社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ハイエクの著書「法と立法と自由」から考えるルールと秩序ある社会の形成


   ハイエクの著書「法と立法と自由」から考えるルールと秩序ある社会の形成
                                      神田 嘉延
                                      
  ハイエクは、モンテスキュー等の18世紀の思想家たちの自由主義立憲主義の立法、行政、司法の三権分立が200年間機能しなかったのはなぜなのかと問うのである。
 立憲制とは制限された政府を意味するが、多数者の意志を制限しないところの民主主義政府が全体主義体系に漸次変換していっているとする。
 それは、個人的利益から独立した正義への信念の喪失ばかりでなく、代表議会における正義に適う行動ルールの仕事と政府の行政的仕事の融合がなく、集団による組織された利益の連合が、多数派民主主義の無制限政府形態がもたらしたもとする。

 適切な社会秩序は、行動する人間のルールから解き明かすことが必要とする。人間が経験から学ぶことは、推論の過程ということではなく、成功に結ぶついたものを一般化し、実践を守り、広げ、伝え、発展させる過程であるとする。それは、実践が行為する個人にはっきりした利益を与えたためではなく、自己の属する集団の生きる機会を広げたからである。
 この発展の結果は、明確に表現された知識の形をとらず、ルールという形で記述されるといことでである。これらは、知性の産物ではなく、ルールに従った行為が競合する個人や集団の成功である。つまり、そのことが、個々人の行動を支配するようになったのである。

 すべての社会が秩序をもたねばならないが、それは、熟慮のうえでの創出したものではない。大部分、ニーズを満たすためには、他人との協同、他人の行為に期待し、他人との対応に依存している。
 自生的秩序を支配するルールは、意図から独立していなければならないとハイエクは考える。つまり、社会の秩序は、人間にとって、自らのニーズを満たすために、他人との協同、他人の行為に期待していることから生まれているということである。社会の秩序と人間が本質的にもつ協同の営みは一体のものなのである。
 組織のルールは、命令に従属的にならざるをえず、他人との協同、他人に行為に期待することのギャップを埋めるのが仕事となる。自生的秩序は、みずから作用する様々な諸要因の全てをバランスさせる各要素から生じるのであり、行為の全てを調整することによって生まれたものであるとする。

 ハイエクは社会的正義の達成は幻想であるとする。ロールズの正義論についても批判する。個々人への強制は、それが一般福祉または公共善に貢献するならば、自由の伝統的な公理から許容される。しかし、共同の福祉、公共善があいまいで、支配集団の利益を与えることに機能してきたとハイエクは考える。
 多数派議会主義の民主主義政府に求められてきた公共善のなかで、最も重要なものは、特定の充足ではなく、個々人や小集団のニーズを相互に提供しあう諸条件を保証することであった。社会にける合意や平和を可能にするには、個々人の目的についての合意を求めることではなく、多種多様な意図に貢献できる手段に合意を求めることであるとする。
 そして、目的ではなく、手段についての合意は、協力方法の発見ができるかどうかに関心をもつことになる。異なる目的の多様性が、全く異なる目的を追求している人びとに対して、実際の結果が予測できないからこそ、あらゆるる人の助けになると思われる一定の多目的手段に合意させる気にさせるのである。個々にとっての目的の達成は、まさに幻想にすぎないのである。多数派議会の民主主義的合意は手段なのである。
 集合利益が、社会全体の一般利益になるには、互恵的原理を考える必要がある。
それは、集合利益の充足が負わなければならない負担以上の利得を意味することを全員が認める場合に限ってである。しかし、法を定める社会全体にとって一般的利益は稀で、個々人の相互的、互恵的有利性のバランスをもつ限りの一般利益である。多くの場合、一定の諸集団の集合的利益を充足することは、社会の一般的利益に反することになるかもしれない。組織された利害関係者の共謀によって形成された多数派が一般利益を定めるのであるとハイエクは考える。

 それらは、政治家が選挙民の支持を獲得できるためのサービスの提供の結果であり、権力に対する有効な手段である。多数派が望むものならなんでも一般利益であると定めるのは誤りである。特定集団の集合財の提供は社会の一般利益なならないことが少なくないとハイエクは考えるのである。
 古典的自由主義が目指した社会秩序は、正義に適う個人の行動の原理であったが、現在では、権力をもった当局に正義の義務を課すということで、政府に人びとに強制を課すところの「社会的正義」に対する要求を満たそうとすることになっている。他の人々を強制する口実となる場合に、自由文明の価値に対する最大の脅威になるとハイエクは指摘する。

 ここでの強制を課すところの「社会的正義」は、全く新しい道徳的価値であり、個人の自由という価値を捨て去る悲しむべきことである。「社会的正義」という概念は、命令経済でしか意味を与えることができないとハイエクは考える。つまり、中央指令体系でしか実現できない。人びとは明確に定められた指令によって導かれているとする。それは、自由な人びとからなる社会のように、正義に適う個人行動のルールによって導かれるのではない。
 正義に適う個人行動ルールのいかなる体系も、個々人のどんな自由な行為も、何らの分配の正義の原理を満たす結果を生み出すことはできない。「社会的正義」は、平等主義的な考察からみている。市場体系における収入は、成功や失敗、腕や勤勉性の依存、運に依存して、格差が生まれてくるものである。個々人は自分の運命の不正義がある。ローズが指摘する「社会的正義」は、個人の自由を破壊する傾向をもつ。「社会的」、「経済的」、「分配の」、「再分配の」正義という組み合わせは、個人の自由という大切なものを捨て去ることになる。「社会正義」や「平等主義」が個人の自由を侵していくというのである。ハイエクにとって個人の自由が最も価値あるものと考える。個人の自由を尊重する社会的秩序は、社会的ルールと法によって保証さていくとみる。
 自由人のための政治秩序をどう考えていくのか。
ハイエクは多数派の意見による現代の民主主義の手続きが、無制限の権力になり、全体主義傾向をもってきたと指摘している。多数派の議会により、政府の統制がきかなくなっているのである。民主主義の制度が法の支配によって拘束されるという伝統が機能せず、全体主義的民主主義になっているというのである。つまり、人民投票による独裁政権になっていると考える。

 行政サービスの費用は各人が支払うことに同意することではなく、各人が受け取るサービスの代価を、同じ統一基準に従って、共同基金の支払いに同意することである。公的部門の総体的規模を決定するのは、課税水準に関する規定である。他の人が費用を支払うだろうという信念を助長する課税方法は、個人が実際に望むものを越える公共支出の持続的増大を生み出すに違いない。
 多数派による決定は、他の人々の財布から支払うべき支出に関係しているという印象をもつ。この場合は、支出が利用可能な資金に適合させらるということではなく、支出に応じて資金調達がされるということになる。現行の多数派議会主義のシステムは、無責任に浪費的な支出を促す誘因になる。
 病人、老人、心身に障害のある人、寡婦、孤児のような市場で生計を立てることのできない人びと、不利な条件に苦しんでいる人びとの扶養問題は、現代社会において重要な社会政策になっている。すべての人に対する最低所得の保障は、自分自身が扶養することができないとき、万人に共通の危険に対する合法的な保護である。それは、地域共同体の絆の崩壊、高度に流動化した開かれた社会の発展の結果、自分が生まれた特定小集団の成員に特別な請求する権利をもつことができない。社会がなすべき必要な事柄になっている。

 年金などの扶養問題や疾病などの社会保険は、課税によって調達される。市場の機能からみれば、不平等を増大させる意図になる。雇用契約として任意ではなく、強制保険によって用意される場合は、報酬の減額がされる。これらのことは、自由主義的政策原理の普遍的な適応に対するひとつの制限が存在するのである。市場の自由に対する制限は、社会保障社会保険などによって、制約を受けるとハイエクは述べるのである。
 政府の独占的サービスは、通貨発行と郵便業務があるとハイエクは指摘する。これらは、人びとのよりよいサービスを提供するためではなく、行政権力を強化するためであった。郵便の独占権は、市民間のコミュニケーションを政府が管理したからである。最初の郵便業務は、政府ではなく、私企業であった。政府による輸送、エネルギーの公共事業経営も同様である。政府は情報を分配するもっとも有効な機関の機能をもっという主張は疑わしいが、政府がこの任務を先取りすることによって、他の人々がいっそう効果的に遂行する機会はなくなるかもしれない。政府は少したりとも情報の分野に立ち入るべきではないという主張は困難である。しかし、どのような形で政府は、情報のサービスを供給すべきかという問題があるとハイエクは提起する。
 ハイエクは教育の整備も政府の大切な仕事であるとする。
 教育の場合は、子ども達や未成年達は責任ある市民ではないことから自分たちが何を必要としているか知っていない。しかも、知識の習得に当てることのできる資力をもっていない。大人にも適応せれるのは、持っている能力を気づかせるために、自己の潜在能力を伸ばすために必要である。それは、初期段階の援助を受ける場合のみである。政府が一般教育に財政負担を支持する強力な議論も、政府によって教育を管理させるべき、教育を独占させるべきということを意味しないとハイエクは強調する。

 建築規制、純正食品法、ある種の職業認可、ある種の危険な財の販売に対する制限、最低の衛生基準を満たすこと、医者のようにある種の能力を証明が必要な場合に、一般ルールによって効果的に許可する政府の役割がある。これらは、政府が市場過程の作用に重大な支障を与えることではない。許認可権は政府の公的な重要な役割であるとする。

 市場における競争は、もっぱら前もって誰が最善のことをするかわからない場合に、賢明な手続きである。競争は、次善の人よりもいっそうよいことをしようと誘因してくれる。競争は有利な条件の下では、他の知られたどんな手続きよりも、より多くの技能や知識の利用を生み出す。
 競争は、人びとが知識を習得・伝達する過程とみなければならない。われわれは利己心に依拠する。利己心に依存してもっとも経済的な生産方法を見いだすとともに、かれらが最大の利益をもたらす。
 生産技術の競争的な改善は、自分がリードしている間に一時的な独占利潤を得ようとする各人の努力がある。独占が他の誰よりも顧客にサービスを奉仕することで、独占的立場を保護したり、その維持を助けたりするための根拠を与えるためではない。以上のようにハイエクは競争による一時的な独占利潤の必要性を強調するのである。
 無制限の民主主義は、中央集権化の増大によって増幅されてきた。
 現代における不人情は、経済過程の非人格的な性格の結果よりも、政治的中央集権化の環境が作りあげたのである。中央政府が決定するさまざまなサービス権の保有、教育から輸送、郵便、電信・電話、放送サービスを含むすべての「公共事業」を中央政府が決定する必要はない。これは、自由社会の保持に対して重大な意義をもっている。

 現在の政治組織の全体は、国民不在の政治、あらゆるものへの政治の関与は、何か人びとが選択したものではなく、あるわがままな機構、人びとがその効果を予測することなしに、設置した結果である。
 今日、自分たちを拘束するどんな法によっても抑制されず、しかも、あるわがままな機構の政治的必要によって操られている。唯一の権力者はいわゆる立法者である。だが、現行の民主主義の形態は自滅的である。多数派の意見の合意を得ていない。ハイエクにとって、現在の多数派の民主主義政治組織は、わがままの機構になっており、行政権力者自身、立法者と一体となり、多数派の意見の合意の必要性もなく、国民不在の政治になっている考えているのである。

 古典的自由主義の政府は、制限された任務であったが、多数派民主主義の議会によって、ルールに従わなくても、われわれの特定目的の願望は結果として、正義に適うものとして、無制限の権力に移行しているとハイエクは見るのである。そこでは万人に適用するルールの投票と、ある人のみに直接に影響する措置の投票は全く異なることの認識がなくなっている。

 そこでは、他人が手にいれることはほとんど注意を払わず、自分達が獲得することだけに関心をもつ。その関心は、自分の願望を満たせば第三者を犠牲にすることを考慮せずに同意する。統治する多数派は、腐敗するばかりでなく、その多数派を構成する集団からの圧力に抗することもできなくなる。
 多数派は、必要な支持を与えてくれる集団の願望を満たすためにできるだけのことをしなければならなくなっている。正義にかなう一般的な信念ではなく、政治的必要によって管理されるという有権者の票という理由で定期的に恩恵を与える神話にとりつかれているのである。
 
 現行の代議員制度は、立法ばかりではなく、行政の必要性から形成されてきたのである。代議員制は二つ異なる性格をもっている。近代の議会制度の性格は、民主主義的な立法に必要性によってよりも、完全に民主主義的行政の必要性形成されてきた。

 行政権力の制限のためには、権力分立の原則が必要である。代表者たちが立法よりも、むしろ行政にほぼ専念するのは再選が立法にではなく、行政面でのかれらの党派の成績に依存している事実の結果である。有権者たちが投票所で表明するのは、行政措置の即時的効果の満足の意であって、長期的な法の効果についてではいとハイエクは見るのである。
 憲法の狙いはあらゆる恣意的行動を防止することであった。
 真の意味の立法は一定の原理に基づいて行動するという約束である。したがって、長期的な効果を狙いとして、まだ知られていない将来にむけなければならない。未知の人を助け、等しく未知の目的に役立つことを目指していかねばならない。この任務をうまく遂行するためには、特定の状況に関係したり、特定の利益集団に縛られない、社会全体の長期的な望ましい視点から自らの任務を自由に考えることができる人びとが必要なのである。
 
 200年近く米国憲法立法権、行政権、司法権の分離、政府と個人を正義の行動のルールに従うようにしてきた。しかし、代議員制度の発展によって、事態は悪化したというハイエクの認識である。権力分立をする立憲政体の理想的モデルは、多数派権力の濫用を抑制していく憲法原理である立法権から政府権力を分離できる方法を発見することである。政府機能の強制力の限界を明確にすることである。

 立法院が同じく代表団体である行政団単体の決定に対して効果的な歯止めをかけるのは、それぞれの構成員が同じでない、立法と行政の二つの集会が同じ方法で、同じ時期に選出してはならないということである。行政と立法は同じ任務ではない。そこで、国民の代表となる立法院と行政院の明確な区別が必要である。
 立法院は利益によってではなく、意見によって、法をつくり、どんな種類の行動が間違っているのかと、恒久的なルールとして、管理すべきである。行政院は、行政の目的のために、市民が特定の目的のために、特殊利益が表明でき、その目的のために行動に専念することである。国民は自分たちの特定利益に実際もっとも奉仕しそうな人びと、不偏に正義を維持すると期待できる人びとを選ぶ場合と、全く異なる人を選ぶであろう。立法院の代表者を選ぶことと、行政院を選ぶこととは別であることをきちんとすべきであるというのがハイエクの立憲政体のモデルなのである。
 
 ハイエク憲法会議の機構を提起しているも立憲政体モデルの新たな提起である。
 憲法会議は、立法院によって発展させられるべき施行可能な正義行動のルールである。法の枠内で決定することが行政院の任務である。法解釈体系築き上げていく過程で、憲法によって規定された修正手続きを委ねることが必要である。

 憲法は権力を配分・限定するために、実体法とは何なのかを定義しなければならないが、この法の内容の発展は、立法院と司法部に委ねられる。憲法は、現行の法体系を発展させ、継続的過程を規制するために、そして自生的な社会秩序の基礎となるルールを施行するためである。そのための政府権力と、個人や集団にサービスを提供するためにの政府管理に委託された物的手段を使用する権力との混同を防ぐために考え出されたものである。憲法は、保護のための上部構造であるとハイエクは考えるのである。
 ハイエクはのべる。人間は自由のなかで発展してきたわけではない。小さな群れの成員は、生き残るための群れにくっついていなければならなかったが、少しも自由ではなかった。自由は文明の加工品であり、それによって、人間は小集団の枷から解放された。自由は同時に自由の規律でもある文明の規律の暫時的進化によって可能にされた。それは、非人格的な抽象的ルールによって、人間を他人の恣意的暴力から保護する。

 また、それによって、各個人は他の誰も干渉することが許されない、保護された領域を自分自身のために築こうとすることができるし、その内部で、自分自身の知識を自分自身の目的のために使用することができる。われわれの自由はまさに自由に対するさまざまな制約のおかげである。市場経済のルールを遵守していない、理性的で不道徳な邪悪な権力によって恣意的な社会構造をみる。
 長い間、潜在していた生得本能が再び表面に現れてきた。生得本能にしばしば反する学習されたルールに服従することによって、統一された社会秩序がもたらされるのである。

 本論は、ハイエクの「法と立法と自由」の著作から自由と法について学ぶべきとがあるのかということに焦点をあてて、書いた。ハイエクは、この書をとおして、福祉国家社会主義国家について、自由を侵す政治秩序として、随所について痛烈に批判しているが、それについての評価や批判については、論旨が複雑になるので本論ではすべて省略した。ハイエクの社会思想の全体像からみるならば、それらをとりあげないことは、問題を一面化することになるが、あえて省略した。

 参考文献
渡辺茂訳、ハイエク全集8巻から10巻「法と立法と自由」春秋社