社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

大原幽学の協同組合思想と教育論

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非常にわかりやす書かれたものです‼️

 

大原幽学の協同組合思想と教育論

 

 大原幽学は、農村における商品生産の発展のなかで、窮乏化する家族農業経営と生活を先祖株組合という方式によって、問題解決をした実践的な思想家です。日本ではじめて協同組合を幕末につくった指導者です。

 天保9 (1838 )年、現在の千葉県旭市の長部村に11名(翌年25名で領主の許可)の組合員が出資した5両分の耕地で先祖株組合をつくったのです。このときに4ケ村で計画されたのです。

 困窮する農家にとって、5両の出資金は大変な金額です。ここには、農村の富豪の名主や名望家の金銭的な貢献の役割があったのです。先祖株組合によって、それを共同管理しています。

 そして、合理的な農業経営のために、耕地整理と交換分合を行ったのです。共同管理のなかで、年間農作業計画の合理化、合理的田植え法の指導など地域の振興技術・技能的な教育、現代でいうところの社会教育実践をしています。

 その思想の根幹は、各農家の天地の和による自然の原理を大切にしたのです。彼は、合理的な技術・技能を発揮しての生産性と品質を高めていく方法を重視したのです。

 ここで注目することは、天地自然の原理を大切にするということで、当時の農業生産向上で爆発的に利用さていた干鰯(ほしか)を買っての農業肥料を禁止しているのです。小農的家族経営には、循環的に自然農法の発酵を大切に堆肥などの自給肥料を奨励したのです。

 干鰯は農業生産力を急激に増収していきますが、しかし、イワシが不漁であれば、価格が高騰になり、農業経営の危機をもたらします。不安定な商品経済に依存すれば、農業経営の危機にみまわれ、商品経済に飲み込まれて、農業経営は貧困になっていくというのです。爆発的に流行しているという干鰯を購入しなければならない肥料は、市場に大きく作用されるのです。

 安定的に自然循環的に得ることができる肥料は、落ち葉やわらくずでつくる堆肥です。また、客土も大切な自然農法です。砂質土には粘土を入れて、粘土質には腐葉土、砂を入れていく。土に酸素が供給されやすいように、水もち、肥料もち、排水を良くしていくような対策をしていく指導をしたのです。

 

 ところで、大原幽学は、市場を協同で開発して利益を高めたのです。その利益を積み立て、質流れたした農地を買い戻したのです。

  さらに、重要なことに、農具・食品・生活用品を共同購入したことです。先祖株協同組合は、共同購入による消費組合的活動もようなことをしたのです。商品経済の発展にともなって、農家の貧困化が進み、消費協同組合的な活動をしていることです。

 幽学は、諸国を遍歴していた経験から、どこにいいものがあり、安く仕入れることができるかを理解していたのです。つまり、それぞれの産地を承知していたのです。大量に共同購入仕入れ、中間マージンを省き、生産や生活に必要なものを安く購入することを考え出したのです。

 そして、贅沢なもの、華美なものなど必要でないものを購入しないように、指導して、みんなで私的な強欲を規制しあったのです。消費的な協同組合の世話役を中心に、注文、配給、代金の受領などの業務をしています。共同購入の品物は、イワシ、茶、砂糖などの食糧品から膳、茶碗、皿、鏡、農具、たね、薬品、下駄などに及んでいます。

 

 先祖株組合は、産業協同組合的要素と消費協同組合的要素をもって、経営と生活を安定させ、現代で言う社会教育的活動を協同の力でしているのです。ここには、名主や名望家の存在も無視できず、お金のあるものはお金を、労力のあるものは労力ということであったのです。

 幽学の社会教育活動では、相手の立場を尊重しての相談したのです。幽学の指導法の基本には、必ず人間関係における人のもつ情を大切にしたのです。人を導くのに、はじめは、必ず情を施して、その情がよく通るに至る後に、理を学ばせたいうことを幽学は、強調しているのです。彼は、会うときはそのたびごとに快く穏やかに、理を話すことをしたのです。

 幽学は、決して理詰めだけではなく、道友になった相手から信頼を得て、関心あることを重視して興味をもたせて学ぶことだというのが基本姿勢であったのです。人に教えるには聞く耳をもたないとだめだと道友に説くのです。人間関係ができてから指導した方が早道という見方です。

 そして、一方的な講義ではなく、入札、廻文、突き合わせ、心得などでの方法で指導しているのです。入札は道友が札に文章を書き、会合の席で、廻して行う方法があります。廻文は道友の間で文章を回覧する方法です。

 この場合に、注意書きと質問書を回覧する方法があります。突き合わせは意見の交換や討論です。相互に議論しながら学ぶことを大切にしているのです。心得は、箇条書きで分かりやすく守るべきことを決めているのです。

 そして、家族での話し合いを大切にした指導をしたのです。家族農業経営において、それぞれの家族内の役割が分担が不可欠であるということから、家族内の話し合いを重視したのです。

 家族会議の延長に先祖株組合の会議があったのです。この会議は、前夜と呼ばれ、性学の精神による先祖株組合の運営会議になったのです。運営会議や寄り合いは、小前夜(執行部の役員会)、中前夜(代表者会議)、大前夜(全員参加の全体会議)、惣(村全体)前夜、男達、女共と呼んだ会合が定期的に開かれたのです。

 それぞれが話し合って管理運営を決めていくという村落単位の組合での全員参加の寄り合いによる会議・相談会の方式ということをしたのです。ここでは、組合員の話し合い重視の合意をとっていたことが特徴です。当初は4ケ村での先祖株組合結成をめざしましたが、この運動は大きく広がっていくのです。

 明日の仕事の予定を前夜に家族で相談するということです。毎月17日に大原幽学が道友・先祖株組合員を集めての男子会がひらかれたのです。そして、18日は婦人会がもたれたのです。

 幽学は合理的考えから家族農業経営における女性の社会的役割の教育をしたのでした。健全な農家、円満な明るい家族を築くためにと女子教育に力を入れたのです。z男性と同様に女性も同じように道友と幽学は称したのです。

 また、不定期的に子どもの教育を道友・先祖組合の大人達の参加による子供会が開かれたのです。子どもの教育は、家族・家庭から実施していくということも幽学の特徴です。

 親から子へ、そして、孫へとと人材育成に成功しなければ家族農業経営、家の子孫繁栄は出来ない。先祖株組合という発想も子孫繁栄、末代まで継続的に持続可能性をもっていく農村社会を考えたのです。

 後生末代に至るまで、先祖株組合を持続性をもたせるためには、いかなる方法があるのかということを真剣に組合員たちは考えたのです。人も変わり、天地の変動もある。道友たちが精魂込めて、志を子孫のことまでも考えて、熱心に孝を本として、自分の心を正し、道友はじめ他人までの及ぶ限り世の道を楽しく生きるということをみたのです。

 道友たちの丹精を忘れず、真心をもって子孫に言い伝え、勤めて後生の守りを求めていくほかにない。人は支え合っていきるものとして、足を知ることが大切で、ぜいたくをしたがる人の言葉に惑わされては、決して幸福になれない。必ず人の道の規則を忘れず、みんな兄弟と思えるように、人生の楽しみをひろげるばけなど、道友の間で議論をつくしているのです。

 

 村落という農業生産と農村生活という地域を大切にしての協同組合運動です。地域の相互扶助の機能を市場対応を個別的にではなく、協同組合的に活用しているのです。まさに、協同組合原則の地域の貢献ということが発祥当初からあったのです。

 ICA が1995年にロッジジールの協同組合成立から百周年を記念して作られた協同組合の定義・価値・原則になっている共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすためにという定義をもっていたのです。

 また、第7原則として、新たに付け加えられた21世紀への原則になるコミュニティへの関与ということが日本をはじめアジア的協同組合の活動特徴として、国際的に原則として認知されたのです。

 

大原幽学の天地自然の理・性学

 

 先祖組合の結成以前に、大原幽学は、性学同門中子孫永々相続講の定款が検討されていたのです。性学は大原幽学の思想の根幹です。人間の本性の普遍性を天と地の和、土地や気候が違っても和、自然と和するということで、人は天の道によってによっていかされるというのです。性学は天地自然の理です。

 それは、あらゆる天地の和になるというのです。大原幽学の先祖株組合の発想に、子々孫々ということで、永続的に持続可能性をもって、代々相続可能な家族経営と家族生活を考えたのです。このための協同組合なのです。

 大原幽学は「微味幽幻考」(びみゆうげんこう)の著書でのべます。人の心には徳があるのですが、それは養い導くものです。善事は自ら世に伝わり、滅びないのです。悪事は一旦盛んになることもあるが、必ず滅ぶものです。天地の和は自然の導くように養うものです。

 孝道をもって自ら親子、兄弟、夫婦の中に、分相応の礼に立ち、家内一に和睦すれば自らつくる災いはなく、富めること疑いない。その心の穏やかなる徳に、農民は農業の手続きよく耕すことに至るのです。富は和睦にあり、和睦は礼をもってなし、礼は養いをもってなすのです。

 養いは孝道をもって善きを移すことにあり、だた大金を蓄えるは無益です。まずは災いの起きることを知り、そのもとを知るのは子孫永続であるというのです。強欲、淫犯、飲酒、遊楽にふける者は父母の心を痛め、妻や兄弟の嘆き、盟友や親類の憤りになるのです。

 己は人欲の私の中に襲われて、実際の信の心が乱れては、天道になっていかないのです。人の導く己の志があれば、自ら人欲の私を失って、自然と本心の正しきに至るのです。これが徳に至ることというのです。

 人欲の私に襲われて、天地自然の孝道の導くことを知らざることは、互いに心が離ればなれになっていくのです。それでは、人間の自然本性の徳を養い導くことができないのです。人は、それぞれの分相応と器量相応に導いていくのです。己は人を愛すれば、人もまた我を愛して、即ち和するということになるのです。大原幽学の基本思想は天道・孝道にそって、養い導くていくいくというのです。人間のもっている強欲から人間自然本性の愛と和・相互扶助へとつながっていくのです。。

 幽学の思想の根底は易学、儒教です。また、講の組織として、日本の農村社会の伝統的な相互扶助の関係である講の文化に依存したとみれるのです。協同組合における地域の貢献ということは、日本の協同組合運動の発祥ということからも、その後、協同組合運動の重要な日本的な原理でもあったのです。また、暮らしの単位の地域での話し合いを重視しての先祖株組合の管理運営や世話人の選出も村の寄合慣習に依存したものとみられるのです。

 長部(ながべ)村で日本における最初の協同組合結成がされたのです。イギリスのマンチェスターのロッチジィール公正開拓者組合の結成が1844年になりますので、世界で最も古い協同組合になるのです。

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 大原幽学は寛政年( 1797)年、尾張藩(現名古屋)の生まれと伝えられています。文化11 (1814 )年生家を勘当され漂泊の生活になります。当初は、剣道での道場破りをしていました。その後、放浪の旅を続けながら、神道儒教、仏教を一体とする性学の学問を開き、その学問を世のために役立てたいと各地で講話をするようになります。天保6 (1835 年)8月、房総の講話先で、利根川河口干拓地の名主遠藤伊兵衛の依頼で、1835年に長部村を訪れるのです。

 この時、幽学は39歳です。放浪の生活から定住地が定まるのです。長部村を拠点に、現在の千葉県旭市を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革や地域振興運動を指導するのです。

 

教導所の改心楼・社会教育での基本思想と先祖株組合

 

 長部村に腰を落ち着けた幽学は、門人達を道友(どうゆう)と呼び、性学道友の教導所の改心楼を創設したのです。幽学の思想にとって重要な概念は、天地の和即ち性理・性学です。天と地の和を根源として、人間関係から土と肥料の和など、すべてに和を貫徹するなかから人間平等論、協同論がでてくるのです。

 己人を愛すれば、人もまた我を愛して即ち和す。幽学は、長谷村で、先祖株協同組合の教育、耕地整理、質素倹約、子どもの教育・しつけの指導をするのでした。

 農村の復興は、協同組合である先祖株組合で、農民が協力しあって自活できるように、生産したものを協同で販売するなど、実践仕法を行って成果をあげていくのです。

 しかし、村を越えて協同労働と販売、学習を共にした結社が反幕府の運動になるのではないかと怪しまれるようになります。幽学は幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858)自殺により62歳の生涯をとじるのです。

 

 利根川河口に水運と海運によって栄えた銚子市の近くに干潟(ひかた)の広大な干拓地に、そこは、現在の旭市です。ここに幽学の先祖株組合実践があったのです。銚子は水運と海運の要で栄えた都市です。各藩の米倉も建っていました。水路で江戸と結んでいた中継地であったのです。さらに、漁業と醤油の町であったのです。

 銚子は江戸時代に商品経済の発展の中心地でもあったのです。商品経済の発展によって、農民層における格差の拡大が起きていくのです。また、格差拡大のなかでばくちなどもはやり、近世社会秩序の村落行政から一切の保護のない人別・戸籍をもたない無宿人が生きる場を求めて集まってきたところです。親分子分のやくざもののの世界もはびこっていたのです。地域社会の退廃も起きていくのです。

 江戸初期まで、ここには椿海(つばきうみ)という大きな湖がありました。この湖は、1674年干拓され、8万石と呼ばれる美田に変わったのです。この米作地域は、江戸中期以降には、発展する商品経済の波に飲み込まれ、農民の生活は苦しくなっていくのです。

 そこへ天明の時期に続いた凶作の影響も加わり農民はますます困窮化したのです。人々の心は荒れ、地域社会は、退廃的な状況になったのです。この結果、益々田畑も荒れはてて、農村の社会は崩壊へ向かっていたのです。

 このような状況のなかでの先祖株協同組合結成です。先祖株の運動は、それから後に、大原幽学のざん新な農業経営策と彼独自の精神論によって農村復興に努め結果、領主から模範村と1848年に表彰されるまでの実績を上げていくのです。先祖株協同組合の指導を受けた門人は4千人を越えるのです。

 

 当時は農業を基盤とした封建制度が崩れつつあった時代で、幕府は村落社会の変質に過敏であったのです。彼の名声で農民の門人が急増し、その実績が上昇すると、逆に幕府は警戒するようになったのです。

 幕府にとって、農民が特定の指導者の下に精神的・実践的行動に団結するのを喜ぶはずはなく、介入してきたのです。はじめは、1852年、取り調べは、幽学をはじめ道友9ヶ村38人に及んでいるのです。

 幕府の取り調べ・裁判は、改心楼の活動、先祖株協同組合など数年にも及ぶのでした。教育施設の改心楼の取り壊しを命じられます。結局、自害に追い込まれるのです。遺書には自分の不手際で幕府の介入を招いた責任を取り、かつ運動の永続を願う内容が記載されていたのです。

 

 ところで、大原幽学は現代的にいえば社会教育に力を入れています。貧困のなかで荒廃していた農民の勤労的精神、農業技術の振興などに力を入れたのです。彼は弟子との気持ちが通じ合うまでは教えず、教える人に応じた指導法を採用したといわれ、彼は教育者としても優れた人だったのです。

 

 1841年の正月の21日から2月7日まで、15ヶ村の34人の道友を集め子ども大会を開いています。子ども達を組に編成して、共同生活をさせて、相互に競わせながら意欲や働きを評価して、役割を体得させるという行事です。

 幽学は、子どもの教育や女子教育にも積極的に取り組むのでした。子どもを育てるには、生得的な素質よりも社会的、文化的生活環境が需要であると幽学はみるのです。「然らば性質よりは育てる人の風気を撰ぶ事こそ大事なるべし」。

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大原幽学の子育て・教育論

 

 幽学における子どもの発達段階の見方は、5,6歳の時は、才ばかりのびて智を増すことで、暇なしで、物ごとに才ばしる事、騎馬の如しということです。心身の発達は6才から年齢によって異なっていくというのです。男子は7才遠慮するようにあり、8才まで人の我慢の種になります。女子は7才から8才まで、人の心と、己の心が育っていくのです。この時期に、人の心を推察していくという心の芽生えがでるのです。

 9才にして人の心を探り気味になります。10才にして言葉が柔らかくなるのです。11才にて学びの志に力を得る頃になります。12才から14才とだんだん学びは集団的になっていくというのです。これらの教育には、具体的実践を媒介にして学習をすすめていく方法をとっています。

 

 幽学の教育方針で換子(かんし)教育という自分の子どもを他人に預けて教育してもらうという方法を推奨したのです。事を知らざる者は、己が子を余所の親子・兄弟に情愛深き、孝行なる人の側に置くべし。痩せ我慢の強き者や親子の・兄弟の情薄き者の側に置いては、何程書物を読ませても何の役にも立たぬ」、「子を育てるに、食いたい、飲みたいと思う根性ばかりを育てては、人となりてよろしき了見の者にならない」という考え方からの換子教育です。

 7歳から16歳までを対象ととして、複数の家で、道友の間で行われたのです。他人の子どもを預かるのも責任が重いのです。自分の家が子どもにとって見本となるぐらいで親の教育にとっても大切であったのです。

「預かる子どもの教育について心得の掟を示しているのです。預かりし子、可愛くなり人目をしのび落涙する程の情なければならぬ事」。「すべて物事口で教えれば、口で覚える、とかく行いをもって教えるべし。家内中の者どうしの話など聞かせておき、また一言二言は言うて教えるもよし」。「無理に仕込みたがるは悪く、子供の気の進む時を待ってすべす」。

 大原幽学は、先祖株協同組合をつくって農村振興をすると同時に、地域の協同精神の社会教育や、換子教育などの独特な子どもの教育に力を入れたのでした。

参考文献: 鈴木久仁直「大原幽学伝」アテネ社、中井信彦「大原幽学」吉川弘文堂、高橋敏「大原幽学と村落社会」岩波