社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

自由の秩序なくして真の自由はない-社会教育の役割

   
 自由の秩序なくして真の自由はない
        神田 嘉延       
 
井上達夫氏の自由の秩序の問題提起
 
  自由と社会教育については、本ブログで勉強したことをのべてきた。今回は、井上達夫「自由の秩序」ーリベラリズム法哲学講義」岩波現代文庫で2017年3月の出版の本を読んで、積極的に学んだことや批判的な側面から感想をのべる。この本は、非常に刺激的な「自由の秩序」という概念の表題である。
 井上達夫氏は、リベラリズムの法、公共性の哲学、世界正義等を論じている法哲学者である。リベラリズムを的確に論じるのは、自由とは何かを論じるだけではだめであるとする。自由は規律することによって、真の自由を可能にする。その法哲学が、今必要であるとの考えから、リベラリズムを「自由の秩序」ということで探究している。自由の秩序、自由の精神発展には、社会教育論からみれば、そこに重要な協働の活動が不可欠であり、それには、人間的な学びを媒介する必要があると考える。
 井上氏は、自由の秩序の問題意識を次のように提起する。自由は秩序の否定であるが、秩序は自由の否定なのか。むしろ、自由とは一定の秩序の構想なのではないか。自由とは、社会の秩序の有無ではなく、その社会の秩序の特質ではないか。 自由とは社会における人間にとって大事な質的概念で、個人を越えた社会に委ねられている概念であると井上達夫氏はみるのである。
 井上氏は、例題として、21世紀はじめの日本社会で、アルバニアの宗教政策と英国を出す。この事例は理解に苦しむが、いいたいことはテーラーの自由の質、秩序の質を考えていこうとするもので、宗教活動の禁圧的規制の問題をアルバニア社会主義体制で、宗教のアヘンというドグマとの関連で人間にとって大事なことの自由の保障をのべたかったのであろう。
 
 信仰の自由と政治
 
 経済的な抑圧と搾取からの人間の解放と人間尊厳の自由、人間の全面的発達を求めた社会主義と宗教との関係は多角的に深めていく課題である。日本国憲法では、第20条「信教の自由、政教分離」をのべているが、この原理は、人間の尊厳に内在する信仰の自由、宗教の社会における役割から自由の質を考えていくうえで大切な見方である。
 社会における宗教の役割と、民主主義的な政治権力とは別の世界である。政治と宗教の結びつく悪魔性の怖さから、宗教的特権、宗教団体の政治権力の行使を禁止しているのである。オウム真理教の解散命令は、大量殺人を目的とたことにしたサリン事件からであった。それは、公共の福祉を明らかに害するということからの解散命令であった。
 自由は秩序なくして可能にならない。自由と秩序は結合関係にある。いかなる秩序が自由の基盤になるのか。自由市場経済システムは、契約上の権利の保障、不法行為による損害賠償を規定する民法、会社の組織や責任を定める商法がある。また、公正な競争秩序のために独禁法など法秩序がなければ、自由な市場経済は機能しない。この井上達夫氏の指摘は、資本主義的な市場発展をすればするほど、益々重要なことである。
 自由な秩序なくして、自由な市場経済システムは動いていかない。現代は、市場が国際化し、多国籍企業が市場を支配する時代である。個々の小規模な営業の自由と多国籍企業など、資本規模からみれば大きな格差がある。多国籍企業の経済力は強大になっている。中小零細企業の営業の自由、個々の労働者の自由なる働きいがいは、自由の秩序、法のルールがなければ実現しない。
 ところで、日本国憲法の原理である「国民の権利及び義務」の項目の内容の充実が求められている。信仰の自由に対する国家権力の問題の側面以上に、宗教と政治のあり方を深めていく課題がある。
 その課題を媒介項に、宗教の社会的あり方、信仰の自由ということで、個々の人々の精神的自由の問題を深めてほしいものである。この意味でアルバニア社会主義体制の宗教政策の問題も深める必要があるのではないか。単に宗教は抑圧と搾取という現世の問題を逃避させ、来世での救済を求めるということからアヘンであるという議論ではないのではないか。
 政治権力支配にとって、特定宗教の社会的影響力としての党派的政治な秩序の絶対性への問題がある。本質的な民主主義社会をつくりあげていくうえでの政教分離の原則は、なぜ重要な課題であるのか。さらに、歴史的に国家権力と特定の宗教が結びつくことによって、どうのような独裁的、独善的な悲劇がもたらされたのか。近代の民主主義における政教分離という信仰における自由の秩序を考えるべきではないか。
 
 社会主義福祉国家の質的自由への要求と専制性と民主主義
 
 「社会主義者」がこだわる質的自由は、社会主義的計画経済体制体制か、あるいは少なくとも社会民主主義的な混合経済ないし「福祉国家」を要請すると井上達夫氏はのべる。 自由の秩序を社会的に求めることは、ソ連型の中央集権的な社会主義的計画経済体制や、社会民主主義的な福祉国家の要請からの中央集権化からの大きな課題となると井上氏はみる。
 ところで、社会主義の質的な自由は、資本主義の高度の発達による個々の資本の大規模化による無政府性と現実的に生産が社会されていることへの矛盾である。市場の自由性が極度に奪われていることから、その解決には、社会的な生産という現実と巨額になった一部少数の私的所有の矛盾を社会的に是正することである。
 それは、寡占化した専制経済の状況を、個々の自由な市場の秩序に徹底させていくことである。このことは、民主主義的な経済ルールの確立になる。この民主主義のルールを充実していくことが、高度に発達した資本主義からの人間的自由であり、人間の尊厳による全面的な発達という眞の社会主義思想からの市場経済体制の民主的確立である。眞の社会主義思想は、民主主義を国民と暮らしからの充実関係によって、自由を社会全体に浸透させていくものである。
 市場経済は、人類の経済のなかで発展してきたものである。高度に発達した資本主義では、一部の層に冨が集中し、経済の社会的分業化の発展と共に企業組織も肥大し、集権的な官僚制の進行が進んだ。
 ここでは、自由や民主主義の課題があらためて大きな社会的な課題になった。現代の日本社会でいえば日本国憲法の暮らしのなかでの実現であり、国家や自治体は、それを充実していくことである。まさに、自由な秩序を憲法原理によって、達成していくことになる。
 近代社会の生まれたいく時期の自由は、封建的な束縛からの個々の権力からの自由であったが、現代の自由は、多国籍し、肥大化した一部の資本からの解放であり、それは、人々が生きている職場、地域、学校を基礎にして、企業、自治体、国家への参加民主主義をつくりあげていくことで、自由を達成していくことである。
 社会主義と自由の経済は、敵対するのではなく、現代日本の場合は、憲法原理によって、自由の秩序をつくりあげていくことである。それは、社会主義への道そのものである。この意味で日本社会の場合は、自由と民主主義、基本的人権、平和主義、地方自治という原理をもっていることから、この憲法を充実していくことが自由の秩序になる。憲法の抽象的一般論ではなく、日本国憲法は人類普遍的な自由と民主主義の内実からの質的自由である。
 
 自由なる概念の多義性と民主主義
 
 井上氏は、社会主義と異なる質的自由を一定の道徳的徳性の法秩序から要請されるとみる。自由に値する行為の質を決定するのは、社会秩序であり、秩序は単に自由の保障手段にあるだけではなく、自由の概念要素であるとしている。どのような自由概念に立脚するかによって自由の秩序は異なる。
 自由の概念は多義的な概念ある。質的自由を認めるかどうかによっても異なる。積極的自由が権力への自由であり、消極的自由が権力からの自由であり、両者の対立は民主主義に対する構えによっても異なる。
 積極的自由は統治者と被統治者の同一性としての自己支配たる自由の概念である。消極的自由は、民主主義の人民全体とは犠牲的に同一化され、多数者意志が少数者を抑圧していく危険をはらむ。また、積極的自由は、消極的自由の批判姿勢を個人の私利私欲と放縦に根ざすものとして退ける。以上のように井上氏は、どのような自由概念によるかということで、自由の秩序の質的な内容は異なるとしている。
 自由な概念は、袋小路になると井上氏はのべる。消極的自由と積極的自由の対立の政治的な含みは、自律と自治ということで積極的自由のなかで再燃する。積極的自由の核は、自己支配である。個人として捉えた場合は、自律として現れ、政治的共同体として捉えた場合は自治として現れる。
 自律は、自己の欲望を他者の意志によってではなく、自ら設定した規範によって統御することである。自治は、政治的共同体の民主的自己統治と直結するのに対して、自律は民主的な集合的決定によっても侵犯されない自己領域を確保しようとする。
 自己支配による積極的自由は、生身の欲望をもった感性的存在たる経験的な自己自我をもつ。さらに、理性や道徳による高次な自我は、経験的自我から切り離されると宗教的な真理を独占する教会になる。また、理性や人倫を具現を標榜する国家、社会発展法則の唯一正当な科学的認識を保有すると標榜する前衛党やテクノラートの外的権威に、同一化される。このとき、理性や倫理をもった眞の自我は、積極的自由ではない。それは、自治でも自律でもなく、権威主義的官僚支配、デクノクラシー・神権政治一党独裁全体主義の自己支配に転化していく。
 自由の理論の野心は権力の抑制という消極的な自由の要請と、自律と自治という積極的自由の要請に、ともに的確に応えるような統合的な自由の理念である。それは、放縦でもなく抑圧の合理化でもない自由の理念を見いだすことである。
 選択の自由の概念は、この内容に見劣りをする。自由の概念を論じているいるだけでは内的葛藤の調整、抑圧や放縦への自由の転化の抑止に片づく問題ではない。それは、もっと現実的・機能的に分析を踏まえた秩序構想によって解決すべきではないかとする。以上のように、井上は、理性や倫理をもった自律や自治の積極的自由と権力からの抑圧からの消極的自由という二つの側面の袋小路からの自由の秩序を深めようとしたのである。
 
 自由の秩序と国家の全体主義
 
 秩序の問題を考えていくことで、国家、市場、共同体を井上氏は考える。国家なき市場も国家なき共同体もそれぞれ固有の失敗と脅威をはらむのである。国家、市場、共同体という三つの秩序形成装置を併存させて、相互の抑制と均衡を保持することであるという三秩序分立を井上氏は提起するのである。
 国家の組織的暴力と集権化がはらむ脅威に対しては、分散的な決定システムとしての市場、分権的秩序としての共同体が自由の保護膜になるとする。共同体の社会的専制に対しては、国家は人権保障と法の支配の貫徹によって、市場や共同体外での生活機会の提供によって自由を救済する。
 市場における経済権力の専制や搾取に対しては、国家の独占規制と社会保障によって、経済の自由、生存の自由を守ることができる。その共同体は、契約とは異質な互酬性原理に基づく相互扶助によって生存の自由を守る。
 自由の秩序構想は、単眼的視点に立つ限り挫折せざるをえない。これが井上氏の見方である。単眼的な視点では、自由秩序の原理探究を挫折させる。この井上氏の見方には、賛成である。しかし、基本的な理念をもって、自由な秩序を構想していくことが重要になっていく。様々な側面からみていくということと、考え方を調和的にみることとは別である。
 井上氏は、秩序形成原理が肥大化して、他を圧迫していく専制の病理現象をのべる。第一が全体主義専制である。これは、国家権力が肥大化して、市場と共同体を圧死させる病理であるとする。ナチズム、スターリニズム毛沢東主義など左右の全体主義を井上氏はあげる。統制経済や計画指令経済によって市場経済を破壊しただけではなく、個人と国家との間に介在する様々な中間的な共同体団体を破壊するか、または、中間共同体を再編整備して末端機構として統合したかである。
 自由・平等・友愛の理念をかかげた啓蒙主義や活躍したフランス大革命は、中央集権的行政機構によって諸個人の生活を統制した歴史的事実があった。このことによって、フランス大革命は挫折していく。井上氏は、ドクヴィルの思想を引用して、恐怖政治の一時的狂乱よりも日常的社会生活の隅々に行政的事務が浸透した集権化こそが革命によって自由をもたらした最大の脅威であったとしている。全体主義専制としての傾向性は、集権機構としての国家一般の本質に内在するものであると。
 ドクヴィルは、国家の全体主義の危険性の防御装置に市場や個人主義的精神の培養ではなく、活発な公共活動に諸個人を参与させることによって、自治能力を陶冶する中間的共同体に求めたのである。
 アメリカを体験し、多様な中間共同体の活発な自治実践や公共活動が国家の行政的集権化の抑制と市民の政治的自由の陶冶に貢献しているとドクヴィル論を井上氏は積極的に紹介する。
 しかし、井上氏は、ドクヴィルの論と異なって、全体主義専制に対する防御装置に市場も不可欠としている。政府から目を付けられ、反政府的活動や表現は簡単に根絶される。政府批判者は、解雇され、生活の糧を失い、社会から排除される。
 このためには、自己の生業を維持でき、自己の批判的言説を社会的に流通させる場がなければならない。市場は、そのような場を提供するのであるとする。売れるならイデオロギーを問わないという市場の営利追求原理が思想表現の自由の保護膜になることを井上氏はのべる。
 官立大学に対抗する授業料ということでの大学運営の私立大学経営など経済的自立なくして、精神的自立なしという市場的価格原理を教育に導入した福澤諭吉や米国の著名な私立大学は資産運用会社を保有して大学経営をしていると。
 売れるならイデオロギーを問わないという営利追求原理の市場は、言論の自由の場を保障していくということは一面的にすぎない。大切なのは、消費者の要求の内実に社会的正義、政治的な自由、社会的公平性、腐敗に対する倫理の高まり、興味関心があるのかどうかということである。この意味でも一般大衆の判断能力の充実が試されているのである。
 政治的な無関心や社会的なアノミーの状況の浸透のなかでは難しいのである。マスメディアを使っての情報操作、世論操作は、政治的な権力支配にとって重要な手段になっているのである。選挙をとおしての議会制民主主義による政治制度では、多数派による専制支配が起きるのである。
 
 自由の秩序と経済的専制の解放
 
 井上氏は、第二の専制的な病理現象に経済権力による資本主義的専制をあげている。現代の世界的規模の巨大企業の寡占状況が国家や共同体に破壊的支配力影響力をもち、諸個人の自由を脅かしているとする。
 共同体への圧迫は地上げ攻勢や大規模不動産開発による既存の地域共同体の寸断、企業城下町での自治体が特定企業の意向や利害に支配されるとか、従業員が企業に忠誠心とエネルギーを吸収されたり、長時間勤務や転勤の強要など家族や地域共同体との絆が壊されたりしている。 
 巨大企業の寡占状況は、自由との関係で特に問題となるのは、様々な共同体の特異性が失われ、生活形式の画一化が進み、さらに、人々の人格的自律の基盤となる生活様式の多様性が失われていくと井上達夫氏はみる。
 
 国際経済の再編成問題と自由の秩序
 
 井上氏は、資本の国際移動の自由の促進が、国家の規制権力の基盤を侵食していくと指摘する。政府が環境保護やや社会保障、独占規制や企業活動への課税と規制を強化しても、資本は海外逃避し、政府の政策選択の幅が狭まれるといのである。
 このことによって、市民の自己統治能力による民主的コントロールの基盤も掘り崩される。ここには、世界経済秩序の再編が必要になっていると井上氏は強調するのである。
 井上氏が指摘する以外でも国際的な巨大資本の国内の進出の問題がある。それらは、市場を通して、国民の暮らしのなかに深く影響していく。自由な貿易体制によって、国民の長年の運動によって実ってきた公共性のあり方、労働法制・労働慣行、社会保障などが民営化の圧力によって、崩されていくのである。社会的なサービスが民営ということで、公共性から営利主義主義による自己責任に転化していくのである。国家の役割、公共の役割があらためて問われているのである。
 国家と特定の利益集団が結びついて、国民の生活を圧迫していく独占的な公営や規制緩和は、一定の意味がある。その民営の判断の基準は、社会権を保障して、社会的公正と自由の秩序を守り、国や地方自治体の公共性を堅持して、国民生活を豊かにして、自由と民主主義を充実していくかにある。
 
 現代の世界経済の民主的再編と発展途上国の社会開発
 
 現代は、井上氏の指摘するとおり世界経済の民主的再編が求められる時代である。先進国の国内矛盾問題ばかりではなく、発展途上国と先進国の共存・共栄の経済をどうつくりあげていくのかという視点が重要である。現代における資本主義的な専制は、世界的規模になった多国籍企業の寡占による社会的支配である。国際的なレベルの民主的な規制をどう作っていくのか人類史的に突きつけられている新しい課題である。国連の社会開発経済委員会の充実や発展途上国への社会開発の世界的支援のあり方が問われているのである。
 1995年にデンマークコペンハーゲンで開かれた世界社会開発サミットの宣言は、そのひつつの指針を与えている。世界の貧困撲滅と疎外克服、完全雇用を目的とした会議であった。118ヶ国の政府首脳が参加し、非政府組織から186ヶ国の代表が集まった国際会議の宣言であった。
 コペンハーゲン宣言では、深刻な貧困問題、失業問題、社会的疎外に人々が悩んでいるという認識から社会開発、社会的公正施策の実施をすべきことを人類的な課題としたのである。コペンハーゲン宣言では、雇用の創出と社会保障政策の充実、教育の普及の重要性を提起したのである。
 つまり、貧困を撲滅し、不均衡を減少させ、社会からの疎外を防ぐための政策は、雇用機会の創出の必要であるとする。人々の幸福は、すべての人権及び基本的自由の享受、良質な教育、ヘルス・ケア及びその他の基礎的な公共サービスへのアクセス及びコミュニティー内の調和ある関係の発展であると強調したのである。
 また、社会開発のための教育の課題として、社会参加する能力の形成内容に、共通の善と多様性を尊重していく共に生活する能力、参加していく能力を次のようにあげている。
 「人々が、個々の尊厳、共通の善、多元主義・多様性、非暴力、連帯を十分に尊重し、共に生活する能力、そして彼らが社会的、文化的、経済的及び政治的生活に参加する能力は、社会開発とすべての政策のあらゆる側面を包含する。それは、弱者の保護とともに異なることへの権利及び創造し革新する権利、健全な経済的環境及び自由と責任を基礎とする文化を必要である」と。
 世界経済秩序の再編成には、社会開発の視点をもって、世界の人々が多様性を尊重して共に暮らしていくことが求められているのである。発展途上国の貧困、雇用、格差の問題を抜きにして、世界の民主的な経済と平和の秩序は確立しない。このことを決して忘れてならないのである。
 
 現代の資本主義の矛盾としての労働問題
 
 現代社会矛盾は、資本主義の高度な発展による資本集中による人々の極端な生活格差が世界的に広がっている。先進資本主義国では、国民の多くが雇用労働者の層になり、自営業層は減少している。社会の矛盾は、資本と労働者層の矛盾に集約されている。そこでは、経営と労働が分離して、労働疎外状況が現れ、長時間労働が強要される。労働の責任性のもとに、深刻な過労死の問題が現れている。資本主義的な経済の専制問題で、まずはじめに重要なことは、労働者層の貧困と格差、雇用問題のことを根本からみていくことが必要である。
 生き甲斐をもって働ける条件は自由な余暇時間の保障であり、労働の安定的な保障である。労働と余暇の健全な循環は、人間が生きていくうえで不可欠である。しかし、現実の資本主義的な弱肉強食の労働実態は、生理的な循環を否定し、健康を害する過酷な労働が強いられている。
 資本主義の発展は、労働者の運動によって、労働権の保障、8時間労働制の実施、同一労働同一賃金、雇用差別の撤廃、強制労働の禁止、対等に交渉できる労働基本権等の労働法制が確立してきたのである。これらは、19世紀からはじまり、労働者の権利獲得の長い運動によって、20世紀になってから制度化した社会権の保障である。
 日本国憲法は27条で「すべての国民は、勤労を有し、義務を負う」「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」としている。労働基準法の総則では「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」「労働者に人格として価値ある生活を営む必要を充すべき労働条件を保障することを宣明したもの」である。以上のように法的には、均等待遇、男女同一賃金の原則、労働強制の禁止、中間搾取の排除、公民権行使の保障をのべている。
 国家の労働行政として、労働監督官が配置され、労働に関する法律の基準をまもっているのか、適切な労働環境になっているのかを調査点検することが定められている。そして、労働者からの申告などを契機として、事業場に立ち入りし、労働基準についての確認を行い、法違反が認められた場合には事業主に是正を指導することが制度化されている。
 また、危険性の高い機械・設備などについては、その場で使用停止などを命ずる行政処分をすることができるようになっている。さらに、労働基準監督官は、司法警察官としての職務も行い、労働法令の違反者を逮捕し、送検する権限も持っているのである。
 このように、労働者の権利を保護するための業務を行うのが、労働基準監督官の仕事である。以上のように、強い権限をもっている労働基準監督であるが、十分なる行政配置という政府の労働施策との関係で有効に、この制度を利用していないという問題点もある。弱肉強食の資本主義的な専制は、労働行政が有効に機能していくのかどうかということで、その克服の問題もみえてくるのである。
 
 労働過程の非人間性問題と社会権
 
 現代資本主義は、高度に発達し、資本の寡占的傾向をもつようになった。現代資本主義での自由の保障は、常に人間の尊厳を大切にしての労働者の社会権の運動と国家の国民への自由権保障の施策が重要な課題になっているのである。
 2018年6月の労働法制では、8時間労働制、週40時間という労働基準法のもとに、働き方関連法がだされた。残業時間の上限規制を100時間、高度プロフェッショナル制度として、専門職で1千万円を超える高額給与者に、労働時間管理対象からはずす労働法が国会を通過した。
 現代日本は、非正規労働者は、4割ほどを占めるようになり、雇用の不安定と低賃金の広がりをみせている。まさに、労働者層の生活水準、身分の安定性という矛盾構造が生まれている。このようななかで労働組合に加入している層は、安定雇用の正規労働者層である。恵まれていない多くの非正規労働者やサービス業で働く人々が未組織な状況になり、さらに、全業種において青年層の労働組合加入も少ないのが現状である。青年層の未加入意識も独自にある。
 働く人々の意識も階層性をもって、多様になっているのが現実である。生き甲斐、労働意欲の問題、イノベーション能力、創造的に働くということも大きな課題になり、労働疎外現象も拡大している。このようななかで、労働組合と経営者との集団的な交渉は、大きな意味をもっていくのである。
 社会に貢献する働き方、人々の生活を豊かにして、人々を幸福にする働き方は、新たな成長分野の事業を作りだし、人類的な貢献をしていくのである。これらの働き方が浸透せず、逆に残業ゼロの労働法が国会を通過するなど、人間尊厳の経営がないことが、日本経済の停滞のひとつの要因にもなっている。
 弱肉強食の資本主義的な労働・経済の専制からの解放として、生き甲斐を持てる働き方、労働者の社会権充実、共生ある人間尊厳の経営のあり方が日本に大きく突きつけられている。
 社会保障は、国の義務である。国は、社会保障の充実によって、国民への自由保障の義務がある。これは、国の積極的な国民への自由権保障である。社会保障は、国の重要な社会権保障である。日本憲法25条では「すべての国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上区及び増進に努めなければならない」となっている。
 国の社会保障の充実には、税制と財政による分配の問題がある。貧困と格差が広がるなかで、国が国民への積極的な自由を保障していくための経済の民主主義の問題でもある。税制と財政による分配は、為政者の独裁性、国家の私物化とも絡んでいる。
 ここでは、業界、団体、地方組織、大学等の組織への利益誘導による為政者の支配がみえてくる。議会による多数者支配ということで、選挙に勝利していくことが大きな課題になり、国民への利益誘導と大衆操作は多数者による専制的な支配の手段となる。経済的な利益誘導は、無視してはならないことである。
 為政者に親しい人に便宜を与えて配分していく構造、人事権を為政者に集中することで、立身出世志向による官僚の忖度によって、独裁の構造が強化されていくのである。組織全体のリーダー層が専制的体制に巻き込まれていくのである。弱肉強食の資本主義的な専制は、経済的な行為内の専制ではなく、それは、国家の多数派による財政誘導の配分による専制と結びついて展開しているのである。
 
   自由の秩序と共同体的専制
 
   共同体主義専制は、宗教的共同体にみられるように国家権力や個人の自由や権利を弱体化し、市場原理も完全に機能しない場合があったりする。また、集団的特殊性を既得権としての中間的共同体は、その共同体の自立性が正義や人権などの普遍的原理に媒介されない限り、社会的専制の聖域になる。
 日本の会社主義は、会社への基幹労働者の共同体同一化を促進し、職場村八分的制裁、過剰な人格統合にょる労働者の諸権利や社会的公共性を陶冶する機会を侵すという病弊を生む。会社人間は、家庭放棄や政治的アパシー、過労死・過労自殺の反社会的な企業活動の内部批判の抑止力の機能を果たすと、井上達夫は会社人間の問題点をのべる。
 さらに、井上氏は、インフォーマルな共同体専制が、社会的な権力になって、政治を動かしていると次のように指摘する。日本における中間的共同体の病理として、農協や各種業界団体、宗教団体、地域の様々な利益集団が組織票と集金力をテコに政治家を支配し、一般的公益と衝突する特殊権益のエコイズムの拡大をはかっている。
 ここでは、自由な批判精神をもった非同調的個人に対して、制裁による抑圧を加える。そこでの国家は共同体に公共性の規律を課すことができず、個人の人格的自律を侵食する社会的専制を放任し、民主的統制に服しつつも、中間共同体のインフォーマルな社会的権力が貫徹していく法治国家になっている。
 さらに、政治的過程から排除されたアパシー層の拡大によって、中間集団の政治的影響力を強めていく。また、共同体専制は、地域エゴの政治をしているとする。それは、将来世代を含む国全体の共通利害や世界との協力関係を長期的にみていく公共的制約の政治的中央集権は貧弱である。
 公共事業の多くは、地方でなされ補助金たれ流しの利益誘導の政治になっているとする。公共性や法の下での政治道徳・憲法原理を地域社会にも貫徹し、リスクやコストを公平に負担する責任を地域に課す国家を提起するのである。以上のように、井上氏は現代日本の中間共同体専制の政治状況を分析する。
 
1980年代以降の新たな自省能力と公民的徳性の共同体論
 
 井上氏は、1980年代以降のアメリカを中心とした共同体論は、個人の倫理的自省能力や公民的徳性ー公共の事柄に配慮し、その討議・決定・実行過程に自発的に参与する資質と能力が、個人と国家の間に介在する共同体に帰属することで統冶されるが、しかし、この共同体主義は、福祉国家の官僚化・集権化とレーガノミックスサッチャリズムの市場的競争原理の双方から社会的基盤が崩されたとする。 
 旧ソ連・東欧圏の全体主義における負の遺産克服として、自治的・自立的な共同体の建設・復活と市場経済の建設が要請されていると井上氏はみる。ここでの共同体は、市民社会として、自治的な地域共同体、独立した労働組合、政治的・宗教的結社、自由な言論機関・研究機関・教育機関からなる知的共同体をさしているとする。
 また、市場経済の建設は、自己決定・自己責任・業績主義的競争原理という個人主義エートスの培養を共同体の建設・復活と同時に進めなければならない。これらの地域での民族共同体やエスニック集団の内発的自治要求の噴出は、排他的偏狭性を増幅し、民族浄化や集団虐殺など悲惨な地域紛争を生んだが、市場経済は異質な共同体を横断する交換・交流・相互依存を促進する。
 そこでの十分に市場経済が育っていないところでは、国家権力だけが民族間の対立を封じ込めていたが、国家権力の崩壊によって、民族対立が暴走していく。分離独立や民族的自治ということが、民族対立の緩和ということよりも対立を先鋭したと井上氏は考える。 
 
まとめ 
 
  自由の秩序なくして、真の自由はないということが井上氏の本を読んで学んだことである。自己決定、自己責任、他人を思いやる精神は、大切な自由の精神である。個人の参加を大切にして、地域活動をとおして自由の精神を学ぶ大切さを思ったのである。
 現代日本では、地方の過疎化、地域崩壊が進んでいる。また、都市では、大衆化現象のなかで個々が孤立し、無縁社会状況がつくられ、政治的なアパシー的状況が広範につくられている。この矛盾の解決には、目的意識的に、地域でそれぞれの切実な生活要求、個々が仲間と共にやりたいことが実現できる学びの場をつくることである。その学びによって、それぞれの個性を生かした人間的能力によって、新たな地域での自発的な中間的共同体ができていくのではないか。
 現代の日本では、アパシー的政治状況やアノミー的社会現象があり、政府権力と政権政党による大衆操作が行われている。このなかで、憲法に反する政府の施策に反対したり、核兵器反対、憲法9条を守る平和のための市民運動がある。また、災害時には、多くの市民がボランティアの救済活動をしている。過疎化している地域に地域づくり協力隊が参加し、新たな活性化事業も展開している。過疎地域の地方の見直しも一部で起きている。
 これれは、地域活動をとおしての新たな協働、共同体主義ではないか。そして、大切なことは、学びが起きて、それに参加する人々が人間的に生きることの意味の模索の必要性の発見である。同時に、新たな自由の精神を発達させていることである。ここには、人間らしく生きようとする自由の精神と直接的な民主主義の学びの場が生まれいる。ここで見逃してならないことは、社会教育によって、社会再生の役割があることである。
 自発的な地域の学びは、様々にある。この動きを社会教育として、憲法を暮らしのなかに実現し、自由の精神、自由の秩序として積極的につくりあげていく必要がある。このためには、地域での図書館や公民館等の社会養育施設の整備が求められている。
 井上氏は中間共同体論は、日本のように専制的な意味をもっている場合と、アメリカの民主主義の歴史で見いだされた中間共同体主義とは異なるとしている。そこでの大きな分かれは、中間共同体によって、自治的な能力、公民的徳性、自律的個人が形成されていくのかということで、地域の組織活動の参加によっての人間的な能力の発達があるのかということになる。
 日本は明治の近代化のなかで中央集権的な国家機構が整備され、地方の行政組織は、中央集権的な官僚機構になった。近世の幕藩体制のように年貢を強制する権力があったが、しかし、日常的な生産と生活は、村の自治に任せられていた。
 明治以降は中央集権的な支配構造に大きく変えられた。この意味でも明治維新150年を契機に、日本の近代化でなにがよかったのか、何が問題であったのか真剣に考える時期である。日本国民の「自由の精神」発展と専制ではない地域での直接民主主義、暮らしに根ざした地域主権の問題など課題が多くある。
 中央集権国家体制の強化でも、民俗的な地域の風俗文化は残され、画一的な国家神道とは別の論理として、地域の独自な文化が今でも生きている。また、伝統的な文化を地域の心の再生のよりどころとして再生している。
 これらは、地域の人々だけではなく、その文化に共鳴した外の人々の連帯、協働のなかで、新たなに再生していることも特徴である。そして、現代に蘇った古い伝統的な文化の再生は、外部の人々の協働活動を伴いながら、または、外部の人々が新たに地域住民に仲間入りしながら、新たな地域の自治能力の再生、地域の自由な精神文化の創造があることである。
 ところで、憲法9条の解釈の立場はわたしと井上氏と異なる。わたしは、積極的に東アジアの平和を守っていくために憲法9条の堅持は必要と思っている。そして、東アジア全体で平和友好の条約を締結していくことが大事な国際情勢であると考える。本論では、この問題が議論ではないのでこれ以上議論をするつもりがないが、井上氏と考えるところは、すべてが一致しているわけではなく、問題によっては、全く異なる考えもあるが、本論では井上氏の自由の秩序に学んだことをあげた。
  井上氏の憲法9条解釈を紹介する。現行の戦力不保持を定めた規定である憲法9条を削除し、代わりに戦力統制規範などの戦力を持つ場合に対応した規定を入れるべきという主張である。安全保障は、絶えず国民的討議の上で批判的に再検討し、外部環境の変化に対応できるようにすべきであり、憲法によって議論を凍結することは認められないとしている。
 そして、政策的に憲法で固定したため、憲法9条の解釈を変更せざるを得なくなり、自衛隊という憲法上は存在しない、憲法にまったく制約されない強大な暴力が生まれてしまった。この問題の責任に、護憲派がある。護憲派は、自衛隊違憲であるとしているが、実質的政治運動として自衛隊を廃止しようとはしていない。政治的には自衛隊を認めているが、運動として違憲を主張する態度が、憲法憲法実態の乖離を生み出した。