社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

日本における農業・農村教育の教訓と今後の課題

日本における農業・農村教育の教訓と今後の課題
           神田 嘉延

はじめに

 日本の農業教育や農村教育の実践的な体験と教訓は、農村の生活を直視しながら農民実践自身が実践的に新しい技術や農村の改革をしてきたことである。上からの一方的な技術指導や農村改革ではうまくいかなかったのである。

 日本の農業は兼業農家が大きな位置を占めており、農業を専業的にしている農家の比率が極めて低いのが特徴である。農家が農業から離れていく場合に、一挙に労働者になっていくのではなく、農業を兼ねながら労働者化していくが特徴である。

 これは、農村において、雇用される働く職場が歴史的に形成されてきたのである。兼業農家には、農作物を自己の食料のための自給的にしている場合も数多くみられ、家計の収入からみるならば、販売金額は勤労所得に比較すると極めて少ない農家が多いのが特徴である。

 また、農村には、農業を全くしていない勤労者の世帯も増えており、労働者世帯と農家世帯が混住しているのが一般的になっている。この状況がつくられていない地域においては、過疎化が進み、農村人口が極端に減少している地域が多い。

 しかし、農業を中心的に営む地域においても、独創的な地域づくりを展開して、農業を法人にしたりして、農業所得を勤労所得よりも大きくあげている新たな農家も生まれている。

 農業の経営も企業的に展開して、中小企業家と共に経営を学習する企業的な農民も生まれてきている。ここでは、農民の経営的な学習が積極的に展開されてきているのが現代的な特徴である。また、農業・農村を人間形成の場として教育のなかで活動がされている。

 都市での人間的疎外の状況から癒しの場として、農家での民宿などのグリーンツーリズムなどが積極的に位置づけての地域おこしが展開されている。さらに、消費者の大きな運動の食の安全として、健康問題の高まりから、農産物の産地と直接的に消費が結んで食の安全を守っていこうとする有機農業の運動も強くなっている。

 都市と農村の新たな交流が様々な形態が生まれている。そして、農業に新たに職業として参入していく都市の住民も増えているのが日本の現代的特徴である。とくに、最近では全く農業や農村生活の経験のない、都会で育ったものが農業の農業に魅力を感じて、職業として選ぶものが増えているのが特徴である。

 新規の就農者では、農家の若者が学校を卒業して、すぐに就農するのは極めてまれであり、農家でも一度都会の生活の体験をして、農村にuータンしてくるのが一般的である。農村の教育は、都市と農村の新たな交流の展開のなかで、農家の農業後継者教育という枠から、国民的な教育という位置づけに替わってきている。このような新たな状況に対して、農業教育を農業後継者教育という狭い枠ではなく、国民的な課題としての農業教育や農村教育を位置づけることが大切な時代である。

(1)学校経営の基本としての地域

 農村における小学校の学校経営は、地域に根付いたものが基本である。農村では、地域の教材を積極的にとりいれて教育実践を展開している。総合的な学習の時間が設定されているが、農村の小学校では、食や農を対象にしての教育が実践されている。

 ところで、日本における近代学校の形成において、農村における村落共同体の役割が大きな役割をしたのである。都市の貧困地域に比較して、日本の農村では学校教育の普及が進んだのである。

 日本の学校は、村落共同体・大字に依存して形成されてきたという特殊性をもっている。 学校は地域の文化センターとしての役割を歴史的にもってきた。例えば、農村において、学校の運動会は、地域の運動会であった。これは、村落共同体に依存して学校が形成されてきたという歴史的性格から、地域行事と学校行事が結びついてきたことの事例である。

 この伝統は、農林漁業を生業とする地域では、明治以来続いてきた行事である。学校は地域が支えてきたという歴史をもってきたのである。とくに、僻地では、国や地方自治体から教育を見放されたところが少なくないが、地域住民が積極的に学校を自らの力でつくってきたのである。

 日本では、近代以前の江戸時代においても農村えは、民衆の手による寺子屋という子どもの読み書き算の教育が普及していたのである。明治の近代化社会の以降においても地域住民による学校建設の意欲は強かったのである。

 地域住民が自分たちで寄付金を集めて学校をつくった事例も多い。学校の施設の充実に地域の住民が寄付をしていくということは、明治以降の近代学校においても続いていったのである。農林漁業を生業とする地域住民にとって、読み書きや計算を身につけられる学校は、生きていくために不可欠なものであった。

 地域住民にとって小学校は、子どもの学ぶ場だけではなく、青年や大人たちが学ぶ場であった。小学校は、実業補習学校として利用されてきた歴史をもってきた。このことは、小学校が子どもだけが学ぶ場でないことを意味していた。地域住民にとって学校は様々な機能を果たしていたのである。

 僻地などで、国家から見放された地域では独力で、地域の共有財産や寄付金など、自分たちの力で施設は極めて貧弱であるが、教育は大切ということで、小学校をつくっていったところが少なくない。明治後期の学校統合のときも、学校を地域住民の組合で存続させた地域などもある。

 住民は、私立の小学校を住民立で設置していく。設置認可の願書を県庁に提出するのである。郡は視学官をまじえて、平和にいくように、個別に説得するが、村会の学校統合の意志は強く、否決をくりかえすが、結果的に行政当局は、小学校の認可をする。住民の寄付金によって、学校の建設が行われ、教員も雇うということが行われた。小学校では、共有財産によって、学校施設を充実させてきた地域が山村や離島などで数多くみることができる。

 鹿児島県の離島の沖永良部は、最も貧しい地域といわれた、地域で自分たちの資金を出して、小学校を設立している。明治6年頃に、十数名の子弟の教育を、二間の粗末な家を建てて、学校としたのである。

 さらに、明治10年に、八間に四間の茅葺きの馬小屋建で、校庭20坪ほどに過ぎない学校をつくっている。明治15年の学制変更により、小学校を初等、中等、高等の三等科としたが、校舎は、完全なる設備を有することができないため、教授に不都合であった。のちに行政は正式な小学校として認め、施設も充実していくのである。

 日本の戦前はエリートコースと大衆コースの学校ということで、学校制度は、複線体系であった。大正期からの農村の副業施策や自作農創設による地域振興策も地域の人材養成を求めた。小学校には、青年を対象にしての夜学の実業補習が積極的がつくられた。地域的人材の要求は、全国的な画一的な「学力」体系にならなかったのである。北海道の開拓農民は、小学校をたてることが、開拓の第一歩であった。
      
  (2) 農村における小学校の農業教材

 日本では、数学とか、理科とか、英語、音楽といった教科の枠を超えて、生きていく力をつけようと、全国的に総合的学習の時間が正規のカリキュラムに導入されている。農村では食や農業、伝統的な民衆の文化などを授業のなかで積極的にとりあげている。

 この総合的学習の時間は、伝統的に地域教材を生かしての授業の実践と地域住民の支援による学校教育の特性を生かしての教育実践のとりくみをしている。地域教材をそれぞれの学年の応じて、系統的に総合的学習の時間にとりくんでいるのである。

小学校では、総合的学習の時間を地域に興味・関心をもち地域のよさを発見、地域と深くふれ合って、地域をとおして世界に目をむけていこうとする学習計画を展開している。これらの地域教材のとりくには、各教科と、合科的指導方法を取り込んで連携を重視している。 

 また、体験的な学習や問題解決的な学習を大切にしていることが鹿児島県などの日本の農村の総合特徴である。これらの実践をしていくうえで、地域の人々との交流や地域の人材を積極的に活用した教育計画をたてているのである。このような活動をとおして、子どもの異年齢集団の活動を重視している。
 
  これらの地域教材による学習は、体験活動をとおして、子どもの農業や食糧にたいする認識をさせ、そして、子どもが自ら考えるように調べ学習を大切にしている。 つかむ、見通す、調べる、広げる、まとめるというように、学習過程を系統的にとらえている。
 
 体験学習を単に汗水ながすという体を動かす活動だけの位置づけではなく、認識のそれぞれの過程をきちんととらえて、生きていくための人間的能力発達の視点から学力の形成をしていることである。受験学力的な暗記の学力形成でないことはいうまでもない。
 
 地域や家庭の協力が必要な部分については、事前に協力をよびかけて、教師だけではできないこと、地域の先生の出番をきちんと準備をして、授業の計画をつくっている。おじちゃん達に教えてもらうときには、子どもたちにおじちゃんにきちんとあいさつができるように指導もしている。
 
 子どもの学習は、子ども自らが調べていくことを大切にしている。班ごとに調べさせて、子ども達が仲間としての人間関係の集団をつくりながら学んでいけるような指導を展開している。個々が学習において競争主義的にするのではなく、共生と共学の理念から班づくりをして、人間関係を大切にしての学習展開である。 

 農山村では、みどりの少年団として、山の地域の役割と林業について体験学習している。みどりの少年団は、小学校4年生以上で全員が参加している。山を生かした子育て活動である。地域の山に関係している人の指導のもとに定期的に体験学習を実施している。この活動は、小学校校区の伝統のひとつである。地域の共有林野や地域公民民館が積極的に援助をしている。

 子どもの自主性ということから、子どもたちからも会費を集めている。学校側は学年主任が責任をもって担当してきた。地域の子育て、学校の総合学習などでの人材バンクは、今後の大きな課題になる。じいちゃん、ばあちゃんも、ふるさとの伝統的な遊びや昔話など大切な地域の教師としての位置づけをしているのが竹子小学校ならでの地域的特性である。

 老人会としては、子ども達に声かえをしている。地域で子どもを育てるということで、老人会は大きな意味をもっていることを忘れてはならない。すべての子どもの前で、地域の人に話をしてもらう実践を学校で実施している。ふれあいトークとして、地域の人に小さいときの様子を語ってもらっている。

 小学校では、総合的学習の時間を地域に興味・関心をもち地域のよさを発見、地域と深くふれ合って、地域をとおして世界に目をむけていこうとする学習計画を展開している。これらの地域教材のとりくには、各教科と、合科的指導方法を取り込んで連携を重視している。

 地域や家庭の協力が必要な部分については、事前に協力をよびかけて、教師だけではできないこと、地域の先生の出番をきちんと準備をして、授業の計画をつくっている。おじちゃん達に教えてもらうときには、子どもたちにおじちゃんにきちんとあいさつができるように指導もしている。

 子どもの学習は、子ども自らが調べていくことを大切にしている。班ごとに調べさせて、子ども達が仲間としての人間関係の集団をつくりながら学んでいけるような指導を展開している。個々が学習において競争主義的にするのではなく、共生と共学の理念から班づくりをして、人間関係を大切にしての学習展開である。

  ところで、村づくりと小学校ということで、高原牛乳を学校給食から地域特産品に持っていったということがある。ここの酪農家の牛乳はローカルな自治体のすべての学校の児童・生徒が飲むようにしている。それを契機に、高原牛乳が地域に普及して、地域のほとんでの住民がこの牛乳を飲んでいるということで、ここの酪農家は地域の住民によって支えられているということである。

 小学校の校区の地域づくりを支えるのに、都市の住民が300人ほど協力している。毎年都市住民と交流バーベキュー大会をやったりして農民を支えている。この小さな80戸数の山村にに年間10万人の都市住民が訪れる。

 学校があることによって地域がまとまり、地域のさまざまな行事が学校行事と一緒になっている。集落内の祭りだとか、運動会や子どもに関する集落活動は、学校を通してまとまっていく。これらの学校の地域活動は、戦後一貫して続いてきている。

 この地域では、学校の父母と教師の会の関係が大変強いわけですけれども、それは、単に学校の活動に協力するということだけではなくて、酪農家が教育ファーム全国ネットに入ったり、棚田保全のためにということで活動している。もともと精神科の仕事をしていただが、棚田に魅せられて、ここで生計を立てようと移住してきている。

 その人たちも学校教育とは別の形で、農業の持つ教育力ということで、近くの都市の住民に呼びかけて農業教室を開いている。そういう中で、安定的に牛乳の配達に乗せるために、牛のオーナー制度という仕組み等々もつくっている。

 さらに、ここは有機農業でお茶をやっている農家の方もいる。この人もこだわりのお茶ということで広く都市に販売して生計を成り立たせています。また、農家の女性たちが、男性を経営に入れないで、ドレッシングなどの農産物加工工場をつくりあげて、固定客を広げ、生産販売活動をはじめている。

 鹿児島では山村留学制度が各地域でさまざまに行われている。これは霧島町の事例で、過疎化してきた地域であるが、山村留学をはじめて、現在は子どもの数も非常に多くなっている。都会から移住してくる人が増えてきて、新しい地域が生まれている。

 ここでは親子面接をきちっとして、いわゆる普通の子どもを受け入れているということです。実は普通の子どもといっても非常に幅がある。引き受ける農家が見て普通の子どもであればよいのである。1日2日子どもを見ながら、親も必ずそのときに来る。

 都会でアトピーで悩んでいた子どもが山村留学して、治っていくとか、親から見るとさまざまな奇跡が起きている。子どものためだったらここに移転して生活しようと思う親がでてくる。最初は母親が移住して来る、次に父親が来るということである。実は霧島の永水は、近くに国分という都市がありますから、そういう関係で仕事も見つけやすいせいもあって、移転してくる。

 中には、ここを気に入って農業をやって、有機農業で自活している人もいる。そんなことで、山村留学を通しながら、学校統合という危機があったのですけれども、今は子どもが倍以上に増えて、非常に子どもが多くなっている。

 次に、アイガモで総合学習をやっている事例ということで、鹿児島県霧島市溝辺町竹子の事例で、ここは鹿児島大学も協力して網掛け川流域の生態系農学の研究ということで、大学挙げて取り組んできた。現在は、取り組みはじめた副学長が自らここに移り住んで、地域の農家と共に実践的に農学校を開設している。

 実は鹿児島県は、こういう小学校の校区公民館というのがあちこちにある。共有林野を持っている地域も多いのである。伝統的に地域とのかかわり合いが強いところは学校の中に公民館が、校区単位に公民館がある。

 鹿児島県の離島で鹿児島市一日かかるところの沖永良部の和泊町は、鹿児島のなかでも高額の所得をあげているところである。92年にむらづくり日本一になった地域である。96年に町として環境保全型推進農業の条例をつくったところである。

 実は和泊町というのは、花卉農家が多くて、高額な農業所得を上げる農家が大変多い地域で、いわゆるもうかる農業ということで盛んに宣伝されたところである。しかし、農薬に悩まされた島であった。この農薬に悩まされた島の中で、それを何とかして克服したいということで、96年以降取り組みが始まっている地域であり、環境保全型農業推進条例をつくったところである。この条例を実施していくうえで、地域の成人教育の果たす役割が大きいのである。

 具体的には、例えば、インドのユームというインドセンダンからとれたエキスを化学的農薬の代わりに利用したり、韓国の有機農業の工夫をしたりとか、さまざまなことをしている。まだ農薬をなくすことに完全に成功しているわけではありませんけれども、農薬の使用量を減らす取り組みを積極的にしているところである。

 この地域で、最も農業所得の高いのが国頭集落ということで、沖永良部の空港のすぐ近くにある集落である。農業所得が高いということもあって、ここは全国一の子どもの出生率を誇っている。ここに国頭小学校がある。100年前のガジュマルがあるというので、小学校の校庭にあるガジュマルが観光資源にもなっている地域。

 ここでは伝統的に学校教育の中で、何を教えてきたのかというと、地域の素直な姿というか、地域の人たちがどんな暮らしをしてきたのかということを地元としても熱心に教育をしている。

 実は、この国頭というのは、和泊の中で、戦後の日本の復帰当時は最も貧しかったところである。現在、学校教育として、ここは塩干しの母ということで母親の苦労してきたことを伝承として教えている。

 昔、母親達は、岩にたたきつける塩水を干して、塩を製造し、それを売りながら生計してきたということである。塩を炊く仕事というのは大変厳しい仕事であった。またこの地域は、水がなかった。水くみにも大変重労働を強いられてきた集落である。そのことを学校教育の中で率直に教えてきたというのが1つの伝統である。

  そういう厳しい中でも、この地域は個人の所有観念というのが、本土に比べれば非常に低いということである。例えば、自分の庭の木が1本あっても、これは勝手に切れないわけである。木を1本切れば隣から文句がでる。自分の庭だから木を切ってもいいのではないかと思うけれども、そういう伝統的な地域の自然を保全していこうという風習があった地域である。

 ソテツにしても非常に大事にしてきた。ソテツがあったことによって、よくソテツ地獄ということを奄美を研究した人は言う。ソテツには猛毒があり、食べることを間違えれば死んでしまう。ここの人は、そういうことは言わない。ソテツが我々の命を支えてくれたと言うのです。どんなときでもソテツがあるから我々は生きてこられたというソテツに対して感謝の気持ちを持っている。

 つまり、ソテツというのは飢餓のときに救ってくれるということ。それから、ソテツというのは防風林にもなるし、ソテツの葉っぱは肥料にもなるということで、さまざまな効用をもたらしてきた。そういう地域の伝統的な誇りというのを、単に抽象的な誇りではなくて、塩干しの母とか、ソテツの歴史だとか、みんなが協力してきたことを具体的に教材にして教えてきている。

 ここで学校の教師がしてきたのは、我々は地域に残すという教育は、今までしたことがないと言う。そんなことをしなくても、子ども達は必ず帰ってくる。また、友達も呼んでくれる。外に出そうという教育をしてきた。だから、外に出すためには学力を高めなければいけない。この学力も受験学力を高めなければいけないということで、一方で、非常に熱心に受験学力をしている地域である。そのように外に出しながら豊かになりたいという地域なのである。

 外に出るからこの島は過疎化していくかというのではなくて、必ず帰ってくる。帰ってくるための自分の生まれ育った地域に誇りをもたせる地域教材での教育をしているのである。

(3)現代都市の矛盾や国民教育の課題としての農業・農村の役割

 現代の日本の都会における学校は、様々な矛盾を抱えている。この中で、多くの矛盾をもっている学校ですけれども、学校を全面否定しないで、現実にこういう僻地の中で一定の役割をしている学校をもっと積極的に評価する必要が日本では生まれている。

 農林行政と文部行政が結びつきながら、また、文部科学省が地域の生産や生活と関連する様々行政と結びつきながら、実際生活に即する教育をもっと積極的にとりいれて、学校を再生していく政策を打ち出す段階にきているのではないか。

 この意味で、日本では生涯学習政策ということで、教育は生涯かけて学習することが保障していくということと、教育は文部科学省という専門行政機関が担当するだけではなく、様々な関連行政と連携しての教育施策が求められているのである。
       
 義務教育の学校教育のなかで農業や農村がどのように教えられ、農業の体験学習がどのように教育実践されていくかということを重視しながら農業教育をみていく必要がある。

 農業教育を農業を自由に職業と選択できるような職業教育を考えてようとする新たな傾向もある。農業高校や農業大学校に進学する青年が必ずし農家ではなくなっている。農業生産法人や農業関連産業に就職したいという希望をもって、農業後継者の養成機関である農業大学校に進学するのである。後継者という発想では対応できない時代になっている。

 人生のなかでの職業観教育、職業選択教育として、農業教育をまず出発点としてみていく必要が出ている。この農業教育の出発点をとおして職業準備教育や実践的に役にたつ実利的な職業研修教育が求められる。農業高校や農業大学なども、この視点が極めて重要である。また、農業高校や農業大学を卒業しても必ずしも、すぐにストレートで農業を職業として選択しない状況もある。日本では、国立大学の農業大学では農業就農者は極めて少ないのが現状である。
 
 農業高校は、地域に根ざしての教育実践がされており、生徒が自主的に自分で課題を設定してのプロジェクト研究などをおこなっているのが特徴である。卒業して、必ずしも就農するとはかぎらない。多くは、卒業して農業以外に就職していく。

 しかし、都会で生活して、再び農業の価値に気がついて就農するケースもあるのである。農業高校の教育を生涯学習という視点から青年のその後の人生の全体のなかで、農業教育を位置づけていく教育が大切になっている。

 農業後継者教育は、多くの農村青年が卒業して農村で生活していく時代と、現代のように多くの農村青年が卒業して都市での生活をしていく時代と大きく異なるのである。このような農業後継者、新規就農の新たな変化のなかで、農業教育を国民教育のなかで位置づけると同時に生涯にわたって農業の大切さを失わないように学習を構築する視点が大切である。

 農業教育の課題を狭いすぐにやくにたつような実利的な職業教育の枠ばかりではなく、様々な角度から複合的に、また、人間の生涯にわたる職業選択、人間の生涯にわたる発達、生涯にわたる学習の保障ということから展開していくものである。

  農業高校の体験では、授業として、幼稚園の子どもたちに落花生の作物実習の手伝いをした。幼稚園の子どもたちと一緒になって、農業の魅力を考えた。このような授業は深く心に残った。

 普通高校出身の学生は、自分たちもやりたかったと語る。学校教育は、小学校、中学校、そして、高校ともっと連携して、農業のすばらしさ、自然のこと、農村の文化のことについて教えていくべきであると。農業大学校の学生たちは教育学概論の集中講義をとおして、農村のリーダーのあり方、今後の農村の活性化、村づくりを考えたのである。

 これからの農業は六次産業といわれるように多面的な事業を行って、幅の広い能力が求められていく。リーダーに必要なことは、目標にむかっていける実行力と協調性であり、全体を見通せるていろいろの意見をまとめ上げる力と決断力が大切である。このためには、器のおおきさが求められる。様々な意見を受け入れられる人間性と行動力をつけていくことである。

 2005年には食育基本法が成立して、「食農教育」への関心が国民的課題になった。「食育」とは、自らの食事について考える習慣や食事に対する知識や判断力を身につけるための学習である。食育は、生涯を通じて、一人一人が健全な食生活をすることや、食文化の継承、健康の確保を目的としている。

 「食」について意識は、健康的で安全な食材を選択するために、農業体験をとおして食材を考える必要がある。それが「食農教育」である。「食農教育」とは、食に関する教育(「食育」)と農業体験学習を一体的に実施する。

 「食農教育」は自然と自分の関係を知ることができる。育てることから食べることまでの一連の行為は生命の尊さや人間と自然との関わりを実感である。また、社会との関係を知ることができる。

「食農教育」は地域を学ぶことができる。活動を通して地域の特産物や食文化、伝統料理に触れることや、地域住民との交流などができる。食農教育での体験によって、生命、環境、食料問題などに関心を持つようになる。そのことを意識しながら子ども達の学びをサポートすることが求められる。

 農村には、農業を全くしていない勤労者の世帯も増えており、労働者世帯と農家世帯が混住しているのが一般的になっている。この状況がつくられていない地域においては、過疎化が進み、農村人口が極端に減少している地域が多い。

 しかし、農業を中心的に営む地域においても、独創的な地域づくりを展開して、農業経営を生産組合や会社組織の法人にしたりして、農業所得を勤労所得よりも大きくあげている新たな農家も生まれている。
 
(4)農業経営ということから中小企業的な発想が大切

 農業の経営も企業的に展開して、中小企業家と共に経営を学習する企業的な農民も生まれてきている。ここでは、農民の経営的な学習が積極的に展開されてきているのが現代的な特徴である。

 また、農業・農村を人間形成の場として教育のなかで活動がされている。都市での人間的疎外の状況から癒しの場として、農家での民宿などのグリーンツーリズムなどが積極的にされている。

  さらに、消費者の大きな運動の食の安全として、健康問題の高まりから、農産物の産地と直接的に消費が結んで食の安全を守っていこうとする有機農業の運動も強くなっている。都市と農村の新たな交流が様々な形態が生まれている。
 
 そして、農業に新たに職業として参入していく都市の住民も増えているのが日本の現代的特徴である。とくに、最近では全く農業や農村生活の経験のない、都会で育ったものが農業に魅力を感じて、職業として選ぶものが増えているのが特徴である。

 新規の就農者では、農家の若者が学校を卒業して、すぐに就農するのは極めてまれであり、農家でも一度都会の生活の体験をして、農村にUータンしてくるのが一般的である。農村の教育は、都市と農村の新たな交流の展開のなかで、農家の農業後継者教育という枠から、国民的な教育という位置づけに替わってきている。