社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ラスキの「近代国家における自由」から生活苦と無知の解放

 ファシズムとの戦い・近代国家における生活苦からの解放の自由の保障

 H.J.ラスキの代表的な著書として、「近代国家における自由」がある。この本は、1930年に出版し、1937年に再版し、戦後の1948年版を出している。フッシズムの戦いのなかで自由の問題を積極的に提起した書物である。日本語翻訳・飯坂良明訳「近代国家における自由」岩波文庫
 そこでは、集会結社の自由、出版の自由の問題、精神的な自由などの政治的な独裁からの解放問題ばかりではなく、生活苦からの解放の自由、無知から知性の獲得、良心による自己決定できる自由を強調している。社会教育論を生活苦からの解放の自由という視野からみていくうえでも重要な著作である。自由の問題を経済的解放の視点からみているのである。

 自由への関心は、生活苦からの解放から考える余裕が人間の自由獲得の根本条件としてラスキはみるのである。生活苦から自由をみることは、極めて少数の支配階級が、自由とは、自己の勢力と冨を維持することであるとして、自由の恩恵を人民一般大衆にまでなんら関心を示さないということとは全く異なるのである。

現代の新自由主義によるルールなき「自由」の問題

 現代は新自由主義のもとに、一部の支配者の特権的な多国籍企業による「企業の自由」論が謳歌して、ルールなき市場経済労働市場による規制緩和路線が進行している。そして、国民大衆の福祉や教育に対する制度設計が進んでいないのである。まさに、弱肉強食の競争主義による精神的な圧迫、生活苦や労働基準法の形骸化による長時間労働、契約・派遣労働からの雇用不安という経済的側面からみるならば自由が奪われている状況である。

 現代の一般民衆は大衆社会のなかで群衆化して、個々が職場や地域で学ぶ機会が少なくなっているのである。情報化社会が、スマートホーンか著しく普及して、じっくりと社会のニュースを身近な生活上の人びと話し合うことが難しくなり、個人が精神的に孤立し、無縁社会が進行しているのも特徴である。社会的な絆をもち、家族や仲間、地域の人びと共に生きる人間的な喜びの機会が喪失している状況がみられるのである。孤立化、無縁化ということは、だれからも拘束を受けないということで、非人間的な「自由」の場であるかもしれない。

 自由とは人間としての権利の自由であり、人間的な幸福の充実でもある。孤立した「自由」のなかでの労働の強制が収入を得るために義務的に行われたり、インターネットをとおしての収入を得る手段など人間的な直接関係を結ぶ世界も広がっている。バーチャルの世界が一層に拡大していく基盤が作られていくのである。

 19世紀的な自由の概念の誤り・政治と経済は深く関わっている時代

 現代は個々の生活や労働は深く政治と結んでいるのである。そのことが、孤立化していくなかで一層に見えにくい社会になっている。ラスキは、経済を政治から切り離す19世紀的な主張は誤りであると主張する。生産手段の私有がデモクラテックな諸制度とは両立するものではないことがみられるようになったと。資本主義の著しい発達によって、市場経済において独占化が進み、国際的にも多国籍企業として経済は国境を越える時代である。国家と独占企業や多国籍企業が密接に結びついている経済の時代である。このなかで、民族感情の矛盾が経済問題と深く結んで展開している。それは、移民問題、出稼ぎ問題でも深刻に現れている。

 ラスキは、すでに、民族的感情は適当な制度で表現されるべき深い熱情であり、民族と国家との概念を明確に区別すべきあると1930年代の世界恐慌のなかで主張している。国家の政治的機能は国際的性格を帯びており「独立にして平等なる」主権国家間の協働のみに到底頼っておれないのであるとラスキは国際的な立法成就を重視していくのである。ここには、世界的規模のフッシズムとの戦いの問題の背景があるのである。

 現代においても民族問題、宗教問題が深刻化しており、また、先進国と発展途上国の矛盾、先進国内での格差の拡大などの矛盾が進むなかで、平和の問題が重要な課題になっている。
 
 教育に関して、ラスキは、現時の教育を通じて形成される国民感情は、国民の利益と事実上全く相容れない目的に転用されるおそれがあるとラスキは指摘する。したがって、国家が要請する忠誠とは両立しえない諸組織を速やかに結成して初めて自由の諸条件に到達できる望みが生まれるとしているのである。つまり、国家の要請ということではない、独自の組織として、国民の権利としての教育が暮らしとの関係、現代的な自由の獲得との教育が求められているというのである。

 ラスキは自由とは、依然食糧の十分な供給と公平な分配の問題であると指摘する。大多数国家の権力が資本主義的性格のゆえに多数の福祉を、法的に保護された少数者の優先的要求に従属させる道具たらしむるほかならない。ラスキは資本主義的な性格による少数の「企業の自由」による国家による国民の生活の軽視をする「経済成長」「経済効率」に、公的な教育が現実に機能していくおそれがあるとする。

自由にとって最も恐ろしいのは民衆の冷淡さと無力感

 ラスキは、自由にとって最も恐るべき敵は、民衆の冷淡さや無力感であると指摘する。自由は民衆の敬意によってはじめてその存在を全うするものである。自由を擁護する民衆の力は、そのために自ら進んで結束する決意を必要とする。自由の何たるかを知って、自由が脅かされる危険に目覚めた人びとは決して自由を放棄しないとラスキは力説する。

 さらに、ラスキは、民衆の弱点に、自由の敵の仮面を見破ることが難しいことにあるとする。民衆は服従されてきた。民衆は、歴史の教訓を読み取る力を持てなかった。民衆が自由の大切さを気づくことは、日々生きていくこと、過酷な労働や生活からであるとラスキは考える。

 過去の自由を特徴づけたのは、生活を支配する経済組織の実情によって制限されてきた。ラスキは民衆のもつ弱点を自由そのものについて理解できていないことにあるとしている。その理解は、自らの過酷な労働と生活からの生きる戦いのなかで目覚めていくとする。

 現代社会は、科学による自然の征服が力の源泉を変じて以来、教育に対する近代人の権利は、彼の自由にとって根本的なものとなった。知識および知識獲得の手段を奪われた人は、必然的に、必然的に、より恵まれた人びとの奴隷にされるのであろう。しかし、知識の剥奪はそのまま自由の否定ではない。それは自由を偉大な目的に供する力を否定することである。

自由の獲得と教育の役割

 ラスキは、無知な人に、その無知なままに自由かもしれない。しかし現代、こうした人は自らの自由を用いて幸福を確保することをなしえない。むろん、精神の鍛錬も強制である。しかし、それは、やがて強制の後により大きな自由のために目前の自由を犠牲することに他ならないとラスキはみる。

 ラスキは以上のように教育と自由の獲得について述べる。現代の科学技術の進歩は、人間の自由獲得にとって、知識の獲得、技術の習得がより重要になっているのである。教育とは、教養を身につけて幅の広い人格の形成と共に、現実の科学・技術の進歩に対応していくことが当然に求められていくのである。

 ところで、ラスキは真の自我は他者との協働による公共の福祉に捧げることを自覚していくことであるとする。自我は決して理性目的の体系ではない。真の自我は、世界観の形成との関係で、行為のすべてであるとする。

 行為は、自己の人格を実現しようとする表れである。真実なる行為は、自己の判断にのみ従うことによって、はじめて自らの目的として、意識的存在として、自己が自由になっていくのであるとラスキは考えるのである。

 ラスキは、著書「近代国家における自由」の結論のなかで、自由の探究は、寛容の精神にほかならないとする。寛容の弁護は理性の権利の弁護である。社会を常に脅かす主たるものは、権力者の欲望であるとすうる。独創や実験について何ら省りみることがない。

支配者の欲望との戦いによる自由の獲得

 支配者の関心は、自らの欲望を満たすことである。彼らは、善悪の観念もなく、自分にとっての満足な秩序を維持することである。権力者たる人は権力の行使を楽しむ。いかなる情熱も、これほど深く人間の衝動を支配するものはない。見解の相違を認めることにやぶさかでないという美点はきわめて稀にしか見られない。

  自由は日々新たに戦いとられ、かつ保持されていかねばならないのである。自由とは危機にたいして力の要求に敢然と抵抗する勇気が求められ、自由は権力者に対して脅威であるとするのである。

 自由の領域は時代によってその重要性は異なる。現代において自由の教訓が学ばれる必要がある。いつの世代においても、繰り返し自由の内容について学ばなければならない。ひとうとの領域において寛容を認めながら逆に他の領域でそれを否定するようなやりかたがある。ラスキは以上のように述べる。

 自由の内容は常に学び、権力者は自己の欲望の衝動に駆り立てられている。権力者に対する自由を侵害する抵抗を日々行う勇気を持ち、その民衆の寛容の行為によって自由は守られていくものである。学びと抵抗の勇気が自由を守ることに不可欠であることを見落としてはならない。