社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ベトナム青年へ・社会的責任と人を愛すること・Gửi Thanh Niên Việt Nam: Trách Nhiệm Xã Hội Và Yêu Thương Người Khác

 
 ベトナム青年へ・ 社会的責任と人を愛すること
 
 社会的責任の遂行と人間性の大切さ
 
 人間は、一人で生きていくのではありません。人は生まれたときから家族の助け合いのなかで大人に成長していくのです。そして、人間が生きていくには、地域社会があり、学校があり、会社があります。人間は、それぞれの社会的組織のなかで生きていくのです。社会的組織は、それぞれルールや責任があります。
 青年期は、自分の人生について真剣に悩む時期です。身体的にも生理的にも大人への過渡期です。それに対応して、心の面は、大きく発展します。古来から、地域では、若者組という組織がありました。地域の若者組は、大人への成長に大きな役割を果たしてきたのです。
 
 若者たちは、仕事や地域、家庭、男女交際のことを先輩たちから教えられました。ここでは、地域生活の仕方、自然や社会に対する祭礼行事を学んだのです。地域のなかでの生活や行事では、厳しいきまりがありました。仲間達の厳しいきまりのなかで、青年は、自我や自己の役割意識の確立、アイデンティティの形成をしてきたのです。
 
 青年は、未来へのエネルギーをもっているのが特徴です。若者は、現実と理想で悩み、自分の人生のことで悩みます。そして、自分が何をすべきかで悩み、恋をすることで悩みます。青年は悩むことで成長していくのです。
 心の悩みは、友人との語らい、先輩との語らい、信頼できる大人や親・親類との相談を通しながら、さらに、哲学書や小説を読みながら問題解決の糸口を探っていくのです。悩みは、自分自身で解決していくのが基本ですが、自分一人で問題を見つめていくのではないのです。悩むことによって、自分が大きくなり、未来に向かっての革新的な人間を作り出す原動力にもなっていくのです。
 現代社会の若者たちには、拝金主義がはびこっています。新しいほしい商品がどんどん世の中にはあふれています。消費を常に刺激して、商品を売っていくのが現代の競争的市場社会です。
 消費欲望を獲得するには、金銭が必要です。窃盗や詐欺などが横行していくのも現代社会です。現代社会は、インターネットによる詐欺も多い。青年達に甘い言葉をかけて、いかにも彼ら、彼女らの夢を実現するがごとく近寄ってくる大人も多いのです。甘い話には必ず裏があります。
 
 犯罪集団に青年達が入り込んでいくのは、抵抗なく、葛藤をもたないのもめずらしくないのです。夢をもっていればそれを巧みに犯罪集団が利用する手口に使われることがあります。夢の実現には、簡単にいかないのです。それには、努力が必要なのです。努力なくして、夢の実現がなことをしっかりと自覚することが大切なのです。
 
 勝ち組と負け組という激しい競争社会のなかで、自分の夢と希望に挫折し、劣等感にあえぐ青年は大勢います。詐欺集団は、巨額な金銭を得ることによって、消費と快楽による自己満足をしていくのです。自分が人生の勝利者になったような錯覚に陥るのです。
 
 青年を犯罪に走らせる組織は暴力団ばかりではなく、様々な社会的な詐欺集団が根強く存在しています。この大きな社会的背景を重視する必要があります。このことから、金銭欲に絡む犯罪に走る若者が後を絶たないのです。金こそがすべてであるという価値観を若者に注入し、かれらの心を支配していくのです。楽をして、巨額な金儲けをしようと、犯罪に走る若者達が多く出現するのは、現代日本の市場絶対主義による弱肉強食の競争社会の病理現象です。
 詐欺という悪質な社会的犯罪行為が、ひとつの仕事感覚で行われていることがあります。深く関与していないが、詐欺組織の下働きをする若者がアルバイト感覚で詐欺集団に加わることもめずらしくないのです。全く犯罪とは無縁な若者が巻き込めれていくのです。
 
 ここでは、重大な犯罪をしている意識が、極めて薄いのです。社会的な倫理や市民的道徳感覚が育てられていなのです。また、社会的知識、法律が全くわからず、その結果がどういうことになるのか理解できない場合も多いのです。特別に報酬が高いとい話、楽をして膨大にもうけるという話には、恐ろしい犯罪の裏があることを充分に考えていくことが大切なのです。
 
 詐欺という行為、すなわち金銭的に人を騙すことへの特別な意識をもたず、相手の不注意、自己責任ということで、詐欺をしたことに責任転化してしまうことがあります。自己への犯罪に対する心の葛藤すら薄く、ゲーム感覚の金銭やりとりしかと感じない場合もあるのです。
 
 これは、少年期から青年期にかけての金銭をめぐる信用や社会的契約の大切さの教育がおろさかにされている結果です。社会全体の拝金主義と、金銭価値で人を判断する社会的風潮で起きる問題です。詐欺師たちは、一時的に、巨額な利益を得ることによって、消費的に快楽に走ります。高給マンションや高給車を乗り回すのです。すべてを、個人的な快楽の消費に使い果たしていきます。
 社会的に約束を果たすことは、基本的なモラルが必要です。社会は、お互いの信用によって、成り立っているものです。約束を果たしていくことは、人間にとって助け合いの基本です。約束によって、相手は生活の設計をたてるのです。約束は、相手にとっての目標の期待になるのです。
 社会的約束の不履行は、怠慢性と意識的に人を騙すことにあります。怠慢性と詐欺は、社会的な責任観がないということでは共通しています。約束について怠慢になる人格、人を騙す人格がなぜ形成されていくのでしょうか。そこには、相手のことを考えない自己中心性があります。人は自己利益の考えに固まると約束不履行が頻繁に起こるのです。それを意識的に行って、人を騙すのが詐欺師です。
 
 約束の不履行については、さまざまな事情があります。約束それ自体の計画の甘さもあります。誠実に努力しても責任を果たせない場合もあります。しかし、それでも道義的に、問われます。約束の不履行は、誠意をもって事情を説明し、相手に納得してもらう説明責任があるのです。内容によっては、賠償責任も伴います。
 約束の不履行には、結果責任としての民事的損害賠償責任にもなるのです。また、目的意識をもって人を騙すことは、刑事的責任にもなります。約束を果たすという結果責任には、大きな意味をもっているのです。約束の結果が出来なければ、まずは説明責任を果たさなければならないのです。
 約束が出来なくなったときには、その理由をすばやく誠意をもって説明することが求められているのです。相手に損害を与えたり、相手を傷つけたりすれば、損害賠償が発生します。さらに、目的意識的に最初から出来ないことであれば詐欺になります。それは、刑事事件で犯罪になります。
 
 私人の間での権利関係の責任遂行は、当事者の自治に委ねられていますが、詐欺的な行動は、刑事的な問題として犯罪行為として、刑務所にいくこともあるのです。個々人の責任の問題は、相手を思いやること、人間尊厳に深く関わっているのです。約束を最初から履行する意志をもたない詐欺行為などは、責任観を全くもたないものです。詐欺によって、相手がどれほど不利益をこうむるのか、そのことによって、相手の人生がどんな状態になるのか全く関心をもたない感覚です。
 
 人は誰でも自分が誰かの役にたちたいと思っています。自分が社会のなかで役にたつ意識をもつことは、人間として生きていくうえで大切なことです。そして、自分が社会のなかで、地域のなかで、学校のなかで、職場のなかで、家族のなかで、役にたっていると実感をもつことは、大きな喜びです。
 
 責任観は、この人間的な喜びのなかで作られていくのです。責任感の形成は、自分が社会的に役にたち、その仕事が誇れる感情をもっていることです。この感情の形成は、青年期の自立的な教育として不可欠なことです。
 
 青年期は知的な自己中心性とアイデンティティの混乱した精神状況がみられます。責任感は、社会的に自己の役割を自覚することです。対人関係、組織的な関係、地域的な関係で、約束を果たしていくという大切さを学んでいくことです。
 
 責任感に対立する精神は、自己利益の中心の世界です。幼児期から少年期にかけて、遊びなどの人間関係によって自己中心性の感覚が克服されていきます。遊びは子どもにとって、楽しく夢中にさせるものです。その楽しさを発揮するには、子どもの同士のルールや社会があるのです。集団のなかで遊ぶことは子どもの成長にとって重要なことなのです。
 
 しかし、現代の子どもの遊びは、ゲームやアニメに熱中する傾向があります。また、受験競争による自己評価を強要される傾向が強くあるなかで、幼児期と少年期にかけての自己中心の克服も充分に育たない傾向もあります。現代の子どもは、対人関係、社会的な関係による人間的成長が未発達のまま、青年期に入っていく例が少なくないのです。
 
 青年期は、さらに大人になっても少年期に自己の殻で熱中したアニメやゲームが忘れられず、空想の世界が支配していることがあるのです。それに共感しないものに怒りや蔑視をもって接するようになる事例も少なくないのです。
 
 ここでは、青年期に生まれる知的自己中心性と幼児的自己中心性が重なって、自分の世界以外の人間を差別する感覚がみられていくのです。つまり、青年期特有の自我成長による悩みによる知的自己中心性が加味されて自己中心性の精神構造が肥大化されていくのです。現代社会は、相手のことを理解し、尊重していくことの責任感の形成が起きにくい構造が生まれていくのです。
 
 アイデンティティの形成は青年期の最も重要な人格形成の要因です。アイデンティティ形成は青年期の発達の様々な側面からみていくことが求められています。社会的な現実や地域の環境から総合的にみていくことが必要なのです。とくに、社会との関係では、自己の社会的役割、地域での役割が大切です。このなかで青年の勤勉性や責任性が身についていくものです。とくに、勤勉性や責任性の形成において、青年が熱中していく場面が極めて重なのです。
 
 勤勉性と劣等感は相対立する概念です。勤勉感が形成されていかねば劣等感が助長されていきます。勤勉性は、社会性が身についていくことです。青年は、社会的役割による誇りをもっていくことが大切です。青年が人格的に大きく成長していくには、誇りを育てていくことは極めて重要なことです。それは、劣等感を克服していくことになっていくのです。
 人間としての素晴らしい人生を送れるのは、多くの愛する人のため、愛される人のために尽くしていけることです。それは、家族のために、周りの友人や地域のため、そして、社会のために役にたっていることを実感できることです。人は、相手のことを理解し、尊重すことで社会的役割を実感でき、生きる喜びをもってきたのです。
 ここでは、自己の価値を社会のなかで理解できていくのです。その喜びは、社会的な自尊感情へと育っていくのです。周りから感謝され、社会的に評価されことは、自分のもてる力を充分に発揮することができるのです。自分の力を充分に発揮できることは、人生が楽しく、価値ある人生を過ごせるのです。
 自分が役にたっていることを感じていくことは、仕事の場が極めて大きいのです。人間のもっている社会的存在は、仕事(家事や地域を含めて)をとおして、それぞれの社会的役割が自覚されていくのです。人間的に生きる願いは、誰かの役にたちたいということです。その遂行による感謝の反応は、人間的な喜びです。それは、対人関係での人間的な信頼関係の形成でもあります。
 
 青年の理想主義は、とかく誇大妄想になりやすい。青年のもっている情熱的未来志向性をどのようにして、大人にも共鳴できるような現実的な改革エネルギーにしていくのか。社会を理想的に改造していくのは、青年の役割が大きいのです。青年のエネルギーは、現実の歴史を動かしてきました。これは、様々な世界の歴史の変革が教えているところです。
 
 青年のエネルギーが歴史を動かしていくのは、歴史の大きな流れに青年の未来志向性があったからです。歴史の流れをつかむことは、学びからです。そこでは、社会科学、人文科学、自然科学の教養知識が求められるのです。科学的思考によって、現実を分析していくる能力を身につけていくことによって、その行動の正しさが歴史によって証明されていくのです。学ぶことによって、行動することです。体験することによって、学ぶのです。青年期には、自己の成長の意味からだけではなく、歴史的な役割を果たすためにも学ぶことが大切になっているのです。
 とくに、大きく社会が変革するときは、学びが大きな役割を果たすのです。学ぶことをせずに社会との対応をすれば、歴史の方向を人びとに幸福から大きく外れるマイナスに走らせることになります。それは、いわゆるポピリズム、遅れた大衆迎合主義、反知性主義になり、人間尊厳を否定する社会への恐ろしいことにもなっていくのです。
 
 
 孤独からの解放と愛の役割
 
 異性を愛することは、青年にとってあたりまえのことです。それは、最も感情が高まり、ときには、恋の病といわれるように自分の判断ができなほど無我夢中になってしまうことがあります。やってはいけないことですが、ひとりよがりになって判断ができずにストーカーとなって、相手に被害をあたえてしまうこともあります。
 
 日本ではストーカー被害が大きな社会問題にもなり、ストーカー行為の規制の法律ができるほどです。ストーカーは、特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情が満たされなかったことに対して恨みの感情をもって相手に被害を与える行為をすることです。
 恋愛は、一方的な感情ではではないのです。相手との関係をもって、双方の共有する感情で成り立っていくものです。片思いという言葉人ありますが、相手に思いやり、相手を尊重して身を引いていくことは人間的な美しい行為です。動物は略奪するのです。人間と動物は本質的に違うことを恋愛ということがあるのです。
 愛は学びであるのです。愛について学ぶことはどういうことか。愛は感情そのものではないか。理性の世界ではないと思うかもしれません。もちろん最も豊かな感情で、心を成長させていくきっかけになります。文学書を読み、人生哲学書を読み、詩を読み、詩を書き、心を豊かにしていくきっかけをつくってくれるのです。直接的に相手の心を理解するのは、難しいのですが、文学を読む、哲学にふれることによって、今までの人が歩んだ心の内側がみることができるのです。文学や哲学は、人が生きていくうえで、貴重な灯火になることがあります。
 
 真の愛は、人間的な能力を求めます。愛はもっとも感情的なことですが、その豊かな感情を高めていくのは、人間的な絆(きずな)と共生による理性の働きです。人を愛するということは人間的に成長していくのです。人間的な真の愛情は、本能的な動物的世界から抜けだし、理性を発展させることに特徴があるのです。
 理性をもっていることは人間であるゆえです。愛という最も人間的行為は、理性そのものを青年に教えてくれるのです。理性のない「愛」は本能的な性欲で動物的行為です。それは、人間の幸福感達成につながっていかないのです。むしろ、絆と共生の人間関係を破壊していきます。
 
 人間にとって、恐ろしいことは孤立です。辛い失恋は、孤独になります。ひとりで心を癒やさなければならないさみしい気持ちにもなります。泣くこと、悲しみを味合うことは、きちんと向き合うことによって、人間的な成長を与えたくれるのです。友人、先輩は、ときには、急に元気がなくなった青年をわざわざ強引に呼び出して、失恋を味合った青年と対面してなぐさめることも必要なときもあります。青年は、失恋によって人間的に大きく成長していくのす。
 理性のない「愛」は偽りの愛です。それは、偽善的なものです。人間は理性を基本にする愛によって、人間的幸福の達成である絆や連帯を豊かにしていくのです。孤立は、人間的な絆や連帯を破壊し、不安をつくりだしていきます。人間どうしの他者との融合の継続的な絆の感情、共生の感情は、愛によって作られるのです。仁愛という不変な人間に対する思いやりによって生まれるのです。
 
 かつて江戸時代、今からに三百年前に伊藤仁斎という儒学者がのべた仁愛という言葉があります。その言葉は現代でも通じるものです。「慈愛の心があらゆるものにまじりあってゆきわたり,自身の内から外部に広がり,あらゆるところにゆきわたり,残忍で薄情な心が少しもない,これこそ仁というのです。ほんのわずかな時間にもあり, 眠っているあいだも働き,心につねに愛があり,愛が心に満ち,心と愛が完全に一つとなっている,これこそ仁愛です」。
 
 愛の言葉は、いつの時代でも普遍的であるのです。愛とは愛する者の生命と成長に気をかけるということです。人間の尊厳で愛する人のために尽くすし、その成長を気にかけます。人間は、愛する人のために働くのです。愛する人への責任感です。責任は、愛する相手の尊厳からはじまるのです。そして、その人がその人らしく成長していくことに気づかうのです。
 愛するものどうしで一方が容易に支配や所有へと堕落していくという危険があります。愛ということで相手の人格を無視することは、相手を奴隷化する現象です。自己の欲望の延長として自由に相手を支配し、所有していくことです。これは、人間的な愛ではありません。獣ではなく、人間的な愛を求めれるならば、相手の人格の尊重が絶対不可欠に求められるのです。相手の人格の尊重のない一体化は、一方の奴隷になるのです。
 相手を尊重するということを愛のなかで深くみつめていくことが必要になるのです。人を尊敬するには、その人自身を深く知らなければならないのです。その人を深く知るためにも相手の尊重のなかで深く考えていかねばならないのです。
 人間には、愛ということがなにゆえに与えられているのでしょうか。人間の本質論から、深く愛を考えていくことが必要なのです。男女の愛はその本質を教えてくれます。男女の愛は、人間性の発達を考えていく重要な契機になります。現実の男女の愛の行為はお互いに感情が支配していきます。青年期の教育として、理性的な男女の愛を考えて、人間の尊重ということで、配偶者選択への心の準備をしていかねばならないのです。
 
 人間は一人で生きることができないのです。このことによって、癒しの場に家族や家庭を神の自然の摂理が与えたのです。この癒しは、愛の絆によって深めていくのです。男女の愛が結婚という社会制度によって、新しい家庭をつくっていくことになります。家族や家庭という社会制度は、子どもを生み育てるということと、人間の癒しの場として、自然の摂理が作りあげたものです。
 ヒトが動物から発展して人間になっていくうえで、社会をつくっていきます。その社会の形成は、家族を中心とした氏族社会です。氏族社会の形成と人間の起源は同じなのです。氏族社会の形成によって、人間は、共同して、食べ物を獲得して、共同して住居を造り、助け合い、分かち合うことをして生きてきたのです。氏族社会では、女性は太陽のごとく尊重された母系社会です。日本でもアマテラスという女性の神様の信仰がありますが、世の中をつくった神様として尊重されています
 結婚は、配偶者や子どもを縛りつけるためではないのです。また、男性の支配欲、独占欲によって、女性を家庭奴隷にするためではないのです。従って、心の問題を含めて、あらゆる形態の家庭内暴力や奴隷状態になっている女性や子どもが解放される必要があります。家族や家庭は極めて閉鎖社会になりがちです。プライバシーの世界として、家庭内暴力や家庭内奴隷状態からの解放に難しい問題があります。
 
 愛は、相手の人格を尊重することです。その成熟は、相手の運命と生まれてくる子どもに責任をもつ感情です。それは、人間的な認識から離れるものではないのです。愛の行為は、もっとも人間的な崇高なことです。人間とはなにか。人間の尊厳とはなにか。人間の尊厳を考えていくうえで、真の人間的な愛の倫理は重要なのです。
 人間は、愛という行為をもって、互に扶助をし、奉仕的精神をもって絆と共生をもっていくのです。ときには、愛する人のために自分を投げ出し、自己犠牲的になることもあります。
 愛は、家族や地域、社会的な人間関係をもって人間的に生きることを教えているのです。愛は人間の精神が最も高まることです。そして、人間を鍛えていくものです。恋愛は、相手に尊敬されたいという感情を豊かにしていくものです。また、相手に対する責任感を増していくという人間的な高まりをもつのです。