ、さらに悪い評判がたつというのです。人間の本来もっている欲のみにまかせるだけではなく、人間のいきていく道があるというので、それを犯せば人としての名も失われというのです。

 日新公の生きていた時代は、身内や一族で、権力をめぐって激しい戦いがあったのですが、とくに、守護職や国人などの城主の相続などは、大きな問題であったのです。現代でも相続をめぐる争いが起きるのも人間のもっている生身の欲からです。その心に身をまかすのではなく、理や法ということからの煩悩のつきあいが求められるというのです。人間的な信頼関係を築くこと、社会的に人間的に評価されていくことが尊敬を受けていくということです。どんなに権力を強大にしても名は流れてしまうというのです。


 「おもほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて 義を守れ人」。日新公は、思っても違う身の上は、欲を離れてわかるものですと。身の振り方は、欲を離れて正義を守れる人になることも大切とするのです。まさに、生き方に義を大切にしているのです。人にとって、義とはどのような内容をさしているのでしょうか。

 古来から賢者から学ぶことによって、正道を身につけていくこととなるのです。正道によっての為政者とはどうあるべきなのでしょうか。政治のあるべき道なんであるのでしょうか。

 日新公は、「もろもろの国やところの政道は 人にまづよく 教へならはせ」。人によいことで、まず、為政者は、正しい生き方を人々に教えることであるとするのです。正しい人の道の教育から正しい政治が生まれてくるという考えです。


 そして、為政者にとって、最も大切なことは、頼ることのない独り身に慈悲をかけることで、民に心をゆるし、情けをかけることが重要と次のようにのべるのです。「ひとり身をあはれとおもへ物ごとに 民にはゆるす 心あるべし」と、たよる者がない民に、情けをかける心あるべし」と強調するのでした。

 

 この精神のもとに島津忠良は、具体的にどのような施策をしたのでしょうか。加世田に隠居してもに、政務は、続けて、琉球を通じた対貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成をするのでした。

 そして、万之瀬川に橋を掛け、加世田の麓を整備したのです。さらに、養蚕などの産業を興して、百姓の生活を豊かにしていくために、仁政を行ったのです。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作りました。そして、かれの考えは「島津家中興の祖」と言われように大隅・薩摩・日向の島津家の政治に大きな影響力を与えていくのです。


 島津忠良(日新公)のいろは歌のいくつかの例を紹介しましたが、為政者、リーダーとして、人として生きる道を多くの人に教えるために、優しくカルタ方式で語ったのです。
 
 伊集院九華は大隅・薩摩でも活躍できる状況があったのではないでしょうか。


 伊集院九華は、1560年のときに郷里に帰る途中、小田原に滞在して、北条氏康・氏政親子に三略の講義をしますが、九華は、北条氏康から足利学校に戻るように説得されて、1579年の死去するまで、校長を務めるのでした。関東八州を領地にした北条氏康は、家督を氏政に譲るのも1560年です。

 この年に、北条氏の徳性令がだされるのです。戦乱や飢饉で困窮する百姓に年貢の減免、債務の帳消しなどの実施です。萬民を哀憐し百姓に礼を尽くすために、徳性の発布、諸人の訴えを聞き届ける目安箱の設置、公正なる裁判の実施は天道のかなうもので、それがあったからこそ、関東八州を治めることができたと北条氏康は、箱根別当融山との書簡でのべているのです。(高橋・五味文彦編「中世史講義」ちくま新書、238頁)

 

 伊集院九華は、足利学校が大火事にあって、その施設の再興に全力を尽くすのです。1560年の61歳の歳に大隅の郷里に帰る決意で足利を去ったのですが、北条氏康に説得されて戻るのです。そのときに、施設の充実も約束されたのではないかとみられます。すでに、稲荷神社や八幡大菩薩孔子廟などは再建されています。

 

 晩年の九華にとって、大隅や薩摩に帰って、なにを考えたのでしょうか。彼の教育熱は、ひとつの仕事が終わって、ふるさとに帰ってのんびり老後を暮らすことを考えたのでしょうか。かれの役割は、大隅や薩摩にはなかったのでしょうか。故郷の大隅国に帰ることを思い立ったときに、大隅や薩摩の人達との交流や期待はなかったのでしょうか。このときに、島津忠良は、息子の直久と共に、大隅や薩摩の統一に動き、島津家自身を強固なものにしていくのです。その体制は、孫の義久の時代に確実になり、九州の統一をめざしていくのです。

 

 この時代に易学を重視した明の国から日本に帰化した江夏友賢がいるのです。かれは、島津義久が描いた大隅国府地域、大隅国分寺跡地に京都風の基盤目の街にならって、街並みを規則正しく、港街を整備して、明より商人を招いて唐人町を繁栄いたのです。これが舞鶴城(国分城)の町並みで、現在でも、その跡がみれます。国分高校、国分小学校を中心としての町並みです。この町並み建設に友賢があたっているのです。
  島津義久にとって、九州を統一していく戦略に易学が必要であったのです。その役割を明から帰化した友賢が担ったのです。友賢は、薩南学派の儒学者一翁玄心と親交がありました。その弟子の文之玄晶に教えています。

 玄晶は後に薩南学派を代表とする儒学者になっています。江夏友賢は、易学による占いで、島津義久に仕え、300石の禄をもらったのです。墓は、大隅の国姶良郡加治木郷木田の実窓寺跡に現在も残っています。

 

まとめ

 

 中世の室町時代に、大隅・薩摩・日向の争いに、島津家の一族内紛が中心にありました。分家と本家の争い、兄弟間の後継をめぐる争いが戦いを伴って繰り返されました。この争いは国人の地方豪族を巻き込んだものでした。地方有力豪族は島津家一族もからめて勢力拡大をはかったのです。

 島津忠良・直久親子は戦国大名として、三国を統一したのです。この意味で、島津家の中興の祖として、忠良(日新公)はいわれるのです。伊集院九華は、忠良よりも7つほど下で、この時代に若いとき、大隅の伊集院家で育ち、成長して、足利に学びにいくのです。
 幾度なく絶え間ない戦乱のなかで、平和のために儒学を学ぶ教育機関としての足利学校でした。そこで、易学などを学び、陰陽五行説を中心にしての自然の理によって臨床的に医療を学ぶ学校でした。そして、為政者としてのあり方、軍略、易学をとおしての占い師を学ぶ学校でもありました。

 中世の戦乱のなかで多くの学徒が足利学校に集まってきたことは、その後の日本の平和や自然の理の医療発展、為政者の哲学に大いに貢献したとみられます。
 現代でも自然の理を科学的に学び、そして、それを臨床的に現実に応用していくことは、新型のコロナ化のなかで痛切に感じるところです。場当たり的なことでは問題の根本は解決しないのです。

 また、権力の争いも私利私欲が横行して、為政者のあり方が鋭く問われる時代です。為政者とはどうあるべきなのか。私欲を排して、民のために、自然循環の理、人間的あるべきこと、歴史を遡って考える必要があるのではないか。中世における戦乱からのヒントは、足利学校の歴史からも材料があると思うのです。

 

参考文献


川瀬一馬「増補版・足利学校の研究」講談社
菅原政子「占いと中世人」講談社新書
市橋一郎「中世後半期に於ける足利学校の教育」史跡足利学校「研究紀要」19号」 

新型コロナ蔓延とオリンピック精神

新型コロナ蔓延とオリンピック精神

 

f:id:yoshinobu44:20210721154635j:plain

 毎朝、早く起きて1時間半ほど森のなかを楽しくジョギングをして楽しんでいます。体を動かせることは本当に幸福感を感じています。いつまでも走れることを希望しているところですが、人間も自然の一部で、いつかは衰えていくものです。元気で健康で人生を楽しく過ごしたいというのは、誰でも望むところです。

 新型コロナのなかで、行動が制限され、思うように活動が出来ずに、気持ちが落ち込むことがありますが、これも自然の流れとして悟るしかありません。しかし、自然の流れに逆らって、またオリンピックの崇高な精神を投げ捨てて、爆発的な新型コロナ蔓延のなかでの世界最大のスポーツイベントを実施していることに理解が全くできない状況です。まさに、戦場のなかで、災害地のなかでオリンピックを実施しているのと同じことだと思っています。

 

 新型コロナ蔓延のなかでのオリンピック開催は、国民の命を健康を守るということから、 深刻な問題を起こしていますが、オリンピック精神から真逆の行為でもあります。現代のオリンピック精神は、スポーツと環境ということで、特別に環境のことが重視されているのです。

 オリンピックの開催は、豊かな環境のもとに、人類の健康で幸福で豊かなスポーツの祭典ということです。利権や政治的駆け引きなどが幅をきかせ、平和や人間尊厳ということからの友情、連帯、フェアープレイ、相互理解というオリンピックの崇高な精神があります。東京オリンピックの開催は、異常な爆発的なコロナ感染の緊急事態のなかで実施されているのです。まさに、真逆の方向に走っているのです。

 スポーツは健全な心身の発達のためで、人類共通の文化です。人々が生涯にわたって心身ともに健康で文化を営むためで、自発的精神のもとに安全かつ公正の環境のもとに実施されるものです。そして、オリンピックはスポーツの祭典として、文化や環境を三本の柱とするものです。環境は人々の健全な心身の発達に不可欠なことです。このために、持続可能な社会のために生態系をはじめ環境という柱も重視するものです。

 ところで、緊急事態宣言ということで、東京は新型コロナ蔓延の状況で人々の酒類を伴う飲食行動は厳しく制限されています。しかし、東京オリンピック開催ということで、世界各国から多くのトップアスリート、オリンピック関係者が大量に入国しています。オリンピック関係者の人の流れの制限は特別扱いにされているのです。日本の一般の人々とは接触しなというバブル方式ということですが、実際は、その行動に多くの問題が懸念されているところです。

 人々もオリンピックという国際祭典ということで、コロナ蔓延にもかかわらず、興味がそそがれて、熱気にもえて、街にでていくのです。無観客ということでも人のながれに歯止めがかからない状況で、爆発的感染になっているのです。オリンピック開催とコロナの爆発的感染には、因果関係はなく、むしろ国民の側に人流抑制のできないところに問題があるという政府の見方です。東京都は、国の重傷者の基準と異なり、10分の1の公表になっているのです。統計的操作や検査の抑制によって、感染状況が正確に国民にみえにくい状況になっています。

 安心安全のオリンピックの開催ということですが、さまざまな世論でも多くの国民はオリンピックの強行に多くの不安を感じているのです。新型コロナ蔓延のなかで、国民の命と健康を守ることが緊急的課題になっているのです。コロナの爆発的な蔓延状況で、国民の命と健康に全力を注ぐことが大きな政治課題です。また、行政もそのことが重要な仕事になっています。医療関係者や保健関係者は疲弊しているのも現実です。長く続く国民への自粛要請ということから、経済にも大きなマイナス影響を与えています。とくに、飲食業者や観光業者とその関連業者は深刻な影響を受けています。

 

オリンピック憲章から学ぶ

 

 1994年にオリンピック100周年を記念しての第12回IOC総会で、オリンピズムを肉体と意志と知性」の資質をを高揚させて、均衡のとれた全人格のなかに統合させる人生哲学の努力のなかにみいだせることにあるとした。人間の尊厳を保つことに導きを置く平和な社会の確立を奨励するこにあるとしたのです。実際に国際的に各地で、紛争は絶えないことが現実です。大国が核兵器をはじめ、軍事拡張政策を続けています。第2次世界大戦は、オリンピックというスポーツの場がファッシズムのヒットラーによって、世界支配戦争に利用された苦い経験をもったことがあります。国威高揚という国家主義のために政治的にスポーツが利用されることがあるのです。この意味で、現代のオリンピック精神に平和主義と人間の尊厳を強くかかげているのです。

 まさに、オリンピックは、平和の祭典であり、人間の尊厳に重きをおく、友情、連帯、フェアープレイの精神をもって相互理解するスポーツ運動であるとしたのです。スポーツは競技として競い合う性格をもっています。それぞれの努力のなかに、勝利したいという欲求のなかで、スポーツの技量と精神が高まっていきます。すこしでも、進歩したいという人間的欲求でもあります。

 スポーツは、自分との戦いが個々の進歩したいという欲求とが重なり合っているのです。負けること、失敗することも進歩していく過程でもあります。しかし、競い合うことが、人間の尊厳、友情と連帯、相互理解を前提にあることを決して忘れてはならないのです。スポーツの勝利至上主義が争いに発展することがあるからです。

 ところで、21世紀のはじめの現代は、世界の環境問題が深刻な状況です。地球温暖化によって、異常気象が起き、災害や健康障害が起きる可能性が多くなり、海から高さが低い島国の陸地では、消滅していくところが膨大にあります。このような状況で、持続可能な社会づくりとして、スポーツと環境をかかげるようにようになりました。オリンピックは、スポーツ、文化、環境という3つの柱をかかげるようになったのです。

 スポーツをとおしての青少年の教育は、大切になっています。健康とは、病気ではない、体が弱っているということだけではなく、肉体的にも、精神的にも、そして、社会的にも、すべてが満たされた状態であるというWHOの精神が大切なのです。

 青少年の教育には、このすべてが満たされた状態を達成するためです。健康的なライフスタイルは、肉体的という限定されたものでないことはいうまでもないのです。肉体、意志、精神という調和のとれたバランスのよい生活を送るために、社会的にも健康な状況が必要なのです。

 IOCは、スポーツと環境ということで、ガイドラインを示しています。エネルギー、水、移動、ゴミなどゼロ炭素社会のアクション、持続可能な開発、生態系と景観の保全、節水、自然エネルギーの使用、環境汚染物資や廃棄物の克服、生物多様性の尊重などスポーツとして積極的にかかわる必要性を提言しているのです。環境ということでは、感染症という公衆衛生環境は大きなテーマでもあります。自然環境の破壊と共に、人間が未知の自然界に深く入り込みすぎると、新たな感染症に遭遇して行きます。人類の疾病の歴史のなかで感染症は大きな脅威であったのです。

 人類が生きていくうえでは、自然環境要素に大きく依存しています。呼吸、水分、食物などスポーツをとおして理解することができるのです。無呼吸は3分、水分は3日間というように、その限界があるのです。そして、スポーツの技量を高めていくには、呼吸、水分、食物は重要な要素になるのです。そして、自然環境ということで、生態系を大切にするうえでの生物多様性の尊重も理解できるというのです。

 オリンピック精神の教育的に価値は大きなものがあるのです。努力の喜び、フェアープレイの精神、他者への尊敬、向上心、バランスのとれた心徳知です。オリンピック精神は、教育の側面からみるならば、スポーツ体育という狭い面ではなく、科学技術、歴史地理、言語、美術・音楽・デザイン、生態学・および自然という側面と幅広くもっていることを決して見落としてはならないのです。

 スポーツから得られる恩恵は、教育成果という面ばかりではなく、健康増進及び疾病の予防、ジェンダー平等など様々な恩恵があるのです。

 

日本のスポーツ基本法の理念

 

 日本では平成23年にスポーツ基本法が制定されて、国民の権利としてのスポーツ文化が定着し、政治はその責任を果たすようになったのです。そこでは、スポーツは世界共通の人類の文化として、スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持の増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神的涵養のためにあるものであるとしたのです。

 そして、国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的生活を営むうえで不可欠なものであるとしたのです。スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、すべての人々の権利であり、すべての国民がその自発性の下で日常生活にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならないとしたのです。日本で暮らすところのすべての人々に平等に権利としてのスポーツを保障することが求められるようになったのです。

 このスポーツ基本法の理念は、国民の権利としてのスポーツの参画を生涯にわたって保障することを規定したことです。国民が文化的に豊かに生きるためには、スポーツは不可欠なのです。高齢になってもスポーツの参画は保障されるべきであり、そのことは、生きる楽しみのであり、健康を保持増進になっていくということです。スポーツの権利保障ということと健康で文化的に生きることは一体であるのです。保健衛生・医療行政にとってもスポーツは大切な役割を果たすことにもなるのです。

 

スポーツビジネスの繁栄問題

 

 平成22年にスポーツ立国戦略として、する人、観る人、支える人、育てる人ということで、スポーツを基盤とする新しい公共性性の形成が提唱されています。無償の公共サービスから脱皮して、地域住民が出し合う会費や寄付により運営するNPO法人型のコミュニティクラブが主体となって実施していくということで、地方自治体の社会体育夜学校教育でのスポーツ活動からの新しい公共性の提言です。

 地域でのスポーツ活動の自発性を伸ばしていくうえで、新しい公共性という非営利団体の果たす役割は大きなものがあると思います。しかし、それは、営利のためのスポーツ企業活動ではありません。いつのまにか、新しい公共性ということが、特定の営利団体のスポーツ産業の育成ということになれば本末転倒です。スポーツ活動は、国民の権利としての公共的な活動です。ここでは、国や地方自治体の役割が大きくあることを決して忘れてはならないのです。

 国家や地方自治体の責務による公共性から住民自身の会費や寄付によるスポーツ活動の実施ということでの非営利の新しい公共性ということです。国家や市町村によるスポーツ活動の条件整備や指導者の配置が大切なのです。それは、スポーツ産業としての民間のクラブ活動やスポーツ塾が繁栄していくことではないのです。子どもの遊びが様々なスポーツ練習ということで、教育と称してのスポーツジムになっていくことではないのです。

 さらに、国民のスポーツ活動の普及は、民間の産業として発展していく現実があります。そして、これが、健康ブームということで、各地にスポーツジムが成人層をターゲットに一層に発展していくのです。スポーツをすることは、大きな家計費がかかるようになっていく状況があり、スポーツ活動には、貧富の問題があるのです。スポーツは民間にとっての重要な産業として、恵まれた層を中心に各地域で普及していくことで、貧困者は遠ざけられていくのです。

 ところで、トップアスリートが社会に還元されるしくみづくりとしての引退後の配置も重要となってくるのです。総合型地域スポーツクラブや学校体育の外部指導ということが大きな意味をもつようになるのです。トップアスリートと地域住民が結合していくしくみづくりが公的に保障されていくことが必要なのです。スポーツは地域住民との関係をスポーツビジネスという結びつきを強めるのではなく、公的に社会的に保障された指導者として、地域の一体感を生んでいくのです。それらは、社会関係資本の形成に大きく寄与するようになっていくのです。

 現実のスポーツ活動が営利のビジネと結びついている現状では、トップアスリートが選手として活躍できるためには、スポンサーなくして、難しくなっているのが現状です。それぞれ、スポンサーをつけて活躍していくのです。ここには、競技がプロ化していく論理が潜み、有能なスポーツ選手であればプロスポーツが最も経済的に基盤がつくられていくのです。

 ゴルフやテニス、野球などは、莫大な契約金や報奨金、広告収入が入るのです。超一流選手は、億万長者として高額な所得をあげることが可能になっていくのです。スポーツビジネスやスポーツのプロ化によって、拝金主義が潜む問題」があるのです。勝利至上主義が拝金主義と結んでいく怖さがあるのです。スポーツマンシップということがあらたためて大きく問われる背景があるのです。オリンピックを契機に、人間の尊厳、平和、公平性などの権利としてのスポーツ文化というオリンピック憲章やスポーツ基本法の理念を学ぶことが求められているのです。

 

 

 

 

 

 

 

現代青少年の非行問題と遠軽家庭学校の教育農場から学ぶ

 現代青少年の非行問題と遠軽家庭学校の教育農場から学ぶ

f:id:yoshinobu44:20210521173557j:plain

 はじめに

 青少年の非行問題の基本的な考えは、少年法という法によって示されています。その理念は健全育成という福祉や教育を重視しているのです。遠軽の家庭学校は、百年以上の歴史をもつ教育農場による更生教育の実践です。

 

北海道遠軽家庭学校の教育農場の実践から学ぶもの

 

 非行少年を更正させる教育福祉施設として北海道の大自然のなかでの遠軽家庭学校は、多くの更正教育の成果をあげています。現代的にも非行少年の健全育成の更生教育にとっても重要な教訓を与えています。そこでは、少年の心身の原因と環境を重視し、これを整備していくという方針のもとに1千町の大地で教育農場の実践を大正3年に創設したのです。

 留岡幸助は、大正3年50歳ののときに、家庭学校の経営に専念し、71歳まで永眠するまで、家庭学校に全身全霊をもって貢献したのです。北海道の遠軽家庭学校の教育農場実践は、今日まで続いています。

 留岡幸助の精神は、一路至白頭ということで、家庭学校の本館正面に胸像の下に書かれています。一つの路(仕事)を一心不乱に頑張って努力をつづけてきたから、大きな成果が得られた。素晴らしい仕事が成し遂げられた。ふと気がついたら、自分の頭が真っ白になっていた。白髪の老人になっていた。大きな成果が得られるまでは、それぐらい長い時間と努力が必要だ。逆に一つの目標に向かって長い間努力を続けたら、白髪になる頃にはきっと素晴らしい成果が得られる」ということで、一路白頭ということばです。

 留岡は、同志社を卒業して、刑務所で、受刑者に対して行う特性育成を目的とする教育活動に従事したのです。いわゆる教誨(きょうかい)師です。かれは、犯罪者の多くが、14歳未満で非行少年になったことを発見したのです。この発見から、犯罪者の卵である非行少年を学校組織によって、教育すればと思い立ったというのです。30歳のときに、アメリカに学びに渡るのです。マサセュセッツ州立青少年刑務所の16歳から25歳の初犯者の感化教育を学ぶのでした。基督教徒であった彼は、全米の感化監獄を訪ねて学ぶのでした。

 日本に帰国してから、すぐに自分が考えた教育施設は無理であった。日本では感化教育に対する理解がほとんどなかったのです。日本に帰国して、33歳のときに感化事業の発達を出版しますが、そのなかで感化院の骨格は、基礎学力の付与、農業を主とする労作、保健教育、宗教による霊性教育の4つをあげています。

 世間の塵によごれすぎている小少年には、自然環境の閑静のなかで感化事業をしなければならなということからの労作教育を考えたのです。地方改良運動のなかでの筋金入りの報徳精神も北海道の僻地に開拓しながら教育農場を実践しようという考えに至ったのです。家庭学校の教育農場は、青少年を更生教育するための事業なのです。教育事業であるがゆえに、開墾し、校舎、家族舎、礼拝堂を建築するのでした。従って、教育に適した土地を選んだのです。

 35歳のときに、東京の巣鴨に家庭学校を創立する。内務省地方局の嘱託として、36歳のときに、報徳組織の地方自治の影響を調査するのです。そして、再び欧米の遊学をするのでした。42歳のときに家庭学校を財団法人として、経営にあたるのです。二宮尊徳についての出版をしています。50歳のときに、本格的に自分の理想とする感化教育を実施するために、内務省の嘱託を辞して、家庭学校の経営に専念するようになるのでした。
 教育農場のなかで生産意欲と責任意欲を高めているのです。社会的訓練は農業労働をとおしての実践です。施設全体が大家族という理念のもとで、家族のもっている教育的役割を重視しているのです。教職員は、子どもたちともに寝食を共にしています。農業は人間と自然の関係を考えさせてくれのです。そして、努力することで、生産物が目にみえるというのです。牛も丁寧に手をかければかけるほどいい牛乳がとれます。
 少年にとって、農業労働をとおして生産的な人間成長をしていくのです。非行少年にとって特徴的なことは、家庭に恵まれない貧困な精神文化での生育歴です。そこからは、異常なほどの破壊性が醸成されていくのです。また、ものごとに対して忘れっぽい、満足感をもつことがないのです。常に不満をもっていることが特徴的です。これらの精神的な問題状況を克服するために、遠軽家庭学校は、教育農場を大いに活用しているのです。
 生きていくうえで自分の欲するものは、自分たちでつくっていくということを実践しています。おやつまでも自分たちでつくるということです。
 創設者の留岡幸助は「自然と児童の教養」の出版で、遠軽家庭学校創設10周年に「なぜ原生林の中に家庭学校をつくらねばならなかったか。教育の原理のなかに自然を求めただけではなく、自然のなかに誠を発見することであったのです」。「非行少年の内在する心身の特性と環境から少年を大自然の開拓のなかでよく働かしめ、よく食わせ、よく眠らせるという三要件が教育することに大切としたのです。そして、考えること。
 大自然での農業は、これらのことに最も適しているのです。留岡清男は、北海道の教育農場に赴任するまで、人間の発達は、遺伝によって決定されるということで、教育は無力と思っていたのです。遠軽の家庭学校は、教育問題に開眼のヒントを与えてくれた。牛や、豚や鶏など家畜の管理から学んだのです。
 優良品種を導入すれば生産量はあがると考えていたが、家畜を飼う人が未熟ならば生産量をあげることができないことがわかったのです。教育は胃袋からも理解することもできたのです。遠軽の家庭学校は貧乏であった。からうじて生をつなぐ粗末な住居、衣料も布団も十分ではなかったのです。学校では自然で生きる生活を喜び、遠大な教育をうちたてるために、ほど遠い現状でしたが、貧乏を克服していくたに、酪農部で牛乳の生産をし、養鶏をし、蔬菜部をつくり、学校林の運動にのりだすなどの努力をしていたのです。

 f:id:yoshinobu44:20210715122453j:plain

 生産意欲と責任意欲は、近代社会の柱になるこのです。創意と工夫は、性能上の柱です。遠軽の先生方は、精神的貧乏、心構えの貧困を厳しく警告していたのです。北海道の遠軽家庭は、世の中の不幸な少年たちのよき相談相手になって、引接に教護の任務にあたることと、近隣農家のよき伴侶になって明日の農村を建設する任務にあたっていたのです。
 教育農場は、少年を人間的に成長せているのです。遠軽の家庭学校をでて、多くの少年たちが社会に育っていくのでした。 遠軽家庭学校では、非行少年の前歴をもったということで、社会の偏見と差別ということに立ち向かっていかねばならないのです。
 この現実に対して、施設をでたあとでのケアも大切にしています。遠軽家庭学校では、施設を出た後でも自立して生きていけるように、子どもたちの将来をきちんと保障した教育体制をとっているのです。
 非行であった少年が、更生されて生涯にわたって生きてけるように、子どもの発達保障を社会の偏見や差別に対して、力強く生きていけるように指導しているのです。非行少年は、社会的な差別と偏見のなかで生きていかねばならないことを直視しなければならないのです。

 参考文献: 留岡清男「教育農場50年」岩波、昭和39年出版、谷昌恒「教育力の原点」岩波書店、1996年、

 

少年法の理念

f:id:yoshinobu44:20210715122659j:plain

 少年法の目的は、第1条で、次のようにのべられています。「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して生活の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うことともに、少年及び少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」。

 少年法では、健全な育成ということで、生活の矯正及び環境の調整ということで、罪を犯した少年に対する保護・刑罰という側面ではなく、特別の措置として、教育と福祉の側面から家庭裁判所の役割を重視しているのです。

 家庭裁判所の役割は、少年の健全育成ということから罪を犯した少年ばかりではないのです。14歳未満に満たないで刑罰法令に触れる少年は、性格や環境に照らして将来、罪を犯し、刑罰法令に触れる行為のあるぐ犯少年も含まれています。

 次の4つの少年の状況をぐ犯として示しています。
 1、保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。

 2、正当な理由がなく、家庭に寄り付かないこと。

 3、犯罪性のある人もしくは不道徳な人と交際し、また、いかがわしい場所に出入りすること。   

 4、自己または他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。


 少年法は、地域、学校、家庭の教育力に期待し、保護処分、刑罰を最小限に抑制している。少年法第6条では、「家庭裁判所の審判に付すべき少年を発見した者は、これを家庭裁判所に通告しなければならない」ということです。少年法では、通告という方法による、すべての国民に少年の健全育成の教育的配慮を求めているのです。
 

 警察や市民の補導の原理は、少年法の精神である教育的福祉的側面からです。そこでは、家庭裁判所中心主義で、家庭裁判所の調査官を重要な構成員として、児童相談所、児童委員、警察、学校などの機関と連携して少年の非行の至った原因を科学的に調査をすることです。

 調査は、少年と保護者または関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他専門的知識の鑑別の結果を活用します。

 そして、社会内観察という保護観察、児童福祉施設、矯正施設などの処遇について判断し、審判するのです。

 少年事件は、家庭裁判所に送致されるしくみです。家庭裁判所は少年事件の中心的な役割を担っているのです。少年の処置決定は、家庭裁判所の調査官による科学主義が原則になります。

 少年法の保護優先主義は、教育と福祉優先主義であり、保護観察による社会的処遇の措置のケースが多いのです。

 教師の少年審判における直接的な役割ができるのは、付添人の制度を活用することです。教師は成人裁判の弁護士的な役割に匹敵するのです。それは、少年審判が、教育と福祉の優先主義をとっているためです。

 f:id:yoshinobu44:20210715122815j:plain

 少年事件において、調査審判にあたって学校の協力は不可欠になっていることを決して忘れてはならないのです。少年事件にあたって、少年の教育的な課題を明確にしながら保護処分をおこなっていくことが必要です。

 少年事件において、おのれの罪を内省することが弱い場合が多いのです。孤独な精神作業をとおして自己をみつめていくということが大切です。

 集団生活では、内省作用ができないのです。集団生活の無難な適応だけでは問題が解決されないのです。罪を犯した少年は、自分で自主的に、自立的に考えていくということがきわめて未発達な状況です。

 

 少年非行の防止のための国際連合指針・1990年12月採択されいます。

 

f:id:yoshinobu44:20210711143024j:plain

 国際連合の指針は、「少年非行の防止を成功させるためには、合法的で社会的に有益な活動に携わり、かつ人間主義的な社会指向および人生観を身につけることにより、青少年は犯罪につながらないような態度を発達させる」ということです。社会的に有益な活動に参加させることは、青少年の社会的ルールづくりです。自分一人で生きていないということを実際の社会生活体験で自覚していくことです。

 つまり、青少年は、子どもは他者との関係をもって人間形成されていくということです。子どもたちが自由に遊びを仲間たちとしていくことも大切なことです。遊びのなかでも年少者をいたわること、それぞれに得意なこと、じょうずででないことを理解して、役割分担を自然と身につけていくのです。

 

 国際連合の指針では、「青少年の調和のとれた発達を確保するために、幼児期からの人格およびその促進を重視しながら社会全体が努力することが必要である」と、子どもたち自身や子どもと関わる人々だけではなく、社会全体として、青少年の調和ある人格の発達を見守り、援助していくことを強調しているのです。


 青少年の発達を援助していくうえで、教育教育制度は、大切なことですが、その制度のなかに、「学業活動および職業訓練活動に加えて、人間として生きていくうくうえでの基本的価値を教え、かつ、子ども自身の文化的アイデンティティおよび文化様式、子どもが暮らしている国の社会的価値観」を身につけさせていくことを国連の指針は重視しているのです。そして、独自に、教育における指導性の重要な発揮として、子ども自身の文明とは異なる文明、ならびに人権および基本的自由への尊重を発展させることを不可欠な教育事項としているのです。


 国連の指針では、いくつかの重要な教育的要件を提起しているのです。まず、第1に、青少年の人格、才能および精神的および身体的能力を最大限可能なまで促進しかつ発達させることです。そこでの教育の方法として、青少年を、啓蒙的な教え込む対象として、単なる客体としてではなく、積極的かつ効果的な参加主体として教育活動に関与させることを打ち出しているのです。

 一人一人が学ぶことに、目的意識性と計画性をもって、意欲的に参加していく学習の形態をつくりだしていくことになるのです。教育の場での主人公は、一人一人のこどもたち、青年たちなのです。少年たちは、主体的な活動の参加によって、学校および地域社会との一体感およびそれへの帰属意識をもてるように工夫していくことが教育者に求められているのです。同時に地域社会全体としても、それを促進するような活動を行うことが求められるのです。

 社会は、多様な個性をもっている人々によってなりたっています。それぞれの得意な面、素晴らしい面をもち、その内容も一律ではありません。また、だれでも不得意な面があるのは当然です。さらに、できない面も人によってはあります。好き嫌いや意見も人によって違うことがあります。

 国連の青少年の指針では、青少年に対し、多様な見解および意見ならびに文化的その他の違いを理解しかつ尊重するよう奨励することを大切にしています。さらに、人間が生きていくうえで、働くことは、基本的なことです。自給自足的な生活から人々の生活の糧は商品経済に大きく変化し、雇用は、極めて大切なことになっている時代です。このような時代的状況で、職業訓練、雇用機会およびキャリア開発に関する情報および指導を提供することも国連の指針では、特別に重視しているのです。

 国連の指針では、青少年の情緒面の支援と虐待の問題についても提起しています。「青少年に対して前向きな情緒面での支援を提供し、かつ心理的虐待を行わないこと。規律の維持のための苛酷な手段、とくに体罰を行わないこと」ということで、心理的虐待、規律維持のための過酷な手段も禁止しているのです。

 

f:id:yoshinobu44:20210626094536j:plain

 

 知性ある愛情の喪失と粗暴な子どもの解放をどのようにすべきか。

     愛される、愛するという愛情の行為が大切です。

 

 愛は、人間の豊かな感情の表れであるが、同時に持続的に愛情の気持ちを持ち続けるのは、知性的な表現であることを見落としてならない。母性的な幼児期の親子関係は、動物の世界でも自然の世界によって与えられています。
 人間は、動物と異なって、意識的に共生するという社会的存在です。理性を伴っている愛情の力は自然界から与えられたのです。


 イタリアの教育学者のモンテッソーリは、貧しい恵まれない子どもたちに、発達を保障するための子どもの家をつくった。子どもの家で教育実践をしたモンテッソーリは、子どもの発達において、大人の子どもに対する愛情の大切さを特別に重視したのです。このことを次のように述べています。
 「子どもは愛情によって自己実現に到達することが起こります。ふつう愛情といえば感情と理解しますが、子どものへの愛情は知性から出てきて、愛情をこめてながめながら、構成します」。子どもの自己実現は愛情を受けることによって、達成するということで、大人は、愛情への知性が大切とするのです。愛情への知性は、溺愛に陥りがちな親に対する警告でもあります。子どもから一歩距離を置いて、子どもをよくみることからの愛情です。モンテッソーリは、「子どもを熟視するようにさせる入れ知恵」ということで、「ダンテの言葉でいえば「インテレート・ダモーレ(知性、愛情の視力」としています。「あの生気がすでに失われたおとなにとって、まったくつまらないと思われる環境の特徴を、生き生きと精密に観察能力は、疑いもなく愛情の一つの形」というのです。

 「ある外見について、他の人が見ず尊重せず発見もしないような特徴に気づかせる感受性こそ、愛情の特色ある目印ではないでしょうか。幼児の知性には隠れたものも見のがさいのは、まさに愛情をもってながめ、決して冷淡に見ないからです。この積極的な燃え深まる持続的な愛情への没頭は、幼児期の特色です」。

 モンテッソーリは、他の人が見ずもせず発見もしないことに注視する感性が大切としています。それは、決して冷淡にみるのではなく、燃え深める持続的な愛情によって、みつけることができるのですと強調するのです。そして、子どもの環境では、おとなは愛情の最も重要な目的物とするのです。「子どもはおとなから物質的援助を受け取り、また自分の形成に必要なものを強い愛情をもって受け取ります。子どもにとっておとなは尊敬に値する者です。その口唇からは尽きせぬ泉からのように言葉が流れ出で、それは自分の話す力のために必要なものであり、またそれからさきの行動の手引きになるものです」。
 モンテッソーリは、おとなの言葉は子どもにとって、高級な世界からくる啓発と同じ影響を与えるというのです。「おとなはその動作をもって、無から出てきた子どもに、人間はどうして動くべきかを見せます。おとなをまねることは、子どもにとって生活にはいることを意味します。おとなの言葉や動作は、子どもの心への暗示力を得させるほど、魔力や魅力があるものです」。マリーア・モンテッソーリ・鼓常良訳「幼児の秘密」国土社、121頁~122頁


 子どもは大人の愛情によって自己実現していくのです。子どもにとっての大人からの愛情は、怒りや悲しみ、快楽という感覚的な感情ではなく、知性を伴った人間的な子どもを熟視しながらの愛情です。幼児にとっては、親をはじめとする大人からの愛情が特別に重要な意味をもっていることを決して忘れてはならないことです。
 モンテッソーリは、子どもの感覚教育を幼児期に大切にしている意味は、大人の愛情に支えられて生物学的に、社会的に正常な発育を支持するという原理によって整備されていくためというのです。

 正常な感覚の発育は、知的活動の発達に先立つものであるという見方からです。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の子どもの発達は、知覚の基礎であり、認知と情操の発達、道徳の形成にとって、密接に結びついているのです。感覚の発達は、豊かな情操と、他の人を思いやり、共有していくという感覚の発達であるのです。


 人間は、未熟なまま生まれます。一人前になっていくことは長い年月がかかる。

 f:id:yoshinobu44:20210715123013j:plain

 生物学的にも身体的成長も長い年月がかかる。生まれたときに、人間は歩くこともできず、自立して2本足で行動するには、一年以上がかかります。食べることも自分自身でできない。親をはじめとする大人の援助によって、生存することができるのである。人間は長い未熟の期間をもたねばならない。子どもは、大人の保護によって生存することができるのです。

 子どもは、親をはじとする大人を信頼する心が自然に備わって、大人に依存し、保護されるのです。人間の発達のはじめは、基本的信頼からはじまるのであるということを社会心理学者のEH・エリクソンは、「幼児期と社会」というなかで、ライフサイクル論の九つの発達の段階にとって、最初の段階とするのです。


 「良い遺伝子と愛情深い両親から恵まれた幼児は幸せです。いつも熱心に関わり、彼の存在を心から喜び祖父母を持つ幼児は、なをさらです。基本的信頼なしには幼児は生き延びることさえできないという事実を我々は認めなければならない」というのです。まさに、愛情深い基本的な信頼こそが、子どもの発達の最初の基礎というのです。そして、人間が生きていくのは、基本的な信頼の獲得からですと。基本的な信頼関係の獲得によって、希望ということも生まれてくるというのです。

「現に生きている人は、皆、基本的信頼を獲得し、それによってある程度まで希望という強さを得ているということになる。基本的信頼は希望の証である。この世の試練と人生の苦難から我々を守る一貫した支えである」。E.H・エリクソン・J.M・エリクソン「ライフサイクル、その完結」みすず書房、153頁


 信頼のない関係は、不信ということです。不信は人生のあらゆる側面を汚染し、他者との友情や愛情を奪い取っていくのです。幼児期からの児童にかけての子どもの虐待は、信頼という人間的な本質的関係を育てていかないのです。
 
 エイーリッヒ・フロムは、愛の教育力を強調しています。10歳以前の子どもは、愛することはことはしらないし、自分自身の行為によって愛をつくる要因が入ってくるのです。母親や父親などから愛されることから、なにかを作ることをとおして愛することへの長い年月を身につけていくというのです。
「八歳半から10歳以前の年齢の児童の大部分にとって問題は、ほとんど例外なく愛されることの問題ーありのままをあいされることーである。この年齢までの児童はまだ愛することを知らない。彼は愛されることに対し、嬉しく楽しく反応する。しかしこの発達の時期の児童の心像の中に新しい要因、すなわち自分自身の行為によって愛を作る新しい感情の要因が入ってくる」。

 8歳から10歳の時期をみるうえで、大切なことは、自分自身の行為によって、愛をつくる新しい感情の要因をつくりあげていくというのです。この時期の発達の段階によって、親や大人、仲間集団のなかで、そのことが育っていかない歪な環境におかれた子どもはどうなっていくのか。貧困家庭での放任的虐待、しつけの厳しさ、学校の心理的なことも含めての体罰やいじめ問題などの現実もあるなかで、地域や学校で、どう対処していくのかという大きな問題があるのです。
 エーリッヒ・フロムは子ども自身で何かをつくることが大切としているのです。「はじめに、子どもになにかを、母親(あるいは父親)が与えること、誌、絵、あるいはその他のなんであろうと、とにかくなにかを作ることを考えるように何かを与えることからはじめることから」とのべます。そして、子どもの生活において、愛の観念は愛されることから愛することへ、創造的愛へと変えられてゆくことが必要であると力説するのです。この最初の時から成熟までには多くの年月がかかっているとしています。最後に、いまや成人になったかつての児童は、その自己中心性が克服されていくのです。子どもは、他の人は、もともと自分自身の欲求の満足のための手段以上のものではないという考えをもっているのです。その克服が子どもの長い年月をかけての克服していく発達が大切なのです。他の人の要求は自分自身のそれと同じく重要であるという見識をもっていくということです。エーリッヒ・フロム・懸田克躬訳「愛すること」紀伊國屋書店、55頁


 愛することで最も人格的形成に寄与することは、自己中心性からの克服であり、他の人の欲求を理解していくことです。

 

 エーリッヒ・フロムは愛することの重要性を強調しています。子どもはまずはじめにあるがままの事物を知覚するようになるのは、母親からの温かいぬくもりであり、自分がたべているときは微笑んで、自分が泣くときは抱いてくれるという経験をとおして自分が愛されていることを学ぶのです。
 これは、母親によるあるがままの自分の自分が愛されているという受け身の状態であり、それは無条件であるとエーリッヒ・フロムは考えます。母親は、自分のこどもであるがゆえに子どもを愛する。父親は自然的な世界を表していないのです。
 父親の愛は条件つきの愛であり、子どもを教える人であり、世界への道を示す人なのです。6歳以降の愛において、父親の条件付きの愛は人間の社会的存在としての機能から大切な機能をもっているのです。これらのの愛されることを長い年月をかけてくりかえさせることによって、子どもは、10歳以降からなにかをつくることを通して、自分自身の内発的要因から愛することにめざめ、その成長を学んでいくのです。


 無条件の母親の愛と条件づけの社会的存在としての人間的成長のための父親の愛は、人間としてそだっていくうえで重要なことです。子どもの成長にとって親をはじめとする大人の愛情は、極めて重要である。子どもへの愛情の喪失は、子ども自身の情緒不安による粗暴の原因をつくりあげていきます。
 
 現代の青少年の特徴として反抗期の喪失傾向を教師や親からみえないのです。

 

 現代の都市部の青少年には、1980~1990年代まで多く見られたような『分かりやすい不良・ヤンキー・暴走族』が大幅に減っているとも言われ、髪を染めて制服を改造したり校内外で喫煙・飲酒をしたり他校の生徒と喧嘩をしたりするような非行行為は減少傾向を示しています。

 学校の指導方針や親の教育に暴力的な反抗を示す思春期の“第二次反抗期”が余り見られなくなり、どちらかというと既存の学校生活や社会環境、大人の指導に過剰適応してしまいストレスを溜め込んでしまう問題が増えています。

 いかにも不良・ヤンキーといった外見をした生徒が、暴力を振るったり犯罪を犯したりタバコを吸ったりするというのが非行行為の典型ですが、近年は外見上は普通に見える生徒が過剰適応やメンタルヘルス悪化の反動として“窃盗・喫煙・援助交際・ドラッグ”の非行行為をしてしまう事例も多いのです。

 

 非行歴のない子どもが凶悪な犯罪を犯す時代です。青少年の非行等問題行動について、新たな特徴として挙げられるのは、非行歴等のない子どもにも凶悪・粗暴な非行など重大な問題行動がみられることです。従来、重大な問題行動を起こした子どもは、万引きな どのいわゆる「初発型非行」から段階を経てきていることが多く、凶悪・粗暴な非行に至る前段階で、子どもの問題を比較的把握しやすかったのです。

 したがって、このような子どもに対して、親や学校その他の関係機関等が協力して重点的に指導することが可能であったのです。しかしながら、近年、「初発型非行」とは異なった形での前兆はあるものの、従来のような方法では対応しきれない新たなタイプの問題行動が目立つようになったのです。


 重大な問題行動を起こした子どもたちの意識等にみられる特徴は、次に挙げられるとおり、社会の基本的なルールを遵守しようとする意識が希薄になっていることです。法律に違反する行為も他者に迷惑をかけるわけではないから構わないと考えたり、そうした行為をとがめられることを逆に恨みに思ったりという事例が増えています。そして、自己中心的で、善悪の判断に基づいて自分の欲望や衝動を抑えることができないことです。

 非行の結果として他者を傷つけたりした場合でも、自分がどうなるかばかりを考え、被害者や周囲の人々の気持ちを考えないという事例が増えています。また、言葉を通じて問題を解決する能力が十分でないことです。最近よく使われるようになった「キレる」という表現にみられるように、一見ささいなことでストレスや不満を抑制できなくなって衝動的に問題行動を起こしたと思われる事例が多く発生しています。日常生活におけるストレスや不満は、自分の内面で処理するとともに、言葉に表し、周囲の人々に理解を求めることにより、暴力に訴えることなく解決を図らなければならないのに、このような態度が身に付いていないのです。
 さらに、自分自身に価値を見いだし、自尊の感情を持つことができないでいることです。他人を尊重し思いやる気持ちは、自分がかけがえのない存在であることの自覚に根ざすものですが、問題行動を起こした子どもには、そのような感情を実感する経験が乏しい例も多く見られるます。
 
 青少年の問題行動の社会的背景を直視する必要があります。 

 

 青少年の問題は、その時々の社会全体の抱える様々な問題を反映したものです。そこで、今回青少年の非行等問題行動の背景について検討するに当たり、現代の社会一部にみられる社会的倫理欠如の風潮に目を転じることが大切です。
 特定の利益や価値に固執することによって、社会的公正や公平、諸価値相互のバランスが崩れています。社会全体の公共性の利益を省みない行動がみられます。社会的責任性が軽んじられがちです。
 経済的な自己利益の追求に熱心なあまり、子どもに対 しても、ともすれば「より良い職場」に就職するために「より良い学校」に進学することを求めるような傾向が根強くみられます。このような中で、子どもが多様な人間関係を通じて共生していくなかでの自尊の感情や社会性、人との相互に支え合っていく付き合い方を習得する機会が減少しています。
 このような社会的背景から子どもの問題行動の起きる要因があります。子どもに対する基本的なしつけがおろそかになっていることです。社会的倫理や社会的責任が軽視されがちななかで、大人が衝突やあつれきを回避しようとして、様々な行き過ぎにも許容的になり、断固とした態度をとらないため、子どもにとって偏った考え方を生活体験の中で修正する重要な機会が失われています。また、子どもたちが幼いころから多様な人間関係を経験する機会が少なくなっていることです。


 兄弟姉妹の間や地域の同年代の青少年の間など、構成員の年齢に幅のある集団における人間関係は、他者との関係で自分の位置をとらえるという経験の基礎となるべきものです。しかし、少子化や地域のつながりの希薄化で兄弟姉妹や近所の友達が減り、テレビやテレビゲーム、学習塾や稽古(けいこ)事に時間を取られるようになった。

 このため、青少年にとって、人間関係が親子、教師と生徒といった特殊な関係や、学校等限られた場所における同年齢の集団という狭い範囲に限られ、人とのつきあい方を身に付ける機会が失われてきています。
 現代の子どもたちの環境では、多様な考え方を得る機会が乏しく、自らの考えを理解してもらおうと努力しない独善的な孤立主義に陥る傾向につながっています。
 これらは、具体的には、家庭の教育機能や地域社会の青少年育成機能の低下、学校教育の問題等として現れています。


 青少年をめぐる問題は、その背景に、様々な要因が相互に複雑に絡み合っているものです。青少年のみを対象とした対策だけで解決できる問題ではないのです。 まず、大人自身が、社会の構成員として、また、親として、「個」と公共の調和、自由と規律の調和の在り方や子どもの人格形成に対する責務について自らに問い直した上で、社会の基本的なルールを次世代に伝達していくことが重要です。
 青少年が自律的個人としての自己を確立した「市民」になるためには、社会生活の中で、多様な人間関係や実体験を通じ、自分を周囲とかかわらせる活動を積み重ねていかなければならないのです。具体的には、多様な人々とお互いの意見を投げ掛け合い、相互理解に努める中で、時に摩擦も経験しながら、自分とは異なった様々な価値観に触れることです。このような経験を積む場を最も豊富に提供できるのは、地域社会にほかならない。したがって、青少年がこのような『開かれた』関係の中で社会性を培っていくための地域社会の環境づくりが必要です。
 親や教師を始めとする周囲の大人は、自らの考え方を積極的に示し、情報を提供し、意見を交換することを通じて『開かれた』関係を確立し、各自の責任を明らかにしつつ相互理解と連携を実現していかなければならないのです。


 人権尊重、個人主義自由主義、平等主義といった戦後の憲法的価値の浸透は、社会経済の変化と相互に作用を及ぼしつつ、旧来の血縁的、地縁的な社会から人々を解き放ち新たな活力の源となりました。それが、ある意味では、経済の発展、生活の向上をもたらしました。しかし、その一方で、価値観の多様化、人間関係の希薄化等を通じて、家庭や地域社会の育成機能の低下や社会的抑制力の低下や社会的倫理観の欠如をもたらしました。
 人間は社会的にしか生きることのできない存在であり、「社会」を否定したところには、個人個人が自由に個性や創造性を伸長させ、自己実現を追求していく基盤も成り立たないのです。他方で、積極的で責任ある社会の構成員をはぐくんでいくためには、子どもの権利に関する条約に規定されているような生存、保護、発達などの権利を十全に保障していくことが基本的な前提となることも忘れてはならないのです。
 


 

 

農業中心の地域循環経済と人材養成

 f:id:yoshinobu44:20210625173546j:plain

農業中心の地域循環経済と人材養成

         

はじめに 

 地域循環経済にとって、農業は極めて大切です。 地域循環経済とは、日常の暮らしの物質やサービスの経済を受けるときに、多くがグローバル化しているなかであらためて問われる課題です。特産物や高級品、特殊の医療やサービス、観光業などは、地域の暮らしの物質やサービスではない。地域循環経済を大切にすることは、人々が生きていくための基本的条件のためと、持続可能な社会や自然循環の環境保全のためです。

 農業は食料、繊維、日常生活品など、地域循環経済の要であったのです。つまり、農業は人間が生きていくための食糧を提供し、生存のためには不可欠な産業です。

 人間は原始時代に、狩猟、魚や植物採取依存で生きていたのです。道具を使い、仲間と知恵を出し合って、共同作業をし、生活の糧を得て、保存していたが、自然に左右される不安定な日々を過ごしていた。

 また、集落を形成して、人間集団の絆を強くもっていた。それは、自然の厳しさからの対処でした。これらのことは、全くの自然の、なるがままの動物と異なっていました。

 まさに、原始の人々は、自然に大きく左右されて、暮らしをしていたのです。原始の人々にとって、自然の恵みが生きる糧であり、自然に順応して、自然のなかで生きていたのです。

 そこでの人々は、自然の価値は絶対的なものでした。自然は、生きていくうえでの感謝そのものであったのです。日本では縄文時代の世界です。豊かな自然に対する感謝の芸術的感性が育ち、デフォロメの世界が陶器の形や絵に現れたのです。

 神は、巨石であったり、樹木であったり、大地であったりということで、自然そのものであったのです。人々は、常に自然の森に感謝し、家を建てるために、生活のため、樹木伐採をするとき、神に許しの祈りをしたのです。

 稲作など、農業を人々がすることになって、自然のなるがままから、蓄えも年単位と大きくするようになり、人口も飛躍的に増大していくのです。自然災害、飢饉、疫病などで、自然の厳しさのなかで生きてきた人々は、蓄えることができるようになったことで、持続性を考えられるようになったのです。

f:id:yoshinobu44:20210625180855j:plain

 

 人間は、農業の形成によって、生命の維持を目的意識的にできる段階に入ったのです。そして、古代の文明が生まれ、古代の都市が形成されて、農業に直接的な日常生活を持たない都市で生活する為政者の集団が生まれたのです。

 古代都市の富は、農業そのものであった。食料源になる農業を支配することによって、富を得ることができたのです。しかし、都市の拡大によって、農業開発が行われて、人為的自然破壊ということが人類社会のなかで生まれたのです。

 古代の都市は、人口集中と農業開発によって、自然破壊が文明の誕生で生まれるのです。ところが、巨大な古代都市は、環境問題ということから滅んでいくのでした。為政者にとっては、農業の振興と自然との共生ということが極めて重要な課題になっていったのです。

 古代文明時代から都市の形成は、そのまわりとの豊かな自然との共生が求められたていたのです。近代の資本主義の到来まで、人類は文明の発展によっての都市の形成、為政者の権力巨大化ということで都市が生まれました。そこでは、農業という食糧生産と自然との共生が大きな課題として、為政者は知恵を絞ってきたのです。

 しかし、近代の資本主義の発展による巨大な生産力主義、効率的な画一的な生産性、分業の発展ということから、農業の社会的位置の低下が起きた。農村の貧困化が進行した。都市と農村の対立、農業と工業の不均衡な発展が著しくなったのです。都市の権力機能の集中ばかりではなく、交通手段、文化的機能、情報などが集中していったのです。f:id:yoshinobu44:20210626094536j:plain

 農村の地域循環的な経済の仕組みは、分業の発展による単一の効率的生産体制のなかに組み込まれていくのです。農村ですら、巨大な資本主義的な利潤のための都市の商業資本に支配されて、生活の糧の食材さえを購入していくという世界に入っていくのです。

 例えば、山村は、森林の管理が高齢化で難しくなっています。この状況で、メガソーラー開発が進んでいるのです。発電容量に対する発電量13%といわれる極めて低い非効率メガソーラーは、大規模な森林伐採を日本各地で進めているのです。開発面積という施設設置からも極めて非効率なのです。また、大規模な森林伐採は自然災害の被害も大きくなっていくのです。

 かつては自然豊かで、その恵みのもとに暮らしていた人々が過疎化のなかで、地域自立的生活が一層に困難になっているのです。人類的な歴史からもう一度、森林などの自然のもってきた意味を再評価する時代になっているのです。

 その再評価は、現代の科学技術の発展を直視しながら、あらたに都市と農村の対立ではなく、共生的関係をどのようにつくりあげていくのか。従前の有限的な資源論からではなく、循環的に持続していくという農業からの資源論が求められる時代に入っているのです。分業論的、有限的資源論から、共生的な総合的な視点からの連携からの新たな科学技術の発展が必要な時代になっているのです。

 

1,地域循環共生経済時代の農政

 

 f:id:yoshinobu44:20210625181549j:plain

 

 2020年5月に食料・農業・農村基本計画を閣議決定しました。ここでは産業政策と地域政策の両輪を積極的に打ち出した。従来から進めてきた農業と加工・販売という6次産業という農業振興策から農業と福祉、農業と観光、農業とエネルギー、農業からの工業の新素材ということで、農業のイノベーション推進を積極的に打ち出したのです。

 地域資源の活用では、鳥獣被害に悩んでいる現状のなかで、それを捕獲して、処理加工や販売方法までも含めての問題提起です。

 この基本計画が出すまでもなく、日本の伝統的な山村では、そのことが当たり前におこなわれていたのです。かつては、マタギといわれた人々が狩猟を専業にして生計をたてていたのです。このマタギの文化が滅びてきたのです。山の民の自然循環の伝統文化があったことを決して忘れてはならないのです。

 

 ところで、農業と福祉の連携として、障がい者の発達の取り組みや、新しい働きのとして、個々の能力を活かした仕事などが考えられるようになっています。自然を相手にする農業では、健常者と知的障がい者などが協同しての有機農業などの商品開発が行われている事例が生まれているのです。

 農業を活用しての「非行」少年更生教育では、北海道の遠軽家庭学校から全国的に広がっていった実践です。また、保育福祉の分野でも森を利用しての子どもの発達を自然につくりあげている実践がされているのです。

 高齢者の福祉施設や生活困窮者の福祉活動なども農業を活用した取り組みが注目されているところです。農業と福祉の連携を推進する立場から農林水産省は、平成27年度から補助事業を開始しているのです。

f:id:yoshinobu44:20210625180230j:plain

 農村への関連産業の導入として、森林サービス産業の創出を提言しているも2020年の農政基本計画の特徴です。農村は、豊かな地域資源として森林を保有していることから健康、観光、バイオマス発電、小水力発電が可能であるとするのです。営農型太陽発電の推進と共に、分散型エネルギーシステムも可能であるとするのです。

 ここで、重要なことは森林資源を自然循環型にしていくことです。バイオマス発電やメガソーラーが森林を乱伐して、自然破壊にならないことが重要です。この点についての重要な指摘は、農政の基本計画にはありません。セルロースナノテク技術による鉄鋼などに替わる工業資源として森林資源が注目されているなかで、森林の自然循環の仕組みは極めて大切なのです。

 農村の活性化をしていくうえで、地域コミュニュティ機能の維持や強化は重要であるという指摘を農政の基本計画は打ち出したのです。そこでは、世代間を超えた人々による協同の地域ビジョンが求められています。そして、小さな拠点の形成や多面的な機能が発揮できるようにするしくみづくりの提案を農政の基本計画をたてています。

 

 農村を活性化していくのに、生活インフラの確保も重要であるということが農政の基本計画の提言です。その提言には、住居、情報基盤、文化交通の生活インフラ確保があるのです。また、空き地・空き家の情報提供やその取得の円滑による定住条件整備のための総合的整備をあげているのです。

 

 ところで、忘れてはならないことで、生活していくうえでの保育所、学校、郵便局、買い物、病院、公共的な集会施設、公共セービスの役場などは、重要な要件です。そして、それを支えていく交通網の整備がなければ意味がありません。自家用車のみの論理だけでは子どもや高齢者にとって、きつい面があります。

 学校や役場の統廃合、支所の職員の定員削減の公共サービス低下の問題が現実にあるのです。これらの問題は、定住条件整備という面からは大きな後退側面です。

 農政の基本計画実現には、社会教育・生涯学習が欠かせないのです。社会教育行政が一般行政と結びついて、総合的に地域づくりのための能力形成をどのようにしかけていくのかということです。ここには、農業改良普及所・生活改良、教育訓練行政、福祉行政、コミュニティ行政ともも結んで、さらに、学校教育の地域との結びつきの地域の先生、地域の教材活動と結んでいくことが大切です。 

 

f:id:yoshinobu44:20210625180730j:plain

 地域資源を活かしての高付加価値をもつ 農村発のイノベーションを推進するには、人材育成の必要性と並んで地域コミュニティ機能の維持強化と新たな農村活力を支える地域組織の形成を農政の基本計画は提起しているのです。

 地域内の人材育成には、地域課題や地域活性化の学習推進が求められます。多様な人材の活躍による地域課題の解決としての人材育成が問題になってくるのです。

 農政の基本計画は「農業を支える人材育成のための農業教育の充実」を次のようにあげています。「若い人に農業の魅力を伝え、将来的に農業を職業として選択する人材を育成するため、農業高校・農業大学等の農業教育機関において、先進的な農業経営者等による出前授業、現場での実習、農業生産工程管理等(GAP)に関する教育、企業や他の教育機関、研究機関と連携したスマート農業技術研修等、実践的・発展的な教育内容の充実やそのための施設・設備を進める。

f:id:yoshinobu44:20210626094753j:plain

 農政の基本計画は、地域農業のリーダーとして、活躍し、経営感覚や国際感覚を持つ農業経営者を育成するため、産業界や海外と連携した研修・教育や、農業大学校等の専門職大学化などの農業教育機関の高度化を推進すると提起しています。

 これらの課題を農村でどのようにすすめていくのか。産業界や海外の連携した研修や教育を実践的な教育のなかで地域でどう進めていくのか。

 外国人労働者が農業分野のなかで多く入っていますが、かれらを単なる労働力ではなく、国際感覚を身につけていくうえでの絶好の日常生活での学びの場であるということも大切なことです。

 このためには、日本人と同じように待遇を整備し、コミュニケーションを円滑にするための日本語教育が不可欠なのです。そこでは地域で生きていくための当たり前の、人権尊重が求められているのです。つまり、地域での外国人との共生関係が必要なのです。

 さらに、農政の基本計画は、就職氷河期世代をはじめとした幅広い世代の就農希望者に対する実践的なリカレント教育を実施するとのべています。

 青年層の新規就農と定着促進の施策として、地域の就農受け入れ体制の充実に、就農前段階の技術取得段階から就農後技術指導、農地確保、地域における生活確立まで一貫しての関係機関との連携をすすめていくことを強調しています。

 就農希望者が増えるためには、農業の働き方改革を推進して、ライフスタイルの含めての様々な農業の魅力を発信していくことが必要とするのです。

 農業の特殊性は、自然との関係をもつ労働であるがゆえに、繁忙期と農閑期という季節性をもっているのです。農業の雇用ということで、この特殊性をどう緩和していくのかという課題があります。農業や農村の多様性から6次産業化ということだけではなく、農村のイノベーションということでの雇用の在り方、働き方も求められているのです。

 農業の技術教育と農村生活の支援に利点をおいた青年の就農対策の施策も多面的な側面からみることです。農村イノベーションということからの発想を転換していく必要があります。

 青年就農者教育にイノベーションと深く結びつけていくという創造的経営の学びや農業や農村で生きていく哲学・思想の学びが重要です。そして、地域のなかでリーダーとしての役割を発揮していく人間形成の学びの構築もあるのです。伝統的に培ってきた4Hクラブ、農業青年クラブなどの活動を現代的に地域づくり活動、地域計画活動などと結びつけて、高度に学びが充実していくことが求められれます。

f:id:yoshinobu44:20210625180626j:plain

 お茶の刈り取り農業機械を運転するベトナム青年

 

 農林金融誌2014年4月号で上野忠義氏は、日本の農業教育の今後の方向について、書かれていますが、六次産業の対応できる確かな経営能力の育成に、技術取得中心にとどまらず、経営戦略、経営組織、食品流通、消費者行動、マーケッティング、会計、法務、リスク管理、事業創造などをあげています。

 今後は、六次産業により加工や販売、グリンツーリズムなど多様な事業展開が予想され、経営を学ぶことなど専門職大学院ビジネススクールなどで学ぶことも必要となることを提起しています。

 基本計画での農村イノベーションの強調をするならば、農業教育の役割を実践に即して、農業技術の側面ばかりではなく、高度な経営の学びを現実に即して行っていくことが求められているのです。この意味で、専門職大学院ビジネススクール的発想を農業分野でもつくりあげていくことが高度教育としての農業教育機関に求められているのです。

 f:id:yoshinobu44:20210626095436j:plain

 農政の基本計画では、女性が農業で能力を発揮できる環境整備を大切としています。農業経営における女性の参画は、大きな意味をもっているという認識です。地域をリードできる女性農業経営者の育成です。女性は食品加工の開発や消費する側の立場を考え安い状況です。6次産業化や、子育て、介護などの農業の多面的機能にとっての女性の発想は大きな潜在力をもっているのです。

 

 2,環境省の地域循環共生圏構想

 

f:id:yoshinobu44:20210625181504j:plain

糞尿を利用した高千穂牧場の観光農園バイオマス発電所

 

 環境省は、2018年4月に第5次環境基本計画をまとめています。これは、国連の2030年までの持続可能な社会達成のために緊急に必要なSDGsの考えを活用した概念です。地域の特性に応じて資源を補完し、支え合うことにより、地域の活力が最大限に発揮されるための概念としているのです。

 地域資源を持続可能な形で活用として自立、分散型の社会形成の提案です。そして、経済、国土、地域、暮らし、技術、国際化を示しているのです。

 各地域がその特性を生かした強みの発揮として、農山漁村では、食料、水、木材を提供して、自然エネルギー、水質浄化、自然災害防止をあげています。そして、自然資源・生態系のサービスができるとしています。地産地消再生可能エネルギーをあげるのです。

 都市は、資金・人材などの提供をします。地域産品の消費、地域ファンド等の投資可能とするのです。このような内容を概念の絵を森、里、川、海なども含めて示しているのです。

 地域循環共生圈をどのように確立していくのか。地方での都市と農山漁村との関係では地域循環共生圈を可能にしていく条件がありますがそれを具体的にどう実現していくのか。

 東京や大阪の大都市圈では、農山漁村との圈域での共生圈をどう考えていくのか。東京や大阪などの水を提供している自然条件でのつながりから共生圈を広く考えていくことは可能ですが、地理的に断絶しての共生圈をエネルギーなどでは難しくなっていくのです。

 f:id:yoshinobu44:20210625181255j:plain

霧島酒造のサツマイモからの焼酎かすを利用したバイオママス発電所。この施設で2000世帯相当の電力提供

 

 都市自身で再生可能エネルギーをどう創出していくのかという発想も大切です。農山漁村に膨大な自然破壊をしての非効率的メガソーラーや大規模な風力発電所の開発は、地方の収奪です。決して地域循環共生圈の再生可能な自然エネルギーではないのです。

 大都市では、個別住宅、集合住宅、ビル、スーパー施設、公共施設、スポーツ施設、高速道路、工場など、さまざまな建築物があります。この建築物からの太陽光のエネルギー創出が求められているのです。

 大都市でのゴミの排出は深刻です。ゴミをなくしていく消費物の販売形態の創出は重要です。現在のゴミや廃棄物と称されているのを発電エネルギーにできないか。ゴミや廃棄物は、大切な資源として、新たに生産物に転換していく発想の転換も必要です。石油や石炭などの化石エネルギーを克服して、地域循環経済をつくっていくうえで、再生可能エネルギーは需要であることはいうまでもないのです。

f:id:yoshinobu44:20210626095700j:plain

 ガソリン車から電気自動の普及は、大きな課題ですが、都市部に再生可能エネルギーの施設の設置は極めて重要です。

 集合住宅やビルのオフィス、工場に発電所や電気自動車の充電施設の設置も不可欠です。食糧品・飲料の容器を容易にしていくために、容器を業者が回収して、なかみを購入していく消費形態も新しい試みとして実施されています。都市であるからこそ効率的に、容器を容易に回収できるのです。

 

 省エネの建築物も脱炭素化にとって、大切なことです。断熱材などを使っての省エネは、冷暖房のために電気エネルギーを使用する生活が一般的となっている現代の状況です。省エネ開発も重要な脱炭素化の事業です。

 農山漁村と大都市との共生圈の構築は広くブロック単位で地理的に連続をもつことが必要です。それは、個別に地域的連続性を持たない遠方からの特定の地域に再生可能な自然エネルギーからの電力供給ではないのです。共生圈という概念は大切です。

 都市と農村の不均等な発展は、自然を相手にする農林業が大きな要因です。それらは、土地の制約のなかから生産効率主義ではいかないのです。農林業の特殊性からの不均等の発展があるのです。その原理を無視して大規模な生産効率の農業を追及すれば、農業による自然破壊が進むのです。農山漁村は都市との経済的格差の問題も含めて、共生圈の問題と自然との循環関係もあるのです。

 

 大規模に森林を伐採して、非効率的メガソーラーの開発が日本の山村で起きているのが現実にあります。さらに、脱炭素の名のもとに大規模な森林伐採があります。自然破壊による再生可能エネルギー開発計画の推進は、メガソーラー建設の単価が大幅に下がり、利益が上がるということです。再生可能エネルギーは森林の循環という自然保護と一体となって進めていかねばならないことです。自然破壊ということを作り出していくことは、災害の経費負担の増大ということから、長期の経済発展ということから大きなマイナスになっていくのです。

f:id:yoshinobu44:20210626180732j:plain

 2021年6月に森林・林業基本計画が閣議決定されましたが、そこでは再生可能エネルギー向けの林地利用の積極的推進が盛り込まれています。また、木質バイオマスの利用も重要な施策に入っているのです。

 林業作業の効率的利用の促進から重機の利用がなされるなかで、一律的に面としての森林伐採が行われ、間伐材という選択的伐採は難しい状況です。さらに重大なことは計画的に山の保全ということからの森林伐採の視点が乏しく、伐採した後の植林がなされていかないことです。

 むしろ、太陽光発電などの林地開発というの再生可能エネルギー建設ということで、大義名分が成り立っていくのです。閣議決定では木材利用や輸出を伸ばして、2030年度の供給量を2019年度の1.4倍に増やそうとするものです。

 この基本計画が循環的な森林保全ということから問題がないのか。植林、さらに林業管理を含めて、きちんと実行できるプランまで含めての検討が必要なのです。むしろ、植林や林業管理ができていない現状を直視して、具体的な対策を明らかにしていくことが急務なのです。放置されている竹林などの被害問題が端的にあらわれています。

 

 3、パリでの気候変動条約をはじめ環境保全の国際会議

 

f:id:yoshinobu44:20210625174439j:plain

 2015年11月30日から12月13日にパリで国連気候変動条約の国際会議が開かれ、2016年10月に55か国、炭素ガス排出量55%をカバーする国の参加という条件が発効の条件でしたが、その条件を満たす国が批准したのでした。

 

 この条約は2020年以降の気候変動に関する国際的枠組みが決められ、21世紀後半には温室効果ガスと森林などによる炭素吸収量のバランスを取るために、炭素の排出削減の努力目標を定めたのです。日本は2050年までに炭素の排出をゼロにするということを国際的に表明したのです。

 国連環境計画と世界経済フォーラムは、世界の生態系破壊や土地の劣化の深刻な現状で、2050年までに総額8兆ドル(約880兆円)を自然に投資する必要があると報告しています。

 

 現在の自然への投資は1330億ドルです。30年度まで3倍、50年度まで4倍までという大幅な投資の必要をのべているのです。人間は自然の恵みから多くの利益を得ており、生態系破壊はビジネス上の大きなリスクになるという警告です。

 現代においても世界のGDP の半分は、自然に頼ることで経済発展を得ているのです。それは、農業や食品、飲料、建築分野で依存が高くしているのです。森林再生により地球温暖化の原因となる二酸化炭素の吸収利用を増やすということを重視することが大切です。それは、まさに自然を基盤とした地球温暖化を防止していくための解決策です。

 

f:id:yoshinobu44:20210419192544j:plain

 

 生態系破壊は自然の恵みから人間が生きてきたことを否定していくのです。森林の破壊は自然の力のもっていた災害防止の役割を喪失させます。

 パリ協定という地球温暖化防止対策の世界的な提言は、森林の再生を大きな課題にしたのです。植林を長期な自然循環の仕組みづくりとして、積極的に位置づけていくことが求められています。

 森林地帯に非効率的メガソーラーをつくること自体が人類的な緊急課題の森林再生ということからの真逆の道であるのです。

 GDP という市場で取引された国内総生産という経済成長の見方に対して、生態系と生物多様性の経済学の国際条約国際会議は2008年に中間報告を出して、2010年に最終報告を日本の名古屋の国際会議で承認したのです。

 ここでは、現在のままで放置すれば二つの世界戦争以上の被害を人類にもたらすとしています。GDPの成長という経済発展指標は雇用創造、景気後退回避で有効であったが、しかし、この見方では健康の質の変化や教育の普及、自然資源の質と量などの国の富や国民の福祉の向上の指標にはならないとしているのです。

 生物多様性の喪失は森林資源で生きてきた人々に一層の貧困をもたらします。自給的農業で生きてきた人々に食料の危機がおしよせるのです。農山村漁村の貧困では、自給的農業は生活の糧に大きな意味をもっています。

 倫理的問題として、リスクや不確実性、将来の価値の割引は、人々の生活を不安におとしいれているのです。また、海洋や遺産的価値なども経済的価値をもつのです。

 

 自然は人間社会に食糧や繊維、淡水、健康な土曜、炭素の吸収、薬の提供、レクレーション、森林セラピーなどの心の癒し、その他広範で多様な恩恵をもたらします。これらは市場もなく、価格もない。公共財そのものです。

 そこで、経済成長には自然生態系と生物多様性の価値の適切な評価を市場に持ち込むことが必要となるのです。これらの自然による人間の恩恵からの経済的価値を生態系サービスとするのです。

f:id:yoshinobu44:20210625173758j:plain

 

 生態系サービスの支払いを作り出す環境関係の法律や規制、それらを守るコンプライアンスの社会システムが求められるのです。そして、生態系サービスへの投資も行われる必要があるのです。そこでは、GDPの成長ということではない、経済発展の仕組みが求められています。まさに、自然共生循環の充実と人間の発展ということになるのです。人間の発展ということからの健康指数、人間と自然の教育の普及、人間的幸福、福祉などが自然との関係の指数での経済の発展のあり方が求められています。

 

 2015年に国連本部で、持続可能な開発サミットを行い、2030年までが人類的危機の地球温暖化にとって決定的に重要であるとして、持続可能な社会形成を地球規模で実現するために17項目のSDGsの目標を定めたのです。

 貧困や飢餓と健康や安全の水は地球温暖化などの環境問題と深く関わり、気候変動に具体的政策と生態系保護、海の豊かさの保護をあげているのです。

 2030年までの炭素の削減目標はEU90年度比で55%、英国68%,日本26%の目標をたてています。削減目標は五年ごとに報告して是正していくことになっています。地球全体から炭素排出量は中国23.2%,米国13.6%,EU10.0%,インド5.1%,ロシア5.1%などです。

 中国とアメリカの削減目標が地球全体からみれば大きな位置をもっています。トランプ元大統領はパリ協定の脱退を表明しましたが、バイデン大統領の政権になって、脱炭素の積極的な政策が打ち出されています。その目標値が注目されることです。

 パリ協定のもとに日本は地球温暖化対策推進法律の改正を2021年5月に行われました。この法律では地域の再生可能エネルギーを活用した脱炭素の推進が強調され、地域脱炭素化推進事業の名のもとに、規制緩和による自然環境や歴史文化が破壊されていく危惧があるのです。

 脱再生可能エネルギーは森林や歴史文化の保存によって地域自然循環のもとで実施しなければ真逆のパリ協定に反することになるのです。森林のもつ脱炭素を吸収する役割、森林のもつ災害防止、健康や文化、森林と教育・子育てなど生態系サービス経済の側面を決して見落としてならないのです。

 大規模な森林破壊の再生可能エネルギーは特定の大企業の効率主義的利潤のためにすぎない側面が大きいのです。脱炭素化を名目にした自然破壊の巨大投資が行われていくことを警戒しなければならない。

 

 年金基金や銀行などの機関投資家は、一般投資家の地球温暖化に対する善意の心を利用しての真逆の環境破壊が大規模に行われていくことが予想されるので、責任投資原則と環境問題に金融面から支援の透明化が求められるのです。

 さらに、最も重要なことは地球温暖化対策、持続可能な社会の形成、再生可能エネルギーということで、国の補助金が使われ、炭素税という仕組みがつくられていくなかで、一面的に脱炭素対策ということで、大規模な再生可能エネルギーの開発による自然破壊の心配があるのです。

 再生可能エネルギーは自然と共生していくことが原則です。その共生の工夫に科学技術が利用されていくことが必要なのです。このことを必須条件としての生態系サービス産業のなかで、再生可能エネルギーを積極的に位置付けていくことが求められているのです。