社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)

f:id:yoshinobu44:20210825175226j:plain

 

中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)


 日本における戦国時代に儒学の学問を修めて平和を考えようとした学校があったのです。それが足利学校です。現代の混迷した政治状況と平和を考えていくうえで、為政者のモラルをみていくうえでひとつのヒントを与えてくれるのではないか。

 足利地方では、中世時代から儒学の高度な教育を実施していた学校があったのです。大隅の国で育った第7代庠主=校長の伊集院九華は、なぜ足利学校まで学びに行き、半世紀にわたって、そこで暮らし、30年間近くも校長を務めたのでしょうか。また、長く務められたことは、九華自身の人格的な優れた面により、多くの学徒に慕われたことも考える必要があると思います。

 九華が、大隅の国を離れて足利学校まで行ったことを考えるうえで、大隅・薩摩・日向の島津家一族の絶えざる内紛と地方国人豪族との戦乱の状況をみる視点も大切です。

 室町時代の後期には、国内の交通網も発展していったということで、足利は、渡良瀬川利根川の水上交通も利用できる交通の要衝でもあリ、海をとおしての交易も発達して海外にもいく時代で、足利と大隅の国との精神的な距離も近くなっていたと思われます。

 

足利学校での中世後期の校長出身地と九州

 

 中世後期足利学校は、沖縄を含めて全国から学徒が集まっていました。琉球国から派遣された鶴翁智仙は、中国の明ではなく、日本の足利学校で学びたいという強い意欲をもって、12年間、そこで学びました。また、1年間、1537年に伊集院九華等と京都の東福寺で禅の修業をしています。琉球国に帰り、琉球国の社寺で学僧になるのです。
 足利学校では、3000名以上の学徒が学んでいたといわれますが、これは儒学的表現で、誇大ではないかともいわれます。3000名学徒の学びはフランシスコ・ザビエルが日本の坂東の大学として、イエズス会書簡でも紹介されています。

 足利学校の中世後期における校長の出身地域は、九州の人が多いのも特徴です。再興してからの2代肥後国、3代筑前国、7代大隅国、8代日向国、9代備前国となっています。7代と8代が南九州の出身者が校長を務めていたのです。ここには、当時の海洋をはじめ、交通の発達と九州地区の人々の広い交流があったからです。
 幕府の勘合貿易に島津家が守護職として、大きくかかわり、土佐沖から南九州から明に行くという堺商人と結んだ細川家と、博多商人と結んだ瀬戸内海をとおして、博多から平戸経由との大内家の争いもあったのです。島津家は幕府から海上警備を委託されていたのです。

 島津家は、1508年に朱印状を持たない商船の取り締まりをして、中継貿易の琉球を独占しようとしていました。中世後期における諸大名の海洋をめぐる争いがあったことを見落としてはならないのです。

 

足利学校中興祖の上杉憲実

 f:id:yoshinobu44:20210825175259j:plain

 足利学校は、関東管領上杉憲実が、1439年、幕府に反発して挙兵して鎮圧され、自害した足利持氏の供養の意味もあったといわれます。学問によって、平和をつくっていきたいという願いということです。

 幕府側にたった上杉憲実の人間的やさしさがあらわれています。平和を願って、儒学を学ぶために再興したといわれます。再興した初代の校長には、鎌倉の円覚寺から仏教と易学等儒学の造詣の深い快元をつけています。
 上杉憲実は、1446年に学則三条を定めています。学ぶべき三註四書六経列荘老史記文選の書籍を列挙。法を守らないものは処罰。学問を日頃怠けたものの処罰。この3つの項目です。

 かれは、四経を寄進して、漢学専門学校の継続によって、平和の世を考えたとみられます。学則三条の制定の翌年に、上杉憲実は放浪の旅路に出ます。足利学校の基本的方針を定めて、将来の社会を作っていくために教育の役割を期待したのです

 

第7代伊集院九華をはじ室町後期時代の教育内容

 

 第7代伊集院九華の時代に、儒学関係の遺置本は、非常に多くなります。儒学が講堂で講釈されていたのですが、仏教書は遺置本になく、私蔵本でした。釈学は、客殿などでした。僧侶になることは学ぶうえで、前提になっていますが、足利学校では儒学を重視したのです。

 講義は、例えば易学など、10旬が必要としたのです。一旬は10日間です。為政者としての人間的生き方、統治の方法、重要な決断をするときの易学などを学んでいたのです。
 さらに、ここでは、易学などの儒学によって、東洋医療を実証的な臨床学を学んでいました。そこでは、望診したうえで、舌診、脈診、腹診を経て病態を決め、薬を処方する察病弁知(さつびょうべんち)ということで、診断する方法での学びをしたのです。

 陰と陽のふたつの相反する関係と、陰陽五行説の理論のもとに、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓の五蔵の経路から、人体の相互に関連づけて、全体をひとつのものとして考えていたのです。
 足利学校では、このような臨床的な医療を発展させ、啓迪院という学校をつくって、多くの医学僧侶の弟子を育てたのです。また、医療の倫理として、慈仁ということで情け深く、相手を思いやる心を重視したのです。足利学校で育った曲直瀬道三は、日本東洋医学中興の祖といわれるのです。
 曲直瀬道三は、明で学んで、朱子医学を日本に導入した田代三喜齋から学びました。曲直瀬道三は、1528年に足利学校で入学しています。かれは、戦いのない世の中を目指した室町時代後期、日本僧侶の医者としても注目するところです。


 徳川家康に仕えた天海上人も足利学校で学んでいます。第9代の校長である三要は、豊臣秀次に仕え、徳川家康にも五経の「毛詩」の講義をしています。北条氏の崩壊によって、足利学校の存続の危機がありました。家康は、三要に京都伏見に上方の学校として、円光寺を開山させます。第十校長寒松以降も徳川家康のもとで足利学校の保護整備がされていくのです。

 

 中世後期の足利学校の学習形態

 

 中世後期の足利学校の学習形態は、講義、輪読、素読などでした。そこでは、自己に必要な書籍を一字一句間違えないように、自分のノートに正確に書きながら学ぶものでした。まさに、自学自習が基本的でした。また、「字降り松」ということで孔子廟の前に、学徒がわからない漢字がありますと、学徒は紙に書いて松に結んでおくのです。

 翌日に伊集院九華が読み方と意味を書いておくというのです。このような学習方法の説話が残っています。この学習方法は、自学自習として、現代でも足利市教育委員会は奨励していることです。
 足利学校の入学のときに、僧侶になるということはなぜでしょうか。中世時代は、学問を教えるのは、僧侶が担っていたからです。学校に入るには、すべての階層に開かれたものです。しかし、儒学以外は、講義をしていません。

 儒学の内容は、宋や明時代の五経の新解釈ではなく、すでに中国では棄てられていた古い漢や唐の時代の解釈でした。儒学孔子老子の唱えた原点に即して学ぶという態度をとっていたのです。

 

伊集院九華との関係で大隅・薩摩の文化・政治との関係

 f:id:yoshinobu44:20210825175423j:plain

 南九州の儒学の形成発展で見逃してはならないのは、桂庵玄樹の存在です。かれは、島津忠昌に1478年招かれて、大隅国正興寺(大隅八幡宮三柱寺のひとつ)、日向国櫛間龍源寺、薩摩国桂樹院で、朱子学を講じたのです。その結果、日本における戦国の世の中で薩南学派という学問の形成がされたのです。南九州での一族や地方豪族の国人層との激しい戦いの続く戦乱の世の中で、注目することです。戦乱の続くなかで、学問の花が咲いたのです。

  足利学校の第7代校長の伊集院九華の時代では、積極的に朱子学ではなく、旧注によって、講義を行っていたのは注目するところです。

 伊集院九華(玉崗瑞璵)は、大隅国出身(現在の大隅半島霧島市姶良市)です。かれは、1530年頃に足利学校に入ったとみられますが、なぜ、かれが儒学を学びに坂東までいったのでしょうか。また、九華は16世紀はじめの伊集院家のどの家系に属していたのでしょうか。

 伊集院という地名までも現在残っていますが、鹿児島市から川内市までの途中の町です。薩摩の国の地域です。伊集院九華は大隅の出身者ということになっています。大隅の国で育ったとみるのが一般的ですが、かれの兄弟などの縁者がいる地域で故郷として帰ろうとした地域とも考えられます。

 かれの育ちはどうであったのでしょうか。30歳まで何をしていたのでしょうか。室町時代の後期に、伊集院を名のることですので、苗字を許された名家で、学問を幼い頃からしていた家柄の育ちではないかと思われます。伊集院九華は、禅宗臨済宗といわれますが、出家はいつ頃になるのでしょうか。これらは興味ある課題です。
 九華の前校長であった文伯は、20年間足利学校の校長をしていました。足利学校で学び、京都の建仁寺の僧侶でありました。第5代の校長の時代に再度足利学校で骨をうめる覚悟で戻ってきたのです。

 九華は、文泊のもとで、学び、その影響を強く受けていました。九華は、文泊が建仁寺の僧をしていたときに接触があったのでしょうか。もし接触があれば、かれが直接に足利学校にいったことにはなりません。大隅国臨済宗の寺は、大隅八幡宮の3柱の正興寺も京都の建仁寺の末寺です。島津家が支配していた日向櫛間龍源寺も薩南学派の拠点で、桂庵玄樹が住持していて、学徒を教えていたところです。

 明との貿易港でもあった志布志大慈寺(臨済宗)も南九州第1の寺で大隅半島全体を勢力化にしていた権威ある寺です。大慈寺は明朝との交易での通訳などに僧侶がしていたなど明の文化の影響を強くもっていたのです。
 伊集院九華が足利学校に行った背景を考えるうえで、当時の大隅・薩摩・日向の状況と伊集院家の系図を考える必要があります。伊集院の本家は、14世紀前半に、島津家の重要な家臣として、姻戚関係もつくり、権勢を振るっていたのです。また、14世紀後半に島津家の後継争いで没落した伊集院家は、その弟になる別系の伊集院家が島津家の中興祖といわれる島津忠良(日新公)の重臣として活躍するのです。この時代は、伊集院九華と同世代の時代です。

 

島津家一族の内紛と伊集院家

 

 室町時代は、島津家の身内や一族、また、地方の豪族を巻き込んでの戦乱が絶えないときです。当時、太平の世の中は大きな課題でした。島津家は、一族、有力豪族との融和関係で婚姻、養子などの積極策が行われました。しかし、それで平和を築くことは無理があったのです。娘の婚姻や息子の養子は、島津一族の身内・一族の後継争い、地方豪族を巻き込んでの争いの解決にならないばかりか、後継での争いの原因にもなるのです。


 島津家での伊集院家が関わった大きな争いは、伊集院頼久の乱とよばれるものがあります。島津当主になるはずであった島津元久(母は伊集院忠国の娘)の嫡男子であったものが1395年に出家しています。かれの名前は、仲翁守邦人禅師です。関東に留学したと言われます。仲翁禅師は元久が開山した福昌寺の住職になっています。

 伊集院頼久の乱は、1411年の元久死後に後継の争いです。伊集院頼久の嫡男(母元久妹)を元久が後継指名していたことで争いになるのです。それは、伊集院家と島津元久の弟である久豊の争いです。

 これは、島津一族や地方豪族を巻き込んでの長い紛争になります。1449年に伊集院頼久の嫡男である煕久は肥後に逃亡して、この争いは終わります。孫の代の伊集院久雄が島津家に帰参します。所領は、大隅桑原中津川村です。


 伊集院頼久の息子で、守護に後継指名された伊集院煕久の弟であった倍久の孫になる伊集院忠朗は、16世紀前期に活躍した島津中興祖といわれる島津忠良に仕えます。伊集院忠朗は、その後に島津家筆頭家老になるのです。この島津忠明が、伊集院九華と同世代です。

 かれは、親子で島津家の大隅・日向・薩摩の統一と九州制覇に活躍します。後に、伊集院家は秀吉のもとで、都城8万石を与えられ、秀吉死後に、島津である義久の筆頭家老で、伊集院家の当主の忠棟が、島津義久の弟である義弘3男で、後に島津藩初代の藩主になる忠恒(家久)に謀殺されるのです。

 筆頭家老という島津家のなかで、強い影響力をもっていたため、忠恒(家久)は自分に家督相続を支持してくれないと伊集院忠棟に憎悪をもっていたのです。父が謀略にあって殺されて、息子の伊集院忠真は、島津忠恒(家久)・義弘親子に対して乱を起こすのです。これが庄内の乱です。一旦は和解しますが、油断させて1602年に日向の野尻での狩りの最中に射殺するのです。

 本来ならば、筆頭家老の惨殺、庄内の乱など、家を断絶させられる事件であったが、家康の思惑、島津義久の家康への嘆願の尽力によって、島津家は存続を許されたのです。同年に島津家の家督を継ぎ、島津家の初代藩主になります。

 その後に、島津家久は伊集院忠真の3人の弟と家族を皆殺しにするのです。義久の家老の平田増宗も暗殺し、その後に増宗の子孫まで皆殺にされたのです。非常に痛ましい島津家の三州統一後の歴史的汚点事件です。さらに、家久は義久の娘である妻とは不仲で、子どもはなく、義久亡き後は、彼女を追い出して、8人の側室をかかえます。その間に33人の子女がさずかり、次々に分家の家督相続や重臣らの養子や妻におしつけ、権力を思うままにしたのです。これが、江戸時代になっての薩摩藩主の島津家の出発でした。

 

室町時代の島津家の争いは何世代にも及ぶ


 室町時代の島津家の争いは、何世代も長期にわたり、凄まじいものがあります。1363年に島津家は、薩摩守護職の総州家と大隅守護職豊州家(鹿児島郡も含む)になります。反島津の国人一揆は、1361年から1397年まで4回起きるのです。

 幕府と島津家の対立も起き、守護職解任と復帰ということで、両島津家の対立に幕府も加味していくのです。薩州家と豊洲家は、強引に家督相続した久豊の時期に総州家の完全な軍事的敗北で終わるのです。
 強引に島津家の守護職を後継した久豊の死後に、島津忠国家督を継承して、薩摩と大隅守護職は、ひとつになり、島津家は統一されます。しかし、地方の国人との大規模な一気に悩まされます。南九州では、地方ごとに国人層の力が強く、島津家は、南九州での実質的な支配者ではなく、守護職としての権威にすぎなかったのです。このなかでの島津家の一族の内紛です。

 国人層の地域ごとの平定に、島津家守護職は苦労するのです。また、それに加えて、新たに、総州家と豊洲家の対立がなくなった後で、後継になった島津忠国と弟の好久との争いが起きるのです。さらに、薩南学派形成の桂庵玄樹を招いた忠昌の時期には、一族の反乱が絶え間なく起きます。
 大隅国の肝属家反乱に苦慮して、守護職であった島津忠昌は、1508年に自害します。島津忠昌は学問を重視しましたが、悲惨な人生でもあったのです。伊集院九華は、この事件に、その後に話を聞かされ、少年ながら大きな矛盾をもったのではないかと思います。

 伊集院九華の育った大隅・薩摩・日向は、近親者の反乱、一族の反乱、有力な家臣の反乱などで、悲惨な時代であったのです。この時代に、伊集院九華は、相次ぐ反乱、争いについてどのように感じ、思いをもっていたのでしょうか。伊集院九華が出家して、僧侶になっていく経緯、その後の薩摩・大隅・日向での活動についても興味ある課題です。この戦乱を終わらせ、島津家をまとめていくのが、伊集院九華よりも7歳年上の島津忠良(日新公)です。

 

島津中興祖の日新公と南九州三州統一


 島津再興の祖といわれる忠良は1492年生まれです。父と祖父は殺されて、母が伊作家の後継になって育てられました。母の再婚で、伊作家から島津相州家の養子になります。1512年に相州家の当主になります。島津忠良の祖父は、1500年に一族の争いに巻き込まれての死去でした。父は、下男に1494年に殺されています。
 忠良の祖父の伊作久逸は、島津忠国の3男で伊作家に養子にされた武将です。かれは、1473年に日向櫛間城主になりますが、1484年に飫肥城主との勢力争いで、伊作に戻るように守護の忠昌から命がでます。この命を聞き入れず、反旗をあげるのです。忠昌の時期は、一族反乱が相次ぐのです。1477年に薩州家の国久、豊州家季久の反乱が起きています。そして、1484年に伊作久逸らが一族を率いて反乱を起こし、翌年に降伏します。そして、伊作に戻るのでした。


 島津中興の祖である忠良は、桂庵玄樹の門弟で少年期に儒学を熱心に学んでいます。島津忠良の息子貴久は、守護職島津勝久の養子になって、1527年に島津家の宗家を一時的に継承します。しかし、そのことを島津実久が反対し、再び勝久が守護職に復帰します。勝久は、守護職に復帰しますが、弟の実久に1535年に攻撃されて、出奔するのでした。
 強引に武力によって、守護職をとった実久の本拠地は、出水です。鹿児島清水城には、距離があり、その間を島津忠良・直久親子は、寸断するのです。その間の渋谷一族を味方につけてのでした。そして、1536年に伊集院の城を奪還するのです。忠良は、1538年には実久の南薩の拠点である加世田城を落とし、1539年に鹿児島の紫原・谷山決戦で実久に勝利して、名実ともに守護としての地位を確立するのでした。

 忠良親子は、島津本宗家の地域の国人を被官化して、その層の家臣団を組織化して一族と家臣団の話し合いを重視していく老中制度を整備していきます。

 

大隅国での戦乱と大隅八幡宮

 f:id:yoshinobu44:20210830135924j:plain

 大隅の国では、大隅八幡宮の権威は大きなものが平安時代の荘園の形成からありました。大隅八幡宮は、巨大な荘園をかかえていたのです。中世後期になっても、その宗教的権威はあったのです。

 大隅国府のあった国分地方は、守護職の島津家が支配する以前は、正八幡宮政所職や霧島座主を務めた税所家が支配していたのです。税所家は、1483年に帖佐城の島津家を攻めて破れ、崩壊するのでした。
 その後、1519年に島津勝久の襲封以後の混乱で、伊集院尾張守為長が曽於郡の橘木城に拠って背き、新納忠武もこれに応じて、同城にたてこもっています。島津勝久(1503~1573)は、1520年に肝属兼演らに攻略を命じて、降伏させているのです。この伊集院為長については、反旗の理由がわからない状況です。島津勝久は、父の忠昌が自害したあとに、後継した長男、次に、後継した次男とが相次いでなくなり、短命の守護職でしたが、忠昌の3男でした。兄弟で守護職を三代にわたって後継するのです。

 伊集院九華の家系を調べていくうえで、大隅国のいくつかの伊集院家の動向を調べていくことも必要です。今後の課題です。
 大隅の国の本田家は、南北朝以来島津家の忠臣として仕えて、大隅国守護代になっていました。1522年に曽於郡を本田兼親に島津勝久は与えますが、これに対して一族で内紛が起きるのです。一族の執政本田親尚との対立で起きます。

 この戦いは、兼親が勝利します。その後を継承した本田薫親は、1527年に自分に反対する大隅八幡宮を襲い、社殿に火をつけ、薩南学派の儒学を教えていた神宮の3柱寺院であった正興寺(臨済宗建仁寺の末寺)も焼失するのです。
 大隅八幡宮の再興は、1558年と37年後です。本田薫親は乱暴の限りを尽くしたのです。正八幡宮領を我が物にし、自ら火をつけて消失させた社殿の修復はなかったのです。暴虐は、時を経るに激しくなって、家臣十数人を殺すのです。本田薫親は、1548年に忠良・直久軍に滅ぼされます。
 謀反を起こした本田家での戦いに活躍した伊集院忠朗・忠倉親子は、本田家が拠点のひとつてしていた城の主になるのです。現代の国分姫城の小高い断崖絶壁に囲まれた城で、橘木城にもつながっていくのです。

 古代から隼人がたてこもり、近くに大隅国府大隅八幡宮があったところです。姫木城と向かいあった山には、清水城が築かれていましたが、そこで、島津貴久が1年有余居住し、その後は、弟の忠将に治めさせています。

 

島津家中興祖の忠良(日新公)のいろは歌からみる思想

 f:id:yoshinobu44:20210830140048j:plain

 1550年に、島津直久は、伊集院の城から鹿児島の清水城に移るのです。島津忠良は、1550年に隠居しますが、為政者のあり方、人間として生きる道に、儒教の教えを47首のいろは歌方式で、まとめたのです。
 「いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし」と昔の賢者の学問を唱えても、実践しなければ意味をもたないという日新公は考えたのです。ここには、学問のみの学びということではなく、実際に実践して、役にたっていく学びで、学問を考えたのです。
 「学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ」と、学問をするには明日の昼も常にしなければならない。とくに、特に夜は静かで学問をするのに適しているというのです。


 「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高きいやしき」と、どんな立派な家にすもうと貧しい小屋に住もうと、心の高きに価値があると日新公は語るのです。心のあり方が人間の価値を決めるということです。
「理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の 行くにまかすな」と、理も法も大切にしない世の中でも、自分の心を流されずに、自分の信念をもって生きよと日新公は述べています。

 日新公の生きていた時代は、理や法ではなく、権力をめぐっての島津家での身内や一族で争い、地方ごとに豪族勢力拡大のための武力の衝突があったのです。ここでは、力の関係をみながらの寝返りや謀略があったのです。武力な力関係で時流にのりやすい環境があったのです。ここでは、学びによって、義や理、法を守って生きることを日新公は説いたのです。


「種子となる心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ」と、私利私欲の心にまかせれば、人の道に外れ、さらに悪い評判がたつというのです。人間の本来もっている欲のみにまかせるだけではなく、人間のいきていく道があるというので、それを犯せば人としての名も失われというのです。

 日新公の生きていた時代は、身内や一族で、権力をめぐって激しい戦いがあったのですが、とくに、守護職や国人などの城主の相続などは、大きな問題であったのです。現代でも相続をめぐる争いが起きるのも人間のもっている生身の欲からです。その心に身をまかすのではなく、理や法ということからの煩悩のつきあいが求められるというのです。人間的な信頼関係を築くこと、社会的に人間的に評価されていくことが尊敬を受けていくということです。どんなに権力を強大にしても名は流れてしまうというのです。


 「おもほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて 義を守れ人」。日新公は、思っても違う身の上は、欲を離れてわかるものですと。身の振り方は、欲を離れて正義を守れる人になることも大切とするのです。まさに、生き方に義を大切にしているのです。人にとって、義とはどのような内容をさしているのでしょうか。

 古来から賢者から学ぶことによって、正道を身につけていくこととなるのです。正道によっての為政者とはどうあるべきなのでしょうか。政治のあるべき道なんであるのでしょうか。

 日新公は、「もろもろの国やところの政道は 人にまづよく 教へならはせ」。人によいことで、まず、為政者は、正しい生き方を人々に教えることであるとするのです。正しい人の道の教育から正しい政治が生まれてくるという考えです。


 そして、為政者にとって、最も大切なことは、頼ることのない独り身に慈悲をかけることで、民に心をゆるし、情けをかけることが重要と次のようにのべるのです。「ひとり身をあはれとおもへ物ごとに 民にはゆるす 心あるべし」と、たよる者がない民に、情けをかける心あるべし」と強調するのでした。

 

 この精神のもとに島津忠良は、具体的にどのような施策をしたのでしょうか。加世田に隠居してもに、政務は、続けて、琉球を通じた対貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成をするのでした。

 そして、万之瀬川に橋を掛け、加世田の麓を整備したのです。さらに、養蚕などの産業を興して、百姓の生活を豊かにしていくために、仁政を行ったのです。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作りました。そして、かれの考えは「島津家中興の祖」と言われように大隅・薩摩・日向の島津家の政治に大きな影響力を与えていくのです。


 島津忠良(日新公)のいろは歌のいくつかの例を紹介しましたが、為政者、リーダーとして、人として生きる道を多くの人に教えるために、優しくカルタ方式で語ったのです。
 
 伊集院九華は大隅・薩摩でも活躍できる状況があったのではないでしょうか。


 伊集院九華は、1560年のときに郷里に帰る途中、小田原に滞在して、北条氏康・氏政親子に三略の講義をしますが、九華は、北条氏康から足利学校に戻るように説得されて、1579年の死去するまで、校長を務めるのでした。関東八州を領地にした北条氏康は、家督を氏政に譲るのも1560年です。

 この年に、北条氏の徳性令がだされるのです。戦乱や飢饉で困窮する百姓に年貢の減免、債務の帳消しなどの実施です。萬民を哀憐し百姓に礼を尽くすために、徳性の発布、諸人の訴えを聞き届ける目安箱の設置、公正なる裁判の実施は天道のかなうもので、それがあったからこそ、関東八州を治めることができたと北条氏康は、箱根別当融山との書簡でのべているのです。(高橋・五味文彦編「中世史講義」ちくま新書、238頁)

 

 伊集院九華は、足利学校が大火事にあって、その施設の再興に全力を尽くすのです。1560年の61歳の歳に大隅の郷里に帰る決意で足利を去ったのですが、北条氏康に説得されて戻るのです。そのときに、施設の充実も約束されたのではないかとみられます。すでに、稲荷神社や八幡大菩薩孔子廟などは再建されています。

 

 晩年の九華にとって、大隅や薩摩に帰って、なにを考えたのでしょうか。彼の教育熱は、ひとつの仕事が終わって、ふるさとに帰ってのんびり老後を暮らすことを考えたのでしょうか。かれの役割は、大隅や薩摩にはなかったのでしょうか。故郷の大隅国に帰ることを思い立ったときに、大隅や薩摩の人達との交流や期待はなかったのでしょうか。このときに、島津忠良は、息子の直久と共に、大隅や薩摩の統一に動き、島津家自身を強固なものにしていくのです。その体制は、孫の義久の時代に確実になり、九州の統一をめざしていくのです。

 

 この時代に易学を重視した明の国から日本に帰化した江夏友賢がいるのです。かれは、島津義久が描いた大隅国府地域、大隅国分寺跡地に京都風の基盤目の街にならって、街並みを規則正しく、港街を整備して、明より商人を招いて唐人町を繁栄いたのです。これが舞鶴城(国分城)の町並みで、現在でも、その跡がみれます。国分高校、国分小学校を中心としての町並みです。この町並み建設に友賢があたっているのです。
  島津義久にとって、九州を統一していく戦略に易学が必要であったのです。その役割を明から帰化した友賢が担ったのです。友賢は、薩南学派の儒学者一翁玄心と親交がありました。その弟子の文之玄晶に教えています。

 玄晶は後に薩南学派を代表とする儒学者になっています。江夏友賢は、易学による占いで、島津義久に仕え、300石の禄をもらったのです。墓は、大隅の国姶良郡加治木郷木田の実窓寺跡に現在も残っています。

 

まとめ

 

 中世の室町時代に、大隅・薩摩・日向の争いに、島津家の一族内紛が中心にありました。分家と本家の争い、兄弟間の後継をめぐる争いが戦いを伴って繰り返されました。この争いは国人の地方豪族を巻き込んだものでした。地方有力豪族は島津家一族もからめて勢力拡大をはかったのです。

 島津忠良・直久親子は戦国大名として、三国を統一したのです。この意味で、島津家の中興の祖として、忠良(日新公)はいわれるのです。伊集院九華は、忠良よりも7つほど下で、この時代に若いとき、大隅の伊集院家で育ち、成長して、足利に学びにいくのです。
 幾度なく絶え間ない戦乱のなかで、平和のために儒学を学ぶ教育機関としての足利学校でした。そこで、易学などを学び、陰陽五行説を中心にしての自然の理によって臨床的に医療を学ぶ学校でした。そして、為政者としてのあり方、軍略、易学をとおしての占い師を学ぶ学校でもありました。

 中世の戦乱のなかで多くの学徒が足利学校に集まってきたことは、その後の日本の平和や自然の理の医療発展、為政者の哲学に大いに貢献したとみられます。
 現代でも自然の理を科学的に学び、そして、それを臨床的に現実に応用していくことは、新型のコロナ化のなかで痛切に感じるところです。場当たり的なことでは問題の根本は解決しないのです。

 また、権力の争いも私利私欲が横行して、為政者のあり方が鋭く問われる時代です。為政者とはどうあるべきなのか。私欲を排して、民のために、自然循環の理、人間的あるべきこと、歴史を遡って考える必要があるのではないか。中世における戦乱からのヒントは、足利学校の歴史からも材料があると思うのです。

 

参考文献


川瀬一馬「増補版・足利学校の研究」講談社
菅原政子「占いと中世人」講談社新書
市橋一郎「中世後半期に於ける足利学校の教育」史跡足利学校「研究紀要」19号」