社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

農業・農村の教育創造を三澤勝衛の風土教育論からみる


  農業・農村の教育創造を三澤勝衛の風土教育論からみる


 三澤勝衛は、自然学を基礎としての風土論からの教育論である。農業・農村ということを大地と大気との接触ということから自然科学を基礎にして、風土論を考えていくことは、持続可能な発展のための教育を地域から構築していくうえで、極めて大切な課題である。
 
持続可能な発展のための教育(ESD)を日本で推進していくための理論的構築の視点からも農業・農村の風土教育論の検討は大切である。三澤勝衛の教育論は、この問題に正面から取り組んだ教育者であり、研究者である。
  
風土産業論

 三澤は、風土産業論ということからそれぞれの地域ごとに大地の自然と大気との接触を考察した。そこでは、大地と自然をその地域の風土と考えて、風土性に依存した地域産業の重要性を提起した。彼の風土産業論は、それぞれの地域個性による自然循環の経済を考えたのである。彼にとっての地域発展は、風土産業に根ざして、自然循環を基礎にしている。
 
自然に挑戦していく自力更生的な生産力ではなく、自然と融合して地域の風土に根ざしての自然循環的な自然力の地域更正をめざしたのである。三澤は、長野県の千曲川のほとりの更級群更府村の農家の長男として1885年に生まれた。更級丘陵のうえに生家があった。
  
三澤勝衛の教育歴と風土論からの教育体系

三澤は、高等小学校卒業後に農業に従事するかたわら、独学で勉強して、自分の村の小学校の代用教員になる。その翌年1903年小学校の准教員の免許状を取得し、1904年に専科正教員農業科教員免許状をとる。そして、1905年に尋常小学校正教員の免許状を取得し、1907年には、小学校本科正教員の免許状をとる。彼は独学によって、毎年、小学校での上位の免許を取得していったのである。
 
 1915には、文部省検定試験で師範学校・中学校・高等女学校地理の免許状を取得した。このとき31歳であった。中等教員の正規の地理免許状の資格をとって、松本商業の地理担当の教員となる。そこで、2年間中等理科の授業を担当する。そして、35歳から52歳に死ぬまで、諏訪中学校の地理の担当教員として、教育と研究で大きな業績をあげる。まさに、地理教育の体系を築いていく。


 かれの地理教育論は、自然科学的に大地と大気の接触ということから、太陽の黒点、地域の小気候などを観測・調査し、それを基に地域産業論に発展させたのである。これは、風土論の視点からの体系である。
 
 三澤は、独学で教員の上位の免教状を次々に取得する努力家であったが、諏訪中学校に移ってからは、在野の研究者として独創的な風土に根ざしての地理学、地理教育論を体系していく。師範学校帝国大学を卒業しての道では決してない農民としての魂をもちながら在野で研究の道を続けたのである。
 
 授業も野外調査、野外観察を重視して教科書などに依存せずに、生徒達の創造性を十分に尊重して地理教育を学ばせたのである。まさに、かれの教師としての信念は、教えることではなく、学ばせるということであった。地理教育は、野外調査や野外観察をしながら着想力と風土に根ざした科学的な頭の訓練を行うというものであった。


 三澤は、52歳という若くしての死であった。非常に惜しまれた。かれの能力からみるならば、その後も大いに教育と研究に活躍できる年齢であった。諏訪中学校の17年間の教員生活は、三澤の研究者としての円熟の時期でもあったが、道半ばして病に倒れたのである。
  
三澤の独創的な教育方法

 三澤の独創的な教育方法や研究を可能にしたのは、諏訪中学校の校風があったことを見落としてはならない。かれの独創的な教育方法を許す雰囲気があったのである。諏訪中学校では、科学研究会が三澤によって組織され、生徒達の自主的な活動や相互に切磋琢磨する状況を学校としても推奨していたのである。


 また、三澤は、各種の講演会にも招かれたように、地域とかかわって、地域の産業発展のための具体的な提案をしたのである。それは、風土の調査や観察をもとに提起したものである。
 
 また、三澤の綿密な調査や観察は、中央の学会でも注目され、日本の地理学にも大きく貢献していくのであった。長野県の調査や観察する大学の研究者との同行や交流も積極的に行ったのである。三澤が調査や観察をした諏訪地方をはじめとする信州は、地理学的に変化に冨み、研究のフイールドとしても好適な地であった。


 信州の教育界が三澤の研究の成果を教育上に取り入れる力があったことを三澤自身の努力とともに、それを支える地域性があったことを見落としてはならない。当時に親交のあった東京文理科大学の田中啓爾教授は、三澤の研究成果を教育的に受け入れた信州の教育界の力の大きさを指摘する。
 
 田中は、東京理科大学の学生指導の野外実習を三澤に臨時指導をまかせたほど三澤の力を信じていた。民家の研究者の第1人者であった今和次郎も現地調査に入ったときに、三澤の研究発表冊子をもらって、諏訪の民家の研究の進んでいることに驚いている。三澤は、京都大国大学の山本清一教授による長期間の観測にあたっての本格的な指導を受けている。
 
観測結果は、きちんと整理して天文学者や気象学者が利用できるようにしたのである。山本清一は、三澤や生徒達の太陽黒点の観測記録を1921年から1926年までの研究成果として学問的に利用して、その記録などから太陽黒点相対数を究明したのである。三澤は、科学研究会の生徒達に天文学相対性理論の講演を聴講させたりして、科学研究のおもしろさや、その熱気をたきつけていている。
 
 小気候学の創設として三澤の果たした役割は大きい。諏訪盆地に1923年に雨氷があった。三澤は、このときから地域の被害の深刻性を知り、小地域における雨氷の研究をはじめる。生徒達の協力を得て風向観測を行うのである。三澤のところに出入りしていた新鋭の地理学研究者の佐々倉航三とともに、三諏訪地方での46地点の雨量観測と18地点の風向と風力の観測をした。さらに、気温分布を調べる。のちに、佐々木は、「小気候学」の体系した冊子を出版するのである。
 
 郷土学習と風土精神

 大正期から昭和初期に文部省は、郷土学習を推奨したが、その推進の中心的な人物であった小田内道敏は、1930年に郷土教育連盟を創立した。文部省は、各師範学校でもモデル授業を展開して、県内の各小学校の郷土教育運動を推奨した。小田内道敏は早稲田大学や慶応大学で地理学を担当していたが、当時の地理学を自然地理に偏重していると批判した。
 
彼は、人文地理学の大切さを提起した研究者であるが、一方で地理学的な方法で国家主義的な郷土教育を推奨した人物である。小田内道敏は、「地域の力」の精神的な研究を行なった。彼の郷土愛の精神は、愛国心に通じ、郷土精神は、国家精神に合流していくということでの地理学からの郷土研究者であった。
 
 小田内道敏は、三澤の地理教育の実践を、郷土教育のもっともよい模範であると積極的に評価しているが、三澤の考える地域の暮らしからの産業の発展のための郷土研究ということと、本質的に異なるものである。小田内道敏は、文部省が進める国家主義的な精神動員に学校教育を巻き込んでいくものであった。
 
かれは、「郷土や国家への意識と感情の再認識は、国家並びに国民的自覚を緊要とする今日、ここに現代日本に待望される創造の文化意義が含まれているとして、郷土の綜合的研究によって、郷土なる意識と感情の発生過程を究め、国民としての郷土性の正しい認識と国家社会に対する連帯的責務を全うする覚悟」という国家主義的な意識と感情の醸成を目的とする郷土教育を提唱していた。(1)
 
 このような地理教育論は、心情的な地域の風土性からの「共同体」的精神文化論から国家主義的な連帯的責務のための郷土教育につながっていったものである。 1935年に発行された和辻哲朗の「風土論」では、心情性を気候的な寒さを例に説明している。かれによると、寒さを共同に観ずるという心理的な主観、人間の連帯性などは人間存在の風土規程論になるという。
  
和辻哲朗の「風土論」と三澤

和辻は、人間存在の構造分析として、時間性と空間性があり、さらに、人間の種々の結合や共同態を形成する連帯性も大きな要因になる。歴史性のみが社会的存在の構造ではなく、風土性もまた社会的存在の構造である。歴史性と風土性との合一において歴史は肉体を獲得する。主体的肉体性こそ風土性であると次のように和辻は述べる。
 「精神が自己を客体化する主体者である時にのみ、従って主体的な肉体を含むものである時にのみ、それは自己展開として歴史を創るのである。このような主体的肉体性とも言うべきものがまさに風土性なのである。


 人間の有限的・無限的二重性格は、人間の歴史的・風土的構造として最も顕わになる。これが風土性の現れる場所である。ここにおいて人間は単に一般的に過去を背負うのではなく特殊な風土的過去を背負うのであり、一般的形式的な歴史性の構造は特殊な実質によって充実させられることになる。人間の歴史的存在である国土における時代の人間の存在となるのはこのことによって初めて可能なのである」。(2)
 
 人間の歴史的存在が国土によって現れることは、特殊な風土的過去を背負っているということなのである。風土は人間存在の客体的存在の契機となるが、自己を見いだすことにもなる。さらに、人間の気分や感情という主体的な存在が風土的負荷として現れる。この見方について少し長くなるが和辻の考えを引用しよう。
 
 「風土は人間存在が己を客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己を見いだす。あるいは愉快な気持ちである、あるいは寂し気持ちである。このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ観られるべきものではなくして、我々の仕方である。しかもそれは我々自身が自由に選んだのものではなく、すでに定められたあり方として我々に背負わされている。
 
このような規程性、気持ちは、必ずしも風土的のみに規程させられているのではない。われわれの個人的・社会的な存在は、すでに有るところの間柄としてそれに属する個人の存在の仕方を定め、従って彼に一定の気持ちを与える。あるいはすでに有るところの歴史的情勢として社会に一定の気分を与える。
 
しかしそれらとともに、またそれらとからみ合って、風土的負荷もまたきわめて顕著である。われわれはある朝爽やかな気分において己を見いだす。これは空気の温度と湿度とのある特定の状態が外から影響して内なに爽やかな心的状態を惹き起こしたと説明されている現象であるが、しかし具体的体験においては事情は全く異なっている。そこにあるのは心的状態ではなくして空気の爽やかである。空気の温度や湿度として認識されている対象は、この爽やかさそのものと何に似寄りも持たない。爽やかさのあり方であってものでもなければものの性質でもない」。(3)
和辻の風土論は、人間の存在の構造から自然環境と絡んで、人間の主体性や精神、気分や感情までも風土性とのなかでつかもうとするものであった。三澤の風土論からの地理教育の方法は、太陽の黒点の観察を生徒達とともに精緻に観察する努力を自然科学的に把握しようとしたものであり、その観察の記録は、天文学や気象学に利用されたりした。科学の国民的な参加のひとつの形態として、中等教育の生徒達に興味を持たせたのである。
  
三澤の地理教育における自然科学的方法

 三澤の地理教育は,諏訪地方の小気候の観測など自然地理学の方法を科学的に駆使した観測や観察によって、生徒達に科学的な探求方法を学ばせたのである。また、人文地理学での調査や観察も自然力の更正という問題提起からみられたように単なる経験主義的な調査や観察の方法ではなく、自然循環的な調査や観察の科学的方法によって、自然に立ち向かう征服論的な人間の生産力主義的な智慧ということではなく、自然とつきあって、自然の恵みを効率的に得ようとする自然力主義を提起するのであった。
 
 三澤の風土論は、大地と大気の接触という方法によって、自然科学的方法を駆使している。それを基礎にして、地域産業を発展させていく方法である。つまり、風土産業の構築のために地域を分析していく地理学を重視したのである。
 
かれは、学校教育ばかりではなく、社会人への風土教育を提唱した。地域の創造、地域の自然循環的や風土に根ざしての文化をもって、豊かな地域振興という問題意識があったのである。このためには、教育の重要性が不可欠という認識である。


かれの地域の創造は、自力更生よりも自然力更正として、太陽エネルギーの捕獲の総動員を積極的に構築していく必要性を強調している。現代の21世紀の地域の自然循環的な地域振興のためにも三澤の風土産業論や地理教育論は、自然循環の豊かな地域創造のためにも学ぶべきものが多い。(4)
 
 地理教育にとっての子どもの生活体験による科学的認識の方法

 三澤勝衛にとって、地理教育から真の学校教育の目標は、農山村や地方都市の産業の発展ということを基本的な視野においている。そして、地域の生活や文化の現状を加味して、その地方の開発のための使命を地理教育は、果たす責任があるという。また、三澤は、生活と深い交渉のある事象を探求することが地理教育にとって大切であり、地域や社会との関係をもって学校教育を推進する重要性を指摘している。
 
 つまり、学校教育は、地域や社会から孤立し、閉鎖的であってはならないという強い信念があった。三澤は、学校教育の閉鎖性が、国民的に地理思想が貧弱であることを次のように指摘している。「そもそも今日までの学校教育は、あまりにも孤立的であり、閉鎖的であり、期間的かつまた静的でもあった。今日の社会で地理的思想が貧弱なのも、その根本原因はそもそもそこにあるのではないかと」。(5)


 農山村や地方都市の地域の発展は、国民教育としての地理教育が普及しなければ、達成していかないという認識である。多くの地域の人材がなければ、農山村や地方都市は豊かになっていかないという見方である。
 
このために地理教育にとって、大切なことは、大自然の存在とその威力に対する理解であり、この理解のために、地方に即した風土性の存在とその機能の理解が求められたと三澤は考える。人間は大自然によって統制されていて、勝手に自由に大自然に対してふるまうものではないという認識の大切さを次のように三澤は述べる。
 
 「産業方面では統制ということがはなはだしく強調されている。もちろん統制もことに結構である。しかしそれは、どこまでも大自然にもとづいた統制でなくてはならない。万一それが、単にわれわれ人類の自由や勝手から割りだされた統制であるならば、それこそ名は統制であっても、明らかにそれはわがままそのものである。したがってそういった統制は、おそらく百害こそあれ一利もないことであろう。そのためには、もっとも根本的作業として、今日われわれ人類がほとんど忘れていたかに思われれる、その地方に即した風土性の存在とその機能に対する理解、さらに根本的は大自然の存在のその威力に対する理解にまたなければならない」。(6)
 人間の暮らしは自然という統制のなかで生きているのであり、自然の威力を正しく認識していくことが地理教育の課題である。そして、地域の発展のためにも地域の風土性の理解が不可欠であると説く。
 
三澤の考える地域産業の発展は、風土性に根づいて、自然とじっくり向き合いながら、郷土の特色をだしていくことである。このための地理的思想の普及が大切としている。このことによって、地域資源の活用、地域の自然条件を巧みに利用していく自然循環的な開発が求められていくのである。三澤の地域の発展は、自然略奪的な開発ではなく、自然循環的な開発であり、現代的にいえば、まさに持続可能な地域発展であり、そのための地理教育の発達をあげている。
 
 さらに、三澤にとって学校教育を進めて行くときに、社会から隔離されたものでもない。この立場を強調しながら、地域それぞれの自然力を発見し、それを創造していくことであるとしている。そして、自然循環の中で、共生して生きていく諸能力を身につけていくものであるとする。


学び方を教えるのが教師


 三澤の考える教育とは、教師が一方的に教えるのではなく、子どもたちや生徒達が自ら学ぶことでなければならないとする。この学び方を教えるのが教師である。教師は、徹底した人生観・教育観をもたねばならない。この教育を実践していくには、深く高い教養が前提にされて、教材に対する深い熱意をもっていなければならないことを三澤は次のように考える。
 
 「教育というものは教えるのではなく、学ばせるのである。その学び方を指導するのである。背負って川を渡るのではなく、手を引いて川を渡らせるのである。既成のものを注ぎ込むのではない、構成させるのである。否、創造させるのである。ただ他人の描いた絵を観照させるだけではない。自分自身で描かせるのである。理解の真底には体得がなければならないのである。
 
それがその人格そのものの中に完全に溶け込んで、人格化されていくところのものでなければならないのである。いつまでも永く生きているものでなければならない。したがって、地理科においても地理的考察力の訓練を重視するのである。すなわち地理的知見の開発だけではない。さらにその性格まで陶冶し、自律的に行動し得るようにまで指導し、過分に感情と意志に対してまでも深い交渉をもちかけていくべきものである。要は魂と魂との接触でなくてはならないのである。否、共鳴でなくてはならないのである。
 
・・・・・いやしくもひとつの教材を取り扱うのに、その教材に対する教育者自身の深い感銘がなくてはならない。たぎるほどの熱意がこもっていなくてはならない。その教材に対する強い驚きと大きな歓喜とがあって、初めて彼ら被教育者にもそれを求めることができるのである。しかるにその驚異や歓喜が、そしてそれに対する真の深い感銘が、そうにわかにたやすく得られるものであろうか。問題はそこである」。(7)
 
 まさに、教育とは、子どもたちに教え込むのではなく、子ども自身が学ぶことにある。教師は、子ども達が学ぶために指導をする。それは、子ども達が学びながら創造的な能力を身につけていくことである。真の教育は、体得をしながら、自分自身が自律的に行動することによって、その能力が習得されていくと考える。
 
 また、教師と子ども達や生徒達の関係は、魂と魂との接触ということで、共鳴しあっていく関係でなくてはならないと三澤は強調する。子ども達や生徒達との関係で共鳴しあう創造の世界の能力を身につけていくためには、子どもの自発的な意欲、自主的な精神を基礎にしながら、子どもや生徒達が自律的に学ぶことである。

教師は科学的探究が必要

教師は,ひとつひとつの教材に対して、教師が科学的な探求態度をもっていることである。そして、強い驚きと歓喜をもっていることが大切である。教師自身の教材に対する深い研究態度と、子ども達や生徒達の扱う教材の認識段階、教材に対する興味関心などの探求が要求されている。この際に、知的生活体験を無視した教育は、生命のない教育になる。
 
 例えば、尋常小学校4年に課せられている全府県を対象としたものの教材を子どもに理解させることは、難しいと三澤は考える。しかし、学校教育とは、それを教え込もうとする教育実践が行われているという。子どもの生活体験からの蓄積の認識からみるならば、尋常小学校4年の子どもは全府県を対象とする体験認識はとうてい不可能である。