社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

現代社会の退廃問題から渋沢栄一に学ぶ

 

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

 

 

 
 現代社会の退廃問題から渋沢栄一に学ぶ
 

神田嘉延

 
 はじめに
 
 渋沢栄一は、新札一万円の人物に選ばれました。彼は経済人のモラルとして、「論語と算盤」ということで、道徳経済合一を論じた人です。その論は、経済を拝金主義の私欲ではなく、公益を考えたのです。そして、彼は、教育や福祉などの社会貢献を積極的にしました。
 
 現代社会は大企業の経営者の不祥事が相次いでいます。信じられない私欲に走っている状況が多いのです。また、政権幹部、官僚の不祥事も相次いでいます。社会全体のリーダーのあり方が大きく問われているのです。さらに、拝金主義が横行して、次から次へと詐欺事件が起きているのです。このような状況でお金の意味を人間社会のあり方から考えることは重要です。
 
 薩摩の郷中教育では、偽りを言わず、身に私を構えず、心すなおにして、上にへつらわず、下をあなどらず、人の艱難(かんなん)を見捨てず、温和慈愛にしてと節義を申し合わせていたのです。(出水兵児修養の掟より)昔むかしから、日本人の武士道のなかには、うそをつかない、困難な人を助ける、いじめをしない、私欲に走らないということを子どものときから教えられていたのです。

 経営者のモラルとして論語と算盤を書いた渋谷栄一から学ぶことが現代社会は多いのです。渋沢 栄一は、明治、大正、昭和初期に、日本の経済人のリーダーの位置にたった人です。1840年3月16日に生まれ、1931年11月11日に他界しています。

 渋沢は、第一国立銀行東京証券取引所を設立し、多種多様な企業の設立・経営に関わった人物です。王子製紙東京ガス東京海上火災保険、帝国ホテル、麒麟麦酒東洋紡績などその数は500以上といわれる会社設立にかかわっています。渋沢栄一は、財閥を作らなかったことです。それは、私利を追わず公益を図るという彼の考えからです。
 
 渋沢は、研究機関や大学の創立に深く関わっています。教育理化学研究所の創設者でもあります。東京商法講習所(後の一橋大学の前身の基盤)を創立し、新島の同志社設立に積極的に支援しました。
 
 さらに、日本最初の福祉施設である東京養育院を設立した人物です。社会活動・政治活動では、普通選挙をめざす活動や世界平和のために積極的に実業家として参加しました。
 渋沢 栄一の思想は、道徳経済合一論です。その内容は、「論語と算盤」という書物のなかで説いています。渋沢栄一は、論語を基本にして、経営者を対象にしての講義をしています。(論語講義として講談社の学術文庫(1)-(7)にまとめられていますので参照)。
 
 渋沢栄一の師は富岡製糸の初代工場長になった人です。
 
 渋沢栄一は、1840年、現在の埼玉県深谷市です。生まれた実家は、養蚕などで大成功した 名字帯刀を許された富豪農家でした。渋沢栄一の師は、尾高惇忠(おだか あつただ)です。渋沢栄一より10歳年上でした。かれは、1847年から1868年ごろまで自宅で塾を開いていました。
 
 渋沢栄一が尾高塾に通ったのは7歳です。その後数年間学んでいます。渋沢栄一の生まれところから尾高塾の距離は、およそ1キロメートルです。この道は、栄一が論語を習いに通ったことから、「論語の道」と呼ばれるようになりました。

 尾高の思想は、陽明学知行合一でした。彼の教育者としての力量が社会的に大きく発揮されたのは、官営富岡製糸場でした。初代工場長の尾高は「至誠如神」(至誠神の如し)の四文字を経営理念としたのです。その四文字の意味は、「至誠神の如し、才能があってもなくても、素質があってもなくても、たとえそれがどんなに小さくても、誠意を尽くせば、その尽くしている姿そのものが神と同じ、神の如し。何か事あるごとに至誠神の如しということを思う」ということです。
 
 攘夷倒幕から幕府使節団のパリ博への青年時代
 
 渋沢栄一は、 幕末の激動する時代に青年期を過ごしていました。多感な青年であった渋沢は、1840年アヘン戦争でのイギリスの清国に対する過酷な要求を知りました。この国際情勢のなかで、日本の植民地危機観をもったのです。今の幕藩体制では日本は植民地になると考えました。1863年に、高崎城のっとりを企て、武器を購入するのでした。

 かれの考えは、高崎城をのっとり、その勢いで横浜の外国人居留地を焼き払い、攘夷のための決起を計画するでした。計画の段階で、従兄弟に未然に知られたのです。親族との激論によって、決起が見送られました。
 
 その後のかれの人生は、大きな転機を迎えるのでした。幕府に計画を知られるのをおそれた親類は、伊勢参りの理由で深谷のふるさとを離れさせたのです。実際は伊勢ではなく京都にいくのです。偶然に京都で一橋家家臣平岡円四郎と出会い、日本の未来に対する考えで意気投合するのです。
 
 渋沢は、この出会いによって、自分が倒そうと思った幕府の一橋家に仕官する運命になるのです。これは、1864年の出来事です。かれが、二四歳のときです。1866年2月慶喜の弟の徳川昭彦団長とするバリの万国博覧会使節団の経理担当として随員することになる。二七歳のときです。
 
    新政府の官僚ではなく、実業家の道へ

 渋沢栄一は、ヨーロッパ視察で、先進国から学ぶことの必要性を痛感しました。近代国家での銀行や企業の合本組織である株式会社を知ったのです。そして、社会的な営利活動の重要性に関心を示すのです。
 
 その後に、この経験が基で、士魂商才の経営者として、渋沢の経理実務能力が評価されていくのです。この経験と尾高から論語を学んだことから、士魂商才の経営理念を模索していくのです。 幕府の崩壊後、慶喜の近くにいため、静岡藩に在住しました。静岡で合本組織である商法会所をつくるのです。これは、銀行と商事会社を兼ねたものです。
 
 1871年に大蔵省の仕官をさそわれ、井上馨のもとで働くことになりました。そこで、銀行条例をつくるのです。大蔵省の勤めはわずか2年ほどでした。井上薫汚職問題なども発覚して、かれにとって、官僚の仕事は合わなかったのです。

 1873年5月(明治6年)に大蔵省を去り、実業家の道へ行きます。このときは、井上馨山県有朋など汚職問題で江藤に追求されたのです。かれらは、辞職に追い込まれています。新政府の腐敗問題が深刻になっていた時期です。 三井組と小野組組は、明治6年8月に、国立銀行条例による共同出資での設立が、第1国立銀行でした。渋沢栄一は、総監役として経営に参画しました。

 このとき、小野組は、全盛をほこっていました。しかし、激しい国際経済からの為替の変動は、小野組の経済基盤を一挙に突き落とすのです。為替御用を担当していた小野組は、金価格の騰貴によって、急激なインフレに直面するのです。それは、明治7年8月31日の出来事でした。国債の膨大な発行が銀行紙幣と金の兌換のバランスが大きく崩れ、信用不安の結果で、巨大な損失を受けるのでした。
 
 第1国立銀行の再生と渋沢栄一

 小野組は、公金を無期限無利子で預かった特殊銀行でもあったのです。銀行からの借金により、営業の手を広げていた小野組は破綻するのでした。第1銀行の経営も怪しくなり、小野組と第1銀行の関係を整理したのは、政府であったのです。

 明治7年11月に大蔵省は、各府県に小野組に預け入れていた金銭をひきあげるように命じたのです。小野組は抵当をすべて銀行にさしだしました。この結果、第1国立銀行の実損はわずかでした。第1国立銀行は、三井組の支配権になり、明治8年1月に渋沢栄一が監視役の総監から頭取に就任するのでした。

 そして、第1国立銀行の改革を行うのでした。西園寺をはじめ他の株主との協力によって、銀行の総株を250万株から百万株を減じました。三井との取引を一般方法に改めることにしたのです。渋沢は、頭取としての経営権を確立していくのでした。

 この時代の銀行は、民間株主の共同出資による経営です。国立銀行条例によって、全国に次々に民間の銀行が生まれ、設立の許可順にナンバーがつけられていきました。全国で153の国立銀行が生まれるのです。国立銀行条例は1896年(明治29年)に廃止されて、渋沢が頭取をしていた第1国立銀行は、株式会社第1銀行となったのです。

  日本最初の福祉施設である東京養育院の設立
 
 渋沢は、1874年(明治7年)11月に東京府知事からの共有金の取扱りを依託されました。明治5年まで町会所が保管していたものが、町会所の廃止で東京府庁の管理になった。本来、東京市民の共有財産であったので、東京営繕会議を設置して、管理することとなりました。

 会議所は、ガス灯の設置、道路・橋梁の整備などをしましたが、国賓としてロシア皇太子が日本に来ることで、数万人の路上生活者が首都の東京にいるのはよくないということから、共有金で保護することとなったのです。これが、日本最初の福祉施設である東京養育院の設立です。渋沢栄一は、東京会議所の委員に選ばれ、府知事から委嘱されて、養育院の監督もするのでした。
 
 養育院の子ども達の発達の様子

 渋沢は、養育院を視察して、入所している子どものことを語っています。養育院の子どもは親から捨てられた子どもであるということから、食物と住居が成長にとって悪影響となっていたことがわかります。最も貧しい子どもよりも発育が悪いし、挙動が活発でないし、なんとなく気の重いとっころがあります。

 渋沢は養育院に入った貧困の子どもを次のように観察しながらのべています。栄養不足のためかと思いましたが、一般世間の温かい家庭に育つことがないことに起因しているのです。すねる、はねる、甘えるという自由さがないない。
 笑うのも泣くのも、自分の欲望を父母に訴えてこれを満たし、あるいはみたさんとするひとつの楽しみがないのです。誰に頼ろうという対象もなく、自然に行動が不活発になり、幼いながらも孤独のさびしさを感じているというのです。それが、子どもの発育に大きな関係があるのではないかを知りました。養育院の子ども達は、家族的楽しみを受けさせることが最も肝心なことであるとのべているのです。
 
 養育院事業の困難性
 
 渋沢が養育院で最初に直面したのは、厳格な取り締まりではなく、普通の家庭のように、家族的ケアのとりくみの組織化でした。岡山孤児院を創設した石井十次は1892年に東京養育院を訪問していますが、何の為すことをせずに養われ、働く人々が窮民のなかから選んでいるのです。俸給はわずかであったことから、その難しい現状を知ったのです。
 
 石井は、東京養育院をみてきたことによって、独自に労働によって自活できる方法の確立を探り、また、東京市営の公的施設の職員ではなく、子どもを援助指導するひとたちをキリスト教慈善事業の人としたのです。 渋沢はこの道ではなく、慈悲の心を国民全体がもつ必要があるということから、社会政策による国家の公営事業としての養育院に専念したのでした。
 
 養育院は福祉事業全体を包容
 
 東京養育院は、公営として、障害児教育施設、窮民を一時的に保護する施設、高齢者の施設として、福祉事業分野を包含したものでした。養育院の出発は貧困者の老幼混在施設であったのです。在院の人数が増えることによって、児童と成人、障害児童施設に分離するようになったのです。

 東京会議所の事業は、1876年にすべて東京府に移管されましたが、渋沢は、院長職を続けます。渋沢の経済を担う経営者として、慈善事業は不可欠な仕事であったのです。彼は、終生持ち続けたのです。
 
 養育院の経営は、東京会議所の所有地を売却して、第1国立銀行と協定を結び、年利6%を購入しての収益で、運営していく方法を確立していくのでした。社会事業組織の資金保全や運用を第1国立銀行で引きうけることを確立していくのでした。年利9%ことで支援するこもあったのです。
 
 渋沢は、養育院の廃止論にも闘ったのです。

 窮民が生まれるのは、自由主義経済の必然的結果であり、社会政策として、その汚点が生じないようにすることは、資本を提供する第1銀行の経営者たる自分の責任として自覚していたのです。資本・経営の立場にたつ渋沢は、経営者の社会的貢献としての福祉事業を社会的矛盾の解決の一つの方法と考えていたのです。
 
 そして、養育院は単なる収容施設ではなく、社会へ可能な限り社会復帰できるような施設として、教育を重視したのです。自活していくにはほど遠い窮民の児童教育に特別に力を入れたのです。
 
 一橋大学の前進の商法講習所の設立
 
 1875(明治8年8月)に東京会議所は、商法講習所を作ります。この提案は森有礼であり、その提案を助け、尽力したのが、渋沢栄一でした。アメリカ人教師ホイットニーを雇うことになりました。私塾形式の商法講習所として出発しました。

 学校管理運営の費用は、共有金から支払ったものです。しかし、翌年1876年に東京市の所轄になりますが、1879年に予算の半減になるのです。このために、渋沢は、独立した商業教育の必要性を痛感したことから、農務省の補助をとりつけました。1884年農商務省が管轄する学校となり、1887年に文部省の高等商業学校になっていくのです。

 16年間努めた矢野二郎校長は、アメリカの商業教育を模範として、学区内に銀行、郵便局、仲買、保険などを設けて実地教育、商業に必要な学習と実地教育をしたのでした。渋沢は矢野の実践教育を高く評価したのでした。帝国大学に対して低い位置にあったことから学問重視の批判が学内にあり、矢野は辞任し、1896年に学科課程が細分化されたが、商業道徳を正規の科目にしたのでした。

 渋沢は、旧来の経験よりも新しい学識が必要と考えていましたが、同時に人格や道理を身につけることの重要性を説いたのでした。東京高等商業学校以外にも私立商業学校、商業補習学校、中等商業学校など様々な商業学校の支援を渋沢はするのでした。

   渋沢は、他の大学の創立にも尽力しています。同志社大学創立と渋沢との関係は深い。渋沢は、新島の同志社設立に積極的に支援したのです。1897年に日本女子大学の女子教育活動の援助もするのでした。女子教育にも積極的にかかわったのです。
 
 経済人としての外交活動と平和教育の推進

 渋沢は、民のための外交を願っていたのです。日清戦争後の賠償金を整理公債や軍事公債にあてるべきではないと主張したのです。それらは、物価騰貴、投機熱になり、恐慌の引き金になるのではないかと一時的な貨幣の流入を警戒したのです。
 
 渋沢は、経済を自由放任、自由主義の立場から、賠償金を産業奨励に使うことに反対したのです。また、当時の欧米情勢からの脱亜入欧施策の金本位制度導入にも反対したのです。日清戦争後の軍備拡張によって、貿易収支が大幅な入超になり、外債による外資導入になったのです。渋沢は外債発行ではなく、民間への外資導入を提案していた。安易な公的な資金導入は、長期的に日本企業の国際競争力を弱めるというのが渋沢の考えであった。

 日露戦争後に、日米経済関係に大きな摩擦が起きていくのです。政府は軍備増強路線をとっていくのです。日本人移民排斥という人種差別が起きるのです。これに対して、渋沢は、組織的に行うために、商業会議所をとおして民間経済外交を積極的に展開したのでした。民間経済外交は、日本商品の流通にかかわる関税、輸送手段の値上げや商品にたいする苦情や批判にこたえるために業界レベルで対応するなど関心が高かったのです。

 1921年に81才の高齢にもかかわらず、ワシントン会議にオブザーバーとして参加しています。民間経済外交として、太平洋の平和と進歩に貢献するためであったのです。外相は平和外交推進役の幣原喜重郎で、首相は原敬であった。
 
 ワシントン会議終了後は、アメリカの対日感情が好転して行きます。大正デモクラシーのもとに世界平和を唱える国際交流が活発になります。しかし、第一次世界大戦の景気にによって、実業界に平和に対するモラルが低下したのです。

 1924年に排日移民法アメリカ議会で通過するのでした。日本国内に反米感情が増していくのです。アメリカの雰囲気が保護主義と結びつき日本に経済制裁を起きないように渋沢は努力するのです。普通選挙をめざす活動や世界平和のための社会活動などにも参加し、国際交流を推進する平和教育構想をうちだすのです。
 渋沢は、意識的に国際交流教育活動をとおして、日本の国際社会の存在を主張していくのです。世界は、常に進歩発達していくので、それに対応していくことが国際化ということで、実業教育を重視したのです。渋沢は、論語を基礎としての徳育を実業教育と関連させました。
 
 しかし、新島の徳育論を評価し、同志社を積極的に支援したことにみられるように、キリスト教批判になったわけではなく、実業と倫理の普遍性ということを大切にしたのです。ここに、世界と積極的に文化交流していて、国際協調主義の立場をとっている渋沢の姿勢がみられるのです。個人主義と国家的団結、経済問題と社会政策、実証主義の気風と宗教的理想主義、社会の現実に応ずべき教育と道徳教育などの世界がかかえている困難な課題は、西洋と東洋を問わず、世界文明がかかえている普遍的な解決すべき問題としているのです。そして、第一次世界大戦を契機として、国際の道徳として、弱肉強食の競争主義からの国家エコイズムの克服という平和教育の課題をあげているのです。
 
 労働運動に対応しての協調会の設立
 
 1919年に協調会が設立されますが、渋沢栄一は副会長になっています。このとき79才です。労働運動が高まっていく時期に渋沢は、資本と労働との調和という協調主義の立場をとったのです。経営側と労働者側の双方から委員を出して問題の解決していく方法を賛同したのでした。労働争議の調停機能を渋沢は期待したのでした。

 1916年に、喜寿を迎える76才のときに第1銀行の頭取の職を辞して、実業の世界を引退しているときです。渋沢は労働組合なしに正しい労使関係はないと考えていました。サミュエル・ゴンバースが指導するアメリカ総同盟の指導のもとに労働者の地位向上、賃上げ、権利確立に努力している運動に理解を示していたのです。日本の労働運動の指導者の鈴木文治に1915年にサミュエル・ゴンバースにあわせるために渡米させるほどであった。

 協調会は、労働者に対する講習や講演会を展開し、労働学校の経営を行った。また、政府に対する労働政策の建議や職業紹介をするのでした。さらに、労働問題に対する調査活動や雑誌の発行などもしたのでした。そして、欧米の労働問題の翻訳もしたのでした。協調会の活動は多面にわたっていたのです。
 
 渋沢は協調会をとおして、労使の食い違いを道徳的に、人情的に解決しようとしたのです。当時の経営者は、労働組合を危険視していたので、渋沢のような考えは少数派でしたが、大正デモクラシーの影響のもとに、社会政策を重視する新官僚が育っていった。内務大臣の床次竹二郎を中心に、渋沢日本工業倶楽部に参加する財界人、桑田熊蔵法学博士、松岡均平法学博士等の学者も加わりました。
 
 推薦された大日本総同盟友愛会の鈴木文治は、労働組合抜きの協調会であるとして、参加を拒否したので、労働代表は加わっていない。
 
 青年団運動の精神的支柱になっっていた田沢義鋪は、渋沢の強い意向で協調会の常務理事になりました。かれは、労務者講習会ということで、青年労働者の修養に力を入れた労働者教育活動を積極的に推進するのでした。講習の受講者は、修養団体に入団して、団員を拠点に各企業で活動するのでした。
 
 協調会が経営していた中央労働学園は、戦後に法政大学に移管され、社会学部となり、協調会が収集した資料は、法政大学大原社会問題研究所が管理して、公開しています。

渋沢栄一の思想を論語と算盤からみる
 
 渋沢の士魂商才とは
 
 渋沢の学問論は、日常生活の指南です。そえは、人生処世上の基準になり、実際を離れたものではないとするのです。 渋沢栄一は、人の世に立つには、武士的精神が大切と考えたのです。商才がなければ経済が自滅するとみたのです。士魂養成は論語が根底にあるとしたのです。渋沢は、論語の教訓に従って、商売し、利殖を得ることができると考えたのです。
 
 かつて、商人のなかには、商売に学問は不要であるという見方が強くあったのです。むしろ、商売にとって、学問は、害になるとしたのです。渋沢にとって、論語の教えは、広く世間の効能があるとみたのです。
 
 論語は元来わかりやすいものです。学者が論語の解釈をして、むずかしくしていると渋沢はみるのです。商人や農民は論語を手にすべきではないというのは間違いです。因果の関係は、ある一定の時期に達するまでは、人力で到底形勢を動かすことができないのです。形勢をみて、気長に時期の到来を待つのです。
 
 常識とはなにか。それは、智恵、情愛、意志の三者が均衡に保ち、発達していくことです。智恵は、物を識別する能力、善悪是非の識別、利害得失の鑑定、利あることを利ありと見分ける力をもつことです。どんなに学問であっても、善悪是非、利害得失の鑑定に欠けた人であれば、常識のない人間です。
 
 渋沢は問いかけます。人格の標準はどうなのか。人と獣はどう異なるのか。人は徳を修め、智を啓(ひら)き、世に有益なる貢献を為すことによって、真の人となる。元気とはいかなるものか。いたって大きく、いたって強く、道理正しく至誠をもって養って、それがいつまでも継続することです。
 
 ところで、算盤と権利の関係を考えていくうえで、論語主義は、権利思想がないというのは誤りであると渋沢はみるのです。キリスト教の愛と論語の仁とは同じです。自動と他動の違いがありますが。仁にあっては、師に譲らずという論語の思想です。人間行為の定規は、王道あるのみです。
 
 合理的経営は道理をもって処するのです。論語をもって商売上のバイブルとしてきたのが渋沢です。一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益していくのでなければならぬという見方です。多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して継続して、繁昌しなければならないとしたのです。渋沢は、このことを常に心がけたのです。
 
 渋沢にとって、武士道は実業道です。日中間は、同文同種の関係です。隣接する位置よりも古来より思想、風俗、趣味の共通する点があります。相愛忠汝(そうあいちゅうじょ)の道をもって交わるべしとしたのです。渋沢にとっての隣国たる中国は、バイブルであった論語を生んだ国であり、文化、思想の共通性からの相愛忠汝の国際関係は重要なことであったのです。
 
  渋沢の思想は道徳経済合一論です。かれは、経済人として、日本の近代の形成における公益追求者であったのです。渋沢栄一の思想の説得力があるのは、経済人として、実践的に数々の成功を遂げたことが大きいのです。
  
    自己の適材適所と処世・信条
 
 渋沢にとって、人は平等なりという根本的な見方をもっています。適材適所に置くということです。適材適所の配属は、道具を使って自分の勢力を築こうとするものではないのです。適材適所は、国家、社会に貢献していくことが目的です。
 従って、この信念のもとに人物を待つとしています。巧みに人をあざむく色彩をもって、人をはずかしめ、自分の思うままの家来として、人を封じ込めてしまうようなことは決してしないことを渋沢は強調しているのです。
 
 活動の天地は自由でなければならないというのが渋沢の信念です。自由自在に大舞台に乗り出して思うままに活動してくれることを願っているとするのです。人は節制ある礼譲ある平等でなければならないとしています。お互いにおごらず、あなどらず、互いに相許してわずかなことまで乖離することがないように勤めるように渋沢は努力するとしています。

 争いは決して排除すべきことではないと渋沢は考えます。処世のうえにも、発達進歩のために必要なことです。むしろ重要なことは、その解決方法が真髄なのです。渋沢は、争いによって、問題が解決していくこととして、積極的に位置づけているのです。かれが、晩年に労使の話し合いを制度的に提起した協調会の創立に尽力したのもかれの争いを積極的にとらえようとする思想からです。

 渋沢は、自己の維新前のことを振り返りながら逆境について考えるのです。真の逆境とはいかなる場合をいうのでしょうか。時代の推移、常に人生の波瀾のあることはやもえない。逆境は絶対にないことはありません。人為的逆境であるのか。自然的逆境であるのか。どのように考えますか。
 
 自然的逆境は、自己の本分であると覚悟するのが唯一の策です。足を知り分を守ることです。天命であるからしかたがないと考えるのです。この場合も一般的には、人為的に解釈していくことが多いのです。人間の力でどうにかなるものであると考えると苦労が増すのです。

 人為的逆境の場合は、何でも自分に省みて悪い点を改める外ないのです。それは、自動的なもので自分からこうしたい、ああしたい、こうしたいと奮闘すれば、大まかにその意のごとくになるものです。しかし、多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとせず、手前の方から故意にねじけた人となって、逆境を招くようなことになるのです。
 
 渋沢が青年で最も注意すべきことに、喜怒哀楽の問題であるとのべます。喜怒哀楽の調整が大切なのです。酒を飲み、遊びもするが、淫せず、やぶらずということを常に肝に命じていたのです。何事も誠心誠意することです。
 
 わざわいがやってくるのは、多くは得意になっているときです。調子にのるとわざわいをつくりやすいのです。得意時代は気を緩めず、失意のときは落胆せず、道理をもって処する必要があると渋沢はのべるのです。
 
 渋沢は、大事と小事のことを考えることも大切としています。小事は、軽く考えがちになるのです。大事は、いかに処すべきかを精神を注ぐものです。小事については、頭から馬鹿にして、不注意にやり過ごしてしまいます。小事かえって大事となるのです。大小にかかわらず、性質ををよく考慮して、処するように心がけることが必要とみるのです。
 徳川家康の遺訓は、処世の道を説かれていますが、それは、論語が出たものとしてのべています。家康の有名なことで、「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」「己を責めて人を責むるな」「不自由を常に思えば不足なし、心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すばし」は論語から出たものです。
 
 
   智慧と情の調和
 
  渋沢は智慧と情の調和は次のように考えます。功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面は遠くなります。智慧の弊として、術数に陥り、欺瞞詐欺を生ずる場合があるのです。情は、自己本位をもって他人の迷惑や難儀なぞ何ともおもわね人間になってしまうことに対するひとつの緩和策です。
 
 情の欠点は、感情の弊が起きます。ここに確固たる意志が大切になってくるのです。智慧と情愛と意志を適度に調和したものを大きく発展できる人が常識をもっていることになります。誠意がなく、所作の巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
 智恵、情愛、意志の三者が均衡に保ち、発達していくことです。智恵は、物を識別する能力、善悪是非の識別、利害得失の鑑定、利あることを利ありと見分ける力をもつことです。
 
 智は策術や功利に走る欠点があります。それは、仁義道徳から遠くなります。人間世界から情をはずしたらなにもかも極端に走るのです。情の欠点は、喜怒哀楽より生ずるのです。事柄は変化が強いので、感情に走りすぎるのです。
 意思は、情を抑制します。意志は精神作用中の本源です。強固な意志であれば、人生においてもっとも強みになります。意志の強さは頑固もの、強情なるものと異なるのです。意志の強固さと聡明なる智恵を加味し、これを調節する情をもって、完全なる常識となります。
 
 どんなに学問があっても、善悪是非、利害得失の鑑定に欠けた人であれば、常識にない人間です。功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面は遠くなります。智慧の弊として、術数に陥り、欺瞞詐欺を生ずる場合があるのです。

 情は、自己本位をもって他人の迷惑や難儀など、何ともおもわね人間になってしまうのです。情の欠点です。ここに確固たる意志が大切になってくるのです。智慧と情愛と意志を適度に調和したものを大きく発展できる人が大切になってきます。 心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすいのです。誠意がなく、所作の巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
   真正の利殖法とはなにか 
 
 真性の利殖法について、渋沢は考えます。仁義道徳がなければ決して利殖は永続きはしないというのです。空理空論なる仁義では、国を元気にしないし、物の生産力を薄くしてしまう。
 物を進めたい、増したいという欲望は常に人間の心にもたねばならない。しかし、その欲望は道理によって活動することが必要なのです。道理と欲望は、相密着していることが大切なのです。
 
 孔子も生財と善意の競争を強調していると渋さはのべます。孔子の貨幣富貴観 仁義王道と貨幣富貴を統一して孔子は考えています。この二者は両立しがたい考えがちですが、論語の正しい解釈で問題が解決するのです。 大学には生財の大道をのべています。一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係から政務をのべているのです。
 
 競争には、善意と悪意があります。朝早く起き、善い工夫をなし、智慧と勉強とをもって打ち克つのはよい競争です。他人の企てたことをかすめとることに翻弄することは、悪い競争です。悪質なる競争を避けることは、論語の勉強です。
 
 渋沢は、利の行為において、仁義の重要性を指摘しているのです。利にとって、仁義は絶対的な条件なのです。利は、公利を害せぬように道理に照らすというのです。仁義道徳がなければ決して利殖は永続きはしないのです。空理空論なる仁義では、国を元気にしないし、物の生産力を薄くしてしまう。

 商業は、相愛忠恕です。忠恕(ちゅうしょ)とは、孔子の唱えた人間の最も本能的で基本的な徳です。「忠」は人間が自然に持っている真心です。「恕」は人間が自然に持っている思いやり)の道をもって交わるべしというのです。
 
  利殖は、仁義道徳を基礎にしていなければ、永続しないと道徳経済論を強調したのが渋沢栄一です。金銭欲による弊害の罪は金銭からではない。金銭は、社会の力を表彰するのです。これを貴ぶのは正当です。必要の場合に、よく集めてよく散じて社会を活発にします。
 経済界の行為は、世の中の進歩を促すものです。金銭を善用するという仁義道徳が経済人に求められているのです。以上にように、道徳と経済を合一することによって、経済の行為が社会的な貢献になると渋沢はのべるのです。
 
 
  人間を見る目
 
 孔子の遺訓の人物観察は、視、観、察です。視は外形からみるのです。観は、心眼を開いてみるのです。その人の安心はいずれにあるかみる必要があります。その人は何に満足して暮らしているか。その行為の動機の精神が正しくなければ、その人は決して正しい人ではないのです。行為と動機と満足する点の三点がそろっていれば、その人は正しいのです。

  動機と結果の関係があります。心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすい。誠意がなく、振る舞いの巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
 参考文献
島田昌和「渋沢栄一社会起業家の先駆者」岩波新書
木村昌人「渋沢栄一・民間経済外交の創始者中公新書
渋沢研究会編「公益の追求者渋沢栄一」山川出版