社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

日本とベトナムの交流史から学ぶ共生

 日本とベトナムの交流史から学ぶ共生

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 日本とベトナムの交流史をとおして、共生で生きることを考えて行きたいと思います。日本の近代史では、大東亜共栄圏と称して、アジアへの侵略をして、多くの人びとを苦しめたことがありました。世界との交流で、自分たちの国や民族的な文化を誇りに思うことは大切なことです。
 しかし、それが自国民中心のおごりになって、他民族、他の国家を抑圧してはならないのです。このことは、共生的な人間の交流から逸脱してはならないことを教えています。つまり、慈愛的相互に尊重しあう国際交流は大切なことです。
 日本の歴史は、海上の道によって、様々な異民族との交流がありました。そこでは、さまざまな文化が伝わってきました。日本列島に住む人びとは、自らがそれらを学び創造的に発展させてきたと思います。また、他の地域からやってきて、定住した人たちもいました。

 海は文化の創造にとって歴史的な宝であったのです。日本は島国であるということは、海をとおしての多様な文化が入ってきて、広く開かれた世界をつくってきたのです。

 この海洋の国としての側面をみていくうえで、琉球王朝と南九州は大きな役割をもっていたのです。鹿児島を大航海時代のなかであらためて位置づけして、未来を探る必要もあると思います。古代から中世の交流の歴史をみていくうえで、日本の伝統的文化や固有の経済知恵にとって大切です。そこでは、季節によって動く海流、海風は大きな意味をもっているのです。空の動き、星の観察、季節の海流や風という自然に熟知した海で暮らす人々によって、日本は世界に開かれた大航海の時代があったのです。

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 江戸時代は、鎖国令によって、江戸幕府が交易の独占をはかった。長崎の出島という狭い空間に交易の中心をおき、朝鮮半島からは、対馬藩をとおしての朝鮮特使の文化でした。その他に北海道の釧路のロシアとの窓口、薩摩藩琉球をとおしての交易などがありました。しかし、日本全国の各地の港では、海外との関係は閉鎖したのです。

 このことによって、外国からの交易や文化の交流が幕府の管理のもとに統制されらのです。また、外国との摩擦を回避して、日本の平和を保つことができたことも一面ではあったことを見落としてはならないのです。そして、江戸時代は、国内における地域の特産品の創造、地域の循環的な経済の発展という積極面もありました。
 この時代は、日本の国内で、商品活動が活発に行われて、それぞれの地域ごとに特産品も生まれていったのです。日常的な生活品は、それぞれの地域で自給的に行われていたのです。しかし、幕府の独占的な特定の国との交流は、幕末になって、南から、西から、東から、北からと欧米列強の圧力によって、大きく変化していくのでした。

 鎖国令の歴史によって、日本の国際交流の見方は、島国であるから閉鎖的という観念をもたらしたのです。それは幕府という為政者によって作られたことを見落としてはならないのです。日本は海上の道をとおして、本来的に近隣ばかりではなく、広く、東南アジアまで大航海という開かれていた海洋民族、国民なのです。この意味で、積極的に海外交流をしていた時代の歴史を見直して、日本文化の国際交流の側面を再評価としていくことが必要であるのです。

 

民俗学と神話の世界から

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 柳田国男は、南方からの海上の道に、稲作をもってきた日本人の始祖を求めたのです。中国江南の稲作が海上の道である琉球奄美種子島の島々を経由して、日本列島南の鹿児島にたどり着き、日本各地に伝搬していくというのです。
 神話の世界である古事記において、ニニギノミコトの伝説が南九州の高千穂に降臨したという神話の話があります。ニニギノミコトは稲作をもってきた神様です。田植えの豊作祈願から稲穂を捧げる行事が今でも行われています。田の神は、冬に山の神にもなり、森や水の自然循環の教えが神になって今でも行事として続いているのです。
 また、神話で、山幸彦が兄の釣り針をなくして、兄から責められて浜でなき悲しんで悩んでいたところに、潮路をつかさどる神があらわれ、竹を細かに編み籠の小舟を作って、山幸彦をのせて、海の宮殿に向けて流したという話があります。悩んだときに、海の流れにのって、パラダイスの龍宮に向かったのです。山幸彦は、龍宮で、こころを癒やしたのです。竹の籠の小舟は、現在でもベトナムの中部の漁民が竹籠の細い目止めに牛と椰子の油を混合した小舟を使っているのです。

 

 古代史のベトナムとの交流から

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 古代の日本とベトナムの交流史に出てくる人物では、ベトナムチャンパ王国から日本に招かれた仏哲僧と、遣唐使であったが、中国の唐に留まり、出世して安南の都護府ベトナムの総監にあたる節度使になった阿倍仲麻呂がいます。また、その時に、鑑真は、日本の僧侶たちから強く日本へ招請されたのです。鑑真は、日本仏教の戒律を確立したのです。
 鑑真は、日本への渡航に5度失敗し、6回目の753年に、両目を失うにも屈せず、中国の南方から琉球経由で、南九州の坊津に上陸するのです。そして、太宰府から奈良へむかうのでした。鑑真の来日によって、仏教界がそれ以前に混乱していたのが、戒律の確立によって平穏になっていくのです。
 
  仏哲は、チャンパ王国であった現在のフエの出身です。南インドの僧に学び、師と共に、唐に入り、滞在していた日本僧の招きにより、736年に日本入りしました。大宰府を経て都に入り、大安寺で過ごしています。752年の東大寺大仏開眼法要では舞楽を奉納したのです。仏哲は、舞や林邑楽(仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ)を日本に伝えたのです。それは雅楽の基礎になったとされます。
 阿倍仲麻呂は遣唐(中国)留学生でしたが、唐で科挙に合格し、日本に帰国せずに、「朝衡」と名乗り、唐の朝廷で出世していった。752年衛尉少卿に昇進し、753 年(55歳)に、皇帝の図書館を管理する秘書監、宮門を守衛する兵士を管轄する衛尉卿にまで昇進しました。753年に、藤原清河率いる第12次遣唐使一行の対応に、唐の皇帝玄宗から責任を任せられました。しかし、望郷の念から帰国許可を玄宗に申し出るのです。在唐35年を経過していた仲麻呂は、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図るのです。
 仲麻呂や清河の船は、暴風で、南方に漂流し、安南に漂着。乗船者の一部は同地で盗賊団に襲撃されて死亡しましたが、清河と仲麻呂らは逃れたました。そして、唐の影響下にあった現・ベトナムゲアン省南部・ハティン省に滞在し、2年後の755年に長安に戻っているのです。
 この年、安史の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するが、行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。しかたなく、仲麻呂は清河とともに唐に残ることになるのです。
 さらに、阿倍野仲麻呂は、761 年唐の皇帝から安南節度使としてベトナムの総督を務めました。中国の雲南省ベトナムに居住していた少数民族間の国境問題に関わる紛争の調停に貢献しました。767 年に都で 72 歳の生涯を閉じています。
  
 大航海の朱印船時代

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  鹿児島神宮や加世田の万之瀨川の河川、坊津で、14世紀後半から15世紀にかけてのタイやベトナムの陶器が発見されています。南九州の島津氏が琉球王朝をとおして、交易をやっていたことが考古学の発掘から明らかになっています。琉球王朝チャンパ王国における交易国家の友好関係によって、島津氏の交易も可能であったのです。そして、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、ベトナムの交易活動は活発になるのです。

 南九州では、ベトナム産焼締陶器が、霧島市隼人町鹿児島神宮の宮内地区、南さつま市金峰町花瀬で、出土報告があります。 ベトナム産鉄絵・青花では、霧島市隼人町の菩提遺跡で、鉄絵陶器、南さつま市坊津町の泊浜では、ベトナム産鉄絵と青花の発掘報告があります。泊浜採集のベトナム産鉄絵は底部破片で、鉄絵の花文が描かれています。

 森本朝子氏の編年観によれば14世紀中葉~15世紀初葉、西村昌也・西野範子氏の編年観によれば、14世紀後半に位置付けられます。(南九州出土の東南アジア産陶磁についての一考察著者 橋口 亘より)
 ベトナムは、14・15世紀、鉄絵、青花(染付け)などの北部ベトナム陶磁器の生産・輸出が発展期を迎えます。15世紀中後期には、現在のハイズオン省北部のチューダウ、ゴイなどの窯場で生産されたものとされます。現在、鹿児島県と交流協定を結んでいるハノイ近くの省です。それは、青花を主体とする陶磁器が、ベトナムから世界に輸出されたのです。インドネシアから日本、西は、カイロやイスタンブルにまで。

 ハイズオン産陶磁器の多くは、ハノイ近くのベトナム北部産地からタイビン川水系を下り雲屯経由です。雲屯は単一の港ではなく、ヴァンハイ(雲海)島を中心にトンキン湾の周辺島嶼に分布する港湾・貿易拠点の総称とみられます。16世紀後半から17世紀初頭に、ベトナムの対外貿易相手は、明朝の衰退によって、日本との関係が強くなるのです。

 1592年、秀吉は、交易のための朱印船という許可証を発行しました。軍事的に東アジアにおける海洋交易の独占をねらったのです。朱印船外交は、中部の阮朝と良好な外交関係であったことから実施されました。北部の鄭朝とは、阮朝と対立関係であったため、朱印船制度を利用しなかったのです。
 しかし、北部の鄭朝とのトンキン湾での貿易をしていた商人がいました。彼らは、幕府に働きかけました。しかし、幕府は、鄭朝との貿易を認めなかったのです。

 日本人商人によって、北部のトンキン湾の交易は、絹織物、手工芸品、陶磁器などの交易が盛んになったのです。1600年代の30年間は、日本人商人が支配的になり、オランダの海上貿易や中国人の商人が重要な役割をもっていた。
 鎖国令によって、オランダの東インド会社が、ハノイ(東京・トンキン)から長崎というルートで、日本との交易の担い手になったのです。 

 薩摩・大隅・日向の三州を領有した島津義久は、1581年から多くの琉球渡航する商船に朱印状を発行しています。その後に、島津藩は、活発に明との貿易を琉球をとおして復活していきます。
 九州統一を目指した島津義久は、貿易を積極的に展開して、経済力をつくっていたのです。1587年に、秀吉の10万の進軍によって、島津の九州統一の夢は実現しなかった。朱印船制度は、秀吉が1592年に導入し、家康もそれを継承していくのでした。朱印船制度によって、日本の東南アジアとの交易が活発になっていくのです。

 1609年に薩摩藩琉球への3千名の兵士をのせた軍船団で侵攻したことは、南方の交易を独占しようとしたためです。薩摩の琉球侵攻は幕府の明朝貿易を琉球出合で進めていこうとする意図も含まれ、その同意を幕府からとりつけていたとみられるのです。

 薩摩の琉球侵攻の翌年の1610年に、薩摩藩主の家久と琉球王朝の尚家当主が江戸幕府に上がっています。琉球王朝は、中継貿易によって発展してきたのです。幕府は薩摩に琉球の検地と交易管理権を認めたのです。琉球を中継地として、中国や東南アジアの交易が可能になったのです。

 薩摩の琉球支配権は、東シナ海の交易に琉球王朝を利用するためで、琉球出兵についてもその目的が明確にされているのです。

 薩摩藩琉球侵攻では、王朝や民が潤うことが目的ということで、軍律を厳しく定め、不要な軍事力行使を慎むことの発令をしています。薩摩の琉球管轄権は田畑の検地をしていくが、統治のための15条の掟は、最重要施策である中継貿易の管理であったのです。

 もともと三州を統一し、九州制覇をねらった島津義久とその父親の貴久の時代から琉球渡航の朱印状を出しています。日本の商人による琉球王朝との交易を島津家は管轄をしていたのです。

 根占や山川・坊津は、その重要な港であったのです。島津家にとっての三州統一と九州制覇ということで琉球は重要な交易による経済的基盤の一つであったのです。
 鎖国令が出ても、薩摩藩は、琉球王朝をとおしての交易を独占しようとしたのです。中国の王朝と冊封体制をとっていた琉球王朝は、交易で赤字をかかえていましたが、薩摩藩との交易収入、黒糖等の産業振興によって、財政を支えることができたのです。

 鹿児島の指宿山川町は大航海時代に重要な港であったのです。山川港から朱印船交易をしていた大迫家はその貴重な文書を残しています。いわゆる大迫文書です。そこでは島津家から派遣の権利を譲渡されたばかりではなく、島原の大航海時代に活躍した有馬晴信から下府されたと思われる朱印状もあります。

 大迫家は安南国(ベトナム)との緊密な関係をもっていたとされる将令の印の旗を所有していたのです。この絹の旗は安南国に来れば間違いなく歓待されるという証のものです。(山川町史、371頁から374年、平成12年版参照)
 島津義久の甥の家久は、1616年に北部ベトナムの鄭王朝に交易のための文書を送っているのがみつかっています。鄭王朝との文書のやりとりは文面からそれ以前におこなわれていたとみられます。商船一隻を派遣して、贈り物に渡海することを書いています。

 島津家久の手紙の内容は1616年に安南国の華郡公に商船の派遣と衣類、長剣、弓、硫黄などの贈り物と一緒に渡航するということです。それ以前に、ベトナム華郡公からの手紙の返答になります。
 この時期に、徳川幕府朱印船をとして中部のホンアイに入っています。1635年に朱印船制度廃止によって、東南アジアの日本町はなくなくなります。ベトナムの日本人居住地には、北部のハノイ近くの紅河の港であったフィンエン(オランダや日本人などの外国人居住区)と中部のホンアイ(日本町)にあったのです。
 日本ではベトナム北部のトンキン絹の人気が上流層にありましたので、1635年以降は、平戸のオランダ商館から長崎に移ります。ベトナムでは、北部にオランダ東インド会社が移り、日本とベトナムの貿易を展開していくのです。ここで、実際的な琉球の中継的な役割はどうなっていったのかは興味ある問題です。
 薩摩がトンキン絹、香木、陶器などのベトナム産品を実際に、琉球をとおして行われました。公然でないので日本側から実際資料はよくわからない。ベトナム側の歴史資料から解明できるとおもしろい新しい発見がされると思います。
  

 日本のキリシタンと海外交易活動

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 南島原キリシタン大名であった有馬晴信が手厚いキリスト教の布教に積極的に協力しています。南蛮貿易朱印船貿易を展開した有馬晴信でした。彼は、西洋の文化交流も積極的に行いました。これらは、ポルトガルの世界戦略による交易活動とキリスト教の普及が密接に関係したとみられます。
  朱印船貿易や東南アジアの日本人町に居住する人々にキリスト教信者が多いこともそのことが物語っています。有馬晴信は、龍造寺家との争いで薩摩と手を組み、1584年に勝利しまた。そこには、イエズス会の経済的軍事的支援がありました。彼は、イエズス会との絆を深めてていったのです。

 そして、1599年から1604年にかけて、周囲4キロ、31メートルの断崖に三方、海に囲まれた巨大な城を築くのです。この城は、キリシタン王国をめざし、西洋文化と日本文化の融合をめざしたのでした。
 有馬晴信は、ベトナムのチャンパに渡航したといわれています。大迫家の文書から朱印状が有馬晴信から下府されていたということがわかっています。ベトナムは、薩摩との関係、日本各地の東南アジアと交易をしていた商人など、今後の深い研究が求められます。当時、ベトナムでもイエズス会によってキリスト教の普及がされていく時期でした。

 ベトナムでのキリスト教の普及の拠点は北部の紅河デルタの海岸近くのナムディン省です。チャンパへの渡航イエズス会が仲介しているかわかりませんが、日本の有馬晴信ベトナムチャンパ王国は、香木伽羅の貿易で関係をもっていたのです。有馬晴信は、1612年に幕府の重臣に領土問題で賄賂をしたということで、家康から斬首されます。有馬晴信のつくった城は廃墟になりましたが、天草四郎をはじめ、この城跡に籠城した3万7千人のキリスト教信者等と幕府軍13万人との壮絶な島原・天草乱の戦いがあったのです。
 幕府のキリスト教禁止令は1614年に発令されましたが、日本の宣教師は、極東の活動拠点のマカオに集合するのでした。ベトナムの布教活動をした拠点にマカオがなります。

 ド・ロードは、ヨーロッパにベトナムを紹介した宣教師です。彼は、1623年から20年間マカオベトナムで活動するのでした。ベトナムイエズス会の活動に日本の宣教師の果たした役割も大きなものがありました。
 

 ところで、キリシタンであった和田利左衛門(備前長崎出身)は、1638年にハノイから紅河を下って50キロのフンイエンにオランダ商館の町の建設をし、トンキンの外国人貿易の統括の責任の高官にもなっているのです。

 

長崎の平戸のオランダ商館

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 日本でもオランダ商館が交易活動に大きな役割を果たしましたが、それは17世紀初頭でした。オランダ商館を許可した松浦隆信は、1592年から1637年に生きた肥前平戸藩第3代の当主でした。父によってキリスト教の洗礼をしていました。

 1613年にに幕府の禁教令が出たことで、仏教に改宗しています。母はキリシタン大名大村純忠の娘ソニカです。両親ともキリシタンのもとに育ちました。松浦隆信の時代の平戸は、オランダ・イギリス・中国といった外国との貿易に大変に経済が栄えた時代です。隆信の他界した4年後の1641年に平戸のオランダ商館が閉鎖されています。
 平戸市街の港にオランダ商館倉庫の復元した建物やオランダ商館の関連遺跡があります。1609年にオランダ商館が平戸に設置されましたが、貿易増加によって、1639年に大きな石造倉庫がつくられるのでした。しかし、幕府の鎖国政策によって、1641年に長崎の出島に移転しました。平戸の国際貿易地の役割は消えたのです。
 この時期に、オランダはベトナムのトンキン(東京)に東インド会社の商館を建てているのです。日本との貿易をオランダが重視したのは、日本の銀や金という鉱物資源で、日本側は陶磁器や絹製品の輸入を求めたのです。
 ところで、海上の交易をとおして、航海の安全のための信仰の交流も行われて行きます。媽祖信仰像 女性神、航海安全、安産の信仰として中国南部の沿海地域を中心の民間信仰でした。交易の発達によって、東南アジアから日本にまで、この信仰がもたらされるのです。
 六角井戸は日本の平戸と明の貿易が盛んになったときの明人によって作られた飲料水のための井戸です。明の五峰王直が居を構えた1542年以降につくられたものといわれます。
 中国の海禁政策によって、中国商人は、ベトナムを積極的に利用したのでした。そして、ベトナムから日本の長崎平戸という貿易関係ができていくのでした。中国は伝統的に朝貢貿易という支配・従属関係をとおしての交易で、対等な取引をしたのではなかったのです。
 この時期に中国商人のベトナムをとおしての交易活動により大きく変化していくのでした。大挙して、華僑が東南アジアに移動していく時期です。中国商人の活動によって、ベトナムの現在のハノイのトンキン(東京)から長崎のルートができるのです。このなかで平戸の商人が大いに国際的な交易に活躍するのでした。六角井戸も十六世紀中から十六世紀後半にすでに、中国商人が平戸で活躍していた証です。そして、十七世紀前半には、貿易が大いに栄えるのでした。

 

参考文献 小倉貞男「朱印船時代の日本人中公」新書

 

 東シナ海を支配した倭寇鄭成功

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 倭寇の統領ともいわれた五峰王直は、平戸を拠点に、そこでは2千名の配下をもち、鹿児島の根占にも中継地をもっていました。彼は、東シナ海の貿易路のネットワークをつくり、航海圏を支配していたといわれます。王直の海洋ネットワークを無視して、東シナ海をとおしての貿易は不可能であったといわれるのです。

 王直は、東シナ海を支配する海洋王国をつくり、中国の明皇帝との戦いに挑んでいたのです。1543年に鉄砲の日本伝来になったポルトガル人が漂流して、種子島に着いたとき、種子島の城主に筆談で通訳したのが王直といわれています。

 1549年に鹿児島に来てキリスト教を伝えたフランシスコザビエルも東シナ海洋で交易活動で活躍していたアンジローの案内で上陸しているのです。
 平戸の王直が活躍した浦の町にある老ソテツは、オランダ、イギリスと貿易が盛んな頃に川崎屋の全盛期のときに植えられたものであるとされています。この周辺には、多くの日本の貿易商が軒を構えていたということです。

 
 ところで、東シナ海の海賊といわれた鄭成功は(鄭芝龍てい・しりゅう)は平戸で日本人女性との間で生まれた人物です。中国の南の海岸を中心に商業と軍事力をもっていました。かれは、海賊を率いただけでなく、オランダ東インド会社が関与したのです。

 鄭成功の活動を統治をできない福建当局は、1628年に彼を提督に任命しました。鄭成功は、その地位を利用して、福建に独占的支配の基盤を確立したのです。鄭成功はアモイなど福建の港から、生糸を中心とする中国産品を日本へ輸出して、日本銀を輸入しました。日本銀は中国・台湾産品の支払いに用いられています。日本製の刀や甲冑などの武具を華人商人から東南アジア各地へもたらした。

 明朝から中国の王朝となった清は、明朝政権で沿岸地域を支配していた鄭成功を滅ぼそうとした。清朝政権は、海外貿易に通じた鄭氏政権が日本をはじめとする海外勢力と連携することを危惧したのです。

 そこで清王朝は、1661年に沿海住民を強制移住させ、沿岸を無人地帯にしました。鄭成功は新たな拠点を求めて台湾に侵攻したのです。台湾からは、オランダを駆逐し、独立を果たしました。台湾では、行政を整備するために府県をおいたり、法律をつくり、開墾して農地を増やしましたのです。

 鄭氏政権は台湾を拠点として長崎と東南アジアの間で貿易を続けましたが、銀の供給源が絶たれ、一時は和睦の道を探すが、清朝との戦いに敗れるのでした。

 鄭成功記念館が彼の生まれた平戸市川内の漁港街にあります。一七世紀初頭の東アジア情勢は、オランダやイギリスなどのヨーロッパ諸国と中国国内での明朝から清朝への戦いの移行期です。明朝や清朝による海禁政策による貿易の厳しい制限がありました。日本の朱印船による民間商人による東アジアへの貿易の活発化という様々な国際的な勢力がぶつかり合う時代でした。

 

ベトナムの独立のために日本へ留学ー ファン・ボイ・チャウとドンズー運動

 

  ベトナムの独立のために日本へ留学ー ファン・ボイ・チャウとドンズー運動を現代に評価することは、日本とベトナムの友好発展にとって大切なことです。1905年から1909年にかけて、トンズー運動がありました。これは、ファン・ボイ・チャウを中心に、過酷なフランス植民地支配からベトナムの独立を勝ち取るために日本への留学運動です。

 この留学運動には、当初、大隈重信、犬飼毅、柏原文太郎の有力政治家なども協力しました。1907年の日仏協約によって日本政府は、一転してドンズー運動を弾圧するのでした。フランスは植民地政策として、徹底した愚民政策をとり、日本への青年達の留学を取り締まるように日本政府に要請したのです。
 現在、ベトナムから多くの留学生や技能実習研修生が日本に来ていますが、ファン・ボイ・チャウの時代の精神は現在でも大切です。ファン・ボイ・チャウホーチミンの父は、同郷で親しい友人で、共に漢学者でベトナムの解放を考えていた人です。同時期に、民主共制を唱えたファン・チュー・チンも日本に渡っています。トンズ-運動(東方に学べ)として、多くのベトナムの独立を求める若者が日本に渡っているのです。