社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ケア労働と民主主義の生涯学習 -ケアコレクティブのケア宣言を読んでー

       ケア労働と民主主義の生涯学習ーケアコレクティブのケア宣言を読んでー
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 コロナ禍でのケア労働の再評価

 コロナ禍で社会的にケア労働の重要性が非常に高まっている現状です。どんなに自立しても人は一人で生きて行けないのです。それぞれの社会的な役割をもって、支え合いながら人々は生きているのです。ケア労働は、支え合う社会基盤であるのです。
 しかし、ケア労働に携わる人々は労働力不足と過酷な労働、低賃金という状況のなかで、賢明になって社会的役割を果たしています。ケア労働を充実していくには、社会的な参加民主主義の充実が不可欠です。複雑化し、官僚化していく社会のなかでは、差別と偏見と重なって、本来の支え合いべきことが、社会から、地域から、家族から疎遠の場へとおしやられ、人間らしく生きることが奪われていることがあるのです。ケア労働には、個々の意思を尊重して、人間らしく生きていくために、ケア労働を受ける人、家族、地域での参加民主主義が求められるのです。
 ケア労働は、本質的に公的なセクターが支えていくものです。従って、国や自治体の公務労働または、公務労働に準じる社会福祉協議会社会福祉法人、非営利の協同組合、PO法人など担っていくものです。
 優しく強い経済をつくっていくうえで、地球危機に対する再生可能なエネルギー施策などの国家の役割、経営者の社会的貢献意識や働く人々のイノベーション意識などは大切ですが、最も重要なことは、ケア労働など人間らしく生きていくための公的な福祉と教育の基本的条件が求められると同時に、それを支えるための民主主義的参加が必須になるのです。 
 少子高齢化のなかで、福祉分野の社会保険や国家財政支出の比率も増大していくことと同時に、財政の収入と支出のバランスが大きく崩れて、国家の赤字財政が大きく膨らんでいる現実もあります。ケア労働を社会的に充実していくためには、公的な社会保険や国家財政、税制のあり方が大きく問われる時代にもなっています。
 官僚的傾向や財政赤字の現実のなかで、公的分野を改革と称して、ケア労働の公共性を否定して、利益追求による市場万能主義の新自由主義がはびこっているのも現実です。
 ケア労働は、民営化されることによって、利益追求の市場万能主義に陥れば、差別と貧困化、さらに偏見と孤立化が進んで行きます。この結果、社会を担っている多くの人々が不安とやる気、社会的なコミュニケーションを損ねていくのです。また、社会的に治安の悪化も繋がります。ここでは、安心で働き、生きがいをもって、イノベーションをしていける社会的基盤が極めて弱くなって、冷たくもろい社会になるのです。それは、人々が安心して、未来に向かっていく強い経済にはなりません。
 ケア労働は、保育園・学童保育などの子育て援助労働、病院や保健所、老人ホーム・介護施設、精神・生活・児童等の自立支援施設、社会的ハンデキャップをもっている人々の支援労働や教育労働、家事援助労働者など、様々な分野で社会的な支えをしているひとびとが居るのです。この労働が充実してこそ、差別と貧困を克服していく民主主義的な社会が充実していくのです。

 

 イギリスのジエンダー・フェミニズムの研究者によるケア宣言

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 イギリスの労働党を支えてきたジエンダー・フェミニズムの研究者によって、ケア宣言が出されました。そのケア宣言は、ケアを顧みない世界を克服して、相互依存における政治の構築のためです。そこでは、ケアに満ちた家族関係、ケアに満ちたコミュニティ、ケアに満ちた国家、ケアに満ちた経済、世界へのケアをあげているのです。
 イギリスの現実では、ケアを顧みない新自由主義のはじこる支配であるとするのです。コロナ禍で、この問題状況が明確になったしています。イギリスやアメリカなどは、過去に20年~30年間の間に新自由主義のもとで、社会福祉やコミュニティの理念が脇においやれ、ケアの危機が深刻になったのです。
 また、ケアは女性によって支えられてきたという歴史があったことも大切とするのです。社会的に、ケアの仕事は重要なことであったのですが、非生産的労働ということで、低賃金と社会的に低い地位にあまんじてきたのです。
 新自由主義は、このケア労働の社会的地位の低さや不平等に拍車をかけていったとみるのです。コロナ禍のパンデミックによって、この矛盾が医療崩壊という暴力を伴って、世界的に明らかになったとみているのです。ケアを提供する能力を失っているということです。
 そして、他者や環境の配慮に欠ける社会で、困難性と不安の耐えきれない生活によって、ポピュリズムに容易に火をつけられる状況があるというのです。そこでは、他者を思いやることができなくなり、全体主義的で、権威主義的論理によってのケアしない行為に走っていくのです。ケアは社会的能力の活動として、人々が相互依存意識の目的を醸成しなければならないとケア宣言ではのべているのです。
 イギリスでは、必要なケアを受けられない高齢者が150万人にあがるとされています。短期間のセラピーの公的な資金や自殺者の増大、精神的なセラピーを待つ期間が長くなっていると宣言ではのべています。
 パンデミックのなかで、高齢者、女性、黒人やアジア人をはじめとするマイノリティ、貧困者や障がい者たちに直撃したのです。社会福祉の民営によって、政府によって大企業に外注する社会福祉事業を食い物にしているというのです。
 社会福祉事業を行政から請け負う大企業の振る舞いによって、社会的給付と社会資源のいくつかが掘り崩され、さらに、地域の共同所有の空間が私有化されて、地域コミュニティティの福祉的機能がうちのめされているとするのです。このことによって、競争主義的な個人主義を煽り、孤独や孤立をもたらし、地域で参加する能力を破滅し、ケアのための諸制度は機能していかなくなったとするのです。 
  ケアに満ちた政治をつくるたには、相互依存をつうじて、私たちの生存と繁栄が様々な他者のおかげであるという認識からはじめなければならないとしています。ここには、人間相互作用の複雑さ、互恵性ということからあらゆる人の潜在力を育てるために必要な技術と資源を十分に評価できるように、社会のあらゆるレベルの民主的なプロセスが必要とするのです。

 この民主的プロセスに十分に参加できる能力を高めていくことによって、相反する感情や矛盾とつきあっていくことになるのです。ここに、ケアに満ちた相互依存の世界が創造するおとができるのです。

 

    ケアに満ちた親族関係
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   ケア宣言では、オルタナティヴな親族関係を問題提起しています。核家族を超えたケアです。母親業の理想は現実的に難しくなっているというのです。1970年代以降に、女性たちが公的な生活への参加をしていくため、給付付きの育児休暇、共同保育所などの多様な形の子育て制度を作り上げた。
 20世紀後半から21世紀にかけて、ケアの第一提供者は、パートナーや親戚ではなく、友人であるということが多くなったとするのです。友人たちは、同居し、互いの子どもを世話し、病人や死の間柄の人たちと苦痛を緩和するケアになっています。国家は、こうした友情関係を十分に承認していない。また、決定権を付与されていないばかりか、ケアに必要な資源も与えられていないというのです。
 ケア宣言の問題提起に、家族に代わる新しいケアの関係で、友情関係の存在が生まれていることも大切なことです。日本でもシェアハウスが広く普及しはじめています。自分の部屋とは別のキッチンやラウンジなどの共有スペースをもって、入居者が交流できる場づくりをしているのです。通常の一人暮らしからの転換です。
 共通の趣味をもつシエアハウスなどの工夫もされているのです。このシエハウスでケアしていくということがどのような関係になっているのか、とくに病気などになった場合などのケアの機能がどのように果たされているのか興味ある課題です。
 一人暮らしが増えているなかでの新しい動きですが、家族に代わる機能をはたしていくのかということでは別の問題です。核家族を超えたケアを促してくれるということで、現実家族生活の個人の尊厳と両性の平等、相互の協力ということで、親密に互いを尊重して、いたわりながらの家族関係をもって生きているのです。それは、多くの人々のケア問題を解くことにならないのです。
 家族は社会の基本的な単位です。生活の面でも子どもを育てるという面でも重要な役割をもつ。このことから、国家は、家族の保護を図る施策を採用する義務があります。日本国憲法二四条の精神は、個人の尊厳と両性の平等ということと、国家が家族の保護を図る施策の義務を内包しています。
 子どもの権利条約では、父母に子どもの発達の責任、権利及び義務を尊重しているのです。そこに、家族の役割があるのです。また、家族が機能していない場合、子どもを保護するために、親等による虐待・放任・搾取からの保護を立法、行政、社会、教育の措置をとることの義務を強調しています。
 イギリスのラディカルなフェミストの研究者のケア宣言では、乱交的なケアを提言するのです。ゲイを事例にして、表現があまりにも嫌悪的なもので、一夫一婦制の社会的な倫理から納得しがたいことですが、この表現は、大いに誤解をうけるものです。
 ここで、いいたいことは、ゲイ男性が互いに親密を表し、ケアする、複数化されて、最も親密な者から最も遠い者まで、ケアする関係を再定義するように外に向かって拡散する倫理ということを強調したいのです。
 乱交ケアというラディカルな表現は、行き当たりばったり、あるいは無頓着にケアすることでない。それは、市場と家族に頼ってきたものから、遠くであれ、近くであれ、他者への志向性を育成する能力を高めるという拡張的な方法でのケアという包容力のある考え方です。ケアは親族的なつながりだけではなく、見知らぬ者しか担えないことがあります。それは、ます。コロナ禍で経験したということです。
 ところで、日本では、社会的なケア施設と家族を日常的に結ぶということで、ディケアやディサービス、小規模多機能施設などがありますが、それらは、家族のケア負担の減少、ケアする人の社会活動や仕事の両立に意味をもっています。
 また、ケアされる本人自身の社会的交流の場、心の癒やし、身体的な機能回復に大きく役にたっているのです。介護施設児童養護施設の施設主義を克服するために、地域との関係や施設内をユニット制にして、家族的な状況をつくる努力をしているのです。これらは、家族のもっている人間らしく暮らして行ける生活単位としても、情緒的な側面からも重要な意味をもっているのです。 
 ケア労働が低賃金ということは、その担い手が女性ということに大きな要因があります。ジェンダー問題と深くかかわっているのです。家族とケアということで、歴史的にケアが女性の担ってきた仕事です。それが社会化されることによって、社会的労働として、ケア労働になってきたのです。という職業になってきたのです。しかし、社会的なジェンダー問題が女性の賃金を低いものにしていますが、女性の担い手が多いところのケア労働は、社会的な評価も低くなっているのです。

 ジェンダー問題は、歴史的にみれば封建時代から継承している家父長制の問題があります。さらに、資本主義の大工業制によっての単純労働者を大量に導入して、熟練的な職人労働を排除していったのです。この単純労働者は、低賃金で、女性や児童が労働市場に動員されていったのです。
 そこでは、女性や児童が過酷な状況に置かれ、子育て・教育放棄などからの退廃や社会的再生産の機能不全に陥ったのです。労働力の社会的再生産ということから、工場法の制定ということで、それらの改善の課題がだされていくのです。
 さらに、外国人労働者が奴隷的な家事労働者、低賃金労働者として、発展途上国から連れてこられたのです。ケア労働を社会的に価値あるものとして、ジェンダー問題の克服をも含めて、抜本的に改善していくことが求められています。
 
 ケアに満ちたコミュニティ

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 ケアに満ちたコミュニティの創造には、4つの核があるとしています。それは、相互支援、公的な空間、共有された資源、ローカルな民主主義です。
 第1の相互支援は、近所づきあいからコロナウイルスの相互支援グループまで幅広い相互支援があります。そして、自発的で下から上にひろがっていく相互支援があるというのです。また、長期的な活動にするためには、構造的な相互支援を必要とするのです。
 よき隣人は、病気に伏せた人の様子をみにいったり、ちょっとした使いをしてあげたり、植物の水やりやペットの餌をやったり、相互の支援によって、広くケアされていくのです。これは、地域に根づいた相互支援ということでの最良の形でケアに満ちたコミュニティというのです。
 相互扶助がコミュニティで拡張されることによって、それが公式なものとして発展していくのです。そこに、地域での協同組合の充実があるのです。この典型的な事例として、スペインのバスク地方で発展していったワーカーズコープやイギリスのウェールズ地方のトレデガー労働者医療扶助会があるというのです。
 第2には、公的な空間の必要性です。それは、誰もが共有しており、共同で維持され、私的な利益に左右されるものではないことです。公的な空間は、平等主義で、すべての人がアクセス可能であり、共に生きる喜び、相互のつながりをもっているということです。
 公的に所有された公園は、保護と拡張を必要として、地域のコミュニティが野菜を育て、人々が自然に触れ、体を動かして他者と出会える空間になるのです。共有の庭園は、存在することによって、あらゆるレベルでの共に生活を育てる相互連関があるのです。
 第3は、少数のものにより、資源の独占ではなく、一回だけの使い捨てのものではない資源の共有ということです。地域の図書館が地域空間と資源共有の最も強力の事例です。モノのライブラリーも再利用や再循環の形態を転換できることができ、切迫する環境破壊の時代に、電気ドリル、高価な子どものおもちゃなどを共有することができ、無料でさまざまな日曜大工のワークショップに参加することができると言うのです。
 第4には、公的なセクターの再建のために、地方分権よりもさらに自治を示した新しい市民による直接政治をめざしてということです。それは、公共サービスの提供や協同組合を通しての地域に根ざしての統治の拡大という地域の参加民主主義の充実です。これには、イギリスのプレストン市議会が、地域の労働者協同組合に働きかけて、予算削減に対処した事例なのがあります。
 このイギリスの事例は、アメリカのオハイオ州クリーヴランド・モデルにならったということです。そこでは、地域の協同組合の能力を高めようとする取り組みを積極的にしたのです。仕事が公的なセクターに戻ってくれば、労働者は安定した職を手に入れることができて、生活できる賃金と年金、さらに疾病手当や有給休暇を得ることができるというのです。 
 地方自治体のプロジェクトは、コミュニティレベルにおけるケアを根本的に創造することができるのです。私的な利益ではなく、地域住民の供給の社会的あり方に基づいて、計画と生産の段階に利用者が加わります。そこでは、その過程における民主主義が重要になってくるのです。

 

 ケアに満ちた国家

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 福祉国家は、ニューディール政策からゆりかごから墓場といわれるようにベヴァリッジ報告などケインズ義経済学で進められたのです。イギリスは、1950年代に経済の20%が公有化されました。1979年に人口の半数が公営住宅に住むようになったのです。
 ケアに満ちた国家は、質の高い学校制度や職業訓練、大学教育、医療制度が整備されたのです。教育と職業訓練は、ケアする実践を強調したのです。ケアする能力を初期の人生の段階から醸成していくのです。

 新自由主義の台頭によって、ケアに満ちた国家がくずされていくのです。以上のように、ケア宣言では、1980年代までのイギリスをはじめヨーロッパの福祉国家の施策を評価しているのです。 
 福祉国家では、相互に依存するということで、自律性と依存性から生涯にわたって意義深く価値ある生きる者として認知される必要があるとするのです。ケアに満ちた福祉国家は、父権主義的であり、人種差別的、植民地主義的であるというのです。
 それらを克服するには、伝統的な家庭内の役割分担の意識を乗り越える必要があるとケア宣言はみるのです。そして、階層的に構成されて、トップダウンで決定され、規律的で、強制的組織から、エコロジカルな民主的に参加によるケア国家の創造を強調するのです。
 さらに、ケア宣言のケアを支える社会的基盤は、有償労働に従事する時間を社会的なしくみから短縮することであると提言します。そして、家族的な環境であれ、人々がケアする自らの能力を拡張するために、そのケアする人々がのんびりとすごす時間と他者の状態をしっかり見定める関係性が求められるとするのです。また、ケアを受ける人々が主体的能力も必要になってくると考えるのです。これらのことから、週4日間労働を訴えることも必要というのです。
 福祉国家からケアに満ちた国家として、参加民主主義が重要な要件ですが、合衆国のクリーヴランドでの先進地では、協同組合主義的な草の根への支援が拡大しているというのです。イギリスでもプレストンの事例で、ホームレスになるような人々にコミュニティは住居提供をしているのです。
 イギリスのウエールズでは、2014年に「社会サービス法」で、ケアサービスの育成と促進は義務化され、ケアの提供者は、官僚的ではなく、持続可能な資源形成のためのケア提供をするようになるのです。連帯と行為能力、コミュニティ、そして帰属ということを重要な感性を制度化していく。
 こうした事例から学び、それを基盤にして、さらに発展させて、公共の資源に平等にアクセスできて、すべての人々が相互依存によるケアに関われることで、民主的な過程を大切にしたケアに満ちた国家を形成することができるとしているのです。国家とケア労働をみていくうえで、相互依存の政治として、過程における民主主義を重要な課題とするケア宣言は、大切な考えです。
 相互依存の支え合いケアを充実していくうえで、大衆的に、その能力をつけていく人々が増えていくことは、国家としてのケア教育としての役割です。国民が教育を受ける権利の内容として、ケア能力形成は、相互依存の社会形成にとって、不可欠です。
 貧困者、障がい者、高齢者、病をもった人など社会的弱者に対する偏見や差別を克服することは、すべての人々が相互依存で、自由に、参加民主主義の社会で人間らしく、楽しく生きていく社会のために非常に大切な課題です。このためには、多くの市民がケアにボランティアとして参加することは極めて重要なことです。そして、国民大衆の基礎的な能力の形成に、ケア能力は不可欠になっていくのです。しかし、このケアの大衆化とケアの専門的労働とは全く違うのです。独自に、ケアの専門的労働を相互依存の社会にとって考えていく必要があるのです。
 家族内での家事・子育てとして、位置づけられていたケアは、社会的関係の見方が弱く、私事としてみていたのです。しかし、ケアが社会的労働になることによって、保育士、介護福祉士社会福祉士、看護師、保健師、栄養士などのケアの専門的職業が生まれていったのです。 
 ケア労働の専門的職業の形成は、例えば、発達障がいをもっている子育て、認知症をもつ高齢者のケアにとって、人間らしく楽しく生きていくために適切な発達援助や対処ができるのです。医師が病を適切に治療して病気を治し、健康の体や心にしていくことと分野は異なるが同じ機能をもっているのです。この専門的ケア労働と一般大衆のボランティア的ケアとの関係をもって、有効な相互依存の民主主義的な社会が形成されていくのです。
 専門的ケア労働はケアを受ける人との関係ばかりではなく、ボタンティアをはじめ、一般大衆のケアに囲まれた社会のなかで、人間らしく、楽しく生きる相互支援のための有効なケアが可能になっていくのです。  
 専門的ケア労働の職業形成とその能力の充実には、国家の役割があるのです。専門的な資格制度を充実していくことと、その専門的な能力形成・発達の研修制度も国家の仕事です。さらに、ケア制度の法的な整備も国家の重要な課題です。
 国家としての社会福祉行政における民主的な意思決定における地域での一般大衆の参加は重要です。官僚的な地域の福祉計画策定から住民参加的地域の民主主義の形成が切実に求められているのです。ここには、専門的ケア労働と一般大衆のケアへの意志も含めて、社会福祉行政の地域計画とその遂行が必要なのです。
 国家のケアに対する財政問題は大切な課題です。それは、ケア労働の専門性の充実、ケア労働者の充実した給与の保障、ケアを受ける人々の生活援助、ケアの料金、ケア施設の充実や運営費など、多くの財政支出が国家に求められています。

 ここには、社会保険や税制のあり方も含めて、ケアを国民的な課題として深めていくことが重要なのです。そこには、ケアから新しい民主主義の国家像のあり方が探っていけるのです。

 

ケアに満ちた経済

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 ケアに満ちた経済は、新自由主義の市場絶対主義を止めることですとケア宣言でのべるのです。市場だけの交換だけではなく、世帯内、コミュニティ、国家、そして世界のなかで満たされいくという多様性をもたせるということです。
 ケア宣言では、経済的なものを市場での現象だけにみる考え方をとらず、ケアに満ちた交換のしくみを限りなく民主的でより連帯的なものにしつつ、所有、生産、消費を平等主義になるように取り組むというのです。市場化された関係からケアと相互性、自発的なネットワークという新しい交換の道ということです。
 ケアと資本主義の市場論理は相容れないという見方です。親密なケア労働は、個人的な関わりと情緒的な愛情をもって最もよく提供されるものです。ケア関係は相互性、連続性、忍耐という支えのもとで開花するというのです。
 ケアを価値づけることは、ケアを市場化することと同じということで、ケアに対する責任やサービスを購買力と同じように価値づけることに否定するのです。ケアの基盤は脱市場化というのです。
 ケアに関わる多様性と複雑さに配慮しながら、脱市場化していくことが必要ですが、財やサービスが交換される何らかの市場は、資源の再配分から常にみなければならないのです。市場の再設計、市場の再配分の機能は、富裕層ではなく、人々と地球であると確約される必要があるという立場です。
 市場の再設計は、協同組合、国営化、公共とコモンズのパートナーシップなど、さまざまな形態が考えられます。市場の商品の価値から集団化さえ、社会化されて、ケアの交換価値にとって代わる必要性を強調しているのです。具体的な事例として、モンドラゴン労働者協同組合を描いているのです。
 ケア労働は公的な分野で、国家や地方公共団体の役割は極めて大切です。また、非営利の協同組合やNPO法人なども社会的セクターとしての公共性から大きな意味をもっています。公共経済という立場は、営利的な市場でない。
 公共経済は、資源配分の効率性、所得分配の公平性、経済の安定性からからです。そこでは、租税や公共事業、社会福祉事業が大きな位置を占めるのです。そして、事業が社会にどの程度貢献しているかが大きな指標になっていきます。
 ケアを公共経済や公共政策から、いかに国民の一人一人の生活を豊かに、幸福に、人間らしく楽しく自由に生きて行けるかということ視点が大切なのです。ケアは公共性をもっている事業分野として、営利からの脱市場という論理は重要ですが、社会経済構造として、すべてが脱市場ということに意味することではないのです。
 ケア労働は、市場社会のなかでの貧困化による所得再配分、資源の再配分機能をもっています。その意味で、市場との関係は、強くもちます。したがって、すべてが国際的な市場絶対主義の新自由主義から市場の民主主義的なルール、公共経済・公共政策、そして、市民の暮らしからの参加が重要性をもつのです。

 
 世界へのケア

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 コロナ禍のパンデミックのなかで、世界へのケアの重要性が人々のなかでより強く認識されるようになりました。国境を越えた連携や協働が人々の命を救ううえで大切なことが明確になったのです。
 また、地球規模の気候危機がエネルギーシステムの脱炭素化、再生可能ネルギーの投資というグリーン・ニューディールへの投資を世界的に喚起したのです。国境を越えた機関や機構をたくさん必要としている時代になっているのです。
 世界各国で、今こそケアということで、あらゆる億万長者に課税、累進課税の促進、発展途上国での債務帳消し、国際的金融機関のケアに有効投資できるように再構築などの提言をケア宣言はしているのです。
 ここでは、国境を越えた革新的なネットワークの構築が世界のケアのために求められているとしています。ケア宣言の中心は、世界資源の分配要求です。環境的に持続可能性であるだけではなく、公平性であり、お互いに憎しみを減らし、違いを超えたつながりがあるというのです。

 日本ではケア労働関係の絶対的な労働力不足のなかで、発展途上国からの労働者の受け入れが必要になっていますが、ケアの専門性から日本語能力やケア自身の専門能力も含めて、大きな課題になっているのです。

 19世紀から20世紀初頭の植民地国からの労働力補充ということで、過酷な労働を強制した歴史をアメリカやイギリス、日本も、経験したのです。この歴史的反省のうえに、ケア労働者の専門性を大切にしての外国人労働者の受け入れが求められているのです。日本では、単純労働者として、外国人労働者を受け入れることができないという理念と法的な規制があります。入国管理事務にとって、それは、大きな課題になっているのです。
 
 

 

暮らしの学習権と地域主権への公務労働

   

    暮らしの学習権と地域主権への公務労働

                   

はじめにー人間らしく暮らしていける学習権ー 

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 本論では、暮らしの学習権と地域主権への公務労働の課題を人間らしく生きる権利として取り扱うものである。暮らしの学習とは、現実の社会的な矛盾のなかで、差別と貧困を直視し、多様性を尊重して、どんな立場の人々も人間らしく豊かに暮らしていくための学びである。
 その学びは、幸せをもてる豊かな消費と、生きがいを発揮する働き方を実現していくものである。また、家族や仲間、職場・地域での友愛精神による支え合い社会を造っていくためである。それは、為政者の支配や統治の動員主義的な教化・啓蒙でないことはいうまでもない。
 暮らしの学習権は、地域の民主主義を基盤に、国家としての暮らしを保障する主権在民の学びである。暮らしを基礎とした社会教育の充実は、民主主義発展の度合いを測る大きな指標でもある。この対局に、社会的退廃や金権支配、愚民政治やポピリズム、政治的無関心の充満がある。この傾向は、ファッシズムの社会的基盤をつくっていく。
 持続可能な物資的な豊かな暮らしの発展は、絶えざる知識の吸収と創造性、科学・技術革新、イノベション能力によるところが大きい。それは、弱肉強食の競争主義ではない。
 近代化による大量生産は、人々の物質的欲望を刺激し、大量消費になった。また、効率主義的利潤優先によって、自然循環を破壊し、大量廃棄物をつくった。まさに、地球的規模で環境問題を起こしたのである。暮らしの学習権では、これらの環境問題を学び、持続可能な社会をつくっていうことも大きな課題となる。
 弱肉強食の競争主義は、格差と差別を蔓延させた。貧困化は、様々な社会病理現象を起こした。母子世帯の貧困化に現れているように、ジェンダー問題も深刻である。また、高齢者の一人暮らしの増大もある。障がい者外国人労働者に対する差別もあり、ヘイトスピーチなど人権の問題も跡を絶たない。まさに、人間のもつ多様性、国際的な連帯と友情を否定する社会的な風潮である。助け合う地域社会の崩壊現象のなかで、無縁社会が生まれ、様々な社会的病理現象も起きている。
 コロナ禍のなかで、その矛盾は深刻になっている。現在は、これらの社会的な問題を克服していく地域での学びが切実に求められている。ここには、暮らしの学習権の保障が必要なことを示している。
 公民館などの公的社会教育は、趣味などの文化的側面に重きをおいている。それは大切なことであるが、暮らしの学習権の視点が極めて弱い。住民の暮らしから公務労働のあり方も問われる。公務労働を地域主権という視点からみるならば、それぞれの業務の専門的なことと社会教育・生涯学習との関係が強く求められている。

 本論では、さまざま地域社会の矛盾を直視しながら、それらを克服していく、地域における暮らしの学習権の視点から社会教育の課題を明らかにしていく。
 
    1,暮らしの学習権

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 暮らしの学習の権利構造
 人間らしく豊かに生きていくために、文化やスポーツの充実、健康で笑顔をもって生きたいということは誰でももっている。多くの国民は、現実の労働や生活、環境、政治などの諸問題を学び、それらを解決していくための生涯学習から遠ざかっている現実がある。このことが日本の民主主義に大きなマイナス要因になっている。
 生涯にわたって学ぶ権利は、民主主義社会では、当然のことである。日本国憲法は、すべての国民に教育を受ける権利(26条)を保障している。教育基本法3条は、国民一人一人が豊かな人生をおこくることができるように、あらゆる機会、あらゆる場所において学ぶことを保障している。
 1985年にユネスコは、国際成人会議で学習権宣言をした。その宣言では、人間の生存にとって学習権を不可欠な手段とした。学習権なしに人間的発展はありえないとたかだかく示した。そして、学習権の内容を次のようにかかげた。

 それは、読み書きの権利、問い続け、深く考える、想像・創造する権利とした。また、自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利とした。さらに、なりゆきまかせの客体ではなく、自らの歴史をつくる主体にかえていくことを強調した。つまり、学習権なくしては、人間らしく生きる人間的発達はありえないと宣言したのである。
 
無縁・消費の社会と社会教育・生涯学習の課題
 現代の大量消費社会は、新たな欲望を拡充し、文化的消費の快楽もマスコミや情報革命も進んだ。さらに、嘘・デマや詐欺、横領も横行した。法令違反や社会的倫理に反する金権支配をめぐる癒着問題も大きな問題となった。政治的退廃、企業の不祥事は、日本社会の社会的なリーダー層の道徳的劣化である。この状況は、社会的道徳と友愛や連帯性が希薄になっている証である。
 現代は、ものづくりや農林漁業業のような目にみえる直接的生産よりも、ITなどの著しい技術革新で、ロボット化や仮想空間も増大した。現代は、日本の社会経済を支配する特権的利益集団の既得権が強力に維持されている。このなかで、多くの国民は、弱肉強食の新自由主義がおしつけられている。景気変動による調整弁として、非正規雇用者が大幅に拡大した。個々に自己責任が強制され、著しい格差社会をつくりあげたのである。
 さらに、価格競争と、賃金抑制など「経費」削減を多くの働く人々におしつけ、働くことの生きがい、やる気を引き出すことが極めて不十分になった。そして、人間の心の飢餓状況、精神的貧困化も進行した。
 これらの結果は、経営自身の停滞を招き、イノベーションの動きから日本が、後退した大きな要因になった。日本の長引く経済の低迷は、これらが原因である。特権的な利益集団の社会的リーダー層は、目先の自己権力維持の固執と、貪欲性が著しくみられる。そこでは、人間としてのあたりまえの責任問題が鋭く問われている。
 企業の国際化は、腐敗問題の克服を提起した。国連グローバル・コンパクトは、原則的な腐敗の防止に関する国際連合条約をつくった。その内容は、2003年10月に国際連合総会で採択した。腐敗防止に関する国際連合条約の前文では、腐敗が国際的な現象になっており、民主主義と社会的正義、並びに持続可能な社会を危うくするとしている。
 国連は、SDGsの持続可能な開発のために2030年までに17の目標として、貧困・飢餓、健康・福祉、教育、ジェンダー平等、安全な水、クリーンエネルギー、働きがいと成長、イノベーション、不平等是正、住みよいまちづくり、生産と消費の責任、気候変動、海と陸の豊かさ、平和、パートナーシップをあげている。それぞれの国、地域の特有の課題は、自治体や企業がローカル課題の解決としてSDGsに取り組むことを積極的に示したのである。
 現代社会の精神的荒廃の大きなひとつとして、無縁社会としての孤立問題がある。限界集落といいわれるように農山村では、高齢者だけで暮らし、それも一人暮らしが増えている。都市でも、核家族化のなかで、配偶者にさきだたれるなど、様々な理由で、高齢者の一人暮らしという社会的孤立が増えている。
  2021年度の高齢社会白書によると、高齢化率28,8%であり、一人暮らしのが1980年に男性19万人(4,3%)、女性69万人(11,2%)が、2015年には男性192万(13,3%)、女性400万人(21,1%)である。
 内閣府平成28年度調査では、よくつきあっている人がいるというのは、男性73.8%、女性80.7%である。地域社会の崩壊現象のなかで、この比率も減少していくとみられる。一人暮らしの高齢者でも積極的に趣味や社会的活動で、楽しく豊かに生きている人々がいることは大切なことである。しかし、高齢者の孤立と無縁社会は大きな社会問題である。地域で、どのようにしたら、この無縁社会を克服していけるのか。
 さらに、8050問題がある。中年層の引きこもりとその親の高齢者が生活を支えるという問題がある。中年のひきこもりとして、内閣府が2018年調査で、61,3万人という数字が報告された。その理由に退職36,2%、人間関係21,3%、病気21,3%の数字がでている。これらは、日本の精神的な貧困化のなかでの現象であり、社会的孤立からの支え合いの構築が地域福祉と結びついた社会教育を求めている。
 子どもや青年も、家族遺棄社会現象といわれるように、孤独で暮らす人々も増えている。家族を棄てた父親の孤独死、ゴミ屋敷と餓死寸前という捨てられたという家族の問題、孤独死の実情ということで、著書「家族遺棄社会」が書いている。その著書において、菅野久美子は、孤立、無縁、放置の社会を告発した。
 地域の自治会などの地縁組織には、様々な地域行事や寄付など自分の意志に反する拘束力があるという。町内会に入らない現実がある。わずらわしいと思う人々が増え、加入者が減少している。

 現代の日本社会は、生活が個人化し、自己責任ということが強調され、社会的孤立の人々が増大している。ここでは、共助の意識が極めて弱くなっている。お互いに干渉しない、個々の生活を侵害しないということで、地域の絆を築くことも特別の努力が必要な時代である。

 従前の地縁組織のあり方も問われていることを重視しなければならない。従前の地縁組織には入らないが、スポーツや趣味のグループ、生協などの宅配や医療サービスに加入する人も少なくない。自己の要求を満足してくれる機能的な地域組織が大切になっている。
 地域の絆を築くためには、本人自身が、働きかけをしない限り難しくなっている。日常生活における個々人の自由な選択権の拡大と同時に、それぞれが関わり合いをもっていく新たなコミュニティの形成という友愛社会の構築が切実に求められている。それぞれの興味や趣味、地域の子育て、自己の特技や役割などが発揮できるボランティアをはじめ、小さなことでも仕事につながることや、未来へとつながる地域づくりなど様々な関わり合いができる場をつくっていくことは住民の学習権として大切な課題である。
 これらは、社会的関係資本の整備のうえに、社会的な信頼性、社会的信用を築いていくことが必要になっているのである。安心社会の形成は、社会的信頼性と社会的信用であり、詐欺のない、だましのない社会で、それを見破っていく社会支援と社会教育の徹底が不可欠なのである。
 無縁社会現象のなかで、支え合いの友愛社会の新たな構築は、公的な地域福祉と公的な社会教育が不可欠である。地域では、日常の生活活動、文化的・スポーツの活動、仕事にとっても友愛精神によって、支え合うことを目的意識化することが必要である。これには、独自に地域福祉の公助を基盤にしての新たな共助の支え合いの公的な社会教育活動が求められている。

 

 貧困問題からの暮らしの学習権と地域福祉
 新自由主義のもとで、格差と貧困が進み、この状況では、競争主義の能力主義や利益優先主義と出世教育が支配的になる。この傾向に対して、地域の民主主義には、人間尊重の多様性を尊重し、どんな人でも生きていくうえで、素晴らしい価値をもっている認識が地域社会で不可欠である。

 その実現には、地域での多様性を尊重する学びである。つまり、男女格差、発展途上国から労働者の差別、障がい者の差別などが存在しているなかで、それらの偏見と差別を克服していく学びである。
 アルコール依存症は、精神的な社会的孤立現象のひとつである。実数は、100万以上といわれる。依存症で治療を受けている外来は95579で、入院は25606人である(平成28年厚生労働省)。

 2020年度の児童虐待相談件数は20万5千人である(全国の児童相談所集計)。内閣府平成25年度の子ども・若者白書では、15歳から34歳の無業者63万人、フリーター180万人である。家でひきもり23,6万人、自分の趣味だけ外出46万人、広義のひきこもりの合計69万6千になっている。
  日本の貧困問題を考えていくうえで、母子世帯にその典型をみることができる。女性は、低賃金が多い。母子世帯の子どもの貧困問題はジェンダー問題でもある。貧困のなかで育つ子どもたちは、環境的に人間的に成長の基盤も弱い。
 ここでは、生活不安の増大ということだけではなく、人間的な成長の基盤が奪われている。家庭への成長の場の援助が切実なのである。このためには、地域、社会によっての教育援助体制が必要である。日本での子どもの貧困を論じる際に、親への非難、家族の責任問題に転化されやすい。この問題は社会教育として見逃せない。
  貧困の子どもに対して、具体的な発達の保障と人間的成長の手だてが、学校教師をはじめとして、公的な福祉と社会教育の役割がある。また、貧困のなかで未熟な面をもつ親自身の人間的な教育、自立していけるような教育や訓練も求められている。貧困などによる家族関係の破綻、子どもの生存が脅かされる虐待からの保護は、一時的な母子分離が原則になる。
 多くの母子世帯の現実は、子どもを育てるために朝晩、長時間で働かざるをえない。貧困の母子家庭は、子どもとゆっくりと接触する時間的なゆとりもない。子どもを育てるために必死に生きている現実である。それは、人間らしい生活からほど遠く、将来の希望を自由に選択できる幅が限定されている。家庭の経済的格差は、子どもにとってと大きな進路の制約があることを見落としてはならない。
 2019年の国民生活基礎調査によれば、552万円の平均所得以下が61%を占め、母子世帯は、社会的保障費も含めて270万円である。児童のいる世帯平均745万円の半分以下の所得の実態である。高齢者世帯は312万円である。母子世帯では、大変に苦しい41,9%、やや苦しい33,3%と多くが、生活の困窮の意識である。全体的には、大変に苦しい24,4%、やや苦しい33,3%と国民の半数以上が生活の困窮の意識をもっている。この現実からの解放も社会教育の課題として捉えていくことが求められている。
 

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    気候危機などの環境問題からの暮らしの学習権
 地球規模の環境問題は、気候危機、大気汚染、水の枯渇問題、開発による大規模な災害を起こした。そして、水俣問題など命を脅かす公害被害、人間と自然の無秩序のなかで感染症問題などを起こした。現代は、人間らしいくらしの復権ということで、環境破壊から復権していく自然循環的な人間的生活を取り戻すイノベションの学びも求められている。まさに、脱物資的な成長主義からの脱皮でもある。
 健康で安心して、豊かに暮らしていくために、自然災害や公衆衛生の問題は大きな課題である。人間が生きていくうえで、自然との関係は、心の癒やしや文化的な充実にも欠かせない。そして、自然は、台風、地震、火山、水害などで人々を襲う。
 コロナ禍では、感染症の恐ろしさを人々に教えた。公衆衛生が大きな課題として認識されたのである。地震や異常気象は、地域での防災対策を求めた。森林の伐採など大規模な開発による自然破壊も地域の人々にとって、大きな関心をもつようになった。
 2021年11月に実施した国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)のグラスゴー気候会議は、脱炭素が世界的課題になった。イギリスのグラスゴー会議の目的は、持続可能な開発と貧困撲滅に向けたなかで、気候危機の対処の国際協力である。そこでの基本合意は、人権、健康の権利、先住民の権利、地域社会、移民、子供、障がい者などの権利が気候危機との関連で議論を求めた。さらに、男女間の平等、女性の自律的な力の育成及び世代間の衡平を尊重を重視したのである。
 グラスゴー会議では、世界の人々に脱炭素社会を求めた。そのために森林、海洋、雪氷圏の生態系、生物多様性を本来の姿に戻すことが不可欠になった。そして、世界全体の温度を摂氏1.5に下げていく緊急性を提起した。2010 年比で 2030 年までに世界全体の二酸化炭素排出量を45%削減し、今世紀半ば頃には実質ゼロにするという確認を世界共通としたのである。
 ここでは、再生可能なエネルギーの創出、省エネが抜本的に求められ時代になったということである。自然破壊をしない生態系を大切にしての循環的なエネルギー創出である。このことから最も離れているのが、原子力である。大規模に森林を伐採してのメガソーラー開発も自然循環的ではない。自然の条件を活かした小水路発電、建物や施設の屋根をいかしたソーラー発電、植物残渣や家畜ふん尿を活かしたバイオマス発電、地熱発電、浮体式洋上発電など様々な方法があるが、これらも生態系を壊さず、十分な自然循環的な配慮が求められている。
 日本は、台風、大雨、地震津波、火山などからの自然災害の多い国である。それぞれ地域での細かい防災対策を住民ぐるみで実施している。東日本大震災のような津波被害で、多くの人命が奪われた。異常気象のなかで、大雨による水害が頻繁に起きるようになった。ここで、重大なことは、原子力発電所の水素爆発による放射能汚染であった。
  森林法での林地開発は、都道府県自治体が事務になり、住民の福祉増進を基本にして、国土保全、水源涵養、良好な生活環境、保健・文化・教育的作用、温暖防止等の地球環境保全生物多様性保全などの多様な機能をもつようになっている。
 保安林の拡大等による積極的な活用、森林セラピーや森林のもつ生物多様性の教育の活用、森林と共に生きてきた人々の知恵を学ぶなど保健・福祉、教育、観光などに森林自然との共生の経済を積極的に取り入れていくこともひつつの方法である。発展途上国の先住民や地域社会の生態系のなかで暮らす役割を重視していくことが新たな脚光になった。この脚光を持続的に大切にしていくためには、それらの人々の生活支援をすることが強く求められる。
 省エネ対策は、脱炭素化のなかで重要な課題である。AIの発達で自動制御で省エネも、スマートメーターで目にみえるようになった。ボイラーや配管の断熱装備、断熱材、断熱ガラス、排熱の再利用などの施設整備も大切になってくる。スマートコミュンティーやソーラと農業を結ぶシェアのビレッジなどの取り組みも可能になっている。
 日本のエネルギー政策の重要なことは、脱原発、脱石油、脱石炭である。2030年までに廃止の「脱石炭火力連合」で、「先進国は2030年に廃止、途上国は2040年に廃止」と、「石炭火力の新設を行わない」の声明がだされた。このための再生可能エネルギー創出の地域でのきめの細かいイノベーションが求められている。
 自動車に関しては、「世界の全ての新車販売について、主要市場では2035年、世界全体では2040年までに電気自動車(EV)などゼロエミッション車とすることを目指す」という内容に20を超える国や企業が合意した。
 森林に関しては、「その減少傾向を2030年までに止め、回復に向かわせよう」という声明が出され、100か国以上が賛同した。メタンガスを2030年までに2020年比で30%削減する「グローバル・メタン・プレッジ」を世界100か国以上が賛同しました。以上のように脱炭素の動きが世界で急速に進んでいるのである。

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 リカレント学習の権利
 人間らしい労働には、人々の暮らしの豊かな発展と結びついている。労働には、自己の暮らしの豊かさの発展というばかりではなく、奴隷、農奴、賃金を得るために、支配従属関係をもってきたことも見逃してはならない。人間らしい豊かな暮らしの実現には、偏見、差別、搾取からの解放ということがある。現代では、基本的人権思想、自由と民主主義の普及によって、人間らしく豊かに暮らしていけるような人間の尊厳の見方は共有されるようになっている。
 しかし、現代の新自由主義のもとで、非正規労働者が増大し、格差と雇用不安が生まれている。このようななかで、職業教育や職業訓練は重要である。リカレント教育の保障は、生きがいをもてる労働の探究と失業不安からの解放にとっての大きな課題である。
 リカレント教育生涯学習ということでは、2020年10月スイス・ジュネーブ で「仕事の未来レポート2020」がだされた。新型コロナウイルス感染拡大により、労働市場が急速に変化していることを世界経済フォーラムの調査結果はみせている。
 2025年の企業では、人間と機械が仕事を半分ずつ分担するようになると予測され、ホワイトカラーやブルーカラーの職種の中でも、情報やデータ処理、事務タスク、定型的な手作業の仕事等は、機械が主に担うことが予想される。
 そして、介護、保育、看護などに形成されるケアエコノミーの需要が高まる。第四次産業革命関連のテクノロジー業界(AI等)が大きく躍進していく。コンテンツ創造の分野で、新たな仕事が生み出される。エンジニアリング、クラウドコンピューティング、製品開発等の分野での新たな職種が生まれる。

 そして、グリーンエコノミー関連の仕事や、データやAI経済の最前線に携わる職種の需要も高まるというのである。5年後も今のポジションにとどまることができる労働者であっても、その内の約50%の労働者には、コアとなるスキルアップデート(リスキリング)が必要になる。
 パンデミックからの復興には、職場復帰支援のため、労働者が仕事に関連するトレーニングをどこからでも受けられるように、教育機関が連携してリスキリングの機会を提供する取り組みが不可欠というのである。

 

2,共生参加の民主主義の学習

 

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 人間の安全保障からの暮らしの学習権
 人間の安全保障という概念は、国家ではなく、個々の人々の恐怖や欠乏から、人間の尊厳を確実に保障していくためである。それには、教育や社会参加などの人間の能力強化が必要である。それは、人間発達・開発ということで、貧困からの解放のための社会的サービスや生存のための基礎的インフラ整備が求められる。
 共生と参加の民主主義は、個々人が参加していくということではない。人間は一人で生きているのではないことから、支え合い、友愛と共生の論理からの参加民主主義が必要である。
 主権在民地域主権から参加民主主義を考えていくには、中央集権的な国家観からではなく、地方自治による身近な暮らしの国家観が必要である。さらに、国のレベルの法律から地域独自の生活レベルの福祉を増進させるため、それぞれの異なる地方公共団体の実状から、住民参加型の条例制定が求められる。直接請求などの民主主義の原理によっての条例制定は、住民自らが学ぶ社会教育的側面がなければ難しい。
 教育の保障がなければ人間の安全保障を実現することはきわめて厳しい。働く者として、親として、社会を変えていこうとする市民としても、教育を受けなければ、大きな不利益を受ける。それは、単に確保されるだけではなく、市民的な寛容な社会をつくる教育内容であることである。
 国連における人間の安全保障の共同議長を務め、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、読み書きや計算という生きるために必要な基礎教育を普及を強調した。基礎教育には、世界の本質を、共通した人間の大切さを話し合う力、その多様性と豊かさのなかで、自分たち自身をどうとらえ決定づけられるか。それらを判断できる能力が求められている。 
 自分たちのアイデンティティを構成するさまざまな要素の教育も大切である。それらは、言語、文学、宗教、民族性、科学的関心などに目をむけていることである。そして、自由と論理的な思考を育む能力も不可欠になり、友情の大切さを理解することである。
 市民社会における議論に効力をもつために、選挙は重要な手段であるが、投票する機会とともに、おびやかされることなく発信し、他の意見を聞く機会が保障されていることを重視している。これらは、公共の理性と実践であって、その実効性をもつのである。
 アマルティア・センにとって、投票の民主主義は、西洋な価値観と慣習であるとする。広い見地から公共の論理における異なった意見、他者を認めあう公の議論に参加できるしくみの人類史的な理性の蓄積が大切とする。

 

 インターネット社会における体験的社会教育の役割
 AIという人間のかわりをしてくれる非常に便利な技術の発展がみられている。そのことによって、人間の労働力が軽減され、加重な肉体労働や危険な作業、不注意・不熟練による事故から解放された。ドローンの発達で、今まで困難であった空からの写真撮影が気軽にでき、荷物も郵便・宅急便から迅速に便利に運ぶことが可能になっている。
 しかし、無人飛行機として、爆弾を積んで、敵地を攻撃することが行われ、罪のない多くの市民が犠牲になっていることも見逃すことはできない。ここには、戦争やテロとの関係で利用される科学技術の人間的責任が鋭く問われている。責任には、信念的な無責任ということからではなく、その結果が生むところの責任倫理がある。
 現代はだれでもスマートホーンなど気軽にインターネットが利用できる時代である。その社会的役割は一層に大きくなっている。現代は、生活のすべてにスマートホーンやパソコンが深く浸透している。買い物のキャッシュレス決済、インターネットによる商品購入、オンラインの会議や授業、ニュース、ネットによる仮想的人間関係など、さざままな利用がある。
 社会経済の活動が直接的な人を介しての場面や実際的に見て、ためして、肌で触って商品を買う、人との関係をもつということから、ネットをとおしての映像判断になる仮想場面が多くなり、人の行動が個人的な感覚的な仮想空間の世界で起きる。ネットによって、知り合っての犯罪の場合もみられる。気軽に便利な側面と同時に仮想の映像が大きな役割を占め、重大な問題を起こすことがある。
 インターネットの社会がより日常生活に入り込んでいくことによって、人間関係も直接的な顔を見ながら、一歩おいての相手の感情表現をみながらのコミニケーションではない。インターネットは、葛藤や悩みなどの心の葛藤がまるだしになり、仮想空間で行われていく側面が大きくなっていく。周囲に相談して、人間関係をもちながら悩みなどを相談していく機会も少なくなっていく。
 ここでは、感情が高ぶった場合に、歯止めがきかなくなる場合もある。インターネットの暴言により、傷ついていくことが増えていく。自分の頭で、自立的に物事をみるのではなく、感情のままに極端な言葉を浴びせる場合が少なくない。それが一斉に拡散されて、一つの群衆心理的にインターネットをとして起きる。つまり、社会心理的には、本能的なものがまるだしの群衆的心理が働いていく。
 インターネットでは、相手の顔をみながらの感情を抑えたり、個々の直接的な人間関係による理性的なコミニケーションになりにくい。社会全体が個々の孤立化が日常生活のなかで強まっていくなかで、人々は群衆心理のなかで大きく影響されていく。そこでは、孤独化現象が進んで、個人を抑制する責任感が消滅していく。個人の利益は無造作に犠牲になり、群衆心理に感染しやすくなる。
 この現状に対して、どのようにして、人間尊厳の民主主義を確立していくのか。思い込み、偏見や差別に陥りやすい克服として、視野を広くもっていくための体験、観察、客観的にみる視野、科学的な根拠で対処していく日常的な訓練が求められるのである。そして、一人一人が友愛による絆と支え合うところの協働の実感体験をつくりだしていくことではないか。
 個々の暮らしのなかで、この協働の場づくりをどう体験していくのか。人間的な五感をもっての体験的な汗をかいて共に実感をもっていく社会教育活動が鋭く求められている。このしかけは、公的な社会教育の大切な仕事であるが、同時に、地域の様々な協働組織との社会教育活動の連携が求められる時代である。

 

3,地域主権への公務労働と社会教育

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 地域福祉計画の住民参加と公務労働の社会教育的役割
 地域福祉計画が市町村自治体で住民参加方式を取り入れてつくられるようになった。これとの関係の生涯学習も行政主導で行われるようになった。社会福祉協議会もノーマライぜーション、住民ニーズ、自己決定、継続性、総合性という原則で、地方自治体に代わり民間活力、ボランティア活動の推進、NPO団体の役割の推奨をしている。

 自治体が取り組む地域福祉の社会教育活動の多くは、地域における多様なグループや団体による町内会などの地域生活の場における学習としている。しかし、住民の要求にそって、共に学ぶということではなく、多くが行政施策の啓発的なものであり、地域福祉に無関心なひとたちへのボランティア活動の働きかけということが一般的である。
 ここでは、市町村行政の公的なサービスだけでは対応できない生活課題をボランティア活動によって、解決していこうとするものである。ボランティア活動は自発的意識で主体的に参加していくものであり、決して公的な責任ある立場ではない。あくまでも補助的なことであり、新しい生活課題にたいしては、公的な行政として独自に責任体制をつくりあげることが必要である。
 安心して、ボランティア活動に市民が参加するには、その責任体制の市民に対する周知徹底が重要である。公助を基礎にしての共助である。住民参加の地域福祉は、行政施策に住民が動員されることではなく、暮らしの学習権から、住民自身の切実な生活要求を地域福祉政策に反映させて、それを実行させる行政の体制をつくりである。それを前提にしての住民自身の自発的な意志に基づくボランティア活動である。

 これらの過程における社会教育の実施が大切である。地域福祉ばかりでなく、地域の暮らしの大切な課題は、地域環境政策、エネルギー政策、地域子育て・教育政策など様々なものがある。これらも社会教育活動と結びついての住民参加の施策が求められている。

 

 住民参加の条例制定と公務労働の社会教育的役割
 行政の官僚制問題は現代社会の弊害である。近代化の組織における目的合理性のなかで、効率的な分業体制の官僚制の問題が生まれる。公務員にとって、大切なことは、それぞれに与えられた業務の遂行能力ということだけではなく、公務員は憲法15条でいう「国民全体の奉仕者」ということである。

 地方公務員は、住民の福祉をはかることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担い、住民の暮らしを守る福祉の整備をして、豊かに、幸福に、生きがいのある生活のための地域づくりを仕事とするものである。
 近代化による行政事務の複雑性と量的な増大は、専門的に訓練された非人間化されたことが起きる。そこでは、個人的な同情、恩恵、感謝に動かされたことは消えていく。近代の官僚制は、非人格的で、専門化された目的合理的的支配であると、100年まえに、ドイツの社会学者マックス・ウエバーが支配の社会学で指摘している。
  住民の総意を活かすのに、住民自身が自らの要求に基づいて、直接請求の条例制定などがある。それには、国の法令との関連も含めて、地域政策を学ぶ学習が求められている。
 地域主権とは、国の住民への暮らしの役割を軽減するという意味ではない。分権ということで、財政や人的な資源を分け合うということではなく、中央政府のもっている責任性を軽減していくものでは決してないのである。
 実際の都市と農村の不均等発展、大都市への人口や資産の集中という矛盾のなかで、地方での生活を守るために、それぞれの市町村自治体がきめ細かに地域政策判断ができることが重要である。全国一律の基準で、中央集権的なひも付き補助では、地域の自主性が十分に働かない。

 市町村自治体が地域住民の自らの意志と判断できることは、具体的な細かな暮らしの地域課題に向かっていくことができる。しかし、財政的に地域の暮らしに責任を市町村自治体がもてるのかということは別である。市町村自治体へのひも付き一括交付、国の事務の見直し、直轄事業事務制度の廃止などが大きな検討課題である。
 市町村自治体の地域政策の遂行に、地域住民との協働的な関係は重要なことである。しかし、注意すべきことは、自己責任による拝金主義的な民間活力の積極的導入ではない。自治体の地域住民との協働は、住民自身が自発的、自立的に参加して、非営利の社会的セクターをつくるなどして、住民の人間らしい豊かな暮らしにを実現していくためである。
 憲法で保障された地方自治の尊重は、住民の暮らしからの自治と住民の基本的な権利から、地方自治財源の確保、住民参加の自治行政権など地方自治基本法の制定が求められている。
 自治基本条例は、自治体の自治(まちづくり)の方針と基本的なルールを定める条例として、平成13年に北海道ニセコ町からのまちづくり基本条例からはじまり、令和3年4月現在では、全国で397自治体に拡がっている。自治体情報の住民への共有は、市民参加、住民の協働ということで、憲法地方自治の本旨の内容が深まっていく。ここでは、住民の学習権との結びつきが不可欠である。この条例制定によって、自治体に対する住民参加の民主主義が充実していく。
 行政による住民説明会は、各地で実施されている。これには、一方的な行政施策の住民への啓蒙活動の場合が多くあり、市町村自治体の職員が、住民と共に学びながら、共に地域政策づくりとその実施を協働でしていくことは少ない。市町村自治体の職員の住民の参加を尊重することは、住民の暮らしを直視しながら、行政の施策との関係で、地方公務員のそれぞれの分野の専門家として吟味していくことである。
 市町村自治体職員が、社会教育の専門職員と共に、自らの職務の遂行に暮らしの学習権を保障していく活動を位置づけていくことが大切である。地域主権の公務労働には、社会教育を伴ってこそ、主体的住民参加と住民の積極的な協働活動ができるものである。この意味で、市町村自治体の職員の地域参加の施策遂行は、暮らしの学習権を伴って、社会教育活動の一翼をになっているという認識をもつことが重要である。

 
参考文献
 アマルティア・セン「貧困の克服」「人間の安全保障」集英社新書、NNKスペシャル取材班「無縁社会」・文藝春秋・菅野久美子「家族遺棄社会」角川新書、佐藤学「第4次産業革命と教育の未来」岩波ブックレット、クラウス・シュワブ「第4次産業革命を生き抜く」日本経済新聞出版社、辻浩氏「現代教育福祉論」ミネルヴァ書房、明日香壽編川「グリーン・ニューディール岩波新書、諸富徹「エネルギー自治地域再生岩波ブックレット、デボラ・テェンバース「友情化する社会」岩波書店、本多滝夫他「地域主権改革と自治体の課題」自治体研究社

   

貝原益軒と習俗からの学び

    貝原益軒と習俗からの学び

 はじめに

 

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 貝原益軒が少年時代を過ごしたのは、筑前飯塚市八木山の集落です。現在は、その地に貝原益軒学習の碑があります。飯塚市から福岡市への国道201号の山を登っていく道路沿いに、八木山小学校があります。その向かいの道を入ったところに学習碑があります。ここは、のどかな田園風景です。益軒は、少年時代の感性強いときに、この自然の山に囲まれた田園風景で育ったのです。

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 貝原益軒の父親は武士でしたが、幼いときに、父の転職で各地に転居しました。民間で生活した経験もありました。父は益軒13歳のとき、知行を失い、医業を営むようになります。益軒は少年期のときから、父親によって、儒学を学びました。利発であった益軒は、18歳で忠之の近侍として任官されますが、諫言することで、20歳のときに忠之の怒りにふれ、失職します。7年間の浪人生活をするのでした。

 しかし、黒田藩の重臣より、益軒の学問的能力が27歳のときに認められ、藩の費用で京都などに留学できるようになるのです。7年間京都などで学び、34歳のときに福岡に戻り、150石の知行をもらいました。

 福岡では、若い藩士のために儒学の大学の講義をするのでした。益軒は、黒田藩の儒学者として、若い藩士の教育者として、また、儒学者として藩の相談役を勤めます。さらに、黒田家の歴史をまとめる仕事をします。そして、くまなく調査した筑前国風土記をあらわすのでした。
 貝原益軒(1630年~1714年)は81歳の晩年に「和俗童子訓」で、民衆の中に根づいていた習俗の子育てを儒学的な孝の精神によって整理しました。83歳のときには、自然の力、民衆の暮らしの健康術を学んだものを養生訓として書いています。

 益軒の暮らした同時代では、「仁愛、恕(思いやり)」と日本的ヒューマニズムを説いた伊藤仁斎がいます。この時代は、子どもの教育は僧によって行われていた時代から次第に民間の学問をする人々に変わっていくのです。
 貝原益軒の学問は、民間の人々の生活習慣を大切にして、孝の道徳が大きな柱になるのです。それは、天地すなわち自然の心は仏教によって定着していた恩の観念に通じるものです。仁の心は、恩に応えるということで、万物に対してあわれみ、愛をもち、報恩の精神を形成するというのです。
 習俗としての親子関係は報恩の精神からです。自然のなかにある法則性が人間の習俗を支配するとみるのです。孝によって、秩序を考え、忠義と孝は次元が異なると、貝原益軒は考えたのです。

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貝原益軒の子育て・教育論


 貝原益軒の子育て、教育論では、過保護を戒め、とくに富貴の家の子どもは、特別に注意が必要としています。彼は、儒学的な忠義の精神ではなく、民衆の暮らしのなかにある孝行から儒学を考えたのです。ここに貝原益軒儒学思想の特徴があります。
 小さいときから早く善い人に近づけ、良い道を教えるべきというのが益軒の子育て論です。人はみな天地の徳を生まれつきもっていますが、教えがなくては、人の道を知ることができないと益軒は考えるのです。
 益軒は、善い人を選んで教育にあたるべきとのべます。子どもが悪くなるのは、そばについている人が教えの道を知らないからというのです。学問をするのは、善を好み、善を行うためという志が重要だと益軒は強調します。

 子どもを育てるのは、人としてのまもるべき義の教えをするのがよいというのです。子どもは厳しく教え、かわいがりすぎると、父母を尊敬する教えが行われず、規律を守らず、したがって父母をあなどって孝の道がたたなくなるというのです。

 貝原益軒にとって、子どもを愛して、大事にするには、その子に苦労させる必要があるというのです。困難に耐えられる子どもが大切というのです。その家の位よりも貧しく、何でも足りないことに遭遇して、もてなしを薄くして、気ままにさせないほうがよいというのです。
 さらに、人間として最も大切なことで、教育の本質でもある善の志を身につけていくことで、うそをいわぬ、偽りをいわないことを教えの本道にするのです。約束を違えては、偽りとなり、信用を失えば人の道ではないと。子育てにとって大切なことは、子どもの時から心をおだやかに、人を愛し、なさけをもつようにし、人を苦しめたり、あなどったりせず、つねに善を愛し、仁を行うことを志としなければならないと益軒は強調するのです。
 益軒の生きていた時代に、子どもを早くから教育するといじけるからよくないという人がいました。つまり、知恵は自然とつくということで、ただ思うようにさせておくがよいという考えがありましたが、これは愚かな人のいうことですと益軒は、子どもの自然成長性を否定するのです。
 子どもの好きなことは、まずその好むところのわざをえらばないといけないというのです。人間らしく生きるうえで好むことが最も大事というのです。しかし、益軒は、人間的な善によって、子どもの好むことに気をつけて、よく選び、好みにまかせてはいけないというのです。子どもの好みにまかせては善悪を選ばないことになるというのです。ここに、教育の大切さがあるというのです。
 人には三愚あると益軒はいうのです。すぐれた才能があっても傲慢で自分の才をほこり、人をあなどるという人がいます。親が子どもをほめるのは、子どもが悪くなるというのです。諫言をきいたら喜んでそれを受け入れなければならぬ習慣を身につける必要があるというのです。諫言されたら、けっして怒ったり、そむいたりしてはいけませんし、諫言をきいて喜んで受けたならば、その人は善人になっていくというのです。諫言を積極的に受け入れて、自分のものにしていくというのが、益軒の見方です。
 四民(士農工商)とも、その子の幼児から礼儀作法、聖経を読ませ、仁義の道理、書き方、算数を習わせることが必要ということで、すべての人々の子弟に学ぶことの大切さを強調しているのも益軒の見方です。六芸という礼、楽、射、御(ぎょう=馬術)、書、数は、大切ですが、義理の学問が本道で、芸は、末です。六芸のうち、書き方、算数は、金持ちも貧乏人も四民共に学ぶことが必要というのです。

 算数は卑しいわざであるという日本の風俗は誤りですと益軒はのべるのです。身分の高い者、低い者も、算数を知らないと自分の財産や禄の限度を考えず、みだりに財産を使ってしまって困窮するというのです。
 貝原益軒は随年教法をとったのです。六才の子には、はじめて字を教えるのに「あいうえを」。七才の子には、男女席を同じにしないように。この年齢の子どもの知恵は少しずつでてきます。だんだんと礼法を教えます。八才の子どもは、古人が小学を学びはじめたときです。幼い子どもに、とくに義を教えることが大切になっていきます。
 10歳になったら、5常の道(仁、義.礼、智、信)5倫(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)の道をおおまかに教えることが必要というのです。10歳になると外に出して昼夜、師につかえます。これらの教育のためには、父母の家におくことを推奨しませんでした。子どもをいつも父母のそばにつけておきますと、恩愛になれて、日々あまえ、気ままになり、努力して艱難にたえられないからというのです。
 15歳になったら、大学の学問をはじめる年です。身を修め、人を治める道を学ぶのです。20歳には冠をかぶるということで、大人の徳に従うのです。大学は、少しずつ教え、好きになることです。難しく面倒で、その気を屈するようなことはしてはならというのです。難しく教えると学問を苦しんでいやがる心がでてくるのです。
 教えるには順序が必要というのです。はじめて本を読む時はまず文句を短くして、読みやすく覚えやすいことを教えるがよいというのです。本を読むには早くさきを読んではいけない、毎日読む努力させる必要があるというのです。

 そこでは、学ぶことがきらいにならぬようにする工夫が必要だということです。一度にたくさん教えても意味がない、一字、二字、三字ずつ字を知らせ、そのあと一句ずつ教えるが工夫が求められるというのです。そして、句読をはっきりさせて読ませ、文章の意味を教えていくことが必要なのです。

 以上にように、貝原益軒は、教える方法についても年齢ごとに配慮しての子育て、教育の工夫を求めているのです。


 貝原益軒の女子を教える法

 

 貝原益軒は、女子を教えるのは親というのです。ここが、男子と異なるのです。師にしたがい、ものを学び、友達と交わり、世上の礼法を見聞することが多い男子と違う現実があるというのです。

 女子は、いつも家のなかにいるので、師にしたがって道を学ぶことがない。女子は、心を本道として、和と順の女徳、貞信に、なさけが深く、つつましやかで、静かな心をもつように育てられて、教育される必要があるとするのです。

 婦人の職分は人に仕えて、家庭内を治めるものというのです。女には、4つの行として、婦徳、婦言、婦容貌、婦効があるといいます。子を思う道に迷って、愛におぼれててはいけないと益軒は、女子教育の家での教育の難しさを語るのです。

 4つの女性の行について、益軒は次のようにのべるのです。婦徳とは、こころだてのよいことを言う。こころがただしくきれいで、和順の徳とすることです。婦言とは、嘘を言わず、言葉をえらんでいい、ふさわしくない悪い言葉を使わない。言うべきときにのべて、不要なことは言わない。また、人のいうことをよく聞く。

 婦容とは、無理にかざっていないが、よそおいが上品でふるまいがきれいで、衣服もさっぱりしていることです。婦効とは、女性の勤めるべきことの織物、糸つむぎ、衣服を整えることです。

 益軒は、女性にも学問が必要と強調します。女性にとっての学問を身につけていくことを強調した益軒の子育て・教育論を見逃してはならない。7歳からかなを習わせ、漢字も習わせるのがよいとしています。そして、古い歌を読ませ、風雅を知らせる必要があるというのです。

 貝原益軒の女性の勤めということは、家族的共同体における男が外で、女は、内という家族内分業と封建的な家父長制が支配していた時代の産物です。現代に貝原益軒の女子を教える法から学ぶことは、女性も読み書きからの学問が必要ということで、生きる志を学ぶということを見逃してはならないのです。

 婦人に起こるこころの病は、和順でないことにあるというのです。それは、怒り、うらむのと、人をそしのると、ものをねたむと、知恵がないということですと益軒はのべますが、これらの心のなかにある弱点は、女性ばかりではなく、人間のもっている悪の業のようなものです。常に人間の善のこころとして克服していく教育や修行の課題があるのです。

 

 貝原益軒のみる学ぶことの本質ー大和俗訓からー

 

 貝原益軒にとって、天地の理と人の道とは、聖人経典の学にあるというのです。天地は万物の父母で、仁義礼智信という五常は、天地のこころをもっているというのです。天地は万物を生み養うことで、人は天地の大恩をうけているというのです。

 仁の理は天より生まれた本性で、人倫をあつく愛し、鳥獣草木をあわれんで天地の恵みを力を助けるをもって、天地に仕える仁義とするのです。人は天地の恵みによって生まれ、天地の心を受けているのです。人は、天地のうちにすみ、天地の養い受けているのです。益軒にとって、天地の心は絶対的であるのです。天地の恵みによって、人は生まれ、生きることができるというのです。

 人は無限の大恩を天地から受けているのです。人欲によって、天理に従わないのは、天地の大恩にそむくものと益軒はみるのです。仁者は、人を愛し、われを愛する心をもって、人を愛するものです。仁者は、自分がきらうことは人にほどこさないのです。そして、我が身をたてようとして、人をたてようとするのです。

 益軒は、人欲と天理の矛盾を指摘して、天地の大恩をもって、人を愛することを強調するのでした。益軒のヒューマニズムは天理と密接に結びついているのです。

 益軒の学問の推奨には、志を根本としているのです。かれの学問論はまず志をたてることを根本ということから出発するのです。志は大きく高くするのがよいとするのです。志が小さく、低くすると小さな成功に案じて成就しにくくなるというのです。天下第一等の人となると平生から志すが強く、大きく、高い志をもって日々勤めて行えば長い間に、その効がつもって、かならず人にまさることになるとみているのです。

 博学で経書に通じていても、その心だてや行いが悪くて俗人に劣っている人がいると益軒は指摘するのです。これは道に志がなくて、道にわが心を得ていないからというのです。道に志がなかったならば、文字を知っているだけで、心に益がなく、無用の学問と益軒は切り捨てます。

 益軒にとって、志をたてることは、広く古い書を読んで、我が身を誤りを改め、善にうつって、身を修める工夫をするということです。学問をするには、師を尊ぶことになるのです。およそ人が不幸不忠であったり、いろいろと悪を行ったり、欲をほしいままにして、身や家を滅ぼすのは知がないからと、知の重要性を強調します。

 益軒は、知があれば善悪を知るというのです。書を読み聞く見るという知と真知とがあります。真実の知は、書物を読んで聞く見る知によって、わが心に道理の真を知ることです。真に知ればよく行うことです。学問をすればわがために、人のために益となるのです。それは、有用の学になるというのです。

 有用の学問ということで、益軒は、次のようにのべます。有用の学問は、身を修め、人倫の道を篤く行い、善をして人を助けることです。疑いを人に尋ねることは、知恵を求める道です。問うのは知恵を人に求めることです。思うのは知恵をわれに求めるのです。

 益軒は、ふだんの身近なことから有用の学問の行いをするのがよいと言うのです。心が大きいとおごって慎みがなく、細かい小さな行ないに努めない。学問の基は謙虚です。我が身をほこらず、人にたかぶらないので、人に問うことを好み、師友をうやまって、教えをよく聞き、人の諫めをよろこび、人を責めずに、我が身を責めるのをへりかだるというのです。

 益軒は、人の性は本来善というのです。人はたいてい気質と人欲に妨げられて善を失うのです。人欲の妨げを去って本性の善になっていくことが学問の道です。学問の法は、知と行の二つを要するのです。

 知行には5つがあると益軒はのべます。中庸、博(ひろ)く学ぶ、審(つまびらか)に問い、謹んで思い、明らかに弁(わきま)え、篤(あつ)く行うということです。博く学ぶ方法は、見ること、聞くことです。天下の道理は無限です。その道理を知らないと行うべき方法がわからないで誤ることが多いというのです。

 道理はわが一心に備わり、その作用は万物の上にあるから、まずわが一心の道理をきわめ、次に万物のついてひろい道理を求めて、自分の心中に自得すべきです。博く学ぶことは本を読むほど益のあるものですが、文字だけを好んで義理を求めないのは博く学ぶことではないと益軒はみるのです。

 審らかに問うとは、すでに学んだことで、自分の心にうたがわしいことを明師や良友に近づいて詳しく問うて、その理を明らかにして、疑いと解くことです。謹んで思うは、学び尋ねたことを心を静かにして慎重に考えて、とく納得しなければならということです。

 学問は自得を尊ぶことですと益軒はのべます。自得とは謹んでよく思って、心中に道理を納得して自分のものにしたことです。明らかに弁えることは、すでに謹んで思案して、なお善悪のまぎらわしいことがあったら明らかにその是非をきわめることです。

 篤く行うにはすでに学び問いて学び弁えて、その道理を知ったならば、その道理を篤く行うことで、その道がたっていくことです。篤く行うには、ことばに忠信にしていつわりなく、行いを謹んで誤りを少なくすることです。人のわざわいは多ければ言葉と行いとの二つを出ない。言葉をまことにして行いを慎めば身がおさまるのです。

 ところで、人の身の行動は7つの情から起きると益軒はのべます。喜怒哀楽愛悪欲という7つの情です。7情はみなこれ人情であるから、それはなくてはならないというのです。過不足なく適度なことが必要です。過ぎたるはもっとも害が多いのです。人をあわれるものはまことの善です。

 しかし、自分の気に入った人を愛することで、愛におぼれ、その人の悪いことがわからず禍となることがあります。怒るべき時に怒るのは人の不善をいましめる道です。怒りすぎると、その人の善のあることを知らず、小さな誤りを大きくすることがあるのです。悲しむべきときに、悲しまず、楽しむべき楽しまないのはひたすら情がないことです。7情のうち怒りと欲の二つはもっともわが心を害し、身をそこなうと益軒はいうのです。

 禍を生じないためには、欲を少なくする工夫が必要です。十分に心がかなうと禍があるのです。常に不足がよいというのです。足ることを知ることが大切なのです。我が身に事が足りていることを知ったならば、貧賊であっても楽しい。足ることを知らないと富貴であっても楽しくないのです。益軒にとって、公の見方は、天道の恵みで人に愛敬をもって集まることです。

 公益を考えていくうえで、私欲の克服は重要なことです。益軒の考える私欲とは、ひたすらわが身を利しようとばかり思って、人のためにかえりみないことです。これは人とわれをへだてることです。公益とは、人とわれをへだてることがなく、われと人を同じく利することです。これは天意にかない、人心にかなうことです。だからその心の誠は、自然にあらわれて、人の誉れも喜びもあつくなるのです。

 私欲は争いのもとであると益軒はみるのです。私欲は人間が生まれつき自然に持っている楽しみ失うと益軒は指摘するのです。

 君子に私欲があると人に生まれついた楽しみが失われていくのです。すべての鳥獣がさえずり鳴くのも、草木がさかえ、花が咲き、実がみのるのも、みなこれは天機の発生するところで万物自然の楽しみです。これゆえ人の心ももとから楽しみがあることを知るべきです。

 欲にひかれてこの楽しみを失うと、それは天道の道にそむいているのです。利は天地から生じて、天下の人に与え養う理であるから、天下の公物です。自分の一人の私すべきものではないのです。

 われ一人利を得ようとすれば争いが生じて、かえってわが身の害となるのです。むさぼって求める利は、真の利ではない。これは、利を求めるのではなく、害を求めるのです。私欲のおおいがあって心と体をふさぐからくらくて道理が通じない。だから心を明るくするには、私欲を去るがよいのです。以上のように貝原益軒は、私欲の害について、禍を起こす真の利で人の道ではないことを強調するのでした。

 

 貝原益軒の養生訓

 

 貝原益軒の養生訓は、内欲と外邪から身を守ることであるとしています。内欲とは、7情の欲をがまんすることであるとみているのです。内欲をがまんすることで、大事なことが、飲食を適量にして飲み過ぎないことをあげています。

 外邪は、天の風、寒、暑、湿の四気です。外邪を恐れて防ぐのです。畏れることは、慎みで我慢することで、身を守る心法です。それは、健康を保って養生するうえで大切なことであると益軒はのべるのです。

 心をやすらかにすることは、体を守ることです。養生の術はまず心気を養うことです。心をやわらかくにして、気を平らにして、怒りと欲を抑え憂いと思いを少なくして、心を苦しめず気をそこなわずというのが心気を養う要領です。

 およそ薬と鍼灸を使うのはやもえない下策です。薬も病気にあわなかったら害になります。針は余分な気を除くが足りない気を補うことはできない。やもえない時でないと鍼灸と薬を使ってはならなと益軒はいうのです。

 養生の道は元気を保存することです。元気を保存するのは、元気を害するものを取り去ることで、元気を養うことです。人間の3つの楽しみは、第1に道を行って、自分に間違いなく、善を楽しむことで、第2には、自分の体に病気がなく気持ちよく楽しむことです。第3に、長生きして長く楽しむことです。

 養生とは庭に草木を植えて愛する人は、朝晩に心にかけて水をやったり、土をかぶせたり、肥料をかけたり、虫をとったりして、よく養い、その成長を喜ぶと益軒はみるのです。どうして自分の体を草木ほど愛さないでいいことかと益軒は問うのです。人間のからだは父母をもとにし、天地をはじまりとしたものです。天地・父母の恵みを受けて生まれ、また、養われた自分のからだであるから自分だけの所有物ではないのです。

 自分の体力でつらくない程度で、からだをうごかすことは、血気循環がよく食事がとどこおらないので、養生の要術になるというのです。自分に相応の事をしようと、手足を働かすことだと考えるのです。いつもからだを怠けてはならないのが養生の道であるというのです。

 益軒は人は養生のためには、じっとしてはならないというのです。人間のからだは、欲を少なくして、ときどき運動をして、手足をはたらかせ、歩いて一ヶ所に長く座っていないようにすれば血気は循環してとどこおらない。これが養生の術です。

 養生の道で過信は禁物です。自分のからだの強いのを過信したり、若さを過信したり、病気が軽快を過信したりするのはみな不幸のもとになるというのです。過信は、健康を守っていく養生にとって、大きな害になるというのが益軒の見方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナムディン省農業高校の開校にあたってのあいさつ

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 ベトナムナムディン省農業高校が2021年9月6日に開校しました。日本の農業高校をモデルにしてつくったナムディン省の農業高校です。日本とベトナムの友好発展をめざす学校です。第1外国語は日本語です。農業クラブなどクラブ活動を大切に、体験活動を重視しての創造力と人間形成も大事にしていくということです。
 
ナムディン省農業高校の開校にあたっての挨拶
 鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延より
 
 入学おめでとうございます。多くの夢と希望をもって入学してこられたと思います。ナムディン農業高校は、日本とベトナムの友好発展のための学校です。日本もベトナムも世界の環境問題のなかで、農業や林業をとおして、新しい持続可能な社会づくりをめざしているところです。農業や林業を原材料に工業の発展、自然や農林業を通してのエネルギーの創出、健康や観光、そして、教育にと、新しい経済や社会づくりをめざす時代です。これらには、人材養成が極めて大切になっています。
 ベトナムは、太陽と水に恵まれ、素晴らしい自然条件をもって、農業も盛んな国です。人類的な未来社会をつくっていくうえで、大きな条件をもっています。農業高校で、しっかりと農業や林業の自然科学、社会科学の基礎を学び、実際に役にたち、応用と創造的な能力を体験をとおして身につけてください。
 とくに、なんでも自分で考え、自分で試して、仲間のみんなで議論して、基礎的な能力を身につけてください。新しい未来をつくっていくためには、創造的な力が必要ですが、その創造力も思いつきだけでは生まれません。人類が積み重ねてきた学問の基礎を体験をとおして、身につけていくことで、創造力が身についていくものです。
 まずは、農業や林業のもつすばらしい未来社会にとっての大いなる可能性をみんなで出し合ってみましょう。先生にもどんどん質問していくことです。ベトナムの農村は、ちょっと前まで、自給自足の生活をしていました。エネルギーはどうしていたか。健康はどうしていたか。
 VAC運動というものもありました。現代ではなくなりましたが、今一度、未来社会を考えるときに、石炭や石油の資源はなくなります。また、それは、地球環境にも非常に悪い燃料です。
 どうしたらよいのか。じっくりと考えてください。答えは、すぐにでなくてもいいです。高校3年間でじっくりと考えてください。そして、自分の将来も未来社会に役に立つように、個性を大いにのばしてください。
 高校3年間は、もっとも社会との関係や自分の将来を真剣に考える時期です。また、人間的にも成長していく時期です。生き方や哲学・思想の勉強も重要なことです。素晴らしい人間性をもつことは、一生の宝になるのです。自分をじっくりみつめ、自分のやりたいことを高校3年間で探ってください。
 農業高校では、クラブ活動を大切にしていくことが大切と思います。日本の農業高校では、農業クラブ活動をして、自分たちのアイデアで、高校生でできる食品加工の商品づくりや、農村の地域振興などの計画案を高校生として提言しています。
 また、スポーツクラブも盛んで、日本では高校野球高校サッカーなどの全国大会が有名です。ここから、一流の選手が育っていきます。絵画や音楽のサークルもあり、感性の豊かな高校生の時代に、芸術文化にふれることは、一生の人生に大切なことです。
 ベトナムはすばらしい歴史と文化をもち、独立と自由を大切にしてきた国です。未来社会をつくっていくのは青年です。農業や林業のもつ大いなる可能性をぜひとも一歩一歩実現していくこと、素晴らしい人間成長を期待して、入学にあたってのわたしのあいさつにしたいと思います。
 

Lời chúc mừng nhân dịp khai giảng trường cấp ba Nông nghiệp
Nam Định
 Xin chào mừng các em!
Thầy nghĩ rằng các em đặt chân đến ngôi trường này với rất nhiều ước mơ và hy
vọng. Trường cấp 3 nông nghiệp Nam Định là ngôi trường góp phần cho sự phát
triển mối quan hệ hữu nghị Việt Nam – Nhật Bản. Trước vấn đề môi trường toàn
cầu, cả Việt Nam cũng như Nhật Bản đều đang hướng tới mục tiêu xây dựng một xã
hội bền vững thông qua sự phát triển của nền nông nghiệp và lâm nghiệp. Thời đại
hiện nay là thời đại mà chúng ta hướng tới việc xây dựng một xã hội mới, một nền
kinh tế mới, trên cơ sở nông nghiệp và lâm nghiệp cung cấp nguyên liệu để phát
triển công nghiệp, dựa vào thiên nhiên và nền nông, lâm nghiệp để tạo ra nguồn năng
lượng, phát triển du lịch, giáo dục, sức khoẻ con người. Để làm được điều này, việc
đào tạo con người vô cùng quan trọng.
 Việt Nam là đất nước có điều kiện tự nhiên tuyệt vời, được thiên nhiên ưu đãi về
ngày nắng, nguồn nước và nông nghiệp là một trong những ngành kinh tế chính. Đây
là điều kiện quan trọng để tạo ra tương lai cho nhân loại. Tại ngôi trường này, các
em sẽ được học những kiến thức căn bản về nông nghiệp, lâm nghiệp, khoa học xã
hội và thông qua những trải nghiệm thực tế, các em sẽ có được năng lực ứng dụng
và khả năng sáng tạo cho bản thân.
 Đặc biệt, các em hãy tự mình suy nghĩ về mọi thứ, tự mình làm thử, thảo luận với
bạn bè để học được những kỹ năng cơ bản. Để tạo ra một tương lai mới, chúng ta
cần có khả năng sáng tạo, nhưng khả năng sáng tạo không tự nhiên mà có được. Nó
được hình thành thông qua việc học các kiến thức căn bản mà loài người đã tích luỹ
được từ trước tới nay và trải nghiệm thực tế.
 Đầu tiên các em hãy cùng nhau suy nghĩ làm sao để xây dựng được nền nông
nghiệp, lâm nghiệp sạch và thân thiện với môi trường, làm tiền đề xây dựng xã hội
bền vững cho tương lai. Và các em hay mạnh dạn hỏi giáo viên thật nhiều. Cách đây
không lâu thì nông nghiệp Việt Nam vẫn mang tính tự cung tự cấp. Đun nấu, thắp
sáng thì thế nào? Sức khoẻ của con người thì ra sao? Phong trào VAC ( Vườn- aochuồng ) đã từng phát triển tại miền Bắc Việt Nam. Tuy nhiên, hiện nay hầu như
không còn nữa. Cả một thời gian dài, con người phụ thuộc vào nhiên liệu hoá thạch
( dầu mỏ, than đá ) nhưng đến một lúc nào đó những nguyên liệu này sẽ cạn kiệt. Sử
dụng nguyên liệu hoá thạch là nguyên nhân gây ô nhiễm môi trường trên toàn Trái
Đất. Khi suy nghĩ về xã hội tương lai, các em sẽ dùng năng lượng gì? Cũng không
cần phải đưa ra câu trả lời ngay lập tức. Các em hãy suy nghĩ kĩ càng về vấn đề này
trong ba năm cấp 3 của mình. Và hãy phát huy mặt mạnh của bản thân mình sao cho
sau này chúng ta đều sẽ trở thành người có ích cho xã hội.

 Ba năm cấp 3 chính cũng là khoảng thời gian rất quan trọng để các em suy nghĩ,
định hướng về tương lai của bản thân. Và cũng là ba năm để các em trưởng thành
hơn về mặt con người. Việc học cách sống, cách làm người là những điều thực sự
quan trọng. Có một nhân cách tốt, suy nghĩ và làm điều thiện chính là báu vật của
con người vậy. Các em hãy nhìn lại mình, thực sự mình muốn gì trong ba năm cấp
3.
 Hoạt động câu lạc bộ rất được coi trọng ở ngôi trường này. Tại các trường cấp 3
nông nghiệp ở Nhật Bản, thông qua việc sinh hoạt tại câu lạc bộ, học sinh làm ra sản
phẩm từ việc chế biến nông sản, thực phẩm và đề xuất kế hoạch phát triển nông
nghiệp tại khu vực mình sinh sống bằng ý tưởng của chính bản thân mình. Hơn nữa,
các câu lạc bộ thể thao cũng rất phổ biến. Các giải đấu bóng chày, bóng đá cho học
sinh cấp 3 toàn quốc rất nổi tiếng. Từ đây cho ra đời những cầu thủ, vận động viên
chuyên nghiệp. Trường cấp 3 nông nghiệp của Nhật Bản cũng có câu lạc bộ hội hoạ,
âm nhạc. Việc các em làm quen với nghệ thuật ở lứa tuổi cấp 3 - là lứa tuổi cảm xúc
cảm thụ nghệ thuật sâu sắc nhất sẽ đem lại những giá trị lớn với cuộc đời các em.
 Việt Nam là đất nước coi trọng nền độc lập tự do với lịch sử hào hùng cùng nền
văn hoá lâu đời. Lớp trẻ chính là những nhân tố xây dựng lên một xã hội mới. Thầy
hi vọng rằng các em sẽ từng bước từng bước xây dựng được nền nông nghiệp, lâm
nghiệp sạch và thân thiện với môi trường. Mong các em sẽ trưởng thành và trở thành
những người tuyệt vời tại ngôi trường này.
 Hẹn gặp các em trong thời gian tới!
Kanda Yoshinobu - Giáo sư danh dự đại học Kagoshima
Trưởng đoàn chuyên gia hỗ trợ trường cấp 3 nông nghiệp Nam Định

 
 

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学校の説明会の前日にナムディン日本語・日本文化学院の学生の準備

 

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学校の説明会

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授業の様子です。

 

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yoshinobu44.hateblo.jp

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大原幽学の協同組合思想と教育論

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非常にわかりやす書かれたものです‼️

 

大原幽学の協同組合思想と教育論

 

 大原幽学は、農村における商品生産の発展のなかで、窮乏化する家族農業経営と生活を先祖株組合という方式によって、問題解決をした実践的な思想家です。日本ではじめて協同組合を幕末につくった指導者です。

 天保9 (1838 )年、現在の千葉県旭市の長部村に11名(翌年25名で領主の許可)の組合員が出資した5両分の耕地で先祖株組合をつくったのです。このときに4ケ村で計画されたのです。

 困窮する農家にとって、5両の出資金は大変な金額です。ここには、農村の富豪の名主や名望家の金銭的な貢献の役割があったのです。先祖株組合によって、それを共同管理しています。

 そして、合理的な農業経営のために、耕地整理と交換分合を行ったのです。共同管理のなかで、年間農作業計画の合理化、合理的田植え法の指導など地域の振興技術・技能的な教育、現代でいうところの社会教育実践をしています。

 その思想の根幹は、各農家の天地の和による自然の原理を大切にしたのです。彼は、合理的な技術・技能を発揮しての生産性と品質を高めていく方法を重視したのです。

 ここで注目することは、天地自然の原理を大切にするということで、当時の農業生産向上で爆発的に利用さていた干鰯(ほしか)を買っての農業肥料を禁止しているのです。小農的家族経営には、循環的に自然農法の発酵を大切に堆肥などの自給肥料を奨励したのです。

 干鰯は農業生産力を急激に増収していきますが、しかし、イワシが不漁であれば、価格が高騰になり、農業経営の危機をもたらします。不安定な商品経済に依存すれば、農業経営の危機にみまわれ、商品経済に飲み込まれて、農業経営は貧困になっていくというのです。爆発的に流行しているという干鰯を購入しなければならない肥料は、市場に大きく作用されるのです。

 安定的に自然循環的に得ることができる肥料は、落ち葉やわらくずでつくる堆肥です。また、客土も大切な自然農法です。砂質土には粘土を入れて、粘土質には腐葉土、砂を入れていく。土に酸素が供給されやすいように、水もち、肥料もち、排水を良くしていくような対策をしていく指導をしたのです。

 

 ところで、大原幽学は、市場を協同で開発して利益を高めたのです。その利益を積み立て、質流れたした農地を買い戻したのです。

  さらに、重要なことに、農具・食品・生活用品を共同購入したことです。先祖株協同組合は、共同購入による消費組合的活動もようなことをしたのです。商品経済の発展にともなって、農家の貧困化が進み、消費協同組合的な活動をしていることです。

 幽学は、諸国を遍歴していた経験から、どこにいいものがあり、安く仕入れることができるかを理解していたのです。つまり、それぞれの産地を承知していたのです。大量に共同購入仕入れ、中間マージンを省き、生産や生活に必要なものを安く購入することを考え出したのです。

 そして、贅沢なもの、華美なものなど必要でないものを購入しないように、指導して、みんなで私的な強欲を規制しあったのです。消費的な協同組合の世話役を中心に、注文、配給、代金の受領などの業務をしています。共同購入の品物は、イワシ、茶、砂糖などの食糧品から膳、茶碗、皿、鏡、農具、たね、薬品、下駄などに及んでいます。

 

 先祖株組合は、産業協同組合的要素と消費協同組合的要素をもって、経営と生活を安定させ、現代で言う社会教育的活動を協同の力でしているのです。ここには、名主や名望家の存在も無視できず、お金のあるものはお金を、労力のあるものは労力ということであったのです。

 幽学の社会教育活動では、相手の立場を尊重しての相談したのです。幽学の指導法の基本には、必ず人間関係における人のもつ情を大切にしたのです。人を導くのに、はじめは、必ず情を施して、その情がよく通るに至る後に、理を学ばせたいうことを幽学は、強調しているのです。彼は、会うときはそのたびごとに快く穏やかに、理を話すことをしたのです。

 幽学は、決して理詰めだけではなく、道友になった相手から信頼を得て、関心あることを重視して興味をもたせて学ぶことだというのが基本姿勢であったのです。人に教えるには聞く耳をもたないとだめだと道友に説くのです。人間関係ができてから指導した方が早道という見方です。

 そして、一方的な講義ではなく、入札、廻文、突き合わせ、心得などでの方法で指導しているのです。入札は道友が札に文章を書き、会合の席で、廻して行う方法があります。廻文は道友の間で文章を回覧する方法です。

 この場合に、注意書きと質問書を回覧する方法があります。突き合わせは意見の交換や討論です。相互に議論しながら学ぶことを大切にしているのです。心得は、箇条書きで分かりやすく守るべきことを決めているのです。

 そして、家族での話し合いを大切にした指導をしたのです。家族農業経営において、それぞれの家族内の役割が分担が不可欠であるということから、家族内の話し合いを重視したのです。

 家族会議の延長に先祖株組合の会議があったのです。この会議は、前夜と呼ばれ、性学の精神による先祖株組合の運営会議になったのです。運営会議や寄り合いは、小前夜(執行部の役員会)、中前夜(代表者会議)、大前夜(全員参加の全体会議)、惣(村全体)前夜、男達、女共と呼んだ会合が定期的に開かれたのです。

 それぞれが話し合って管理運営を決めていくという村落単位の組合での全員参加の寄り合いによる会議・相談会の方式ということをしたのです。ここでは、組合員の話し合い重視の合意をとっていたことが特徴です。当初は4ケ村での先祖株組合結成をめざしましたが、この運動は大きく広がっていくのです。

 明日の仕事の予定を前夜に家族で相談するということです。毎月17日に大原幽学が道友・先祖株組合員を集めての男子会がひらかれたのです。そして、18日は婦人会がもたれたのです。

 幽学は合理的考えから家族農業経営における女性の社会的役割の教育をしたのでした。健全な農家、円満な明るい家族を築くためにと女子教育に力を入れたのです。z男性と同様に女性も同じように道友と幽学は称したのです。

 また、不定期的に子どもの教育を道友・先祖組合の大人達の参加による子供会が開かれたのです。子どもの教育は、家族・家庭から実施していくということも幽学の特徴です。

 親から子へ、そして、孫へとと人材育成に成功しなければ家族農業経営、家の子孫繁栄は出来ない。先祖株組合という発想も子孫繁栄、末代まで継続的に持続可能性をもっていく農村社会を考えたのです。

 後生末代に至るまで、先祖株組合を持続性をもたせるためには、いかなる方法があるのかということを真剣に組合員たちは考えたのです。人も変わり、天地の変動もある。道友たちが精魂込めて、志を子孫のことまでも考えて、熱心に孝を本として、自分の心を正し、道友はじめ他人までの及ぶ限り世の道を楽しく生きるということをみたのです。

 道友たちの丹精を忘れず、真心をもって子孫に言い伝え、勤めて後生の守りを求めていくほかにない。人は支え合っていきるものとして、足を知ることが大切で、ぜいたくをしたがる人の言葉に惑わされては、決して幸福になれない。必ず人の道の規則を忘れず、みんな兄弟と思えるように、人生の楽しみをひろげるばけなど、道友の間で議論をつくしているのです。

 

 村落という農業生産と農村生活という地域を大切にしての協同組合運動です。地域の相互扶助の機能を市場対応を個別的にではなく、協同組合的に活用しているのです。まさに、協同組合原則の地域の貢献ということが発祥当初からあったのです。

 ICA が1995年にロッジジールの協同組合成立から百周年を記念して作られた協同組合の定義・価値・原則になっている共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすためにという定義をもっていたのです。

 また、第7原則として、新たに付け加えられた21世紀への原則になるコミュニティへの関与ということが日本をはじめアジア的協同組合の活動特徴として、国際的に原則として認知されたのです。

 

大原幽学の天地自然の理・性学

 

 先祖組合の結成以前に、大原幽学は、性学同門中子孫永々相続講の定款が検討されていたのです。性学は大原幽学の思想の根幹です。人間の本性の普遍性を天と地の和、土地や気候が違っても和、自然と和するということで、人は天の道によってによっていかされるというのです。性学は天地自然の理です。

 それは、あらゆる天地の和になるというのです。大原幽学の先祖株組合の発想に、子々孫々ということで、永続的に持続可能性をもって、代々相続可能な家族経営と家族生活を考えたのです。このための協同組合なのです。

 大原幽学は「微味幽幻考」(びみゆうげんこう)の著書でのべます。人の心には徳があるのですが、それは養い導くものです。善事は自ら世に伝わり、滅びないのです。悪事は一旦盛んになることもあるが、必ず滅ぶものです。天地の和は自然の導くように養うものです。

 孝道をもって自ら親子、兄弟、夫婦の中に、分相応の礼に立ち、家内一に和睦すれば自らつくる災いはなく、富めること疑いない。その心の穏やかなる徳に、農民は農業の手続きよく耕すことに至るのです。富は和睦にあり、和睦は礼をもってなし、礼は養いをもってなすのです。

 養いは孝道をもって善きを移すことにあり、だた大金を蓄えるは無益です。まずは災いの起きることを知り、そのもとを知るのは子孫永続であるというのです。強欲、淫犯、飲酒、遊楽にふける者は父母の心を痛め、妻や兄弟の嘆き、盟友や親類の憤りになるのです。

 己は人欲の私の中に襲われて、実際の信の心が乱れては、天道になっていかないのです。人の導く己の志があれば、自ら人欲の私を失って、自然と本心の正しきに至るのです。これが徳に至ることというのです。

 人欲の私に襲われて、天地自然の孝道の導くことを知らざることは、互いに心が離ればなれになっていくのです。それでは、人間の自然本性の徳を養い導くことができないのです。人は、それぞれの分相応と器量相応に導いていくのです。己は人を愛すれば、人もまた我を愛して、即ち和するということになるのです。大原幽学の基本思想は天道・孝道にそって、養い導くていくいくというのです。人間のもっている強欲から人間自然本性の愛と和・相互扶助へとつながっていくのです。。

 幽学の思想の根底は易学、儒教です。また、講の組織として、日本の農村社会の伝統的な相互扶助の関係である講の文化に依存したとみれるのです。協同組合における地域の貢献ということは、日本の協同組合運動の発祥ということからも、その後、協同組合運動の重要な日本的な原理でもあったのです。また、暮らしの単位の地域での話し合いを重視しての先祖株組合の管理運営や世話人の選出も村の寄合慣習に依存したものとみられるのです。

 長部(ながべ)村で日本における最初の協同組合結成がされたのです。イギリスのマンチェスターのロッチジィール公正開拓者組合の結成が1844年になりますので、世界で最も古い協同組合になるのです。

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 大原幽学は寛政年( 1797)年、尾張藩(現名古屋)の生まれと伝えられています。文化11 (1814 )年生家を勘当され漂泊の生活になります。当初は、剣道での道場破りをしていました。その後、放浪の旅を続けながら、神道儒教、仏教を一体とする性学の学問を開き、その学問を世のために役立てたいと各地で講話をするようになります。天保6 (1835 年)8月、房総の講話先で、利根川河口干拓地の名主遠藤伊兵衛の依頼で、1835年に長部村を訪れるのです。

 この時、幽学は39歳です。放浪の生活から定住地が定まるのです。長部村を拠点に、現在の千葉県旭市を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革や地域振興運動を指導するのです。

 

教導所の改心楼・社会教育での基本思想と先祖株組合

 

 長部村に腰を落ち着けた幽学は、門人達を道友(どうゆう)と呼び、性学道友の教導所の改心楼を創設したのです。幽学の思想にとって重要な概念は、天地の和即ち性理・性学です。天と地の和を根源として、人間関係から土と肥料の和など、すべてに和を貫徹するなかから人間平等論、協同論がでてくるのです。

 己人を愛すれば、人もまた我を愛して即ち和す。幽学は、長谷村で、先祖株協同組合の教育、耕地整理、質素倹約、子どもの教育・しつけの指導をするのでした。

 農村の復興は、協同組合である先祖株組合で、農民が協力しあって自活できるように、生産したものを協同で販売するなど、実践仕法を行って成果をあげていくのです。

 しかし、村を越えて協同労働と販売、学習を共にした結社が反幕府の運動になるのではないかと怪しまれるようになります。幽学は幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858)自殺により62歳の生涯をとじるのです。

 

 利根川河口に水運と海運によって栄えた銚子市の近くに干潟(ひかた)の広大な干拓地に、そこは、現在の旭市です。ここに幽学の先祖株組合実践があったのです。銚子は水運と海運の要で栄えた都市です。各藩の米倉も建っていました。水路で江戸と結んでいた中継地であったのです。さらに、漁業と醤油の町であったのです。

 銚子は江戸時代に商品経済の発展の中心地でもあったのです。商品経済の発展によって、農民層における格差の拡大が起きていくのです。また、格差拡大のなかでばくちなどもはやり、近世社会秩序の村落行政から一切の保護のない人別・戸籍をもたない無宿人が生きる場を求めて集まってきたところです。親分子分のやくざもののの世界もはびこっていたのです。地域社会の退廃も起きていくのです。

 江戸初期まで、ここには椿海(つばきうみ)という大きな湖がありました。この湖は、1674年干拓され、8万石と呼ばれる美田に変わったのです。この米作地域は、江戸中期以降には、発展する商品経済の波に飲み込まれ、農民の生活は苦しくなっていくのです。

 そこへ天明の時期に続いた凶作の影響も加わり農民はますます困窮化したのです。人々の心は荒れ、地域社会は、退廃的な状況になったのです。この結果、益々田畑も荒れはてて、農村の社会は崩壊へ向かっていたのです。

 このような状況のなかでの先祖株協同組合結成です。先祖株の運動は、それから後に、大原幽学のざん新な農業経営策と彼独自の精神論によって農村復興に努め結果、領主から模範村と1848年に表彰されるまでの実績を上げていくのです。先祖株協同組合の指導を受けた門人は4千人を越えるのです。

 

 当時は農業を基盤とした封建制度が崩れつつあった時代で、幕府は村落社会の変質に過敏であったのです。彼の名声で農民の門人が急増し、その実績が上昇すると、逆に幕府は警戒するようになったのです。

 幕府にとって、農民が特定の指導者の下に精神的・実践的行動に団結するのを喜ぶはずはなく、介入してきたのです。はじめは、1852年、取り調べは、幽学をはじめ道友9ヶ村38人に及んでいるのです。

 幕府の取り調べ・裁判は、改心楼の活動、先祖株協同組合など数年にも及ぶのでした。教育施設の改心楼の取り壊しを命じられます。結局、自害に追い込まれるのです。遺書には自分の不手際で幕府の介入を招いた責任を取り、かつ運動の永続を願う内容が記載されていたのです。

 

 ところで、大原幽学は現代的にいえば社会教育に力を入れています。貧困のなかで荒廃していた農民の勤労的精神、農業技術の振興などに力を入れたのです。彼は弟子との気持ちが通じ合うまでは教えず、教える人に応じた指導法を採用したといわれ、彼は教育者としても優れた人だったのです。

 

 1841年の正月の21日から2月7日まで、15ヶ村の34人の道友を集め子ども大会を開いています。子ども達を組に編成して、共同生活をさせて、相互に競わせながら意欲や働きを評価して、役割を体得させるという行事です。

 幽学は、子どもの教育や女子教育にも積極的に取り組むのでした。子どもを育てるには、生得的な素質よりも社会的、文化的生活環境が需要であると幽学はみるのです。「然らば性質よりは育てる人の風気を撰ぶ事こそ大事なるべし」。

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大原幽学の子育て・教育論

 

 幽学における子どもの発達段階の見方は、5,6歳の時は、才ばかりのびて智を増すことで、暇なしで、物ごとに才ばしる事、騎馬の如しということです。心身の発達は6才から年齢によって異なっていくというのです。男子は7才遠慮するようにあり、8才まで人の我慢の種になります。女子は7才から8才まで、人の心と、己の心が育っていくのです。この時期に、人の心を推察していくという心の芽生えがでるのです。

 9才にして人の心を探り気味になります。10才にして言葉が柔らかくなるのです。11才にて学びの志に力を得る頃になります。12才から14才とだんだん学びは集団的になっていくというのです。これらの教育には、具体的実践を媒介にして学習をすすめていく方法をとっています。

 

 幽学の教育方針で換子(かんし)教育という自分の子どもを他人に預けて教育してもらうという方法を推奨したのです。事を知らざる者は、己が子を余所の親子・兄弟に情愛深き、孝行なる人の側に置くべし。痩せ我慢の強き者や親子の・兄弟の情薄き者の側に置いては、何程書物を読ませても何の役にも立たぬ」、「子を育てるに、食いたい、飲みたいと思う根性ばかりを育てては、人となりてよろしき了見の者にならない」という考え方からの換子教育です。

 7歳から16歳までを対象ととして、複数の家で、道友の間で行われたのです。他人の子どもを預かるのも責任が重いのです。自分の家が子どもにとって見本となるぐらいで親の教育にとっても大切であったのです。

「預かる子どもの教育について心得の掟を示しているのです。預かりし子、可愛くなり人目をしのび落涙する程の情なければならぬ事」。「すべて物事口で教えれば、口で覚える、とかく行いをもって教えるべし。家内中の者どうしの話など聞かせておき、また一言二言は言うて教えるもよし」。「無理に仕込みたがるは悪く、子供の気の進む時を待ってすべす」。

 大原幽学は、先祖株協同組合をつくって農村振興をすると同時に、地域の協同精神の社会教育や、換子教育などの独特な子どもの教育に力を入れたのでした。

参考文献: 鈴木久仁直「大原幽学伝」アテネ社、中井信彦「大原幽学」吉川弘文堂、高橋敏「大原幽学と村落社会」岩波

中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)

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中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)


 日本における戦国時代に儒学の学問を修めて平和を考えようとした学校があったのです。それが足利学校です。現代の混迷した政治状況と平和を考えていくうえで、為政者のモラルをみていくうえでひとつのヒントを与えてくれるのではないか。

 足利地方では、中世時代から儒学の高度な教育を実施していた学校があったのです。大隅の国で育った第7代庠主=校長の伊集院九華は、なぜ足利学校まで学びに行き、半世紀にわたって、そこで暮らし、30年間近くも校長を務めたのでしょうか。また、長く務められたことは、九華自身の人格的な優れた面により、多くの学徒に慕われたことも考える必要があると思います。

 九華が、大隅の国を離れて足利学校まで行ったことを考えるうえで、大隅・薩摩・日向の島津家一族の絶えざる内紛と地方国人豪族との戦乱の状況をみる視点も大切です。

 室町時代の後期には、国内の交通網も発展していったということで、足利は、渡良瀬川利根川の水上交通も利用できる交通の要衝でもあリ、海をとおしての交易も発達して海外にもいく時代で、足利と大隅の国との精神的な距離も近くなっていたと思われます。

 

足利学校での中世後期の校長出身地と九州

 

 中世後期足利学校は、沖縄を含めて全国から学徒が集まっていました。琉球国から派遣された鶴翁智仙は、中国の明ではなく、日本の足利学校で学びたいという強い意欲をもって、12年間、そこで学びました。また、1年間、1537年に伊集院九華等と京都の東福寺で禅の修業をしています。琉球国に帰り、琉球国の社寺で学僧になるのです。
 足利学校では、3000名以上の学徒が学んでいたといわれますが、これは儒学的表現で、誇大ではないかともいわれます。3000名学徒の学びはフランシスコ・ザビエルが日本の坂東の大学として、イエズス会書簡でも紹介されています。

 足利学校の中世後期における校長の出身地域は、九州の人が多いのも特徴です。再興してからの2代肥後国、3代筑前国、7代大隅国、8代日向国、9代備前国となっています。7代と8代が南九州の出身者が校長を務めていたのです。ここには、当時の海洋をはじめ、交通の発達と九州地区の人々の広い交流があったからです。
 幕府の勘合貿易に島津家が守護職として、大きくかかわり、土佐沖から南九州から明に行くという堺商人と結んだ細川家と、博多商人と結んだ瀬戸内海をとおして、博多から平戸経由との大内家の争いもあったのです。島津家は幕府から海上警備を委託されていたのです。

 島津家は、1508年に朱印状を持たない商船の取り締まりをして、中継貿易の琉球を独占しようとしていました。中世後期における諸大名の海洋をめぐる争いがあったことを見落としてはならないのです。

 

足利学校中興祖の上杉憲実

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 足利学校は、関東管領上杉憲実が、1439年、幕府に反発して挙兵して鎮圧され、自害した足利持氏の供養の意味もあったといわれます。学問によって、平和をつくっていきたいという願いということです。

 幕府側にたった上杉憲実の人間的やさしさがあらわれています。平和を願って、儒学を学ぶために再興したといわれます。再興した初代の校長には、鎌倉の円覚寺から仏教と易学等儒学の造詣の深い快元をつけています。
 上杉憲実は、1446年に学則三条を定めています。学ぶべき三註四書六経列荘老史記文選の書籍を列挙。法を守らないものは処罰。学問を日頃怠けたものの処罰。この3つの項目です。

 かれは、四経を寄進して、漢学専門学校の継続によって、平和の世を考えたとみられます。学則三条の制定の翌年に、上杉憲実は放浪の旅路に出ます。足利学校の基本的方針を定めて、将来の社会を作っていくために教育の役割を期待したのです

 

第7代伊集院九華をはじ室町後期時代の教育内容

 

 第7代伊集院九華の時代に、儒学関係の遺置本は、非常に多くなります。儒学が講堂で講釈されていたのですが、仏教書は遺置本になく、私蔵本でした。釈学は、客殿などでした。僧侶になることは学ぶうえで、前提になっていますが、足利学校では儒学を重視したのです。

 講義は、例えば易学など、10旬が必要としたのです。一旬は10日間です。為政者としての人間的生き方、統治の方法、重要な決断をするときの易学などを学んでいたのです。
 さらに、ここでは、易学などの儒学によって、東洋医療を実証的な臨床学を学んでいました。そこでは、望診したうえで、舌診、脈診、腹診を経て病態を決め、薬を処方する察病弁知(さつびょうべんち)ということで、診断する方法での学びをしたのです。

 陰と陽のふたつの相反する関係と、陰陽五行説の理論のもとに、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓の五蔵の経路から、人体の相互に関連づけて、全体をひとつのものとして考えていたのです。
 足利学校では、このような臨床的な医療を発展させ、啓迪院という学校をつくって、多くの医学僧侶の弟子を育てたのです。また、医療の倫理として、慈仁ということで情け深く、相手を思いやる心を重視したのです。足利学校で育った曲直瀬道三は、日本東洋医学中興の祖といわれるのです。
 曲直瀬道三は、明で学んで、朱子医学を日本に導入した田代三喜齋から学びました。曲直瀬道三は、1528年に足利学校で入学しています。かれは、戦いのない世の中を目指した室町時代後期、日本僧侶の医者としても注目するところです。


 徳川家康に仕えた天海上人も足利学校で学んでいます。第9代の校長である三要は、豊臣秀次に仕え、徳川家康にも五経の「毛詩」の講義をしています。北条氏の崩壊によって、足利学校の存続の危機がありました。家康は、三要に京都伏見に上方の学校として、円光寺を開山させます。第十校長寒松以降も徳川家康のもとで足利学校の保護整備がされていくのです。

 

 中世後期の足利学校の学習形態

 

 中世後期の足利学校の学習形態は、講義、輪読、素読などでした。そこでは、自己に必要な書籍を一字一句間違えないように、自分のノートに正確に書きながら学ぶものでした。まさに、自学自習が基本的でした。また、「字降り松」ということで孔子廟の前に、学徒がわからない漢字がありますと、学徒は紙に書いて松に結んでおくのです。

 翌日に伊集院九華が読み方と意味を書いておくというのです。このような学習方法の説話が残っています。この学習方法は、自学自習として、現代でも足利市教育委員会は奨励していることです。
 足利学校の入学のときに、僧侶になるということはなぜでしょうか。中世時代は、学問を教えるのは、僧侶が担っていたからです。学校に入るには、すべての階層に開かれたものです。しかし、儒学以外は、講義をしていません。

 儒学の内容は、宋や明時代の五経の新解釈ではなく、すでに中国では棄てられていた古い漢や唐の時代の解釈でした。儒学孔子老子の唱えた原点に即して学ぶという態度をとっていたのです。

 

伊集院九華との関係で大隅・薩摩の文化・政治との関係

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 南九州の儒学の形成発展で見逃してはならないのは、桂庵玄樹の存在です。かれは、島津忠昌に1478年招かれて、大隅国正興寺(大隅八幡宮三柱寺のひとつ)、日向国櫛間龍源寺、薩摩国桂樹院で、朱子学を講じたのです。その結果、日本における戦国の世の中で薩南学派という学問の形成がされたのです。南九州での一族や地方豪族の国人層との激しい戦いの続く戦乱の世の中で、注目することです。戦乱の続くなかで、学問の花が咲いたのです。

  足利学校の第7代校長の伊集院九華の時代では、積極的に朱子学ではなく、旧注によって、講義を行っていたのは注目するところです。

 伊集院九華(玉崗瑞璵)は、大隅国出身(現在の大隅半島霧島市姶良市)です。かれは、1530年頃に足利学校に入ったとみられますが、なぜ、かれが儒学を学びに坂東までいったのでしょうか。また、九華は16世紀はじめの伊集院家のどの家系に属していたのでしょうか。

 伊集院という地名までも現在残っていますが、鹿児島市から川内市までの途中の町です。薩摩の国の地域です。伊集院九華は大隅の出身者ということになっています。大隅の国で育ったとみるのが一般的ですが、かれの兄弟などの縁者がいる地域で故郷として帰ろうとした地域とも考えられます。

 かれの育ちはどうであったのでしょうか。30歳まで何をしていたのでしょうか。室町時代の後期に、伊集院を名のることですので、苗字を許された名家で、学問を幼い頃からしていた家柄の育ちではないかと思われます。伊集院九華は、禅宗臨済宗といわれますが、出家はいつ頃になるのでしょうか。これらは興味ある課題です。
 九華の前校長であった文伯は、20年間足利学校の校長をしていました。足利学校で学び、京都の建仁寺の僧侶でありました。第5代の校長の時代に再度足利学校で骨をうめる覚悟で戻ってきたのです。

 九華は、文泊のもとで、学び、その影響を強く受けていました。九華は、文泊が建仁寺の僧をしていたときに接触があったのでしょうか。もし接触があれば、かれが直接に足利学校にいったことにはなりません。大隅国臨済宗の寺は、大隅八幡宮の3柱の正興寺も京都の建仁寺の末寺です。島津家が支配していた日向櫛間龍源寺も薩南学派の拠点で、桂庵玄樹が住持していて、学徒を教えていたところです。

 明との貿易港でもあった志布志大慈寺(臨済宗)も南九州第1の寺で大隅半島全体を勢力化にしていた権威ある寺です。大慈寺は明朝との交易での通訳などに僧侶がしていたなど明の文化の影響を強くもっていたのです。
 伊集院九華が足利学校に行った背景を考えるうえで、当時の大隅・薩摩・日向の状況と伊集院家の系図を考える必要があります。伊集院の本家は、14世紀前半に、島津家の重要な家臣として、姻戚関係もつくり、権勢を振るっていたのです。また、14世紀後半に島津家の後継争いで没落した伊集院家は、その弟になる別系の伊集院家が島津家の中興祖といわれる島津忠良(日新公)の重臣として活躍するのです。この時代は、伊集院九華と同世代の時代です。

 

島津家一族の内紛と伊集院家

 

 室町時代は、島津家の身内や一族、また、地方の豪族を巻き込んでの戦乱が絶えないときです。当時、太平の世の中は大きな課題でした。島津家は、一族、有力豪族との融和関係で婚姻、養子などの積極策が行われました。しかし、それで平和を築くことは無理があったのです。娘の婚姻や息子の養子は、島津一族の身内・一族の後継争い、地方豪族を巻き込んでの争いの解決にならないばかりか、後継での争いの原因にもなるのです。


 島津家での伊集院家が関わった大きな争いは、伊集院頼久の乱とよばれるものがあります。島津当主になるはずであった島津元久(母は伊集院忠国の娘)の嫡男子であったものが1395年に出家しています。かれの名前は、仲翁守邦人禅師です。関東に留学したと言われます。仲翁禅師は元久が開山した福昌寺の住職になっています。

 伊集院頼久の乱は、1411年の元久死後に後継の争いです。伊集院頼久の嫡男(母元久妹)を元久が後継指名していたことで争いになるのです。それは、伊集院家と島津元久の弟である久豊の争いです。

 これは、島津一族や地方豪族を巻き込んでの長い紛争になります。1449年に伊集院頼久の嫡男である煕久は肥後に逃亡して、この争いは終わります。孫の代の伊集院久雄が島津家に帰参します。所領は、大隅桑原中津川村です。


 伊集院頼久の息子で、守護に後継指名された伊集院煕久の弟であった倍久の孫になる伊集院忠朗は、16世紀前期に活躍した島津中興祖といわれる島津忠良に仕えます。伊集院忠朗は、その後に島津家筆頭家老になるのです。この島津忠明が、伊集院九華と同世代です。

 かれは、親子で島津家の大隅・日向・薩摩の統一と九州制覇に活躍します。後に、伊集院家は秀吉のもとで、都城8万石を与えられ、秀吉死後に、島津である義久の筆頭家老で、伊集院家の当主の忠棟が、島津義久の弟である義弘3男で、後に島津藩初代の藩主になる忠恒(家久)に謀殺されるのです。

 筆頭家老という島津家のなかで、強い影響力をもっていたため、忠恒(家久)は自分に家督相続を支持してくれないと伊集院忠棟に憎悪をもっていたのです。父が謀略にあって殺されて、息子の伊集院忠真は、島津忠恒(家久)・義弘親子に対して乱を起こすのです。これが庄内の乱です。一旦は和解しますが、油断させて1602年に日向の野尻での狩りの最中に射殺するのです。

 本来ならば、筆頭家老の惨殺、庄内の乱など、家を断絶させられる事件であったが、家康の思惑、島津義久の家康への嘆願の尽力によって、島津家は存続を許されたのです。同年に島津家の家督を継ぎ、島津家の初代藩主になります。

 その後に、島津家久は伊集院忠真の3人の弟と家族を皆殺しにするのです。義久の家老の平田増宗も暗殺し、その後に増宗の子孫まで皆殺にされたのです。非常に痛ましい島津家の三州統一後の歴史的汚点事件です。さらに、家久は義久の娘である妻とは不仲で、子どもはなく、義久亡き後は、彼女を追い出して、8人の側室をかかえます。その間に33人の子女がさずかり、次々に分家の家督相続や重臣らの養子や妻におしつけ、権力を思うままにしたのです。これが、江戸時代になっての薩摩藩主の島津家の出発でした。

 

室町時代の島津家の争いは何世代にも及ぶ


 室町時代の島津家の争いは、何世代も長期にわたり、凄まじいものがあります。1363年に島津家は、薩摩守護職の総州家と大隅守護職豊州家(鹿児島郡も含む)になります。反島津の国人一揆は、1361年から1397年まで4回起きるのです。

 幕府と島津家の対立も起き、守護職解任と復帰ということで、両島津家の対立に幕府も加味していくのです。薩州家と豊洲家は、強引に家督相続した久豊の時期に総州家の完全な軍事的敗北で終わるのです。
 強引に島津家の守護職を後継した久豊の死後に、島津忠国家督を継承して、薩摩と大隅守護職は、ひとつになり、島津家は統一されます。しかし、地方の国人との大規模な一気に悩まされます。南九州では、地方ごとに国人層の力が強く、島津家は、南九州での実質的な支配者ではなく、守護職としての権威にすぎなかったのです。このなかでの島津家の一族の内紛です。

 国人層の地域ごとの平定に、島津家守護職は苦労するのです。また、それに加えて、新たに、総州家と豊洲家の対立がなくなった後で、後継になった島津忠国と弟の好久との争いが起きるのです。さらに、薩南学派形成の桂庵玄樹を招いた忠昌の時期には、一族の反乱が絶え間なく起きます。
 大隅国の肝属家反乱に苦慮して、守護職であった島津忠昌は、1508年に自害します。島津忠昌は学問を重視しましたが、悲惨な人生でもあったのです。伊集院九華は、この事件に、その後に話を聞かされ、少年ながら大きな矛盾をもったのではないかと思います。

 伊集院九華の育った大隅・薩摩・日向は、近親者の反乱、一族の反乱、有力な家臣の反乱などで、悲惨な時代であったのです。この時代に、伊集院九華は、相次ぐ反乱、争いについてどのように感じ、思いをもっていたのでしょうか。伊集院九華が出家して、僧侶になっていく経緯、その後の薩摩・大隅・日向での活動についても興味ある課題です。この戦乱を終わらせ、島津家をまとめていくのが、伊集院九華よりも7歳年上の島津忠良(日新公)です。

 

島津中興祖の日新公と南九州三州統一


 島津再興の祖といわれる忠良は1492年生まれです。父と祖父は殺されて、母が伊作家の後継になって育てられました。母の再婚で、伊作家から島津相州家の養子になります。1512年に相州家の当主になります。島津忠良の祖父は、1500年に一族の争いに巻き込まれての死去でした。父は、下男に1494年に殺されています。
 忠良の祖父の伊作久逸は、島津忠国の3男で伊作家に養子にされた武将です。かれは、1473年に日向櫛間城主になりますが、1484年に飫肥城主との勢力争いで、伊作に戻るように守護の忠昌から命がでます。この命を聞き入れず、反旗をあげるのです。忠昌の時期は、一族反乱が相次ぐのです。1477年に薩州家の国久、豊州家季久の反乱が起きています。そして、1484年に伊作久逸らが一族を率いて反乱を起こし、翌年に降伏します。そして、伊作に戻るのでした。


 島津中興の祖である忠良は、桂庵玄樹の門弟で少年期に儒学を熱心に学んでいます。島津忠良の息子貴久は、守護職島津勝久の養子になって、1527年に島津家の宗家を一時的に継承します。しかし、そのことを島津実久が反対し、再び勝久が守護職に復帰します。勝久は、守護職に復帰しますが、弟の実久に1535年に攻撃されて、出奔するのでした。
 強引に武力によって、守護職をとった実久の本拠地は、出水です。鹿児島清水城には、距離があり、その間を島津忠良・直久親子は、寸断するのです。その間の渋谷一族を味方につけてのでした。そして、1536年に伊集院の城を奪還するのです。忠良は、1538年には実久の南薩の拠点である加世田城を落とし、1539年に鹿児島の紫原・谷山決戦で実久に勝利して、名実ともに守護としての地位を確立するのでした。

 忠良親子は、島津本宗家の地域の国人を被官化して、その層の家臣団を組織化して一族と家臣団の話し合いを重視していく老中制度を整備していきます。

 

大隅国での戦乱と大隅八幡宮

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 大隅の国では、大隅八幡宮の権威は大きなものが平安時代の荘園の形成からありました。大隅八幡宮は、巨大な荘園をかかえていたのです。中世後期になっても、その宗教的権威はあったのです。

 大隅国府のあった国分地方は、守護職の島津家が支配する以前は、正八幡宮政所職や霧島座主を務めた税所家が支配していたのです。税所家は、1483年に帖佐城の島津家を攻めて破れ、崩壊するのでした。
 その後、1519年に島津勝久の襲封以後の混乱で、伊集院尾張守為長が曽於郡の橘木城に拠って背き、新納忠武もこれに応じて、同城にたてこもっています。島津勝久(1503~1573)は、1520年に肝属兼演らに攻略を命じて、降伏させているのです。この伊集院為長については、反旗の理由がわからない状況です。島津勝久は、父の忠昌が自害したあとに、後継した長男、次に、後継した次男とが相次いでなくなり、短命の守護職でしたが、忠昌の3男でした。兄弟で守護職を三代にわたって後継するのです。

 伊集院九華の家系を調べていくうえで、大隅国のいくつかの伊集院家の動向を調べていくことも必要です。今後の課題です。
 大隅の国の本田家は、南北朝以来島津家の忠臣として仕えて、大隅国守護代になっていました。1522年に曽於郡を本田兼親に島津勝久は与えますが、これに対して一族で内紛が起きるのです。一族の執政本田親尚との対立で起きます。

 この戦いは、兼親が勝利します。その後を継承した本田薫親は、1527年に自分に反対する大隅八幡宮を襲い、社殿に火をつけ、薩南学派の儒学を教えていた神宮の3柱寺院であった正興寺(臨済宗建仁寺の末寺)も焼失するのです。
 大隅八幡宮の再興は、1558年と37年後です。本田薫親は乱暴の限りを尽くしたのです。正八幡宮領を我が物にし、自ら火をつけて消失させた社殿の修復はなかったのです。暴虐は、時を経るに激しくなって、家臣十数人を殺すのです。本田薫親は、1548年に忠良・直久軍に滅ぼされます。
 謀反を起こした本田家での戦いに活躍した伊集院忠朗・忠倉親子は、本田家が拠点のひとつてしていた城の主になるのです。現代の国分姫城の小高い断崖絶壁に囲まれた城で、橘木城にもつながっていくのです。

 古代から隼人がたてこもり、近くに大隅国府大隅八幡宮があったところです。姫木城と向かいあった山には、清水城が築かれていましたが、そこで、島津貴久が1年有余居住し、その後は、弟の忠将に治めさせています。

 

島津家中興祖の忠良(日新公)のいろは歌からみる思想

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 1550年に、島津直久は、伊集院の城から鹿児島の清水城に移るのです。島津忠良は、1550年に隠居しますが、為政者のあり方、人間として生きる道に、儒教の教えを47首のいろは歌方式で、まとめたのです。
 「いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし」と昔の賢者の学問を唱えても、実践しなければ意味をもたないという日新公は考えたのです。ここには、学問のみの学びということではなく、実際に実践して、役にたっていく学びで、学問を考えたのです。
 「学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ」と、学問をするには明日の昼も常にしなければならない。とくに、特に夜は静かで学問をするのに適しているというのです。


 「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高きいやしき」と、どんな立派な家にすもうと貧しい小屋に住もうと、心の高きに価値があると日新公は語るのです。心のあり方が人間の価値を決めるということです。
「理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の 行くにまかすな」と、理も法も大切にしない世の中でも、自分の心を流されずに、自分の信念をもって生きよと日新公は述べています。

 日新公の生きていた時代は、理や法ではなく、権力をめぐっての島津家での身内や一族で争い、地方ごとに豪族勢力拡大のための武力の衝突があったのです。ここでは、力の関係をみながらの寝返りや謀略があったのです。武力な力関係で時流にのりやすい環境があったのです。ここでは、学びによって、義や理、法を守って生きることを日新公は説いたのです。


「種子となる心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ」と、私利私欲の心にまかせれば、人の道に外れ、さらに悪い評判がたつというのです。人間の本来もっている欲のみにまかせるだけではなく、人間のいきていく道があるというので、それを犯せば人としての名も失われというのです。

 日新公の生きていた時代は、身内や一族で、権力をめぐって激しい戦いがあったのですが、とくに、守護職や国人などの城主の相続などは、大きな問題であったのです。現代でも相続をめぐる争いが起きるのも人間のもっている生身の欲からです。その心に身をまかすのではなく、理や法ということからの煩悩のつきあいが求められるというのです。人間的な信頼関係を築くこと、社会的に人間的に評価されていくことが尊敬を受けていくということです。どんなに権力を強大にしても名は流れてしまうというのです。


 「おもほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて 義を守れ人」。日新公は、思っても違う身の上は、欲を離れてわかるものですと。身の振り方は、欲を離れて正義を守れる人になることも大切とするのです。まさに、生き方に義を大切にしているのです。人にとって、義とはどのような内容をさしているのでしょうか。

 古来から賢者から学ぶことによって、正道を身につけていくこととなるのです。正道によっての為政者とはどうあるべきなのでしょうか。政治のあるべき道なんであるのでしょうか。

 日新公は、「もろもろの国やところの政道は 人にまづよく 教へならはせ」。人によいことで、まず、為政者は、正しい生き方を人々に教えることであるとするのです。正しい人の道の教育から正しい政治が生まれてくるという考えです。


 そして、為政者にとって、最も大切なことは、頼ることのない独り身に慈悲をかけることで、民に心をゆるし、情けをかけることが重要と次のようにのべるのです。「ひとり身をあはれとおもへ物ごとに 民にはゆるす 心あるべし」と、たよる者がない民に、情けをかける心あるべし」と強調するのでした。

 

 この精神のもとに島津忠良は、具体的にどのような施策をしたのでしょうか。加世田に隠居してもに、政務は、続けて、琉球を通じた対貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成をするのでした。

 そして、万之瀬川に橋を掛け、加世田の麓を整備したのです。さらに、養蚕などの産業を興して、百姓の生活を豊かにしていくために、仁政を行ったのです。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作りました。そして、かれの考えは「島津家中興の祖」と言われように大隅・薩摩・日向の島津家の政治に大きな影響力を与えていくのです。


 島津忠良(日新公)のいろは歌のいくつかの例を紹介しましたが、為政者、リーダーとして、人として生きる道を多くの人に教えるために、優しくカルタ方式で語ったのです。
 
 伊集院九華は大隅・薩摩でも活躍できる状況があったのではないでしょうか。


 伊集院九華は、1560年のときに郷里に帰る途中、小田原に滞在して、北条氏康・氏政親子に三略の講義をしますが、九華は、北条氏康から足利学校に戻るように説得されて、1579年の死去するまで、校長を務めるのでした。関東八州を領地にした北条氏康は、家督を氏政に譲るのも1560年です。

 この年に、北条氏の徳性令がだされるのです。戦乱や飢饉で困窮する百姓に年貢の減免、債務の帳消しなどの実施です。萬民を哀憐し百姓に礼を尽くすために、徳性の発布、諸人の訴えを聞き届ける目安箱の設置、公正なる裁判の実施は天道のかなうもので、それがあったからこそ、関東八州を治めることができたと北条氏康は、箱根別当融山との書簡でのべているのです。(高橋・五味文彦編「中世史講義」ちくま新書、238頁)

 

 伊集院九華は、足利学校が大火事にあって、その施設の再興に全力を尽くすのです。1560年の61歳の歳に大隅の郷里に帰る決意で足利を去ったのですが、北条氏康に説得されて戻るのです。そのときに、施設の充実も約束されたのではないかとみられます。すでに、稲荷神社や八幡大菩薩孔子廟などは再建されています。

 

 晩年の九華にとって、大隅や薩摩に帰って、なにを考えたのでしょうか。彼の教育熱は、ひとつの仕事が終わって、ふるさとに帰ってのんびり老後を暮らすことを考えたのでしょうか。かれの役割は、大隅や薩摩にはなかったのでしょうか。故郷の大隅国に帰ることを思い立ったときに、大隅や薩摩の人達との交流や期待はなかったのでしょうか。このときに、島津忠良は、息子の直久と共に、大隅や薩摩の統一に動き、島津家自身を強固なものにしていくのです。その体制は、孫の義久の時代に確実になり、九州の統一をめざしていくのです。

 

 この時代に易学を重視した明の国から日本に帰化した江夏友賢がいるのです。かれは、島津義久が描いた大隅国府地域、大隅国分寺跡地に京都風の基盤目の街にならって、街並みを規則正しく、港街を整備して、明より商人を招いて唐人町を繁栄いたのです。これが舞鶴城(国分城)の町並みで、現在でも、その跡がみれます。国分高校、国分小学校を中心としての町並みです。この町並み建設に友賢があたっているのです。
  島津義久にとって、九州を統一していく戦略に易学が必要であったのです。その役割を明から帰化した友賢が担ったのです。友賢は、薩南学派の儒学者一翁玄心と親交がありました。その弟子の文之玄晶に教えています。

 玄晶は後に薩南学派を代表とする儒学者になっています。江夏友賢は、易学による占いで、島津義久に仕え、300石の禄をもらったのです。墓は、大隅の国姶良郡加治木郷木田の実窓寺跡に現在も残っています。

 

まとめ

 

 中世の室町時代に、大隅・薩摩・日向の争いに、島津家の一族内紛が中心にありました。分家と本家の争い、兄弟間の後継をめぐる争いが戦いを伴って繰り返されました。この争いは国人の地方豪族を巻き込んだものでした。地方有力豪族は島津家一族もからめて勢力拡大をはかったのです。

 島津忠良・直久親子は戦国大名として、三国を統一したのです。この意味で、島津家の中興の祖として、忠良(日新公)はいわれるのです。伊集院九華は、忠良よりも7つほど下で、この時代に若いとき、大隅の伊集院家で育ち、成長して、足利に学びにいくのです。
 幾度なく絶え間ない戦乱のなかで、平和のために儒学を学ぶ教育機関としての足利学校でした。そこで、易学などを学び、陰陽五行説を中心にしての自然の理によって臨床的に医療を学ぶ学校でした。そして、為政者としてのあり方、軍略、易学をとおしての占い師を学ぶ学校でもありました。

 中世の戦乱のなかで多くの学徒が足利学校に集まってきたことは、その後の日本の平和や自然の理の医療発展、為政者の哲学に大いに貢献したとみられます。
 現代でも自然の理を科学的に学び、そして、それを臨床的に現実に応用していくことは、新型のコロナ化のなかで痛切に感じるところです。場当たり的なことでは問題の根本は解決しないのです。

 また、権力の争いも私利私欲が横行して、為政者のあり方が鋭く問われる時代です。為政者とはどうあるべきなのか。私欲を排して、民のために、自然循環の理、人間的あるべきこと、歴史を遡って考える必要があるのではないか。中世における戦乱からのヒントは、足利学校の歴史からも材料があると思うのです。

 

参考文献


川瀬一馬「増補版・足利学校の研究」講談社
菅原政子「占いと中世人」講談社新書
市橋一郎「中世後半期に於ける足利学校の教育」史跡足利学校「研究紀要」19号」 

新型コロナ蔓延とオリンピック精神

新型コロナ蔓延とオリンピック精神

 

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 毎朝、早く起きて1時間半ほど森のなかを楽しくジョギングをして楽しんでいます。体を動かせることは本当に幸福感を感じています。いつまでも走れることを希望しているところですが、人間も自然の一部で、いつかは衰えていくものです。元気で健康で人生を楽しく過ごしたいというのは、誰でも望むところです。

 新型コロナのなかで、行動が制限され、思うように活動が出来ずに、気持ちが落ち込むことがありますが、これも自然の流れとして悟るしかありません。しかし、自然の流れに逆らって、またオリンピックの崇高な精神を投げ捨てて、爆発的な新型コロナ蔓延のなかでの世界最大のスポーツイベントを実施していることに理解が全くできない状況です。まさに、戦場のなかで、災害地のなかでオリンピックを実施しているのと同じことだと思っています。

 

 新型コロナ蔓延のなかでのオリンピック開催は、国民の命を健康を守るということから、 深刻な問題を起こしていますが、オリンピック精神から真逆の行為でもあります。現代のオリンピック精神は、スポーツと環境ということで、特別に環境のことが重視されているのです。

 オリンピックの開催は、豊かな環境のもとに、人類の健康で幸福で豊かなスポーツの祭典ということです。利権や政治的駆け引きなどが幅をきかせ、平和や人間尊厳ということからの友情、連帯、フェアープレイ、相互理解というオリンピックの崇高な精神があります。東京オリンピックの開催は、異常な爆発的なコロナ感染の緊急事態のなかで実施されているのです。まさに、真逆の方向に走っているのです。

 スポーツは健全な心身の発達のためで、人類共通の文化です。人々が生涯にわたって心身ともに健康で文化を営むためで、自発的精神のもとに安全かつ公正の環境のもとに実施されるものです。そして、オリンピックはスポーツの祭典として、文化や環境を三本の柱とするものです。環境は人々の健全な心身の発達に不可欠なことです。このために、持続可能な社会のために生態系をはじめ環境という柱も重視するものです。

 ところで、緊急事態宣言ということで、東京は新型コロナ蔓延の状況で人々の酒類を伴う飲食行動は厳しく制限されています。しかし、東京オリンピック開催ということで、世界各国から多くのトップアスリート、オリンピック関係者が大量に入国しています。オリンピック関係者の人の流れの制限は特別扱いにされているのです。日本の一般の人々とは接触しなというバブル方式ということですが、実際は、その行動に多くの問題が懸念されているところです。

 人々もオリンピックという国際祭典ということで、コロナ蔓延にもかかわらず、興味がそそがれて、熱気にもえて、街にでていくのです。無観客ということでも人のながれに歯止めがかからない状況で、爆発的感染になっているのです。オリンピック開催とコロナの爆発的感染には、因果関係はなく、むしろ国民の側に人流抑制のできないところに問題があるという政府の見方です。東京都は、国の重傷者の基準と異なり、10分の1の公表になっているのです。統計的操作や検査の抑制によって、感染状況が正確に国民にみえにくい状況になっています。

 安心安全のオリンピックの開催ということですが、さまざまな世論でも多くの国民はオリンピックの強行に多くの不安を感じているのです。新型コロナ蔓延のなかで、国民の命と健康を守ることが緊急的課題になっているのです。コロナの爆発的な蔓延状況で、国民の命と健康に全力を注ぐことが大きな政治課題です。また、行政もそのことが重要な仕事になっています。医療関係者や保健関係者は疲弊しているのも現実です。長く続く国民への自粛要請ということから、経済にも大きなマイナス影響を与えています。とくに、飲食業者や観光業者とその関連業者は深刻な影響を受けています。

 

オリンピック憲章から学ぶ

 

 1994年にオリンピック100周年を記念しての第12回IOC総会で、オリンピズムを肉体と意志と知性」の資質をを高揚させて、均衡のとれた全人格のなかに統合させる人生哲学の努力のなかにみいだせることにあるとした。人間の尊厳を保つことに導きを置く平和な社会の確立を奨励するこにあるとしたのです。実際に国際的に各地で、紛争は絶えないことが現実です。大国が核兵器をはじめ、軍事拡張政策を続けています。第2次世界大戦は、オリンピックというスポーツの場がファッシズムのヒットラーによって、世界支配戦争に利用された苦い経験をもったことがあります。国威高揚という国家主義のために政治的にスポーツが利用されることがあるのです。この意味で、現代のオリンピック精神に平和主義と人間の尊厳を強くかかげているのです。

 まさに、オリンピックは、平和の祭典であり、人間の尊厳に重きをおく、友情、連帯、フェアープレイの精神をもって相互理解するスポーツ運動であるとしたのです。スポーツは競技として競い合う性格をもっています。それぞれの努力のなかに、勝利したいという欲求のなかで、スポーツの技量と精神が高まっていきます。すこしでも、進歩したいという人間的欲求でもあります。

 スポーツは、自分との戦いが個々の進歩したいという欲求とが重なり合っているのです。負けること、失敗することも進歩していく過程でもあります。しかし、競い合うことが、人間の尊厳、友情と連帯、相互理解を前提にあることを決して忘れてはならないのです。スポーツの勝利至上主義が争いに発展することがあるからです。

 ところで、21世紀のはじめの現代は、世界の環境問題が深刻な状況です。地球温暖化によって、異常気象が起き、災害や健康障害が起きる可能性が多くなり、海から高さが低い島国の陸地では、消滅していくところが膨大にあります。このような状況で、持続可能な社会づくりとして、スポーツと環境をかかげるようにようになりました。オリンピックは、スポーツ、文化、環境という3つの柱をかかげるようになったのです。

 スポーツをとおしての青少年の教育は、大切になっています。健康とは、病気ではない、体が弱っているということだけではなく、肉体的にも、精神的にも、そして、社会的にも、すべてが満たされた状態であるというWHOの精神が大切なのです。

 青少年の教育には、このすべてが満たされた状態を達成するためです。健康的なライフスタイルは、肉体的という限定されたものでないことはいうまでもないのです。肉体、意志、精神という調和のとれたバランスのよい生活を送るために、社会的にも健康な状況が必要なのです。

 IOCは、スポーツと環境ということで、ガイドラインを示しています。エネルギー、水、移動、ゴミなどゼロ炭素社会のアクション、持続可能な開発、生態系と景観の保全、節水、自然エネルギーの使用、環境汚染物資や廃棄物の克服、生物多様性の尊重などスポーツとして積極的にかかわる必要性を提言しているのです。環境ということでは、感染症という公衆衛生環境は大きなテーマでもあります。自然環境の破壊と共に、人間が未知の自然界に深く入り込みすぎると、新たな感染症に遭遇して行きます。人類の疾病の歴史のなかで感染症は大きな脅威であったのです。

 人類が生きていくうえでは、自然環境要素に大きく依存しています。呼吸、水分、食物などスポーツをとおして理解することができるのです。無呼吸は3分、水分は3日間というように、その限界があるのです。そして、スポーツの技量を高めていくには、呼吸、水分、食物は重要な要素になるのです。そして、自然環境ということで、生態系を大切にするうえでの生物多様性の尊重も理解できるというのです。

 オリンピック精神の教育的に価値は大きなものがあるのです。努力の喜び、フェアープレイの精神、他者への尊敬、向上心、バランスのとれた心徳知です。オリンピック精神は、教育の側面からみるならば、スポーツ体育という狭い面ではなく、科学技術、歴史地理、言語、美術・音楽・デザイン、生態学・および自然という側面と幅広くもっていることを決して見落としてはならないのです。

 スポーツから得られる恩恵は、教育成果という面ばかりではなく、健康増進及び疾病の予防、ジェンダー平等など様々な恩恵があるのです。

 

日本のスポーツ基本法の理念

 

 日本では平成23年にスポーツ基本法が制定されて、国民の権利としてのスポーツ文化が定着し、政治はその責任を果たすようになったのです。そこでは、スポーツは世界共通の人類の文化として、スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持の増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神的涵養のためにあるものであるとしたのです。

 そして、国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的生活を営むうえで不可欠なものであるとしたのです。スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、すべての人々の権利であり、すべての国民がその自発性の下で日常生活にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならないとしたのです。日本で暮らすところのすべての人々に平等に権利としてのスポーツを保障することが求められるようになったのです。

 このスポーツ基本法の理念は、国民の権利としてのスポーツの参画を生涯にわたって保障することを規定したことです。国民が文化的に豊かに生きるためには、スポーツは不可欠なのです。高齢になってもスポーツの参画は保障されるべきであり、そのことは、生きる楽しみのであり、健康を保持増進になっていくということです。スポーツの権利保障ということと健康で文化的に生きることは一体であるのです。保健衛生・医療行政にとってもスポーツは大切な役割を果たすことにもなるのです。

 

スポーツビジネスの繁栄問題

 

 平成22年にスポーツ立国戦略として、する人、観る人、支える人、育てる人ということで、スポーツを基盤とする新しい公共性性の形成が提唱されています。無償の公共サービスから脱皮して、地域住民が出し合う会費や寄付により運営するNPO法人型のコミュニティクラブが主体となって実施していくということで、地方自治体の社会体育夜学校教育でのスポーツ活動からの新しい公共性の提言です。

 地域でのスポーツ活動の自発性を伸ばしていくうえで、新しい公共性という非営利団体の果たす役割は大きなものがあると思います。しかし、それは、営利のためのスポーツ企業活動ではありません。いつのまにか、新しい公共性ということが、特定の営利団体のスポーツ産業の育成ということになれば本末転倒です。スポーツ活動は、国民の権利としての公共的な活動です。ここでは、国や地方自治体の役割が大きくあることを決して忘れてはならないのです。

 国家や地方自治体の責務による公共性から住民自身の会費や寄付によるスポーツ活動の実施ということでの非営利の新しい公共性ということです。国家や市町村によるスポーツ活動の条件整備や指導者の配置が大切なのです。それは、スポーツ産業としての民間のクラブ活動やスポーツ塾が繁栄していくことではないのです。子どもの遊びが様々なスポーツ練習ということで、教育と称してのスポーツジムになっていくことではないのです。

 さらに、国民のスポーツ活動の普及は、民間の産業として発展していく現実があります。そして、これが、健康ブームということで、各地にスポーツジムが成人層をターゲットに一層に発展していくのです。スポーツをすることは、大きな家計費がかかるようになっていく状況があり、スポーツ活動には、貧富の問題があるのです。スポーツは民間にとっての重要な産業として、恵まれた層を中心に各地域で普及していくことで、貧困者は遠ざけられていくのです。

 ところで、トップアスリートが社会に還元されるしくみづくりとしての引退後の配置も重要となってくるのです。総合型地域スポーツクラブや学校体育の外部指導ということが大きな意味をもつようになるのです。トップアスリートと地域住民が結合していくしくみづくりが公的に保障されていくことが必要なのです。スポーツは地域住民との関係をスポーツビジネスという結びつきを強めるのではなく、公的に社会的に保障された指導者として、地域の一体感を生んでいくのです。それらは、社会関係資本の形成に大きく寄与するようになっていくのです。

 現実のスポーツ活動が営利のビジネと結びついている現状では、トップアスリートが選手として活躍できるためには、スポンサーなくして、難しくなっているのが現状です。それぞれ、スポンサーをつけて活躍していくのです。ここには、競技がプロ化していく論理が潜み、有能なスポーツ選手であればプロスポーツが最も経済的に基盤がつくられていくのです。

 ゴルフやテニス、野球などは、莫大な契約金や報奨金、広告収入が入るのです。超一流選手は、億万長者として高額な所得をあげることが可能になっていくのです。スポーツビジネスやスポーツのプロ化によって、拝金主義が潜む問題」があるのです。勝利至上主義が拝金主義と結んでいく怖さがあるのです。スポーツマンシップということがあらたためて大きく問われる背景があるのです。オリンピックを契機に、人間の尊厳、平和、公平性などの権利としてのスポーツ文化というオリンピック憲章やスポーツ基本法の理念を学ぶことが求められているのです。