社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ラスキの「近代国家における自由」から教育を争点に

 ファシズムと戦ったラスキの自由論

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 ラスキは自由論を糧にファシズムと戦った思想家、政治家でした。また、ロシアをはじめとする全体主義的な国家社会主義についても厳しく批判したのでした。そこでは、多元主義を重視して、寛容の弁護、理性での権力弁護としたのです。このために、ラスキは教育を重視したのです。

 社会を脅かすものは人々の自己観念や行動を禁圧する独裁的志向です。権力者の欲望は、ひたすら独裁に走るのです。独裁的権力者は独創や実験の効能について何ら省みみることはないとラスキはみるのです。

 自由を創造する精神は民主主義の危機に対して、毅然と抵抗する勇気です。それは、独裁的志向の権力者に対して、脅威になるのです。

 自由は日々に戦いとられ、保持されていくというのです。このためにあらゆる場所、すべての機会に自由の精神を学ぶことが必要なのです。

 

自由は繰り返しの学び

 

 自由はいつの時代も繰り返し学びなおさなければならないとみるのです。自由の領域は、その時々によって、その内容を異にするから、自由の教訓、寛容の領域をその状況に対応して、学ばなければならないのです。ラスキは自由の領域は動態的と考えます。

 近代国家における自由は見識ある判断力をもった市民の形成が不可避です。見識ある市民の形成は教育の力によって成し遂げられていくのです。

 見識ある判断力とは考える力を持つことになり、衝動による行動ではないのです。また、冷淡や無気力は自由について、最も恐るべき敵になるのです。この力は社会のあらゆる場所、機会でで学ばなければな

 

自己の経験を土台にしての自由論と教育の二面性

 

 自己の経験を土台として、判断し、行動しえないとすれば、各人は自由でないとラスキはみるのです。不自由とは各人がその経験を否定されたことです。各人は生活体験から得た教訓を深化することが自由にとって大切とするのです。

 しかし、教育の二面性があることも見落としてはならないのです。ラスキは国民の生活上の利益と全く相容れない国民感情を喚起する国家目的の教育があるというのです。

 それは国家が要請する忠誠心の養成ということです。ここでは、理性や科学よりも国民的統合の絶対的価値観、感情を大切にしていくのです。独裁者はこのための教育を積極的に利用します。

 ところで、近代における科学技術による力が増す時代になることによって、教育の権利は自由にとって根本的なものになったとラスキは考えるのです。

 知識の獲得を奪われたものは教育のより恵まれた人の奴隷になるとしたのです。無知の人はその無知のまま自由かもしれないが、失業の危険性にさらされながら、自らの自由を用いて幸福になれない。

 そこでは、経済的安定性をもって、創造的に生き甲斐をもって、幸福を探求できる大きな自由を獲得することができないのです。

 

学校教師がもつ姿勢の重要性

 

 ところで、学校の教師の姿勢は非常に重要であるというのもラスキの教育に対する見方です。教育者によって子どもたちは大きな影響を受けるからです。

 教育者が広い見識で寛大であるか、それとも極限された偏狭な見方であるか、さらに、懐疑的な精神を涵養するか、積極的な精神を涵養するか、これらは、一国民の知的雰囲気に非常に相違が生まれるとするのです。

 独裁の現在政治制度を熱烈に支持することが愛国心だと信じている教師に、子どもを任せることは危険であるということです。そのような教師は、自由、子どもの幸福にとって、まことに危険極まりないとラスキは考えるのです。

 自由のない教育では、子どもを精神的ドグマの牢獄につないでしまうというのです。偉大な教師が子どもに及ぼす感化は想像を越えるものがあるのです。教師は自由を積極的に教えるべきです。

 

偏狭な愛国心の教育問題と真理探求の教育

 

 偏狭な愛国心はいっそうにおもしろくない社会結果を招くとラスキは考えるのです。権力的社会の支配者は真理探求の精神を嫌悪するのです。

 偏狭な愛国者は、自己に都合のよい事実を信じ込むように教え込むことを求めるというのです。欺瞞によって利益を得ようとするのです。彼らは、教育によっての創造的効果を広範囲にあらわれることを望まないのです。

 ファシズムと戦ったラスキであったので偏狭な愛国心教育に批判したのでしたが、植民地の人々が民族の独立のため愛国的アイデンティティーの確立があります。帝国主義者に奴隷的精神を押し付けられていた人々にとって、自由への解放に愛国心は大切なのです。

 ところで、帝国主義の国で暮らす人々、先進資本主義の人々にとって、領土拡張、民族排外主義による侵略に反対していくことは大切な課題になっていたのです。国際的連帯と国際協調主義のもとに愛国的誇りもあることも見落としてはならない。

 また、国際的文化交流を互恵、共存共存の対等の立場からながめると、一層に民族や国の歴史文化を自覚していくことが求められるのです。この意味での愛国心教育があるのです。

 現代において、グローバルな資本主義や大国の覇権主義が進むなかで、それぞれの国の主権、経済の自立的発展が求められているのです。とくに、発展途上国と先進国の格差が著しいなかで、経済の自立性と主権の国際的秩序は大切になっているのです。

 権力者の支配にとってみれば、国民の求める真理探求の教育の拡充は、都合のよい口実で遅らせていくものです。

 しかし、思考力の価値がますます広く一般的に認められることによって、創造的なやり方の教師をかってに気にくわぬということで解雇はできなくなります。教師の公言が教壇以外でも通用することになり、社会的影響も増していきます。

 真理探求にとって、多面性の承認と寛容性の重要性をラスキは指摘するのです。教育の世界で宗教に対する教科書問題は多面性と寛容を考えていくうえで、大きな問題提起になります。

 ときには、特定宗派の感情を害する教科書の記述があります。その教育をやめるような要請がカトリックの特定宗派から出されることがあります。そこでは、カトリックプロテスタントとの宗教改革の評価をめぐって、歴史的評価があるからです。

 ラスキは、アメリカでも独立戦争憲法の問題でも評価の違いがあるというのです。ここでは異端者狩りをするのではなく、熱烈な討論による多面性と寛容性の容認が教育に求められるのです。

 教育者は、未成熟な精神にただ真正な見解を教えたいという欲望ではなく、真理、経験にてらして解釈をして、人格を抑圧し、人生観を押しつけてはならないとしているのです。

 

経験からの事実の真理探求と多様性・寛容性

 

 そこでは、経験からの事実を大切にして、公共的事項を重視していくというのです。隣人の悪口ということの快楽や特定の利益をもつこと, 醜聞をつくりだす権利はないとしています。

 表現の自由は無制限なものではないというのです。無用な苦痛を人々に与えてはならないとしているのです。公共的事項を抑圧する表現の自由の禁止が決定的重要性をもつ事実や観念を一般大衆の目から遠ざけることは正しくない。

 また、けがれた神という古い伝統は禁止するのではなく、適度に寛容の精神と文化面から擁護すべきとしているのです。

 これらのラスキの多様性と寛容性をもつ教育指導の指摘は、日本の社会科学や自然科学の教育を進めていく場合に、文化の問題もあることを見落としてはならないのです。けがれ、祟り、迷信、神話などを教育のなかでどう考えていくのか。

 それらは遅れた非科学的な見方であるということで、一方的に切り捨てるのではない側面もあります。そこに含んでいる文化的な意味、人々が歴史的に体験してきた習慣や掟などからもみていくことが大切なのです。

 暮らしのなかでは理性的に理解できないこと、不安や恐怖があることを決して忘れてはならないのです。また、自然に対して、祟りや掟は現代の乱開発にみる一面的な狭い科学技術による開発のおごりもあるのです。

 

科学の教育のあり方と多様性・寛容性

 

 自然現象は、わからない未知の部分がたくさんあるのです。科学のおごりは恐ろしい結果を招きます。狭い分野だけの専門分野だけの科学だけで一人歩きすることは極めて危険なのです。

 科学技術が人々の生活に、はかりしれない被害をこうむることがあるのです。核兵器などの戦争のための軍事研究、原子力エネルギーや山の森林を切り開いのメガソーラーなどは、そのことを教えているのです。

 これらの現実には科学者にとっての一般教養や学際的な研究、総合的な異分野の交流が求められているのもそのためです。

 科学者のコミュニティは、自己の専門分野だけではなく、異分野や学際的コミュニティが強く求められているのです。学問の自由は、このコミュニティの理解が極めて大切なのです。

 教育においても当然ながら、このことが求められているのです。大学における教育でも専門的研究の教育と、同時に一般教養が求められているのです。

 

自由の実現と国民の理解

 

 自由の実現は多くの国民に認知されることが必要です。ラスキの言葉で最後をしめたいと思います。

 「権力者は自己の過ちを隠しおおせるものなら、そのためには常に自由を否定するであろう。そして、自由の否定が成功するたび毎に、自由の否定を繰り返すことを容易にするのです。

 いかなる社会でも、人々が自由のもたらす結果について平等な関心をもつ場合にのみ、自由そのものについて平等な関心をもつということである。

 自由のもたらす果実が、少数の占有であるある場合には、他人にそれを拒めばどんなことが起こるかを、この少数の人々が考えることは先ずない」。ラスキ・飯坂良明訳「近代国家における自由」岩波文庫、206頁から207頁