社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

農による幼児期の育ちの発見と地域

            農による幼児期の育ちの発見と地域

 

 子どもどもの共同感情の発達―微笑と安心の共同感情―


 人は社会的存在であり、一人で生きていくことはできない。生まれたときから、人は、母親の依存関係がなければ生存することができない。人の乳児は、他の動物と異なって、自立して歩くことに一年近くの月日が必要である。


 乳児は、母親から、そして、父親から、家族から、大人たちから愛され、保護され、 一人前の人間として、長い年月かけて育っていくのである。人は、生まれた子どもたち愛することに、未来を感じ、明日への希望をもっていくのである。乳児は、大人達の喜びに満身の微笑みで答えるのである。


 乳児の愛されている依存関係は、子どもの自立的な本能に裏付けられたものであり、親や大人との関係で、安心感情をもっての育ちである。受け身の依存関係にみえるなかでも、子どもの自立的な本能があることを決して見落としてはならない。


 この安心感情は、自立していくこの本能を認められていることでの信頼関係の形成の基礎でもあるのである。このく基本の基に、親子の関係があり、子どもは決して親の一部としての従属の関係ではないのである。


 乳児からみるならば、母親に愛され、保護されることによって、生存が可能とされるのである。親からみれば、我が子を愛することによって、また、保護することによって、乳児の成長を保障していくことになる。


 愛される子どもと、愛する親との関係であり、子どもにとっては、親からの依存関係が基本である。親の精神的な病理によって、愛することが途絶えてしまえば、乳児の生存は危機的になる。愛されることは、子どもにとって、親への従属関係をもっているのである。


 乳児は、自立的な本能をもって、母親に対する依存感情である微笑みと泣きの表現をする。自己の欲求を表現していく泣きも大切なことである。この母親に対する微笑みと泣きの感情が人の最初のコミュニケーションである。


 母親は、この乳児の感情に答える形で対応し、そこに、乳児と母親との共同感情が生まれる。母親の愛情、やさしさによっての共感である。他に対するやさしさは、母親のもっている乳児を育てていく本能的な心に典型的にみることができる。幼稚園や小学校の教師が、子どもにやさしさをもつということとは、本質的な違いがあるのである。


 幼稚園の教師は、親から信託されての教育の仕事であるが、親の代わりになるということは、大きな壁をもっているのである。また、教師は、親以上に子どもとの関係において、社会的な権威をもっての従属関係があることをみなければならない。そのことを十分に認識して、教師は、子どもの自立と共生の育ちを援助していくことが必要である。


 社会的存在である人の育ちは、母親との愛着関係を出発とするが、父親、家族、地域、社会へと拡がりをもって、より人間的になっていく。そこでは、様々な場面での共感的な感覚が大切になっていく。農村における習俗にみる産育や四季おりおりの子ども行事や、祭りなどにみられる儀礼は、子育ての共感的な役割を果たしてきたのである。農村の習俗の子育て習俗には、人間的な感情の原点がある。


 いうまでもなく、人間の感情は、個々の感覚的な快と不快、自己欲求の充足による個人の感覚的な感情だけではないことをみていかねばならない。幼児が泣く姿は、自己の要求、驚き、怖さに対する表現である。人間は、利己の生存的な欲求を本質的にもっている。


 人間のもっている利己心の本質は、乳児期における泣きのなかにみることができる。しかし、幼児の微笑は、人間関係の喜び、満足の表現である。ここには、未熟ながらの人としての関係の感情がある。人間自身が、社会的な存在であることから、生存的な自己愛、利己心を共感によって、コントロールされていく。


 人間のもっている他人への共感を得たいということは、社会的存在の人間としての本質的な側面である。人間は、教育によって共感的な感情から社会的な存在へと成長していくのである。

 人間の感情は、社会的存在として、個々の意識レベルから集団的に共有していくものがある。子どもから大人になっていくことで、共感は、社会的存在の人間形成にとって大切なことである。その根底は、乳児から存在する。


 共感という人間のもっている感情は、音楽の合唱や鑑賞、集会の演説・詩の朗読、集団のなかでのコミュニケーションの形成などにみられていく。ここでは、自分自身の実感が集団の形をとって表れる。その集団の熱狂、感動の心は、集団に合わせる感覚ではなく、個々の感情が発散されての集団的な表れである。


 微笑は、人間の喜びの体で表してのコミュニケーションであり、 微笑は、人間の生命にとって活動の平安のあらわれである。微笑は、生き生きと動きまわる人にとって、重要である。人間の社会的存在の本質にとって、微笑や平安は大切なことになる。微笑は、人間的に子どもが発達していくうえでは、もちろんのこと、人間が衰えていく過程でも、人間の生命の本質にかかわるものである。人間にとって、安心は、共同感情のなかで発達していく。


 しかし、弱肉強食の競争社会のなかでは、安心の共同感情がなかなか生まれてこない。孤立していく現代の農村は、伝統的な習俗のなかにある安心の共同感情が奪われている。目的な意識的な伝統的な習俗における安心の共同感情を取り戻していく課題があるのである。


 子どもにとって、安心とはなにか。人間は生まれときから依存性をもっての安心感・信頼感をもって成長していく。幼児期にとって、安心とはなにか。それは、子どもが親から保護されていることによって、もつ感情である。親は愛情をもつことによって、子どもを心から自己犠牲をもって保護する。親からの愛情は安心感の源泉である。


 子どもが、子どもらしくならないことがある。それは、成長過程で、親の保護、安心感がないなかであらわれる。そこでは、子どもの成長期の情操の発達を無視して、子どもが大人のようなふるまいをしていくのである。


 子どもにとって、最初の安心とはどのようなことからであろうか。微笑は、子どものコミュニケーションの満足と安心からであり、喜びの共同感情への意志表示である。子どもは、母親との安心の共同感情から喜びが生まれる。そして、父親、さらに、家族から愛されていることからはじまる。それは、祖父母、兄弟姉妹と拡がっていく。家族ということで、安心の共同感情がひろがっていく。


 死をむかえる終末期の人間にとって、安心の共同感情とはなんであるのか。人間らしく死をむかえていくということはどういうことか。死を迎えることでも安らかにという安心感情がある。


 安心感情は、家族や今まで生きてきた人生の重みをもって、まわりから感謝されて死をむかえていくことになるのではないか。感謝の気持ちは、死をむかえていく本人自身の感謝以上に、まわりの人々の感謝の気持ちにも連なっていく。


 子どもの成長は、同時に高齢者との循環のなかで、成し遂げられていくのである。子どもだけが成長しているのではない。人間のライフサイクルの循環のなかで子どもの成長があることを忘れてはならない。


 今はお年寄りが感謝されている時代であろうか。むしろ、お年寄りは、パソコンもできないし、携帯電話を上手に使えないということで、子供たちから軽蔑の対象になっていないか。また、世の中に必要のない人間として思われていないのか。退職をむかえると一般の職場では、その人に感謝の気持ちをあらわす祝いが行われる。


 いままで長らくご苦労様と感謝の気持ちをもって送り出す。しかし、このことがやられることが少なくなっていないか。リストラの嵐のなかで、早期退職の勧奨制度で、じゃまもの扱いに退職前の人々は扱われないか。早期退職を自らなのりでても本当にまわりは感謝の気持ちをあらわすのか。むしろ、用のなくなった人間がいなくなったとして、冷たい目で追い払うのではないか。職場の安心の共同の感情がゆらいでいるのが弱肉強食の能力主義管理のなかで起きている。

 

 笑う門には福来たる


 農村の伝統文化には笑いの世界が詰まっている。人間の発達と笑いは豊かな人格形成にとって重要である。「笑う門には福来る」というごとく、認知症の進行によっても笑いを失わないことはまわりの心を和ませてくれる。認知症の進行は、数や図形などの知的な分野や言語認識など衰えていくが、笑いのコミュニケーション感情は豊かに残されている。


  まさに、人と人の関係に、笑いによって、敏感に反応しているのである。家族との対人の認識ができなくなっているが、笑いの感情は失っていない。笑いのないときは、家族でも反応しないのであるが、笑いのコミュニケーションは、豊かに表現してくれる。


 笑い人形は、ぜんまいをまいて、ボタンをおすと、ころげながら笑う。それを見ていて、まわりも笑う。本人は、しっかりと人形を抱いて、共感の笑いを続ける。

 笑いは、すばらしい人間的なコミュニケーションであり、幸福という共感の世界を導いてくれる。


 現代は、人間の発達、子どもの豊かな感情の成長ということで、笑いの文化をもっと身につけていくことが必要ではないか。ジョークや日本の落語などの笑いの世界を教育のなかでどのように工夫していくか。軽蔑の対象としての笑い、享楽に非人間的な行為をしながら笑う世界ではなく、幸福を共感しながら、お互いの人格を尊重しながら、心から笑える世界を人間形成の教育的にいかに役立てていくかということである。


 人間の教育を書いた「フレーベル」は、子どもの共同感情の発達における微笑と安心を強調するが、それは人間の本質であり、人間の全生命の純粋のあらわれである。子どもの共同感情の発達は自己意識の表示である。これらのことをフレーベルは、次のようにのべている。


 「子どもが快適な暖かさに包まれ、透明な光を浴び、澄みきった空気を吸い、微笑したり、満足したり、悦んだり、活発に動きまわったりするのは、この感情から生じてくるのである。これこそ、子どもの、ひいては人間の最もはやい時期における自己意識の芽生えである。

 したがって子どもの、ないし人間の生命の最初の表示は、平安と不安、快感と苦痛、微笑することと泣くことである。平安や快感や微笑は、幼児期に、子どもの感情の中で、子どもの本質ないし人間の本質を純粋完全に発達させるのにふさわしいことから、したがって子どもの生命ないし人間の生命に適合することがらを示している」。(人間の教育、36頁


 幼児期の子どもの共同感情の発達は、人間の本質を純粋の形であらわしており、人間の全生命に適合しているものであるとフレーベルは考える。幼児から子どもの共同感情をみていくことは、その後の人間の共同感情に継続していく。それは、人間の本質的な共同感情を素直にみることができる。また、同時に、人間が死をむかえる共同感情とも共通性がある。そこには、やすらかに人間らしく死んでいくうえで、感謝の共同感情の発達を考えていくことも必要である。


 人間のもっとも早い時期の自己意識の芽生えは、子どもの微笑と安心の共同感情からはじまり、自己意識の発達がなければ対人的な感謝の気持ちは生まれてこない。自己意識の発達と対人的な感謝の共同感情の発達は、親子関係の関係から形成されていくのである。子どもの感謝の共同感情という対人意識の発達のなかで、わがままの意識が芽生え、自己欲望増大による感情の自己展開によって、それが実現できないときに、抑制心の成長が伴わないと周囲の人々に攻撃的になっていく。


 人間にとっての微笑と安心の感情は、最初の対人的な共同感情であり、また、死をむかえた人にとっても感謝の共同感情ということから、微笑と安心の感情は大切になっているのである。


 人間の感謝の共同感情は、人間関係では親からの出発であるが、同時に人間としての生命をあたえてられている自然との関係での感謝の気持ちも大切である、人間には内なる自然を生まれたときからもっている。この内なる自然に依存して、自然との関係で子どもの共同感情の発達を育ていく課題があるのである。

 

子どもの誕生と成長の源泉


  微笑みは、生まれたばかりの乳飲み子のように、母親、子どもをとりまく父親や周囲の大人たちは、子どもに安心を与えることができ、大人たちが子どもに影響されての純粋な気持ちが必要である。


 ところで、のみこむという活動は、人間の外部の営みの多様性を受けとり、自己のなかにとりこむ最初の段階であり、人間の、その後の成長にとって、言葉に言い尽くせないほど重要である。そして、子どもの信頼を育む両親と周囲の大人の役割をフレーベルは次のように強調するのである。


 「この段階の人間が病的なもの、下等なもの、卑しいもの、曖昧なもの、いや悪いものはいっさいのみこまないことが、人間の現在および未来の生命にとってきわめて重要なのである。したがって、子どもを取りまく人々のまなざしや表情は、純粋かつ確固たるものであって、子どもの信頼を呼び起し、それを育くむにたるものでなればならない」。(人間の教育、39頁)


 子どもは生まれたときから母親、父親をはじめ周囲の大人たちの愛護のもとに安心、喜び、微笑の自己表現と、信頼感の育みのなかで成長していく。人間にとっての子どもの誕生は、両親の愛情のもとにこの世に生まれたということが極めて重要なことである。両親の喜びは、子どもへの純粋のまなざしであり、子どもへの豊かな感情の贈り物である。子どもの誕生は、両親ばかりではなく、周囲の大人達を感動させ、深い喜びをつくりあげていくのである。


 幼児期の人間の発達にとって、我が儘や我意が生まれてくる。フレーベルは、人間の最初の表示は、平安と、喜びと苦痛、微笑と泣くことであるとのべているが、不安や苦痛、泣くことの根拠を発見し、それを除去することに努めなければならないと同時に、我が儘や我意という人間にとっての不幸な感情が芽生えていくことも見落としてはならない。


 この不幸な感情の欠陥は、その後に虚為、欺瞞、傲慢、強情になっていく。人間には、ほっておけば、我欲の肥大という社会的存在としての人間関係にとって、欠陥の感情も育っていくのであることをフレーバルは次のように指摘する。


 「小さな苦悩に耐えることから始まって、次第に、その身の破壊に迫るようなより深い苦悩や重荷もよく耐えることができるようになるまで充分に陶冶されなければならない」(人間の教育、37頁)。


 幼児が泣いていることが彼にとっての生存的欲求なのか、発達的要求なのか、我が儘や我意からであるのか見極めて、対処していくことが必要になっている。両親や周囲の大人は子どもが泣いたり、落ち着かない状況を、確信をもって判断することを求められているのである。他人の協力や援助をむりやりにでも手に入れることが繰り返されるならば有害なことになるというのである。


 幼児期の子どもの成長にとって、聴覚、視覚、味覚、臭覚、触覚の五官の発達は極めて大切である。最初に聴く感覚が発達し、この聴覚を通して、導かれたり、制約されたり、刺激されたりして、この2つの感覚がある程度発達して、言葉を身につけていく前提がつくられていく。感覚の発達と同時に四肢の発達は身体的に人間になっていく基本的なことである。立つということは、四肢の使用や身体の使用全部の、ひとつの、しかも最も完全な総合である。それは、身体の重心を発見することである。(人間の教育、62頁~64頁)


 まさに、手を自由に動かすことができるのも立つことであり、立つことによって人間は歩くこともでき、自由に行動をすることである。たつことがなければ排尿や排泄も自分の意志で自由にならない。おむつがとれ、自由に排尿と排便ができることは、たつことから可能になっていくのである。


 人間は立つことが身体的な自立の基本であり、手と足が分離して、それぞれが別の機能として、脳につながり、動物のように四つ足で行動することと、根本的に異なっている。歩くということは、より人間的な行為であることを決して忘れてはならない。鉄道や自動車という文明の発達は、歩く行為を退化させているのである。

 

子どもの遊びの場を提供する地域社会の役割と園芸の人間発達の意味


 子どもの発達に園芸は、重要な役割を果たす。園芸は、子どもの遊びの場を子どもの発達の役割に変えていく。子どもの遊戯を子どもの発達ということから目的意識に、その場をつくりあげていくことが必要である。その場は子どもが日常生活している地域社会である。子どもが自発的に自由に、自然的に、その場はできるものではないのである。


 200年前のフレーベルの生きていた時代は、現代から考えると子どもが自由に遊べる環境が自然的にあったが、しかし、家庭や学校の仕事からも子どもが解放されても少年は、戸外で自分の力を練習したり、発達させたりすることができない場合があるとする。


 遊戯の子どもの力の純粋な表現ということで、少年が個人として、集団の一員として確実な快感の感情であり、少年の生命にとって、未来のおいて待ち受ける生活の闘いを映す鏡であると考えるフレーベルは、地域社会に少年の遊びを用意することの意義を次のようにのべている。


 「それぞれの地域社会は、そこに住む少年たちのために、その社会に固有の共同の遊び場を用意すべきであろう。そこからその社会全体に対して生じてくる成果は、じつに素晴らしいものであろう。なぜなら、この発達段階の遊戯は、じっさいに行われる場合には、いつも共同で行われるし、したがって、共同のものに対する、また共同なものの法則や要求に対する、感覚や感情を、発達させるからである。


 少年は、自分の仲間のなかで自己を見たり、仲間のなかで自己を感じたり、仲間に照らして自己を測定したり、評価したり、さらに仲間を通して自己を認識したり、仲間を通して自己を発見したりしようとする。したがって、これらの遊戯こそ、直接に生命に働きかけ、生命を形成すると共に、市民としての、また道徳上の、数々の徳を目覚めさせ、それを培ってゆくのである」。(人間の教育、149頁)


 子どもの遊戯は、子ども自身の共同の感情や感覚の発達であり、自分自身を他の関係で、自己認識したり、仲間との関係で自己を評価したりすることができるとするのである。遊戯は、共同で行為するものであるという。遊戯をとおして、子どもは共同の法則や要求を学んでいくとするのである。


 遊戯にとって、子どもの生命に働きかけ、市民としての道徳の形成もしていくとするのである。遊戯は、子どもの内発的な衝動からの活動であり、遊戯は子ども自身の自由性の拡大である。


 しかし、目的意識な遊びの場の設定を見落としてはならない。子どもは自由に遊ぶことで、仲間を知ることができるのであるが、地域社会が目的意識的に遊びの場を提供することは、教育的作用として、必要なのである。この教育作用ということで、遊びは子どもの自由なる場の提供であることを決して否定するものではない。幼児から少年に発達していくことによって、その自由性の拡大は大切になっていくのである。

 

 子どもの遊びと徳の形成


子どもの遊びと徳の形成はどのような関係をもっているのであろうか。子どもの遊びは、人間としての徳をつくりだすことである。よく遊び子どもは他人にたいしての思いやりと幸福をもたらすように献身的になる。幼児期の遊びについては、内なる自由なる表現であり、人間発達の最高の行為である。 フレーベルは、幼児の遊戯のついての役割について次のようにのべる。


 「遊戯は、喜びや自由や満足や自己の内外の平安や世界との和合をうみだすのである。あらゆる善の源泉は、遊戯のなかにあるし、また遊戯から生じてくる。力いっぱいに、また自発的に。黙々と、忍耐つよく、身体が疲れきるまで根気よく遊ぶ子どもは、また必ずや遑しい、寡黙な、忍耐つよい、他人の幸福と自分の幸福のために、献身的に尽すような人間になるであろう」。(人間の教育、71頁)


 フレーベルは、幼児の遊びを人間としての徳をつくりだす源泉としているのである。力いっぱい子どもが遊ぶことがことによって、他人の幸福のために献身的に尽くす人間になる源泉としているのである。人間が自発的に、内なる自由になることが他人の幸福に献身的になるというのである。


 いい加減な遊びは、他人の幸福のための徳をつくりだすことにならないとしている。遊びに没頭できることは、人間の感覚を自由にして、心の平安を呼び起こし、他人に献身する感覚をつくっていくのである。


 自然に働きかけて、自然との共生をしていく徳の教育に、園芸は大きな役割を果たす。人間のみが自然を自分の意志によって、変えていくことができる。自然の認識は、自然を征服していくひとつの過程でもある。動物界は、どんな欲望をもっても自然という大きな秩序に制約される。動物は自然生態そのもののなかで生きていくのである。