社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

文明の衝突と大国政治の悲劇ーロシアのウクライナ侵略に際してー

             

 文明の衝突と大国政治の悲劇ーロシアのウクライナ侵略に際してー
             
 はじめに

 ロシアのウクライナの侵略によって、ヨーロッパの国際平和秩序が大きく揺らぎ、欧米軍事同盟のNATOとロシアとの戦争、核戦争への危機がある現状だ。国際連合加盟国の141ヶ国がロシアの軍事侵略に反対の決議に賛成したのだ。反対5,危険35、退席した国12だった。
 7割の国連の加盟国がロシアの軍事侵略行動の中止を求めているのだ。世界各地では、ロシアの侵略反対、国連憲章を守れという運動が起き、国連憲章の重要性が大きな国際世論になっている。
 なぜ、国連をつくったのか。国連憲章は、崇高な理念のもとに、国際平和の構築を宣言したのである。二度の言語を絶する悲哀を人類に与えた世界戦争の惨害から寛容と善良な隣人として、互いに平和と安全を維持する機構をつくったのだ。
 そして、自決権の尊重を重視して、それぞれの国家の友好関係構築を求めたのである。国際紛争は、平和的手段によって、いかなる国に対しても武力による威嚇、武力の行使をしてはならないのだ。
 残念ながら国際連合ができた後でも朝鮮戦争ベトナム戦争イラク戦争アフガニスタン戦争など、世界各地での紛争が絶えないのが現実だ。ここには、大国の国際政治の問題が大きくあったのである。
 ロシアのウクライナ侵略は、ソ連崩壊後の問題が大きくあることを見落としてはならないのである。冷戦時代二つの大国のひとつであるソ連の崩壊で、アメリカが唯一の超大国になった。さらに、ソ連に対抗した軍事同盟のNATO旧ソ連圏の国に拡大していったのだ。ここに、ソ連の中心国であったロシアが一層の恐怖をもったのだ。
 ウクライナはロシアにとっての兄弟国、またロシアにとっての文化的な発生的な意味をもっていた国である。宗教的にも東方正教会を信仰する人々が両国とも多いのだ。ロシア語も共通の言語として、ウクライナに住む人々は理解できるのである。
 ロシアのウクライナ侵略を解決する方向性は武力ではなく、話し合いによる問題の解決だ。ロシアは、歴史的にも、文化的にも兄弟国であったウクライナNATOに入ることを宣言するように なったことで恐怖をもったのだ。国家と文明的な共同体の矛盾も先鋭化していくのだ。大国主義政治と文明の衝突ウクライナに集中するのである。
 大国であったロシアが、恐怖感とも結んで、話し合いではなく、本来あってはならない武力に強行に訴えることが生まれたのだ。ここには、ロシアのウクライナ武力侵略戦争にならないように、アメリカという大国やNATO諸国の外交的な努力が求められていたのだ。また、国連の役割が重要であったのだ。大国主義や覇権主義に対して、武力による解決という誤ったことにならないように、徹底した国連の場での話し合いが必要であったのだ。
 ロシアは自らの懸念や恐怖をもつならば国連の場で訴えるような環境を整えることが必要であったのである。武力に訴えず、国連の話し合いによる紛争解決という理念から安全保障の常任理事国の問題もあるのだ。
 現在のところ、ロシアの核戦争の脅しにより、核戦争に至っていない。緊急には、積極的に、外交的なロシアの恐怖を取り除く大国の外交的な交渉が求められているのだ。正義と悪魔という単純な図式からでは、核戦争の危機を逃れることはできないのだ。
 とくに、日本人として、憲法前文での平和のうちに生存する権利、自国のみに専念して他国を無視しない対等な関係の理念が大切なのだ。まさに、それぞれの立場を乗り越えて、相互信頼と、平和共存、平等互恵の国際的協調主義の責務は重要なのだ。同時に日本は、憲法九条をもって「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争をしない」としたのだ。そして、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段にすることを永久に放棄すると誓ったのである。日本憲法理念の役割は国際平和の構築に大きな意味をもっているのだ。
 日本ではロシアのウクライナ侵略に対して、この誓いから大きく逸脱していく、核共有論や軍備増強、敵地殲滅論が議論されている。隣国の中国や北朝鮮に対しても、相手側を仮想敵国として脅威をあおり、本来的に平和を構築していくべき相手を刺激しているのだ。マスコミも、さらにSNSをとおして、この議論に拍車をかけている現状である。

 日本では、ロシアウクライナ侵略の反対の声をあげてくいときに、憲法の平和的に生存する権利を大切にしていく学習が切実に求められているのだ。
   サミュエル ・ハチントン著「文明の衝突集英社刊、ジョン・マイシャイマー著「大国政治の悲劇」五月書房社を読んで、現実の国際政治危機のなかで、戦争の起きる背景をみつめて、平和的な生存権、国際的協調の未来を指向していきたいと思う。

 

  (1) ジョン・マイシャイマー著「大国政治の悲劇」を読んで考える

  アメリカの軍の大学を卒業し、アメリカ軍幹部として籍を置き、その後リアリストとして国際政治研究をしたマイシャイマーだ。かれは、リベラルの政治家を批判している。ソ連崩壊後リベラリストクリントンは、NATOを拡大することによって、平和がヨーロッパに訪れ、世界中に民主改革と開放的な市場改革をする必要性を考えたとしている。それは、豊かで経済的に自立になるというのだ。実際はそのようにならなかった。
 さらに、リベラリストは、そこでの国家同士はあまり戦争をしないと考えた。民主制国家は、互いに戦争しない。国際機関は国家間の戦争を回避し、お互いに協力関係をつくるという見方だ。
 リベラリズムの伝統は、政治指導者が理性を活用していけば善い世界をつくりあげるという楽観主義をもっているとみるのだ。リベラルの国際システムの考えには、善い国家と悪い国家の二元的な区別の見方になるのだ。善い国家は協調的な政策をとり、自分たちから戦争を始めることはないとしている。悪い国家は他国と紛争を起こし、欲しいものに手に入れるためなら軍事力を使うことをいとわないというのだ。
 従って、世界平和を実現するためには、善い国家をつくのだという。悪い国家は、行動にパワーの利害計算がほとんどもたず、他国からパワーを奪いたいという欲望によって行動していくことになるのだ。
 国際関係の安定のカギをつくるのは、国家間の自由な経済交流を可能にするような自由主義的な経済秩序をつくって維持することになるというのだ。このようなリベラルの施策の遂行によって、世界平和を推進とするというのだ。リベラルの考えによって現実的に平和を構築することになったのかという問いをするのだ。
 アメリカ国民は、リアリズムではなく、リベラリズムの楽観主義や道徳主義の態度をとりがちだ。独裁制との戦い、民主制の拡大、自分たちは天使の見方、敵対する相手は悪魔の手先ということになるとリベラル主義はみるが、それで平和がもたらされたのであろうか。
 リベラルのリーダーたちは、戦争を権力闘争ではなくて、正義の戦いというイメージや思想的な側面から訴えるものだとマイシャイマーはいうのだ。つまり、リーダーたちは、恐怖の扇動、戦略的隠蔽、印象操作が重要になってくるというのだ。
 リベラリズムに対して、リアリズムは、大国主義こそが最も激しい戦争を引き起こすとしている。それは、国の内部の性質ではなく、国際政治の構造という国家の対外政策に起因しているとみるのだ。

 そこでは、善い国家と悪い国家という区別はしないことが重要になるのだ。国家間のパワー競争が戦争を引き起こすことになるというのだ。覇権国家となることが戦争の現実とみるのだ。覇権主義に戦争の本質をみるのだ。紛争を増加させるのは、覇権国家の多極システムになるのだ。この見方が、攻撃的現実主義という概念である。
 マイシャイマーの国際間の見方はパワーを求めて大国同士が競争して、国家間はアナキー状況によって、バランス・オブ・パワーの転覆ではなく、防御に現状維持を目指すところの生き残りのパワーを求めると考えるのである。
 パワーを維持するために、大国の究極の目標は、国際システムのなかで唯一の覇権国になるという。大国は、危険な国際システムからの恐怖をもっていることで、自国の安全、自国の生き残りの確立を高くするというのだ。このために、覇権を求めるために攻撃的になってしまうということだ。
 国際システムは、無秩序、秩序の混乱という無政府状態になるものだというのがリアリストの見方だ。国際的システムは、国家の枠組みを超える最高権威がない。大国はある程度、攻撃的な軍事力を持っていると考えるのだ。
 すべての国家は相手が何を考えているかということを知ることができないという。大国は生き残りを最終的目標としているのだ。大国は外の環境を知って、自国の存続を図るという戦略をもつというのだ。

 大国は攻撃的行動や覇権を狙わせるように仕向けるのである。それぞれの国の性格ではなく、国際的システムの構造になるとマイシャイマーはみるのである。
 大国にとって、地域覇権国家になることがもっとも都合がよいのが歴史的に証明されるとみるのだ。その事例に、日本、ドイツ、ソ連などをあげている。この三国は常に征服によって国土を拡大するチャンスを狙い、そのチャンスが現れると常に領土獲得し、攻撃的性質をもって地域覇権を求めてきたというのだ。
 日本は1853年以前は、鎖国政策によって独自の経済体制を2世紀にわたって続けてきた。日本は、1868年の明治維新の改革から西洋諸国の経済や軍事政策を真似て、世界に対抗したのである。
 日本は世界の大国として振る舞うために、最初は朝鮮であった。1980年代には、日本がアジア大陸の大部分を支配し、アジアの覇権を狙っていくようになったというのだ。
 日本の攻撃的態度は第2次世界大戦の敗戦まで続き、常に戦争であった。日本の近代化は侵略戦争の連続であったとみるのだ。領土を拡大して、パワーを得るために、行動の原動力があったのが安全保障への関心であったのだ。
 第2次世界大戦で、日本の敗戦は確実であったが、アメリカにとっての最大の論点は、無条件の降伏をどやって達成させるかであった。大国のアメリカは、アジアの軍事大国である日本の戦争に完全に勝利するために、無条件降伏をさせることだ。アジアの大国であった日本の無条件降伏には、徹底した殺戮の推進が必要であったとみるのだ。
 1945年7月には、5ケ月間にわたり、日本の大都市を焼夷弾の雨を降らせ、一般市民を含めて驚異的な破壊をやったのである。この虐待的な作戦によっても日本政府は無条件の降伏ではなく、日本の独立確保の交渉を考えていたす。
 唯一の外交手段は、日本征服者に多大な犠牲者を思い起こさせることであった。日本の支配者はソ連の和平交渉の仲介を期待していた。ところが、北海道北広島市広島、長崎の原爆投下は、無条件降伏を受け入れざるをえなくなったのだ。原爆投下は日本というアジアの軍事大国を無条件降伏にして、大国の存在を消滅させたのだ。
 核武装をしている大国は、他国に核兵器を持たせないように、核兵器を独占することだ。相手から核兵器によって報復される心配がないからだ。大国にとって、通常兵器と核戦争につながっている。核兵器が生みだす大惨事の恐怖は通常兵力で行われる戦争とは全く異なるのだ。核兵器の恐ろしさは、核戦争にエスカレートしないように政治家を抑制する強烈な圧力になるという。
 核による強力な報復能力は、絶対的な安全を保証するというになるというのだ。この現象はNATOの拡大に対するロシアの核戦争脅迫の姿勢にみられる。ロシアはNATO拡大に断固反対していていたのだ。ミアシャイマーが強調していたように、核兵器は、大国にとっての生き残りのためのものになっていくというのだ。
 ミアシャイマーも指摘しているように、1990年代にソ連アメリカの超大国同士の冷戦終結があったが、アメリカに支配されるNATOの代わりに、ロシアは安全保障協力機構を設立しようと数々の提案をしていたのだ。アメリカはロシアの提案を完全拒否して、NATOの東方拡大をしてきたのだ。

 超大国同士の競争関係が安定した国際秩序を生みだしたが、ソ連を弱体化させて、覇権国家から引き下ろすことがアメリカの必死な戦略であったのだ。バランス・オブ・パワーを無視したことによる大きな代償を支払うことになるとミアシャイマーはみる。
 ところで、NATOのような軍事同盟を重視するようなミアシャイマーの考えではない見方も必要だ。NATOが拡大されて、ロシアにせまっていけば、核戦争の危機は大きくなっていくのである。
 このことは、ウクライナNATO加入申請の宣言は、ロシアを大きく刺激しているのだ。結果的に、ロシアのウクライナへの軍事侵略という国際法を犯してもあえての暴挙を行ったのだ。さらに、NATOに対しての核攻撃の脅しをしているのだ。核戦争の危機が現実にヨーロッパをおそっている現実を直視することが大切だ。
 欧州安全保障協力機構は、北米、欧州、中央アジアの57ケ国が加盟する地域安全保障機構である。経済、環境、人権・人道における安全保障を脅かす要因ということからの包括的な活動だ。NATOの軍事同盟とは別につくられているのだ。
 中国とロシアは大国だ。しかし、超大国アメリカよりはるかに弱いのが、冷戦終了後の現実だ。このことはアメリカは大国と戦うことを恐れず、小国に対して自由に戦争を仕掛けることができるようになったのだ。
 イラク戦争アフガニスタン戦争、リビア戦争などソ連が崩壊したことによって、アメリカは大国政治に興味をもたなくなったとするのだ。しかし、中国の台頭は、この状況をかえつつあるとミアシャイマーーはみるのだ。
 中国が長期的にみて、今日よりもはるかに強力になったときにどうなっていくのか。現状では、アメリカにとって、現状の中国は軍備の面ではるかに劣っており、アメリカのように多くの軍事同盟をもっていない。現在の世界では、世界の覇権国家アメリカと説明されることが多いが、ミアシャイマーからみれば、太平洋や大西洋という距離の遠いところの大国を征服するのは難しく、地域覇権国家としてのアメリカというのだ。
 ミアシャイマー覇権国家論から、アメリカの立場は、ヨーロッパの大国を追い出すことが残っているという。アメリカは征服と拡大をして、地域覇権を確立して、超大国になったが、中国は、すでに広大な国土をもつ国家だ。アメリカと同じように領土拡大をしての地域覇権の必要はないのだ。
 むしろ、経済成長をして、強力になり、周辺国に自分の行動を認めさせるということで、地域覇権国家になっていく。周辺国との国境紛争についても同様の論理で行動することになるのだ。余計なトラブルを避けて経済発展の継続に集中ということである。

 中国は才能を隠して控えめにふるまい、なすべき事は成すということで、激しい言葉を使い、脅しのような声明を使用するのを控えめに必死の努力をしているという。
 中国は急速に発展する経済力や圧倒的な軍事力の増大も周辺国からみれば、防御的ものよりも攻撃なものにみえるのだ。ミアシャイマーは台頭する中国に対して、封じ込め政策が重要であるとするのだ。NATOのような軍事同盟を東アジアでもつくることが必要としている。
 封じ込めは、本質的に防御的なものとミアシャイマーはみるのだ。中国に戦争を起こすものではない。封じ込めに代わる政策として、中国の弱体化をねらう友好国の体制転換をしたり、中国国内でトラブルを起こしたりすることだというのだ。アメリカは、アジアに対して、地理的に遠方にあるために、中国の周辺国は、アメリカに脅威を感じることはないと考えるのだ。
 中国の周辺国は、地域覇権国家になる中国に脅威を感じているとミアシャイマーは思うのである。中国とアメリカは熱心にマーケットというものに信奉しているので、協力的と同時に競争的な関係になるのだ。アメリカ主導の軍事同盟に中国の周辺国はくみしやすいとミアシャイマーはいうのだ。

 しかし、中国には共産主義というイデオロギー以上に、熱狂的なナショナリズムが台頭していることだ。恥辱の歴史をもっている中国にとって、外国の敵として、日本とアメリカにむけられていくとミアシャイマーはみるのだ。
 中国は平和的に台頭できないというのがミアシャイマーの考え方である。中国が平和的台頭の可能性をもつということの儒教的な文化の影響、経済相互依存という見方は幻想にすぎないとミアシャイマーは厳しく批判するのである。
 ミアシャイマーの考えとは別に、東南アジア諸国連合の平和構築から東アジアサミットの枠組みという東アジアの情勢をみることも大切である。中国の平和的台頭は不可能であるというのは、周辺国との新しい平和友好条約との関係で詳細にみていくことが必要だ。周辺国が中国の脅威論からNATOのような軍事同盟を結んでいくのかどうかは難しいのが現実であるとみれる。
 ヨーロッパと東アジアとは、歴史文化も異なり、かかえている地域の紛争状況も異なる。とくに、台湾問題は、国家間の問題ではなく、体制の違う一国二制度の地域問題でもあるのだ。中国が国内にかかえているチベット問題、ウイグル問題は国内の民族問題でもある。ベトナムなどとの国境紛争問題などは、歴史や文化の問題も絡んで、複雑に展開しているのだ。
 さらに、重大なことに、欧米や日本に対する中国恥辱の歴史があるのだ。とくに、日本に対しては、特別の恥辱の歴史があるのである。相手国がどのようにみるのか。日本の犯してきた侵略の近代の歴史から、近隣諸国で最も警戒し、恐れをもっているのは、日本であることを決して見落としてはならないのだ。近隣諸国との信頼関係の絆を深くしていくには、憲法の平和理念を重視して、友好関係のさまざまな国際関係を充実していくことだ。日本の憲法の平和主義と国際協調主義を強く守り、発展させることが大切になっているのだ。
 NATOのような軍事的な枠組みではなく、東南アジア諸国連合のように、中国との関係では国境紛争で矛盾を含みながらも、平和的的な話し合いで問題を解決していことする友好協力条約の役割を決して軽視してはならないのである。
 北東アジアでは、北朝鮮、韓国、日本、ロシア、中国、アメリカを含んだ平和友好条約による話し合いの強固な秩序が求められているのだ。また、日本と中国は、平和友好条約を結び、また、国交正常化の共同声明でも台湾問題についても明確な立場を両国とも合意しているのである。
 日本の憲法の平和主義と協調主義からの話し合いからの「戦争放棄」の流れが世界に広がっていることは、日本の国民として、誇れることだ。日本の歴史や文化を戦前の軍国主義時代のみで考えてはならないのだ。平安時代徳川時代の平和の歴史からもみることが必要だ。日本国憲法の平和の歴史的な文化遺産を継承してつくられたことを十分に認識することが必要だ。
 東南アジア友好協力条約(TAC)は、世界の平和を地域的に確立していくことで大切な動きだ。
 その条約では、1,主権・領土保全等を相互に尊重、2,外圧に拠らずに国家として存在する権利、3,締約国相互での内政不干渉、4,紛争の平和的手段による解決、5,武力による威嚇または行使の放棄、6,締約国間の効果的な協力になっている。
 この条約の締結には、東南アジアの国々が長年にわたり、戦争によって苦しんだことが背景がある。
 米国は南ベトナムに親米独裁政権を打ち立てて、東南アジア諸国の介入を深める。南ベトナムでは米国と独裁政権に対する解放闘争が拡大するのだ。
 米国はベトナム北部への空爆や南部での米軍の投入をして、戦争を拡大していく。こうしたなかで、東南アジア条約機構加盟国のタイとフィリピンの米軍基地などが戦争に巻き込まれていくのだ。
 1967年には、東南アジア諸国連合ASEAN)が結成される。アメリカにおける共産主義恐怖のドミノ現象論からのベトナム侵略戦争であった。そのもとで、東南アジア諸国連合がつくられた。
 ベトナム戦争の激化とベトナム侵略戦争の世界的批判で、ASEANは71年に、「平和・自由・中立地帯宣言」を発表する。74年に4月に米国がベトナム侵略戦争に敗れた。翌76年年2月、ASEANインドネシアのバリ島で、首脳会議を開き、ベトナムなどインドシナ三カ国との友好関係樹立の意思を表明した。
 そして、東南アジア友好協力条約を締結するのだ。2005年から三回、「東アジアにおける平和、安定及び経済的繁栄を促進することを目的とした対話フォーラム」で共同体形成をめざす東アジア首脳会議が開かれ、東南アジア諸国連合以外にAC加入の参加条件をつめていく。
 ASEANは、1987年にTAC加入を域外に開放していく。加入国は03年以降に急増する。03年3月に米国がイラク戦争を強行した時期だ。東アジアは平和の共同が広がっていったのだ。
 東南アジア友好協力条約・TACは欧州連合(EU)に見られる欧州統合を参考につくられた。EUは平和維持を軍事同盟の北大西洋条約機構NATO)に大きく依存している。域外の「脅威」に対し集団的に軍事力を行使することもあるのだ。
 TACは、域外の「脅威」に集団的に軍事力で対応するのではなく、平和的な話し合いで解決していく条約である。戦争放棄を決めた条約の加入国を増やしていくことで平和を実現ということだ。
 加入国が広がるなかで、中国とベトナムは海域の国境問題を残しながらも、陸上国境問題を対話で解決している。インドと中国が数十年にわたる紛争と対立に終止符を打った。インドとパキスタンは領土問題での深刻な対立を平和的に解決しようとしている。  

 東南アジア友好協力条約・TAC加入国は、ASEAN加盟国十カ国のほか、東ティモールパプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、日本、中国、韓国、ロシア、モンゴル、インド、パキスタンバングラデシュスリランカ、フランス。計二十四カ国。人口は三十七億人で、地球人口の57%に達している。
 日本の政権党の有力政治家が、これらの精神を踏みにじる発言がみられることがあるが、日本国内と中国からの批判をあびるのだ。日本国内における憲法の平和主義の見方は大きく崩れることの予想は難しいのだ。歴史は必ずしも平和的に動かないときもあるが、根本的に日本国憲法の平和主義を変えていくのは困難とみられるのだ。
 
(2) ジョン・ミアシャイマー著「なぜリーダーはウソをつくのか」を読んで現代の平和問題を考える

 ミアシャイマーは国際政治に、5つの戦略的なウソが使われるとしている。それは、アナーキー的な世界的な秩序、冷酷な国際政治のなかで生き残りのために国家はウソをつくというのだ。ウソは、騙し、隠蔽、印象操作、恐怖の扇動、ナショナリスト的な神話、リベラル的ウソなどだ。
 国家のリーダーたちの国際政治でウソをつくのは、国益のためという自国の生き残りをの助けるために使うこととである。それは、国家の存続とはほとんど関係なく、リーダーたちの個人的、友人たちの利益のために自己中心的なウソを使用する場合と二通りあるとミアシャイマーは考えたのだ。
 国際政治のなかで使われるウソのなかでもっとも危険なことは、自国民に対して使うウソだ。このウソは、国家の戦力的立場に裏目に出る傾向が高く、さらに、国内の政治や社会的生活を堕落指せる確率が高くなるとミアシャイマーは警告する。
 印象操作はひとつの事実だけを誇大に強調して、自分の都合の悪いことは無視したりして、誇張して、歪曲することによって、真実をつたえないいことだ。また、隠蔽ということで、自分の都合の悪い情報を隠すということも行われるのだ。隠蔽もウソをつくという概念に入るのだ。
 ミアシャイマーは戦争をするためのウソの典型的な事例として、イラク戦争をあげる。戦争の直前に、当時のブッシュ政権がテロ組織の重要人物がアメリカに拘束されて、尋問されたなかで明らかになったという。ビンラディンの関係で、「サダム・フセインアメリカに対抗するために同盟を組むことを考えたが、その後にその考えを改めた」という証言を国民のまえに隠蔽したのだ。
 この証言は、アメリカがイラク戦争を起こす口実が消えるからだ。国民を騙すための隠蔽と印象操作のために利用されたのだ。
 日本における核武装持ち込みの密約は、1969年の冷戦時代に日本とアメリカとの関係の隠蔽である。米軍の駐留費のコストを日本に負担させるという密約があったのだ。これらに、リーダーたちは、日本の国民のためになる隠蔽とみたのだ。このように隠蔽に事実を国民のためにという名目で行ったとミアシャイマーは考えるのだ。
 ミアシャイマーは民主制国家には非民主制国家よりもリーダーたちは議論をするような政策を隠したいと気持ちが大きくあるというのだ。重大な問題が国民の間に明らかになることによって、議論が起きて、リーダーたちの自分の思う真実からの対処政策の実行ができなくなると考えるからだ。隠蔽はいわゆる民主制国家にとって重要な施策になるというのだ。
 民主制は、透明性を高める強力な規範があることで、国民の質問に真剣に答えることが求められるのだ。このために、隠蔽していくことが不可欠になってくるというのだ。
 ミアシャイマーとは別の見方で、ここには、国民に対して、真実に対処することができないという国民に対する愚民感があるのである。
 ミアシャイマーの見方は、戦争遂行に、国民を騙すためには恐怖の扇動というウソが使われるというのだ。政府のなかでは、あまり危機を感じていない国民に対して、脅威を誇張したり、煽ったりすることで、自らの政策を実行しようとすることだ。この方策は、防衛費の増額や国民の軍隊への奨励、徴兵制の施行などに国民の支持を受けるために使われる。
 ミアシャイマーの考える恐怖の扇動は、普段に戦争が起きていない平時のときにリーダーが使う手段だ。また、脅威の誇張は、危険な敵に対して、軍事的な封じ込む政策や戦争を開始する際に、国民の支持を得るために使われるのだ。
 1964年のベトナムにおけるトンキン湾事件がその例としてミアシャイマーはあげている。北ベトナムとの戦争を激化することによって、南ベトナムの問題を解決したという思惑からである。ベトナムの警備船を意図的に攻撃をしたてたというウソを大々的に恐怖の扇動で戦争遂行をしたのだ。
 恐怖の扇動は、イラク攻撃を開始する前に、イラクフセイン大統領がテロ組織と深くかかわり、親密な関係をもっているとした。さらに、生物化学兵器を保持しているという、恐怖の扇動をしたのだ。
 イラク戦争は、テロとの戦争の勝利であるということだった。生物化学兵器の存在も確認できず、後にフセイン大統領は、テロ組織と関係がないこともわかったのだ。しかし、テロ組織の共謀者として、イラク戦争によって殺されたのだ。このことについては、ミアシャイマーは資料をもとになぜリーダーはウソをつくのかで論述しているのだ。
 ミアシャイマーは国家のリーダーたちが国民にウソをつけるのが容易であるとしている。国家のインデリジェンス組織は国家がコントロールしており、国民が入手できない情報を独占している。国民への情報の流れをさまざまなやり方で操作できるのだ。
 ほとんどのひとたちは、国家のリーダーに騙されていくのだ。リーダーたちはウソを隠し通せるからと考えるのだ。
 恐怖の扇動は独裁国家よりも民主制国家の方が高いということをミアシャイマーはのべているのだ。それは、民主制国家では、世論の恩恵をより受けやすい存在になっているということからだ。
 民主国家のリーダーたちは、国民は騙すべき、かれらは事実を正しくみることができないし、真実をあつかえなというのだ。
 限られたエリートは正しく事実を知って、国民を導くことができるという意識をもっているのだ。ネオコン新保守主義)のアーヴィング・クリストルのように、民主制の国民は、危険な敵に直接対峙するよりも宥和政策をとるものということから、国民は真実に対処できないという考えがあるというのだ。また、このような見方は、右派に属さないリップマンの幻の公衆にみられるとミアシャイマーはのべるのです。
 
 (3)サミュエル・ハンチントン著「文明の衝突」を読んで平和を考える

    世界には、さまざまな文明からなり、冷戦後の世界は、文化を生みだす力があり、統合をうながす力があるというハチントンの見方だ。哲学上の仮説、その価値観、社交的な関係、生活習慣、全般的な人生観など著しく異なっている。
 世界各地における宗教の復活は、文明の相違がさらに補強されているのだ。文明によって、政治や経済の発展に大きく差がでてくるのだ。
 東アジアの民主政治制度を確立できないのは、文化の問題ゆえなのだ。イスラム文化も欧米流の民主主義が生まれない。ロシアや東欧の東方正教会の国々における経済、政治の発展は、見通しは定かでない。冷戦後の世界は七つ、あるいは八つの 主要文明がある。世界の文化を西欧と非西欧と二分することは正しくないとみる。
 ハチントンは、国の利益についてのべる。国際問題を左右する支配的な主体としての国家は、軍隊を維持し、外交を展開し、交渉して条約を結びことになる。そして、戦争の遂行を防止し、国際組織をコントロールするというのだ。
 しかし、国の利益は、国内の価値観や社会制度だけではなく、国際的な行動規範や制度によって、形づくられるということを強調するのだ。国家のタイプが変われば利益の定義もかわってくるというのだ。
 文明の観点からのアプローチからは、ロシアとウクライナの文化的、歴史的なつながりが密接なことで、東方政教会に属する両国だ。
 しかし、文明の断層境界線でもあるのだ。国家パラダイムの見方では、断層境界線ということから戦争の可能性があるのだ。文明パラダイムと国家パラダイムは矛盾しているのだ。
 西欧文明以外に、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明が存在するとみるのだ。以上のように、さまざまな文明の存在のなかで、国家があるとハチントンは考えるのだ。
 ハチントンは、東アジアの経済発展は、20世紀後半の世界に展開した最大級のできごとであるとみるのだ。非西欧で日本は経済発展を遂げた唯一の国家であったのだ。例外は日本だけではなく、東アジア全体が非西欧ということで経済発展を遂げたのだ。
 日本は明治維新で強力な改革で、西欧の技術、習慣、制度を学んで、日本の近代化を成し遂げた。その過程で伝統的な自国文化の重要な部分を保とうとしたのだ。伝統的な文化と近代化を結合していたのだ。
 日本は脱亜入欧ということを明治維新で選択したが、20世紀末の日本は、伝統文化の復興ということから脱米入亜ということで、伝統的価値を再認識して、その伝統的価値を主張して、日本のアジア化に努力しているとハンチントンはみるのだ。
 東アジアの成功は、自己利益追求、個人主義ではないとみるのだ。それは、儒教を中心とするアジア文化の価値、秩序、規律、家族への責任、勤勉、集団主義、質素倹約という価値に重きをおくものだ。それらは、東アジア文化の価値とみていくようになっているというのだ。
 世界の文明のなかで、孤立している文明はみられるが、最も重要な孤立国は日本だ。 日本の独特の文化を共有する国はなく、他国に移民した日本人は移民先の文化に同化してしまう。
 日本の文化は高度に排他的で広く支持される可能性のある宗教、イデオロギーを持たない。このために、他の社会の人々と文化的関係を築くことはできないとハンチントンは考えるのだ。日本の国家は、異なる文明を内包していないということで、多くの国で民族、人種、宗教の違いから内部で分裂して紛争を起こすことはないとみるのだ。
 ロシアは文明の断層線の顕著な冷戦時代の共産主義体制というイデオロギーのでソ連体制で統一されていたが、ソ連崩壊によって、お互いに文化がひきつけたり、反発したりして文明の境界線のなかで衝突がみられていくのだ。東方正教会カトリックプロテスタントイスラムなどの宗教的な文明の断層、民族や言語の断層などさまざまな要因で文明の衝突が起きるのだ。
 文明と秩序は、冷戦時代にふたつの超大国によって築かれていたが、冷戦の崩壊後は、アメリカ一国が超大国になったが、世界の安全保障をコントロールすることができない複雑な文明による衝突が起きていくのだ。世界の秩序は文明の中核国による新しい秩序が必要な時代となっていることをハンチントンはのべるのだ。
 ソ連の崩壊によって、西欧の境界をどう定めていくのか。西欧文明ということで、フランスとドイツが中核であったが、すぐ外側の囲んでの国のグループがあるその外側のグループ、さらに、東側のグループ、三段階の連合などが提案もされたが、加盟国と中立国としての非加盟国という線引きをしたのだ。
 ヨーロッパの東の境界線をどこにみるのかが大きな課題となっているのだ。西欧のキリスト教文明と東方正教会イスラムとの境界線をどうひくのか。東欧というのは、歴史的に東方正教会の庇護のもとに発展した地域だ。NATOの拡大に対しても文明の視点が大切としているのだ。
 ウクライナ旧ソ連のなかで人口が最大で重要な国であったのだ。ウクライナの東部は圧倒的に東方正教会系でロシア語を話す。西部は、かつてポーランドリトアニアオーストリア帝国の一部であったことだ。
 そこではウクライナ語を話し、民族主義的傾向が強いのだ。文明論的にはウクライナは分裂国家の要素をもっているハンチントンは強調するのだ。
 ソ連崩壊後にウクライナが独立していくうえで、文明的境界線をもっていたのだ。そして、核兵器をめぐる問題、クリミアの住むロシアの権利、黒海艦隊や経済的な関係の問題があったのだ。ウクライナ人とロシア人は同じスラブ系で大半が東方正教会で何世紀にわたって親密の関係の側面をもっていたが、一方で対立する側面があったのだ。
 人権に対する西欧的な見方と非西欧的な考えの違いがはっきりしたのは、1993年に開かれたウィーンだ。それは開かれた人権に関する国際会議であったのだ。非西欧的な諸国で、ラテンアメリカ諸国、仏教国、儒教国、イスラム諸国が西欧諸国と異なった意見をのべたのだ。
 人権をめぐる普遍主義と文化的相対主義、開発の権利を含む経済的・社会的権利の比較優位性があった。そこでは、政治的・市民的権利、経済的援助に関する政治的条件、国連人権高等弁務官の設置などが議論されたのだ。
 人権問題は、国家と地域の特殊性や、さまざまな歴史的、宗教的、文化的背景を考慮すべきであったのだ。人権擁護を監視することは国家の主権を犯すことがあるというのだ経済援助を人権問題とからめるのは、国と発展の権利にそむくものだという議論があった。これらは、大きな検討課題になっていくのだ。
   東アジアは、多勢力で多文明という性質のため、西ヨーロッパとは異なって、経済面や政治面での相違が明らかなのだ。
 西ヨーロッパは安定した民主制をもち、市場経済を実践して高度な経済発展を実現してきた。東アジア1990年代から急速に経済発展をして、軍事力を拡大できるようになったのだ。対抗意識が前面にでて、この地域に摩擦が起きるようになるのだ。
 とくに、アジアと西欧、とくにアメリカとの間に摩擦が激化し、東アジアにおける伝統的な覇権を中国があらためて主張するようになる。冷戦後の重要な国際的中心の舞台は東アジアになったとハチントンはのべるのだ。東アジアだけでも6つの文明に属する社会があるというのだ。
 それは、日本文明、中華文明、東方正教会文明、仏教文明、イスラム文明、西欧文明だ。ここでは、日本、中国、ロシア、アメリカというのだ。東アジアでは2つの朝鮮と中国での台湾問題があり、多くの国との国境紛争の問題があるのだ。ヨーロッパの過去がアジアの未来になる可能性があるという見方もあるというのだ。
 東アジアの経済成長は、アメリカとの関係も変わっていったと。アジアとアメリカ文明の文化的相違点が表面化するようになっていく。アジアの多数の国にひろがっている儒教的特徴を重視することが求められていると考えるのだ。その見方は、権威、合意の重視、対決をさけて面子を保つという社会だ。そして、個人の利益、自己利益を重視する社会より、地域的権利、社会的権利、自然的循環、自己よ愛他主義という他者を優先するという見方を主張するようになったというのだ。

 日本の経済は西洋の論理では説明できない。西欧の自由市場経済ではない。1994年に細川首相がアメリカからの完成品輸入に数値目標を求めたクリントンの要求を拒絶したのだ。アメリ側に「ノー」を言うことは想像もできなかったとハチントンは書いているのだ。
 1990年代のアメリカのアジアに対する政策は、変わる両者がぶつかり合う分野の問題を切り離して、自らの利点がある分野に問題をかたむけていったのだ。
 世界のなかの西欧は、民族、国民性、宗教、文明に基づくアイデンティティを考える必要があるのだ。このことを理解できなくて、
 非西欧的文明が高まったなかで、政治家は国家の政策、同盟や敵対的関係に建設的なことができないのだ。アメリカのエリートたちはこのことが理解できなかったというのだ。多文明的な経済統合計画を推進したが、無意味であったことになるのだ。  
 西欧文明を世界文明と信じる人々は、西欧の価値観、制度、文化を受け入れるべきだと考えるのだ。それは誤りで、不道徳であり、危険であるというのがハチントンの基本的な見方だ。西欧の帝国主義が非西欧地域に西欧文明を広げていった。
 文化が成熟した西欧は、経済的、人口動態な活力からも世界的になることは難しくなっているのだ。アジアとイスラム文明が自分たちの文明の普遍性を主張していくようになるのだ。西欧の普遍主義は異文明の中核国家と大規模な戦争を招く恐れがあり、極めて危険であるという見方だ。
  異文明間の大規模な戦争を避けるためには、中核国家は他の文明内の衝突に介入につつしむ必要があるのだ。アメリカにとって、なかなか容認できない真里であることは疑いない。他の文明の衝突に中核国が干渉しないということが多文明、多極化する世界にとっての平和のルールなのだ。
 そして、大切なことは、共同調停ルールだ。中核国が互いに交渉して自分たちの文明に属する国家や集団がフォルト・ライン(文明の断層線)戦争を防止、停止することだ。
 第2次世界戦争後の国際機構の大部分は西欧の利益と価値、慣行をもとにつくられたものだ。西欧の力が他の文明に比して衰えていくにしたがい、こうした機構を作り替えて他の文明を配慮した議論が求められているのだ。
 道徳や義務、社会についてのアイデンティティのアジア的な伝統的考え方、より西洋化した個人主義的で自己中心的な人生観、自己よりも社会を土台に位置づけ、社会の基礎をなす家族を支えること、主要な問題点は論争ではなく、合意によって解決する、人種や宗教についての寛容さと調和を尊ぶということは大切な価値になるという主張がアジアのシンガポールから発信されているのだ。
 アメリカの価値観からみれば、地域社会の権利よりも個人の権利をはるかに重視し、表現の自由、意見を戦わせることから生ずる真実、政治参加と競争を重んじ、専門的で賢明なる責任ある統治者を求めて、法の支配を重視するであろう。アジアの価値観を許容、不干渉ルールと共同調停ルールが求められる。加えて、多文化的世界の平和のルールとして、共通した特徴を見いだしていくことが必要ではないかとハンチントンは力説するのだった。
 
まとめ

 ロシアのウクライナへの軍事侵略という不幸な事態が起きている。文明の衝突論からハンチントンは、すでに1996年に、この本を執筆したときに、ロシアとウクライナの戦争への悲劇の可能性を文明の断層線・フォルト・ライン戦争への可能性としてみていたのである。
 西欧の文明が絶対的ではなく、ロシア東方正教会文明との互いの寛容性と話し合いが求められていたのだ。
 西欧的な価値観は、議会制民主主義、自由なる市場経済、個人の自由、人間の尊厳などの近代的な文明社会を形成していくうえで、大きな役割を果たしたことは否定できないことだ。
 しかし、その西欧的文明のなかでも新自由主義のように市場絶対主義の矛盾があらわれて、経済的格差や貧困問題も起きている。西欧の近代化のなかで、帝国主義的な領土の拡大や植民地政策を遂行して、非西欧社会を抑圧してきた歴史も無視できないのだ。植民地では愚民政策を実施、人間を奴隷的状態にあつかって、富を西欧に蓄積していったのだ。
 大国政治の悲劇として、大国は派遣国家を求めていく論理は、戦前の日本における近代化の歴史であったのだ。絶えず、領土拡張を求めての軍事力の増強であったのだ。あらためて、戦後の日本国の出発に憲法で平和的生存権と国際協調主義の見方は重要であるということが覇権国家にならないために必要なことだ。
 また、指導者がウソをつくということは、戦争を促進するためには、必ず生まれてくるということも大切な見方だ。
 民主制国家では、国民から正義の戦争として支持され、国民を戦争に動因させるために、隠蔽、恐怖の扇動、ひとつの事実を誇大化しての印象操作、ナショナリスト的神話などが重要な戦争遂行施策としてある。
 ウソは国民の意識や心をコントロールするために重要な役割を果たすのだ。戦争や危機的な状況に、国家権力 国家は情報を握り、情報操作をできる立場にいるのだ。
 現代は、マスコミも発達して、SNSというスマートホーンを誰でももつ時代だ。デジタル社会のなかでの大衆的な操作は、国家による社会的な意識形成や操作は、一層に容易になっている。
 まさに、監視と操作の社会が生まれているのだ。このなかで、真実を個々が自分の頭で考え、情報が公平になっていくためのマスコミやSNSなどのあり方やその公平なるするための工夫が一層に求められているのだ。