社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

西洋の近代の永久平和論と戦争論


 西洋の近代の永久平和論と戦争論

       神田 嘉延

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 憲法九条の意義を、西洋近代の永久平和論や民主主義統治論、戦争論など人類史的な思想から深めてみることにした。

 晩年のカントは、自由と、平等、博愛の近代フランス大革命の後に、永遠平和のための著書を書いた。それぞれの国が敵対しなように、地球市民法の平和条約の必要性を強調したのであった。このカントの提起は、今もっても極めて重要な課題として、人類全体に突きつけている。

 カントは、統治者の自然的な欲望状態のままでは、戦争が絶えず起きるとする。その戦争の可能性をたちきるのは共和制であり、その体制によって、意識的に平和を考えることが必要であるとみる。そして、平和のためには、諸国連合をつくり、自由の基礎を置かねばならないとする。さらに、それぞれの国が友好のために目的意識的になることの必要性を指摘する。

 ルソーの考える戦争は、個人と個人の関係ではなく、国家と国家の関係であって、個人は人間としてではなく、また市民としてではなく、兵士としてたまたま敵対させられているにすぎない。平和を考えるには国家の問題が重要であるとするである。

 ルソーにとって、自然状態から社会状態の移行は、人間の行為において正義をもって本能に置き換えるとする。それに、人間の行動に欠けていた道徳性をあたえたりする。宣戦という特殊意志は、一般意志ではなく、共同の利益意志でもなく、私的利益の意志であるということが大きな問題であるというのである。

 ロックの統治論での戦争状態は、敵意と破壊の状態であるとみる。戦争は他人の生命を奪う激情的なものではなく、相手の権力を武力で破壊するという平静な行為であるとしている。

 19世紀の初期に戦争論を書いたクラウゼヴィッツは、文明をもった、国民の戦争を理性的行為に還元するのは誤った見方であると指摘する。戦争がいやしくも暴力行為である以上、当然そこには敵対感情も含まれてくる。戦争がどの程度敵対感情に帰着してくるかは、その国の文明度によって決まるのではなく、両国の敵対的関係の重要さ、及びその利害関係の継続期間によって決まるとみる。

 

 (1)カントの永久平和論の特徴

 

 カントは、世界の永遠平和論を1795年に出版した哲学者である。人間の尊厳のために自由、平等、博愛のフランス大革命後のフランスとドイツとの関係のバーゼル平和条約批判の書でもある。カント晩年の71歳のときである。「永遠平和のために」は、人類にとって重要な課題であるとしている。
 敵対関係をなくす普遍的な友好をもたらす地域上の共同の権利である地域市民法の成立の必要性を書いている。バーゼル平和条約という一時的な休戦協定で決して永遠平和に役立つものではないとみた。
 平和とは、一切の敵意が終わることである。平和を実現するための6つの条項をカントは示す。永遠平和は、近代の自由、平等、友愛という人間の尊厳にとって不可欠な要素であるとカントは考えたのである。

 その後の世界の歴史は、列強諸国による帝国主義という世界の領土分割へと進み、多くの発展途上国が植民地になっていき、そのための領土拡張の戦争が行われ、二度の世界大戦が起きるのである。
 第一次世界戦争後に世界は、国際連盟をつくり、63ケ国が署名したパリ不戦条約を結んだが、有効に機能せず、第二次世界戦争を引き起こした。不戦条約の第一条は、国際紛争解決のための戦争の否定と国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言であったが、多くの列強諸国の植民地維持の自衛権侵略戦争、不戦条約違反の制裁戦争などの問題が起きた。


 第二次世界戦争後は、国際連合が生まれた。その設立の趣旨は、「国際平和の実現が大きな目的である。そのために、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によつて確保し」することであった。


 しかし、朝鮮戦争ベトナム戦争中東戦争湾岸戦争アフガニスタン戦争、イラク戦争、外部勢力を含んでのリビア・シリアの内戦など絶え間なく戦争が起き、国連が大きく関与しているのも事実である。
 このような現代的状況のなかで、200年まえの自由、平等、友愛という理念ということと、国際平和という課題を近代のはじまりの人間尊厳ということから、あらためて問う意味は大きい。


 カントは200年前に、将来の戦争の種をまく平和条約は決して、平和条約ではないということからはじまっている。平和条約の名のもとに戦争がいままで準備されたことがいかに多いか。
 永遠平和の第1の条項は、「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、けっして平和条約とみなされてはならない」。「なぜなら、その場合には、それは実はたんある休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである。平和とは一切の敵意が終わることで、永遠という形容詞を平和につけるのは、かえって疑念を起こさせる語の重複とも言える」。
 国家間で敵意関係をなくすことが重要な課題であるとするが、「国家の真の名誉は、どのような手段を用いるせよ、権力の普段の増大にあるとされるから、さきの判定がいかにも形式的で杓子定規に見えるのは当然であろう」とカントはのべる。国家権力の普段の増大を真正面から問題にしていかねばならないのである。とくに、隣接する国家の関係は領土の拡張問題が後を絶つことができないほど、歴史的に戦争の原因をつくりあげてきた。領土の権利の主張は、古くからの大きな問題であるのである。
 現代の敵対関係は、国家関係の敵対ということから、民族間、宗教的な対立、価値観的な対立というように国家を超えての敵対関係が国家間の対立に複雑に関与している。さらに、国家の存続それ自身も、この対立関係から滅亡して、あらたな国家が生まれていくということから、それが、国家間の秩序を超えての敵対関係が同一の宗教観、価値観を有するものに変わって、領土関係を超えての集団的なテロ行為が起きている時代である。
 第2の条項は、「国家は所有物ではない。国家それ自身以外のなにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である。それ自身が幹として自分自身の根をもっている国家を、継ぎ枝として他の国家に接合することは、道徳人格である国家の存在を破棄して、物件にしまうことで、民族についての根源的契約の理念に矛盾する」とカントはのべる。
 民族として国家を統治するのは、身体をそなえたほかの人格によって統治されるのであって、ひとりの統治者が国家を取得するのではない。まさに、国家は民族としての道徳的な人格をもった存在であり、所有物ではないということである。
 領土の権利ということはその大地を所有して、自由に国家の統治者がものとしてあつかっているように見えるのである。独立している国家は、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない」という原理・原則が重要である。
 それぞれの国家に帰属している資源が国家の所有物の獲得合戦になっている。ここには、国際的な経済関係が深く関与して、国家の一部の継承、交換、買収、贈与が他の国家によって取得されている事態が起きている。
 第3の条項は「常備軍はときとともに全廃しなければならない」という原則である。「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺戟となって、たがいに無制限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである」。ときとともに常備軍の全廃をカントは強調しているのである。
 「人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは人間が単なる機会や道具として使用させることと、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう。」
「だが国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまった別の事柄である」。カントは、常備軍として雇われることの人間性の喪失の怖さを指摘しているのである。これと対照的に国民が自発的に祖国を外からの攻撃に対して防衛することとは区別している。
 第4の条項は「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない」。国家の対外紛争にかんして、いかなる国も国債を発行してはならないことは、国家権力がたがいに競う道具を増大していくからである。戦争遂行の危険な国債は人間の本姓に生来そなわっているかにみえる権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の障害となるものであるとカントは警告するのである。
 第5の条項は、「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に暴力をもって干渉してはならない」。「一国家が他国の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである」。「ひとつの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない。その際、その一方に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないであろう」「内部の争いがまだ決定していないのに、外部の力が干渉するのは、病気と格闘しているだけで、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するおので、この干渉自体がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律を危うくするものであろう」。
 この条項は、現代の国際紛争を考えていくうえで、極めて重要な条項である。大国による価値観の判断によって、ほかの国家の体制や統治に暴力をもって干渉が行われているからである。また、国家を超えて聖戦という暴力的な価値観によって、武装集団・機関ではなく一般民衆も含む無差別のテロ行為が起きているのも現実である。
 第6の条項は「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそそのかしたりことが、それにあたる」。
 戦争状態であっても将来は、お互いの国が平和的な関係になることを願うことはいうまでもない。しかし、この将来の平和をつくりあげていくうえで、戦争状態でやってはいけないことをカントは提起しているのである。
 暗殺者や毒殺を雇ったり、降伏条約を破ったり、裏切りをしたりと、戦争状態のなかでも将来の平和の関係をつくりあげていくことが必要なのである。これを破れば、国家間、民族的な信頼関係が失われ、戦争状態が一層に永続して深刻になっていくのである。戦争状態でも平和を締結する志向がなければ殲滅戦になるというのである。
 「これの行為は、卑劣な戦略である。なぜなら、戦争のさなかでも敵の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろうし、敵対行為は殲滅戦にいたるであろう。ところで、戦争は、自然状態において、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき手段にすぎない。またこの状態において両国のいずれも不正な敵と宣言させることはありえない」。

 「殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう。それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない」。*1
 殲滅戦ほど恐ろしい戦争はない。双方が徹底的に殺し合い、滅亡するまで闘うということになる。これは、人類の巨大な墓場になるというのである。

 現代においてもイラク戦争のように、核兵器等の大量破壊兵器があるということで、アメリカ軍をはじめ有志連合が侵攻したが、現実に、フセイン政権は、圧倒的な近代科学兵器のまえに壊滅し、逮捕され、殺されたのであるが、このカントの提起する戦争状態のなかでも将来の平和時のことを考えていく戦略が必要であるということをみることが大切である。現在のイラクでは、イスラム教のスンニ派シーア派クルド人、「IS」という過激派、アメリカ等の有志連合に対する憎しみの連鎖による戦闘が行われている。どのようにしたら双方の信頼を回復して、平和の関係を取り戻していくのかという難題があるのが現実である。

 

(2)カント永遠平和のための三つの確定条件

 

 カントは永遠平和のために三つの確定条項が必要であるとのべる。人間の平和状態は、自然状態でない。むしろ、自然状態は戦争であると考える。人間の自然状態は、たえず敵対行為が生じて、意識的に平和状態は創設しなければならないとカントはみる。第一は、「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」。

 この共和的という意味をカントは、社会の成員は人間として自由であること、すべての成員が共同の立法に従属していること、すべての成員が平等であるということの三つの体制が整備されているということである。


 この体制では戦争をすべきかどうかは国民の賛同が必要となり、国民は戦争のあらゆる苦難を自分自身に背負い込むことに覚悟しなければならない。共和的ではない場合は、戦争は全く慎重さを必要としない世間事である。
 さらに、カントは、共和的体制と民衆的な体制を混同しないために、国家の所有形式が一人による君主制であるか、数人の貴族制であるか、市民社会を形成する集合的な全員であるか。また、統治形態が憲法に基づく共和的であるか、絶対権力をもつ専制的であるか。国民にとって、国家形態よりも法の概念にかなって憲法による統治方式の方が比較にならないほど重要であるとカントはのべる。


 第二の確定条件として、「国際法は、自由な諸国家の連合の基礎におくべきである」。諸民族は自然状態において、隣り合っているだけですでに互いに害しあっている。未開人は、無原則な自由に執着して、法的な強制に従うよりも、絶えず争うことの方を好み、自制的な自由よりも愚かな自由を好む。どの国家も立法する上位の者と、服従する下位の者は矛盾を含んでいる。人間の本性にしなわる邪悪は、諸民族の自由な関係のうちにあからさまにあらわれるとカントは考える。


 多くの民族が一つの国家に吸収されると、ただひとつの民族しか民族しか形成しないことになると矛盾していく。諸民族相互の法を考察し、さまざまな国家を形成すべきで、一つの国家に融合すべきではない。ところが未開人は、無原則な自由に執着して、かれら自身によって制定されるべき法的な強制にしたがうよりも、たえず争いあうことを好み、理性的な自由よりも愚かな自由を好むのである。このことをひどく軽蔑し、粗野で野蛮、人間性の動物的な失墜とみるが、開化した諸民族は、未開国と同じように非難される状態から脱出しようと急ぐが、実はこれに反して、それぞれ国家は、国家の威厳を、まさにどのような外的な法的強制にもしたがっていないことに置いているとカントはのべる。


 国家の威厳という非理性的な法に強制されない外的なものにあるとしているのである。国際法による道徳的理性による係争手段の戦争を処罰し、平和の状態を義務とするが、それは、民族間の平和契約がなければ保障されない。これは、平和連合という特殊な連合がなければならない。永遠平和を好む強力に啓蒙された共和国が形成することができるならば、その共和国が他の諸国家に対して平和連合のかなめの役をすることができるとカントは考えるのである。
 国際法が戦争への権利を正当化する法を含むとすると、こうした国際法の概念は無意味なものになる。理性による限り、未開な自由を捨てて公的な強制に順応して、諸民族合一国家を形成して、国家が地上のあらゆる民族を包括するようにした永遠平和の方策はないのである。


 具体的な適用面では、一つの世界共和国という積極的な理念の代わりに戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが、好戦的な傾向の流れを阻止できるのであるとカントは、世界共和国のための連合の拡大による戦争の防止の策をカントは考えるのである。世界共和国という理念の基に、国家間の連合を拡大して、戦争を阻止していくということである。
 ここでは、国家と国家の戦争はなくなっていくが、文化のことなる異民族間がひとつの国家の連合を形成することによって、内部の矛盾を内包しての連合ということになり、異文化、価値の多様性を国家の連合のなかで認め合っていくという法的な確定と、国家の連合での新たな国民教育が必要になっていくのである。国家の連合をつくっていく国民の個々が異文化を認め合い、価値の多様性をもって、寛容になっていく理性的な人間形成が不可欠なのである。
  第三の確定条項は「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない」。*1
 外国人が他国の土地に踏み入れたときに、その国の人間から敵意をもって扱われることのない権利をもっていることである。外国人は客人の権利ではなく、訪問の権利である。この訪問の権利は、地球上に共同して所有する権利である。商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度に、訪問することは、征服することと同じことを意味することがあった。
 東インドでは、商業支店を設けるという口実に軍隊を導入に、原住民を圧迫し、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄の悪事をもちこんだとカントは指摘する。来航を許したが入国を許さなかった中国と、オランダ人だけを許可して、囚人のように取り扱い、自国民との交際から閉め出した日本と、二つのアジア国の来訪者を試すしくみは大切であったとカントはのべる。
 以上のように、カントは、平和のための確定条件として、1,各国の市民体制は共和的でなければならない。2,国際法は自由な諸国家の連合制に基礎をおく。3,世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならないと三との確定条件を目的意識的につくりあげていくことを提起するのである。
 
(3)ルソーの戦争と平和

 

 ルソーは、社会契約論において、戦争についてのべる。戦争は国家と国家の関係であり、個人の人間としてではなく、兵士として敵対し、武器をおいて降伏したならば個人としての人間にもどる。また、公正なる君主は、戦争によって奪うものは公共の所有であり、個人の人格と財産は奪わないとしている。
 つまり、ルソーの考える戦争は、個人と個人の関係ではなく、国家と国家の関係であって、個人は人間としてはなく、また市民とそいではなく、兵士としてたまたま敵対しているにすぎない。すなわち祖国の一員ではなく、祖国の防衛者として敵対しているにすぎない。
 宣戦は諸国に対する布告というより、諸国の臣民に対する布告である。君主に対して宣戦しないで、臣民から盗んだり、これを殺したり、あるいはこれを拘禁したりした外国人は、それが王であれ、個人であれ、人民であれ、それは敵ではなく、強盗である。交戦の最中でさえ、公正な君主は、敵国において、公共の所有するいっさいのものを奪うが、しかし個人の人格と財産を尊重する。彼は自分の権利の基礎となっている権利を尊重する。 戦争の目的は敵国の破壊にあるから、防衛者が武器を手にしているかぎり、これを殺す権利をもっている。しかしかれらが武器をおいて降伏したならば、ただちに敵もしくは敵の道具ではなくなり、ふたたびたんある個人にもどるのであり、だれもかれらの生命を奪う権利をもたない。*1
 ルソーは戦争の勝利で得た奴隷は不合理で戦争を継続するもので何の意味をもたないとしている。戦争でつくられた奴隷、もしくは征服された人民は強制のもとに主人に服従するだけで、主人に対してまったく何の義務を負わない点をあたしはあげたい。勝者は敗者に対して、力のほかに新たに権威を得たわけではなく、戦争状態は従来どおり両者のあいだに存続しており、両者の関係そのものが戦争状態の結果である。そして、戦争権の行使はいかなる平和条約をも予想しない。勝者と敗者が一つの合意に達したというなら、それはよい。しかし、この合意は戦争状態を打破するものではなく、その継続を予想している。ルソーは、奴隷権は正当ではなく、それは不合理で何の意味をもたないことを以上のように強調しているのである。*2
 ルソーは自然状態から社会状態への移行の重要性を指摘する。「自然状態から社会状態の移行は、人間の行為において正義をもって本能に置き換えたり、それまで人間の行動に欠けていた道徳性をあたえたりすることによって、人間における注意すべき変化をもたらす。義務の叫び声は肉体衝動に、権利は欲望に入れ替わることになり、それまでに自分しか考慮しなかった人間は、違った原則に基づいて行動し、自分の好みに従う前に理性的に図らなければならない。


 人間がこの状態において、自然から受けた多くの利益を失ったとしても、大きな利益を取りもどし、その能力は訓練されて発達し、その思想は広がりを加え、その感情は崇高になる。そして、魂は高められるので、もしこの状態から生ずる弊害のためにしばしば自分の脱出した自然状態より以下に落ちることがないとすれば、人間は自然状態から永久におのれを引き離し、無知な、想像力のない野獣を知性的な存在、人間たらしめるあの幸福な瞬間を、たえず祝福しなければならないであろう」。*1
 「社会状態において得たものには、精神的自由を加えることができよう。精神的自由のみが、人間を真に自己の主人たらしめる。これを加える理由は、単なる欲望の衝動は人間を奴隷状態に落とすものであり、自分の制定した法への服従が自由だからである」。*2
 ルソーは一般意志のみが公共の福祉という国家設立の目的に従って、国家の諸力を指導しうるということである。特殊利益の対立が社会建設に必要とすれば、その建設を可能にしたのは特殊利益の一致である。社会的紐帯を形成するのは、種々の利益のなかにある共通なものである。社会が統治されるのは共同利益に基づいてである。主権は一般意志の行使にほかならないから、集合的な存在である。特殊遺志はその性質上から不公平を、一般意志は平等を志向するとルソーは見るのである。
 また、主権は分割できなというのもルソーの主張である。政治学者は立法権と執行権に分割し、さらに課税権、司法権、宣戦権に分割し、国内行政権と外国との条約締結権に分割する。これらのあらゆる部分を混合してみたり、ときには分離してみたりするが、それは、主権の正確な概念がつくられていないことから生じるのである。
 宣戦と平和締結の行為は主権の行為とみなされてきたが、それは違うのである。これらの行為は法ではなく、単に法の適用にすぎず、法の適用例を決定する特殊な行為にしぎない。

 

 一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向する。人民は常に幸福を望むが、幸福とはなんであるかわかっていないことによって、しばしば欺かれる。一般意志の共同利益を大切にするとことから人民はけっして堕落することはない。決して全体意志と一般意志はしばしば差異がある。一般意志は共同利益に注意しないが、全体意志は私的利益を注意するので、特殊意志の総和にすぎないとルソーは述べる。つまり、宣戦という特殊意志は、公共的な共同利益ではなく、私的な利益という特殊意志による全体の意志である。
 ルソーは人民が事情をよく知って討議するならば、共同利益の一般意志になっていくが、党派の結合の意志は決してそうではなく、国家に対して特殊意志になっていくと問題を次のように提起している。人民が事情をよく知って討議し、多くの小差があってたところで、結果として常に一般意志を生じる。
 しかし、党派が部分結合の政治体という大連合を犠牲につくられると構成員は一般意志になるが、国家にたしては特殊意志となる。識見ある学者は、自分のたちの見解に詭弁を言い過ぎ、調停すべきさまざまな利害関係を害しはしないかと混乱する。
 著書を王にささげ人民からあらゆる権利を奪い、できるかぎり技巧をつくして、その権利を王に与えるあらゆる努力をおしまない。彼らにとって、真理を語ることは本当の道ではない。ルソーは以上のように、真理としての公共的な共同利益の一般意志を重要視するのである。*1
 そして、どういう行政形態をとろうと、すべて法によって、支配される国家をルソーは共和国と呼ぶ。共和国は、公共利益が優位を占め、公共のものごとが重要性をもつ。
 法は本来、社会的結合の条件にすぎない。法に従う人民が、法の制定者でなければならない。社会の条件を規定しうる者は、社会の結合する人々のみである。盲目の群衆は、何が自分たちに利益となるかをめったに知らないために、しばしば何を欲するかわからない。
 法は、一般意志の求める正しい道を人民に教え、特殊意志の誘惑から守る。また、法は、所と時を注視させ、遠い将来の隠された災いの危険をあげてくれる。法を有効に活用するには、目前の感じられる利益の誘惑と法の内容の正しい道を比較させることが必要である。
 公衆がかしこくなると、社会体のなかに悟性と意志の合一があらわれ、その結果、各部分の正確な協力が生じ、最後に、全体の最大の力が発揮される。これが立法者を必要とする理由である。以上のように共和国における盲目からの群衆から、かしこい公衆になるための立法者の意義をルソーは語る。*2


 ところで、ルソーは、度を超えた為政者の贅沢の危険性を指摘する。公共の仕事に私的利益が影響を及ぼすほど危険なことはない。奢侈は祖国を売ってもなお安逸にふけり、虚栄心を満たそうとする。奢侈は、国家からその市民をことごとく奪い去って、ある者を他の者の前に屈服させ、彼らを一人残らず偏見の奴隷とする。このようなわけでモンテスキューは徳政を共和国の原理とみなした。民主制の条件は、徳政なくして存続しえないからである。*3
 
 (4)ロックの統治論における戦争問題

 

 ロックは統治論で戦争の状態について、次のようにのべる。「戦争の状態は敵意と破壊の状態である。したがって、他人の生命を奪うための激情的な性急な意図ではなく、平静で固定した意図を言葉や行動を通じて宣言すれば、そういう意向の宣言を受けた当の相手と戦争の状態に入ることになり、こうして自分の生命を、自分からとらえ去るべき相手の権力に、あるいはその相手のを守ろうとして加担し、相手の言い方を支持する者の権力ににさらすことになる」。
 「他人を自分の絶対的な権力のもとに置こうと企てる者は、そうすることで、その相手と戦争状態に入ることになる。というのは、それは彼の生命を奪おうとという意図の宣言と理解されるべきからである」。「われわれは自然状態と戦争の状態との差異をはっきりさせることができる。両者を混同した人もいたが、両者ははなはだかけ離れたものであることは、ちょうど、平和や善意や相互援助や保全の状態が、敵意や悪意や暴力や相互破壊の状態と互いにかけ離れているのと同じである。人々が理性にしたがって一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上にもたない状態、これこそまさしく自然の状態である。これに対し、他人に暴力を使ったり、そういうもくろみを宣言する者があっても、救助を訴えるべき共通の優越者が事情にいない状態、それが戦争状態である」。*1


 戦争の状態は、敵意と破壊の状態であるとロックは統治論で指摘する。戦争は他人の生命を奪う激情的なものではなく、相手の権力を武力で破壊するという平静な行為であるとしている。戦争状態は社会の自然の状態ではなく、救助を訴えるべき共通の優越者が状況にない、相互の援助のない異常の状態であるとする。戦争によっての征服者が絶対的な権力をもつことをロックは次のように述べる。
 「戦争の状態に入ることによって、みずから生命の権利を放棄した人々の生命に対して、征服者は絶対的な権力をもつ。しかしながら、征服者は、だからといって、彼らの所有物に対する対する権利や資格まで与えられるわけではない。・・・・・どんな戦争においても、暴力と損害とは結びついているのが普通であり、侵略者が戦争をしかけた相手の身体に対して暴力を用いれば、その資産はたいていは傷つけられる。しかし、人を戦争の状態に入らせるのは暴力の使用である。なぜなら暴力によって侵害を始めるにせよ、あるいはまた人目を欺いて危害を加えておいてから、しかも賠償を拒否し、暴力によってそれを押し通そうとするにせよ、戦争はひき起こすのは不正な力の使用だからである」。*2


 戦争は暴力によって生命が脅かされる。そして、財産も破壊される。戦争そのものは、人を殺し、財産も奪い、文化も破壊し、平常時であれば社会的な不正行為そのものである。しかし、戦勝国は、賠償を拒否するのである。
 
(5) クラウゼヴィッツ戦争論

 

 19世紀の初期に戦争論を書いたクラウゼヴィッツは、文明国民の戦争を理性的行為に還元するのは誤った見方である次のように指摘している。
 「文明国民の戦争を政府間の単なる理性的行為に還元し、一切の敵対感情とは無縁のものと考えるほど間違った見方はない。・・・戦争がいやしくも暴力行為である以上、当然そこには敵対感情も含まれてくる。もちろん初めは敵対感情から始まった戦争でなくとも、終局的には多かれ、少なかれ敵対感情に帰着してくる。そして戦争がどの程度敵対感情に帰着してくるかは、その国の文明度によって決まるのではなく、両国の敵対的関係の重要さおよびその利害関係の継続期間によって決まるのである」と敵対感情の深まりは、文明国民であるか、ないかということではなく、利害関係の重要性と継続期間によって決まっていくとしている。


 さらに、戦争は暴力行為であり、その暴力の限度はないということを明確にみている。「戦争とは暴力行為のことであって、その暴力の行使に限度のあろうはずがない。一方が暴力を行使すれば他方も暴力をもって抵抗せざるを得ず、かくて両者の間に生ずる相互作用は概念上どうしても無制限なものにならざるを得ない」。*1
 戦争の目標は、敵を事実上に無抵抗状態においやる武装解除である。領土を占領しても敵が抵抗の意志を放棄しなければ戦争が続いていくのである。敵国民を降伏させない限り戦闘は終結しないということである。国土を制圧しても降伏しない意志ことであれば内発的に抵抗をもち、あるいは、外部の援助を受けて戦争になりうえることもある。戦争とは無制限になる可能性をもっているのである。


 戦争の基本的動機が政治目的があるとクラウゼヴィッツは考える。「戦争の政治目的が打算の重要な要素となる。敵に要求する犠牲が小さければ小さいほど、敵のわれわれに抵抗する力が小さくなる。・・・われわれの政治目的が小さなものあればあるほど、われわれがこれに置く比重も小さなものとなり、必要とあればこの政治目的を断念することもそれだけ容易なものとなる。したがってこのような理由からもわれわれの力を発揮する程度はますます小さなものとなってゆくものである」。*2
 「敵国大衆が曖昧な態度であり敵対のきもなく、かつ両国間の緊張の度が薄ければ薄いほど好都合であり、このような場合、時として政治目的がほとんど決定的に戦争の成り行きをとりきめる場合も生じる」。*3
 戦争とは政治の継続であるとするのがクラウゼヴィッツの見方である。戦争は政治的行動であるだけではなく、一つの政治的手段であり、政治的交渉の継続でもある。戦争のもつ手段は、政治的手段の特異性なのである。「戦争が政治的意図にたとええどれほど強く反作用を及ぼしたにして、その反作用は常に政治的意図に修正を加える以上のことができるはずもないのである。というのは政治的意図は目的であり、戦争はあくまでも手段だからである」。*4

 

えいきゅう クラウゼヴィッツは戦争ということを考えていくうえで、政治の役割が決定に重要であることを述べているのである。どんなに、軍事的なことが政治に影響を与えるとしても政治それ自身の目的、意図が重要であるいうのである。ここに、戦争における政治家の位置があるのである。
 戦争を起こすことも政治のひとつであり、政治のコントロールによっても戦争という手段に訴えない行為が平和を守っていくことになることを見落としてはならない。すでに、クラウゼヴィッツによって、19世紀のはじめに、近代の戦争の意味を政治の手段として見方があったのである。