社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

第2の近代・個人化と青少年の孤立からの解放―南九州大学教授 澁澤透先生の最終講義を中心としてー

第2の近代・個人化と青少年の孤立からの解放
 ―南九州大学教授 澁澤透先生の最終講義を中心としてー

     神田 嘉延

 

 澁澤先生は30年間にわたって南九州学園で社会科学的視点から教育学を担当してきました。近代的な主体形成の社会的認識力をどう育っていくのか。学生時代は、貧困地域のセツルメント活動に参加し、子どもの遊びを大切にした活動をしました。
 そして、生活綴り方教育をとおして、子どもたちの人間形成を探ってきたことを紹介しました。それは、教師の教育実践の素晴らしさのひとつです。戦後の教育実践を4期に分けて説明しました。民主化と教育の第1期、第2期は、仮説実験授業や水道方式の教育の現代化、第3期は、問題行動と教育、第4期が、90年代後半、低成長期の心の教育、学力向上です。最終講義では、第4期に焦点をあてて、発達と社会ということから第2の近代化・個人と青少年の孤立からの解放の問題提起を講義しました。
 澁澤先生は、現代において、地域共同体、家族などの個人を守る中間集団が衰弱しているとみています。そこでは、個人化=社会形態と心の習慣が乖離しているというのです。渋沢先生は、U.べックの第2の近代と個人化の概念から問題を深めています。ベックの第2の近代と個人化にとって、渋沢先生は、全体像のベックの理論を最終講義で省いたので、渋沢先生の講義と一部重複することがありますが、簡単に説明しておこう。
 ベックにとって、現代は、階級間の不平等の拡大、高度科学の応用による環境破壊、ジェンダー問題からの家族のリスク、議会の民主的統制の機能不全、官僚制肥大化の問題など様々な分野でリスクが生まれている社会というのです。
 第2の近代においては、自己内省的近代化が必要としているのです。ここには、近代の個人化には、個々が自立した力をもつために、制度として、宗教の寛容、市民的基本権、政治的基本権、社会的基本権が内実していることが求められるというのです。つまり、制度化された個人化を社会的に確立していくことです。
 また、現代は、家族が安全の源泉からリスクの源泉になっているのです。家族が担ってきた機能が社会化しなければ家族そのものがリスクになっていくというのです。保育所の整備、介護施設の整備などの社会保障が不可欠になっている時代がそのことを物語るのです。
 リスク社会をどのようにコントロールしていくのか。U.ベックにとっての大きな問題提起にもなるのです。議会による民主的統制は、期限付きの選挙によって選ばれた専制政治からから民主的に保障された討議の場が必要なのです。官僚制の肥大化という問題点もあります。経済的システムの原理と利害に対して、政治=行政システムが相対的に自律性を有していることと、さらに、司法が独立していることをあげています。
 高度の科学発展によるリスク社会は環境問題にあらわれているようにきわめて大きな課題です。原子力発電所の事故は、その典型です。高度の専門のみで科学技術開発をすることを廃して、専門相互間の関連性を基礎に専門の道をさぐるべきとしています。危険予測できるために科学者自身がコントロールできるであろうか。リスク社会と孤立していくという第2の近代の現実で、いかにして、自立した個人、制度として保障されていく個人化をつくりあげるかという課題があるのです。
 澁澤先生は、日本の青少年は、自尊感情がとくに低いと統計的データーから示します。そして、このことは日本の社会環境、教育環境にあるとします。また、90年代後半以降に地域や家族の絆の弱まりによって、子どもの表現に家や家族の人物を描くことが小さくなったとしています。自己を肯定する意識も弱くなり、孤立している子どもが増えているというのです。子どもは、内的な動機で行動するのではなく、外的な動機によって行動することから、孤立に拍車がかかっているのが現代の特徴と澁澤先生はのべるのです。
 自己肯定感を高めるためには、自己主張をしながら自己抑制していく発達の援助が必要とします。また、承認の場と社会参画の追求が不可欠です。子どもの市民参加の教育をどのように進めていくのかという大きな課題があると渋沢先生は問題提起するのです。それは、大人と異なる子どもの自身の発想による参加です。社会参加をとおして、いくつかの段階の子供間の承認と社会的承認によって、子どもの自尊心の高まり、自己肯定が増していくというのです。
 澁澤先生は、南九州大学の退職後に、東京で青少年向けの塾を開いていく構想をもっているようです。先生の東京でのご活躍を期待します。

 

学校再生論の礎石―人間・国家・地域と学校 (現代教育学全書)

学校再生論の礎石―人間・国家・地域と学校 (現代教育学全書)

 
農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 

佐賀藩弘道館の教育 ー現代に問いかけるものはなにかー

佐賀藩校の弘道館明治維新の7賢人
    ー現代に問いかける教育の力とはなにかー

         神田 嘉延

 

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 佐賀藩では明治維新に活躍した7賢人がいわれます。明治維新のなぞを考えていくうえで、江藤新平島義勇等が率いた佐賀の乱がなぜ起きたのか。佐賀の征韓論憂国の党をどのように考えるのか。
 明治維新のなかで理想を求めたが報われずに没落していく下級士族の貧困化がありました。かれらを扇動し、謀略に利用された「ポピュリズム」の問題が当時にもあったのです。江藤と島の説得も及ばず、かれらに心情に巻き込まれた。

 征韓論は、明治維新における日本の近代化の尊皇思想のなかから生まれました。近隣諸国との友好、共存・共栄の共生関係を無視した自国民絶対という考えがありました。そのような国益主義は、侵略戦争と民族排外主義的なナショナリズムの形成にも利用されました。日本は、戦前に朝鮮半島を植民地にしたのです。そして、征韓論にあった自国民利益絶対主義の問題は、現代的にも解決されていない。

 日本国憲法の前文では、平和のうちに生存する権利を維持するために、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とうたっています。自国の主権の維持と他国との対等関係は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって安全と生存を保持できるというのが日本国憲法前文の精神です。

 日本と朝鮮、日本と中国との近代史関係を相互の信頼関係で正しく認識していくことは、未来志向的に平和と共存・共栄にとって、大切な課題です。この課題は教育によって達成するのです。教育の力が平和と友好関係をつくるのです。

 明治維新のなかで吉田松陰板垣退助征韓論を考えていくことは、欧米に対する優美な見方と、近隣諸国のアジアを蔑視する脱アジア論があったのです。この考えは国民意識にも浸透していくのです。また、尊皇ということが征韓論と結んだのです。

 征韓論者には、徳川幕府と朝鮮王朝の対等関係は許しがたいという認識でした。日本の新政府における朝廷親交となるには、皇と勅という文字を使用しなければならない。王政復古は、古代日本が朝鮮半島に支配権をもっていたという論拠です。これを認めない朝鮮は、無礼であり、武力で正さなければならないというのが征韓論です。

 一方的に日本の新政府の価値観をおしつけていく考えです。朝鮮側が、江戸時代の外交文書と異なっているので拒否する見解です。西郷隆盛のように、話し合いによって、外交関係を確立していくとする遣韓論もありました。遣韓によって、朝鮮との外交関係を確立していこうとすることが西郷筆頭参議の政府施策になるのです。しかし、大久保等による明治6年10月の政変が起きて、その施策は実行されませんでした。その後は日本の政治体制は、有司専制政府になっていくのです。

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 佐賀藩には、江戸時代まで、えびす信仰があったのです。その後も民衆の生活には深くえびす信仰が根付いていたのです。明治維新以降の為政者は、近隣の外国からやってくる人々が福をよび、航海の安全に、海にある富の恵みをもってくることと大きく異なります。
 副島種臣は、福岡孝弟などと明治新政府三権分立の政体書を起草した人物です。広く会議を興し万機公論に決すという五箇条のご誓文など明治維新の新政府の基本理念をつくりました。明治7年1月に板垣退助とともに、天賦人権論に基づき民選議院設立を求める愛国党を結成しました。

 大隈重信は、大蔵省を改革し、大久保と対立し、早期の憲法公布と国会開設を主張したのです。また、征韓論には反対したのです。早稲田大学を開校し、学問の自由を重視しています。後に、外務大臣、総理大臣にもなった人物です。

 7賢人は、弘道館を改革した藩主の鍋島直正をはじめ、他の6人も弘道館で学んだのです。弘道館は、尊皇思想の国学を中心にしていましたが、欧米の政治制度、思想、科学技術を積極的に取り入れました。弘道館は、明治維新における日本の改革の人材を輩出しているのです。この明治維新における日本の改革とは何であったのか。
 明治維新は、有司専制以降に、征韓論を起点に、明治8年の日本と朝鮮の武力衝突の江華事件になります。その後は、アジアへの武力による植民地獲得、絶対主義的中央集権など江戸時代の幕藩体制を大きく変えたのです。また、政治、行政と一体となった財閥体制を確立させました。その後に、商業活動と結びついての農民の貧困化、地主と小作関係がつくられていくのです。農村から絶対的な貧困者が都市の低賃金構造をつくりました。

 日本的な絶対権力と結びついたルールのない資本主義化が進み、明治新政府の金銭をめぐる金権退廃状況が起きるのです。徳のない、モラルのない社会へと進んでいくのです。このなかで、小野組、三井、住友等の政商が日本経済で大きな力をもっていきます。江戸時代の豪商は財閥となって政治権力と結んでいく社会構造をつくりあげていくのです。これらの動きに、佐賀の7賢人はどのように対応したのでしょうか。江藤新平は司法の力で、維新の新政府の要人であった山県有朋井上馨を裁いたのです。

 一方で、政府を離れ民間に移り、「論語と算盤」をあらわしして、渋沢栄一のような民間の経済人もいましたた。かれは、モラルを重視して第一銀行の頭取として、明治、大正期の日本の経済をリードしたのです。江戸時代には石田梅岩のように商人の道徳論も日本の文化にあったことを見落としてはならないのです。
 佐賀市内には、唐人町を中心にして、外国からやってくる人々が福をよぶということでえびすさまを大切にした信仰もありました。笑顔をもった様々な表情のえびす様が街角にいます。商人のあり方や海外からやってくる人々に対する人間的な情を考えていくうえで、現代でも学ぶことがたくさんあります。このことと、征韓論をどのように考えるのか。
 佐賀の7賢人は、県民が幕末から明治維新、明治の近代化のなかで活躍した人の総称として、今でも言われます。それぞれの人物の歴史的な評価は、明治の近代化をどうとらえていくかによって、異なると思います。佐賀がいち早く西洋の科学・技術を取り入れ、また、西洋の医療を取り入れるために、医学館をつくるなどして、西洋文明を積極的に取り入れたのが佐賀藩であったのです。この人材養成の中心になったのが、藩校の弘道館です。
 7賢人は、幕末の藩主の鍋島直正がまずあげられます。 鍋島直正は、1830年に藩主になりましたが、弘道館充実の施策を行いました。藩として、優秀な人材を養成して、かれらを積極的に藩政改革のために登用したのです。直正は、洋学の影響を受け、科学技術を発展させました。反射炉、鉄製等の科学・技術開発をして富国強兵策をはかったのです。そして、近代的な科学技術を利用しての工場をつくっていったのです。母方の従兄弟である島津斉彬蒸気機関等の技術を提供しています。
 さらに、医学の発展にも尽くし、佐賀藩医学館をつくり、西洋医学を積極的に取り入れて、種痘法なども行うのです。直正は、質素倹約と借金の整理策で藩財政を立て直すのでした。家臣には、生活に必要な相続米支給ということで、知行をすべて藩に収納することにしたのです。
 商人たちの農村での生活を禁止して、綿打ち、大工、鍛冶、家葺き(いえふき)の4つの職のみが農村の生活が許されたのです。農商分離施策を徹底させて、農民生活の安定策をしたのです。商人たちの無法な金儲け主義を規制するために、商人たちの農村での居住を制限したのです。

 商人たちの返済は、70年、100年という年賦返済ということで借金の棒引きをして、さらに、4分の1の支払いで、あとの残りは、商人の献金策ということでした。産業の起業によって、財政と人々の生活を豊かにしたのです。商人も新たな活路を得ていくのでした。お金を貸すことによっての高金利を得るという方法ではなく、産業振興によって、利益を得ていくという方法を奨励したのです。
 弘道館では、大義を基本にしての学問の推奨でした。国政の中心は、人材養成ということで、学問は普遍的な真理の探究にしたのです。教育のためには、大胆に予算を増やしたのです。学問のため、教育のためには、予算を削ってはならないことを藩の基本施策になったのです。

 上級の家臣ばかりではなく、下級の武士の子弟も含めて、弘道館では一定の学問の課業を与えて、卒業制度を設けていたのです。卒業できないものは、家禄の一部削減の罰をするのでした。
 弘道館の教師たちにも学問の大義として、独善的にならず、他人の意見を謙虚に受けることでの真理探究の奨励でした。そこでは洋学を含めて広く真理探究を求めたのです。
 佐野常民は、1855年に長崎の海軍予備伝習に参加して、海軍所の責任者になるのでした。そして、日本初の蒸気機関車模型を完成させたのです。明治維新後は、日本海軍の創設の基礎づくりに尽力しました。からは、パリ万博博覧会参加で、国際赤十字の組織と活動を知り、博愛社日本赤十字の発展に尽くすのです。

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 江藤新平は、初代司法卿として、日本の近代法制度の確立の端緒の問題提起をしています。また、三権分立の国家制度をめざしましたが、明治6年10月の政変によって、政府を去り、佐賀の乱で非業の死に至るのです。
 明治新政府内のカネと政治をめぐる不正問題は深刻であった。江藤新平等の追求で山県有朋井上馨汚職問題で政府の中枢部からおろされたのです。議会制は実現しなかったが熱心な検討がされたのです。民法と公法を区別しての法治主義、司法制度を考えたのです。
 日本の幕藩体制封建制度から絶対主義的な中央集権の至る過程において、江藤新平のような考えが士族民権、議会主義、憲法主義・法治主義が存在していたのです。江藤はヨーロッパの司法制度も熱心に学び、日本の現状にあわせて制度を考えました。
 島義勇は、北海道の開拓の父とよばれています。藩主の命で北海道、樺太の探検調査をしています。島は、札幌を開拓本府と定めて建設し、松前藩の請負制度を通告します。そのときは、時期尚早主張の開拓長官と対立し、実現することができなかったのです。
 大木喬任は、1907年の帝国教育会主催の明治6大教育家に顕彰されます。6大教育家は、森有礼近藤真琴中村正直新島襄福沢諭吉が賢章されたのです。大木は、大久保の側近として活躍します。戸籍制度の制定も行います。大蔵省の大隈と対立するのでした。
 以上のべてきたように明治維新での佐賀の賢人は、弘道館で結ばれていましたが、それぞれの立場は異なっていたのです。

森の循環と共生への社会教育

  山神の祠 霧島山麓の高千穂リゾートV街区から吉之元集落にある森林組合の原生林の尾根にあるものです。
  
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森の 循環 と共生への社会教育
現代社会は、大量生産と大量消費で、弱肉強食の競争社会により、格差の拡大が進んでいます。人々の生活様式もゆがみが、自己本位の欲望拡大によって、社会的病理現象が大きく現れています。他者と分かち合い、慈しみの感情が衰え、地域の協働、人々が歩んできた自然との共生が大きくゆらいでいます。
  人類は古来から自然を神として、自然の恵みからの感謝と自然災害からの恐れをもっていたのです。自然の神は、山の神、水の神、森の神、神が宿る木々、神が宿る天然石を祈りの対象としてきたのです。
 これは、アニミズムと原始宗教の形態が現代でも民俗信仰などに深く残っているのです。水田農耕の発展によって、田の神さまが現れていくが、この神は山の神となって、森や水の恩恵によって栄えてきた人々にとって一層に信仰が強まっていったのです
 

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 近代社会になっての科学技術の革命は、生産性が一層に発展していった。しかし、これは、弱肉強食の価格競争を作り出した。そして、生産の発展が持続可能性、循環性をもっていくことから離れていったのです。資源の略奪、自然破壊が行われ行くのです。科学・技術の発展した先進国は、決して循環性、持続可能性という側面からみるならば、野蛮性をもって生産力の発展を遂げてきたことをみなければならないのです。

  先進国における利益優先と便利優先の大量消費は、ゴミの処理すら自国で解決できずにいます。ゴミの輸出が行われているのです。また、金権による乱開発と天然資源の略奪を伴って、環境破壊が起きています。

 このままでは、新自由主義による弱肉強食の資本主義によって、社会的矛盾と同時に、環境問題から地球全体の環境破滅が起きかねない状況です。世界各地で、プラスチックの海洋汚染、排気ガスの大気汚染、地球温暖化の問題が生まれています。自然災害にもろい土地の出現は、森の破壊によってです。市場絶対主義の価格競争や金銭欲絶対の価値から人間が自然と共生し、持続可能性をもって、自然循環に責任をもつ人々の生き方が大きく求められているのです。

 現代社会は、発展途上国と先進国の矛盾も深まっています。あらためて自然生態系を生かした開発、自然との共生が国際的に求められ時代になっています。この達成には、生涯にわたっての持続可能な社会のための環境教育が必要になっているのです。

 金権の支配する大量消費社会、便利さ優先の社会では、人間尊厳から歪んだ欲望が生み出され、不信感と孤立化がされます。そして、平気で嘘とだます状況が作られています。人間が自然と共生し、自然循環のなかで生きてきた精神から自然を征服、略奪する弱肉強食の競争社会に変わっているのです。

 弱肉強食的資本主義の市場は、ゴミ問題処理や循環性を含めた状況の解決が難しくなっているのです。資本主義の初期の自由競争ではなく、独占的な国家と結びつき、官僚機構も動員しての非民主性の現象もみられているのです。
 自然との共生と自然循環を人間の暮らしのモラル、暮らしの精神の確立が必要になっているのです。つまり、市場絶対主義の新自由主義的な金銭欲・金権の絶対主義からの人間尊重の社会経済のしくみ、人々のモラル形成が急務になっているのです。消費者自身の目先の便利性や欲望の実現だけではなく、環境問題の意識形成が主権者教育として必要なのです。

 現代は、人類的な課題である自然と共生、循環性のある社会のしくみの創造が求められているのです。深刻な世界的な環境問題のなかで、社会的にゴミ問題の処理や循環性をルールとしてしていかねばならない時代です。

 発展途上国に先進国のゴミが輸出されていることや、発展途上国の森林の乱開発、資源の略奪も行われていることも現実です。ゴミ問題や循環性の社会的ルールをつくっていくうえで、国家の役割が重要性ですが、同時に国民的な教育も大切な課題です。
 生涯にわたっての教育として、時代の変化とともに社会教育は極めて大切です。しかし、社会教育行政としての関わりの現実は極めてうすい状況です。
 
 また、石油等の化石燃料から持続可能な開発が大切な時代になっています。資源も自然略奪ではなく、自然と共生し、循環できる科学・技術の研究開発が大きなテーマになっているのです。
 ここには、効率的な生産性を重視していくことではなく、林業や農業のあり方が、自然災害や温暖化ということも視野に入れていくことです。それは、持続可能の経済性を考えていくことです。つまり、自然との共生ということの循環経済性を問うことが必要になっているのです。
 
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 原子力発電についても果たして経済性であるのか。核のゴミをどのように処理していくのか。その経費はどれほどかかるのか。安全性のことを考えるときに、事故の起きる確率からではなく、想定されないことが起きて、重大な惨事になるのです。
 さらに、重大事故が起きたときには、どれほどの経費がかかるのか。この問題は、東日本大震災の福島の原発事故を経験して、その恐ろしさと莫大な経費のかかることを経験しているのです。原発ゼロを求めるのが、東日本大震災による福島原発大惨事後の要請です。

 東日本大震災福島原発事故20113月から鹿児島県の川内原発2015年の9月の再稼働まで、日本は、原発ゼロであったのです。まさに、四年半の間、原発がなくても国民は乗り越えてきたのです。しかし、安倍内閣は、国の定めた安全基準に達すればということで、原発を再稼働していくのです。

 原発事故の恐ろしさは、福島が教えているのです。どんなことがあっても原発事故を起こさないことことは、原発がないことです。極めて危険なものはつくらないことです。ふたたび、御用学者を動員しての原発安全神話が復活するのです。

 原発ゴミの処理経費、古くなった原発廃炉の経費を無視しての経済性が強調されていくのです。自然への循環ということからは、膨大な経費と日数がかかるのです。
 そして、未来への再生可能エネルーギーを抑制しての原発の再稼働です。未来への循環と共生への経済への模索に対する思考停止が現実に起きているのです。

 経済には、生産から消費、そして、ゴミの処理という循環性があるのです。ゴミがリサイクルされることによって、自然循環性のある経済になっていくのです。
 しかし、資本主義的な弱肉強食の市場経済は、ゴミの問題までを考えての市場価値が想定されていなのです。社会的な安全性の確保のために、社会的リスクをできるだけ少なくするための循環性と持続可能性という経済のしくみが求められるのです。

 消費者自身が主権者として、持続可能性や自然との共生を社会的価値として、入れていく運動が必要になっているのです。生産と消費との関係で市場がなりたち、そこで価格競争による取引関係が起きますが、ゴミ問題、安全性、暮らしの尊重ということから、循環性と持続可能性の経済のしくみが求められているのです。
 それは、社会的規制を撤廃していく新自由主義的な経済のしくみではなく、社会的ルールを民主的に確立しての創造の自由性の尊重です。

 循環性ということは、新自由主義的発想の市場価格競争にとって、大きなマイナス要因の思考になります。資本主義的な根本矛盾から循環性の破壊を考えていかねばならないのです。社会的な環境保護という人類的な課題の規制がなければ、経費の削減としてカットされていくのです。
 
 人間らしく生きていくうえで、環境の保護は、不可欠な条件です。
 そのためには、自然生態系を守り、自然との共生で、自然循環性を維持していくことです。生産の条件には、この社会的な整備が必要になるコストです。

 この社会的コストは、弱肉強食的資本主義的な市場の価格競争のなかでは、経費の削減としてカットされていく傾向をもつのです。ここには、一国だけではなく、国際的な社会的規制が求められているのです。

 日本の原子力政策は、生産と消費という価格競争の市場絶対主義で、核のゴミをどのようにして、処理するのか。これは答えのでない問題です。

 核のゴミの処理に、全く見通しがないなかで、原子力発電を行っているという根本的な欠陥があるのです。核のゴミは、ほっとおけば自然界の秩序に大きな影響があり、生態系を大きく崩していくのです。人体にとっても極めて危険なものになるのです。

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  「森の思想が人類を救う」を書いた哲学書梅原猛は、日本の縄文文化から続いてきた森の信仰が現代の混迷した人類を救うとしているのです。
 鎮守の森の文化のなかにあらわれ、沖縄とアイヌの文化が強くあらわれているというのです。日本の縄文時代からの森の文化の基層が、日本独自の仏教思想である自然中心主義に変容させたとするのです。

 それは、天台本学論「山川草木悉皆成仏」という生命の本来的同一性の思想になったとするのです。
 親鸞の往相廻向(おうそうえこう)とい思想のなかには、南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土に行くことと、極楽浄土から、この世に苦しんでいる多くの人々の救済のための考えがあるのです。
 そして、この世に帰ってという大乗仏教の菩薩道としての利他行を徹底する教えがあるのです。
 この世とあの世をたえず往復して、人間救済に努力するのが弥勒に等しい菩薩の位にたっている念仏行者のあり方とすることを梅原猛はのべるのです。

 21世紀の最大の危機は、環境の破壊にあると梅原猛は強調します。現代は金儲けに一辺倒に凝り固まって自然破壊が進んでいます。ゴルフやリゾート施設の乱開発、木材や紙の浪費、熱帯雨林の破壊、酸性雨、オゾンの破壊、地球の砂漠化など人類の生存をおびやかす現象が起きているのです。

 この危機から人類が救われる道は、まずは、近代文明の自然征服の思想の克服であるとするのです。
 つまり、人間と自然を峻別して、自然科学を飛躍しての自然征服の科学・技術の思想から、自然と共生し、循環していく思想の転換です。森を食いつぶしてきた文明からの脱皮であると梅原猛はのべるのです。この意味で、日本の縄文文化の森の思想は、現代の人類的危機を救うというのです。
     梅原猛「森の思想が人類を救う」小学館 梅原猛「人類を救う哲学」岩波新書 参照
 
 
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 富山和子「水と緑と土」中公新書で、自然を愛し、自然と共に生きてきた日本の人々が自然を工業的な発想による自己の都合のよいように解釈して、自然破壊するようになっているとしています。
 自然環境の破壊は、人間の耐えうる限界を超えています。水と土壌と大気に加えられた汚染は、何を食べれば安全か、どこで呼吸すれば安全かの疑問さえ解答を与えていない。

 治水革命は、明治の中期に堤防技術の開発によって、日本人の河川観が根本的に変わった。
 川はときには大暴れるものであり、大洪水の氾濫は忍ばねばならないものであり、水害防備林や遊水池をたくみにつくって、その備えが甚大な被害がもたらさないようにするためのものでした。

 川は人間の生活に密接に結びついた。
 決して堤防を築いて断絶するものではなかったのです。交通手段は、川によての船の運行であったのです。
 また、川は自然の恵みである豊かな土壌を運んできたのです。明治29年の河川法の制定は、川と川以外の土地を明確に区分したのです。浸水を絶対に許さないということで、高い堤防をつくって、洪水を川におし止め、海に一刻も早く流すという方式です。
 
 川の自然的機能を大切にする遊水池や水害防備林は、河の暴れを緩和していくのです。 
 この考えは、明治29年の河川法の設定で、捨て去られていくのです。水量調整機能をする遊水池、曲がりくねった河川、川原の森林などよりも高位堤防による効率的に海に最もはやく流す河川工事になっていくのです。

 このことは、かえって洪水の水量が増大したことにより、水害は増えていくのです。高い堤防をつくり、川と分離した土地に資産を投資することが可能になりました。
 川のなかの自然の機能である水と緑、土は切り離されて、河道になったのです。河川の自然的防御機能を少なくした結果、水量の増大によって、河川の堤防機能をより強化にしていくのです。一度の決壊による被害規模は甚大になるのです。

 日本の川との伝統的なつきあい方が、高水位の堤防万能主義に大きく転換していくのです。日本の伝統的治水は、森林の機能を大切にしたのです。
 下流で土地を耕すことは、上流の森林が土地を守ってくれることから、下流の住民は、森を大切にすることに気遣っていたのです。
 
 そして、森林の機能を大切にした治水は、低水位工事で、つねに川の交通とともに発達してきたのです。米や木材が輸送されたのは、川の交通機能です。
 洪水を防御することと、交通を維持していくことは、一体であったという日本水系の一貫思想があったのです。この伝統的治水思想は、明治の近代的な堤防万能主義によって葬り去られたのです。

 日本の都市は、川を捨て場としてきた。都市は森林を払い、地表を建造物で覆い、堤防で川との交わりを絶って、土地の利用効率を高めたのです。
 都市は足下から水を捨てた。降った雨の自然水は、堤防で川との交わりを絶ったのです。都市の水需要が発生する以前から、水田が洪水を調整する機能をもつ一方で、地下水を川に徐々に流す機能を果たしたのです。
 水田の農業は、ため池をつくり、かんがい用水をつくり、堰によって、水を集め、水を排水して利用することをしてきたのです。水を無駄使いせずに有効に使ってきたのです。
 
 都市の経済活動によって増大していく水の需要は、水を土地から切り離して、足下水を捨てて、遠くのダムに求めたのです。そのダム建設も上流へと求めたのです。日本は急傾斜の多い地形で、上流に、ダムをつくっても土砂の堆積が早く、耐用年数が短いという特徴をもっています。
 
 ダムに依存した都市の水の供給は、限界を持っているのです。ダムの建設は、コンクリート技術の依存です。森林を活用した水資源の確保という発想が薄いのです。森林は水を蓄え、水源を涵養していくのです。また、森林は、土砂の流出を防ぎ、山崩れを防止する機能をもつのです。 
 
 そして、森林は大気中の二酸化炭素を吸収して、酸素を吐き出し、気温も調節してくれまし、風の強いときは、防風林の役割を果たします。
 森林は森羅万象ということで、自然生態系を維持して、人々に心の潤いを与えてくれるのです。森林は、人々の生活にとって、様々な機能を果たしているのです。森林は木材を提供してくれるという狭い意味だけではない。
 下記の写真は霧島市の重久地域の水田です。山から流れてきた豊富な水をもった扇状地の水田です。
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 富山和子は「日本の米」中公新書で古代から日本の水田発達を論じています。
日本の原風景は、水田が山深くいきわったということで、堰堤によって、粘土を石を積み上げていったということです。山の文化が水を治めることになりました。

 山村では、木地屋が工芸をし、燃料の炭焼きをして、狩猟などをしていました。さらに鉱物のあったところでは、製鉄業や金塊の生産が行われていたのです。船乗りにとっても造船にとって山から木材を探すことは極めて大切であったのです。これらの産業が山にあることによって、水田の水が守られてきたのです。

 山は神のいるところで、水の神、田の神は神は山から降りてくるというのです。木を植える文化は米を増産させるためのものです。木を植えることによって、水を蓄える文化をつくり、豊かな水田をつくっていったのです。稲を育てる水の文化は水田の発達によってつくられたのです。

 阿蘇は、今日、水の豊かなところとして知られます。それは、けっして、自然条件のみではなく、人間の木を植えてきた歴史がつくりだしたものです。
 阿蘇の水の歴史は、木を植える長い歴史のなかから生まれたと富山は指摘しているのです。阿蘇山麓は、水系に恵まれ、豊富な水田地帯を形成していますが、それらは、人々の木を植えてきた歴史がつくりだしたものです。
 日本の各地には棚田があります。この棚田は、農民の水とともに生きてきた水田技術の結晶です。石垣によって、水田が天にそびえているのです。

 現代日本の社会では、鎮守の森プロジェクト運動が起きています。この運動は、宮脇昭横浜大学名誉をはじめ多くの著名人が提唱している運動です。
 地域の暮らしを守る森づくりとして、ドングリを拾ってきて、苗を育て、それぞれの地域の防災からを命を守るために植林していくものです。
 沿岸部、河川、建物のまわりなどに森をつくっていくことです。防災と同時に森と親しみながら心の潤いの生活にもなるものです。
 また、鎮守の森コミュニティ研究所は、自然エネルギーコミュニティ構想、森林療法、祭りと地域活性化の調査研究と実践をしています。これらの動きがどのようにして、国民的な運動になっていくのか大変に興味ある課題です。
 日本人の精神構造には、深く鎮守が存在しています。森林に囲まれて、山の多い国土に暮らして、そのを恩恵を古来から受けてきたことからの鎮守のなのです。
 
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公民館・コミュニティセンター職員の専門性と養成・研修―社会教育士の創設を見すえてー

公民館・コミュニティセンター職員の専門性と養成・研修―社会教育士の創設を見すえてー
2019年6月29日から30日日本社会教育学会九州・沖縄地区集会
 
 文部科学省は、平成30年9月に社会教育主事の省令改正を2020年4月1日施行の通達で、社会教育専門士の創設を打ち出しています。社会教育主事に期待されることは、地域の多様な専門性を有する人材や資源をうまく結びつけて地域の力を引き出すことであるとしています。
 社会教育専門士は、地域活動の組織化支援を行い、地域住民の学習ニーズに応えていくこと、学習者の地域社会への参画意欲を喚起することです。そして、学習者の学習成果を地域課題によるまちづくりをしていくことです。また、地域学校協働活動につなげていくことを考えています。ここでは、地域づくりとの関係の学習が強くあるのです。
地域づくりの学習ということは、住民の学習権保障に結びつくかということが大切なのです。行政の施策の遂行のために、地域課題として学習を設定して、行政を効率的に住民の参加動員のためにしていくのではないのです。住民自身の人間らしく生きていくために、発達の権利から学びが保障されるという視点が重要なのです。

人間らしく生きていくたの発達保障のための学習権

学習権なしに人間の発達はないのです。生存のための学習権を基本にしての地域の課題学習があるのです。「教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としてしなければならない」。(世界人権宣言)
万人のための教育に関する世界宣言では、基本的な学習ニーズとは、「人間が生存し、その能力を全面的に発達させ、尊厳をもって暮らしかつ働き、発達に全面的に参加し、その生活の質を向上させ、充分な情報を得たうえで決定を行い、かつ学習を継続することができるために必要とされる必須の学習手段、および基本的な学習内容から構成される」。
学習ニーズを充足していくためには、すべての人々の人間らしい生き方のエンパワーメントです。万人のための教育宣言では、社会的正義の前進の学びを次のようにのべています。
「社会的正義の大義を前進させること、環境保護を達成すること、共通に受け入れられた人間的価値および人権が支持されることを確保しつつ、自己のものとは異なる社会的、政治的および宗教的制度に寛容になること、および、相互依存的な世界において国際平和と連帯のために」。
地域の学習課題を考えていくうえで、世界人権宣言の教育権や万人のための教育宣言の人類普遍的理念を踏まえての設定が大切なのです。
 
九州地区学会の報告は、4つありました。最初に、九州・沖縄地区全体の社会教育関連職員の養成・研修について、統計的に上野景三氏が報告しました。上野氏の問題意識は、社会教育士の制度が省令によって、2020年から実施されますが、それに対応して、市町村で、その専門性を認めての採用や配置があるのかということでした。
公民館・コミュニティセンター職員の任用にあたって、その専門性を認めて実際は、配置されてひとつである社会教育士の資格を任用の条件にしていなくても、採用後に専門職としての力量を形成しているのかという問題提起でした。
全国的に公民館数や公民館職員数が、著しく減少している状況で、非常勤職員が増大して、社会教育職員の有資格者の占める率も極めて少なくなっているという実態の分析でした。実際は公民館の専門職員も配置されていないことから、公民館のことが知らないものが担っている実態ということでした。また、公民館の職員の専門性を高めていく研修も保障されていないということです。
なぜ、市町村段階での公民館などで、社会教育職員の非常勤依存や専門性が現実に認められていないのか。その構造的な問題も含めて掘り下げていく研究課題があるのです。大学での社会教育専門職の養成を行っても、採用する側が、その専門性をないがしろにして、それを条件にして、採用していない現状では、社会教育士の創設をしても、その意味が発揮されないということです。
 
第2の報告は、佐賀市における公民館職員の相互学習と力量形成」でした。この報告は、佐賀市西与賀公民館の田中真由美氏でした。佐賀市は、32の公民館数で、公民館主事67名で非常勤の専門職主事33名、嘱託10名、常勤主事24名です。2012年に地域コミュニティ施策をすすめるために、公民館・地域連携協議会から地域コミュニティ協議会(まちづくり協議会)への移行がはじまります。

2014年に旧町村の生涯学習センター・コミュンティセンターを社会教育法上の公民館へ統一します。公民館支援業務の補助執行、市民生活部協働推進課公民館支援係。2018年に、教育委員会社会教育課を地域振興部公民館支援課公民館支援係に一元化して、施設整備係、人事管理までも含めて補助機関となりました。
佐賀市の公民館職員の大きな特徴として、グループ研修としての相互学習を実施していることです。そこでは、防災、まちづくり協議会に特化した地域人材育成、シニア世代の社会参加、学びを通しての地方創生、地域づくりの交流会、福祉と公民館などのグループ研究会として、2012年から相互研修をしているのです。
シニア世代による地域活性化ポログラムでは、社会福祉協議会、福祉総務課、地域包括センター、女性ネットワーク、さが子ども食堂等との連携を積極駅にしてのグループ学習であるのです。このことによって、関係機関や団体とのネットワークが構築され、公民館職員の力量形成がされていったのです。
事例研究をとおしての相互理解からから相互承認の場つくりになっていくのです。ここでは、公民館の一館という狭い枠から佐賀市全体の福祉ネットワークとひろがり、佐賀市のかかえている福祉の課題の普遍性が学びのなかで深まっていくのでした。
 
 第3は、佐世保における職員の養成と研修の新たな方向性という口石裕輔氏の報告でした。佐世保市は、指定管理者制度やコミュニティセンターに公民館が大きく変化しているということでした。公立公民館は、中学校の校区を基本にして設置されています。中央公民館がひとつで、地区公民館が27館になっています。
館長は、正規が2名で、フル嘱託20名、パート嘱託6名です。職員は正規10名、フル嘱託11名、パート嘱託21名です。嘱託の職員は5年が基本になっています。社会教育主事講習を受講して資格をとったものは、10年まで延長することができるとしています。
 平成24年度から地域コミュニティ推進事業の展開で、自治活動の拠点としてのコミュンティセンターということに移行しています。公民館を廃止して、市長部の局管理にして、指定管理者制度を導入が来年4月に移行するという検討に入っているところです。指定管理者制度の導入によって社会教育行政そのものが消滅していく危険性をもっています。従来の公民館機能をいかにして残すことができるのかということが大きな課題になっています。
住民自治の拠点ということでのコミュニティセンターということで、まちづくり協議会がその担い手になっていくというのです。自発的な学習を助ける場の従前の公民館の機能をいかにして残していくかという大きな課題があるのです。ここで、あらためて住民の自治による地域づくりのための学習とはなんであるのかかが問われているのです。
権利としての学習が大切になっているのです。社会教育の目標を住民の自治育成ということの内容を明確にして、従前の公民館機能の必要性を強調していく研修が必要です。地域をよくする講座ということで、公民館とは何をするところか、よい地域の価値づくり、住民自治の実現にむけて、先進事例から学ぶ地域をよくする学習プログラム、公民館は多様な世代の巻き込み・公民館テ^マパークの研修を5回にわけて実施しています。
市長部局における社会教育、公民館の認識の不足が大きく、自発的学習して意義よりも行政効率、行政遂行の視点が強い現状をどのように打破していくのか。この際に、住民自治を育むことを自発的学習の視点から深めていくことが必要ということでした。
 
第4の報告は、大牟田市の地域コミュニティ推進課で社会教育主事の西田久氏の報告でした。ESDを取り入れた本格的な事業展開を大牟田市として実施しています。全小中学校でユネスコ指定の事業をしているのです。平成30年度に市民の学習ニーズを把握するために、アンケートを郵送法で市民意識調査とインタビユ調査を実施したのです。
このことから、個人に関する学習の要望が高いことが明らかになったが、ボランティア活動、地域活動に関する意識がたかいことも明らかになったのです。そして、生涯学習を盛んにするまちにするためには、専門的な職員や指導者を配置する声が高いことがわかったのです。大牟田市は人口減少が著しい地域ですが、7つの高等学校があり、外の町村から生徒が数多く通学しているのです。この強みをどうのように生かしていくのかという課題があるのです。
ESDという持続可能な開発のための教育を全市的に実践している強みを地域づくりの学習にどのように結びつけていくのか。生涯学習ボランティア登録制度を充実させて、地区公民館や校区コミュニティセンターなどの課題でもあるのです。
 
以上4つの報告でしたが、全体的にまちづくり協議会などの組織が中心となって、自発的に学びながら地域づくりをしていくということよりも地域課題を推進していくために、コミュンティセンターの充実ということや指定管理制度などにみられるように、一般行政主導による側面が強く、住民の学習権や社会教育職員の専門性の充実どのようになっているのかということが大切と思いました。文部科学省の省令改正によって、社会教育士の導入が制度的に可能になっても、市町村行政が社会教育の専門性を重視しての地域づくりをしていかねば、意味のないことです。したがって、市町村の首長の社会教育専門性を積極的に位置づけていくとりくみをしていくことが、社会教育関係者として最も必要なことです。
 

 

村づくりと公民館

村づくりと公民館

 

 

 
 
 

 

日本語教育推進法と社会教育

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日本語教育推進法と社会教育
 
   神田 嘉延
 
 日本語のできない問題状況を直視しての外国人の教育を充実
 
 2019621日に日本語教育推進法が国会を通過しました。この法律は、日本に居住する外国人が日常生活や社会生活を円滑に営むことができるように、国と自治体、事業主の責務を明らかにするための法律です。
 しかし、内容は抽象的です。本来、教育事業は、文部科学省教育委員会が管轄する部署であるはずですが、そのことさえ明確にされておらず、連携の強化という抽象的なことで、実施の責任主体があいまいで、関係省庁間、日本語教育を行う機関との体制の整備ということが書かれています。

  日本語教育機関で学ぶ外国人の生活問題が大きくあるのです。実際に、日本での日本語学校では、アルバイトに追われ、授業に集中できないことや学校にもこない「留学生」も数多くいるのです。これらも甘い言葉をかけられて安易に日本への留学をしているのです。これは、大学での日本語別科や研修生などにもみられるのです。社会問題になった東京福祉大がその典型です。

 日本語がわからず、日本の法律制度も理解できずに、甘い言葉をかけられてだまされて働いている外国人労働者も少なくありません。多額な借金をして、日本に働きにくる外国人労働者は、悪徳中間業者にだまされてくるのです。
 日本の現実は、予定していた時間あたりの賃金は低いのです。借金を返すため、本国の家族に仕送りをするため、将来の準備のためと、残業をせざるをえないのです。結果的に長時間労働になっていくのです。さらに、労働環境も悪く、また準備された生活のアパートも劣悪で、馬小屋を改造しての牧場のなかでの全く寂しい宿泊所を提供されている場合さえあります。

 日本で過酷な労働や生活で死に至る外国人のケースもあります。自分の意志を表現できずに、訴えるすべもわからず死んでいった外国人労働者の現実を直視しなければなりません。日本語がわからないことがいかに過酷なことであるのかを知る必要があるのです。人権を守ることは、コミュニケーション能力を保障することです。日本語教育の推進は、外国人労働者や留学生の人権を守っていくことなのです。
 
 少なくとも本国での初級段階を達成して日本で中級程度の日本語教育を受けられる国際的な連携体制をつけるべきです。日本語教育は、送り出す国での連携的な教育が重要なのです。日本語をまったくできないことで留学生や外国人技能実習生・外国人技能労働者を受け入れることに問題が大きいのです。この問題点を十分に認識しての市町村の責務があるのです。

 日本語教育推進での市町村の社会教育と学校教育の役割
 
 外国人労働者や家族の日本語教育推進は、市町村自治体の責務としての社会教育や学校教育の役割が大きくあるのです。地方の労働力不足のなかで、市町村自治体の地域振興計画のなかに外国人労働者の受け入れを考えなければならない時代です。
 現行制度では、外国人の受け入れについて、市町村の責務が明らかにされておらず、入国管理機関や受け入れ協同組合組織、企業の雇用の側面が強くあります。地域で外国人が地域住民として共同の生活をしていくという側面からの市町村の役割が極めて不明確です。外国人が地域で暮らしていくうえで、多文化共生社会になっていないのです。

 地方の地域活性化にとって、外国人労働者は貴重な人材になっているのです。外国人労働者が人間らしい生活が職場でも保障され、地域の人びとのとの生活共同体の一員になるために、多文化共生の地域社会づくりが求められのです。
 外国人労働者や家族の日本語教育推進は、地域活性化のなかに位置づけられるのです。そして、地域で人間らしい生活を外国人ができるために、日本語教育推進があるのです。地方中小都市や農山漁村では、人間らしい生活を保障していくために、地域の学習活動の場として、公民館があります。外国人労働者と家族の日本語教育推進は身近な学習の場での公民館活動に求められているのです。

 日本語教育推進法では、財政上の措置をとることが書かれています。国や自治体は、日本語教育機関への補助金支出が責務ということになりかねない。理念ぬきの補助金獲得の競争になる場合もあります。また、外国人実習生や外国人技能労働者の受け入れの問題状況を覆い隠すアルバイづくりのひとつの要因になる危険性をもっています。

 国や自治体の責任ということを公立の学校教育や社会教育行政・生涯学習施策のなかで明確に位置づけていくべきです。日本語教育を責任ある実施主体は、教育委員会です。このことを明確にして、各機関との連携が必要になってくるのです。
 外国人の子どものため、日本語がわからない児童・生徒の特別教育課程を設置して、責任ある公立の教員配置を行うことが必要なのですが、それは、教育委員会の仕事です。責任主体の不明確のままで、非常勤による「教員」の配置ではないのです。
 
 歴史の教訓は、外国人によって、地域が活性化したことがあった
 
 多文化共生は、歴史の教訓から学ぶことも必要です。450年前に戦国の世の中から大航海時代、天下統一の平和の時代に進んで行きますが、このときに多くの外国人が城主の側近待遇で受け入れられたのです。彼らは、商業や街並みづくり、開墾技術の担い手として活躍したのです。南九州では、そのことが唐人町として、今日まで残っています。その子孫は今日でも地域づくりの担い手として活躍しています。例えば、初代の国分市長になった林家、日本一の焼酎酒造になった江夏家など霧島山麓ではいまだに活躍しているのです。

 日本における近代の歴史は、アジアへの植民地獲得に乗り出し、帝国主義政策によって、アジアの人びとと共存共栄をせず、脱アジア、民族排外主義をとりました。隣の朝鮮半島の人々や中国の人々との共生社会ではなく、非人間的な扱いをしたのです。

  この歴史は、アジアの人々に日本人は差別意識を強くもったのです。その典型が労働動員、徴用工にみられる強制連行による過酷な労働を強いたことです。いまでも日本は経済大国意識があることによって、アジアの人びとに対する差別意識が残り、近隣諸国から日本の人々は助けられ、共生し、共存共栄していかねば生きていけないことの認識が十分ではないのです。
 
 外国人の日本で暮らす権利としての日本語教育と教員養成の重大性 
 
 日本に居住する外国人の様々な生活や労働の問題を直視して、世界人権宣言、ユネスコの学習権、社会権の条約、子どもの権利条約の視点をきちんと踏また分析のうえで、具体的に理念をあきらかにしていくことが必要です。
 とくに、日本の国籍をもたない外国人や日本語がわからない日系ブラジル人等の子どもの日本語教育は義務教育を受けるということから特別の意味をもっています。日本語教育推進法は、日本で居住する外国人が日本語教育を受ける権利としての視点もなく、また、外国人に対する教員養成の課題が基本理念のなかに欠けています。

 公立学校では責任ある正規の外国人のための日本語教育を推進する教員の配置が求められているのです。その教員養成の制度を国は責任をもってつくっていくことが必要なのです。教員養成は大学におけることを原則にして、その充実を「日本語教育人材育成の養成・研修の在り方」の平成30年3月の文化審議会の報告にもとにしていくべきです。

 外国人の国語教育のための教員養成における3つの領域としての社会文化領域、言語領域、教育の領域、5つの区分、社会・文化・地域、言語と社会、言語と心理、言語と教育、言語のカリキュラムも充実させ、科目内容の点検も求められているのです。その科目の教えていく大学教員の資格も当然に不可欠なのです。

 また、その報告書で指摘している日本語教師日本語教育コーディネーター、日本語学習支援者の三者の役割を明確にして、地域での外国人のための日本語教育の推進の担い手の役割があるのです。

 大学における教員養成として、国立大学の教育学部等の教員養成大学は大きな役割を果たしていますが、国は積極的に外国人のための国語教育の教員養成の在り方として、大学の重要性を明確にしていないのです。
 地方では、国立大学の教育学部の定員削減が大幅に行われていますが、教員養成は、小学校や中学校の従前の枠の定員からではなく、新たな社会的な教員養成の需要から改革をしていくべきです。

 社会教育という視点を積極的に考えていけば、教員の人材養成が大幅に求められているのです。外国人のための日本語教育のための教員養成もそのひとつです。それは、外国人の子どもばかりはなく、外国人労働者として働く人々にとって日本語教員の意味もあるのです。

 教員養成における担当科目者の審査をきちんと行っていくことが必要です。この意味で、民間の日本語教員養成機関で実施している420時間のカリキュラムの充実も検討すべきです。
 
 日本語教育法を充実していく方向性
 
 重大な欠点をもっている日本語教育推進法でありますが、外国人に対する日本語教育推進の法律がなかったことで、この法律を具体的に現実の外国人の生活や労働で日本語ができないことで、権利が保障されずに、現代的な奴隷的な状況になっていることへの解放につなげていくことが必要です。

 法律の目的のなかに、多様な文化を尊重した共生社会を実現するため、諸外国との友好関係のことが記されていることから、この趣旨を深めていくことからの現代的奴隷的状況からの解放に日本語教育の成果が利用することが必要です。日本人との共生連帯、外国人によって助けられている側面での感謝への施策が具体的につくりあげていくことが不可欠です。

 日本の少子高齢化のなかで、労働力不足が深刻になり、地域や職場のなかで外国人との生活共同体をつくりあげていくために日本語教育推進があることを明確にしていくべきです。それは、単に、多文化共生ということではないのです。
 生活共同体は、日本人も外国人も区別なく、同等に同じ権利をもち、待遇も給与面も同じで共に生きていくことであるのです。外国人の子どもも当然ながら教育を受ける権利を日本の国籍をもつ子どもたちと同様にもっている認識を地域や職場の人々がもっていくことが求められるのです。

 このように中小企業の様々な団体が外国人を受け入れるときに、教育事業にとりくむ課題があるのです。このことは外国人労働者を受け入れている農業生産法人も同じことがいえるのです。日本語教育外国人労働者の能力開発及び向上のなかで積極的に位置づけてキャリアアップしていくことが求められているのです。

  外国人の教育を受ける権利の憲法と条約の解釈

 憲法26条の解釈で、政府は、外国人の教育を受ける権利は、義務でないとしています。「すべて国民、法律の定めることにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護う子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は無償とする」。
 日本国憲法での社会権的な基本的な人権項目は、同じように解釈されて、外国人に対する差別が歴史的に行われてきたのです。

 この解釈は、日本が国際条約である社会権規約子どもの権利条約を無視したものです。条約を結ぶうえで、憲法での整合との関係で社会権や教育を受ける権利も深めらるべきです。
 つまり、憲法26条の教育を受ける権利は、人類普遍の人権原理として定められているのです。憲法97条において、基本的人権は、人類普遍の原理で犯すことのできない永久の権利として規定され、憲法98条では、憲法最高法規のことと、国際条約や国際法規の誠実なる巡視の必要性がのべられているのです。

 憲法26条の教育を受ける権利は、人類普遍の原理として日本に居住する外国人にも認められていると解釈すべきです。憲法98条の憲法最高法規ということと、すべて国民は、日本人のみという解釈で人類普遍の原理という共通内容をもっている条約も無視して、政府は排外主義的な解釈をしているのです。
 
 外国人にとっての特別に学習言語の取得の重要性
 
 外国人の子どもに対する日本語教育は特別の課程が必要なのです。学校で教育を受けるということは、日常生活や職場家庭で会話することばだけではないのです。特別に、それぞれの教科ごとに学習言語があるのです。 理科や数学、社会など、それぞれの知識や知恵を積み重ねていく学習言語があるのです。これは、職場でキャリアアップしていくための資格取得のための日本語教育も同じことです。資格取得していくための学習言語があるのです。

 それは、単なる専門用語ということの範疇はもちろんこと、それに至るまでの基礎的なそれぞれの分野の学習言語があることを決して見落としてなならないのです。生活者としての外国人の日本語教育と日本で働いてキャリアアップしていくことが同時にあるのです。

 留学生の場合は、それぞれの専門を学ぶために来ているので、その専門性からの学習言語が求められるのです。母国での専門分野の学習がどの程度に取得して、日本で何を学びたいのかを明確にしていく作業があるのです。決して、日本語教育という狭い枠ではなく、青年の興味関心や問題意識、生き方を豊かにしていくことも課題になってくるのです

 日本語の取得にとって、母国の文化や外国人の学習者としての気分や感情、慣習も必要なことです。学習していくうえで、一律的にいかない場面があります。日本語教師として、当然ながら学習者を理解していく国際的な文化を共有していく感覚が求められているのです。
 また、日本の文化も加味しての日本語を理解することも大切です。お互いに感情的な側面も含めて共有していくことをどういたら確立していくことができるのか。日本語を教えていく場合にも、日本文化のお年寄りに対して敬うところの丁寧語も必要になってくるのです。介護労働に携わる人であればなおさらです。介護記録重視で翻訳機でまかなうことができないのです。介護は心のふれあいが大切で、そこに日本語の大切さがあるのです。
 
 海外における日本語教育の推進
 
 日本語教育推進法は、日本語教育の機会の拡充の項目をたて、企業への就職の円滑化と現地における日本語教育の持続的な体制整備、日本語教員養成の施策を講ずることをあげていますが、具体的な視点が欠けているのです。

 海外における日本文化の関心の高まりに対する日本文化や日本社会の理解の増進のために日本学の研究機関との日本語教育の連携や日本に留学や働きに行きたい青年に対する日本語教育の充実など具体的に問題を深めていき課題があるのです。
 また、日系企業などが、その国に進出していく場合に、理解を十分にしてもらうためにも、その地域住民との共生社会を構築していくためにも日本文化の理解や企業の現地での社会貢献の在り方があるのです。

 日本に留学したい青年、働きに行きたい青年には、生活者としての日本語能力として、最低の基準として、初等教育段階の日本語の取得が求められているのです。日本文化を言語からも理解できるように丁寧語や生活習慣のことばが必要になってくるのです。日本語の試験もそれらを理解して、読んで書けるような能力をみる工夫が必要になっているのです。

 日本語能力試験は、択一式の選択方法だけではなく、書く力をみていく試験の工夫が必要です。技能実習生等の日本に働きにいく場合に、面接において、最初から通訳が入ってすることは適切ではないと考えます。それなりの日本語の初等教育の力をつけての面接が求められるのです。そのうえにたっての詳しいことでわからないことでの通訳です。

 日本人の国際貢献として、海外で日本語を教える教師が必要であります。また、現地で日本語を教える教師の質をたかめるための研修や、その教師たちの日本への留学の機会の拡充が求められているのです。国立大学教育学部等の大学における外国人のための日本語教員養成・研修をすることも大切な国際交流の貢献です。

一橋大編「渋沢栄一と人づくり」を読んで

 

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

 

 

     一橋大編「渋沢栄一と人づくり」を読んで
       神田 嘉延
 一橋大日本企業研究センター研究叢書「渋沢栄一と人づくり」が有斐閣から2013年に出版されていますが、このたび新一万円札に選ばれた人物になったので、あらためて読みました。
 
 渋沢の唱えた合本主義と人材育成
 
 序論で橘川武郎氏が、渋沢栄一の人づくりに注目する理由をあげています。まず、合本(がっぽん)主義について、社会的資金の動員というお金の問題ではなく、人材を確保することと社会的資金の問題を結びつけていくことをあげているというのです。渋沢栄一は、生涯で「教育・学術」が最大の社会的寄付であったのです。それがなぜであろうかと橘川氏はつめていくのです。
 
 現在は、企業との関係で大学の教育や研究を考えると、産学共同として、国際競争力からの研究開発による特許など個別の利益の問題が出てきます。大学にとって公益性が強く求められているのです。人類的な視点からの社会貢献が大切なのです。渋沢の人材養成論は、公益の観点から現代的にみていくことが本来の彼に対する見方になるのです。また、現代社会の企業や政治家の不祥事が多発という問題があります。社会的退廃問題を克服していくうえで、渋沢栄一の人材養成論から学ぶことが多いのです。
 
 ところで、2008年のリーマンショック以降に、世界経済が危機的状況を呈しています。このようなかで、拝金主義というカネに重心を置く資本主義観に代わって、人を重視する資本主義観の再評価が要請されるようになっています。モラル資本主義ということから渋沢栄一の人づくりに注目したと橘川氏はのべるています。
 
 彼は後進国の工業化にとって人材確保がもっとも大切なことであるというのです。渋沢はこの視点から積極的に評価されるというのが橘川氏の問題提起です。合本主義研究は危機にたつ資本主義のなかで今日的意義をもつというのです。
 
 日本のオープンマーケットの仕組みと商業教育
 
 日本は後発国工業化でありましたが、渋沢をはじめとした人づくりいによって、独自の制度設計ができたのです。それは、しばしばみられる後発国の財閥型とは異なるオープンマーケットモデルをつくりあげたと橘川武郎はのべています。
 
 日本の商業教育機関は、オープンマーケットへの多数の企業経営者が排出したとするのでした。日本の財閥内部でも商業教育機関によって、学卒エリートを中心に優秀な人材が養成されたのです。人材養成なくして、近代産業の発展はなかったのです。日本は学問に裏付けられた職業教育によって、近代の産業発展の優秀な人材養成ができたことを見落としてはならないのです。
 
 合本主義と日本の商業高等教育
 
 島田昌和氏は合本資本主義と高等教育への反映として、東大、早稲田、一橋の支援をあげています。渋沢は非財閥系の多くの会社の創立にかかわり、その発展に貢献しています。その経営手法は、情報を重視して、人的ネットワークによっていることが大きいと島田は分析しているのです。
 非財閥系会社は資本と人材を独自に調達しなければならなっかったことで、第1銀行の頭取として、渋沢がその仕事にかかわったのです。日本の近代産業の発展に多くの中小企業が参加していく基盤があったのです。このことは、広く人材を国民的に求めていったことが大きいのです。
 
 渋沢が考えた合本主義は、欧米の株式会社を原型としますが、本質的に欧米とは異なるのです。渋沢は、民間に公共物をつくるということで、日本的な官尊民卑の克服にあたったのです。官に対して、民の力を蓄え、底上げしていくために私的利潤追求による富の蓄積を必要と考えたのです。この社会的要請の民間パブリックのために、論語を用いたと島田はみたのです。
 
 東京大学卒業生は、民業には名誉がないということで、民業につくことに進路を選ばなかったことから、東大の学長に民業についてもらうために渋沢は談判したのです。ところが、逆に講師を頼まれ、東大で講義することになるのです。
 経済学を空論にしないために、商工業の実情を知るために、銀行の組織を知るべしと講義をしています。銀行制度を通して近代的経営の手法を伝授したのが渋沢でした。近代産業発展のための優秀な人材を積極的に求めた渋沢の活動の様子がわかるのです。
 
 学長の人選をめぐる早稲田大学の紛争と渋沢栄一の調停
 
 渋沢が早稲田に深く関わったのは、1917年の6月から9月までの間、学内の総長をめぐって学内が二分したことで、調停に入ったことです。大隈内閣のもとに文部大臣であった高田早苗をふたたび学長にしようとする動きと、現学長の天野為之を再任しようとすることと紛争が起きたのです。天野は、ミルの自由経済論を信奉し、ジャーナリストとして活躍した人物です。この天野を大隈・高田勢力が失脚させようとしたのです。
 
 渋沢は、明治維新以来大熊重信と親しい関係にあり、人間関係としては、大隈重信高田早苗により近い存在であったのです。しかし、対立した天野為之の商業教育には渋沢の価値観に似たものがあったのです。渋沢は対立する両者から、調停役にもっとも適した人物でした。
 
 大隈の亡くなった後の1922年からの記念事業の後援会長に渋沢がなっています。大講堂建設、新図書館、学生ホール、野球場、プールなど1925年に整備され、渋沢は基金管理委員長としての講演を行っています。さらに、1927年からの演劇博物館建設計画にも渋沢は募金活動の発起人代表になっているのです。
 
 渋沢は、官尊民卑の陋習(ろうしゅう)を矯正するために、学問の民衆的発展を行い、私学を興して経済界に人材を輩出して、国家社会の隆盛をしたと大隈を積極的に評価しているのです。また、この間に、渋沢は、早稲田騒動の後の大学運営の難しいなかで、維持員会に毎月出席して、教員の待遇や施設の改善に財政的支援をするのでした。
 
 渋沢はなぜ東京高等商業学校を持続的に支援したのか

 渋沢は、官尊民卑の克服といいながら、官立になった東京高等商業学校になぜ支援を続けたのであろうか。渋沢は一国の貧富は、商業の盛衰にありと考えました。島田は渋沢の学生へのメッセージの分析から、その鍵は商業に従事する器が必要ということで、商業教育を重視したというのです。現在の商工業者の経営者は学問を応用していないと渋沢はみていた。渋沢は、学問をビジネスに応用することの必要性を持ってが,当時では、その実現のために東京高等商業学校しかなかったというのです。
 
 飯塚陽介氏は、東京高等商業学校への影響力の基盤とその変化についてのべています。教育機関の運営に実業家が関与する正当性がいかなるものであろうか。官立の学校に実業界の渋沢がなぜ指導的な立場になりえたのか。渋沢が教育とは無関係な実業家として、学校運営への関与を正当化する制度に商議委員会制度があったことを飯塚はのべるのです。
 
 文部科学省直轄の実業専門学校に対する諮問する商議委員会メンバーに嘱託された渋沢が、東京高等商業学校の運営に関与できたとするのです。実業学校の商談委員会制度は、1884年に東京商業ではじめて導入されましたが、1900年頃までほとんど実業学校に導入されました。
 
 当時、一般的に実業家による社会事業や教育事業への支援行為が行われていました。事業家が社会貢献していくという社会的環境もあったのです。商談委員会制度によって渋沢の東京高等商業学校への関与は正当化されますが、この制度は1900年以降次第に実行性を失っていきます。
 
 1899年に実業学校令がだされ、商業学校、工業学校、農業学校、実業補習学校の設置が文部省に認められることになったのです。実業学校の設置者は、府県、市町村、産業組合等の組合、私立であったのです。1903年に専門学校の改正がされて、程度の高い実業学校は、専門実業学校になったのです。
 
 1920年には、実業学校の目的に「徳性の涵養」という教育目的が入った改正がだされるのです。これは、1917年から1919年までの従前の教育制度や教育内容を抜本的に改革していくことした臨時教育会議で行われました。すべての分野にわたっての教育改革方策の答申がされました。実業学校の改善方策もだされ、徳性の涵養を教育目的につけ加えたのです。
 
 徳性の涵養には、兵式訓練のための精神主義による国家主義的意味からと、労働運動からの友愛会的解釈とがあります。友愛会の結成は、1912年(明治45年)8月で、労働者の「親睦・相互扶助」、「識見開発・徳性涵養・技術進歩」、「地位改善」を目的に掲げました。渋沢のかかげる道徳経済合一説からの徳性の涵養ということもあり、多義的にとらえることができるのです。
 
 1900年以降に設立された高等専門学校は、商談委員会制度を確認することができないのです。1903年に制定された専門学校令は、一定の基準を文部省が決め、それを遵守することで専門学校としての地位が法定に承認されるということになったのです。
 
 学校ごとの独自性をもって発展してきた実業教育の方針転換が行われたのです。文部省の許認可と教育内容の権限が実業学校でも強まっていくのです。このような状況変化のなかでも、渋沢の東京商業専門学校の学校運営における影響力・指導性を持ち続けたという特殊性があったと飯塚はのべるのです。
 
 東京高等商業学校の大学昇格への運動
 
 1900年以降に東京高等商業学校を大学にしようとする運動が起きます。そのけ結実として、1907年に国会に商科大学設置建議案が提出され、可決されます。しかし、文部科学省は東京帝大との関係を考慮して、東京帝大内に経済学科を設置し、東京高等商業学校の専攻部の廃止ということで対応するのでした。
 
  東京高等商業学校の教官や同窓会は、東京商科大学の設置の要望でした。文部省は、その要望を再三拒否をするのでした。そして、文部省は、帝大内に商科設置と東京高等商業学校の専攻部の廃止の決定をするのでした。
 
 この決定に、高等商業学校学生の抗議が起きます。抗議の激しい高まりは、1907年に学生大会で学生総退学ということになるのでした。東京商工会議所や渋沢たちも、その解決にむけて奔走します。渋沢は商談委員の立場を利用しての文部省に抗議をし、文部大臣に東京帝大の商科併置を撤回するように具申するのでした。
 渋沢の行動によって、学生の復学と専攻部存続の決定がされて、事態は解決するのでした。1919年4月から大学令が施行されて、東京商科大学が誕生するのでした。同時に、多くの私立大学が設立されていくのです。
 
 東京高等商業学校の大学昇格問題に対する渋沢の東京高等商業学校の影響力は、同窓会と渋沢の邸宅に寝起きしていた書生の竜門会のメンバーの人的な関係であったのです。この書生たちは、独自に渋沢の思想に共鳴して、勉強会を組織していました。すでに存在していた学友会にも影響力をもっていたのです。
 
 また、同窓会にも影響力を竜門会はもったのです。飯塚氏は、渋沢が東京高等商業学校での持続的な影響力を行使できたのは、竜門会などの強い人的なネットワークであるとしているのです。渋沢の人間的な影響力が書生たちからの人脈によって、強い社会的な力になったのです。
 
 渋沢栄一の東京高等商業学校での講話内容
 
 渋沢は東京高等商業学校でどのような講話をしたのでしょうか。渋沢の道徳経済合一論の真意はどこにあったのでしょうか。この問題について、田中一弘氏は、東京高等商業学校での卒業式の講話(1885年45才から1915年75才の14回)と77才から80才までの修身特別講義の分析から明らかにしています。
 
 講話では第1に、旧幕藩時代からの商業者が社会から低くみられている状況のなかで、その地位を高め、優秀な人材が商業に寄りつくようにしたのです。このために、その名誉と使命を訴え、商業と商業者の社会的地位の向上を強調したのでした。
 第2に、渋沢は、学問に裏打ちされた実務能力の必要性を重視したのです。そして、第3に、商業道徳の力説でした。商業道徳がなければ永続性もなく、社会に害をあたえるということです。
 
 道徳経済論は、商業の活力と健全さの根拠になるというのです。経済に道徳価値を与えることによって、商業に従事する人々に自信と使命感を与え、活力を生み出すというのです。そして、道徳は経済を妨げるのではなく、むしろ経済が健全に機能するというのです。
 
 商業活動が蔑視されてきたことは、不正に富を獲得してきたことがあったからです。経済活動に道徳が不可欠になることによって、商業に従事する人々が社会的に評価されて自信をもって、経済に活力を与える活動が出来るとしたのです。経世済民ということは、民間の事業活動こそが担い手になると渋沢は考えた。田中一弘氏はこのようにのべるのです。
 
 学問に裏打ちされた商業活動は、高い実務能力をもち、商工業を発展させることによって、社会的に評価されていくと考えていたのです。つまり、そこでは、旧来の習慣に基づく商業とのせめぎ合いになるのです。理屈は高尚だが、実際に役にたたないということでは、学校の存在の意義が問われるのです。商業者として利益が出るような学問に裏打ちされた実務能力をもたねばならないとしているのです。
 
 渋沢が本格的に道徳経済合一説を主張した時期
 
 渋沢が道徳経済合一説を明示したのは、69才のときです。1909年の竜門社の社則改定のときであったのです。それから、5年後の1914年の東京高等商業卒業式の講話で、利益にのみに走るのではなく、仁義道徳と利殖の一致をのべているのです。このとき、渋沢が74才です。この前年に、大学昇格問題をめぐっての文部省と東京高等商業学校との紛争により、学生総退学という問題が起きています。
 
 東京高等商業学校の創立40周年で、渋沢75才のときの講話では、商業の地位向上を喜ぶと同時に、利益のみに走る実業界に道徳欠如に憂えています。そこでは、商業教育における仁義道徳の必要性を強調したのです。渋沢は1917年から1919年に修身特別講義を東京高等商業学校でするのでした。それは、道徳と経済の一致、知識と道徳の密着という講義をするためでした。
 
 渋沢の私立商業学校と官立商業学校の支援
 
 渋沢は、私立の商業学校の卒業式に講話をするなどの関与をしたのです。1903年の専門学校令によって、私立の高等商業学校が生まれたのです。商業教育の体系は、実業補習学校、商業学校、高等商業学校になるのでした。渋沢は、私立京華商業学校、私立大倉商業学校、高千穂高等商業学校等の卒業式に講話をしています。
 
 さらに、渋沢は官立の名古屋商業学校や横浜中等商業学校の支援をしているのです。1918年に名古屋商業学校では、商業教育の必要に高尚なる人格養成の必要性を説いているのです。
 
 1910年に横浜商業学校の講話では、アメリカのビジネススクールを事例に、商工業者は秩序ある教育をうけていることを紹介しています。そこでは、学問と常識の融合、精神修養を怠らないように生徒達に講話しているのです。渋沢が広く商業学校の発展の気持ちをもっていたことは、私立の商業学校での講話や官立の中等教育学校の講話をしていたことからも伺うことができます。
 
 渋沢の商工業の人材育成を大学や中等教育に求めたことは、個別の企業と大学の利益の関係ではなく、社会的に人類的課題のなかで、学問の自由、教育の自由を大切にしていくことが必要であったからです。
 現代のように産学連携が盛んにいわれ、科学技術の立国論がいわれることが国際競争力という個別の企業利益重視ということではないのです。このことについて、平成15年4月の新時代の産学官連携の構築に向けての審議会のまとめが大切な視点を問題提起しています。
 
 これは、科学技術・学術審議会、技術・研究基盤部会、産学官連携推進委員会の合同審議会のまとめです。科学技術立国ををめざす産学官の構築にむけての答申です。大学の使命のなかに、学術研究の推進や高度の人材養成と同時に、社会的貢献のなかでの産学官連携の推進をうたっています。
 
 大学の社会的貢献は、大学の知的財産の国民への還元ということからの生涯学習的機能をもっています。国民的な還元というなかで、科学技術創造立国をめざす産学官連携という独自の課題をうちだしたのです。大学の使命としての社会的貢献は、地域コミュニティや福祉・環境問題といったより広い意味での社会全体の発展への寄与です。

 また、産学官連携の推進において、人材養成・活用面を審議会は重視したのです。産学連携は、大学の公共性という性格と、企業の私的利益性からの矛盾の問題をどう統一していくかということです。
 
 大学は、教育や研究を通じて広く社会の発展に貢献することを本質的な役割をもち、公共性の高い機関です。一方、企業の本質的な行動原理は私的経済利益の追求です。教職員が企業との関係で有する利益や責務が大学における教育・研究上の責務と衝突する状況が産学連携のなかで生じ得るのです。このような状況が「利益相反」「責務相反」と言われるものです。
 
 答申では、教育を受ける学生の学問の探究の自由性、学問の選択の自由という教育面の最大限の配慮を強調しています。産官学連携活動の重視によって、学生の教育を受ける権利の侵害、学問の選択の自由がおろそかになれば、大学としての大きな問題です。産官学連携は学生教育の充実という側面から問題を深めていく課題があるのです。
 
 渋沢の女子教育の奨励理念

    渋沢は、日本女子大学校に対する支持と尽力を積極的にしたと山内雄気氏はのべるのです。1888年に士族や貴族の子女を対象に東京女学館の創立にかわわりました。そして、1901年に大衆の子女を対象とする日本女子大学校の設立と運営にかかわったのです。
 
 渋沢の女子教育の理念は、女性の社会進出のためではなく、家庭と西洋式の家庭外の活動をしていく良妻賢母であったのです。渋沢は女子教育普及のために各地に寄付金を募る巡行の講演をしています。現代にみる女性の社会進出ということが家庭外の活動に限られていたということで、積極的に専門性をもって職業に携わるものではなかったのです。
 
 徳川家達渋沢栄一らを中心に1919年に設立した協調会は、 労働者学校として社会政策講習所と労働学院を開設しています。この労働者教育と渋沢がどのようなかかわりがあったのか、友愛会を創立した鈴木文治との関係も含めて、渋沢の人づくりという側面を労働者教育から深めていく課題があります。
  このなかで、労働者の権利問題としての労働組合員、団体交渉権の問題、さらに失業問題や貧困問題なども含めて、みていくことが必要です。当時の大正デモクラシーのなかでの労働運動や農民運動などの関連も含めて考えていむ課題があるのです。また、日本が植民地にしていった朝鮮半島や台湾の問題も資本主義の道徳問題、論語と算盤としては大切な課題なのです。
 
 

 

現代社会の退廃問題から渋沢栄一に学ぶ

 

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

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 現代社会の退廃問題から渋沢栄一に学ぶ
 

神田嘉延

 
 はじめに
 
 渋沢栄一は、新札一万円の人物に選ばれました。彼は経済人のモラルとして、「論語と算盤」ということで、道徳経済合一を論じた人です。その論は、経済を拝金主義の私欲ではなく、公益を考えたのです。そして、彼は、教育や福祉などの社会貢献を積極的にしました。
 
 現代社会は大企業の経営者の不祥事が相次いでいます。信じられない私欲に走っている状況が多いのです。また、政権幹部、官僚の不祥事も相次いでいます。社会全体のリーダーのあり方が大きく問われているのです。さらに、拝金主義が横行して、次から次へと詐欺事件が起きているのです。このような状況でお金の意味を人間社会のあり方から考えることは重要です。
 
 薩摩の郷中教育では、偽りを言わず、身に私を構えず、心すなおにして、上にへつらわず、下をあなどらず、人の艱難(かんなん)を見捨てず、温和慈愛にしてと節義を申し合わせていたのです。(出水兵児修養の掟より)昔むかしから、日本人の武士道のなかには、うそをつかない、困難な人を助ける、いじめをしない、私欲に走らないということを子どものときから教えられていたのです。

 経営者のモラルとして論語と算盤を書いた渋谷栄一から学ぶことが現代社会は多いのです。渋沢 栄一は、明治、大正、昭和初期に、日本の経済人のリーダーの位置にたった人です。1840年3月16日に生まれ、1931年11月11日に他界しています。

 渋沢は、第一国立銀行東京証券取引所を設立し、多種多様な企業の設立・経営に関わった人物です。王子製紙東京ガス東京海上火災保険、帝国ホテル、麒麟麦酒東洋紡績などその数は500以上といわれる会社設立にかかわっています。渋沢栄一は、財閥を作らなかったことです。それは、私利を追わず公益を図るという彼の考えからです。
 
 渋沢は、研究機関や大学の創立に深く関わっています。教育理化学研究所の創設者でもあります。東京商法講習所(後の一橋大学の前身の基盤)を創立し、新島の同志社設立に積極的に支援しました。
 
 さらに、日本最初の福祉施設である東京養育院を設立した人物です。社会活動・政治活動では、普通選挙をめざす活動や世界平和のために積極的に実業家として参加しました。
 渋沢 栄一の思想は、道徳経済合一論です。その内容は、「論語と算盤」という書物のなかで説いています。渋沢栄一は、論語を基本にして、経営者を対象にしての講義をしています。(論語講義として講談社の学術文庫(1)-(7)にまとめられていますので参照)。
 
 渋沢栄一の師は富岡製糸の初代工場長になった人です。
 
 渋沢栄一は、1840年、現在の埼玉県深谷市です。生まれた実家は、養蚕などで大成功した 名字帯刀を許された富豪農家でした。渋沢栄一の師は、尾高惇忠(おだか あつただ)です。渋沢栄一より10歳年上でした。かれは、1847年から1868年ごろまで自宅で塾を開いていました。
 
 渋沢栄一が尾高塾に通ったのは7歳です。その後数年間学んでいます。渋沢栄一の生まれところから尾高塾の距離は、およそ1キロメートルです。この道は、栄一が論語を習いに通ったことから、「論語の道」と呼ばれるようになりました。

 尾高の思想は、陽明学知行合一でした。彼の教育者としての力量が社会的に大きく発揮されたのは、官営富岡製糸場でした。初代工場長の尾高は「至誠如神」(至誠神の如し)の四文字を経営理念としたのです。その四文字の意味は、「至誠神の如し、才能があってもなくても、素質があってもなくても、たとえそれがどんなに小さくても、誠意を尽くせば、その尽くしている姿そのものが神と同じ、神の如し。何か事あるごとに至誠神の如しということを思う」ということです。
 
 攘夷倒幕から幕府使節団のパリ博への青年時代
 
 渋沢栄一は、 幕末の激動する時代に青年期を過ごしていました。多感な青年であった渋沢は、1840年アヘン戦争でのイギリスの清国に対する過酷な要求を知りました。この国際情勢のなかで、日本の植民地危機観をもったのです。今の幕藩体制では日本は植民地になると考えました。1863年に、高崎城のっとりを企て、武器を購入するのでした。

 かれの考えは、高崎城をのっとり、その勢いで横浜の外国人居留地を焼き払い、攘夷のための決起を計画するでした。計画の段階で、従兄弟に未然に知られたのです。親族との激論によって、決起が見送られました。
 
 その後のかれの人生は、大きな転機を迎えるのでした。幕府に計画を知られるのをおそれた親類は、伊勢参りの理由で深谷のふるさとを離れさせたのです。実際は伊勢ではなく京都にいくのです。偶然に京都で一橋家家臣平岡円四郎と出会い、日本の未来に対する考えで意気投合するのです。
 
 渋沢は、この出会いによって、自分が倒そうと思った幕府の一橋家に仕官する運命になるのです。これは、1864年の出来事です。かれが、二四歳のときです。1866年2月慶喜の弟の徳川昭彦団長とするバリの万国博覧会使節団の経理担当として随員することになる。二七歳のときです。
 
    新政府の官僚ではなく、実業家の道へ

 渋沢栄一は、ヨーロッパ視察で、先進国から学ぶことの必要性を痛感しました。近代国家での銀行や企業の合本組織である株式会社を知ったのです。そして、社会的な営利活動の重要性に関心を示すのです。
 
 その後に、この経験が基で、士魂商才の経営者として、渋沢の経理実務能力が評価されていくのです。この経験と尾高から論語を学んだことから、士魂商才の経営理念を模索していくのです。 幕府の崩壊後、慶喜の近くにいため、静岡藩に在住しました。静岡で合本組織である商法会所をつくるのです。これは、銀行と商事会社を兼ねたものです。
 
 1871年に大蔵省の仕官をさそわれ、井上馨のもとで働くことになりました。そこで、銀行条例をつくるのです。大蔵省の勤めはわずか2年ほどでした。井上薫汚職問題なども発覚して、かれにとって、官僚の仕事は合わなかったのです。

 1873年5月(明治6年)に大蔵省を去り、実業家の道へ行きます。このときは、井上馨山県有朋など汚職問題で江藤に追求されたのです。かれらは、辞職に追い込まれています。新政府の腐敗問題が深刻になっていた時期です。 三井組と小野組組は、明治6年8月に、国立銀行条例による共同出資での設立が、第1国立銀行でした。渋沢栄一は、総監役として経営に参画しました。

 このとき、小野組は、全盛をほこっていました。しかし、激しい国際経済からの為替の変動は、小野組の経済基盤を一挙に突き落とすのです。為替御用を担当していた小野組は、金価格の騰貴によって、急激なインフレに直面するのです。それは、明治7年8月31日の出来事でした。国債の膨大な発行が銀行紙幣と金の兌換のバランスが大きく崩れ、信用不安の結果で、巨大な損失を受けるのでした。
 
 第1国立銀行の再生と渋沢栄一

 小野組は、公金を無期限無利子で預かった特殊銀行でもあったのです。銀行からの借金により、営業の手を広げていた小野組は破綻するのでした。第1銀行の経営も怪しくなり、小野組と第1銀行の関係を整理したのは、政府であったのです。

 明治7年11月に大蔵省は、各府県に小野組に預け入れていた金銭をひきあげるように命じたのです。小野組は抵当をすべて銀行にさしだしました。この結果、第1国立銀行の実損はわずかでした。第1国立銀行は、三井組の支配権になり、明治8年1月に渋沢栄一が監視役の総監から頭取に就任するのでした。

 そして、第1国立銀行の改革を行うのでした。西園寺をはじめ他の株主との協力によって、銀行の総株を250万株から百万株を減じました。三井との取引を一般方法に改めることにしたのです。渋沢は、頭取としての経営権を確立していくのでした。

 この時代の銀行は、民間株主の共同出資による経営です。国立銀行条例によって、全国に次々に民間の銀行が生まれ、設立の許可順にナンバーがつけられていきました。全国で153の国立銀行が生まれるのです。国立銀行条例は1896年(明治29年)に廃止されて、渋沢が頭取をしていた第1国立銀行は、株式会社第1銀行となったのです。

  日本最初の福祉施設である東京養育院の設立
 
 渋沢は、1874年(明治7年)11月に東京府知事からの共有金の取扱りを依託されました。明治5年まで町会所が保管していたものが、町会所の廃止で東京府庁の管理になった。本来、東京市民の共有財産であったので、東京営繕会議を設置して、管理することとなりました。

 会議所は、ガス灯の設置、道路・橋梁の整備などをしましたが、国賓としてロシア皇太子が日本に来ることで、数万人の路上生活者が首都の東京にいるのはよくないということから、共有金で保護することとなったのです。これが、日本最初の福祉施設である東京養育院の設立です。渋沢栄一は、東京会議所の委員に選ばれ、府知事から委嘱されて、養育院の監督もするのでした。
 
 養育院の子ども達の発達の様子

 渋沢は、養育院を視察して、入所している子どものことを語っています。養育院の子どもは親から捨てられた子どもであるということから、食物と住居が成長にとって悪影響となっていたことがわかります。最も貧しい子どもよりも発育が悪いし、挙動が活発でないし、なんとなく気の重いとっころがあります。

 渋沢は養育院に入った貧困の子どもを次のように観察しながらのべています。栄養不足のためかと思いましたが、一般世間の温かい家庭に育つことがないことに起因しているのです。すねる、はねる、甘えるという自由さがないない。
 笑うのも泣くのも、自分の欲望を父母に訴えてこれを満たし、あるいはみたさんとするひとつの楽しみがないのです。誰に頼ろうという対象もなく、自然に行動が不活発になり、幼いながらも孤独のさびしさを感じているというのです。それが、子どもの発育に大きな関係があるのではないかを知りました。養育院の子ども達は、家族的楽しみを受けさせることが最も肝心なことであるとのべているのです。
 
 養育院事業の困難性
 
 渋沢が養育院で最初に直面したのは、厳格な取り締まりではなく、普通の家庭のように、家族的ケアのとりくみの組織化でした。岡山孤児院を創設した石井十次は1892年に東京養育院を訪問していますが、何の為すことをせずに養われ、働く人々が窮民のなかから選んでいるのです。俸給はわずかであったことから、その難しい現状を知ったのです。
 
 石井は、東京養育院をみてきたことによって、独自に労働によって自活できる方法の確立を探り、また、東京市営の公的施設の職員ではなく、子どもを援助指導するひとたちをキリスト教慈善事業の人としたのです。 渋沢はこの道ではなく、慈悲の心を国民全体がもつ必要があるということから、社会政策による国家の公営事業としての養育院に専念したのでした。
 
 養育院は福祉事業全体を包容
 
 東京養育院は、公営として、障害児教育施設、窮民を一時的に保護する施設、高齢者の施設として、福祉事業分野を包含したものでした。養育院の出発は貧困者の老幼混在施設であったのです。在院の人数が増えることによって、児童と成人、障害児童施設に分離するようになったのです。

 東京会議所の事業は、1876年にすべて東京府に移管されましたが、渋沢は、院長職を続けます。渋沢の経済を担う経営者として、慈善事業は不可欠な仕事であったのです。彼は、終生持ち続けたのです。
 
 養育院の経営は、東京会議所の所有地を売却して、第1国立銀行と協定を結び、年利6%を購入しての収益で、運営していく方法を確立していくのでした。社会事業組織の資金保全や運用を第1国立銀行で引きうけることを確立していくのでした。年利9%ことで支援するこもあったのです。
 
 渋沢は、養育院の廃止論にも闘ったのです。

 窮民が生まれるのは、自由主義経済の必然的結果であり、社会政策として、その汚点が生じないようにすることは、資本を提供する第1銀行の経営者たる自分の責任として自覚していたのです。資本・経営の立場にたつ渋沢は、経営者の社会的貢献としての福祉事業を社会的矛盾の解決の一つの方法と考えていたのです。
 
 そして、養育院は単なる収容施設ではなく、社会へ可能な限り社会復帰できるような施設として、教育を重視したのです。自活していくにはほど遠い窮民の児童教育に特別に力を入れたのです。
 
 一橋大学の前進の商法講習所の設立
 
 1875(明治8年8月)に東京会議所は、商法講習所を作ります。この提案は森有礼であり、その提案を助け、尽力したのが、渋沢栄一でした。アメリカ人教師ホイットニーを雇うことになりました。私塾形式の商法講習所として出発しました。

 学校管理運営の費用は、共有金から支払ったものです。しかし、翌年1876年に東京市の所轄になりますが、1879年に予算の半減になるのです。このために、渋沢は、独立した商業教育の必要性を痛感したことから、農務省の補助をとりつけました。1884年農商務省が管轄する学校となり、1887年に文部省の高等商業学校になっていくのです。

 16年間努めた矢野二郎校長は、アメリカの商業教育を模範として、学区内に銀行、郵便局、仲買、保険などを設けて実地教育、商業に必要な学習と実地教育をしたのでした。渋沢は矢野の実践教育を高く評価したのでした。帝国大学に対して低い位置にあったことから学問重視の批判が学内にあり、矢野は辞任し、1896年に学科課程が細分化されたが、商業道徳を正規の科目にしたのでした。

 渋沢は、旧来の経験よりも新しい学識が必要と考えていましたが、同時に人格や道理を身につけることの重要性を説いたのでした。東京高等商業学校以外にも私立商業学校、商業補習学校、中等商業学校など様々な商業学校の支援を渋沢はするのでした。

   渋沢は、他の大学の創立にも尽力しています。同志社大学創立と渋沢との関係は深い。渋沢は、新島の同志社設立に積極的に支援したのです。1897年に日本女子大学の女子教育活動の援助もするのでした。女子教育にも積極的にかかわったのです。
 
 経済人としての外交活動と平和教育の推進

 渋沢は、民のための外交を願っていたのです。日清戦争後の賠償金を整理公債や軍事公債にあてるべきではないと主張したのです。それらは、物価騰貴、投機熱になり、恐慌の引き金になるのではないかと一時的な貨幣の流入を警戒したのです。
 
 渋沢は、経済を自由放任、自由主義の立場から、賠償金を産業奨励に使うことに反対したのです。また、当時の欧米情勢からの脱亜入欧施策の金本位制度導入にも反対したのです。日清戦争後の軍備拡張によって、貿易収支が大幅な入超になり、外債による外資導入になったのです。渋沢は外債発行ではなく、民間への外資導入を提案していた。安易な公的な資金導入は、長期的に日本企業の国際競争力を弱めるというのが渋沢の考えであった。

 日露戦争後に、日米経済関係に大きな摩擦が起きていくのです。政府は軍備増強路線をとっていくのです。日本人移民排斥という人種差別が起きるのです。これに対して、渋沢は、組織的に行うために、商業会議所をとおして民間経済外交を積極的に展開したのでした。民間経済外交は、日本商品の流通にかかわる関税、輸送手段の値上げや商品にたいする苦情や批判にこたえるために業界レベルで対応するなど関心が高かったのです。

 1921年に81才の高齢にもかかわらず、ワシントン会議にオブザーバーとして参加しています。民間経済外交として、太平洋の平和と進歩に貢献するためであったのです。外相は平和外交推進役の幣原喜重郎で、首相は原敬であった。
 
 ワシントン会議終了後は、アメリカの対日感情が好転して行きます。大正デモクラシーのもとに世界平和を唱える国際交流が活発になります。しかし、第一次世界大戦の景気にによって、実業界に平和に対するモラルが低下したのです。

 1924年に排日移民法アメリカ議会で通過するのでした。日本国内に反米感情が増していくのです。アメリカの雰囲気が保護主義と結びつき日本に経済制裁を起きないように渋沢は努力するのです。普通選挙をめざす活動や世界平和のための社会活動などにも参加し、国際交流を推進する平和教育構想をうちだすのです。
 渋沢は、意識的に国際交流教育活動をとおして、日本の国際社会の存在を主張していくのです。世界は、常に進歩発達していくので、それに対応していくことが国際化ということで、実業教育を重視したのです。渋沢は、論語を基礎としての徳育を実業教育と関連させました。
 
 しかし、新島の徳育論を評価し、同志社を積極的に支援したことにみられるように、キリスト教批判になったわけではなく、実業と倫理の普遍性ということを大切にしたのです。ここに、世界と積極的に文化交流していて、国際協調主義の立場をとっている渋沢の姿勢がみられるのです。個人主義と国家的団結、経済問題と社会政策、実証主義の気風と宗教的理想主義、社会の現実に応ずべき教育と道徳教育などの世界がかかえている困難な課題は、西洋と東洋を問わず、世界文明がかかえている普遍的な解決すべき問題としているのです。そして、第一次世界大戦を契機として、国際の道徳として、弱肉強食の競争主義からの国家エコイズムの克服という平和教育の課題をあげているのです。
 
 労働運動に対応しての協調会の設立
 
 1919年に協調会が設立されますが、渋沢栄一は副会長になっています。このとき79才です。労働運動が高まっていく時期に渋沢は、資本と労働との調和という協調主義の立場をとったのです。経営側と労働者側の双方から委員を出して問題の解決していく方法を賛同したのでした。労働争議の調停機能を渋沢は期待したのでした。

 1916年に、喜寿を迎える76才のときに第1銀行の頭取の職を辞して、実業の世界を引退しているときです。渋沢は労働組合なしに正しい労使関係はないと考えていました。サミュエル・ゴンバースが指導するアメリカ総同盟の指導のもとに労働者の地位向上、賃上げ、権利確立に努力している運動に理解を示していたのです。日本の労働運動の指導者の鈴木文治に1915年にサミュエル・ゴンバースにあわせるために渡米させるほどであった。

 協調会は、労働者に対する講習や講演会を展開し、労働学校の経営を行った。また、政府に対する労働政策の建議や職業紹介をするのでした。さらに、労働問題に対する調査活動や雑誌の発行などもしたのでした。そして、欧米の労働問題の翻訳もしたのでした。協調会の活動は多面にわたっていたのです。
 
 渋沢は協調会をとおして、労使の食い違いを道徳的に、人情的に解決しようとしたのです。当時の経営者は、労働組合を危険視していたので、渋沢のような考えは少数派でしたが、大正デモクラシーの影響のもとに、社会政策を重視する新官僚が育っていった。内務大臣の床次竹二郎を中心に、渋沢日本工業倶楽部に参加する財界人、桑田熊蔵法学博士、松岡均平法学博士等の学者も加わりました。
 
 推薦された大日本総同盟友愛会の鈴木文治は、労働組合抜きの協調会であるとして、参加を拒否したので、労働代表は加わっていない。
 
 青年団運動の精神的支柱になっっていた田沢義鋪は、渋沢の強い意向で協調会の常務理事になりました。かれは、労務者講習会ということで、青年労働者の修養に力を入れた労働者教育活動を積極的に推進するのでした。講習の受講者は、修養団体に入団して、団員を拠点に各企業で活動するのでした。
 
 協調会が経営していた中央労働学園は、戦後に法政大学に移管され、社会学部となり、協調会が収集した資料は、法政大学大原社会問題研究所が管理して、公開しています。

渋沢栄一の思想を論語と算盤からみる
 
 渋沢の士魂商才とは
 
 渋沢の学問論は、日常生活の指南です。そえは、人生処世上の基準になり、実際を離れたものではないとするのです。 渋沢栄一は、人の世に立つには、武士的精神が大切と考えたのです。商才がなければ経済が自滅するとみたのです。士魂養成は論語が根底にあるとしたのです。渋沢は、論語の教訓に従って、商売し、利殖を得ることができると考えたのです。
 
 かつて、商人のなかには、商売に学問は不要であるという見方が強くあったのです。むしろ、商売にとって、学問は、害になるとしたのです。渋沢にとって、論語の教えは、広く世間の効能があるとみたのです。
 
 論語は元来わかりやすいものです。学者が論語の解釈をして、むずかしくしていると渋沢はみるのです。商人や農民は論語を手にすべきではないというのは間違いです。因果の関係は、ある一定の時期に達するまでは、人力で到底形勢を動かすことができないのです。形勢をみて、気長に時期の到来を待つのです。
 
 常識とはなにか。それは、智恵、情愛、意志の三者が均衡に保ち、発達していくことです。智恵は、物を識別する能力、善悪是非の識別、利害得失の鑑定、利あることを利ありと見分ける力をもつことです。どんなに学問であっても、善悪是非、利害得失の鑑定に欠けた人であれば、常識のない人間です。
 
 渋沢は問いかけます。人格の標準はどうなのか。人と獣はどう異なるのか。人は徳を修め、智を啓(ひら)き、世に有益なる貢献を為すことによって、真の人となる。元気とはいかなるものか。いたって大きく、いたって強く、道理正しく至誠をもって養って、それがいつまでも継続することです。
 
 ところで、算盤と権利の関係を考えていくうえで、論語主義は、権利思想がないというのは誤りであると渋沢はみるのです。キリスト教の愛と論語の仁とは同じです。自動と他動の違いがありますが。仁にあっては、師に譲らずという論語の思想です。人間行為の定規は、王道あるのみです。
 
 合理的経営は道理をもって処するのです。論語をもって商売上のバイブルとしてきたのが渋沢です。一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益していくのでなければならぬという見方です。多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して継続して、繁昌しなければならないとしたのです。渋沢は、このことを常に心がけたのです。
 
 渋沢にとって、武士道は実業道です。日中間は、同文同種の関係です。隣接する位置よりも古来より思想、風俗、趣味の共通する点があります。相愛忠汝(そうあいちゅうじょ)の道をもって交わるべしとしたのです。渋沢にとっての隣国たる中国は、バイブルであった論語を生んだ国であり、文化、思想の共通性からの相愛忠汝の国際関係は重要なことであったのです。
 
  渋沢の思想は道徳経済合一論です。かれは、経済人として、日本の近代の形成における公益追求者であったのです。渋沢栄一の思想の説得力があるのは、経済人として、実践的に数々の成功を遂げたことが大きいのです。
  
    自己の適材適所と処世・信条
 
 渋沢にとって、人は平等なりという根本的な見方をもっています。適材適所に置くということです。適材適所の配属は、道具を使って自分の勢力を築こうとするものではないのです。適材適所は、国家、社会に貢献していくことが目的です。
 従って、この信念のもとに人物を待つとしています。巧みに人をあざむく色彩をもって、人をはずかしめ、自分の思うままの家来として、人を封じ込めてしまうようなことは決してしないことを渋沢は強調しているのです。
 
 活動の天地は自由でなければならないというのが渋沢の信念です。自由自在に大舞台に乗り出して思うままに活動してくれることを願っているとするのです。人は節制ある礼譲ある平等でなければならないとしています。お互いにおごらず、あなどらず、互いに相許してわずかなことまで乖離することがないように勤めるように渋沢は努力するとしています。

 争いは決して排除すべきことではないと渋沢は考えます。処世のうえにも、発達進歩のために必要なことです。むしろ重要なことは、その解決方法が真髄なのです。渋沢は、争いによって、問題が解決していくこととして、積極的に位置づけているのです。かれが、晩年に労使の話し合いを制度的に提起した協調会の創立に尽力したのもかれの争いを積極的にとらえようとする思想からです。

 渋沢は、自己の維新前のことを振り返りながら逆境について考えるのです。真の逆境とはいかなる場合をいうのでしょうか。時代の推移、常に人生の波瀾のあることはやもえない。逆境は絶対にないことはありません。人為的逆境であるのか。自然的逆境であるのか。どのように考えますか。
 
 自然的逆境は、自己の本分であると覚悟するのが唯一の策です。足を知り分を守ることです。天命であるからしかたがないと考えるのです。この場合も一般的には、人為的に解釈していくことが多いのです。人間の力でどうにかなるものであると考えると苦労が増すのです。

 人為的逆境の場合は、何でも自分に省みて悪い点を改める外ないのです。それは、自動的なもので自分からこうしたい、ああしたい、こうしたいと奮闘すれば、大まかにその意のごとくになるものです。しかし、多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとせず、手前の方から故意にねじけた人となって、逆境を招くようなことになるのです。
 
 渋沢が青年で最も注意すべきことに、喜怒哀楽の問題であるとのべます。喜怒哀楽の調整が大切なのです。酒を飲み、遊びもするが、淫せず、やぶらずということを常に肝に命じていたのです。何事も誠心誠意することです。
 
 わざわいがやってくるのは、多くは得意になっているときです。調子にのるとわざわいをつくりやすいのです。得意時代は気を緩めず、失意のときは落胆せず、道理をもって処する必要があると渋沢はのべるのです。
 
 渋沢は、大事と小事のことを考えることも大切としています。小事は、軽く考えがちになるのです。大事は、いかに処すべきかを精神を注ぐものです。小事については、頭から馬鹿にして、不注意にやり過ごしてしまいます。小事かえって大事となるのです。大小にかかわらず、性質ををよく考慮して、処するように心がけることが必要とみるのです。
 徳川家康の遺訓は、処世の道を説かれていますが、それは、論語が出たものとしてのべています。家康の有名なことで、「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」「己を責めて人を責むるな」「不自由を常に思えば不足なし、心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すばし」は論語から出たものです。
 
 
   智慧と情の調和
 
  渋沢は智慧と情の調和は次のように考えます。功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面は遠くなります。智慧の弊として、術数に陥り、欺瞞詐欺を生ずる場合があるのです。情は、自己本位をもって他人の迷惑や難儀なぞ何ともおもわね人間になってしまうことに対するひとつの緩和策です。
 
 情の欠点は、感情の弊が起きます。ここに確固たる意志が大切になってくるのです。智慧と情愛と意志を適度に調和したものを大きく発展できる人が常識をもっていることになります。誠意がなく、所作の巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
 智恵、情愛、意志の三者が均衡に保ち、発達していくことです。智恵は、物を識別する能力、善悪是非の識別、利害得失の鑑定、利あることを利ありと見分ける力をもつことです。
 
 智は策術や功利に走る欠点があります。それは、仁義道徳から遠くなります。人間世界から情をはずしたらなにもかも極端に走るのです。情の欠点は、喜怒哀楽より生ずるのです。事柄は変化が強いので、感情に走りすぎるのです。
 意思は、情を抑制します。意志は精神作用中の本源です。強固な意志であれば、人生においてもっとも強みになります。意志の強さは頑固もの、強情なるものと異なるのです。意志の強固さと聡明なる智恵を加味し、これを調節する情をもって、完全なる常識となります。
 
 どんなに学問があっても、善悪是非、利害得失の鑑定に欠けた人であれば、常識にない人間です。功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面は遠くなります。智慧の弊として、術数に陥り、欺瞞詐欺を生ずる場合があるのです。

 情は、自己本位をもって他人の迷惑や難儀など、何ともおもわね人間になってしまうのです。情の欠点です。ここに確固たる意志が大切になってくるのです。智慧と情愛と意志を適度に調和したものを大きく発展できる人が大切になってきます。 心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすいのです。誠意がなく、所作の巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
   真正の利殖法とはなにか 
 
 真性の利殖法について、渋沢は考えます。仁義道徳がなければ決して利殖は永続きはしないというのです。空理空論なる仁義では、国を元気にしないし、物の生産力を薄くしてしまう。
 物を進めたい、増したいという欲望は常に人間の心にもたねばならない。しかし、その欲望は道理によって活動することが必要なのです。道理と欲望は、相密着していることが大切なのです。
 
 孔子も生財と善意の競争を強調していると渋さはのべます。孔子の貨幣富貴観 仁義王道と貨幣富貴を統一して孔子は考えています。この二者は両立しがたい考えがちですが、論語の正しい解釈で問題が解決するのです。 大学には生財の大道をのべています。一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係から政務をのべているのです。
 
 競争には、善意と悪意があります。朝早く起き、善い工夫をなし、智慧と勉強とをもって打ち克つのはよい競争です。他人の企てたことをかすめとることに翻弄することは、悪い競争です。悪質なる競争を避けることは、論語の勉強です。
 
 渋沢は、利の行為において、仁義の重要性を指摘しているのです。利にとって、仁義は絶対的な条件なのです。利は、公利を害せぬように道理に照らすというのです。仁義道徳がなければ決して利殖は永続きはしないのです。空理空論なる仁義では、国を元気にしないし、物の生産力を薄くしてしまう。

 商業は、相愛忠恕です。忠恕(ちゅうしょ)とは、孔子の唱えた人間の最も本能的で基本的な徳です。「忠」は人間が自然に持っている真心です。「恕」は人間が自然に持っている思いやり)の道をもって交わるべしというのです。
 
  利殖は、仁義道徳を基礎にしていなければ、永続しないと道徳経済論を強調したのが渋沢栄一です。金銭欲による弊害の罪は金銭からではない。金銭は、社会の力を表彰するのです。これを貴ぶのは正当です。必要の場合に、よく集めてよく散じて社会を活発にします。
 経済界の行為は、世の中の進歩を促すものです。金銭を善用するという仁義道徳が経済人に求められているのです。以上にように、道徳と経済を合一することによって、経済の行為が社会的な貢献になると渋沢はのべるのです。
 
 
  人間を見る目
 
 孔子の遺訓の人物観察は、視、観、察です。視は外形からみるのです。観は、心眼を開いてみるのです。その人の安心はいずれにあるかみる必要があります。その人は何に満足して暮らしているか。その行為の動機の精神が正しくなければ、その人は決して正しい人ではないのです。行為と動機と満足する点の三点がそろっていれば、その人は正しいのです。

  動機と結果の関係があります。心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすい。誠意がなく、振る舞いの巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
 参考文献
島田昌和「渋沢栄一社会起業家の先駆者」岩波新書
木村昌人「渋沢栄一・民間経済外交の創始者中公新書
渋沢研究会編「公益の追求者渋沢栄一」山川出版