社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

対話力を育む民主主義教育

対話力を育む民主主義教育

 はじめに

 

 工藤雄一・苫野一徳「子どもたちに民主主義を教えよう」―対立から合意を導く力を育むという本を読んだ感想です。平和に暮らしたいという目標に合意して、暴力に頼らず対話の力によって、対立を解消するのが民主主義の基本です。対話の訓練を、学校教育で実践していることには、敬意を表しながら、本を読みました。

 自律した人たちが積極的に社会参画して、対話を通して平和や公平性を実現していく社会づくりのための教育実践は素晴らしい。対話で合意を導きだすという工藤雄一の提起には、勉強させられました。

 対話力は、個々の国民の日常的なことからが大切です。そして、地域、さらに、国家のレベル、国家間の平和のレベルまであるのです。平和は、国民一人一人が多様な価値観、文化を包摂して、それぞれが自覚し、自律した判断力をもって考える国民運動が大切なのです。それに支えられた国民たちのさまざまな団体、機関による国際的交流運動が不可欠です。これに支えられた政府の外交努力ることが求められているのです。

 民主主義をどのように考えていくのか。これは、大きな課題です。国民選挙の手段による議会制民主主義、個々の住民が参加していく直接民主主義三権分立、情報公開、公聴会など民主主義への多面的なアプローチがあります。

 欧米や日本などのいわゆる先進国といわれる国では、選挙が重視されています。国民の投票率の低下が目立っている現実です。これは、多くの国民が選挙投票にいかないということで、政治的無関心になっていくのか。政治そのものに不信があるのか。選挙による国民の意志で最も高いのは、無投票です。選挙による当選者は、一部の意見に過ぎなくなっているのです。議会での法律制定や政策決定は、多数派によって決定されていくのが多いのです。議会選挙は、多数派による権力の独占ということになるのです。

  選挙期間による国民的な議論や対話などの活動が極めて不十分になっているのが現実です。国会や地方議会でも国民や住民が議員の政策議論についても多くが知られていない。

 マスコミやSNSの役割も絶大です。理性的にではなく、感覚的、情緒的なことで、じっくり政策を思考することも苦手になっている国民も多くなっています。世論操作という側面も大きくなっています。日常の暮らしの場で、それぞれが政策について話し合うことは極めて少なくなっているのが日本の現状です。

 

 1,対話民主主義と平和の現代的課題

 

  欧米諸国は、民主主義国家と独裁・権威主義国家という対立軸で、世界の緊張関係がつくられている現状です。さらに、欧米流の民主主義という価値観の共有化がいわゆる先進国で行われています。そこでは、国家の軍事同盟の強化なども叫ばれています。そして、軍備の大幅な増大も生まれています。とくに、ロシアのウクライナの軍事侵略によって、その動きが活発になっているのです。世界は欧米や日本などが脅威としているロシアや中国ばかりではなく、多くのグローバルサウスといわれる発展途上国の非軍事同盟の国々が多くなっているのです。

 なぜ、どの国も合意できるはずの国連憲章国際紛争の平和的手段の解決ができないのか。国家の平和のための交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関などによる話し合いができないのか。

 そして、例えば、ロシアとウクライナは、戦争になったのか。また、欧米諸国や日本などは、ウクライナの軍事的な支援をするのか。単純に民主主義諸国と独裁・権威主義国家の対立では問題の解決ができないと思います。

 ソ連崩壊後のヨーロッパの安全保障の問題としてのNATOの拡大や欧州安全保障会議の機能不全の問題なども含めて、話し合いが十分に行われてこなかったことを明らかにすることがあったのです。

 つまり、対立する課題の問題の話し合いの掘り下げがされてない。このようなことを素通りして、ウクライナのロシア侵略戦争の軍事的な戦況が大きく報道されている状況です。さらに、日本では、対話によって、平和を考えていく思考方法から大きく後退して、中国とアメリカの対立問題から軍事力強化が独り歩きしています。

 

 2,日本の話し合い文化の見直し

 

  工藤雄一は、日本の民主主義がしっかり根づいていない。対話をしながら利害関係を調整していく社会をつくる経験をしたことがないとしています。民主主義の概念は欧米から輸入したもので日本文化には存在してこなかったという見方です。デモクラシーという欧米の民主主義の概念とアジアの儒教圏に古代からあった武力ではなく、民への仁愛の精神をもって国を治めるという民本主義ということも含めて検討する必要があります。

 日本文化は、対話の精神がないということの歴史的認識は誤っていると思います。戦前の一時期に日本は軍国主義という国家体制をもったことは事実です。日本は伝統的に話し合いの文化をもってきたのが特徴です。また、国を治める者は民への仁愛の精神をもって学問をして人徳を高めていくことを強調してきたのです。

 中世における郷村制など自治組織として農民が話し合って、郷村行政を司ってこと、近世農村になっても領主から年貢取り立ての請負制の連帯責任と村落の自治的機能による寄合が活発に行われていた。

 村の年中行事や共同作業などは、全員参加の自治的な寄合によって、決められていたのです。意見が合わなければ徹底した話し合いによって全員一致の合意形成であった。また、村のなかには、様々な講があったのです。

 お伊勢参り講、霧島参り講などの村の仲間同士の信仰的なお参り行事、頼母子講などの共同体内での金融の貸し借りの話し合いの集まり、念仏講などの信仰的に村人が集まって、祈りや本願寺との組織的連絡網の話し合いなどがあったのです。稲作労働の慣行に対応させての田の神講などの行事とその話し合い、若者組などの会合や集団的な鍛錬など。

 村のなかでは、様々な寄合が伝統的に行われてきた。話し合って、全員で一致すれまで徹底して話し合うことが日本文化の基本です。対話や話し合いによって、合意形成をはかっていくことが民主主義の基本として、考えるのであれば、日本文化こそ、まさに民主主義の文化を伝統的に継承してきたといえるのです。

 日本の伝統的な社会では、寄合が行われてきた。それは、共同体のなかでの文化です。そこでは、共有地や水の管理、防災や疫病のための共同の対策、灌漑用水の広い範囲の共同労働、田植えの近隣での共同労働など同一目的のために話し合ったのです。

 これらは、共同体という枠内での話し合いで、異なる文化での異界での話し合いではなかた。海洋民族として、航海をとおして交易活動をしてきた人々でも違うのです。日本でも農閑期に旅が盛んに行われていたのも事実であった。共同体の枠を超えての人々の交流があったのです。旅は道ずれ、よわ情けということで、旅を通して見知らぬ人々と仲良くなることがあるのです。また、修験道などをとおして、他の世界の情報を得たり、知識を授かったこともあったことを見落としてならないのです。

 政治的な支配機構の朝廷、鎌倉幕府室町幕府江戸幕府というなかでも合議のための会合が行われていた。

 村の寄合のなかでは、村の掟をつくっていったのも大きな特徴です。村の寄合で決められた議定は、村の法律となったのです。村八分は、村の法を破ったものに罰則として課すものです。葬儀や消火活動以外の村人の共同生活以外からはずされるという村八分がされたのです。

 村の議定、村の掟という法は、自分たちの寄合によってつくってきた。そして、その違反者にも村人の寄合によって裁いた。まさに、自分たちで法はつくるものとして、日本の文化は機能してきた。

 ここに、日本の農村の伝統は、自治的な機能を持って存在してきたことを重視する必要があります。これらの機能はどうして、日本の近代過程で崩されていったのか。話し合いの文化の崩壊は、中央集権的な絶対主義的な国家体制というなかでつくられたのです。

 それは、明治以降の欧米の帝国主義や植民地獲得競争という影響のなかで、日本の近代化があったのです。つまり、欧米列強との関係で、日本の軍国主義が形成されてきたことを見落としてはならないのです。

 とくに、日本は、鎖国政策のなかで、外国との貿易港が長崎出島、対馬、北海道釧路に限定されて、また、沖縄を中継基地としての薩摩の交易があったのですが、それは、広範な国民が、海外との関係が意識的に閉ざされた関係であった。

 このことは、明治以降の近代化において、外国との付き合い方が十分に育ってこなかったのです。近隣のアジア諸国との関係は、植民または、植民地されていく状況で、アジア諸国の人々に対する蔑視思想と欧米への劣等意識が形成されていったということです。

 

3,選挙民主主義での衆愚政治と心の教育の問題

 

 苫野一徳も、指摘するようにデモクラシーは、衆愚政治に陥りやすい、指導者に簡単に扇動されたり、感情的になったりすることがあると。そこでは、理性的に判断できなることがあるのです。

 また、議会などで選らばれた党派による多数の専制をいかにして防ぐかということです。議会制民主主義では、それぞれが哲学的価値をもつ自律性や他者を尊重する民主主義が大切になっているのです。まさに、大乗仏教でいう利他主義という概念が大切になるのです。

 それは、布施の心、愛語の心、利行の心、同事の心という他者への発願利正になっていくのです。自分が救われようとすることより、一切を衆生を救うことに努力しようと利他に徹すということが公の政治に求められるのです。

 欧米的には、ヘーゲル流の他者の自由を侵害しないという「自由の相互承認」やルソーの「みんなの意志という一般的意志」ということになるのです。

 「思いやり」「無償の愛」「仲良くしよう」という心の教育では対立は解消しなという苫野や工藤の指摘は大切なことです。現実的に対立する課題があり、多様性のなかで矛盾があって、対立することはいっぱいあるのです。それを共通の目的を見出して合意形成していくことが重要という苫野や工藤の指摘は大いに学ぶべきことです。

 

 4,学校は対話で変わる

 

 学校運営を子どもに託すということで、民主主義を学ぶうえで、その視点を大切にしたという苫野と工藤の問題提起です。とくに、特別活動を学校教育の基本ということから、自律させるための活動、対話を経験させるための活動、自分たちで仕組みをつくる活動としたというのです。

 子ども主体の活動を増やして、対立を乗り越える体験を積んでいくことで、一番に驚くのは教員であったというのです。子どもたちが成長していく姿を教員は実感していくというのです。また、子どもが変われば保護者も変わるということになるのです。