社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ハイエクの「自由の条件・自由の価値」から人間らしい自由な労働過程の創造


  ハイエクの「自由の条件・自由の価値」から人間らしい自由な労働過程の創造
              神田 嘉延

    自由とは、どのようなことか。本当の自由とはどういうことなのか。また、自由の条件とはなにか。ハイエクは、「自由について、人と人との関係であり、人びとによる強制がないこと」をのべる。政治的自由という政府の選択、立法の過程や行政の管理に人びとが参加すという集合的生活での自由を集団に与えることと、個人としての自由は異なるとみる。自由の定義を考えるうえで、ハイエクは、人と人の関係での強制がないことを強調したのである。ここでは、社会的な関係や社会制度、社会的慣行、宗教・信仰、法やルールとの関係で、集団の生活のなかで秩序をもって人びとは生きていくが、そこに強制という力が働くどうかどうかが重要になってくる。
 
 第二に、内面的自由は、他人による強制ではなく、一時的な感情、道徳的、知的な弱さの影響であるとハイエクは指摘する。無知や迷信に妨げられないために、知識が人を自由にするということで、意志の自由が内面的に自由に関連してくる。

 さらに、第三に、欲することを実行できる物理的能力、われわれの願望を充足するということで、障害からの自由をハイエクはあげる。これは、万能を意味する自由、権力としての自由、冨としての自由がある。
 以上のように、ハイエクは、自由について、政治的自由、内面的自由、権力と冨として障害からの自由として、三つの形態の自由概念を整理する。

 自由は、権力からの自由、絶対的な権威からの自由として、近代社会の形成期に確立してきたのである。ここでは、基本的な人権の問題が人間的な自由として、大きな課題になったのである。
  国際的には、世界人権宣言が1948年の国際連合で人類普遍的の原理として、その内容が採択されるのである。「すべての人間は、生まれながらにして、自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同朋の精神をもって行動しなければならない」と、自由との関係で、理性と良心、同朋の精神の重要性を宣言したのである。自由については、「移転・居住の自由」、「思想・良心・宗教の自由」「表現の自由」「集会・結社の自由」という市民的な自由の保障を世界の普遍的な人権として共有の宣言をしたのである。そして、差別の禁止、生命、自由、身体の安全、奴隷・苦役の禁止、拷問・虐待・残虐刑の禁止、法の前の平等を享有することを重視したのである。

  労働に関する権利として、職業を選択する自由と自己及び家族に対して人間の尊厳にふさわしい生活を保障する報酬を受けることの大切を指摘した。教育については、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならなとしたのである。また、文化に対しての権利は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵にあずかる権利を有するとしたのである。

 1946年11月3日に交付され、1947年5月3日に発布された日本国憲法は、世界人権宣言よりも先駆けてつくられたものである。その理念は、世界人権の精神と同じである。
 日本国憲法では、「基本的人権を人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪へ」と自由の獲得の歴史を大きく位置づけたのである。そして、「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と将来に対しても永久普遍的な人類的な原理としてとらえたのである。

 ハイエクは、古代ギリシャ奴隷解放の自由の宣言の四つの権利を引き合いにだして、自由の普遍的な原理を問題提起している。その4つは、1,「共同社会の一員として保護される法的地位」 2,「恣意的逮捕からの免除」 3,「本人の希望に従って働く権利」4,自身の選択に従って移転する自由」を与えたことである。そして、財産所有の権利を加えて、18世紀、19世紀の自由の本質的条件として、それらをハイエクは近代の自由と考えるのである。

 ハイエクは、文明社会で生きている人びとはおのれの無知を認めることが深い意義を有するとする。
 彼は、高度に発達した文明で生きていることで、自分が知っている多くの知識から個人は利益を受けているとしている。そして、ハイエクは自らの目的を達成するために、自分の得た知識よりも多くの知識を利用することができ、自分がもっていない知識から利益を得ることによって無知の境界を乗り越えたときに、文明がはじまると力説するのである。

 ハイエクは、文明のはじまりは人びとが無知であることを認識することからであるとしている。また、社会がどのように動いているかを理解しようとするならば、社会についてのわれわれの無知の一般的性格や範囲を規定することからはじめなければならないとする。人間がみずからつくりだしたものの結果として、その意識的知識の限界、その意識的行為にとっての意味と無知の範囲は絶えず増大し、無知の範囲が科学の前身とともに増大するとみたのである。文明化すればするほど、知識の分化が進み、個人の無知を不可避的に増大するとハイエクは強調するのである。
 ハイエクは無知の承認の上に自由擁護論があるとするのである。個人のもつ知識はきわめて乏しく、最善の知識をもっていることは稀で、われわれは多数の個人の独立した、また競争的な努力に信頼して、われわれの望むものを出現せせようとすると考える。

 さらに、続けて、ハイエクは無知の認識から努力の相互調整がはじまるとする。多くの人びとによる努力の相互の調整は、個人が所有する以上の知識として、知的に統合することのできる以上の知識が利用できる。個人が洞察すること以上のことが達成可能となる。自由は、個人の努力の直接的統制の放棄を意味する。もっとも賢明な支配者の頭脳が包含するよりも、はるかに多くの知識を利用することができると考える。

 行為の自由が大切なことをハイエクは次のようにのべる。「知的領域の前身は予想外で意図しないものから生まれてくることがある。この領域の自由性を過度に強調して行為の自由を無視しがちである。探究と信仰の自由や言論の自由は、その重要性が広く理解されているけれども、さまざまの新しい真理が発見される過程の最後の段階で重要な意味をもつにすぎない」。

 自由と責任は不可分であるというのがハイエクの見方である。
 自由な社会が存在するためには、各人の行動から生ずる地位を正当とみなし、その地位を各人の行動に起因するものとして受け入れることが求められるとハイエクはみる。自由な社会は個人に機会のみを提供することができるが、努力の結果が無数の偶然に依存するにかかわらず、自由はかれが統御することができる環境のみに注意がむけられる。
 
 さらに、自由と責任に関係で、両者の衰退について、ハイエクは次のように指摘する。「個人の自由に対する信念がかたいときには、個人的責任の信念も強固である。個人の自由と個人の責任の衰退は、近代科学によってである。 責任は法律的概念であり、道徳的疑念でもある。社会秩序の機能にたいするわれわれの全体としての態度、それぞれの個人の相対的な立場のきまりにたいするわれわれの承認あるいは否認が、責任にたいするわれわれの考えと密接に結びついている」。

 この概念は強制の範囲をはるかに超えているとハイエクは考える。責任を引き受けることのできることは、合理的な行動にたいする能力を前提としており、それは、学ぶこと、予想すること、行動の結果についての知識を必要としている。合理性とは、個人の行動のある程度の統一性と整合性、それから知識や洞察が、継続的な影響を与える。自由を求める議論が責任を引き受けることのできる人にのみ適用できることを意味する。
 
 自由社会の知識の最大源の利用と教育についてハイエクは次のようにのべる。「自由社会の目標は、一個人が獲得できる知識の最大源の利用を保証する機会と誘因の両方を提供することである。個人を独特なものにするには、かれの一般的な知識ではなく、具体的な知識、すなわち特定の環境と条件に関する知識である。人の能力をうまく利用する方法は、社会にとって有益になる。人に使われることをあてにする技術家、自分にとって適当な場所を自分で発見できない技術家、自分の能力や技術の適切な利用を保証するのは他の人の責任だとみなう技術家たちを訓練しても自由社会のための教育にならない」。
 ある特定のどんなに有能な人でも、その才能から最大の便益をひきだせる人たちに自分の才能をしらせる能力をもっていなければ、自由社会ではその人物のサービス価値はどうしても低い。
 ハイエクは、自分のもっている能力を最大源に有用性と関連づけていく方法が大切としているのである。教育についても、その有用性との関連を次のように指摘するのである。「有用性が個々の利用方法によって決定されることで、教育と気風をそれに従って調整しなければならない。報酬は技術に対してではなく、技術の正しい利用に対して与えられる」。
 才能をもっているから特定の地位が保証されるものではなく、その機会を与えてくれることをハイエクはのべる。「特定の職業を選ぶ自由があり、指定されることのないかぎり技術を運用できるのである。才能はどんな特定の地位を資格づけるものではない。ある機関の判断によって特定の地位に人をつかせる権利と権力をもつのである。自由社会が提供するのは、適切な地位を求める機会だけである。人の才能にたいする市場は不確実性はさけられない」。

 ハイエクは人びとが生まれながらにして異なり、人間の多種多様であることを重視し、平等に扱うことは物理的な不平等をつくりだすことを指摘する。
 かれは、個人の能力、潜在的能力の広い範囲にわたって人は、無限の多様性をもっているとする。法の前の平等ということで、人間は生まれながらにして平等であるということと、人びとが非常に異なっている事実から平等に扱うことは別である。物質的な平等と法の前の平等は対立するのである。法の前の平等は自由にとって必要なことであるが、等しく人を扱えば、物資的不平等が生まれる。平等の秩序は、不平等の結果の秩序をもたらす。

 被雇用者についてのハイエクの自由や創造性の見方については厳しい。
 かれは、被雇用者は自由を行使することに直接に関心をもたないと断定している。自分で意志決定を行わずに生活できるので、その必要性がわからない。功績と報酬について、独立者とはまったく違った見解をもっている。
 被雇用者の自由の関心のないことは、社会全体に浸透していくハイエクはみるのである。多数の被雇用者が、かれの生活規律やその考え方を、その他の人びとにおしつける傾向のために、今日、自由は深刻に脅かされているというハイエクの認識である。ハイエクは、被雇用者によって、自由社会の衰退に深刻性をもたらしているとするのである。
 ハイエクはさらに、被雇用者の現実は、自由であるとする。被雇用者の生活のなかで自由の行使がほとんど関係ないとしても、これがかれらが自由でないことを意味しない。多くの人びとが雇用を選ぶのは、独立の地位よりも、かれが望む生活を営むためのよりよい機会を提供してくれるからである。独立が手の届かないものではなく、雇用が満足のいく行動を提供し、より高い所得を提供してくれるからであると。ハイエクの労働力市場の雇用の安定、高い所得の見方は、楽観的である。労働力市場においても競争の原理が働き、そこでの安定性と不安定性、正規雇用と非正規雇用、熟練労働・専門労働と単純労働等の階層性の厳しい状況を大きく見落としている。
 
 なぜ、被雇用者は自由に関心をもたないのか。
 それは、労働過程の命令的な割り当てにあるとハイエクは考える。被雇用者は、労働を売る報酬として定期的な所得を求めるために、労働時間を他人が割り当てた仕事にふりむけなければならない。他人の命令どおりに行動することが条件になる。時々いやになるかもしれないが、通常、かれらは強制されているという意味での不自由ではない。競争社会において広汎な失業期間を除いて。特定の仕事のために契約を強制することはできない。特定の支配者のもとで労働を継続的に強制されることはない。被雇用者の自由が、いろいろの種類の雇用者が多数存在するこのに依存している。

 ハイエクは被雇用者は創造的あるいは実験的ではほとんどないとみるのである。
 それは、かれらの仕事の多く制約されているからであると。より能力があるとしても、割り当てられた仕事を進むことができない。割り当てられた仕事は一定の領域に限定され、あらかじめきめられた分業にもとずいて必然的に制約されるとハイエクは考える。

 ハイエクのみる労働者は、経営に考えることもないし、温情的な社会サービスも供給されている身分であうとする。「被雇用者は、資源を管理する人びとや、たえず新たに調整や組み合わせにたずさわなければならない人びとの責任についてほとんど理解していない。財産や所得の利用にかかわる意志決定の必要性をほとんどしらない。被雇用者の道徳水準は、独立者とは全く異なるのである。かれらが多数派形成している民主主義社会では、社会的正義の概念がほとんど被雇用者の階級に必要性によって調整される。法律ばかりではなく、制度や業務慣行にもあてはまる。温情的な社会的サービスの供給は、かれらの要求にあわせて仕立てられる」。

 ハイエクの被雇用者が自由に関心がないという指摘とその理由について、割り当てられた労働の命令ということが指摘されているが、これは、雇用関係の本質的な問題にかかわることで、賃金が割り当てられた仕事に対する報酬ということで、創造的な実験的労働でなく、経営に参加していないなかでは、その責任について理解することもできない。ここでは、あらためて被雇用という人間関係について経営における労働の支配ということで問題を整理していくことが必要である。

 被雇用者は、労働の行為が経営の参加から分離しており、働くことが与えられた業務をこなしていくことが報酬に対する義務となっているのである。労働自身が経営や資本から分離していることが、労働の疎外現象を起こしている本質をみていかねばならない。そして、企業規模が大きくなるなかで、組織の官僚化も進行して、分業体制に拍車をかけて、部分人間になっているのである。
 そこで、雇用関係における人間らしい働き方、経営の参加、創造や実験を労働過程のなかで積極的に導入していく方法を開発為ていくことが求められていくのである。産業民主主義の課題である。
 労働者協同組合(ワーカズコープ)や企業におけるアメーバー経営など産業民主主義の新たな挑戦もはじまっている。経営者や労働者の労働過程のなかでの新たな変革が求められているのである。そして、雇用契約のあり方も経営参加を積極的に可能にしてことも模索していくことが求められているのである。