社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

現代青少年の非行問題と遠軽家庭学校の教育農場から学ぶ

 現代青少年の非行問題と遠軽家庭学校の教育農場から学ぶ

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 はじめに

 青少年の非行問題の基本的な考えは、少年法という法によって示されています。その理念は健全育成という福祉や教育を重視しているのです。遠軽の家庭学校は、百年以上の歴史をもつ教育農場による更生教育の実践です。

 

北海道遠軽家庭学校の教育農場の実践から学ぶもの

 

 非行少年を更正させる教育福祉施設として北海道の大自然のなかでの遠軽家庭学校は、多くの更正教育の成果をあげています。現代的にも非行少年の健全育成の更生教育にとっても重要な教訓を与えています。そこでは、少年の心身の原因と環境を重視し、これを整備していくという方針のもとに1千町の大地で教育農場の実践を大正3年に創設したのです。

 留岡幸助は、大正3年50歳ののときに、家庭学校の経営に専念し、71歳まで永眠するまで、家庭学校に全身全霊をもって貢献したのです。北海道の遠軽家庭学校の教育農場実践は、今日まで続いています。

 留岡幸助の精神は、一路至白頭ということで、家庭学校の本館正面に胸像の下に書かれています。一つの路(仕事)を一心不乱に頑張って努力をつづけてきたから、大きな成果が得られた。素晴らしい仕事が成し遂げられた。ふと気がついたら、自分の頭が真っ白になっていた。白髪の老人になっていた。大きな成果が得られるまでは、それぐらい長い時間と努力が必要だ。逆に一つの目標に向かって長い間努力を続けたら、白髪になる頃にはきっと素晴らしい成果が得られる」ということで、一路白頭ということばです。

 留岡は、同志社を卒業して、刑務所で、受刑者に対して行う特性育成を目的とする教育活動に従事したのです。いわゆる教誨(きょうかい)師です。かれは、犯罪者の多くが、14歳未満で非行少年になったことを発見したのです。この発見から、犯罪者の卵である非行少年を学校組織によって、教育すればと思い立ったというのです。30歳のときに、アメリカに学びに渡るのです。マサセュセッツ州立青少年刑務所の16歳から25歳の初犯者の感化教育を学ぶのでした。基督教徒であった彼は、全米の感化監獄を訪ねて学ぶのでした。

 日本に帰国してから、すぐに自分が考えた教育施設は無理であった。日本では感化教育に対する理解がほとんどなかったのです。日本に帰国して、33歳のときに感化事業の発達を出版しますが、そのなかで感化院の骨格は、基礎学力の付与、農業を主とする労作、保健教育、宗教による霊性教育の4つをあげています。

 世間の塵によごれすぎている小少年には、自然環境の閑静のなかで感化事業をしなければならなということからの労作教育を考えたのです。地方改良運動のなかでの筋金入りの報徳精神も北海道の僻地に開拓しながら教育農場を実践しようという考えに至ったのです。家庭学校の教育農場は、青少年を更生教育するための事業なのです。教育事業であるがゆえに、開墾し、校舎、家族舎、礼拝堂を建築するのでした。従って、教育に適した土地を選んだのです。

 35歳のときに、東京の巣鴨に家庭学校を創立する。内務省地方局の嘱託として、36歳のときに、報徳組織の地方自治の影響を調査するのです。そして、再び欧米の遊学をするのでした。42歳のときに家庭学校を財団法人として、経営にあたるのです。二宮尊徳についての出版をしています。50歳のときに、本格的に自分の理想とする感化教育を実施するために、内務省の嘱託を辞して、家庭学校の経営に専念するようになるのでした。
 教育農場のなかで生産意欲と責任意欲を高めているのです。社会的訓練は農業労働をとおしての実践です。施設全体が大家族という理念のもとで、家族のもっている教育的役割を重視しているのです。教職員は、子どもたちともに寝食を共にしています。農業は人間と自然の関係を考えさせてくれのです。そして、努力することで、生産物が目にみえるというのです。牛も丁寧に手をかければかけるほどいい牛乳がとれます。
 少年にとって、農業労働をとおして生産的な人間成長をしていくのです。非行少年にとって特徴的なことは、家庭に恵まれない貧困な精神文化での生育歴です。そこからは、異常なほどの破壊性が醸成されていくのです。また、ものごとに対して忘れっぽい、満足感をもつことがないのです。常に不満をもっていることが特徴的です。これらの精神的な問題状況を克服するために、遠軽家庭学校は、教育農場を大いに活用しているのです。
 生きていくうえで自分の欲するものは、自分たちでつくっていくということを実践しています。おやつまでも自分たちでつくるということです。
 創設者の留岡幸助は「自然と児童の教養」の出版で、遠軽家庭学校創設10周年に「なぜ原生林の中に家庭学校をつくらねばならなかったか。教育の原理のなかに自然を求めただけではなく、自然のなかに誠を発見することであったのです」。「非行少年の内在する心身の特性と環境から少年を大自然の開拓のなかでよく働かしめ、よく食わせ、よく眠らせるという三要件が教育することに大切としたのです。そして、考えること。
 大自然での農業は、これらのことに最も適しているのです。留岡清男は、北海道の教育農場に赴任するまで、人間の発達は、遺伝によって決定されるということで、教育は無力と思っていたのです。遠軽の家庭学校は、教育問題に開眼のヒントを与えてくれた。牛や、豚や鶏など家畜の管理から学んだのです。
 優良品種を導入すれば生産量はあがると考えていたが、家畜を飼う人が未熟ならば生産量をあげることができないことがわかったのです。教育は胃袋からも理解することもできたのです。遠軽の家庭学校は貧乏であった。からうじて生をつなぐ粗末な住居、衣料も布団も十分ではなかったのです。学校では自然で生きる生活を喜び、遠大な教育をうちたてるために、ほど遠い現状でしたが、貧乏を克服していくたに、酪農部で牛乳の生産をし、養鶏をし、蔬菜部をつくり、学校林の運動にのりだすなどの努力をしていたのです。

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 生産意欲と責任意欲は、近代社会の柱になるこのです。創意と工夫は、性能上の柱です。遠軽の先生方は、精神的貧乏、心構えの貧困を厳しく警告していたのです。北海道の遠軽家庭は、世の中の不幸な少年たちのよき相談相手になって、引接に教護の任務にあたることと、近隣農家のよき伴侶になって明日の農村を建設する任務にあたっていたのです。
 教育農場は、少年を人間的に成長せているのです。遠軽の家庭学校をでて、多くの少年たちが社会に育っていくのでした。 遠軽家庭学校では、非行少年の前歴をもったということで、社会の偏見と差別ということに立ち向かっていかねばならないのです。
 この現実に対して、施設をでたあとでのケアも大切にしています。遠軽家庭学校では、施設を出た後でも自立して生きていけるように、子どもたちの将来をきちんと保障した教育体制をとっているのです。
 非行であった少年が、更生されて生涯にわたって生きてけるように、子どもの発達保障を社会の偏見や差別に対して、力強く生きていけるように指導しているのです。非行少年は、社会的な差別と偏見のなかで生きていかねばならないことを直視しなければならないのです。

 参考文献: 留岡清男「教育農場50年」岩波、昭和39年出版、谷昌恒「教育力の原点」岩波書店、1996年、

 

少年法の理念

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 少年法の目的は、第1条で、次のようにのべられています。「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して生活の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うことともに、少年及び少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」。

 少年法では、健全な育成ということで、生活の矯正及び環境の調整ということで、罪を犯した少年に対する保護・刑罰という側面ではなく、特別の措置として、教育と福祉の側面から家庭裁判所の役割を重視しているのです。

 家庭裁判所の役割は、少年の健全育成ということから罪を犯した少年ばかりではないのです。14歳未満に満たないで刑罰法令に触れる少年は、性格や環境に照らして将来、罪を犯し、刑罰法令に触れる行為のあるぐ犯少年も含まれています。

 次の4つの少年の状況をぐ犯として示しています。
 1、保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。

 2、正当な理由がなく、家庭に寄り付かないこと。

 3、犯罪性のある人もしくは不道徳な人と交際し、また、いかがわしい場所に出入りすること。   

 4、自己または他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。


 少年法は、地域、学校、家庭の教育力に期待し、保護処分、刑罰を最小限に抑制している。少年法第6条では、「家庭裁判所の審判に付すべき少年を発見した者は、これを家庭裁判所に通告しなければならない」ということです。少年法では、通告という方法による、すべての国民に少年の健全育成の教育的配慮を求めているのです。
 

 警察や市民の補導の原理は、少年法の精神である教育的福祉的側面からです。そこでは、家庭裁判所中心主義で、家庭裁判所の調査官を重要な構成員として、児童相談所、児童委員、警察、学校などの機関と連携して少年の非行の至った原因を科学的に調査をすることです。

 調査は、少年と保護者または関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他専門的知識の鑑別の結果を活用します。

 そして、社会内観察という保護観察、児童福祉施設、矯正施設などの処遇について判断し、審判するのです。

 少年事件は、家庭裁判所に送致されるしくみです。家庭裁判所は少年事件の中心的な役割を担っているのです。少年の処置決定は、家庭裁判所の調査官による科学主義が原則になります。

 少年法の保護優先主義は、教育と福祉優先主義であり、保護観察による社会的処遇の措置のケースが多いのです。

 教師の少年審判における直接的な役割ができるのは、付添人の制度を活用することです。教師は成人裁判の弁護士的な役割に匹敵するのです。それは、少年審判が、教育と福祉の優先主義をとっているためです。

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 少年事件において、調査審判にあたって学校の協力は不可欠になっていることを決して忘れてはならないのです。少年事件にあたって、少年の教育的な課題を明確にしながら保護処分をおこなっていくことが必要です。

 少年事件において、おのれの罪を内省することが弱い場合が多いのです。孤独な精神作業をとおして自己をみつめていくということが大切です。

 集団生活では、内省作用ができないのです。集団生活の無難な適応だけでは問題が解決されないのです。罪を犯した少年は、自分で自主的に、自立的に考えていくということがきわめて未発達な状況です。

 

 少年非行の防止のための国際連合指針・1990年12月採択されいます。

 

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 国際連合の指針は、「少年非行の防止を成功させるためには、合法的で社会的に有益な活動に携わり、かつ人間主義的な社会指向および人生観を身につけることにより、青少年は犯罪につながらないような態度を発達させる」ということです。社会的に有益な活動に参加させることは、青少年の社会的ルールづくりです。自分一人で生きていないということを実際の社会生活体験で自覚していくことです。

 つまり、青少年は、子どもは他者との関係をもって人間形成されていくということです。子どもたちが自由に遊びを仲間たちとしていくことも大切なことです。遊びのなかでも年少者をいたわること、それぞれに得意なこと、じょうずででないことを理解して、役割分担を自然と身につけていくのです。

 

 国際連合の指針では、「青少年の調和のとれた発達を確保するために、幼児期からの人格およびその促進を重視しながら社会全体が努力することが必要である」と、子どもたち自身や子どもと関わる人々だけではなく、社会全体として、青少年の調和ある人格の発達を見守り、援助していくことを強調しているのです。


 青少年の発達を援助していくうえで、教育教育制度は、大切なことですが、その制度のなかに、「学業活動および職業訓練活動に加えて、人間として生きていくうくうえでの基本的価値を教え、かつ、子ども自身の文化的アイデンティティおよび文化様式、子どもが暮らしている国の社会的価値観」を身につけさせていくことを国連の指針は重視しているのです。そして、独自に、教育における指導性の重要な発揮として、子ども自身の文明とは異なる文明、ならびに人権および基本的自由への尊重を発展させることを不可欠な教育事項としているのです。


 国連の指針では、いくつかの重要な教育的要件を提起しているのです。まず、第1に、青少年の人格、才能および精神的および身体的能力を最大限可能なまで促進しかつ発達させることです。そこでの教育の方法として、青少年を、啓蒙的な教え込む対象として、単なる客体としてではなく、積極的かつ効果的な参加主体として教育活動に関与させることを打ち出しているのです。

 一人一人が学ぶことに、目的意識性と計画性をもって、意欲的に参加していく学習の形態をつくりだしていくことになるのです。教育の場での主人公は、一人一人のこどもたち、青年たちなのです。少年たちは、主体的な活動の参加によって、学校および地域社会との一体感およびそれへの帰属意識をもてるように工夫していくことが教育者に求められているのです。同時に地域社会全体としても、それを促進するような活動を行うことが求められるのです。

 社会は、多様な個性をもっている人々によってなりたっています。それぞれの得意な面、素晴らしい面をもち、その内容も一律ではありません。また、だれでも不得意な面があるのは当然です。さらに、できない面も人によってはあります。好き嫌いや意見も人によって違うことがあります。

 国連の青少年の指針では、青少年に対し、多様な見解および意見ならびに文化的その他の違いを理解しかつ尊重するよう奨励することを大切にしています。さらに、人間が生きていくうえで、働くことは、基本的なことです。自給自足的な生活から人々の生活の糧は商品経済に大きく変化し、雇用は、極めて大切なことになっている時代です。このような時代的状況で、職業訓練、雇用機会およびキャリア開発に関する情報および指導を提供することも国連の指針では、特別に重視しているのです。

 国連の指針では、青少年の情緒面の支援と虐待の問題についても提起しています。「青少年に対して前向きな情緒面での支援を提供し、かつ心理的虐待を行わないこと。規律の維持のための苛酷な手段、とくに体罰を行わないこと」ということで、心理的虐待、規律維持のための過酷な手段も禁止しているのです。

 

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 知性ある愛情の喪失と粗暴な子どもの解放をどのようにすべきか。

     愛される、愛するという愛情の行為が大切です。

 

 愛は、人間の豊かな感情の表れであるが、同時に持続的に愛情の気持ちを持ち続けるのは、知性的な表現であることを見落としてならない。母性的な幼児期の親子関係は、動物の世界でも自然の世界によって与えられています。
 人間は、動物と異なって、意識的に共生するという社会的存在です。理性を伴っている愛情の力は自然界から与えられたのです。


 イタリアの教育学者のモンテッソーリは、貧しい恵まれない子どもたちに、発達を保障するための子どもの家をつくった。子どもの家で教育実践をしたモンテッソーリは、子どもの発達において、大人の子どもに対する愛情の大切さを特別に重視したのです。このことを次のように述べています。
 「子どもは愛情によって自己実現に到達することが起こります。ふつう愛情といえば感情と理解しますが、子どものへの愛情は知性から出てきて、愛情をこめてながめながら、構成します」。子どもの自己実現は愛情を受けることによって、達成するということで、大人は、愛情への知性が大切とするのです。愛情への知性は、溺愛に陥りがちな親に対する警告でもあります。子どもから一歩距離を置いて、子どもをよくみることからの愛情です。モンテッソーリは、「子どもを熟視するようにさせる入れ知恵」ということで、「ダンテの言葉でいえば「インテレート・ダモーレ(知性、愛情の視力」としています。「あの生気がすでに失われたおとなにとって、まったくつまらないと思われる環境の特徴を、生き生きと精密に観察能力は、疑いもなく愛情の一つの形」というのです。

 「ある外見について、他の人が見ず尊重せず発見もしないような特徴に気づかせる感受性こそ、愛情の特色ある目印ではないでしょうか。幼児の知性には隠れたものも見のがさいのは、まさに愛情をもってながめ、決して冷淡に見ないからです。この積極的な燃え深まる持続的な愛情への没頭は、幼児期の特色です」。

 モンテッソーリは、他の人が見ずもせず発見もしないことに注視する感性が大切としています。それは、決して冷淡にみるのではなく、燃え深める持続的な愛情によって、みつけることができるのですと強調するのです。そして、子どもの環境では、おとなは愛情の最も重要な目的物とするのです。「子どもはおとなから物質的援助を受け取り、また自分の形成に必要なものを強い愛情をもって受け取ります。子どもにとっておとなは尊敬に値する者です。その口唇からは尽きせぬ泉からのように言葉が流れ出で、それは自分の話す力のために必要なものであり、またそれからさきの行動の手引きになるものです」。
 モンテッソーリは、おとなの言葉は子どもにとって、高級な世界からくる啓発と同じ影響を与えるというのです。「おとなはその動作をもって、無から出てきた子どもに、人間はどうして動くべきかを見せます。おとなをまねることは、子どもにとって生活にはいることを意味します。おとなの言葉や動作は、子どもの心への暗示力を得させるほど、魔力や魅力があるものです」。マリーア・モンテッソーリ・鼓常良訳「幼児の秘密」国土社、121頁~122頁


 子どもは大人の愛情によって自己実現していくのです。子どもにとっての大人からの愛情は、怒りや悲しみ、快楽という感覚的な感情ではなく、知性を伴った人間的な子どもを熟視しながらの愛情です。幼児にとっては、親をはじめとする大人からの愛情が特別に重要な意味をもっていることを決して忘れてはならないことです。
 モンテッソーリは、子どもの感覚教育を幼児期に大切にしている意味は、大人の愛情に支えられて生物学的に、社会的に正常な発育を支持するという原理によって整備されていくためというのです。

 正常な感覚の発育は、知的活動の発達に先立つものであるという見方からです。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の子どもの発達は、知覚の基礎であり、認知と情操の発達、道徳の形成にとって、密接に結びついているのです。感覚の発達は、豊かな情操と、他の人を思いやり、共有していくという感覚の発達であるのです。


 人間は、未熟なまま生まれます。一人前になっていくことは長い年月がかかる。

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 生物学的にも身体的成長も長い年月がかかる。生まれたときに、人間は歩くこともできず、自立して2本足で行動するには、一年以上がかかります。食べることも自分自身でできない。親をはじめとする大人の援助によって、生存することができるのである。人間は長い未熟の期間をもたねばならない。子どもは、大人の保護によって生存することができるのです。

 子どもは、親をはじとする大人を信頼する心が自然に備わって、大人に依存し、保護されるのです。人間の発達のはじめは、基本的信頼からはじまるのであるということを社会心理学者のEH・エリクソンは、「幼児期と社会」というなかで、ライフサイクル論の九つの発達の段階にとって、最初の段階とするのです。


 「良い遺伝子と愛情深い両親から恵まれた幼児は幸せです。いつも熱心に関わり、彼の存在を心から喜び祖父母を持つ幼児は、なをさらです。基本的信頼なしには幼児は生き延びることさえできないという事実を我々は認めなければならない」というのです。まさに、愛情深い基本的な信頼こそが、子どもの発達の最初の基礎というのです。そして、人間が生きていくのは、基本的な信頼の獲得からですと。基本的な信頼関係の獲得によって、希望ということも生まれてくるというのです。

「現に生きている人は、皆、基本的信頼を獲得し、それによってある程度まで希望という強さを得ているということになる。基本的信頼は希望の証である。この世の試練と人生の苦難から我々を守る一貫した支えである」。E.H・エリクソン・J.M・エリクソン「ライフサイクル、その完結」みすず書房、153頁


 信頼のない関係は、不信ということです。不信は人生のあらゆる側面を汚染し、他者との友情や愛情を奪い取っていくのです。幼児期からの児童にかけての子どもの虐待は、信頼という人間的な本質的関係を育てていかないのです。
 
 エイーリッヒ・フロムは、愛の教育力を強調しています。10歳以前の子どもは、愛することはことはしらないし、自分自身の行為によって愛をつくる要因が入ってくるのです。母親や父親などから愛されることから、なにかを作ることをとおして愛することへの長い年月を身につけていくというのです。
「八歳半から10歳以前の年齢の児童の大部分にとって問題は、ほとんど例外なく愛されることの問題ーありのままをあいされることーである。この年齢までの児童はまだ愛することを知らない。彼は愛されることに対し、嬉しく楽しく反応する。しかしこの発達の時期の児童の心像の中に新しい要因、すなわち自分自身の行為によって愛を作る新しい感情の要因が入ってくる」。

 8歳から10歳の時期をみるうえで、大切なことは、自分自身の行為によって、愛をつくる新しい感情の要因をつくりあげていくというのです。この時期の発達の段階によって、親や大人、仲間集団のなかで、そのことが育っていかない歪な環境におかれた子どもはどうなっていくのか。貧困家庭での放任的虐待、しつけの厳しさ、学校の心理的なことも含めての体罰やいじめ問題などの現実もあるなかで、地域や学校で、どう対処していくのかという大きな問題があるのです。
 エーリッヒ・フロムは子ども自身で何かをつくることが大切としているのです。「はじめに、子どもになにかを、母親(あるいは父親)が与えること、誌、絵、あるいはその他のなんであろうと、とにかくなにかを作ることを考えるように何かを与えることからはじめることから」とのべます。そして、子どもの生活において、愛の観念は愛されることから愛することへ、創造的愛へと変えられてゆくことが必要であると力説するのです。この最初の時から成熟までには多くの年月がかかっているとしています。最後に、いまや成人になったかつての児童は、その自己中心性が克服されていくのです。子どもは、他の人は、もともと自分自身の欲求の満足のための手段以上のものではないという考えをもっているのです。その克服が子どもの長い年月をかけての克服していく発達が大切なのです。他の人の要求は自分自身のそれと同じく重要であるという見識をもっていくということです。エーリッヒ・フロム・懸田克躬訳「愛すること」紀伊國屋書店、55頁


 愛することで最も人格的形成に寄与することは、自己中心性からの克服であり、他の人の欲求を理解していくことです。

 

 エーリッヒ・フロムは愛することの重要性を強調しています。子どもはまずはじめにあるがままの事物を知覚するようになるのは、母親からの温かいぬくもりであり、自分がたべているときは微笑んで、自分が泣くときは抱いてくれるという経験をとおして自分が愛されていることを学ぶのです。
 これは、母親によるあるがままの自分の自分が愛されているという受け身の状態であり、それは無条件であるとエーリッヒ・フロムは考えます。母親は、自分のこどもであるがゆえに子どもを愛する。父親は自然的な世界を表していないのです。
 父親の愛は条件つきの愛であり、子どもを教える人であり、世界への道を示す人なのです。6歳以降の愛において、父親の条件付きの愛は人間の社会的存在としての機能から大切な機能をもっているのです。これらのの愛されることを長い年月をかけてくりかえさせることによって、子どもは、10歳以降からなにかをつくることを通して、自分自身の内発的要因から愛することにめざめ、その成長を学んでいくのです。


 無条件の母親の愛と条件づけの社会的存在としての人間的成長のための父親の愛は、人間としてそだっていくうえで重要なことです。子どもの成長にとって親をはじめとする大人の愛情は、極めて重要である。子どもへの愛情の喪失は、子ども自身の情緒不安による粗暴の原因をつくりあげていきます。
 
 現代の青少年の特徴として反抗期の喪失傾向を教師や親からみえないのです。

 

 現代の都市部の青少年には、1980~1990年代まで多く見られたような『分かりやすい不良・ヤンキー・暴走族』が大幅に減っているとも言われ、髪を染めて制服を改造したり校内外で喫煙・飲酒をしたり他校の生徒と喧嘩をしたりするような非行行為は減少傾向を示しています。

 学校の指導方針や親の教育に暴力的な反抗を示す思春期の“第二次反抗期”が余り見られなくなり、どちらかというと既存の学校生活や社会環境、大人の指導に過剰適応してしまいストレスを溜め込んでしまう問題が増えています。

 いかにも不良・ヤンキーといった外見をした生徒が、暴力を振るったり犯罪を犯したりタバコを吸ったりするというのが非行行為の典型ですが、近年は外見上は普通に見える生徒が過剰適応やメンタルヘルス悪化の反動として“窃盗・喫煙・援助交際・ドラッグ”の非行行為をしてしまう事例も多いのです。

 

 非行歴のない子どもが凶悪な犯罪を犯す時代です。青少年の非行等問題行動について、新たな特徴として挙げられるのは、非行歴等のない子どもにも凶悪・粗暴な非行など重大な問題行動がみられることです。従来、重大な問題行動を起こした子どもは、万引きな どのいわゆる「初発型非行」から段階を経てきていることが多く、凶悪・粗暴な非行に至る前段階で、子どもの問題を比較的把握しやすかったのです。

 したがって、このような子どもに対して、親や学校その他の関係機関等が協力して重点的に指導することが可能であったのです。しかしながら、近年、「初発型非行」とは異なった形での前兆はあるものの、従来のような方法では対応しきれない新たなタイプの問題行動が目立つようになったのです。


 重大な問題行動を起こした子どもたちの意識等にみられる特徴は、次に挙げられるとおり、社会の基本的なルールを遵守しようとする意識が希薄になっていることです。法律に違反する行為も他者に迷惑をかけるわけではないから構わないと考えたり、そうした行為をとがめられることを逆に恨みに思ったりという事例が増えています。そして、自己中心的で、善悪の判断に基づいて自分の欲望や衝動を抑えることができないことです。

 非行の結果として他者を傷つけたりした場合でも、自分がどうなるかばかりを考え、被害者や周囲の人々の気持ちを考えないという事例が増えています。また、言葉を通じて問題を解決する能力が十分でないことです。最近よく使われるようになった「キレる」という表現にみられるように、一見ささいなことでストレスや不満を抑制できなくなって衝動的に問題行動を起こしたと思われる事例が多く発生しています。日常生活におけるストレスや不満は、自分の内面で処理するとともに、言葉に表し、周囲の人々に理解を求めることにより、暴力に訴えることなく解決を図らなければならないのに、このような態度が身に付いていないのです。
 さらに、自分自身に価値を見いだし、自尊の感情を持つことができないでいることです。他人を尊重し思いやる気持ちは、自分がかけがえのない存在であることの自覚に根ざすものですが、問題行動を起こした子どもには、そのような感情を実感する経験が乏しい例も多く見られるます。
 
 青少年の問題行動の社会的背景を直視する必要があります。 

 

 青少年の問題は、その時々の社会全体の抱える様々な問題を反映したものです。そこで、今回青少年の非行等問題行動の背景について検討するに当たり、現代の社会一部にみられる社会的倫理欠如の風潮に目を転じることが大切です。
 特定の利益や価値に固執することによって、社会的公正や公平、諸価値相互のバランスが崩れています。社会全体の公共性の利益を省みない行動がみられます。社会的責任性が軽んじられがちです。
 経済的な自己利益の追求に熱心なあまり、子どもに対 しても、ともすれば「より良い職場」に就職するために「より良い学校」に進学することを求めるような傾向が根強くみられます。このような中で、子どもが多様な人間関係を通じて共生していくなかでの自尊の感情や社会性、人との相互に支え合っていく付き合い方を習得する機会が減少しています。
 このような社会的背景から子どもの問題行動の起きる要因があります。子どもに対する基本的なしつけがおろそかになっていることです。社会的倫理や社会的責任が軽視されがちななかで、大人が衝突やあつれきを回避しようとして、様々な行き過ぎにも許容的になり、断固とした態度をとらないため、子どもにとって偏った考え方を生活体験の中で修正する重要な機会が失われています。また、子どもたちが幼いころから多様な人間関係を経験する機会が少なくなっていることです。


 兄弟姉妹の間や地域の同年代の青少年の間など、構成員の年齢に幅のある集団における人間関係は、他者との関係で自分の位置をとらえるという経験の基礎となるべきものです。しかし、少子化や地域のつながりの希薄化で兄弟姉妹や近所の友達が減り、テレビやテレビゲーム、学習塾や稽古(けいこ)事に時間を取られるようになった。

 このため、青少年にとって、人間関係が親子、教師と生徒といった特殊な関係や、学校等限られた場所における同年齢の集団という狭い範囲に限られ、人とのつきあい方を身に付ける機会が失われてきています。
 現代の子どもたちの環境では、多様な考え方を得る機会が乏しく、自らの考えを理解してもらおうと努力しない独善的な孤立主義に陥る傾向につながっています。
 これらは、具体的には、家庭の教育機能や地域社会の青少年育成機能の低下、学校教育の問題等として現れています。


 青少年をめぐる問題は、その背景に、様々な要因が相互に複雑に絡み合っているものです。青少年のみを対象とした対策だけで解決できる問題ではないのです。 まず、大人自身が、社会の構成員として、また、親として、「個」と公共の調和、自由と規律の調和の在り方や子どもの人格形成に対する責務について自らに問い直した上で、社会の基本的なルールを次世代に伝達していくことが重要です。
 青少年が自律的個人としての自己を確立した「市民」になるためには、社会生活の中で、多様な人間関係や実体験を通じ、自分を周囲とかかわらせる活動を積み重ねていかなければならないのです。具体的には、多様な人々とお互いの意見を投げ掛け合い、相互理解に努める中で、時に摩擦も経験しながら、自分とは異なった様々な価値観に触れることです。このような経験を積む場を最も豊富に提供できるのは、地域社会にほかならない。したがって、青少年がこのような『開かれた』関係の中で社会性を培っていくための地域社会の環境づくりが必要です。
 親や教師を始めとする周囲の大人は、自らの考え方を積極的に示し、情報を提供し、意見を交換することを通じて『開かれた』関係を確立し、各自の責任を明らかにしつつ相互理解と連携を実現していかなければならないのです。


 人権尊重、個人主義自由主義、平等主義といった戦後の憲法的価値の浸透は、社会経済の変化と相互に作用を及ぼしつつ、旧来の血縁的、地縁的な社会から人々を解き放ち新たな活力の源となりました。それが、ある意味では、経済の発展、生活の向上をもたらしました。しかし、その一方で、価値観の多様化、人間関係の希薄化等を通じて、家庭や地域社会の育成機能の低下や社会的抑制力の低下や社会的倫理観の欠如をもたらしました。
 人間は社会的にしか生きることのできない存在であり、「社会」を否定したところには、個人個人が自由に個性や創造性を伸長させ、自己実現を追求していく基盤も成り立たないのです。他方で、積極的で責任ある社会の構成員をはぐくんでいくためには、子どもの権利に関する条約に規定されているような生存、保護、発達などの権利を十全に保障していくことが基本的な前提となることも忘れてはならないのです。