ドーナツ経済と人間性を育む
ドーナツ経済学は、イギリスのオックスフォード大学のケイト・ラワースが2011年に提唱した新しい概念です。ケイト・ラワーズ著「ドーナツ経済」原書出版2017年、翻訳黒輪篤嗣・河出出版(2018年)
経済学に、ドーナツを例えて考えようとする見方をどのように想像しますか。ドーナツは、甘い揚げ菓子でうちがわはふんわりしたケーキのようで、形状は、リング状で真ん中が大きく開いていますが、内側に社会的な生活土台を考えています。内側の社会的土台の壁から落ちて、飢餓や非識字の危険な窮乏になるというのです。
外側の壁は、気候変動などの環境の上限を示して、それを超えていけば生命の危険になっていくというのです。ドーナツの二本輪に挟まれた甘い本体が、人間が生きている世界というのです。
21世紀に生きる新しい経済学の視点
21世紀の経済学は、ドーナツにたとえ、GDPという経済成長や需要供給という均衡論からは、全く別の新しい経済思考の目標をもっていくことが大切とするのです。その思考には、7つの視点を提言しています。
第1は、限りある地球上の資源のなかで、すべての人々が人間的な生活を営めるようにする目標からです。これは、GDPという目標よりもはるかに大きな目標だといいます。
第2に、経済は、社会や自然のなかにあるものとして、太陽からエネルギーを得ているという見方です。このように、新しい全体像からみることを求めています。
第3は、人間性を育むということで、合理的な効率論の人間力ということではなく、人間は社会的に互いに頼りあって、生命に依存して、安全で公正な範囲内で生きる人間性を育む重要性を強調しているのです。
第4は、システムに精通するこというのです。機械的な需要と供給という均衡論からではなく、金融市場、経済格差、気候変動臨界などダイナミックな複雑性の要素を考えてのシステムの精通です。
第5は、経済成長によって、経済格差が拡大して、そして、やがて縮小に転じていくという成長と分配というクズネッツ曲線の論理ではない。その論理から抜本的に考え直して、土地や企業、技術、知識という金銭を産み出す力の再分配を社会的に共同していくことを提案しているのです。
第6は、環境再生を創造するということです。ここでも成長と分配ということからの環境の軽減というクズネッツ曲線がありました。21世紀型の環境再生の創造は、循環型で、地球の生命環境循環という人類復帰の設計です。
第7は、成長にこだわらない、新しい繁栄をもたらす経済の設計です。GDPの成長に盲進するのではなく、循環的で、自然と共生していくものです。それは、人類繁栄を設計する21世紀型経済学だというのです。
この7つの視点は、自然と共生して、循環的で、持続性をもって、新しい人間らしい暮らしを豊かにしていくものです。この結果は新しい形で自由と平等性をもたらしていくというのです。このような大きな視点を提供しているのです。 7つの視点から、現代社会の孤立した競争社会からの自然循環の共生と相互扶助をもつ社会の形成です。まさに、人類史的な未来設計の新しい経済学というのです。
ところで、7つの視点の実行していくには、国家との財政政策、公平なる再分配方式としての税の徴収方法や収支のあり方、社会保障制度、社会保険制度、法的制度、行政制度、経済の民主主義的社会的ルールとしての法律の役割、公営企業のあり方などをみていくことが必要です。それらとの関係で7つの視点の提言が活かされていくのです。また、中央銀行施策など金融機関も重要な意味をもっています。
ドーナツ経済の7つの視点を実行していくためには、経済と政治の関係は強くあることを見落としてはならないのです。行政や企業の組織が巨大化することによっての官僚制の問題が大きく生まれています。ここでの様々な形の参加民主主義の課題を抜きに、7つの視点の課題遂行は進んでいかないのです。
現実の新自由主義的な国家政策では、社会保障政策や公共的な役割を財政的に削減したり、切り捨てていくのですが、その政策の実行において、財政誘導政策と結んでいきます。一律的に削減、縮小ということではなく、さまざまな権力維持のための誘導を、奨励施策補助金の公募方式や国の原発などの事業施策での交付金の財政施策を各省庁と連携で行っていくのです。これらは、強大化した財政予算のなかでみることができます。単純に、社会保障政策や過疎化した地域政策を削減していくのではないのです。新自由主義施策は一方でアメの権力維持のための施策をもって、全体的に民営化を進めていくのです。
格差と貧困化、雇用の不安定化のなかで生きている多くの人々は、現実に個々が孤立した状況があります。ここでは、目先の金銭的なぶら下がりの公募方式に典型にみるような競争も起きるのです。力の強いものに対する忖度もはびこっていくのです。
現実に、金銭的な保障がなければ人間的な暮らしができない人々が数多くいるのも事実です。支え合いの社会の形成は、公平を求めての人々の社会的な運動によって実現していくのです。
支え合いの社会ということから豊かな生活を充実していくには、地域レベルの役割が需要です。7つの視点から市場を考えていくうで、自治体、公営企業、コモンズという見方、協同組合、社会福祉法人、公益財団法人、一般社団法人、NPOなどの社会的セクター、公的なセクターを考えていくことが必要です。それらが、営利的な民間的セクターとの関係も踏まえてみていくことが必要です。
とくに、自治体としての公営企業における水道事業、工業用水事業、下水道事業、病院事業、交通事業、ガス事業、電気事業、中央卸売市場事業、宅地造成事業、観光施設事業、駐車事業など、それぞれの自治体に即して、多様な分野で行われているのです。これらは、民間事業との重なりあいがあり、民営化の大きな議論になるところです。また、低所得者の生存権保障としての公営住宅は極めて大切で、その整備は国民の文化的生活向上にとって不可欠ですが、その役割も自治体がもっているものです。さらに、重大なことは、最も公的な役割の教育や子育ての支援が民営化のなかで、競争の論理にまきこまれているのです。
人間性を育む
K・ラワースは、合理的経済人から社会的適応人の人間性を育むことを強調しています。21世紀の人間像は、第1に利己的なことから、社会的であり、報恩行動を特徴とするのです。第2に、好みを固定されるのではなく、たえず何に価値を見いだすのかと流動的にしていくというのです。
第3には、孤立しているのではなく、依存し合っていることです。第4に、計算高いということよりも、おおざっぱであることです。第5に、人間が自然を支配していることでは間違いという認識です。それは、生命の網のなかに深く自然がかかわっているという認識です。この5つの人間性の育みを問題提起するのです。
利己的な人間像は、アダムスミスが指摘した市場論以来、市場擁護の経済学者が言われてきたきたことです。しかし、アダムスミスは道徳感情論で、人間のもっている親切さ、公正さ、寛大さ、公共心、他者への助けをもつ資質ということです。それは、人間のもつ大切な資質としていたことをK・ラワースはのべるのです。
人間は利己心のみで動くものではないということです。しかし、ミル以降の経済功利主義者たちは、人間行動の富を欲することに関心を寄せ、効用を最大限にして、消費の満足度の計算をしていくのです。GDP成長をめざす経済学は、物欲、いい生活の必要ということです。都市では、消費文化が栄えやすく、人々の多くのニーズを満たされやすくなるというのです。
現代社会における弱肉強食の市場社会において、その矛盾の社会運動からの人間的な助け合い、相互扶助、報恩の精神的自覚が生まれていくということが大切なのです。孤立した自然状態では、その認識は生まれてこないのです。このことをよく考えてK・ラワーズの問題の提起をみていくことが求められるのです。
K・ラワーズは、人間は市場での取引をみるのではなく、人間は与えたり、分け合ったり、恩を返したりという性向をもっていると指摘するのです。21世紀経済の目標のコンパスは、GDP成長を脇において、人類の繁栄はなにかということを根本的に考えることだとしているのです。
その答えは、すべての人が尊厳をもち、機会を与えられ、コミュニティのなかで暮らせる世界、地域の限られた資源のなかで持続可能性をもって暮らしていけることだと。つまり、ドーナツのなかで生きるということを強調しているのです。その社会的土台は、人類の福祉、食糧や教育や住居などの生活に不可欠なものを平等に与えられ、生命を育む地球の負荷が限界に超えないようにすべきとしているのです。
森林保護の重要性
地球に負荷の限界を超えないということが大切です。その事例では、森林の保護の重要性を指摘します。山の斜面から樹木が伐採されたら、生物多様性の喪失が加速させ、水の循環を妨げるのです。そして、広大な山の斜面での森林伐採は、気候変動を悪化させ、残った森林に負荷をかけるというのです。
また、そこでは、森の減少と水不足のために周辺の村落では病気が広まり、農作物の収穫が減るのです。逆に、山の斜面の森を育てれば、生物多様性が増し、土地の保水力が高まり、大気中の二酸化炭素も減ることになるとみるのです。
日本のように、雨が多く、傾斜地の激しいところを各地にかかえるところでは、森林は、防災機能として大きな役割を果たしているのです。砂防工事ということで、コンクリート工事が急傾斜の山林沿いの道路や施設・建物で実施されています。日本では、その工事を積極的に数多く行われています。森林の防災機能を積極的に評価して、自然を考慮して、自然に負荷をかけない道路の計画も大切なのです。
水田の役割も防災的な機能をもっているのです。山間地帯の水田稲作の役割は、自然にやさしい循環的な農業でもあるのです。伝統的に、日本の水田と里山や奥山という森林をもっていたのです。その農村社会では、自然循環的な生産と社会がつくられていたのです。
短期的にみるGDP経済成長の世界では、これらの自然循環的に地球に負荷をかけない循環経済の価値がみえないのです。自然循環的な繁栄は、安全と公正の範囲内での動的な均衡に向かうドーナツ経済になるのです。日本の農村社会は、ある意味ではドーナツ経済を続けてきたということになります。
21世紀の不平等の拡大
21世紀に入り、不平等の拡大により人々の怒りが世界に的に噴出しているとK・ラワースはみます。再分配の機能が重要性をもっていることになるのです。国の再配分の機能は、1,累進所得税と所得移転、2,最低賃金などの労働市場の保護、3,医療費や教育、公営住宅などの公共サービスの提供ということになります。
新自由主義者は次のように三つの機能の保障は難しいとのべます。かれらは、80年以降、所得税を引き上げたら高額賃金者の労働意欲を下げるというのです。また、生活保護費を増やしたら低賃金労働者の働く気持ちを奪うと考えています。
さらに、教育や皆保険、住宅サービスには国の大きな支出になると、その充実に反対するだけではなく、縮小または切り捨てをしてきたのです。新自由主義者は、この機能の充実は財政危機になるというのです。そして、国民の依存心をつよめ経済的に大きなマイナスになるとみるのです。現在の21世紀の新自由主義機能は、さまざまな理由をつけて三つの機能を実現に反対するのです。K・ラワースは、市場社会で矛盾することを解決しようとした三つの機能を新自由主義者の考えで、実現してこなたったと指摘するのです。
ところで、分配を設計する考えで、K・ラワーズは、様々な問題提起をします。土地は誰のもの、お金を生みだすのは誰、労働は誰のものか、ロボットは誰のもの、アイディアは誰のものと質問を投げかけます。
土地は、市場、コモンズ、国家ということから人と場所によって三つの最良の組み合わせによって取り組んでいくことが大切とします。お金は、中央銀行の役割が国家主導の地域社会に根ざした再生可能エネルギー、環境保護のインフラ整備など国民のための量的緩和が求められます。また、長期的な視野から豊かな暮らしを保障する地域通貨の発行などのひとつのアイデアとして提起します。このアイデアは、すでにいくつかの実践事例があると、その取り組みを紹介しています。
社会の利益を考える労働は、従業員所有の企業や組合員所有の協同組合などによる労働のあり方を再設計する必要性を提起します。ロボットは、人間の役割を奪っていきますが、しかし、分配の設計に再生可能なネルギーの利用に課税することができます。しして、創造性や共感、洞察、人間同士の交流など、国家の財政からロボットよりもはるかにすぐれている分野への投資を増やしていく設計が必要とするのです。
デジタル革命で、共同で知識を創造する時代が幕開けました。それは、富の所有を分散させる潜在力をもてつことになったのです。国の支援によって、その潜在力を発揮できるという知識のコモンズの形成ができる時代の到来です。
ここでは、社会的企業や問題解決、コラボレーションを学校や大学で教えることによって、次の世代に継承されていくのです。公的資金で行われた研究成果は、公共の知識として利用できるというのです。
不平等の社会では、経済成長が鈍ってしうというのが、K・ラワーズの見方です。多くの人の潜在的な能力が無駄にされるからだというのです。教師や、市場のトレード、看護師、実業家は大切な役割をします。現実に、コミュニティの富と福祉に積極的に貢献できる人たちが、家庭のぎりぎりの生活に必死で働かねばならない状況があります。最貧困層の家庭がお金がなければ生活必需品を買えないのです。労働者は必需品を提供する仕事を失うことがあるのです。これらの現実では、市場の活性化を停滞させるというのです。まさに、不平等社会は、経済成長は鈍くして、脆弱にさせるとK・ラワーズはのべるのです。
21世紀の経済学は、不平等を解消するため、所得の再分配だけに目をむけてきた。それだけではなく、市場とコモンズ、国家を活用して、土地の支配する力、貨幣の信用の創造、企業、技術、知識の分配的機能を創造することが重要であるとするのです。
21世紀の人間像を育むうえで、現実の市場社会のなかで生きていることを直視していくことが大切です。K・ラワースがのべるように人間は、複雑性をもっていて、利己的で功利主義で生きているのではないという認識は重要です。
人間は、孤立ではなく、相互依存社会的でなかで生きているのです。その認識は極めて大切なのです。この認識をどのようにして、形成していくかは、弱肉強食の競争社会で人々がとかく孤立していくなかで、どのようにして、認識を形成していくかは、さまざまな工夫が必要になっています。人間性を育むという中心的な取り組みとして、積極的に位置づけていくことが必要なのです。
20世紀の近代化は、市場の発展のなかで、格差と環境問題に悩まされたのです。そのなかで、格差の解消、差別や偏見の根絶経済的な平等、社会保障の確立、人々の教育の充実などが社会運動として起きて、様々な形で社会権が確立していったのです。市場に対しての自由と民主主義の発展です。
新自由主義がはびこっているなかで、この市場に対する自由と民主主義の充実を見直しなら、また、国家の税制・社会保険や社会保障・福祉の再分配機能、分配や環境保護においての教育役割での問題点も再検討しながら、K・ラワーズの問題提起を深めていくことが求められます。
人々の経済の行動意欲と金銭
人々の経済的行動意欲は、金銭的なことできまるのですかと、K・ラワースは問題提起をします。社会や環境の問題を解決していくのは、金銭的なことではないと強調します。むしろ、お金ということで、報恩、相互依存、生命網で生きるという人間性の動機が失われていくことがあるのかではないかと人間にとっての本質的なことの考えを提起するのです。
このようにK・ラワースは考えます。お金が介在しますと、生徒の自尊心や親の社会的に責任などの社会的規範が損なわれるということをコロンビアの首都ボコダの教育実践で体験したということです。
市場、報酬、価格、評価などが人間の行動にどう影響するのかという行動経済学の視点も重要とするのです。お金を介在させると長期的な森林保護という生命の世界に対する畏敬の念が著しく低下するというのです。
さまざまな環境保護という公共の領域に金銭的なことを持ち込むと危険が伴うというのです。所得が低くとも社会資本が豊かなコミュニティでは、社会規範が活性化していくおとをウガンダの農村医療の改善で体験したというのです。
農村医療を改善する研究者たちは、村民達が求める医療水準を記した契約書を自分達で作成させ、診療所の業務点検する仕組みを設け、毎月、結果を村の公共掲示板に掲載するのでした。村民達が算して、公の説明責任を伴った社会契約です。この結果は、人間のもっている根底的な規範や価値観、義務や敬意、心遣いなどが呼び覚まされて、環境に配慮した人間的な社会規範の行動になるというのです。
K・ラワースの問題提起は、農村に共同体的なコミュニティが残っていて、相互扶助の関係が存在しているなかでの実践です。経済的に物資的な貧しさがあるが、人間的な文化や精神が存在しているということでの実践であるということを認識しておくことが必要です。弱肉強食の競争社会で格差、差別と偏見、孤立した社会、著しく分業化した社会のなかでは、相互扶助の人間的な連帯の精神を取り戻していく運動が重要なのです。これらには、労働組合運動、市民運動、協同組合運動などによっての連帯的な精神の認識の高まりが重要なのです。個々の次元では、厳しい生活が強いられている状況では、目先の金銭が重要になっていく現実があるのです。それなしに、K・ラワースの問題提起は活きていかないのです。
相互依存の人間から経済を考える
市場に対応しての弱肉強食のなかでは、孤立した存在でして人間をみがちです。負け組と勝ち組は結果として生まれます。負け組は、努力が足りないということで、自己責任を痛感するのです。
この意識のなかでは、社会全体に少数の勝ち組と多数の負け組という分断社会になっていくのです。勝ち組は、尊大になり、地域や名誉を誇らしく、威厳をみせるのです。ここでは、相互依存のなかで生きていることが理解できないのです。自己の努力によって、合理的な功利主義、能力主義のなかで成功したとするのです。
K・ラワーズは,合理的経済人を孤立した人間として描くことは、経済をモデル化するうえで大変に都合がよかったと考えるのです。経済学者はこれまで、商品の相対的値段を変えることで、人々の行動を変えようとしたのです。砂糖に税を課すのも、太陽光パネルを安く買えるようにするのです。
しかし、結果は、価格操作では結果が期待したように得られないのです。社会的つながりの効果がはるかに大きな効果を生むのです。社会規範に従い、周囲の人々と相互依存していくことによって、効果を得ていくとK・ラワーズは強調するのです。
人間はけっして計算高く合理的に行動しません。経済行動には合理的な思考を妨げる認知バイアスがあるというのです。合理的人間というよりも非合理な直感的な人間として行動する側面があることを忘れてはならないと考えるのです。
人間はリスクを理解することに根本的に無力です。たえずつつかれる必要があるとするのです。複雑なテクノロジーに生きている21世紀において、予期せぬことが起きるのです。
予期せぬリスクにとって、大切なことは、官僚とか法律とかよりも精通した市民であると。経験則に従って、リスクに精通することであるとみるのです。医師や判事、学童にも経験をとおしての統計学的な思考方法を身につけることが重要とするのです。
環境再生を創造する
経済成長絶対主義者は、経済成長によって、経済的余裕が生まれ、環境に配慮した技術を使う余裕がうまれていくというのです。この結果、高い環境基準がもち、製造業からサービス業に移り、煙突がコールセンターにとって代わるというのです。
現実は、市民達のはじめからのきれいな水と空気を求める気持ちと能力があったのです。自然環境がよく保たれているのは、所得がよく分配されている国、識字率が高い国、公民権や政治的権利が尊重されている国です。水や空気を守るのは、経済成長ではなく、一般の市民であることをK・ラワースは強調するのです。
産業が取り、作り、使い、失うという非環境再生産な直線的な設計に基づいている限り環境問題は解決することができないという認識です。自然を模範、基準、助言とみなすことが、生命の循環的なプロセスを学ぶことができるのです。工業生産は、循環型経済の通じて、非生産的な設計から環境再生産へと大きな変貌を遂げていくのです。非環境再生的な産業では、価値はお金で計られ、コストの最小限と売り上げの最大化を追求するのです。その結果が、資源の一直線の流れになるのです。循環型経済という価値に対する新しい価値の理解です。生命なくして富はないという見方です。
都市周辺のおしみない生態系の重視です。森や湿地、草原などです。太陽エネルギーを利用して、二酸化炭素を吸収して、雨水を保ち、土壌に栄養を与え、空気をきれいにすることです。都市を建設するうえでの大きな基準は、循環型経済の形成です。都市の屋根では、農作物を育て、太陽エネルギーを集めたり、野生生物の憩いの場になったりすることです。都市が豪雨を吸収して、ゆっくり帯水層に放出する舗装路であったり熱を吸収したりすることです。
循環型経済の可能性は無限です。世界中のイノベーション、設計者、活動家からなるネットワークで、知識のコモンズを築くことで、無限の可能性をもつというのです。