社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ベトナム青年へ・生き甲斐と働くこと・Gửi Thanh niên Việt Nam: Cuộc sống và Công việc

 ベトナム青年へ・生き甲斐と働くこと
 
 自分の好きなことと仕事選びの難しさ
 
  ベトナムでは働く場所が少なく、自分の好きな仕事を選ぶ機会が極めて少ないのが現状です。「人はなぜ働くのでしょうか」という質問に、考える余裕がもてない状況ではないかと考えます。まずは、どんな仕事でもいいから給料がきちんともらえるという答えが返ってくると思います。
 
 働くときには、給料がどれほどもらえるのかと計算します。仕事を選ぶときに、生活の安定を考えますので、正規の雇用であるかどうかも基準に考えます。その他に、労働条件がどうなっているのか、労働時間はどうなのか、社会保険はあるのでしょか。いろいろと雇用の待遇と条件を考えます。どこの国でも同じように、給料や雇用条件を念頭に働くことを考えます。
 
 日本の大学生は、安定した大企業、公務員になりたいと就職試験のために必死になるのが現状です。日本の若者は、働くということを考えるときに、生活の安定と生き甲斐、労働条件を考えるのです。大学の学部によって、ほとんど職業が決まのは、医学部です。医者や看護師になるには、医学部です。大学と就職が一致しているのは、ほんの一部です。昔のように、教育学部もすべてが教師になるわけではありません。弁護士になるには、司法試験に合格しなければなりません。公認会計士、税理士も国家試験に合格しなければなりません。高度な専門性をもっている職業は、国家的な資格試験に合格して、仕事についていきます。
 
 教師のように教員の免許をとっても全員がなれるわけではありません。県の教員採用試験に合格して、正規の教員になるのです。公務員も同様で、公務員試験に合格して正規の職員になっていきます。非正規の場合は別です。日本では、教員や公務員として働く場合に非正規の身分が増えているのも最近の特徴です。全体的に、日本の労働者は、正規であるか非正規であるかに分かれるようになっています。身分が不安定な労働者も増えているのです。ここには、雇用をめぐっての競争の論理が働いていくのです。
 
 ここで、最初に確認しておきたいことは、仕事は、給料が高い、安定した仕事だけではない、生き甲斐も重視する必要があるのです。働くということと、人間らしく幸福に生きたいことを結びつけていくことが必要なのです。働く内容に生き甲斐をもてなければ仕事が楽しくならないのです。仕事が楽しくなることは素晴らしい人生を送ることになるのです。
 
 現代社会は、弱肉強食の競争社会です。ふれあいをとおして絆や連帯をもつことが少なくなっています。共に人間らしく生きることと働くことを結びつけていくことが大切な時代です。この意味で、仕事選びを考えるときに生き甲斐も大切になってくるのです。
 
 現代の日本では、人間らしく働きたいということで、あえて所得が低いけれども地方の中小企業や農業、不安定であるがあたらしい地域興し産業で働く青年もいます。
 人間らしく生きるために、モラルを仕事のなかで身につけることも重要です。商売はお金をめぐってモラルが大きく崩れがちになりやすいのです。日本では経済において、モラルを大切にしてきた伝統があります。
 
 日本では、フリーターと言われるように、一時的にアルバイトでお金が必要になったときに、働くという人がいます。彼らは、安定して働くことに消極的な姿勢です。このリーターの青年が増えています。厳しい就職競争のなかであきらめてしまう青年や、自分のやりたいことがはっきりしないのです。人生の模索中ということで、とりあえず一時的にフリーターとして働くのです。しっかりした人生の目標があり、やりたいことは決まっていますが、その仕事につけない場合もあります。生活の確保のためにフリーターをしている青年もいます。フリーターの青年の働き方、将来に対する見方も多様です。
 
 働き方を考えていくうえで最も深刻なのは、ニートといわれるように働くことに意欲ががもてずに社会から引きこもってしまうことです。ニートは、いじめを受けた、対人関係が全くうまくいかない、対人恐怖症、自分に自信がない、仕事で大きな心の打撃を受けたという精神的な問題も大きくあります。中には、家庭内暴力で心の病を親に向けてストレス発散をしている深刻な問題もあります。
 
 不本意な職業選択で、その仕事が好きになれるようなことは可能なのでしょうか。意欲的に自分の与えられた仕事に生き甲斐をもてるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。それには、自分の仕事の意味を周りの人々との関係で、社会のなかで考えていくことが必要になってくるのです。
 
 ところで、自分のやりたいことで仕事につける人はそれほど多くないのが現実です。いわゆる不本意な職業選択です。ベトナムの場合には、仕事が少ない条件で、就職は不本意な仕事が多いと思います。現実は、自分の志望した会社や職業につくことが難しい時代です。自由に職業を選択することが与えられているわけではないのです。
 
 日本でもベトナムでも、生徒や学生自身が自分の職業適性や自分のやりたい職業について明確になっていない場合もあります。自分はどんな職業に向いているのか、自分は何をしたいのか、自分探しが定まらないなかで、学校を卒業し、就職に直面する青年もめずらしくない現状です。
 
 高校卒業後の就職は、フリーターになるケースがめずらしくない状況です。30年前までは考えられない状況です。30年前は終身雇用制がはっきりしていて、一度勤めたら、そこで長く働くということが多かったのです。現代日本では、高校卒業者で三年以内離職する青年は50%、大学卒業の場合も30%が離職する時代です。
 
 学校教育や身近なところで職業を考える機会が少なくなり、仕事を自己の生き方の関係でみつめていくことが難しくなっています。18歳までに職業選択の判断ができる生きる力としての基礎力は大切なことです。科学技術が高度化し、分業が極めて発達している現代では、かつてのような直ぐに実践的に役にたっていく職業教育は難しくなっています。
 
 自己のやりたい仕事を探していくことは、頭のなかで自己展開するのではなく、体験をとおしていくことです。体験教育は、課題の達成感を持ちます。そして、創造性の喜び、仲間との連帯心が養成されて行きます。このなかで、自己の適性をみつけだしていくものです。
 
 日本では、学力競争の教育に拍車がかかるなかで、体験学習や課題学習、創造的に課題発見の教育を経てこなかった教育の現状があるのです。かつての学校教育とは大きく変わってしまっているのです。
 
 人間性を身につけての仕事
 
 現代の青年は、自己利益重視志向や功利主義による資格や専門性重視が強くあります。それは、競争的な就職試験が作り出しています。自己利益ということでの資格や専門性を重視する横断的な労働市場は、会社を自己の専門性から客観化します。しかし、業績主義や成果主義がはびこり、個々の専門性が競争主義に走り、職場の協働の関係、共生的な人間関係が不十分になっていきます。
 
 自己の利益と会社の効率主義は、労働市場の流動化につながり、不安定な労働市場が増大していくのです。会社の帰属意識が著しく後退する時代になっているのです。自己利益や会社の効率主義の傾向は、人間尊重経営の経営、社会的貢献や社会的正義、法令遵守主義が軽視されて行きます。自己利益の志向が強くなっている現状のなかで、自分の能力、個性が生かせる仕事の再発見が重要になってきています。
 
 現代の日本では、会社の定着性では、とりあえずこの会社で働く、状況次第で会社をかわるという流動性をもつ青年の意識が高くなっているのです。青年の自己利益第一主義の増大、会社の効率性による非正規雇用の増大よって、従前の終身雇用制の意識が大きく崩れてきているのです。ここでもあらためて「何のために働くののでしょうか」という意味が問われているのです。会社にとっても、長期的な持続可能性の経営ということで、社員の定着の重要性を考えることが大切になっているのです。そこでは、社員も経営者の双方も生き甲斐が求められているのです。
 
 若者の転職が最も多いのは、中卒であり、高卒がそれに続き、大卒になると相対に少なくなります。いわゆる7,5,3です。これはなにを意味しているのでしょうか。自分の人生観や職業観は、大卒よりも高卒や中卒は未熟です。一般教養や社会に対しても未熟であるのです。高校生や中学生の卒業では、自由にものをみつめる考えが少ないからです。大卒は、自由に自分を見つめる時間が保証されていて、教養を得る機会もカリキュラムのなかで保証されています。
 
 自己の仕事を位置づけていくには社会科学、哲学、文学など、一般的教養が求められているのです。また、理科、ものづくり等の技術科教養の知識も同時に大切になっています。高校段階の教育では、一般教養が充分ではないのです。自分の人生哲学の教養を身につけて、職業選択を考えていく機会が少ないのです。高校教育では、普通高校では、大学進学のための学力形成に力点がおかれてしまうのです。かつての農村のように家で農業をしてる家庭、家が自営業での育ちでは、親をみて子どもが職業を考えていく契機がありました。
 
 職業高校では、実際の職業的な知識や技術をとおしての教育がされています。例えば、農業業高校のように、社会のなかで農業や食の役割をとおして考えさせているのです。青年の人生形成に農や食が教育的な役割を果たしています。現代における日本農業は、高度に専門性が進み、農業高校が、農業専業従事者のための実業教育という面では不足しています。実際に農業につくための専門的な知識や技術は、農業系大学、農業大学校になっているのが現実です。
 
 ベトナムの場合では、広範に農村社会がありますので、親の仕事の姿をみて子どもが育つ状況があります。これは、日本と大きく異なりますが、貧困の農村の状況で、農業という職業ではなく、都市にあこがれて、全く別の経済的な豊かさを求めての職業に就きたい傾向が強いと思います。日本の青年以上に、強い経済的上昇志向があると考えられます。
 
 100年前の日本の青年も職業の進路選択で悩んでいました
 
 ところで、青年の職業選択が明確になっていないのは今に始まったことではないのです。いまから100年まえでも職業選択は青年にとって重大な問題であったのです。不本意な職業選択とその仕事が好きになれる用件はどうなのでしょうか。この問題について、札幌農学校教授、東大教授を務め、国際連盟の事務局次長で世界平和に尽くした新渡戸稲造は、修養論のなかで次のように書いています。
 
 青年にとって、個性の発見との関係で、職業の選択を自己決定の修養であるとのべています。青年が職業を選択することについて、自分の性質がその職業を好むかどうか、適切であるかどうかで決定するのが最も大切でありますが、自分の希望した職業に就ける青年は実際に多くはないのです。不本意な仕事で生計を維持しなければならない青年は多いのです。しかし、不本意であっても、与えられた仕事を好きになれるかどうかは青年の人生にとって重要なことになるのです。
 
  いかなる職業を選択したらよいのかと青年が迷うのは、あたりまえです。それは、志を立てることになるからです。志を立てることは、青年の生活のなかで大問題なのです。
 
 実際に自分の希望したことにならないのは、生きていくためにやもえないのです。しかし、第一希望でなくとも、不本意であっても、与えられた仕事を自分が好きになれるかどうかは青年の人生にとって大きな試金石になります。自分に与えられている仕事が好きになれるのでしょうか。好きになるためには、どのような用件が求められるのでしょうか。どうしても好きになれるのでしょうか。
 
 これは、人生にとっての大きな修養なのです。人間の価値を定める基準は何になるのでしょうか。人間がこの世に生まれてきてなすべきことは何でしょうか。人間が社会に果たす使命はたくさんあるのです。日本の100年前でも青年にとって、以上のようなことが大きな問題になっていたのです。
 
 現代社会は、分業化と仕事の個別化が進んでいます。仕事には、細かな領域になっています。それぞれが相互に作業分担して連帯していく意識が希薄になっているのが現代です。まさに、仕事をとおしての連帯感が弱くなっているのです。そして、価値の多様性として、真理の探求は、幸福になるための条件になるのです。現代社会は、働くこと中で、人間のもっている互いに助けあうという関係が薄くなっているのです。
 
 大学や高等学校で、職業教育やキャリア教育が強調されるようになりましたが、人間形成と働くことと意味を問う教育はおろそかになっています。進路選択ということで、専門化された労働のなかでいかに適応していくのかという職業訓練的な志向が強いのが現実です。大学も職業訓練的に専門学校化していく傾向もあります。大学は、人間形成という幅広い教養教育として、働くことを考えさせていく場として機能していることが弱くなっています。青年は、職業教育の前提に、働くことの意味を人間形成から本質的にとらえていくことが必要なのです。
 
 猿が人間になるについての労働の役割として、エンゲルスは、労働の発達は必然的に社会の人々が互いに結び合い、相互扶助や協働をを行うことが求められていることを強調しました。手の発達とともに、労働とともに始まる自然に対する支配は、新しい進歩がなされるたびに人間の視野をひろげたのです。人間は、自然界の新しい、それまで知られていなかったいろいろの性質をたえまなく発見してきたのです。
 
 働くことが人間にとって大切
 
 エンゲルスの労働の発達論では、人間の脳の発達源泉に労働をあげていることです。言語や思考の発達を促していくうえで、労働は、大きな役割を果たしたのです。まさに木によじ登る猿から大地に直立して二本足で歩くヒトになったのです。ヒトは労働によって人間的発達を遂げてきたのです。働くことは人間になっていくことです。
 
 人間は、一人で生きていくことはできないのです。人間は仲間をもった存在です。社会をもち、地域のなかで生活し、男女がお互いに協力して、家族と共に生きていくことになったのです。働くことは人間的な協力関係です。互いに助け合って、互いに援助していく関係は、動物的なヒトから社会をもった人間になったということです。
 
 人間社会には、人間としてのルールを守らないときは、社会的制裁あるのです。このルールを守っていくためには、自然を神とする様々な掟が生まれたのです。働くことの関係を守らないときは、罰が課せられたのです。
 
 責任を果たすということは、働くことの基本的な関係です。働くことは、社会的な責任を担うことです。働くことは、人間にとって対人関係を伴って、共生的な人間関係の基盤です。ここでの働くことは、狭い意味で雇用されて職業につくということではありません。社会に役にたつ人間の行為です。
 
 雇われての収入を得る仕事ばかりではなく、自分で農業をしたり、職人として自分の家で仕事をしたり、また、自営の商売をしたりしている人もたくさんいます。また、家族のために、介護をしたり、子育てをしたり、家事をしたりして立派に役にたっている人々もたくさんいます。現金収入を得る社会の経済的な関係だけではなく、広い意味で労働を考えてほしいと思います。
 
 日本では昔から子育てに奉公させるのがよい、体が弱くて我が儘の場合に、他人の家で飯を食わせるのがよい、可愛い子供には旅をさせよとい風習がありました。嫁入りまえに女中奉公というのもありました。これは、我が子であるとどうしても溺愛(できあい)してしまって、子育てが甘くなるという考えからです。
  
 働くと人格の形成を説いた日本の伝統的思想家
 
 江戸時代の商人の道徳を説いた石田梅岩は、子どもを育てるのに13歳より8年間奉公人に準じて番頭に預けることがよいとしています。子供を13歳より20歳まで苦労させるのは、わが子が世のなかを理解することであるとしたのです。8年間の苦労は、一生にとって貴重なことで、代々の家業の守るうえで不可欠なことであるとしています。
 
 可愛い子には旅をさせよと言うのです。旅は修行です。旅をして、修行すれば己が厳しいときにあって苦労しても万事に忍耐をもって守ることを知り、他を憐れむことを知り、人の仁心を喜ぶようになるのです。人を使うにも人間性を失うことを嫌い、人間性をもって当たることを大切にしていました。人間性をもつことは、家業を整える第一でありますので、常に人間性を鍛える修養ををすることが大事であるとしたのです。
 
 二宮尊徳は天と人の道の根本的な違いは勤労と貯蓄にあることを強調します。天の道である自然の原理は、春には生じ秋には枯れ、火は乾いたものに燃え尽き、水は低い所に流れるのです。昼夜動いて永遠にかわらないものです。人の道は日々人力を尽くし、保護して成り立つものです。それゆえ天道の自然に任せれば、たちまち壊れてなくなるのです。だから人の道は、情欲のままにするときは成り立たないものです。
 
 人の道は、努力してなるものです。うまい食事、美しい着物が欲しいのは天性の自然です。これを押さえ、それを忍んでみんなに分け与えるものです。欲しい美食・美服を押さえ、自分の立場から節約し、余裕を生じ、それを他人に譲り、将来に譲るべきは、人の道であるというのです。
 
 伝統的なものづくりは、人間的な情操感情の高まりです。芸術の花開く場であったのです。それは、特別に芸術家として専門化された仕事ではなく、個々の日常品つくりの職人が自己の心を磨く場のなかから生まれた成果なのです。職人の物づくりの高まりが、結果としての豊かな美的な製品をつくっていったのです。品物のなかに職人の魂が労働の結果として表れているのです。
 
 日本の巧みの芸術は、職人的な労働の結果として、人びとの情操感情が発展し、日本文化が結実してきたのです。朝から晩まで職人の技を磨くために徹底して精進している職人の世界は、自分自身の人間的な心の磨きを物づくりに体現したものです。
 
 京セラを創業した稲盛和夫は、大きな志を持つこと、素晴らしい夢を描き、未来に対して限りないロマンティストで明るい考え方を持ち続けることの大切さを強調しています。稲盛和夫は、青少年時代に不遇で、何度も自分の希望通りにならずに挫折を切り返した人です。
 
 しかし、夢をみることを忘れずに、希望を抱き続けたという言います。どんなに苦しい状況にあっても、絶対に悲観的にならず、明るい考え方をもつことによって、災いだと感じる境遇であっても、自分を成長させてくれる好機として感謝する考え方をもってきたのです。
 
 自分の可能性をひたすら信じ、実現することのみを強くおもなあら努力をつづければ、いかなる困難があっても、思いは必ず実現すると考えてきました。できると信じることで人生は開けていくものです。大切なことは、こんな人生を歩みたいというおとです。将来こんなことをしたいことです。こんな人間になりたいという強い願望をもつことです。
 
 真面目に一生懸命働くという行為こそが、人間を立派にしていきます。苦労する経験を避けていった人で立派な人生をつくりあげた人などいないはずです。勤勉に働くことさえできれば、幸福をつかむことができます。働くことを通して、人間としての人格を磨いていくのです。
 
 仕事は、常に正しい道を踏み、誠を尽くすことです。相手に迎合しないことです。うまく世渡りができるからといって妥協するような生き方をしてはならないとします。誠実に正しいことを正しいままに追求することの重要性を稲盛和夫は強調しています。
 
 人間は一生懸命に働くということは、言われるままに汗水流して牛馬のごとく体を動かしているのではなく、自分の仕事が好きになり、少しでもよい方向にへ仕事を進めたいという創意工夫をもって、誰にも負けない努力をすることだとしています。仕事に打ち込むことが人間的に大きく成長していくことになるとしています。
 
 労働とは人格を鍛えていくことであるという見方です。もっと詳細にしりたい人は、稲盛和夫の「考え方」という著書が、わかりやすく若者にかたっていますのでぜひ参考にしてもらえればと思います。ベトナム語でも翻訳されています。
 
  勤勉に働くことは、仏教の修行であるとした江戸時代の初期の僧侶であった鈴木正三(すずきしょうさん)僧は語るのです。農業のしごと、職人の仕事、商人の仕事、それぞれ一生懸命に働くことが人間的に人格を鍛え、仏教の修行になるという考え方です。鈴木正三僧は、江戸時代の徳川幕府体制をつくりあげていくうえで、武将として大きな役割をした人です。乱世の世から太平の世になることによって、旗本という武士の重要な地位を棄て、42歳で僧侶になった人です。400年前に生きた人です。
 
 彼は、職人なくして、世界の用品がないのです。武士なくして、世は治まらず。農民なくして、世界の食物がないのです。商人なくして、世界の自由がないのです。あらゆる仕事は世のためになると働くことを人間にとって最も大切なことと考えた人です。
 
 農業即仏教の修行ということで、すき、くわ、かまを用いて、すきえし、刈り取り、心をこめて耕作することは修行になります。辛い苦しい仕事なくして、心身を高めることにならないのです。これらの辛い仕事をして、自分の心に煩悩がなくなるというのです。
 
 職人の一切の作業は、みな世界のためになります。仏体をうけ、仏の心がそなわり人間となります。いろいろの職人なくしては世界の調度品を用いることができません。
 
 商売をせんとする人は先ず利益を得ることの心づかいを修行すべきであるとしています。一筋に正直の道を学ぶことを鈴木正三僧は強調するのです。正直の人にはめぐみが深くなり、神に守られるようになります。
 
 そこでは、災難を除いてくれるのです。自然に福が増していきます。衆人に愛敬になり、万事に可能になるのです。私欲を固持して、自己中心になり、他の人々の心を隔てて、人間性をぬきにて、利益を思う人は、天道のたたりありて、禍をまし、万民のにくみをうけ、衆人に愛敬なくして、万事にかなわないということになるのです。一筋に国土のため、万民のためとおもい入れて、自国のものを他国に移し、他国のものを我が国に持って来て、山々を越え、大河を渡り、海上に船で渡るのは、身をすてて念仏し、一切の執着を棄てて、欲をはなれての商売をすることです。そうすることによって、天は守護し、福徳充満の人となるのです。
 
 働くことは、大切な修行です。それは、本来の人間性を発揮することができるのです。自ら他を恵み、危機を救い、困窮している人を助け、物事に情けを持ち、憐れみの心を持ち、慈悲の心をもって正直で礼儀を正すようになると鈴木正三僧はのべるのです。
 
 さらに、鈴木正三僧は、働くということを人間のもっている煩悩をなくしていくとしています。つまり、働くことによって、人間のもっている三毒をなくしていくということです。人間のもつ三毒とは、人間の持つ三つの煩悩です。ひとつは、貪欲です。必要以上に欲をもつことです。人間の欲は、生きていくために必要ですが、足を知るということで、必要以上の欲をもたないことが大切なのです。
 
 第二は嫉む、怒りの心です。ここには、感謝と慈愛の精神を持ち得ない心です。人間の煩悩には、自分中心的になり、自分が偉いというおごりの気持ちがでてきます。怒りも自己中心的な気持ちから相手を正しくみれなくなる心です。
 
 不正義や責任をもたないことに対して怒りをもつということは、個人的な怒りではなく、社会的な感情をもっての連帯心をもった怒りです。妬みは、社会的地位を得たことに対する嫉妬心です。この妬みがいわゆる足を引っ張るということで、世の中で活躍している人々をだめにすることがあります。
 
 無知、愚かさから愚痴をもつことの煩悩が第三です。智恵をつけていくことは人間にとって大切な精進です。智恵をつけていくのは、学びの努力が必要です。人間は学ぶことによって人間になっていくのです。学びは人間的な人格を身につけていくためです。
 以上のように、日本の伝統的な思想的勤労観は、働くことの人格的修行性、人間のもつ煩悩を消し去って人格を豊かにしてことを協調したのです。そして、正義感や社会的責任意識を向上していくとしたのです。