社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

新型コロナ蔓延とオリンピック精神

新型コロナ蔓延とオリンピック精神

 

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 毎朝、早く起きて1時間半ほど森のなかを楽しくジョギングをして楽しんでいます。体を動かせることは本当に幸福感を感じています。いつまでも走れることを希望しているところですが、人間も自然の一部で、いつかは衰えていくものです。元気で健康で人生を楽しく過ごしたいというのは、誰でも望むところです。

 新型コロナのなかで、行動が制限され、思うように活動が出来ずに、気持ちが落ち込むことがありますが、これも自然の流れとして悟るしかありません。しかし、自然の流れに逆らって、またオリンピックの崇高な精神を投げ捨てて、爆発的な新型コロナ蔓延のなかでの世界最大のスポーツイベントを実施していることに理解が全くできない状況です。まさに、戦場のなかで、災害地のなかでオリンピックを実施しているのと同じことだと思っています。

 

 新型コロナ蔓延のなかでのオリンピック開催は、国民の命を健康を守るということから、 深刻な問題を起こしていますが、オリンピック精神から真逆の行為でもあります。現代のオリンピック精神は、スポーツと環境ということで、特別に環境のことが重視されているのです。

 オリンピックの開催は、豊かな環境のもとに、人類の健康で幸福で豊かなスポーツの祭典ということです。利権や政治的駆け引きなどが幅をきかせ、平和や人間尊厳ということからの友情、連帯、フェアープレイ、相互理解というオリンピックの崇高な精神があります。東京オリンピックの開催は、異常な爆発的なコロナ感染の緊急事態のなかで実施されているのです。まさに、真逆の方向に走っているのです。

 スポーツは健全な心身の発達のためで、人類共通の文化です。人々が生涯にわたって心身ともに健康で文化を営むためで、自発的精神のもとに安全かつ公正の環境のもとに実施されるものです。そして、オリンピックはスポーツの祭典として、文化や環境を三本の柱とするものです。環境は人々の健全な心身の発達に不可欠なことです。このために、持続可能な社会のために生態系をはじめ環境という柱も重視するものです。

 ところで、緊急事態宣言ということで、東京は新型コロナ蔓延の状況で人々の酒類を伴う飲食行動は厳しく制限されています。しかし、東京オリンピック開催ということで、世界各国から多くのトップアスリート、オリンピック関係者が大量に入国しています。オリンピック関係者の人の流れの制限は特別扱いにされているのです。日本の一般の人々とは接触しなというバブル方式ということですが、実際は、その行動に多くの問題が懸念されているところです。

 人々もオリンピックという国際祭典ということで、コロナ蔓延にもかかわらず、興味がそそがれて、熱気にもえて、街にでていくのです。無観客ということでも人のながれに歯止めがかからない状況で、爆発的感染になっているのです。オリンピック開催とコロナの爆発的感染には、因果関係はなく、むしろ国民の側に人流抑制のできないところに問題があるという政府の見方です。東京都は、国の重傷者の基準と異なり、10分の1の公表になっているのです。統計的操作や検査の抑制によって、感染状況が正確に国民にみえにくい状況になっています。

 安心安全のオリンピックの開催ということですが、さまざまな世論でも多くの国民はオリンピックの強行に多くの不安を感じているのです。新型コロナ蔓延のなかで、国民の命と健康を守ることが緊急的課題になっているのです。コロナの爆発的な蔓延状況で、国民の命と健康に全力を注ぐことが大きな政治課題です。また、行政もそのことが重要な仕事になっています。医療関係者や保健関係者は疲弊しているのも現実です。長く続く国民への自粛要請ということから、経済にも大きなマイナス影響を与えています。とくに、飲食業者や観光業者とその関連業者は深刻な影響を受けています。

 

オリンピック憲章から学ぶ

 

 1994年にオリンピック100周年を記念しての第12回IOC総会で、オリンピズムを肉体と意志と知性」の資質をを高揚させて、均衡のとれた全人格のなかに統合させる人生哲学の努力のなかにみいだせることにあるとした。人間の尊厳を保つことに導きを置く平和な社会の確立を奨励するこにあるとしたのです。実際に国際的に各地で、紛争は絶えないことが現実です。大国が核兵器をはじめ、軍事拡張政策を続けています。第2次世界大戦は、オリンピックというスポーツの場がファッシズムのヒットラーによって、世界支配戦争に利用された苦い経験をもったことがあります。国威高揚という国家主義のために政治的にスポーツが利用されることがあるのです。この意味で、現代のオリンピック精神に平和主義と人間の尊厳を強くかかげているのです。

 まさに、オリンピックは、平和の祭典であり、人間の尊厳に重きをおく、友情、連帯、フェアープレイの精神をもって相互理解するスポーツ運動であるとしたのです。スポーツは競技として競い合う性格をもっています。それぞれの努力のなかに、勝利したいという欲求のなかで、スポーツの技量と精神が高まっていきます。すこしでも、進歩したいという人間的欲求でもあります。

 スポーツは、自分との戦いが個々の進歩したいという欲求とが重なり合っているのです。負けること、失敗することも進歩していく過程でもあります。しかし、競い合うことが、人間の尊厳、友情と連帯、相互理解を前提にあることを決して忘れてはならないのです。スポーツの勝利至上主義が争いに発展することがあるからです。

 ところで、21世紀のはじめの現代は、世界の環境問題が深刻な状況です。地球温暖化によって、異常気象が起き、災害や健康障害が起きる可能性が多くなり、海から高さが低い島国の陸地では、消滅していくところが膨大にあります。このような状況で、持続可能な社会づくりとして、スポーツと環境をかかげるようにようになりました。オリンピックは、スポーツ、文化、環境という3つの柱をかかげるようになったのです。

 スポーツをとおしての青少年の教育は、大切になっています。健康とは、病気ではない、体が弱っているということだけではなく、肉体的にも、精神的にも、そして、社会的にも、すべてが満たされた状態であるというWHOの精神が大切なのです。

 青少年の教育には、このすべてが満たされた状態を達成するためです。健康的なライフスタイルは、肉体的という限定されたものでないことはいうまでもないのです。肉体、意志、精神という調和のとれたバランスのよい生活を送るために、社会的にも健康な状況が必要なのです。

 IOCは、スポーツと環境ということで、ガイドラインを示しています。エネルギー、水、移動、ゴミなどゼロ炭素社会のアクション、持続可能な開発、生態系と景観の保全、節水、自然エネルギーの使用、環境汚染物資や廃棄物の克服、生物多様性の尊重などスポーツとして積極的にかかわる必要性を提言しているのです。環境ということでは、感染症という公衆衛生環境は大きなテーマでもあります。自然環境の破壊と共に、人間が未知の自然界に深く入り込みすぎると、新たな感染症に遭遇して行きます。人類の疾病の歴史のなかで感染症は大きな脅威であったのです。

 人類が生きていくうえでは、自然環境要素に大きく依存しています。呼吸、水分、食物などスポーツをとおして理解することができるのです。無呼吸は3分、水分は3日間というように、その限界があるのです。そして、スポーツの技量を高めていくには、呼吸、水分、食物は重要な要素になるのです。そして、自然環境ということで、生態系を大切にするうえでの生物多様性の尊重も理解できるというのです。

 オリンピック精神の教育的に価値は大きなものがあるのです。努力の喜び、フェアープレイの精神、他者への尊敬、向上心、バランスのとれた心徳知です。オリンピック精神は、教育の側面からみるならば、スポーツ体育という狭い面ではなく、科学技術、歴史地理、言語、美術・音楽・デザイン、生態学・および自然という側面と幅広くもっていることを決して見落としてはならないのです。

 スポーツから得られる恩恵は、教育成果という面ばかりではなく、健康増進及び疾病の予防、ジェンダー平等など様々な恩恵があるのです。

 

日本のスポーツ基本法の理念

 

 日本では平成23年にスポーツ基本法が制定されて、国民の権利としてのスポーツ文化が定着し、政治はその責任を果たすようになったのです。そこでは、スポーツは世界共通の人類の文化として、スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持の増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神的涵養のためにあるものであるとしたのです。

 そして、国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的生活を営むうえで不可欠なものであるとしたのです。スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、すべての人々の権利であり、すべての国民がその自発性の下で日常生活にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならないとしたのです。日本で暮らすところのすべての人々に平等に権利としてのスポーツを保障することが求められるようになったのです。

 このスポーツ基本法の理念は、国民の権利としてのスポーツの参画を生涯にわたって保障することを規定したことです。国民が文化的に豊かに生きるためには、スポーツは不可欠なのです。高齢になってもスポーツの参画は保障されるべきであり、そのことは、生きる楽しみのであり、健康を保持増進になっていくということです。スポーツの権利保障ということと健康で文化的に生きることは一体であるのです。保健衛生・医療行政にとってもスポーツは大切な役割を果たすことにもなるのです。

 

スポーツビジネスの繁栄問題

 

 平成22年にスポーツ立国戦略として、する人、観る人、支える人、育てる人ということで、スポーツを基盤とする新しい公共性性の形成が提唱されています。無償の公共サービスから脱皮して、地域住民が出し合う会費や寄付により運営するNPO法人型のコミュニティクラブが主体となって実施していくということで、地方自治体の社会体育夜学校教育でのスポーツ活動からの新しい公共性の提言です。

 地域でのスポーツ活動の自発性を伸ばしていくうえで、新しい公共性という非営利団体の果たす役割は大きなものがあると思います。しかし、それは、営利のためのスポーツ企業活動ではありません。いつのまにか、新しい公共性ということが、特定の営利団体のスポーツ産業の育成ということになれば本末転倒です。スポーツ活動は、国民の権利としての公共的な活動です。ここでは、国や地方自治体の役割が大きくあることを決して忘れてはならないのです。

 国家や地方自治体の責務による公共性から住民自身の会費や寄付によるスポーツ活動の実施ということでの非営利の新しい公共性ということです。国家や市町村によるスポーツ活動の条件整備や指導者の配置が大切なのです。それは、スポーツ産業としての民間のクラブ活動やスポーツ塾が繁栄していくことではないのです。子どもの遊びが様々なスポーツ練習ということで、教育と称してのスポーツジムになっていくことではないのです。

 さらに、国民のスポーツ活動の普及は、民間の産業として発展していく現実があります。そして、これが、健康ブームということで、各地にスポーツジムが成人層をターゲットに一層に発展していくのです。スポーツをすることは、大きな家計費がかかるようになっていく状況があり、スポーツ活動には、貧富の問題があるのです。スポーツは民間にとっての重要な産業として、恵まれた層を中心に各地域で普及していくことで、貧困者は遠ざけられていくのです。

 ところで、トップアスリートが社会に還元されるしくみづくりとしての引退後の配置も重要となってくるのです。総合型地域スポーツクラブや学校体育の外部指導ということが大きな意味をもつようになるのです。トップアスリートと地域住民が結合していくしくみづくりが公的に保障されていくことが必要なのです。スポーツは地域住民との関係をスポーツビジネスという結びつきを強めるのではなく、公的に社会的に保障された指導者として、地域の一体感を生んでいくのです。それらは、社会関係資本の形成に大きく寄与するようになっていくのです。

 現実のスポーツ活動が営利のビジネと結びついている現状では、トップアスリートが選手として活躍できるためには、スポンサーなくして、難しくなっているのが現状です。それぞれ、スポンサーをつけて活躍していくのです。ここには、競技がプロ化していく論理が潜み、有能なスポーツ選手であればプロスポーツが最も経済的に基盤がつくられていくのです。

 ゴルフやテニス、野球などは、莫大な契約金や報奨金、広告収入が入るのです。超一流選手は、億万長者として高額な所得をあげることが可能になっていくのです。スポーツビジネスやスポーツのプロ化によって、拝金主義が潜む問題」があるのです。勝利至上主義が拝金主義と結んでいく怖さがあるのです。スポーツマンシップということがあらたためて大きく問われる背景があるのです。オリンピックを契機に、人間の尊厳、平和、公平性などの権利としてのスポーツ文化というオリンピック憲章やスポーツ基本法の理念を学ぶことが求められているのです。