社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

安藤昌益の互生論(異質を対等に相互依存関係に)

安藤昌益の互生論(異質を対等に相互依存関係に)

 

 はじめに

 安藤昌益は、1703年に生まれ、1762年没である。江戸の中期に、社会の平等論、環境保全論、武器全廃の平和論、直耕という労働価値の絶対性をのべた先駆的な思想家である。

 15歳のときに禅宗の修行僧として入門し、10数年の修行によって僧の資格を得るが、その後、僧では人々を救うことができないと医学の修業をする。42歳のときに東北の八戸で医療と学問塾を開く。その頃は、東北地方でイノシシの異常発生によって、作物が食べられ、イノシシ饑饉が起きていた時期である。

 安藤昌益は自然を観察して、生態系の破壊原因が江戸での絹織物の贅沢が、関東大豆が養蚕に変わり、大豆畑は、東北の山村での焼き畑開墾になる。それが、従前の生態系を破壊して、イノシシの異常の発生になったことを証明する。このようななかから贅沢になった武士の世を批判する。

 イノシシの異常発生にみられる自然生態系の破壊は、安藤昌益の環境保全思想形成にもなった。安藤昌益の思想基盤に互性という概念がある。それは、男女の関係に典型にみられるように、異質であるが、対等に相互に依存しあう共に生きていく関係をあらわす概念である。

 平和論では本ブログを安藤昌益の武器全廃の平和論参照 

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2021/02/12/112624

 

 封建社会での人間解放の思想

 農文協出版の安藤昌益全集の編集代表であった寺尾五郎は、昌益の思想の独自性を強調する。人間解放の思想体系は、まったく独自に新たな世界観の創造ということであるとしている。

 儒学国学、仏教を根底からひっくり返して、それとは、対立する世界観をつくりあげた。伝統的教学のすべてが、人間をしめつけ、抑圧し、欺瞞する思想の道具にすぎず、独自に人間解放の道を探求したとする。

 そして、もうひとつの思想の独自性は、全存在の永遠の運動過程にあるものととらえたことである。その運動は、諸行無常の変化観でもなければ、輪廻・流転の宿命観でもなく、運動を存在の肯定的な原理として、その生産性、創造性、発展性であると捉える。

 運動は事物の外側ではなく、事物の内側にある。事物の運動は本質的に自己運動であると。ひとつのもののなかに二つがあり、一気のなかに進気と退気の対立があり、その矛盾によって、自己運動が起きる。

   一つのなかに対立し、依存する二つがあり、その二つが相互に転化しあうのである。そして、万物を対立物の統一として考えるのが、安藤昌益の考える互生概念の論理である。これらのことについて安藤昌益は、次のようにのべる。

 「天地ニシテ一体、男女ニシテ一人、善悪ニシテ一物、邪正ニシテ一事、凡テニ用ニシテ真ナル自然ノ妙道」。この論理を「二用一道」「二品一行」「二別一真」とした。二つのものの相互転換のことを「性ヲ互ヒニス」と、矛盾関係を互生と名づけ、その運動を「妙道」と呼んだ。以上のように、寺尾五郎は、「互生」「妙道」を説明する。  寺尾五郎代表編集「安藤昌益全集一巻」農文協出版、9頁~11頁参照

 

土の思想家

 中央公論の日本の名著シリーズで安藤昌益の責任編集の野口武彦は、「土の思想家」安藤昌益を解説している。昌益の人間観は徹底した平等主義の主張にあるとする。昌益の人間平等の根拠は次のように野口武彦はのべる。

 安藤昌益は、「人間存在を転定(てんち)」の気行の特定の運回形態を見なすことに人間の平等性の根拠を置くのである。人間のもっとも自然的状態は、人間が自然の気行の運回のサイクルの一部になりきっているときである。

  人間の直接労働としての「直耕」について、野口武彦は安藤昌益を次のように解説する。「転定(てんち)」の生成作用に人間が自己を同一化することである。あるいはむしろ、その延長である。だから万人がひとしく「直耕」することは自然の法則に従うことだとされるのである。

 昌益の平等主義が自然にもとづいていいるとというのは、いかえれば、個々の人間は自然というつながりの気行の全体を完結させるために特定の気行(通気)をそなえた、またそのかぎりでそれぞれたがいに同等な構成分子であると主張することにほかならない」。(14)(14)責任編集の野口武彦「安藤昌益」中央公論・日本の名著シリーズ、52頁

  野口武彦は、人間存在の天定(てんち)の気行の運回のサイクルのなかに平等性を昌益が求めているというのである。人間の平等性は、自然の法則にしたがっていると。さらに、野口武彦は、昌益の道の意味することが、道徳的な規範としてではなく、万物生成に陰陽五行説道家思想のなかからみる。「万物生成の一気あるいはその運動としてとらえている。この意味で、儒学思想のコンテキストにではなく、主として道家思想のそれに属しているのである」。前掲書、61頁~62頁

  安藤昌益の自然概念は、儒教的な意味ではなく、中国古代思想にみる陰陽五行説からの自然循環というのである。道を自然気行論である土活真から木、火、金、水に運回する万物生成論の世界であり、その思想の理想型が自然世として、封建社会を批判するとする。

 そして、昌益の思考方法の欠けるものは、社会制度であれ、思想教義であれ、客観的構造の観察と分析方法をもつことができなかったと野口武彦は次のようにのべる。

 「昌益の思考方法に本質的に欠けるものは、それが社会制度であれ、思想・教義であれ、およそ「作為」されたもの中にある客観的構造の観察と分析であると評することができるであろう。そのことの完全な無視が昌益の思想の特色を与える。

 昌益の批判は、気の自己運動たる自然の全体を「作為」ない徹底性を獲得することができた。しかし、同時にまた、昌益はまさにその同じ論理によって「作為」されたものの個別的な構造に具体的に迫ってゆく方法を持つことができなかったのである」。

前掲書、70頁

 

安藤昌益の世界観の異なる評価ー既存の学問批判と社会・政治制度からの人間解放

 安藤昌益の思想に対する評価は、寺尾五郎と野口武彦とは、その本質的な世界観の見方が大きく異なる。昌益の最大の関心は政治的批判ではなく、学問的な批判であり、価値体系は、道家的思惟の思考を媒介すると野口武彦は考える。これとは全く別の論理で寺尾五郎は安藤昌益の思想を位置づける。

 安藤昌益は、一切の悪、搾取と支配、差別と抑圧、横領と戦乱などから人間解放のずばぬけた時代を超えての独創的な思想家とみるのが寺尾五郎である。また、矛盾関係を互生と名づけ、その有機的運動を「妙道」と呼んだことは、ヘーゲル弁証法の思考と同じである。

  安藤昌益は、先行思想と格闘と断絶のうえで、互生妙道というとらえ方、すべての事柄を矛盾によって転化するという独自の世界観をうち立てた。それは、洋学の流入以前の日本に自発・自生した科学思考である。それは、全東洋の諸思想を批判・揚棄することで得られた日本が世界に誇り得る独創性と変革思想をもったことである。以上が寺尾五郎の見方である。

 安藤昌益の代表的な著作の自然真営道の大序巻は、生涯における最期の作であり、絶筆であると寺尾五郎は記す。そこに思想の結晶点があると。昌益の自然観は、自然に帰れ式の自然憧憬でも天然賛美でもなく、万物生成ということをとらえている。

 

 安藤昌益の自然概念

 それは、天の恵み、自然の恩恵でもない。安藤昌益にとっての自然概念は天地が穀を生み、穀が人を生むということで、人間の労働が天地の直耕のなかで占める特別の意味をもっているのである。

 直耕とは、人が生きるための生産であり、命と生活のための生産である。消費するのは、生産するためである。労働と飲食は、生命と同じである。人間の存在は、直耕の一道であるという見方である。

 「自然とは何か。それは「互生・妙道」の呼び名である。では互生とは何か。言ってみれば「土活真」という根源的物質の始めも終わりもない永遠の自己運動であり、あるいは小さく、あるいは大きく進んだり、退いたりすることである。「土活真」が小さく進めば「木」である。大きく進めば「火」となる。小さく退けば「金」、大きく退けば「水」の四行となる。

 この四行がまたそれぞれ進んだり退いたりして「八気」となり、互いに依存し対立する関係となる。木は運動の始まりをつかさどるが、その本性は水に規定され、水は運動の終わりをつかさどるが、その本性は木に規定されている。

 したがって、木はたんなる始まりではなく、水もたんなる終わりではない。ともに永遠の運動の一過程である。火は活発な運動をつかさどるが、その本性は収容に規定され、金は収容をつかさどるが、その本性は活発な運動に規定される。

 火も金も永遠の運動の一過程としてみる。このような有機的な関連性を「妙道」という。「妙」とは対立物の統一性をさし、「道」とはその法則的な運動である。こうしたことが「土活真」の自己運動であって、まったく、自発的に、しかも一定の運動量を保ちながら「自(ひと)」りで「然(す)」る、のである。

 そこで、この運動の全体を「自然」と呼ぶ。・・・・・「自然」とは八気の相互に関連する運動であり、「活真」とは分裂もしなければ静止もしない統一的自己運動をするのであり、「営道」とは、その運動によって人間や事物がつくられる過程をいうのである」。前掲書、63頁~65頁参照

 安藤昌益の自然概念は、妙道互生という対立物の統一、八気の相互関連の運動のなかでとらえていることである。陰陽五行説の五行ではなく、根源的なこととして土の活真を基盤におき、他の四行での進・退の自己運動の八気をみるのである。

 

君主の私欲による民の搾取と自然活真

 安藤昌益は、上の私欲と民への搾取を盗乱の世とみる。そして、自然活真にかなうことを次のように探求する。「私欲に基づく盗乱の世でも自然活真によって平安を保つことができるとする。

 (盗はたんにぬすむということではなく、支配者の行うぬすみで、搾取や収奪のこと。乱は争乱、反乱でたんなるあらそいではなく、搾取に対する反抗を含む)

 私法盗乱の世という搾取と争乱が絶えることない現実でも、理想社会の自然法則ではないが、自然活真を契(かな)う、ことができるとする。それは、土活真の根源な自己運動からの互生・八気によって可能とする。

 人間社会の男女一体の互生から自然活真の世へのかなう論理を証していく。「男は外であり、天である。そのなかに女の要素がある。女は内であり、海である。女には内在している男の要素がある。

 男と女は互いに対立し、かつ依存しあうという矛盾関係にあり(男女互生)、それぞれ神と霊(心霊互生・人間の四との精神活動)、心情と知性(心知互生・人間にある八つの感情と八つの精神作用)、思念と覚悟(念覚互生)などの関連しあう八つの精神や八つの感情が通じ、横逆に運回して、精神活動を営んでいる。

 そして、互いに穀物を、耕し麻を織るという労働を通じて、人間の生産と再生産は絶えることがない。これこそ、根源的な物質である土活真が小宇宙として現れた、人間男女の生産活動であり、また人間の存在法則であると言えよう。

 ・・・・・人々がみな一様に生産労働に従事するところに、人間としての共通の営みと感情が生まれるのである。これが自然の法則そのままに生きる人々の社会であり、そこには搾取や反乱、迷いやいさかいなど存在せず、人々はそうした言葉さえ知ることがない。土活真の統一運動そのままの平安さがあるばかりである」。

  「是レガ小ニ男女ナリ。故ニ外、男内ニ女備ハリ、内、女内ニ男備ハリ、男ノ性は女、女の性ハ男ニシテ、男女互生、神霊互生、心知互生、念覚互生、八情、通横逆ニ運回シ、穀ヲ耕シ麻ヲ織リ、生生絶ユルコト無シ。是レ活真・男女ノ直耕ナリ」

 「転定ハ一体ニシテ上無ク下ナク、統(す)ベテ互生ニシテ二別無シ。故ニ男女ニシテ一人、上無ク下無ク、統ベテ互生ニシテ二別無ク、一般・直耕、一行・一情ナリ。是レガ自然活真人ノ世ニシテ、盗乱・迷争ノ名無ク、真儘(しんじん)・平安ナリ」。安藤昌益全集一巻、農文協出版、268頁~269頁参照

 男には、外、天から男の役割があるが、女を必要とする性質がある。女には、内、海からの役割があり、男を必要とする性質がある。神霊、心知、念覚、八情、穀を耕すことも麻を織ることも男女の性質の互生がある。

 それぞれ、喜、怒、驚、悲、非、意理、志と発現は男女によって異なり、男による直耕の肉体労働、女による麻を織るという精緻な家内労働は、外・天と内・海という互生関係である。双方は共に生きていく自然の役割関係として、求め合う関係で一体になっていくものである。

 「人間社会は、かつては自然法則のままに生きていたが、それが、王と民、支配する者とされる者の別を立て、それに基づいて差別的な倫理規範や身分制度を作り上げ、その維持のために賞罰による統治制度を導入したのである。

 自ら働きもせずに、楽をしようと人々の労働の成果をかすめとり、そのための社会制度や租税を取り立てるようになった。そして、宮殿、楼閣、高殿を築き上げ、山海の美味珍味を食らい、絹織物の美服で着飾り、美形の官女をはべらせ、遊び戯れ、愚にもつかない道楽に贅沢をつくすなど、その栄華のほどは何とも筆舌に尽くしがたい。・・・・・本来は天下共有の天下を、あるいは奪われ、私欲は私欲を生み、搾取は搾取を生み、反乱は反乱を呼び起こして尽きることはない」。前掲書、270頁~271頁

 人間社会の本質的な自然状態は、男女のように役割がことなっていたが、互生関係をもって、平等の関係と相互依存、相互扶助のもとで生きていた。しかし。王と民、支配する者と支配される者の社会関係、差別的な関係が生まれることによって、根本的に変わり、人為的な私欲が私欲を一層拡大していくことになる。搾取と反乱、戦争を呼び起こす社会になったと安藤昌益は考えるようになる。

遊び戯れ、贅沢の王が現れることによって、世が乱れ、精神的欲望と物質的欲望が乖離して、仏教がこの世にあらわれたとするのである。

 「遊び戯れ、贅沢をする王が現れ、搾取・収奪という支配するものが現れることによって、世が乱れていくのであると安藤昌益はのべる。この世の乱れ、私欲の増幅によって、聖人、釈迦が現れたとする。精神的な欲望と物資的な欲望とはますますはなはだしくなる。天下国家を奪う欲望と極楽往生を願う欲望とがかわるがわる起こる」。

 前掲書、271頁

 

天下国家の乱れと為政者の私欲ー搾取と反乱

 天下国家を奪う欲望と極楽往生を願う欲望が乖離していくのである。私欲に基づいて、上に立つ者が現れることによって、社会に反乱が起き、また泥棒などの様々な犯罪が蔓延していくとする。上の者が搾取を改め、私欲を捨てることが、反乱、戦乱、犯罪をなくしていく最も根本的なことであると安藤昌益は考えるのである。 

 「私欲にもとづいて上に立ち、社会を支配すること自体が、反乱を生み出す根なのであり、乱の根を支配者みずからが植えているのだから、泥棒をはじめとしたさまざまな犯罪が下々で枝葉のようにはびこって絶えるはずがない。上が、搾取・反乱の根を断ち切らないかぎり、下では枝葉の犯罪が盛んになるばかりである。

 つまり、世の中に反乱や犯罪の類が絶えないのは、すべて支配者の驕りがその原因となっているのである。支配者みずからが盗乱の根源を絶ち切らないで、いくら日ごとに下々の犯罪者をとがめ殺そうとしても、犯罪はなくなるものではない」。前掲書、272頁参照

 民の犯罪は、支配者の驕りが原因であり、上が私欲を廃して盗乱の根源を絶ちきらねばならないのである。支配者のなかに、自然界と人間社会を貫いている活真の法則を体得した正人がいるということを期待することに望みを託すのは馬鹿げたことであると安藤昌益は考える。

 しかし、搾取と反乱が渦巻いている社会にあっても理想社会に変革していく方法はあるとして、決して理想社会への道のりの「私法盗乱ノ世ニ存リナガラ自然活真ノ世ニ契(カナ)フ論」ということで、理想社会への現実的な過渡期を否定していないのである。

 「失リヲ以テ失リヲ止ムル法有リ。失リノ上下二別ヲ以テ、上下二別ニ非ザル法アリ。似タル所を以テ是ヲ立ツルニ、暫ク転定ニ二別無ク」というように、あやまりももってあやまりをなくしていく方法がある。本来はあやまりである上下の階級社会は敵対関係に陥らない方法がある。天地の場合は、上下という差別がない。前掲書、275頁参照

 それには、上下という階級社会の差別があっても、上に立つ者が家臣を多くかかえず、反乱を起きないように心をくだき、また、道楽と贅沢をせず、みずから田地を一定範囲に定め、これを耕して一族の生活をまかなうことである。

 諸侯もこれに準じて、それぞれ国主としての田地を一定範囲に定め、相応に耕すことによって一族の生活をまかなうべきであると。上下ともに耕し、下、諸侯、民衆からの収奪をする租税制度をなくすことである。最高統轄者は、みずからおのれの田地を耕作することである。上に立つ者が贅沢をしなければ、上下関係があってもへつらうものはなくなり、敵対的差別関係はなくなり、世は平安になるというのである。

 上にたつものの政治上の任務は、耕作義務を怠る諸侯や民衆を強制させることである。遊び暮らしている者をやめさせ、生活できるだけの田地を与え、耕作させることである。また、生活の必要限度を超えた田地を耕作し蓄財や贅沢に近づこうとすることもやめさせなければならない。前掲書、276頁~277頁

 

為政者の贅沢の暮らしと農業労働の価値

  金銀さえあれば物がほしいままに充足でき贅沢な暮らしができる。贅沢な暮らしこそ、戦乱を引き起こす原因である。こう考えるからこそ、金銀・貨幣の流通を廃止する。もともと人間が穀物を耕し麻を織って生活する以外に、何ごとも必要としないのは、それが天地から与えられた人間本来の姿だからである。

 手工業者や職人には、最高統轄者には、それ相応の生活必需品を与え、諸侯や民衆にはそれ相応の家屋・家具をつくらせること。豪邸や贅沢品の製作は、これを禁止する。日頃統括、管理の仕事のないときは、みな相応に耕作することが大切である。

 遊女・野良・芝居役者、道楽芸の慰芸の者には、上に立つ者が贅沢や浪費をやめさせ、かれらに田地を与えて耕作させること。僧侶・山伏・神官の遊民には、農業労働こそ天地自然における活真であると考えさせる。

 地蔵菩薩の功徳は、農業労働そのものであり、薬師如来は、天地自然における生成活動の始まりの季節、春の象徴である。不動明王は、大地が不動のままに田畑となって人々を耕作させることである。阿弥陀如来は、農業労働がまっとうされるようにということにほかならない。禅宗語録は、生産労働によって心安すらかに食い、着て暮らし、生死を活真にゆだねること、これこそ仏法の極意。神とは、太陽であり、生成活動の担い手ということで、僧侶、山伏、神官は、諭して田畑を耕作させることである。前掲書、278頁~283頁

 安藤昌益は、すべての人々に、自然の法則、命を食する生産という農業労働の大切さを説いているのである。仏への「欲心ノ迷ヒヲ足シ、心欲・行欲、益々盛ンニシテ、世ハ聖人乱シ、心ハ釈迦乱シ、転(天)下・国家ヲ盗ムノ欲」というように、人々が競って仏にすがるのは私欲であり、迷いである。

 利己的な欲望の旺盛な商人は、天地自然の真理から人々の目をそむけ、世の恨みをで、争乱をもちこむ者である。暦家・天文家とは、天体の気の運行を計画するのが生業であり、活真の生産労働というものである。易・暦・天文・陰陽を生業とするものは、古来の書物にこだわらずに、とりわけ生産労働を第一にして、易・暦・天文・陰陽の極意を極めることである。)前掲書、285頁~286頁

 「私法盗乱ノ世ニ存リナガラ自然活真ノ世ニ契(カナ)フ論」という過渡期社会をみると、最高統轄者である上も人である。下、民衆も人である。それ以外に具体的な形態を示すものは社会にないが、明らかに存在するもの、それが活真である。

 このように、活真とは目にみえないが、常に活き活きと自己運動をしているからこそ、その内部に宿るあらゆる可能性が充分に発揮されるのである。統轄するものは、過渡期社会の上である。下、諸侯・民衆のさまざまな心情・行為・生業は、上の統轄作用によって有機的連関性をもって営まれる。

 最高統轄者である上と、下、民衆も敵対しあう二つのものではなく、また、どちらか一つに帰属するものではない。最高統轄者と民衆との関係を一方で、盗乱による私欲の側面から搾取・収奪の矛盾関係ととらえながら、他方で人間本性の自然活真の側面から統一してみる。つまり、活真と万物の関係は、自然に内在する絶妙の法則である。

 

平等に生産労働と自然活真世による人間解放の道

 社会にあっては、上下の差別制度がなく、すべての人が、平等に生産労働に従事することができるならば、人間としての本来のあり方になる。現実として、やむえず、上下関係を残しながら、直耕による活真の運動法則に準じて上下関係を運用するのである。

 つまり、活真の役割である社会の統轄作用を担い、万物にあたる社会の個別機能を、下、民衆が担うのである。こうすれば、統轄作用と個別機能が不則不離の関係にあるように、上下も敵対的関係ではなくなる。直耕の自然活真を人間としてそれぞれが、社会的機能として担うことによって、上下関係の矛盾関係は、自然活真に統一されていくという。

 以上のことを十分に上の者が自覚して、統轄の社会的機能の役割を果たすならば、上下関係という人為的制度の残存する社会ではあっても、活真のつかさどる天地自然の法則に合致して、支配・反乱・搾取・盗み・迷い・苦しみといったものは無縁の社会となる。(26)(26)前掲書、298頁~300頁参照

 安藤昌益は、「私法盗乱ノ世ニ存リナガラ自然活真ノ世ニ契(カナ)フ論」の過渡期社会論で、統轄者の社会的役割と統轄者が贅沢、道楽のために搾取・収奪している側面とを区別する。上下関係があっても自然活真の機能を果たすことをのべている。そして、下、民衆が、それぞれの社会における個別機能を果たすことの重要性を強調しているのである。

 前記の商人や僧侶・神官、慰芸、学者においても、過渡期社会論から支配者の贅沢や搾取・収奪を隠蔽するまやかしの機能からではなく、また、私利私欲の盗乱欲望を増長させる機能からではなく、自然活真という視点からの個別的な社会機能を検討していくことが求められている。

 支配する上の者の私欲、贅沢、道楽ということと、それに従属して、へつらい、人を騙し、反乱を起こして支配欲を実現していこうとする側面を痛烈に人間の自然活真の本来にあらずと糾弾するのである。同時に、人間の本性から直耕することで社会的な機能の役割を果たしていけば、上下の矛盾は統一されていくのであるとする。 

 社会的矛盾を統一していくには、上にたつ者の統轄的役割ということを直耕という自然活真の立場にたつことがとくに重要であり、それぞれが社会的な個別機能を果たしていくことの基本的な条件をあげている。

 安藤昌益の痛烈な社会的矛盾に対する批判に対する側面ばかりをみるのではないとのべる。「私法盗乱ノ世ニ存リナガラ自然活真ノ世ニ契(カナ)フ論」という過渡期論として、上の統轄機能と個別機能を否定しているのでない。

生きていくための直耕は、人間にとって、自然活真であり、最も価値ある基本的なことである。盗乱による搾取・収奪されて貧しく暮らす農民は、上はもちろんのこと、社会すべての人々の生きていく糧をつくりだしているのである。

ここに、安藤昌益の社会変革をしていくことへの現実的な視点がある。人間本来の労働をせずに、支配者の上による盗乱という私欲による搾取・収奪からの民衆人間解放の現実的道筋がある。

 安藤昌益は商人については、直耕による自然活真の世という理想社会から厳しい目でみている。「商人ハ、金銀通用・売買スル故ニ、利欲心盛ンニシテ、上ニ諂ヒ、直耕ノ衆人ヲ誑(たぶら)カシ、親子・兄弟・一族ノ間モ互ヒニ誑カシ、利倍・利欲・妄惑ニシテ、真道ヲ知ラズ。上下ヲ迷ハシ、転下ノ怨ミ、転真ノ直耕ヲ昧(くら)マス大敵乱謀ナリ。速ヤカニ之停止シ、田畑ヲ与ヒテ耕サシム」。

「商人は、金銀を流通させ商売をすることから、利己的な欲望が旺盛であり、支配者にへつらい、勤労大衆をたぶらかし、親子・兄弟・親族でさえ互いに騙し騙されると、暴利をむさぼり、私欲に執着し、金銭の亡者となって、まことの道を知ることがない。支配者・民衆ともに迷い、世の怨みを買っている。つまるところ、生産労働という天地自然の真理から人々の目をそむけさせ、世の争乱をもち込むたわけ者である。ただちにこれを禁止して、田畑を与えて耕作させる」。前掲書、284頁

 安藤昌益は、元禄文化における江戸を中心とした武士や豪商の贅沢な消費生活を厳しく批判する。贅沢によって、農村経済が一部の特権層の消費生活に規定されていく。養蚕などにみられるように贅沢品の絹織物のための生産に江戸近郊の農村経済は変えられていく。生活必需品の農産物が追いやられていく。

 安藤昌益は、困窮状態におちいっていく農民の生活状況を直視したのである。東北地方は、江戸近郊の生活必需の大豆生産が行われるようになる。

それは、江戸への商業的な農業である。しかし、商品生産によりイノシシ飢饉が起きる。それは、自然生態系が破壊されていくことによっての被害である。安藤昌益は、現実をみながらの互生論の論述である。安藤昌益は、一部の支配階級の贅沢な消費生活が農民をはじめとする民衆生活の困窮状態からの解放という側面から商人に対する厳しい見方をもったのである。