社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

農村における学校経営の基本としての地域

 

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 

農村における学校経営の基本としての地域

 

 日本の学校教育は、伝統に地域の文化センターの機能を果たしてきた。学校は、地域の住民の文化的よりどころとして発展してきたのである。とくに、農村の学校は、地域づくりに積極的な役割を果たしてきた。優れた多くの教師の教育実践は、地域の暮らしとの関係を考えてきたことを見落としてはならない。

 

 過疎化が進行していく地域では、小学校や中学校に対する住民の関心が極めて高い。地域のまとまりにとって、小学校の果たす役割は大きなものがある。現代社会においては、地域から学校が消えていくことは、過疎化に拍車をかけていく。過疎化していく中山間の地域おこしに、学校の存在は大きい。

 

 地域の資源や人材を生かしての地域おこしをしていくうえで、地域の自然、文化、歴史、人材を見直していこうと学際的なフィールドワークの地域学の手法を学校教育で応用していくことは地域の再生のために大切な課題である。そこでは、住民との協働による地域学校経営の姿があり、社会教育としても大切な仕事になっていく。

 

 鹿児島県喜界島のように、小学校、中学校、高校と一貫教育の軸に「喜界学」の設定をして、総合的な学習時間と各教科をクロスしたりする試みが行われている。地域学の考え方にそって、教科を新設している事例などをみることができる。

 

 また、各学校で創意工夫し、地域住民の積極的な協力のもとに、地域おこしと絡みながらの教育実践をみることができる。学校と地域住民の連携により、過疎化のなかでも学校を存続させ、豊かな地域おこしと子どもの未来をみつめている地域も少なくない。

 

 過疎化のなかにある学校は、大都市の学校とは異なり、少人数教育が徹底しており、人間関係も温かみのあるなかで、山村留学や特認制度で、学校にいけなかった子どもがのびのびと教育を受けている事例がみられるのである。

 

 地域の暮らしと結びついた教育内容には、一般行政の市町村との連携も求められているが、同時に、住民の暮らしの向上と結びつく学習保障には、社会教育の役割が大きい。社会教育が暮らしと結びついた学習を展開していけば、一般行政との連携は必然的になっていく。学校教育の実践には、社会教育との連携が不可欠なのである。社会教育との関係のない学校教育の施策は、学校の閉鎖性・排他性を免れないことを見落としてならないのである。

 

 ふるさと学習や地域学のもとにカリキュラムを独自に編成している取組は、学校の閉鎖性を地域から学習内容として開放していくうえで、大きな役割をもっている。しかし、この学習内容が、地域の将来との関係、子どもが地域に将来どのように関わっていくかということでも大切なことである。農山村の地方がますます過疎化が進んでいくなかで、子ども自身が将来の職業選択として、さらに、地域の産業振興にどのように関わっていくのか。

 

 また、そのために、今の学びが、それとどのような関係をもっているのか。新しい持続可能な地域発展をしていくために、未来志向的に科学的な力を大いに発揮しての創造力をどのように身につけていくのか。これらの課題を実現していくには、現代の学校教育の発想転換が求められている。

 

 それには、学校教育が地域の暮らしを基礎にして、未来志向的に、科学の力を身につけて、豊かな暮らしを展望できるカリキュラムの開発が望まれる。子どもの学習権は、豊かに文化的に人間的な暮らしを保障する人間的能力の発達の権利であり、幸福権でもあり、未来への生存権でもある。

 

 学校教育は、民主主義のための能力を子どもに身につけていくうえで、大切な役割をもっている。民主主義はそれぞれの文化や暮らしを理解し、それぞれの人権と立場を尊重していくことであり、共通の感情である協働、協力の公共性の育成が求められている。これは、地域に根づき、地域に開かれた父母や住民との連携のもとに実現できるものである。

 

  現代は、競争による特殊訓練のための教育か、または、民主主義のための親切と正義についての全人格を尊重する自立した人間性の教育が求められている。この意味でも地域の暮らしに根ざした学校教育のあり方が問われている。ここには、地域や父母との連携、地域の暮らしや、すべての子どもに個性による未来を求める学校教育が期待されている。

 

 近代学校の歴史における地域の意味

 

学校経営は地域に根付いたものが基本である。日本の近代学校の形成における地域・村落の果たした役割は大きい。日本の学校は、村落共同体・大字に依存して形成されてきたという特殊性をもっている。学校は地域の文化センターとしての役割を歴史的にもってきた。

 

 例えば、農村において、学校の運動会は、地域の運動会であった。これは、村落共同体に依存して学校が形成されてきたという歴史的性格から、地域行事と学校行事が結びついてきたことの事例である。

 

 この伝統は、農林漁業を生業とする地域では、明治以来続いてきた行事である。学校は地域が支えてきたという歴史をもってきたのである。とくに、僻地では、国や地方自治体から教育を見放されたところが少なくない。

 

 しかし、そこでは住民が自分たちで寄付金を集めて学校をつくった。農林漁業を生業とする地域住民にとって、読み書きや計算を身につけられる学校は、生きていくために不可欠なものであった。

 

 地域住民にとって小学校は、子どもの学ぶ場だけではなく、青年や大人たちが学ぶ場であった。小学校は、実業補習学校として利用されてきた歴史をもってきた。このことは、小学校が子どもだけが学ぶ場でないことを意味していた。地域住民にとって学校は様々な機能を果たしていたのである。

 

 僻地などで、国家から見放された地域では独力で、地域の共有財産や寄付金などで小学校をつくっていったところが少なくない。明治後期の学校統合のときも、学校を地域住民の組合で存続させた鹿児島県知覧町松ヶ浦地域など典型的にみることができる。

 

 明治34年学校統廃合も知覧村会の決定に対して、松ヶ浦校区の住民は、私立の小学校を住民立で設置していく。設置認可の願書を県庁に提出するのである。郡は視学官をまじえて、平和にいくように、個別に説得するが、村会の学校統合の意志は強く、否決をくりかえす。結果的に明治35年に松ヶ浦高等科小学校の認可をすることになる。

 

 明治42年からの尋常小学校6年制に修業年限2ケ年の高等科を設置することとなった。住民の寄付金によって、学校の建設が行われ、教員も雇うということが行われた。この住民による私立学校は、明治35年10月から明治45年1月まで存続することになる。

 

 僻地の小学校では、共有財産によって、学校施設を充実させてきた地域として、溝辺町竹子小学校、霧島町永水小学校、和泊町国頭小などの山村や離島などで数多くみることができる。

 

 沖永良部で最も貧しい地域といわれた国頭であるが、字の地域で自分たちの資金を出して、通称の小学校を設立している。明治6年頃に、十数名の子弟の教育を、二間角の粗末な家を建てて、学校と部落民が称したものをつくっている。

 

 さらに、明治10年に、八間に四間の茅葺きの馬小屋建で、校庭20坪ほどに過ぎない学校をつくっている。明治15年の学制変更により、小学校を初等、中等、高等の三等科としたが、国頭の校舎は、完全なる設備を有することができないため、教授に不都合であった。

 

 明治19年に学制の変更により、校名を簡易小学校と改称し、尋常小学校の代用をしていた。明治23年に小学校簡易科を廃して、高等尋常の二科のみの存置を布告があったが、その要求に応ずることができず、簡易科を設けて教育を継続している。

 

 そして、明治31年度に正式に国頭尋常小学校となる。国頭小学校の学校創立は、明治31年になっている。その創立のとき、校舎設備は実に不完全であった。就学児童数は、学齢児童数290人のうち、就学していた児童数は、169人であった。翌年の明治34年には、学齢児童数307人に対して、270人であった。校舎は仮校舎であり、その仮校舎も明治35年に倒壊し、明治36年に60坪の校舎が建てられるのである。

 

 戦前はエリートコースと大衆コースの学校ということで、複線体系であった。地場産業や地主的農業施策が地域の人材を社会的に要求していった。大正期からの農村の副業施策や自作農創設による地域振興策も地域の人材養成を求めた。小学校に実業補習学校や地方の実業学校の充実も行われた。地域的人材の要求は、全国的な画一的な「学力」体系にならなかったのである。

 

 北海道の開拓農民は、小学校をたてることが、開拓の第一歩であった。鹿児島からブラジルにわたった人たちも同じように学校建設が開拓の第一歩であった。日系人がつくった中南米最大の協同組合に発展したコチア産業組合も学校を拠点に展開したのである。

 

 そこでの学校は、子どもを教えることはいうまでもないが、地域の文化センターとしての役割を果たし、地域の運動会や地域の青年・大人たちの学ぶ場としての機能をもって、農業研修や農業開発のうえで、大きな役割を果たしたのである。コチア産業組合の現在は、倒産から、原点にかえって地域に根ざした学びを大切にしての再建運動を展開している。

  

 現代の学校経営での地域住民参画の事例

 

 新潟県聖籠町中学校は、父母・地域住民の参加による学校改革をしている。学校施設が地域の複合施設として機能している。カフテリアゾーン、市民文化ゾーン、パソコン250台が学校施設内のあちこちに設置されている。生徒数450名の中学校である。地域の父母・大人が自由に学校に出入りして、音楽、演劇、集会、パソコンをしている。補助教員として、地域の人が積極的に学校の授業に参加している。授業はそれぞれの教科ゾーンで学び、固定したクラスをつくって学ぶことではない。

 

 生徒の学校での基本的集団としてのホームルームがある。毎日の学校登校の確認は、ホームルームで行うが、それは特別な教室があるわけではなく、自由なスペーズに、それぞれホームベースが設けられている。また、校庭のなかには、教育の森を地域住民とともに建設している。複合的機能をもっている中学校の施設・設備に60億円以上をかけている。

 

  教育行政の管理統制者は住民であるとして、その原理を積極的に展開する教育法学者として、勝野充行「子ども・父母住民の教育参加論」を興味深い問題提起である。

 

 教育行政の管理統制社は住民であるということは、「住民主権・住民自治論から導かれる「住民自治への行政の参加型」論によって支える必要があり、その意味での「教育と教育行政の住民自治」が、その主体形成・運動・機構づくりを含めて、いまこそ積極的に問われ追求されなくてはならないのである。

 

 「地方自治体」ならざる「住民自治体」としての地方自治が問われる時代であるからには一層のことである。・・・特に教育事業においては、やはり子ども・教師・父母・住民が主人公となって直接に教育を協働創造する過程に教育行政の参加と役割を求め(据え直し)、住民自治的・直接民主主義的に行政を規制することーその手法・手続きは多様ーを欠かすことはできない」。(勝野充行、190頁)

 

 これらの事例は、学校が地域づくりの拠点になり、地域住民の英知が学校に結集しているのである。さらに、地域福祉活動として高齢者の団体が積極的に学校施設を利用して、子どもとのふれあい活動を展開しはじめていることも最近の特徴である。学校内に高齢者学級や高齢者が自由に集まれる場所をつくり、また、学校と隣接したりする高齢者のホームなどをつくる地域も増えている。

 

 子どもとのふれあいによる高齢者自身の生き甲斐と、子どもも高齢者の生きてきた知恵から学ぶということで、両者にとって大いに意味のある活動が生まれている。現代的に、新たなコミュニティをつくっていくうえで、小学校や中学校が地域の複合施設化のなかで、人々が地域の様々な協同活動に参加していくセンター的役割を学校がもちはじめている。

 

 二木季男は、農家の主体性を生かし、消費者とのフェイス・ツゥ・フェイスとの関係を生かせるとして、都市農村の交流や地域内、周辺地域内での交流による農家自身が値付けした農産物や特産加工品の地域内市場形成を積極的に新たな農村の地域づくりとして積極的に評価する。そして、学校給食への地元食材は、体験農業や農業学習を生かすことにより、はじめて食農教育が充実したもになるとして日本各地の実践事例などを紹介する。(二木季男、8頁~10頁)

 

 地域住民のアイデンティティ形成としての小学校

 

 小学校は、地域住民の子育てに対するアイデンティティ形成として大きな役割をもっている。とくに、農村においては、小学校が地域の文化センター的役割をもってきた。農村における小学校校区は、大字または、大字連合によって、歴史的に形成されてきた。

 

 日本は、近世的な村落社会の構造と重なり合いながら、近代日本の行政の末端機能としての区会・字制度などと小学校校区は重なってきたのである。そこには、小学校校区が地縁的な権利関係をもって閉鎖的な側面を強くもっていたことも歪めない。

 

 しかし、一方で地域の生活・生産の共同体的機能という側面を校区が強くもっていたのである。ここに村の学校の2面性が歴史的にあったのである。農村における矛盾関係があっても子育ての機能は地域の大きな共同的な機能であった。小学校は、村落の人々がまとまっていくいうで大きな機能をもっていたのである。さらに、小学校は、農村の地域住民にとって、地域の文化的統合の機能をもっていたのである。

 

 村落社会における水問題や山の権利問題によって、集落間の地域紛争や開拓地域などの新住民と旧住民の争いが起きることも珍しくない。しかし、小学校の行事や支援活動には、地域住民が協同して、あたることが一般的にみられるところである。

 

 戦後の地域教育計画、習俗の教育論、生きる教育論、人間の発達と学力論など民主教育を教育学者として理論的に支えてきた太田堯は、教育研究において地域をどうとらえてきたかを次のようにのべる。

 

 「人間の子どもの発達にとって、地域はそういう重要な役割を果たしてきたのであった。従来の教育学研究は、こうした地域共同体の発達させてきた教育力に対して、その構造、機能を解明することに充分な力を発揮したとはいえない。かつての郷土教育理論いおける「郷土」の解明も思弁的抽象的な「原理」としてとりあげる傾向にとどまっており、右にのべた地域の教育力の解明はせいぜい教育計画に対する「無意図的教育」といったコトバで意識されるにすぎないという不十分さがあった。

 

 わずかに民俗研究に関心をもつ人々の間で、その民俗研究の一部として、たとえば「産育」の習俗としての資料の蒐集が行われてきたのであった。私たちは一方ではわずかではあっても、こうした民俗学の発掘した業績に学びながら、他方、今日の急速に変貌する子どもたちの発達環境としての地域の現実の分析、検討しながら、あらためて地域を教育研究の対象として、とらえなおしていく必要性にせまわれていた。

 

 ・・・・・無秩序から秩序、文明の破壊から、古きよき共同体への復帰の感傷といった単純な選択は、かえってそのような過去の危険をさしまねきかねない。そうであればあるほど、わたしくたちはますます厳密な科学的な観察力、探求力をもって、この現実を直視して、歴史と文明の発展の相にみあった新しい人間関係の創造に、何ほどかの役割を果たすことを要求されていることであろう。とりわけ、子どもを育て、教育するための新しい人間関係が再建され、創造させる必要と課題に対する教育研究者の判断、現代の教育学の力量が問われているとも云えよう」。(太田堯、239頁~240頁) 

 

太田堯は、地域の教育機能と構造を過去および現在の子どもを育てる人間関係、人間が発達していく関係のなかで科学的に探求し、現代の歴史と文明に相応した新しい創造的な地域における教育の人間関係の創造を提起しているのである。習俗の子育てにみる人間発達の智恵は、コミュニティにおける教育を暮らしの中からみていくうえで、様々な現代的な創造な教育の問題提起をするのである。

 

 習俗の子育ての智恵を探求していくことは、現代における地域崩壊のなかでの新たな地域創造と学校教育の役割の重要性を問題提起していくものだる。

 

  農村の地域づくりと小学校の教育実践の事例

 

霧島市竹子小学校の総合学習の実践

 鹿児島県にはたくさんの地域にねざした学校経営は存在する。その典型的な事例として、竹子小学校の総合学習の実践がある。ここでは、地域の有機農業や自然を生かした授業づくりを展開している。合鴨による有機農業を学校水田として、小学校5年の授業に積極的に活用している。自閉や学習障害の子どもを健常者の子どもと共に学習させ、ハンデキャップの子どもに発達保障の実践を展開している。そして、それぞれの子どもの思いやりの成長など、個性に応じた役割分担の意味の理解など大きな教育効果をあげている。

 

 鹿児島県溝辺町の竹子小学校の校区には、明治中期につくられた共正会という組織があり、小学校の敷地内に存在して、地域づくりの拠点として、山には木を里には人をということで、植林とその管理をしてきた。地域住民は、伐採をして木を売り、大きな収入を得てきた。その収入は、校区の道路、学校施設、青年の補習学校などの財政的な基盤になってきた。

 

 この地域での戦後の校区の活動は、社会教育法によって、校区公民館をつくり、学校の講堂をつくり、社会教育主事を雇い、地域の社会教育事業や学校教育活動に財政的な援助してきている。校区ぐるみのアイガモ農法、水の管理などの環境共生型の地域づくりにおいて、財団法人の共正会の公民館活動は大きな役割を果たしている。大字単位と小学校の校区が一致している場合の農村では、校区公民館活動が村づくりの学習に大きく寄与しているのである。

 

  校区単位に自治的な活動をしていくうえで、小学校の学校教育活動も大きな位置をしめていることを見落としてはならない。現代の都市では、地域の子育てをめぐる活動が校区の自治的な活動に大きな位置をしめるようになっている。

 

 ここでは、子育てが地域の自治的な活動の中心になり、連帯意識形成に大きな役割を果たすようになっている。伝統的な地縁的組織の強い農村の小学校は、学校そのものが地域の共同財産的な意識をもち、学校が地域のまとまりに大きな役割を果たしてきたのである。

 

 南九州市高田小学校の事例

 高田小学校は、総合的学習の時間の導入によって、地域の教材をとりあげた典型的な事例である。地域住民が自らの特技を生かし、積極的に学校に赴き、学校教師の教育的専門性のもとで、新たなに地域に根ざした学校づくりが展開されて事例である。

 

 それは、地域あげての食農教育の実践である。児童数96名、PTA戸数59戸、農村にある小学校であるが、年間とおして教育課程のなかに食農教育の実践がされている。4月から3月まで学年ごとに農作業体験があり、その体験をとおしての知識や技術、情操教育を展開し、学力面も食農教育を本格的に展開したことによって、向上できたとしている。

 

 昔からの伝統や知恵がたくさんあるという校区の村づくりのリーダーたちが学校の総合学習の時間に地域の「先生」として、積極的に授業に参加したのである。学校の側でも総合的な学習時間によって、地域の昔からの伝統的な農作業や伝統的な食品加工、料理などが子どもたちに伝授されていくのである。川辺町では教育委員会あげて、組織的に農村の伝統的な暮らしの文化が学校教育の総合的な学習の時間をとおして伝えられていくのである。

 

 校区を中心とした住民の自治的なまとまとまりは、農村にはおいては、共同体的な基盤のうえに小学校の校区が形成されたという歴史的な経過もあり、学校は、地域の共同財産的意識が強く、学校を中心とした地域のまとまりが、存在していたのである。地域の文化センターとして、集落間の水問題などの地域内部の矛盾も学校や子育ての行事は、統一されていくという側面をもっていたのである。

 

 総合的学習の時間の導入は、地域の共同作業や連帯意識が希薄するのかで、新たに地域の子育てや地域に根ざした学校教育の実践を可能にした。この実践は、地域の生活に対する認識と誇りを子ども達に形成させた。そこでは、伝統的な地域文化を継承・復活させ、住民の自治を新たに生み出しているのである。

 

  農村集落における子育ての協同ー和泊町国頭の事例ー

 和泊町は全国的にトップクラスの高い出生率をもつ自治体である。和泊町に存在する地域の相互扶助的な生活構造や子どもをめぐる地域活動などが、安心して子育てできる構造になっている。

 

 国頭の地域活動は集落全体としてとりくんでいるのが特徴である。集落の役員を中心に地域のなかにそれぞれにくまなく組をつくり、414戸を15の組に分かれている。元気な女性グループを中心に父親と共に子どもと一緒に地域活動をしている。国頭では高齢者のグループ活動も活発で、生き甲斐対策として、子どもとの交流活動を積極的に行っている。子どもとお年寄りが互いに学びあうことをしているのも特徴である。

 国頭は、農業に適さない貧しい集落であったので、隆起珊瑚礁という条件で、過酷な労働を強いられる海水を岩に干しての塩づくりをした。そして、島内くまなく歩いて、塩と米を交換して、生活してきたところ国は、2003年に「次世代育成支援対策推進法」や「少子化対策基本法」を制定して、2004年6月に「少子化社会対策大綱」を定めた。

 

 その大綱では、3つの基本的な視点として、第1に、若者自立が難しくなっている状況を変えていく、第2に、子育ての不安や負担を軽減し、職場優先の風土を変えていく、第3に、子育ての新たな支え合いと連帯ー家族のきずなと地域のきずなーと3つをあげている。大綱での第3の視点の子育ての新たな支え合いと連帯では、かつての家族や地域・集落が担っていた力を借りて、現代社会にふさわしい形で再構築をするとともに、子育てを社会全体で支援して体制づくりをしていことをあげている。