社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ベトナム青年へ・日本の近代化は教育を重視・Gửi thanh niên Việt Nam: Công cuộc hiện đại hóa của Nhật Bản nhấn mạnh vào giáo dục

    日本の近代化は教育を重視 社会科学院・ベトナムでの講演より
 
 教育は未来をつくるものです。日本の近代化は養育重視したことに特徴がありました。教育は、人々の暮らしを豊かにしていくものです。日本は、教育の力によって、経済的に大きな国になりました。日本のように、資源の少ない国土において、人材育成は、国を豊かにしていく基本であったのです。
 
 日本のものづくりの典型として、戦前は、良質の生糸生産にみることができます。それは、伝統的な日本の手工業技術を生かしての近代化でした。日本は伝統的な職人的な技術をうまく生かして.様々な分野で近代化しました。
 
 日本のこだわりの技が、良質なものづくりにつながっていったのです。戦後は、電化製品、工作精密機械、自動車生産、ロボット、コンピユーターなど世界をリードできる良質なものづくりを展開してきました。
 
 日本の宝は、ものをつくるうえで、創造性ある豊かな能力をもつ国民が多いことです。これは、すべての国民がいつでもどこでも学ぶことができるようになったことです。日本の優れた技能、技術が、多くの国民の学びと結びついて、発展し、創造的なものをづくりをしてきたもです。
 
 一万円札の福沢諭吉
 
 日本の一万札には、今から130年ほど前に教育界で活躍した福沢諭吉の肖像になっています。かれは、日本の国を豊かにしていくために、学問のすすめを書いた人です。
 
 福沢諭吉は「学問のすすめ」で実学を強調し、そのなかで、独立していく精神を大切にしています。福沢ののべる実学は、本を読むだけではなく、人間として生きていくために学問をのべているのす。
 
  知識見聞の領分を広くするのは、人間的に独立していくためです。学問をすることは独立の精神の形成であり、独立の精神には、物事の道理をわきまえることが必要であり、そのために天文学、地理、化学、文学、心学などを学ぶのです。実学を実利的なすぐに役にたつことに解釈するものではない。 
 
 実際に役にたつということは、人間らしくいきていくために、物事を理性的に判断し、創造性をもってものづくりの技などの人たる者の職分を身につけていくことです。
 
  福沢は、独立の精神を3つの視点からのべています。第1は、他人の智恵に従属せず自ら判断できる能力です。判断能力は決して専門的な知識だけではないのです。 独立の精神の第2は、人を恐れにことではなく、人にへつらうことでもないことです。
 
 独立の精神のないものは、自分自身に対する誇りを持てずに、常に他人を気にする従属心と、自己保身のために強いと思う者、権威ある者に気に入られるようにふるまい、弱い者と思う人には傲慢になるのです。す。独立の精神のないものは、自尊心をもていない人間になっていくのである。
 
  第三にに、独立の精神のないものは悪事を働くということです。 福沢は、権威強きものの大名の名によって賃借をして無理悪徳をした例をとって、独立の精神のもたぬものの悪事をあげているのです。
 
 
 小学校はコミュニティセンター
 
 地域生活をしているところに、学校や成人教育の施設を意識的につくりだしてきたのが日本の特徴です。小学校は、子どもが学ぶ場だけではなく、地域のコミュニティセンターとしての役割を果たしてきました。
 
 戦前では、小学校で地域の勤労青年が学んでいたのです。それらは、実業補習学校として制度化されたものでした。高等教育や専門的な中等教育に行けなかった青年も地域で学ぶしくみがあったのです。また、企業内でも普通教育や職業教育が活発に展開されていたのです。このように、日本では、大衆的な青年教育が、勤労の場で展開されていたことが特徴でした。
 
 戦前は、どこの小学校にも薪を背負って読書する二宮尊徳像がありました。日本人の勤労観と学習観を象徴したものです。戦前の小学校は、青年や成人が学ぶ場であり、地域がまとまっていく単位でもあったのです。戦後は、地域に市町村立の公民館という学習機関が生まれ、学校と機能的に分離して行きます。しかし、現代の大都市など、人々の地域のまとまりが消えていくなかで、あらためて小学校のコミュニティが注目されています。
 
 立身出世と実学教育
 
 日本でも戦前から高い学歴や有名大学をでて、立身出世しようとする考えがありました。とくに、国立大学・官立大学は、その機能を果たしてきました。戦前の日本の国家は、有能な官僚をすべての国民のなかからつくりだそうとする意図がありました。
 
 戦前においては、経済的条件によって、一部の奨学金を得られる人は別として、すべての国民が、立身出世の競争のなかに入れるわけではなかったのです。しかし、戦後の1970年代以降に、国民の生活が豊かになることによって、高校の準義務教育化の達成がされました。
 
 ところが、その後に画一的な能力主義のもとで、国民のすべての子弟が受験競争に巻き込まれていくのです。現代日本は、受験競争の結果、人間形成、生きていくための能力、実学的教育が軽視され、教科の点数を優先させる教育が横行していくのです。
 
 日本の儒教の特徴
 
 日本の儒教は、武士ばかりではなく、農民のための学問、商人のための学問ということで、それぞれの階層ごとに発達しました。農民のための学者として、安藤昌益(あんどうしょうえき)二宮尊徳(にのみやそんとく)、商人のための学者として石田梅岩(いしだばいがん)など有名な思想家がうまれました。そこでは、人間の価値に、働くことや社会的モラルを強く求めたのです。
 
 安藤昌益は、農民の労働の価値を中心に平等思想や環境思想をもった人です。二宮尊徳は、勤労意欲や倹約、地域の資源を有効に使って農民の生活を豊かにしようとしました。日本の封建時代でも、学問が武士だけで発達したのではありません。
 
 そこでは、農民、商人、職人など民衆の生活を豊かにし、生産を高めていこうと学問が発達したのです。日本は、江戸時代に民衆の学問や文化に花が開いていたのです。非常に純度の高い鉄の生産(たたら製鉄技術)、自然循環的農業技術、都市のリサイクルシステム、商業・商人の公益性などがあったのです。
 
 石田梅岩の商人道徳
 
 石田梅岩は、商人のモラルを説いた人です。儲けたお金は社会に還元し、商人になるためには、日常的に人として、愛、哀れみ、孝行を大切にし、倹約、勤勉、正直という公の正義の精神を大事にした社会モラルが必要であると力説しました。
 
 商人の利益は、公に許された俸禄と同じという考えです。商人としての自分の道をはっきりさせるために、大衆的な教育活動を都市の商人を対象として、意欲的に実践した人です。
 
 二宮尊徳の農村再建の実践
 
 二宮尊徳は、工夫、勤勉、節約によって、苦しい生活状況であった家の経済や藩の財政を立て直しました。そして、地域の経済を豊かにした人です。どんなに身分や社会的地位が高くても収入がなければ豊かな生活をしていくことはできません。
 
 したがって、家や藩の財政を立て直すめには、身分や社会的地位を無視して、現実の収入状況から日常的生活を考えるようにしました。このために、倹約をするということを徹底したのです。
 
 荒れた土地でも工夫して新しい収入を得るように努力していく方法をとったのです。洪水の起きる土地でも自然をよく研究し、農民の勤勉と節約によって、治水技術を開発し、豊かな村にしていったのです。
 
 かれの学問は、実践のなかでの実学です。二宮尊徳は、明治維新前の農村再建の実践的な思想家でした。尊徳の思想は、支出に限度を定め、真心を尽くし、勤勉に働き、節約し、生じた剰余を借金の返済や貯蓄に回すという徳に報いるという報徳思想で、日本の農村に大きな影響を与えました。
 
 日本の伝統的精神と欧米の技術の教育
 
 教育勅語では、日本の伝統的な精神の儒教的精神を基に、親・夫婦・兄弟姉妹・友人に対する孝行、慈愛の精神を尊重したのです。そして、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、公共のために貢献し、忠君愛国の精神を強調したのです。
 
 忠君愛国的な教育は、後に日本の軍国主義体制のなかで積極的に位置づけられていくのです。このことが、戦後の民主主義の教育のなかで、戦前の教育の否定をしたのです。
 
 日本の最初の銀行をつくり、経済の発展にリーダーの役割を果たした渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、経済における社会的モラルを重視した人です。かれは、論語の思想を経済活動のなかで大切にしました。彼は、公益ということから、経営者の道徳を鋭く追求した人です。かれは、近代の日本の学校教育のなかで、商業教育、福祉教育、女子教育などにも力をいれたのです。
 
 日本では私立の専門学校は、民間人の手によって積極的に作られました。1918年の大学の国家政策は、多くの私立の専門学校が法律的に大学になっていきました。日本の大学の普及に私立大学が大きな役割を果たしたのです。
 
 それぞえの大学に個性的な精神があるのは、私立の影響によるものです。札幌の官立農学校のように、個性的な専門学校もありました。1918年以前の大学は、帝国大学ということで、国立の東京大学京都大学などでした。国家の人材を養成するための大学です。帝国という名前はアジアへの侵略と支配のための大学というイメージがあり、よい名称ではないと思います。
 
 国民皆学確立と複線化
 
 1890年代は、経済の発展のなかで実業教育が制度化され、中等教育の進学要求も高まり、中等教育の3系統化ができた時期です。中学校、高等女学校、実業学校という中等教育機関の複線化が1899年の「中学校令」「高等女学校令」「実業」学校令」で制度化しました。
 
 さらに、地方改良運動という地主的生産力的発展ということで、いわゆるサーベル農政の時期に、地方の小学校の合併が行われました。そこでは、校区の財政的基盤になっていた大字の村の林野統一事業などが積極的に展開されていきました。そして、このような状況のなかで、学校の効率化、分業化により、複線体系が確立していくのです。
 
 中等教育機関の進学要求の高まり、実業学校の発展ということから、各尋常学校に置かれていた実科が不要ということが文部省の認識でした。そして、各府県1校という中学校設置の制度が維持できなくなったのです。このことにより、普通教育一本のエリート養成の中学校が生まれていくのです。
 
 つまり、中学校における職業教育の内容が消えていったのです。従前の中学校に2つの目的がありました。しかし、そのひとつの職業との関係をもっていた教育内容が失われたのです。
 
 中学校は、高等教育へのコースの教育機関として位置づけられました。従前の中学校がもっていた国民大衆教育の性格が失われたのです。1902年に小学校は、90%の就学率になり、1907には義務教育の6年制が確立しました。小学校の6年間は同じ教育を受けますが、その後、実業的な教育コースとエリートの教育と、分かれていきました。エリートコースには、小学校卒業後に5年制の中学校に進学したのでした。
 
実業・専門学校重視の大衆的教育
 
 庶民の教育コースは、小学校を利用しての夜間の補習学校、高等小学校として、2年間の普通教育がありました。さらに、補習学校は、農業など専門的な教育を夜間に実施したのです。企業のなかでも学校がつくられたのです。
 
 当時の日本の農村は、寄生的な巨大地主をはじめ農村では半封建的な地主制が拡大しました。小作人の貧困化も農村の商品経済の浸透とともに厳しいものになっていきました。貧困化していく小作人は、女子を中心に繊維関係などの低賃金労働者として排出していきました。戦前の農村は、地主と小作人という厳しい関係がありましたが、同時に農村における自立的な自営層の商業的生産の動きもあったことを見落としてはなりません。
 
 ところで、農村から供給される女子労働者層にたいする教育も大きな課題になっていくのでした。伝統的な織物業の工場では、工場制生産が進行していくことによって、粗製乱造の製品が市場に出回りました。産地としての品質の維持も大きな課題になっていくのです。そこでは、労働力の質が大きな問題になっていくのです。
 
 農村からの労働力は、出稼ぎ労働者ということから寄宿舎生活を強いられていきます。教養を身につけて生活や労働規範をたかめ、職場の秩序や技術の向上による生産意欲を高めることが必要になっていきます。
 
 長崎の三菱造船所では、1899年に三菱工業予備学校を工場付近に設立しました。工業応用の知識を開発し、将来の熟練技術労働者を養成するためであったのです。年齢は満10才以上で尋常小学校卒業者又はその学力のあるものを試験のうえ入学させました。修業年限を5年として授業料は徴収しなかったのです。
 
 労働者自らが幼年工講習所設立の要望をしていったのが、日本鉄道大宮工場にみることができます。大宮工場は、職工養成の制度はなく、熟練工は一般に募集して確保していました。1900年4月に本格的な職工養成機関の設置を労働者の有志は経営側に要求しています。大宮工場で技能工養成が制度化されたのは、1902年10月に養成機関3年の職工見習養成がはじまりです。
 
 日立製作所の前進である久原鉱山電気修理工場は、1910年に徒弟養成所を工場内に設けました。講義を交えて組織的な技能工養成をはじめたのです。八幡製鉄所は、1910年に幼年職工養成所を設置しました。高等小学校卒を選抜採用して職工養成をしたのです。 
 
 これらの工場内の教育では、、職業的な訓練ばかりではなく、基礎的な科学的知識や教養を学んでいたのです。日本の大衆的な学校の発展は、地域や企業内で積極的に行われたのが特徴です。大衆的な教育は、実際の生活や生産と結びついて教えられたのです。
 
 職業的な専門学校と地方の振興
 
 職業的な中等専門学校として、農学校や工業学校がつくらていきました。それらの学校は、日常的な生活単位の地域のリーダーを養成する学校になりました。地域での産業振興における職業的な専門中等学校は、大きな役割を果たしたのです。
 
 地方では、農業、工業、商業、医療などの高度な専門学校が発達しました。戦前までは大学にならなかったのです。これらの高度な専門学校は、1945年以降の戦後に、連合してひとつの県にひとつの総合大学の理念のもとに、大学となっていきます。実際はすべての県で総合大学の実現があったわけではありません。
 
 それは、エリートコースの教育のように社会的地位を得るための学歴ではなく、いいものをつくるため、あたらしいものをつくるため、生活を豊かに、地域を発展させるため、人間関係や社会的モラルを確立していくための学びでした。日本の労働者、農民、経営者などが勤労意欲と創造性をもってきたのは、教育の成果が大きいのです。
 
   不平等条約の完全撤廃
 
 日本は、1912年に自ら国として貿易の税金がかけられるようになりました。江戸時代の封建制のもとで、1858年に欧米から不平等条約がおしつけられましたが、1912年に完全に撤廃されました。しかし、日本が明治維新以来進めてきた富国強兵がアジア諸国と友好を結んで共に発展していく道をとらなかったのです。帝国主義的に膨張政策をとったのです。朝鮮半島や台湾の植民化はその典型です。
 
 民族的な誇りの教育が、民族の独立精神からアジア民族を抑圧するための帝国主義的な教育になります。自国民族絶対主義に変わっていくのです。ベトナムの独立のための日本から学べというドンズー運動などを十分に支援することができなかったのも、このためです。
 
 1910年代の日本資本主義の急激な発展は、半封建的な日本社会の矛盾を人々にはっきりさせました。労働争議や小作争議が急増しました。1918年には米騒動が全国的に起き、地主制と米の流通機構の矛盾がでたのです。1919年には、植民支配に対する朝鮮の人々の民族独立万歳示威運動、3.1事件が起きました。
 
 米騒動は、工場のストライキとも連動しました。のべ一千万以上の国民が参加するという騒動になったのです。日本の労働者、農民、勤労市民の運動や朝鮮の民衆の運動に対して、軍隊の出動という最悪の事態となって、治安が回復しいきます。これらの騒動の発端は、米価の急騰でした。
 
 大正デモクラシーと民衆の教育運動
 
 大正時代に、日本の文化人・知識人をはじとして、デモクラシーの運動が起きました。米騒動が収まった以降も労働争議は終わらなかったのです。1919年以降、足尾鉱山、川崎造船所、東京砲廠、東京印刷、東京市電、八幡製鉄など大争議が続いていきます。そこでは、軍隊出動という事態になります。そして、1922年に労働組合総連合が生まれ、同じ年に日本農民組合が創立されます。
 
 第1次世界大戦以降に日本の社会は大きく変化していくのです。重化学工業の発展などの産業の再編成も起きていきます。教育の世界でも自由教育の動きが活発になり、仏教的な内なる自立の精神を基礎にして、自学主義、自発主義によって、教室外、実際生活をとおしての教育実践を重視し、私立の成蹊実務学校が1912年につくらます。
 
 そして、1914年に中学校、1915年に小学校、1917年に実業専門学校・女学校、1922年に7年制高等学校を確立し、成蹊学園となります。実際的教育学を提唱した元文部官僚・前京都大学総長の沢柳太郎の提唱により、1917年に成城学校が生まれるのです。
 
 その学校は、児童中心の個性尊重の教育、自然と親しむ教育、心情の教育・鑑賞教育、科学的研究を基とする教育の実験学校でした。成城小学校は、多くのユニークな教師達を集めます。成城小学校の指導主事として1917年に招かれた鹿児島県出身の小原国芳は、全人教育論を展開して玉川学園を1929年に創設します。
 
 1920年前後に北原白秋など多数の芸術家・詩人による児童文芸雑誌の「赤い鳥」の出版活動は児童中心の教育活動や注入的な画一教育の克服に大きな影響を与えます。
 
 1924年には東京池袋に下中弥三郎などの教育の世紀による児童の生活の場として、自由教育をめざす児童の村小学校私立が誕生しました。
 
 生活主義の新教育運動
 
 生活綴方教育は、生活主義的な新教育と結んで発展していきます。生活綴り方の教育運動は、子ども達の発達をみていくうえで、子どものおかれた生活状況が大切ということで、生活をありのままに表現させていく教育の方法として、各地に広まっていくのです。
 
 教員も1919年に自己確立のために日本教員組合啓明会という組織をつくり、教育の民衆化が教員の自主的な運動として行われていきます。
 
 1921年には羽仁もと子が「自活自労」の7年制女学校をつくります。日常生活に必要なものを自分で生産する教育を展開しました。実際生活に遊離した当時の学校教育を批判して、女性の地位向上のうえでの教育の大切さ力説したのでした。
 
 人道的経営者の大原孫三郎
 
 紡績業の発展で大きな富を持った倉敷紡績・倉敷絹織の経営者である大原孫三朗は、企業経営者の社会的貢献・社会的責任として、教育活動、文化活動、研究活動のための施設をつくっていきます。
 
 大原家は、田畑100町歩をもち、地域農業発展のために、岡山特産の葡萄や桃の改良のための実地研究や世界的な農業関連の文献収集を行う大原農業研究所(後に岡山大学に移管)を1914年に創立しました。
 
 社会問題の克服をめざしての調査研究機関としての1919年に、大原社会問題研究所を創立しました。マルクスの関係文献の翻訳、森戸辰雄など日本の進歩的な若手研究者が育っていきます。
 
 1921年に、労働の医学的、心理学的研究を専門に行う労働科学研究所を創立して行きます。1922年に、社会に平等に解放された倉敷中央病院を設立します。石井十次の岡山孤児院の支援するのです。
 
 さらに、倉敷に大原美術館を設置して、市民の芸術文化鑑賞活動の拠点をつくったのです。このように、企業の経営者が社会的貢献や社会的責任として、利益の一部を社会に積極的に還元して、公益性を担おうとしたとは大正時代の一つの動きでした。
 
 大正時代の教育改革
 
 大正期は政府において、教育改造の動きは大きな課題になっていきます。政府は臨時教育会議を1917年に内閣直属の教育諮問会議を設置しました。その審議会の目的は、教育の抜本的な改革のため、重要事項の調査や審議でした。そこには、教育に関する答申や独自の建議を求めたのです。
 
 教育諮問会議は、1年半にわたって審議を重ね、小学教育、高等普通教育、大学・専門教育、師範教育、視学制度、女子教育、実業教育、通俗教育、学位制度など9領域、12の答申を行ったのです。
 
 小学教育に関して「市町村義務教育費国庫負支弁」が答申されて、国庫負担法が、1918年に法律になりました。小学校教員の俸給に対して費用の一部と市町村に国庫負担する法です。
 
 父兄ほ貧富と町村の貧富に拘わらず国民の義務教育であるということで、国庫の負担において最低限の教育を保障しようとするものです。国庫負担は、教員の俸給に半額、市町村に半額として、とくに、資力貧弱なる町村に特別に交付金を増加したのです。
 
日本ファッシズム化
 
 1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌は、半封建的構造をもっていた農村は、深刻な状況に見舞われました。1920年代は日本資本主義の発展による社会経済構造の矛盾が現れたのです。日本の経済の支配的地位にあった巨大な鈴木商店は倒産しました。
 
 重化学工業は、軍事部門を中心にして発展してきましたが、大正期に国民的生産の織物業なども機械的工場生産に移行しました。日本の産業段階も国民的経済の面からも機械制工場生産への移行に入っていくのです。
 
 しかしながら、半封建的な農村構造に支えられている労働力の低賃金構造は変わらず、地方の織物工場主の資本の蓄積が再び、地主的土地所有の集積をもっていくのです。つまり、封建的な束縛かに縛られて、近代的な工場生産の発展の限界をもっていたのでです。
 
 地方経済を地域のなかで自立的に発展させていくという自作農的上層運動としての織物業などの機械制工場の展開がみられていきます。農家の副業としての農村工業の発展も新たな展開をとげていきます。しかし、自由なる農家経済の発展は十分に展開されていかなかったのです。全般的に農家経済は非常に厳しい生活にたたされたのです。
 
 1930年代は、大恐慌というなかで、全面的な社会変革の必然性をもたらしました。とくに、半封建的な農村構造の矛盾である地主制の廃止の問題が社会的な問題となっていきます。政府は、自作農創設施策を部分的に実施しました。それは、地主制の矛盾をやわらげようとするものでした。さらに、農村更正運動として、農民の自立的な経済活動を刺激していく施策をとりました。
 
 しかし、根本的な半封建的な矛盾構造である地主制の問題や古い形態を残した雇用形態、財閥制度は改革することはできなかったのです。絶対主義的な国家機構は強く残存しました。社会の矛盾構造から自由性と民主化を促すことができなかったのです。つまり、人々の自立的経済活動を促進する施策を十分に展開できなかったのです。そして、矛盾を海外の侵略活動にむけていくのです。