社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

文明の衝突と大国政治の悲劇ーロシアのウクライナ侵略に際してー

             

 文明の衝突と大国政治の悲劇ーロシアのウクライナ侵略に際してー
             
 はじめに

 ロシアのウクライナの侵略によって、ヨーロッパの国際平和秩序が大きく揺らぎ、欧米軍事同盟のNATOとロシアとの戦争、核戦争への危機がある現状だ。国際連合加盟国の141ヶ国がロシアの軍事侵略に反対の決議に賛成したのだ。反対5,危険35、退席した国12だった。
 7割の国連の加盟国がロシアの軍事侵略行動の中止を求めているのだ。世界各地では、ロシアの侵略反対、国連憲章を守れという運動が起き、国連憲章の重要性が大きな国際世論になっている。
 なぜ、国連をつくったのか。国連憲章は、崇高な理念のもとに、国際平和の構築を宣言したのである。二度の言語を絶する悲哀を人類に与えた世界戦争の惨害から寛容と善良な隣人として、互いに平和と安全を維持する機構をつくったのだ。
 そして、自決権の尊重を重視して、それぞれの国家の友好関係構築を求めたのである。国際紛争は、平和的手段によって、いかなる国に対しても武力による威嚇、武力の行使をしてはならないのだ。
 残念ながら国際連合ができた後でも朝鮮戦争ベトナム戦争イラク戦争アフガニスタン戦争など、世界各地での紛争が絶えないのが現実だ。ここには、大国の国際政治の問題が大きくあったのである。
 ロシアのウクライナ侵略は、ソ連崩壊後の問題が大きくあることを見落としてはならないのである。冷戦時代二つの大国のひとつであるソ連の崩壊で、アメリカが唯一の超大国になった。さらに、ソ連に対抗した軍事同盟のNATO旧ソ連圏の国に拡大していったのだ。ここに、ソ連の中心国であったロシアが一層の恐怖をもったのだ。
 ウクライナはロシアにとっての兄弟国、またロシアにとっての文化的な発生的な意味をもっていた国である。宗教的にも東方正教会を信仰する人々が両国とも多いのだ。ロシア語も共通の言語として、ウクライナに住む人々は理解できるのである。
 ロシアのウクライナ侵略を解決する方向性は武力ではなく、話し合いによる問題の解決だ。ロシアは、歴史的にも、文化的にも兄弟国であったウクライナNATOに入ることを宣言するように なったことで恐怖をもったのだ。国家と文明的な共同体の矛盾も先鋭化していくのだ。大国主義政治と文明の衝突ウクライナに集中するのである。
 大国であったロシアが、恐怖感とも結んで、話し合いではなく、本来あってはならない武力に強行に訴えることが生まれたのだ。ここには、ロシアのウクライナ武力侵略戦争にならないように、アメリカという大国やNATO諸国の外交的な努力が求められていたのだ。また、国連の役割が重要であったのだ。大国主義や覇権主義に対して、武力による解決という誤ったことにならないように、徹底した国連の場での話し合いが必要であったのだ。
 ロシアは自らの懸念や恐怖をもつならば国連の場で訴えるような環境を整えることが必要であったのである。武力に訴えず、国連の話し合いによる紛争解決という理念から安全保障の常任理事国の問題もあるのだ。
 現在のところ、ロシアの核戦争の脅しにより、核戦争に至っていない。緊急には、積極的に、外交的なロシアの恐怖を取り除く大国の外交的な交渉が求められているのだ。正義と悪魔という単純な図式からでは、核戦争の危機を逃れることはできないのだ。
 とくに、日本人として、憲法前文での平和のうちに生存する権利、自国のみに専念して他国を無視しない対等な関係の理念が大切なのだ。まさに、それぞれの立場を乗り越えて、相互信頼と、平和共存、平等互恵の国際的協調主義の責務は重要なのだ。同時に日本は、憲法九条をもって「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争をしない」としたのだ。そして、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段にすることを永久に放棄すると誓ったのである。日本憲法理念の役割は国際平和の構築に大きな意味をもっているのだ。
 日本ではロシアのウクライナ侵略に対して、この誓いから大きく逸脱していく、核共有論や軍備増強、敵地殲滅論が議論されている。隣国の中国や北朝鮮に対しても、相手側を仮想敵国として脅威をあおり、本来的に平和を構築していくべき相手を刺激しているのだ。マスコミも、さらにSNSをとおして、この議論に拍車をかけている現状である。

 日本では、ロシアウクライナ侵略の反対の声をあげてくいときに、憲法の平和的に生存する権利を大切にしていく学習が切実に求められているのだ。
   サミュエル ・ハチントン著「文明の衝突集英社刊、ジョン・マイシャイマー著「大国政治の悲劇」五月書房社を読んで、現実の国際政治危機のなかで、戦争の起きる背景をみつめて、平和的な生存権、国際的協調の未来を指向していきたいと思う。

 

  (1) ジョン・マイシャイマー著「大国政治の悲劇」を読んで考える

  アメリカの軍の大学を卒業し、アメリカ軍幹部として籍を置き、その後リアリストとして国際政治研究をしたマイシャイマーだ。かれは、リベラルの政治家を批判している。ソ連崩壊後リベラリストクリントンは、NATOを拡大することによって、平和がヨーロッパに訪れ、世界中に民主改革と開放的な市場改革をする必要性を考えたとしている。それは、豊かで経済的に自立になるというのだ。実際はそのようにならなかった。
 さらに、リベラリストは、そこでの国家同士はあまり戦争をしないと考えた。民主制国家は、互いに戦争しない。国際機関は国家間の戦争を回避し、お互いに協力関係をつくるという見方だ。
 リベラリズムの伝統は、政治指導者が理性を活用していけば善い世界をつくりあげるという楽観主義をもっているとみるのだ。リベラルの国際システムの考えには、善い国家と悪い国家の二元的な区別の見方になるのだ。善い国家は協調的な政策をとり、自分たちから戦争を始めることはないとしている。悪い国家は他国と紛争を起こし、欲しいものに手に入れるためなら軍事力を使うことをいとわないというのだ。
 従って、世界平和を実現するためには、善い国家をつくのだという。悪い国家は、行動にパワーの利害計算がほとんどもたず、他国からパワーを奪いたいという欲望によって行動していくことになるのだ。
 国際関係の安定のカギをつくるのは、国家間の自由な経済交流を可能にするような自由主義的な経済秩序をつくって維持することになるというのだ。このようなリベラルの施策の遂行によって、世界平和を推進とするというのだ。リベラルの考えによって現実的に平和を構築することになったのかという問いをするのだ。
 アメリカ国民は、リアリズムではなく、リベラリズムの楽観主義や道徳主義の態度をとりがちだ。独裁制との戦い、民主制の拡大、自分たちは天使の見方、敵対する相手は悪魔の手先ということになるとリベラル主義はみるが、それで平和がもたらされたのであろうか。
 リベラルのリーダーたちは、戦争を権力闘争ではなくて、正義の戦いというイメージや思想的な側面から訴えるものだとマイシャイマーはいうのだ。つまり、リーダーたちは、恐怖の扇動、戦略的隠蔽、印象操作が重要になってくるというのだ。
 リベラリズムに対して、リアリズムは、大国主義こそが最も激しい戦争を引き起こすとしている。それは、国の内部の性質ではなく、国際政治の構造という国家の対外政策に起因しているとみるのだ。

 そこでは、善い国家と悪い国家という区別はしないことが重要になるのだ。国家間のパワー競争が戦争を引き起こすことになるというのだ。覇権国家となることが戦争の現実とみるのだ。覇権主義に戦争の本質をみるのだ。紛争を増加させるのは、覇権国家の多極システムになるのだ。この見方が、攻撃的現実主義という概念である。
 マイシャイマーの国際間の見方はパワーを求めて大国同士が競争して、国家間はアナキー状況によって、バランス・オブ・パワーの転覆ではなく、防御に現状維持を目指すところの生き残りのパワーを求めると考えるのである。
 パワーを維持するために、大国の究極の目標は、国際システムのなかで唯一の覇権国になるという。大国は、危険な国際システムからの恐怖をもっていることで、自国の安全、自国の生き残りの確立を高くするというのだ。このために、覇権を求めるために攻撃的になってしまうということだ。
 国際システムは、無秩序、秩序の混乱という無政府状態になるものだというのがリアリストの見方だ。国際的システムは、国家の枠組みを超える最高権威がない。大国はある程度、攻撃的な軍事力を持っていると考えるのだ。
 すべての国家は相手が何を考えているかということを知ることができないという。大国は生き残りを最終的目標としているのだ。大国は外の環境を知って、自国の存続を図るという戦略をもつというのだ。

 大国は攻撃的行動や覇権を狙わせるように仕向けるのである。それぞれの国の性格ではなく、国際的システムの構造になるとマイシャイマーはみるのである。
 大国にとって、地域覇権国家になることがもっとも都合がよいのが歴史的に証明されるとみるのだ。その事例に、日本、ドイツ、ソ連などをあげている。この三国は常に征服によって国土を拡大するチャンスを狙い、そのチャンスが現れると常に領土獲得し、攻撃的性質をもって地域覇権を求めてきたというのだ。
 日本は1853年以前は、鎖国政策によって独自の経済体制を2世紀にわたって続けてきた。日本は、1868年の明治維新の改革から西洋諸国の経済や軍事政策を真似て、世界に対抗したのである。
 日本は世界の大国として振る舞うために、最初は朝鮮であった。1980年代には、日本がアジア大陸の大部分を支配し、アジアの覇権を狙っていくようになったというのだ。
 日本の攻撃的態度は第2次世界大戦の敗戦まで続き、常に戦争であった。日本の近代化は侵略戦争の連続であったとみるのだ。領土を拡大して、パワーを得るために、行動の原動力があったのが安全保障への関心であったのだ。
 第2次世界大戦で、日本の敗戦は確実であったが、アメリカにとっての最大の論点は、無条件の降伏をどやって達成させるかであった。大国のアメリカは、アジアの軍事大国である日本の戦争に完全に勝利するために、無条件降伏をさせることだ。アジアの大国であった日本の無条件降伏には、徹底した殺戮の推進が必要であったとみるのだ。
 1945年7月には、5ケ月間にわたり、日本の大都市を焼夷弾の雨を降らせ、一般市民を含めて驚異的な破壊をやったのである。この虐待的な作戦によっても日本政府は無条件の降伏ではなく、日本の独立確保の交渉を考えていたす。
 唯一の外交手段は、日本征服者に多大な犠牲者を思い起こさせることであった。日本の支配者はソ連の和平交渉の仲介を期待していた。ところが、北海道北広島市広島、長崎の原爆投下は、無条件降伏を受け入れざるをえなくなったのだ。原爆投下は日本というアジアの軍事大国を無条件降伏にして、大国の存在を消滅させたのだ。
 核武装をしている大国は、他国に核兵器を持たせないように、核兵器を独占することだ。相手から核兵器によって報復される心配がないからだ。大国にとって、通常兵器と核戦争につながっている。核兵器が生みだす大惨事の恐怖は通常兵力で行われる戦争とは全く異なるのだ。核兵器の恐ろしさは、核戦争にエスカレートしないように政治家を抑制する強烈な圧力になるという。
 核による強力な報復能力は、絶対的な安全を保証するというになるというのだ。この現象はNATOの拡大に対するロシアの核戦争脅迫の姿勢にみられる。ロシアはNATO拡大に断固反対していていたのだ。ミアシャイマーが強調していたように、核兵器は、大国にとっての生き残りのためのものになっていくというのだ。
 ミアシャイマーも指摘しているように、1990年代にソ連アメリカの超大国同士の冷戦終結があったが、アメリカに支配されるNATOの代わりに、ロシアは安全保障協力機構を設立しようと数々の提案をしていたのだ。アメリカはロシアの提案を完全拒否して、NATOの東方拡大をしてきたのだ。

 超大国同士の競争関係が安定した国際秩序を生みだしたが、ソ連を弱体化させて、覇権国家から引き下ろすことがアメリカの必死な戦略であったのだ。バランス・オブ・パワーを無視したことによる大きな代償を支払うことになるとミアシャイマーはみる。
 ところで、NATOのような軍事同盟を重視するようなミアシャイマーの考えではない見方も必要だ。NATOが拡大されて、ロシアにせまっていけば、核戦争の危機は大きくなっていくのである。
 このことは、ウクライナNATO加入申請の宣言は、ロシアを大きく刺激しているのだ。結果的に、ロシアのウクライナへの軍事侵略という国際法を犯してもあえての暴挙を行ったのだ。さらに、NATOに対しての核攻撃の脅しをしているのだ。核戦争の危機が現実にヨーロッパをおそっている現実を直視することが大切だ。
 欧州安全保障協力機構は、北米、欧州、中央アジアの57ケ国が加盟する地域安全保障機構である。経済、環境、人権・人道における安全保障を脅かす要因ということからの包括的な活動だ。NATOの軍事同盟とは別につくられているのだ。
 中国とロシアは大国だ。しかし、超大国アメリカよりはるかに弱いのが、冷戦終了後の現実だ。このことはアメリカは大国と戦うことを恐れず、小国に対して自由に戦争を仕掛けることができるようになったのだ。
 イラク戦争アフガニスタン戦争、リビア戦争などソ連が崩壊したことによって、アメリカは大国政治に興味をもたなくなったとするのだ。しかし、中国の台頭は、この状況をかえつつあるとミアシャイマーーはみるのだ。
 中国が長期的にみて、今日よりもはるかに強力になったときにどうなっていくのか。現状では、アメリカにとって、現状の中国は軍備の面ではるかに劣っており、アメリカのように多くの軍事同盟をもっていない。現在の世界では、世界の覇権国家アメリカと説明されることが多いが、ミアシャイマーからみれば、太平洋や大西洋という距離の遠いところの大国を征服するのは難しく、地域覇権国家としてのアメリカというのだ。
 ミアシャイマー覇権国家論から、アメリカの立場は、ヨーロッパの大国を追い出すことが残っているという。アメリカは征服と拡大をして、地域覇権を確立して、超大国になったが、中国は、すでに広大な国土をもつ国家だ。アメリカと同じように領土拡大をしての地域覇権の必要はないのだ。
 むしろ、経済成長をして、強力になり、周辺国に自分の行動を認めさせるということで、地域覇権国家になっていく。周辺国との国境紛争についても同様の論理で行動することになるのだ。余計なトラブルを避けて経済発展の継続に集中ということである。

 中国は才能を隠して控えめにふるまい、なすべき事は成すということで、激しい言葉を使い、脅しのような声明を使用するのを控えめに必死の努力をしているという。
 中国は急速に発展する経済力や圧倒的な軍事力の増大も周辺国からみれば、防御的ものよりも攻撃なものにみえるのだ。ミアシャイマーは台頭する中国に対して、封じ込め政策が重要であるとするのだ。NATOのような軍事同盟を東アジアでもつくることが必要としている。
 封じ込めは、本質的に防御的なものとミアシャイマーはみるのだ。中国に戦争を起こすものではない。封じ込めに代わる政策として、中国の弱体化をねらう友好国の体制転換をしたり、中国国内でトラブルを起こしたりすることだというのだ。アメリカは、アジアに対して、地理的に遠方にあるために、中国の周辺国は、アメリカに脅威を感じることはないと考えるのだ。
 中国の周辺国は、地域覇権国家になる中国に脅威を感じているとミアシャイマーは思うのである。中国とアメリカは熱心にマーケットというものに信奉しているので、協力的と同時に競争的な関係になるのだ。アメリカ主導の軍事同盟に中国の周辺国はくみしやすいとミアシャイマーはいうのだ。

 しかし、中国には共産主義というイデオロギー以上に、熱狂的なナショナリズムが台頭していることだ。恥辱の歴史をもっている中国にとって、外国の敵として、日本とアメリカにむけられていくとミアシャイマーはみるのだ。
 中国は平和的に台頭できないというのがミアシャイマーの考え方である。中国が平和的台頭の可能性をもつということの儒教的な文化の影響、経済相互依存という見方は幻想にすぎないとミアシャイマーは厳しく批判するのである。
 ミアシャイマーの考えとは別に、東南アジア諸国連合の平和構築から東アジアサミットの枠組みという東アジアの情勢をみることも大切である。中国の平和的台頭は不可能であるというのは、周辺国との新しい平和友好条約との関係で詳細にみていくことが必要だ。周辺国が中国の脅威論からNATOのような軍事同盟を結んでいくのかどうかは難しいのが現実であるとみれる。
 ヨーロッパと東アジアとは、歴史文化も異なり、かかえている地域の紛争状況も異なる。とくに、台湾問題は、国家間の問題ではなく、体制の違う一国二制度の地域問題でもあるのだ。中国が国内にかかえているチベット問題、ウイグル問題は国内の民族問題でもある。ベトナムなどとの国境紛争問題などは、歴史や文化の問題も絡んで、複雑に展開しているのだ。
 さらに、重大なことに、欧米や日本に対する中国恥辱の歴史があるのだ。とくに、日本に対しては、特別の恥辱の歴史があるのである。相手国がどのようにみるのか。日本の犯してきた侵略の近代の歴史から、近隣諸国で最も警戒し、恐れをもっているのは、日本であることを決して見落としてはならないのだ。近隣諸国との信頼関係の絆を深くしていくには、憲法の平和理念を重視して、友好関係のさまざまな国際関係を充実していくことだ。日本の憲法の平和主義と国際協調主義を強く守り、発展させることが大切になっているのだ。
 NATOのような軍事的な枠組みではなく、東南アジア諸国連合のように、中国との関係では国境紛争で矛盾を含みながらも、平和的的な話し合いで問題を解決していことする友好協力条約の役割を決して軽視してはならないのである。
 北東アジアでは、北朝鮮、韓国、日本、ロシア、中国、アメリカを含んだ平和友好条約による話し合いの強固な秩序が求められているのだ。また、日本と中国は、平和友好条約を結び、また、国交正常化の共同声明でも台湾問題についても明確な立場を両国とも合意しているのである。
 日本の憲法の平和主義と協調主義からの話し合いからの「戦争放棄」の流れが世界に広がっていることは、日本の国民として、誇れることだ。日本の歴史や文化を戦前の軍国主義時代のみで考えてはならないのだ。平安時代徳川時代の平和の歴史からもみることが必要だ。日本国憲法の平和の歴史的な文化遺産を継承してつくられたことを十分に認識することが必要だ。
 東南アジア友好協力条約(TAC)は、世界の平和を地域的に確立していくことで大切な動きだ。
 その条約では、1,主権・領土保全等を相互に尊重、2,外圧に拠らずに国家として存在する権利、3,締約国相互での内政不干渉、4,紛争の平和的手段による解決、5,武力による威嚇または行使の放棄、6,締約国間の効果的な協力になっている。
 この条約の締結には、東南アジアの国々が長年にわたり、戦争によって苦しんだことが背景がある。
 米国は南ベトナムに親米独裁政権を打ち立てて、東南アジア諸国の介入を深める。南ベトナムでは米国と独裁政権に対する解放闘争が拡大するのだ。
 米国はベトナム北部への空爆や南部での米軍の投入をして、戦争を拡大していく。こうしたなかで、東南アジア条約機構加盟国のタイとフィリピンの米軍基地などが戦争に巻き込まれていくのだ。
 1967年には、東南アジア諸国連合ASEAN)が結成される。アメリカにおける共産主義恐怖のドミノ現象論からのベトナム侵略戦争であった。そのもとで、東南アジア諸国連合がつくられた。
 ベトナム戦争の激化とベトナム侵略戦争の世界的批判で、ASEANは71年に、「平和・自由・中立地帯宣言」を発表する。74年に4月に米国がベトナム侵略戦争に敗れた。翌76年年2月、ASEANインドネシアのバリ島で、首脳会議を開き、ベトナムなどインドシナ三カ国との友好関係樹立の意思を表明した。
 そして、東南アジア友好協力条約を締結するのだ。2005年から三回、「東アジアにおける平和、安定及び経済的繁栄を促進することを目的とした対話フォーラム」で共同体形成をめざす東アジア首脳会議が開かれ、東南アジア諸国連合以外にAC加入の参加条件をつめていく。
 ASEANは、1987年にTAC加入を域外に開放していく。加入国は03年以降に急増する。03年3月に米国がイラク戦争を強行した時期だ。東アジアは平和の共同が広がっていったのだ。
 東南アジア友好協力条約・TACは欧州連合(EU)に見られる欧州統合を参考につくられた。EUは平和維持を軍事同盟の北大西洋条約機構NATO)に大きく依存している。域外の「脅威」に対し集団的に軍事力を行使することもあるのだ。
 TACは、域外の「脅威」に集団的に軍事力で対応するのではなく、平和的な話し合いで解決していく条約である。戦争放棄を決めた条約の加入国を増やしていくことで平和を実現ということだ。
 加入国が広がるなかで、中国とベトナムは海域の国境問題を残しながらも、陸上国境問題を対話で解決している。インドと中国が数十年にわたる紛争と対立に終止符を打った。インドとパキスタンは領土問題での深刻な対立を平和的に解決しようとしている。  

 東南アジア友好協力条約・TAC加入国は、ASEAN加盟国十カ国のほか、東ティモールパプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、日本、中国、韓国、ロシア、モンゴル、インド、パキスタンバングラデシュスリランカ、フランス。計二十四カ国。人口は三十七億人で、地球人口の57%に達している。
 日本の政権党の有力政治家が、これらの精神を踏みにじる発言がみられることがあるが、日本国内と中国からの批判をあびるのだ。日本国内における憲法の平和主義の見方は大きく崩れることの予想は難しいのだ。歴史は必ずしも平和的に動かないときもあるが、根本的に日本国憲法の平和主義を変えていくのは困難とみられるのだ。
 
(2) ジョン・ミアシャイマー著「なぜリーダーはウソをつくのか」を読んで現代の平和問題を考える

 ミアシャイマーは国際政治に、5つの戦略的なウソが使われるとしている。それは、アナーキー的な世界的な秩序、冷酷な国際政治のなかで生き残りのために国家はウソをつくというのだ。ウソは、騙し、隠蔽、印象操作、恐怖の扇動、ナショナリスト的な神話、リベラル的ウソなどだ。
 国家のリーダーたちの国際政治でウソをつくのは、国益のためという自国の生き残りをの助けるために使うこととである。それは、国家の存続とはほとんど関係なく、リーダーたちの個人的、友人たちの利益のために自己中心的なウソを使用する場合と二通りあるとミアシャイマーは考えたのだ。
 国際政治のなかで使われるウソのなかでもっとも危険なことは、自国民に対して使うウソだ。このウソは、国家の戦力的立場に裏目に出る傾向が高く、さらに、国内の政治や社会的生活を堕落指せる確率が高くなるとミアシャイマーは警告する。
 印象操作はひとつの事実だけを誇大に強調して、自分の都合の悪いことは無視したりして、誇張して、歪曲することによって、真実をつたえないいことだ。また、隠蔽ということで、自分の都合の悪い情報を隠すということも行われるのだ。隠蔽もウソをつくという概念に入るのだ。
 ミアシャイマーは戦争をするためのウソの典型的な事例として、イラク戦争をあげる。戦争の直前に、当時のブッシュ政権がテロ組織の重要人物がアメリカに拘束されて、尋問されたなかで明らかになったという。ビンラディンの関係で、「サダム・フセインアメリカに対抗するために同盟を組むことを考えたが、その後にその考えを改めた」という証言を国民のまえに隠蔽したのだ。
 この証言は、アメリカがイラク戦争を起こす口実が消えるからだ。国民を騙すための隠蔽と印象操作のために利用されたのだ。
 日本における核武装持ち込みの密約は、1969年の冷戦時代に日本とアメリカとの関係の隠蔽である。米軍の駐留費のコストを日本に負担させるという密約があったのだ。これらに、リーダーたちは、日本の国民のためになる隠蔽とみたのだ。このように隠蔽に事実を国民のためにという名目で行ったとミアシャイマーは考えるのだ。
 ミアシャイマーは民主制国家には非民主制国家よりもリーダーたちは議論をするような政策を隠したいと気持ちが大きくあるというのだ。重大な問題が国民の間に明らかになることによって、議論が起きて、リーダーたちの自分の思う真実からの対処政策の実行ができなくなると考えるからだ。隠蔽はいわゆる民主制国家にとって重要な施策になるというのだ。
 民主制は、透明性を高める強力な規範があることで、国民の質問に真剣に答えることが求められるのだ。このために、隠蔽していくことが不可欠になってくるというのだ。
 ミアシャイマーとは別の見方で、ここには、国民に対して、真実に対処することができないという国民に対する愚民感があるのである。
 ミアシャイマーの見方は、戦争遂行に、国民を騙すためには恐怖の扇動というウソが使われるというのだ。政府のなかでは、あまり危機を感じていない国民に対して、脅威を誇張したり、煽ったりすることで、自らの政策を実行しようとすることだ。この方策は、防衛費の増額や国民の軍隊への奨励、徴兵制の施行などに国民の支持を受けるために使われる。
 ミアシャイマーの考える恐怖の扇動は、普段に戦争が起きていない平時のときにリーダーが使う手段だ。また、脅威の誇張は、危険な敵に対して、軍事的な封じ込む政策や戦争を開始する際に、国民の支持を得るために使われるのだ。
 1964年のベトナムにおけるトンキン湾事件がその例としてミアシャイマーはあげている。北ベトナムとの戦争を激化することによって、南ベトナムの問題を解決したという思惑からである。ベトナムの警備船を意図的に攻撃をしたてたというウソを大々的に恐怖の扇動で戦争遂行をしたのだ。
 恐怖の扇動は、イラク攻撃を開始する前に、イラクフセイン大統領がテロ組織と深くかかわり、親密な関係をもっているとした。さらに、生物化学兵器を保持しているという、恐怖の扇動をしたのだ。
 イラク戦争は、テロとの戦争の勝利であるということだった。生物化学兵器の存在も確認できず、後にフセイン大統領は、テロ組織と関係がないこともわかったのだ。しかし、テロ組織の共謀者として、イラク戦争によって殺されたのだ。このことについては、ミアシャイマーは資料をもとになぜリーダーはウソをつくのかで論述しているのだ。
 ミアシャイマーは国家のリーダーたちが国民にウソをつけるのが容易であるとしている。国家のインデリジェンス組織は国家がコントロールしており、国民が入手できない情報を独占している。国民への情報の流れをさまざまなやり方で操作できるのだ。
 ほとんどのひとたちは、国家のリーダーに騙されていくのだ。リーダーたちはウソを隠し通せるからと考えるのだ。
 恐怖の扇動は独裁国家よりも民主制国家の方が高いということをミアシャイマーはのべているのだ。それは、民主制国家では、世論の恩恵をより受けやすい存在になっているということからだ。
 民主国家のリーダーたちは、国民は騙すべき、かれらは事実を正しくみることができないし、真実をあつかえなというのだ。
 限られたエリートは正しく事実を知って、国民を導くことができるという意識をもっているのだ。ネオコン新保守主義)のアーヴィング・クリストルのように、民主制の国民は、危険な敵に直接対峙するよりも宥和政策をとるものということから、国民は真実に対処できないという考えがあるというのだ。また、このような見方は、右派に属さないリップマンの幻の公衆にみられるとミアシャイマーはのべるのです。
 
 (3)サミュエル・ハンチントン著「文明の衝突」を読んで平和を考える

    世界には、さまざまな文明からなり、冷戦後の世界は、文化を生みだす力があり、統合をうながす力があるというハチントンの見方だ。哲学上の仮説、その価値観、社交的な関係、生活習慣、全般的な人生観など著しく異なっている。
 世界各地における宗教の復活は、文明の相違がさらに補強されているのだ。文明によって、政治や経済の発展に大きく差がでてくるのだ。
 東アジアの民主政治制度を確立できないのは、文化の問題ゆえなのだ。イスラム文化も欧米流の民主主義が生まれない。ロシアや東欧の東方正教会の国々における経済、政治の発展は、見通しは定かでない。冷戦後の世界は七つ、あるいは八つの 主要文明がある。世界の文化を西欧と非西欧と二分することは正しくないとみる。
 ハチントンは、国の利益についてのべる。国際問題を左右する支配的な主体としての国家は、軍隊を維持し、外交を展開し、交渉して条約を結びことになる。そして、戦争の遂行を防止し、国際組織をコントロールするというのだ。
 しかし、国の利益は、国内の価値観や社会制度だけではなく、国際的な行動規範や制度によって、形づくられるということを強調するのだ。国家のタイプが変われば利益の定義もかわってくるというのだ。
 文明の観点からのアプローチからは、ロシアとウクライナの文化的、歴史的なつながりが密接なことで、東方政教会に属する両国だ。
 しかし、文明の断層境界線でもあるのだ。国家パラダイムの見方では、断層境界線ということから戦争の可能性があるのだ。文明パラダイムと国家パラダイムは矛盾しているのだ。
 西欧文明以外に、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明が存在するとみるのだ。以上のように、さまざまな文明の存在のなかで、国家があるとハチントンは考えるのだ。
 ハチントンは、東アジアの経済発展は、20世紀後半の世界に展開した最大級のできごとであるとみるのだ。非西欧で日本は経済発展を遂げた唯一の国家であったのだ。例外は日本だけではなく、東アジア全体が非西欧ということで経済発展を遂げたのだ。
 日本は明治維新で強力な改革で、西欧の技術、習慣、制度を学んで、日本の近代化を成し遂げた。その過程で伝統的な自国文化の重要な部分を保とうとしたのだ。伝統的な文化と近代化を結合していたのだ。
 日本は脱亜入欧ということを明治維新で選択したが、20世紀末の日本は、伝統文化の復興ということから脱米入亜ということで、伝統的価値を再認識して、その伝統的価値を主張して、日本のアジア化に努力しているとハンチントンはみるのだ。
 東アジアの成功は、自己利益追求、個人主義ではないとみるのだ。それは、儒教を中心とするアジア文化の価値、秩序、規律、家族への責任、勤勉、集団主義、質素倹約という価値に重きをおくものだ。それらは、東アジア文化の価値とみていくようになっているというのだ。
 世界の文明のなかで、孤立している文明はみられるが、最も重要な孤立国は日本だ。 日本の独特の文化を共有する国はなく、他国に移民した日本人は移民先の文化に同化してしまう。
 日本の文化は高度に排他的で広く支持される可能性のある宗教、イデオロギーを持たない。このために、他の社会の人々と文化的関係を築くことはできないとハンチントンは考えるのだ。日本の国家は、異なる文明を内包していないということで、多くの国で民族、人種、宗教の違いから内部で分裂して紛争を起こすことはないとみるのだ。
 ロシアは文明の断層線の顕著な冷戦時代の共産主義体制というイデオロギーのでソ連体制で統一されていたが、ソ連崩壊によって、お互いに文化がひきつけたり、反発したりして文明の境界線のなかで衝突がみられていくのだ。東方正教会カトリックプロテスタントイスラムなどの宗教的な文明の断層、民族や言語の断層などさまざまな要因で文明の衝突が起きるのだ。
 文明と秩序は、冷戦時代にふたつの超大国によって築かれていたが、冷戦の崩壊後は、アメリカ一国が超大国になったが、世界の安全保障をコントロールすることができない複雑な文明による衝突が起きていくのだ。世界の秩序は文明の中核国による新しい秩序が必要な時代となっていることをハンチントンはのべるのだ。
 ソ連の崩壊によって、西欧の境界をどう定めていくのか。西欧文明ということで、フランスとドイツが中核であったが、すぐ外側の囲んでの国のグループがあるその外側のグループ、さらに、東側のグループ、三段階の連合などが提案もされたが、加盟国と中立国としての非加盟国という線引きをしたのだ。
 ヨーロッパの東の境界線をどこにみるのかが大きな課題となっているのだ。西欧のキリスト教文明と東方正教会イスラムとの境界線をどうひくのか。東欧というのは、歴史的に東方正教会の庇護のもとに発展した地域だ。NATOの拡大に対しても文明の視点が大切としているのだ。
 ウクライナ旧ソ連のなかで人口が最大で重要な国であったのだ。ウクライナの東部は圧倒的に東方正教会系でロシア語を話す。西部は、かつてポーランドリトアニアオーストリア帝国の一部であったことだ。
 そこではウクライナ語を話し、民族主義的傾向が強いのだ。文明論的にはウクライナは分裂国家の要素をもっているハンチントンは強調するのだ。
 ソ連崩壊後にウクライナが独立していくうえで、文明的境界線をもっていたのだ。そして、核兵器をめぐる問題、クリミアの住むロシアの権利、黒海艦隊や経済的な関係の問題があったのだ。ウクライナ人とロシア人は同じスラブ系で大半が東方正教会で何世紀にわたって親密の関係の側面をもっていたが、一方で対立する側面があったのだ。
 人権に対する西欧的な見方と非西欧的な考えの違いがはっきりしたのは、1993年に開かれたウィーンだ。それは開かれた人権に関する国際会議であったのだ。非西欧的な諸国で、ラテンアメリカ諸国、仏教国、儒教国、イスラム諸国が西欧諸国と異なった意見をのべたのだ。
 人権をめぐる普遍主義と文化的相対主義、開発の権利を含む経済的・社会的権利の比較優位性があった。そこでは、政治的・市民的権利、経済的援助に関する政治的条件、国連人権高等弁務官の設置などが議論されたのだ。
 人権問題は、国家と地域の特殊性や、さまざまな歴史的、宗教的、文化的背景を考慮すべきであったのだ。人権擁護を監視することは国家の主権を犯すことがあるというのだ経済援助を人権問題とからめるのは、国と発展の権利にそむくものだという議論があった。これらは、大きな検討課題になっていくのだ。
   東アジアは、多勢力で多文明という性質のため、西ヨーロッパとは異なって、経済面や政治面での相違が明らかなのだ。
 西ヨーロッパは安定した民主制をもち、市場経済を実践して高度な経済発展を実現してきた。東アジア1990年代から急速に経済発展をして、軍事力を拡大できるようになったのだ。対抗意識が前面にでて、この地域に摩擦が起きるようになるのだ。
 とくに、アジアと西欧、とくにアメリカとの間に摩擦が激化し、東アジアにおける伝統的な覇権を中国があらためて主張するようになる。冷戦後の重要な国際的中心の舞台は東アジアになったとハチントンはのべるのだ。東アジアだけでも6つの文明に属する社会があるというのだ。
 それは、日本文明、中華文明、東方正教会文明、仏教文明、イスラム文明、西欧文明だ。ここでは、日本、中国、ロシア、アメリカというのだ。東アジアでは2つの朝鮮と中国での台湾問題があり、多くの国との国境紛争の問題があるのだ。ヨーロッパの過去がアジアの未来になる可能性があるという見方もあるというのだ。
 東アジアの経済成長は、アメリカとの関係も変わっていったと。アジアとアメリカ文明の文化的相違点が表面化するようになっていく。アジアの多数の国にひろがっている儒教的特徴を重視することが求められていると考えるのだ。その見方は、権威、合意の重視、対決をさけて面子を保つという社会だ。そして、個人の利益、自己利益を重視する社会より、地域的権利、社会的権利、自然的循環、自己よ愛他主義という他者を優先するという見方を主張するようになったというのだ。

 日本の経済は西洋の論理では説明できない。西欧の自由市場経済ではない。1994年に細川首相がアメリカからの完成品輸入に数値目標を求めたクリントンの要求を拒絶したのだ。アメリ側に「ノー」を言うことは想像もできなかったとハチントンは書いているのだ。
 1990年代のアメリカのアジアに対する政策は、変わる両者がぶつかり合う分野の問題を切り離して、自らの利点がある分野に問題をかたむけていったのだ。
 世界のなかの西欧は、民族、国民性、宗教、文明に基づくアイデンティティを考える必要があるのだ。このことを理解できなくて、
 非西欧的文明が高まったなかで、政治家は国家の政策、同盟や敵対的関係に建設的なことができないのだ。アメリカのエリートたちはこのことが理解できなかったというのだ。多文明的な経済統合計画を推進したが、無意味であったことになるのだ。  
 西欧文明を世界文明と信じる人々は、西欧の価値観、制度、文化を受け入れるべきだと考えるのだ。それは誤りで、不道徳であり、危険であるというのがハチントンの基本的な見方だ。西欧の帝国主義が非西欧地域に西欧文明を広げていった。
 文化が成熟した西欧は、経済的、人口動態な活力からも世界的になることは難しくなっているのだ。アジアとイスラム文明が自分たちの文明の普遍性を主張していくようになるのだ。西欧の普遍主義は異文明の中核国家と大規模な戦争を招く恐れがあり、極めて危険であるという見方だ。
  異文明間の大規模な戦争を避けるためには、中核国家は他の文明内の衝突に介入につつしむ必要があるのだ。アメリカにとって、なかなか容認できない真里であることは疑いない。他の文明の衝突に中核国が干渉しないということが多文明、多極化する世界にとっての平和のルールなのだ。
 そして、大切なことは、共同調停ルールだ。中核国が互いに交渉して自分たちの文明に属する国家や集団がフォルト・ライン(文明の断層線)戦争を防止、停止することだ。
 第2次世界戦争後の国際機構の大部分は西欧の利益と価値、慣行をもとにつくられたものだ。西欧の力が他の文明に比して衰えていくにしたがい、こうした機構を作り替えて他の文明を配慮した議論が求められているのだ。
 道徳や義務、社会についてのアイデンティティのアジア的な伝統的考え方、より西洋化した個人主義的で自己中心的な人生観、自己よりも社会を土台に位置づけ、社会の基礎をなす家族を支えること、主要な問題点は論争ではなく、合意によって解決する、人種や宗教についての寛容さと調和を尊ぶということは大切な価値になるという主張がアジアのシンガポールから発信されているのだ。
 アメリカの価値観からみれば、地域社会の権利よりも個人の権利をはるかに重視し、表現の自由、意見を戦わせることから生ずる真実、政治参加と競争を重んじ、専門的で賢明なる責任ある統治者を求めて、法の支配を重視するであろう。アジアの価値観を許容、不干渉ルールと共同調停ルールが求められる。加えて、多文化的世界の平和のルールとして、共通した特徴を見いだしていくことが必要ではないかとハンチントンは力説するのだった。
 
まとめ

 ロシアのウクライナへの軍事侵略という不幸な事態が起きている。文明の衝突論からハンチントンは、すでに1996年に、この本を執筆したときに、ロシアとウクライナの戦争への悲劇の可能性を文明の断層線・フォルト・ライン戦争への可能性としてみていたのである。
 西欧の文明が絶対的ではなく、ロシア東方正教会文明との互いの寛容性と話し合いが求められていたのだ。
 西欧的な価値観は、議会制民主主義、自由なる市場経済、個人の自由、人間の尊厳などの近代的な文明社会を形成していくうえで、大きな役割を果たしたことは否定できないことだ。
 しかし、その西欧的文明のなかでも新自由主義のように市場絶対主義の矛盾があらわれて、経済的格差や貧困問題も起きている。西欧の近代化のなかで、帝国主義的な領土の拡大や植民地政策を遂行して、非西欧社会を抑圧してきた歴史も無視できないのだ。植民地では愚民政策を実施、人間を奴隷的状態にあつかって、富を西欧に蓄積していったのだ。
 大国政治の悲劇として、大国は派遣国家を求めていく論理は、戦前の日本における近代化の歴史であったのだ。絶えず、領土拡張を求めての軍事力の増強であったのだ。あらためて、戦後の日本国の出発に憲法で平和的生存権と国際協調主義の見方は重要であるということが覇権国家にならないために必要なことだ。
 また、指導者がウソをつくということは、戦争を促進するためには、必ず生まれてくるということも大切な見方だ。
 民主制国家では、国民から正義の戦争として支持され、国民を戦争に動因させるために、隠蔽、恐怖の扇動、ひとつの事実を誇大化しての印象操作、ナショナリスト的神話などが重要な戦争遂行施策としてある。
 ウソは国民の意識や心をコントロールするために重要な役割を果たすのだ。戦争や危機的な状況に、国家権力 国家は情報を握り、情報操作をできる立場にいるのだ。
 現代は、マスコミも発達して、SNSというスマートホーンを誰でももつ時代だ。デジタル社会のなかでの大衆的な操作は、国家による社会的な意識形成や操作は、一層に容易になっている。
 まさに、監視と操作の社会が生まれているのだ。このなかで、真実を個々が自分の頭で考え、情報が公平になっていくためのマスコミやSNSなどのあり方やその公平なるするための工夫が一層に求められているのだ。 

                         

デジタル化社会の民主主義と人間教育ー監視資本主義論から考えるー

      デジタル化社会の民主主義と人間教育ー監視資本主義論から考えるー

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 日々の生活のなかでスマートホーンなどの普及によって、SNSの情報が生活に大きな影響を与えています。人々の行動にSNSは、避けられなくなっているのです。行動ばかりではなく、自分が常に監視されているという恐怖感にたち、スマートホーンやパソコンのメールなどで、見知らぬ人からの情報がとぎれなく入ってくる状況です。

 さらに、重大なことにデジタル社会によって、現実の暮らしや人々の生の痛みや喜び、願い、様々な体験、多くの人との出会いによる体験的なことが、バーチャルの世界に転化していくことです。このことによって、人間の実際の心や精神、魂が理解できなくなっていくことです。

 さらに、スマートホーンでの詐欺も多くなるのです。便利で利用を強いられているスマートホーンが怖さの対象になっています。また、SNSによって、個人情報が流出して、個人にそっての欲望があおられていくのです。

 SNSによる安易な世論操作も行われて、テレビと同時に、ポピリズムをつくる大きな情報源にもなっています。

 まさに、自分の意志がコントロールできない状況がSNSによってつくられているのです。人々がSNSに操られているのです。

 ショシャナ・ズボス「監視資本主義」東洋経済新聞社を読んで、あらためて、デジタルを支配する巨大な情報操作による新たな監視資本主義の道具主義の巨大な力を考えさせられました。

 

 新自由主義と監視資本主義

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 高度に専門化された機械知能の操作によって、人々の行動を予測して、排他性をもって高収益を得ていくというのが監視資本主義です。新自由主義の遺産が監視資本主義をつくりだしたとショシャナ・ズボス「監視資本主義」はのべます。
   ショシャナ・ズボスは、 監視資本主義のプロジェクトにとって、自律的行動という自己決定や意志の自由を他律的行動に置き換えなければならないと強調します。人間の気づきが、大気規模な行動修正プロジェクトにとって脅威になるのです。

 当事者の気づきをを回避することは、監視資本主義全体にとって必須の条件となるというのです。示唆による大規模な遠隔刺激としての効果によって、気づかれることなく、感情を経験させることが大切というのです。

 自己決定や意志の自由という近代社会における民主主義の人格形成にとっての基礎的要因をデジタルの情報づけで他律的な行動に置き換えていくのです。
 ショシャナ・ズボスは、人間の行動を自分の利益のために密かに修正していくのが監視資本主義の本質とみるのです。人間の行動を予測、制御、修正するように多様なプログラムを設計していく。監視資本主義は、自動化された機械処理によって、一人一人の行動を探知ることから、自分達の利益になるように機械処理によって、人々の行動を形づくりということです。人間の行動を自動化された機械処理によっての他律的志向を内面から形成して行動にはしらせていくのです。

 それは、強権的に外からの力によって、人間の自由を奪っていくものではなく、デジタルの機械処理によっての他律的志向の人間形成をもって、マインドコントロールされて行動していくのです。
 監視資本主義は、近代社会によって確かに確立された自分の意志、自己の決定による自由という人間の本質を破壊することにあるのです。ショシャナ・ズボスは、人間の本質の略奪と監視資本主義について次のように力説します。

 監視資本主義の形づくる情報文明は、人間の本性を犠牲にして、人間性を犠牲にしていく。商業の慣行を超えて、社会的つながりの中に浸透して、自分や他者との関係を変容させることになるというのです。
 監視資本主義は、社会の教育部門を乗っ取り、社会秩序の頂点にたって、知識を自由に操り確実性の原本を育てて、道具主義を保護しているのです。

 道具主義は、修正、予測、収益化、支配を目的として、行動を軽装し、道具化することです。軽装とは、計器を装備して、監視や制御を行うことだが、人間を操り人形にすることです。それは、人間の経験をを視覚化し、解釈し、操るコンピユーターと常時つなげておくことを意味しているのです。

 

 監視資本主義と道具主義

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 監視資本主義は、道具主義全体主義を同一視する。このことが道具主義を力にしていく。道具主義に抵抗し、それを中和し打ち負かすことを妨げているのです。監視資本主義は、全体主義と全く違う道具主義を使って操っていくのです。
 全体主義は暴力によって機能しましたが、道具主義は行動修正によって機能するのです。道具主義は、人間の魂にもそれを指導する原理にも興味がない。精神を救済する訓練や教育は不要で、行動の指標となるイデオロギーも存在しない。苦悩ゆえの行動のデーターは大いに歓迎するが、苦悩や恐れに興味はなく、意図や動機にも無関心です。まさに、道具主義は人間のもっている精神、喜びや悲しみという魂、イデオロギーにも関心がなく、人間をデジタル操作によって、正確に行動するロボット化していくことです。
 道具主義者が関心を向けているのは、測定可能な行動を測定し、わたしたちのあらゆる行動を絶えず進化する計算・修正・収益化・制御のシステムに常につなげておくことになるのです。道具主義人間性の犠牲は、テクノロジーと技術的複雑さによって、カモフラージュされた親しみやさいレトリックによってあいまいにされるのです。 
 さらに、道具主義はデジタルを取り込んでの独自の社会支配を実現する徹底した行動主義なのです。魂、自我、精神、意識という人間の内面的要素は観察も測定もできないから科学的価値がなく、魂の人間から自然法に従う魂の集合体の生物の集合体として人間をみるのです。
 科学が文明を超越するにつれて、平等と民主的連帯についての世界認識が育ってきたが、それが基盤とするのは、すべての人間の同種の生物としての圧倒的類似性とみるのです。階級、富、人種などに基づく社会や政治や経済における区分はばかげたものと見なされるようになると道具主義は考えるのです。
 道具主義の政権下では、精神と権利は徐々に新たな種類の自動性におしつぶされていく。刺激・反応・強化からなる生きた経験は単なる生物の行き来に集約されるのです。社会規範に服従する必要がなく、恐怖や脅迫によって自己を失う恐れもない。すべてがデジタルの秩序にとって代わるのです。魂をもった人間、精神をもった人間ではなく、刺激・反応・強化からなる生きた機械的な生物としての取り扱いです。
 その秩序は物や身体の中で成長して、生きた人間の意欲を機械的な強化に変え、行動を条件つきの反応に変えるのです。監視資本主義のための知識を続々と生みだしていくのは、人間のもっている魂、精神からの自由の意志を限りなく減らしていくのです。個人の自由を他者の知識に置き換え、社会を監視資本主義の目的の確実性に置き換えるのです。それは、民主主義にたちむかうことをせずに、民主主義を内部から侵食していくことに本質があるのです。
 デジタル会社の道具主義の計画は、人、モノ、プロセスのすべてを含む社会の情報を供給網を通じて機械に送り込み、人々の脆弱さを管理していく。デジタルでの完全な知識は非協調的サ-ビスに必要なものとして販売され、AIを活用し、全員をつなげ、世界を理解する全知の全体主義の解決策につながっていく。

 

機械と人間の関係

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 機械と人間の関係は、監督、交渉、コミュニケーション、問題解決という社会的機能が物体と同等のものとして、独自に配置されたAIをつうじてシステムに認識されて、調整されるのです。各人の経験、資格、雇用履歴、その他の背景的情報は、即座にシステムに表示され、資格をもつ従業員だけが作業機械を使用できるようになるのです。AIが異様を察知するのです。管理のすべてをAIにまかせる仕組みになるのです。
 デジタル時代の機械と人間の関係は、コンピユーター内のオブジェクトとして統合され、すべてが監視資本主義のポリシーに従って、道具化され、システムによって自動的に課されて、監視されて維持されていくのです。ここでは、約束と妥協、合意と価値の共有、民主的な競争、正当、権利というプライベートガバナンスやパブリックガバナンスに関する社会的プロセスは一切が無縁となるのです。
  機械知能を共有するマシンは最も効率的に情報を共有して、効果をだしていく。マシンはより人間に似せて設計することができ、人工知能は毛嫌いせず、人間の方が機械に近づかなければならいとするのです。機械は個別的な存在ではなく、人間は機械のようにあるべきだという見方になっていく。
 機械は互いに模倣して、共生のために人間は互いに調和して、互いに倣って考え、正しい理解に基づいて平和的に同じ方向に行動するようになるべきとするのです。正しい結果は事前に知らされ、保証されていくというのです。個人の自由は集団の知識と行動のために没収されていくのです。調和しない要素は先制攻撃のターゲットになるのです。

 

民主主義の破壊とデジタルの道具主義

 

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 大義よりもより多くの人々の利益のための行動が道具主義社会の原則になっていく。知的な個人のためではなく、社会の利益のために知性を正しく方向づけることになるのです。完全な知識が集団的意思決定の手段になることによって、政治に代わる計画ができると考えるのです。不合理な結果や意図しない結果が生じる余地を残さないことになっていきます。民主的な政治では、創造的であるが厄介な対立が生じがちというのです。人間の社会は、それぞれ個性をもち、性格も異なり、文化も多様性をもっています。多様な魂をもっているのが人間なのです。この多様性のなかで、いかに共存していくのかが、人間が様々に作り出している社会システムであるし、文学も生まれ、芸術も生まれ、音楽によって自己表現しながら、共感をもっていくのです。そして、思想や哲学も充実していくのです。それは、機械のように正確で同一に動くものではない。これらの人間的な営みを機械処理の効率性と同一性の論理で奪っていくのが、監視資本主義によるデジタルによる道具主義なのです。
 道具主義者にとっての政治の正しい解決策は、科学的に全体の調和と集合的な目的を達成されるために調整され、はるかに微妙で洗練された強化スケジュールに基づく必要があるとするのです。悲しみと憎しみ、それに過剰な恐れや怒りがもたらす興奮は現代の生活ニーズに対する危険な脅威とみなされることになるのです。

 個人による良い行動を設計を促す行動プロセスのセルフコントロールは、常に社会の手によって最終的に全員を協力させるネットワークによってチックされます。これらの強化のためにはソーシャルメデアが重要と考えているのです。
   道具主義社会とって個性は脅威となります。それは、協力と調和と統合からエネルギーを奪うから、厄介者だとするのです。社会は個人の理性ではなく、周囲のアイデアの流れや事例からも理解されると道具主義者はみるおです。個性ということではなく、集団知性によって支配されるべきとするのです。個々の自律性という破壊的なフィクションを排除すれば、個体差はほとんど問題にならない。計画者による操作に個人が降伏することは自由の喪失のうえに築かれ、安全で繁栄する未来への道を開くと道具主義者はいうのです。

 ところで、ソーシャルメデアを使わずにいられないと感じる若者は、ソーシャルメデアに必死にしがみついています。たとえ傷つけられても他者の視線のなかで生きようとしています。若者は社会的比較をとおして活動し、社会的圧力や他の社会的影響に対して、ほとんど抵抗しないまま、あっさりと餌食になるのです。

 

自己構築と監視資本主義

 

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 個人の内面的な空虚さは、ソーシャルメデアによって容易に満たしてくれます。それは、自己構築の作業を外からのアイデンティティの注入によって置き代わるのです。自他の融合は関係ある人から関係を持つ人への移行が大切と監視資本主義を警告するショシャナ・ズボフはいうのです。
 本来的に人間的発達のために、この移行には、経験の理解の仕方を根本的に求める作業が必要です。相互性の文化から自分の人生の著者になること、自律性からなる文化への移行だというのです。この移行を成功させるのは、鏡に映る自己像を超えるものを求める人や人生との出会いが必要になるのです。
 その人や経験が若者に求めるのは、一人称で語り、世界に対して独自に反応をすることです。この真実と権利の感覚を土台に、若者はわたしは考える、わたしは信じるということになっていくのです。自己に影響を与え、自己を知り、意図的な選択と目的のある行動によって自己ををコントロールできるようになっていく。
 このような自己構築における大きな飛躍は構造化された内省、対立、不調和、危機、失敗などの経験によって刺激されるのです。この自己構築していく若者を手助けする人々は、若者の鏡になることを道具主義社会では決定的に拒むのです。デジタル社会は、若者との融合を拒否しているのです。伝統的社会が衰退して社会が複雑になって、個人化のプロセスが加速して、過去のどの時代よりもアイデンティティと精神力に頼ることになっていますが、それに頼れないで大いに混乱して孤独になっている青年が多いというのです。
 また、デジタル接続が社会に参加するために欠かせない時代になっています。人間間のコミュニュケーションがコンピュターが媒介するようになったことです。SNSで個人や集団の行動に光があたるようになって、数限りない行動が津波のようにおしよせてくるようになったことです。

 そして、監視資本主義がデジタル接続を支配して道具として利用していることです。若者の生活空間は監視資本家によって所有され、経済的志向に従っての監視収益を最大化するように若者達の私的空間を利用しているのです。そして、社会的圧力、若者達の行動を操作しているのです。

 自己を構築したいという人間的欲求と監視資本主義の行動学の専門性が現実では衝突するのです。デジタル社会によって個々人の心理がソーシャルメデアに支配されていくのです。ソーシャルメデアは、社会的比較の強度、密度、普及について新時代を築き、人々の消費財の意識と欲望を目覚めさせた。窃盗罪も増えた。ソーシャルメデアによって、自尊心や幸福感も左右されていく。社会的比較によって負の影響も増大したのです。

 行動や知識に対しての比較も容易になり、ネガティブ気分や人生の満足度お低さに拍車をかけていくのです。社会的比較は、客観的要素によって、自他の評価するようになるのです。優越感や劣等感による他者との融合や相互作用も難しくなっていくのです。社会的鏡の強化は、自己満足と自傷においたてられていく。
 監視資本主義の隆盛と民主主義の後退で、疎外感や不安感を多くの世界の人々が描いています。従前の議会制民主主義に対する統治に不安感をもつようになっていく。新自由主義の政策によって生みだされた社会の劣化と環境異変で大きく変化した。監視資本主義は民主主義を窮地においやっていく。 新自由主義のもとでの監視資本主義は、極端な富の不平等をつくり、経済的独占を想像もつかないほど手にしたのです。監視資本主義のもとで、どのようにしたら民主主義を創造できるのかという大きな課題が一人一人につきつけられているのです。
 デジタルによる道具主義社会で、人間の素晴らしい本能である人とのつながりや共感や情報の欲求をソーシャルメデアによって操作されるものではない。また、あらゆる動作、感情、発話、願望が分類され、操作され、誰かの利益になるように操作されることも許されることではない。それらに激しい怒りの感情をもつことと、喪失感を取り戻せるかにかかっているとショシャナ・ズボス「監視資本主義」では強調するのです。これは、自らの生活に対する主権と自らの経験の著者としての権利だというのです。
 このためには、意志を育てる内的経験とその意志に従って行動できる公的空間をつくりあげていくことです。情報文明における社会秩序の支配原理と、個人として社会として誰が知っているのか。誰が決めるか。それらの疑問にこたえるわたしたちの権利です。

 

 社会物理学の思考とデジタルの活用

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 アレックス・ペントラントは次のように社会物理学の画期的な未来への可能性をのべています。ソーシャルメデアの科学的道具主義をとる社会物理学は、人間の独立した意思をを認めているという。それを表現する必要がないだけであると。

 社会物理学は母集団全体に及ぶ統計的学的な規則性に依拠し、あらゆる場合において、真実とみられる現象を扱っています。私たちの日常生活の大部分は習慣的なものであり、その習慣の多くは他人の行動を観察することで得られるというのです。社会的物理学を使って、一般的な人間の日常生活に合わせた生活スペースや交通システム、政府機構をデザインすることができる時代になると考えます。
 社会物理学の思考は、他人の経験が統合されたものに基づいて、文化と社会の両方からみているというのです。社会を数学的に捉えて予測可能にする科学は政府の役人や企業のマネジャー、そして市民達が考え、行動するのに劇的に変える可能性があるという。
 社会物理学は社会をよりよくデザインし、人間中心型の設計を支援するのであるとペントラントはのべます。市場は人間を容赦なく競争を追求する存在であった。しかし、人間は単に自己中心的な自律であるわけではなく、他者との交流によって生みだされた社会規範をもつものです。競争と同じくらい協力は人間社会にとって重要であるということから、仲間たちの間の調整や協力は非常に強力な力を発揮していくと社会物理学者のペントラントはみるのです。そして、人間の自然状態は市場ではなく、交換ということから、競争ではなく、人々の交換ネットワークを注目しなければならない。この交換ネットワクの構築は社会物理学者のペントラントにとっての重要な未来社会論なのです。
 社会物理学に基づいた社会デザインは、市場型アプローチに代わるモノで社会効率を達成でき、パーソナルデーターを厳しく管理することで、それを認めた相手に限り、信頼できるネットワークができるというのです。信頼できる交換ネットワークという概念は、自分のパーソナルデーターの行く先と用途をコントロールしながら、効率的で、公正性や信頼、安定を求めるものというのです。
 さらに、ペントランドは、交換型ネットワークの未来への意義を強調するのです。未来への必須条件は、自分のパーソナルデーターが合意した用途のみに使われるように安心した形で個人や企業と安全なやりとりができりことが必須になるのです。パーソナルなデーターの厳格な管理モデルは公正さと安定と共に、社会効率を実現するのです。自分しかみられないみられないパーソナルデーターと限定的なデーターコモンズをつくり誰でも自由にアクセスできるという組み合わせが求められるのです。
 例えば、病院や製薬会社の治療の効果に対する情報を誰でも自由に閲覧できる公共的な情報と、非公開となっている自分の医療記録情報と組み合わせることによって、よりよい治療が受けることが可能となるということが可能になると。このように、ペントランドは、ソーシャル物理学でパーソナルの交換型ネットワークの未来を提示するのです。
   交換型ネットワークは新自由主義のもとでのデジタルによる道具主義のもとでは不可能であることを見逃してはならないのです。厳格にパーソナルデーターの管理は、個々の企業と個人との関係では難しく、公共的に、公平性と安定性をもってしていかねばならないことは、デジタル情報の社会的なルールと管理を厳正に構築していかねばならないのです。

 そこには、政治や法、行政のデジタルの個人情報に対する厳正な管理の施策が求められ、その社会的なプライバシーの尊重、個人情報の厳正管理ルールが一般化されることが当然にならねければならないのです。それを破ることへの強力な罰則と社会的制裁が求められているのです。

憲法九条の平和主義とベトナムとの共生教育  

 

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憲法九条の平和主義とベトナムとの共生教育 

             神田嘉延

 日本人は戦後に国際協調と平和主義を国是とする憲法のもとで暮らしてきました。憲法9条は平和主義の象徴です。国際紛争が絶えない世界情勢ですが、憲法9条は日本の平和外交のための灯台であると思います。ベトナムをはじめ東南アジア諸国は友好協力条約を結び話し合いによって、それぞれの困難な国家関係を解決していくことを定めています。

 ベトナム戦争の教訓から平和ブロックを形成したのです。アメリカも中国も、このブロック体制を尊重しているのです。

 日本はベトナム戦争のときにアメリカの前線基地となり、日本国内で多くの国民がベトナム反戦運動をしたのです。

 日本とベトナムは古来より深い関係がありました。現在は多くのベトナム人外国人労働者として働いています。また、日本に学びにきているベトナム留学生も多いのです。このなかでさまざまな問題も起きています。日本人とベトナム人の共生教育が求められているのです。

 


 ベトナム解放における日本留学運動ードンズー運動(日本に学べ)

 ベトナムは、1884年にフランスの植民地になりました。植民地からの解放として、日本から学ぼうということで、留学運動があったのです。それは、ファン・ボイ・チャウを中心に、ドンズー運動(日本に学べ)として、1905年から1909年にかけての運動でした。

 それは、過酷なフランス植民地支配からベトナムの独立を勝ち取るために、日本への留学する運動を展開したのです。この留学運動には、当初、大隈重信、犬飼毅、柏原文太郎の有力政治家なども協力しました。しかし、1907年の日仏協約によって日本政府は、一転してドンズー運動を弾圧するのでした。フランスは植民地政策として、徹底した愚民政策をとっていたのです。フランス政府は、日本への青年達の留学を取り締まるように日本政府に要請したのです。
 ベトナム独立運動で、建国の父といわれるホーチミンは、1924年にフランスの愚民政策を痛烈に批判した文書を書いています。フランスがベトナムを植民地支配することによって、非識字者が大幅に増えたというのです。漢字文化も一掃し、愚民政策をフランスはとったと述べています。
 学校をたてるのも侵略に奉仕する通訳、官吏の養成だけで、智恵を深め、祖国を愛し、思想を発展させ、ベトナムの未来をつくるためではないのです。そこでは、フランスの絶対性とベトナムの祖先を蔑視したものです。

 ベトナム人が自主的に海外留学の考えをもっただけでフランスの反逆者とみなされたのです。フランス国内ではあたりまえに読まれていた近代の民主主義思想家のルソーやモンテスキュウーの作品を読むことも禁じられました。
 フランスは、ベトナム人の自主的な学びを弾圧したのです。1907年に兵を派遣してベトナム人が学ぶ「トンキン義塾」の閉鎖を命令します。教師達は捕らえられ、虐待され、牛馬のように殴打され、強制労働をされたのです。ベトナムの植民政策は、愚民政策が徹底されたのです。

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 ベトナム人にとって、学ぶことは、命がけでした。フランス帝国主義者にとって、ベトナム人が学ぶことが自らの支配が崩れると考えたのです。ホーチミンは、ベトナムの解放闘争に、学ぶことを最も重視しました。
 教育者は、ベトナムの未来にとって、光栄ある重い責任があるとして、その養成を大切にしたのです。トンキン(東京)義塾は、日本に数週間滞在して日本の教育機関を参観したファン・ボイ・チャウによって、1907年にハノイで開設されました。
 日本に期待し、命がけで留学してきたベトナム青年を、日本政府はフランスからの圧力によって、追放するのでした。追放されたときは、中国人留学生の多くが在籍する予備校の東京同文書院士官学校予備校の振武学院、慶応、法政などにベトナム人の留学生は学んでいました。
 1908年10月、ベトナム人留学生の解散命令のときには、300名の留学生がいました。ベトナム人留学生のための特別日本語班が設けられました。厳しい日本政府のベトナム人留学の解散命令と1909年2月の退去命令のなかでもベトナム人留学生を支えたのが医師の浅羽佐喜太郎などでした。
 ファン・ボイ・チャウは、日本に来たときは、立憲君主制をめざしての革命を考えていました。ベトナム皇族のクオン・デをたてて、独立を勝ち取ろうと考えたのです。グエン・デは1906年フェを脱出して、ハイフォン、香港経由から横浜に4月末に到着するのでした。
 ファン・ボイ・チャウは、孫文など日本で中国革命家ばかりではなく、日本人の社会主義者とも会っています。
 ベトナムの独立のために日本へ留学したトンズー運動を現代に評価することは、日本とベトナムの友好発展にとって大切なことです。フェのファン・ボイ・チャウの記念碑訪問については次のブログを参照してください。

ベトナムの独立のために日本へ留学ー ファン・ボイ・チャウとドンズー運動: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー (webry.info)

 

 ベトナムと日本、とくに鹿児島を中心としての歴史的な関係については、次のブログを参照にしてください。

yoshinobu44.hateblo.jp


 
ベトナム戦争の悲劇と降伏したアメリカ兵を人間尊重

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 ベトナムの人々はアメリカとの激しい戦いをしましたが、しかし、アメリカ人の捕虜に対しては、手厚い人道的待遇をしたのです。アメリカ軍の戦略爆撃機を打ち落としたときに、落下してくるパラシュートの兵士を保護する対策を徹底しました。
 ベトナムの伝統思想家グエン・チャイ (1380年~1442年)は、敵兵に仁義を唱えた。彼は、15世紀中国の明朝の侵略を打ち破った指導者で、国を導いた儒教思想家です。彼は次のように現代の思想にも通じることをのべています。ホーチミンは、このベトナムの伝統的な思想をアメリカとの戦いでも実施したのです。

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「仁義は横暴より強し」ということで、「大義をもって残虐に勝る」ということです。儒教のこころをベトナム的に応用して、独立を守りました。捕虜になった明朝の兵士を人道的にあつかい、彼等の食料と帰りの道を確保しました。海を渡って帰る兵士に500余の船を与え、陸を通って帰る兵士には、数千の馬を与え、人道的なはからいをしました。 中国明朝に対する侵略者への怒りの爆発ではなく、捕虜になった人々に、人間としてのこころをもって大切にするようにベトナム人に説いたのです。
 アメリカの兵士も一人の人間であり、帝国主義ということと区別すべきという見方からです。ベトナムは小国で歴史的に中国の侵略を絶えず受けてきた国です。戦法も工夫して、中国にたいしては、海と接する川の満ち引きの自然の力を利用して、船団を動けなくする方法での撃退やゲリラ的に待ち伏せ攻撃など。アメリカに対して、地下道をくまなくつくり、敵の陣地へ兵器の火力に依存するのではなく、人の力と国民的抵抗心とゲリラ戦で戦ったのです。

 そして、侵略に動員された敵兵を味方にする方策をとってきたのです。敵を打ち破ったら、彼らを味方にしていくということで、捕虜に生活費のお金をあげて手厚く送り返したということです。

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 ベトナムの平和ということで、アメリカ国内でベトナム帰還兵を巻き込んでの大きなベトナム反戦のうねりになっていったことが、ベトナムでの戦争終結に大きな役割を果たしたのです。日本もアメリカのベトナム侵略の拠点基地になりましたが、日本の多くの国民がベトナム反戦運動を展開したのです。直接にアメリカ兵にもベトナム平和のチラシを配り、平和のためのデモを展開したのでした。日本人のもっていた憲法九条の精神がベトナム反戦運動にも貢献したのです。

 

 ベトナムの激戦地が今は平和のための観光地に

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 1965年4月にホーチミンルートの麓であったドンホイの町はアメリカ軍によって壊滅状況になりました。今の市人口は10万人余です。町からみえる山岳地帯の向こう側はラオスです。住民は疎開しての生活を余儀なくされました。現在は、村全体が地下壕になっているところの跡地も戦争遺跡として保存されているのです。この跡地は、外国人を含み多くの観光客が訪れています。
 ベトナム戦争は第2次世界大戦後の世界史で、大きな悲惨な出来事でした。日本でも60年代後半から70年代前半にベトナム反戦運動が全国的に展開されました。ベトナムは、日本の敗戦により、1945年9月2日に独立宣言をしました。

 しかし、再びかつて、ベトナムを植民地にしていたフランス軍が侵攻してきたのです。フランスとのベトナム人との抵抗では、敗戦で日本に帰らなかった多くの日本人兵士がベトナム側に協力したのです。
 フランスとの闘いは1954年のジュネーブ平和協定まで続きました。17度線の停戦協定がひかれ、双方の軍隊は、北と南にわかれたのです。2年後に選挙が行われる予定でしたが、アメリカのかいらい政権が南に打ち立てられ、再び長い戦争に突入していくのでした。その戦争は1975年4月の南ベトナム政府のサイゴン陥落まで続きます。17度線が引かれたベトナムの中部は激戦地であったのです。

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 激戦地ドンホイの住民達は、7年間地下での生活を強いられるのです。そこには、病院もあり、この地下生活で生まれた多くの子どもたちもいたのです。地下壕は、現在、平和観光のための資源になっています。
 町の中心の公園には、平和の象徴として、パリ協定のシンボルの像があります。壊滅したドンホイ市には、キューバカストロも訪れ、キューバ建築家の設計と技術者の援助によって、太陽のもとでの市街地で、豊かに暮らせるようになったのです。

 ドンホイ訪問のときのブログは次のとおりです。参考にしてもらえればと思います。

ベトナム戦争中部激戦跡地を訪ねて(ドンホイ周辺): 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー (webry.info)

  アメリカの経済封鎖が1994年まで続き、中国との緊張関係もありました。1975年の戦争終了後にベトナム人自身の自力によって全土の復興がされていきますが、物質が外国から入ってこないので、生活の実態は厳しさを強いられたのです。今は、世界との経済活動も活発になり、かつての激戦地であったドンホイ市は観光地に生まれかわり、外国人も訪れるリゾート地にもなっています。
 ベトナムは1994年まで経済封鎖をアメリカ主導によってなされたので、世界と自由に独立してつき合えるようになりました。アメリカとも現在は仲良い関係をもっています。ベトナムの真の解放は、1995年以降とみるべきでしょう。
 
 世界最貧国から立ち上がったベトナムの経済発展と平和の大切さ

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 ベトナムは、20年前まで世界の最貧国でした。長いフランスの植民地支配、フランス、そして、アメリカとの戦争。中国との緊張関係など。1975年にベトナムは独立を完全に達成して解放されますが、その後は1994年までアメリカをはじめ先進国からの経済封鎖、中国との軍事的紛争などで、まともな経済活動ができなったのです。ベトナム国民にとって、近代の歴史をみれば、独立と平和は極めて大切な課題です。それは、極めて困難ななかでの達成でした。
 現在は、東南アジア諸国連合で平和共同体をつくっています。非同盟運動と多様性を認め合い、共存・共栄の平和連合体をつくっているのです。
 ベトナム市場経済を通して社会主義をめざす国家です。地域の共同体、話し合いを地域で大切にして、それぞれの価値観、信仰も尊重している国で、キリスト教、仏教、儒教、地域の習俗的信仰など、それぞれ尊重して、村のなかでも異なる信仰が共存しているのです。この意味で明治以前における日本の伝統的な文化とも似ている側面があります。
 ベトナムでは政府の政策が必ずしも国会で承認されるわけではありません。政府は新幹線を推進しようとという施策でしたが、各地から撰ばれてくる議員で構成される国会は、新幹線の段階ではなく、地域の交通機関を発達せよということで、政府提案は否決されています。原子力発電所建設も同様で政府提案は否決されています。多様な意見を尊重し、また、南部、中部、北部という地域性を尊重して、国民合意を大切にする国づくりをしている現状です。
 ところで、拝金主義の問題も経済発展のなかで大きな問題として起きています。新たに汚職問題も起きていますが、汚職の分配を部署の人々に行うという共同体主義もあります。公務員が貧しいなかでのワイロは大きな悩みです。これは東南アジアに共通して起きています。
 ここには、先進国のモラル問題も絡んで発生している場合も多くみるのです。政府は汚職問題には大変な悩みで、その対策に徹底しているところです。

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 ベトナムは、平和秩序と勤勉な民族性、強い絆をもっている国民性です。若者たちは大きな夢をもって学んでいます。最貧国から脱出した親の世代を引き継ぎ、新たな人類的な課題の経済発展にとりくむことに挑戦しているのです。世界から経済封鎖されても、最貧国のなかでもベトナムは、教育に力をいれてきたことが特徴でした。

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上記の写真は、竹からつくった照明傘、花器など室内の装飾品です。プラスッチックからの自然にやさいい循環経済をめざしています。
 高い識字率で、だれでも読み書きができる国をつくりあげています。ベトナムは、地域で自給自足の経済を確立していました。VAC運動といわれるように、自分の庭に、薬草を植え、池をつくって魚を養殖して、豚や鶏を飼って、エネルギーは家畜の糞尿によるバイオマスガスを利用していたのです。
 現在は、先進国の科学・技術を積極的に学んで、新たな挑戦を考えています。ベトナムの経済は、民族資本が十分に育っていません。国として、全体的に独自色をもつベトナム方式の人類的貢献する経済発展は、これからです。

 自動車も電気自動車開発に力をいれているビングループがハイホンで工場をつくっています。電動自転車や電動バイクの開発もしています。先進国からの工場進出によって、経済が大きく成長している現状です。地域の資源を有効に利用して、民族資本を大きくして、地域経済を豊かにしていく課題があるのです。
 ベトナムは、農業が中心です。広大な農村社会をかかえています。この現実のなかで、人類的な夢の経済発展を考えているのです。それは、持続可能な自然循環を大切にした経済発展です。
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憲法九条は日本初代首相の提案でつくられたもの

   戦後初代の首相になった幣原喜重郎は、広島と長崎の原子爆弾投下の恐ろしい現実をみての非武装論をもちました。原子爆弾投下という現実から、憲法9条という非武装論の切実な考えが生まれたのです。
  第二次世界大戦に、人類は核兵器という無残な人びとの地獄を日本の広島と長崎で経験したのです。この悲惨な経験の直後での考えが、軍備をもたない憲法9条です。その必要性を幣原喜重郎は認識したのでした。
  幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は、自分の天命として、当時では、狂気の沙汰といわれようとも非武装宣言を決意したのです。原子爆弾という悪魔の武器から、悪魔の武器を投げ捨てるために、神の民族としての日本は、歴史の大道として、世界に非武装宣言をするというのでした。幣原首相は、次のように回顧録でのべています。
 「恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではないか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕を天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く凶器の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史的使命を日本が果たすのだ。日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
 神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第9条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依って再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である」。

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 幣原喜重郎は、マッカサーに憲法9条を提案するのです。1946年1月24日という歴史的な会談が行われました。「僕はマッカサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。・・・昭和21年1月24日である。その日、僕と元帥と二人切りで長い時間話し込んこんだ。すべてはそこで決まった訳だ」。(1964年2月に平野三郎衆議員は憲法調査会に「幣原先生から聴衆した戦争放棄条項等の生まれた事情について」の報告書を提出。その報告書の内容は「日本国憲法9条に込められた魂」鉄筆文庫に載せられています)。

 幣原喜重郎は、戦前における欧米での独自のパイプを用いて活躍した外交活動の実績が高く評価されて、新しい日本の憲法を築いていくうえで、74才という高齢であったが首相に抜擢されたのです。
 ところで、日本側の憲法草案をGHQが拒否したのは、国務大臣の松本烝治を長とする憲法問題調査会案です。戦前からの権力構造の継承から考えが保守的な側面が強く、軍国主義体制による日中戦争や太平洋戦争の反省が十分にないままの憲法草案であったのです。

 

必要最小限の個別的自衛権憲法9条

 

  戦後の帝国憲法の改正による新しい日本国憲法衆議院の上程に、吉田首相は、自衛権を否定しないが、自衛権の発動としての戦争も、一切の軍備と交戦権は認めないと次のように答弁しているのです。
 「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしていないが、第9条第2項に おいて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、 又交戦権も放棄したものであります。」(吉田茂首相、衆議院本会議、1946年6月26日)
 「私の言わんと欲した所は、自衛権に依る交戦権の放棄と云うことを強調すると云うよりも、自衛権に依る戦争、叉侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は云った積もりで居ります」。(吉田首相、衆議院特別委員会、昭和21年7月4日)
 憲法を上程したときの衆議院の議論で、吉田首相は、憲法9条の規程は、自衛権発動の戦争であろうとも一切の戦争放棄をしたものであり、軍備と国の交戦権を否定しているものであるとのべたのです。自衛権を否定しないことと、自衛権発動としての戦争、交戦権を否定しているのです。
 そして、日本がサンフランシスコ平和条約によって、独立を達成していくが、このときの国会の答弁でも吉田首相は、武力なしの自衛権は存在すると、警察予備隊の創設は、軍隊ではなく、自衛のための交戦権の行使をするための実力組織ではないと次のように強調するのです。
「いやしくも国家である以上、独立を回復し た以上は、自衛権はこれに伴って存するもの。 安全保障なく、自衛権がないかのどとき議論があるが、武力なしといえども自衛権はある。」 (吉田茂首相 1950年1月31日)
「自衛のためといえども軍隊の保持は憲法第9条によって禁止されている」という立場を堅持しつつ、警察予備隊の創設について「治安維持の目的以上のものではない。再軍備の意味は、全然含んでいない。目的は国内治安の維持であり、性格は軍隊ではない。自衛権を放棄するとまで申したことはない。」(吉田茂首相 1950年7月29日)
 1950年6月には、朝鮮戦争が勃発し、日本の隣国での緊張関係が起きるのです。朝鮮戦争の結果、警察予備隊などを経て1954年に自衛隊が設立されることになります。警察行政の一環からはじまっての自衛権の実力組織として出発です。
  日本の防御は、あくまでも個別的自衛権であり、集団的自衛権は含まれないとするのです。1972年10月の田中内閣では、憲法前文の平和的生存権憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政上最大源保障ということから、自衛隊の存在が強調されていくのです。田中内閣が国会に提出した内容は、次のようにのべています。
 「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」 ことを確認し、また、第13条において「生 命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とす る」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかで あって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために 必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
 平和主義をその基本原則とする憲法 が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されのは、あくまでも他国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。

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現代的な憲法九条と国連の平和主義

 東アジア地域で、どのように平和的なブロックをつくることができるのか真剣に考える時期です。自衛隊の役割が集団的自衛権の容認と近隣諸国の脅威論から兵器装備が拡大するなかで、憲法9条の改正の問題も大きな政治的な焦点になっています。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにと世界に誓った日本国憲法の理念の意義を人類史的な側面からあらためて認識することが大切な時代です。
 日本が世界平和にもっとも貢献していくことはなにか。第1次世界大戦を経てのパリ不戦条約、第2次世界戦争後の日本国憲法の世界史な意味を考えてことではないか。
 第2次世界戦争後には、世界の平和のために国連が生まれたのです。その憲章の前文では、二度にわたる言語に絶する戦争の惨害から人類をすくために、次のように国際的な平和の構築を求めた。
 「われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」。
 正義と条約その他の国際法から義務と尊重という国際的平和秩序を国連は求めたのです。国際法の義務と尊重や平和構築のための条約などの役割が強調されています。ここでは、紛争解決のために国際司法裁判所の役割があります。
 互いに平和的に生活するためには、武力を原則的に用いないこと、寛容の実行、世界の人々がすべてに経済的及び社会的発達を促進するために、努力を結集することを次のようにのべています。
「並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」。
 国連憲章前文の精神を含めて、平和の問題を深めていくことが必要です。世界平和のために名誉ある国際的地位と日本人としての誇りをもてることはなにかということで、憲法9条や憲法の前文を見ていくことが重要です。


東南アジアにおける友好協力条約
ー東南アジアにおける平和・友好・協力を目的ー

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 憲法九条と響きあう「戦争放棄」の流れが世界に広がっています。東南アジア友好協力条約(TAC)です。アメリカの兵士も一人の人間であり、帝国主義ということと区別すべきという見方からです。
第2条では、締約国相互の関係について、次のような基本原則を定めています。1,主権・領土保全等を相互に尊重、2,外圧に拠らずに国家として存在する権利、3,締約国相互での内政不干渉、4,紛争の平和的手段による解決、5,武力による威嚇または行使の放棄、6,締約国間の効果的な協力。
 この条約の締結には、東南アジアの国々が長年にわたり、戦争によって苦しんだことが背景があります。

 1955年にインドネシアのバンドンで、第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカの旧植民地国を中心に、二十九カ国が平和のための国際会議を開きました。

 そこでは、「バンドン十原則」を決議しました。国連憲章のもとに、主権尊重、内政不干渉、紛争の平和的解決、武力行使の放棄が盛り込まれています。侵略戦争に苦しんだ国々は、自分たちの運命は自分たちで決めることに合意したのです。
 東南アジア友好協力条約・TACの精神はバンドン会議にあります。しかし、バンドン会議後、東南アジアは米国のベトナム侵略戦争に巻き込まれます。

 米国は南ベトナムに親米独裁政権を打ち立てて、東南アジア諸国の介入を深めます。南ベトナムでは米国と独裁政権に対する解放闘争が拡大するのです。米国はベトナム北部への空爆や南部での米軍の投入をして、戦争を拡大していきます。こうしたなかで、東南アジア条約機構加盟国のタイとフィリピンの米軍基地などが戦争に巻き込まれていくのです。
 1967年には、東南アジア諸国連合ASEAN)が結成されます。ASEANは71年に、「平和・自由・中立地帯宣言」を発表します。74年に4月に米国がベトナム侵略戦争に敗れました。翌76年年2月、ASEANインドネシアのバリ島で、首脳会議を開き、ベトナムなどインドシナ三カ国との友好関係樹立の意思を表明しました。

 そして、東南アジア友好協力条約を締結するのです。2005年年から三回、「東アジアにおける平和、安定及び経済的繁栄を促進することを目的とした対話フォーラム」で共同体形成をめざす東アジア首脳会議が開かれ、東南アジア諸国連合以外にTAC加入の参加条件をつめていきます。
  ASEANは、1987年にTAC加入を域外に開放していきます。加入国は03年以降に急増します。03年3月に米国がイラク戦争を強行した時期です。東アジアは平和の共同が広がっていったのです。
 東南アジア友好協力条約・TACは欧州連合(EU)に見られる欧州統合を参考につくられました。EUは平和維持を軍事同盟の北大西洋条約機構NATO)に大きく依存しています。NATOは、域外の「脅威」に対し集団的に軍事力を行使することもあるのです。それは、結果的にロシアへの対抗した軍事同盟になり、その加盟国東方拡大は、大国のロシアへの脅威、恐怖となっていったのです。ロシアを含めた平和友好条約がソ連崩壊後に求められたいたのです。ロシアもソ連崩壊後に、NATOを解体して、ヨーロッパの安全保障機構を要求していたのです。東南アジアの平和友好条約(TAC)は、紛争の平和的手段による解決、武力による威嚇または行使の放棄という戦争放棄を決めた条約の加入国を増やしていくことで平和を実現するしくみづくりです。
 加入国が広がるなかで、中国とベトナムは海域の国境問題を残しながらも、陸上国境問題を対話で解決しています。インドと中国が数十年にわたる紛争と対立に終止符を打ちました。インドとパキスタンは領土問題での深刻な対立を平和的に解決しようとしています。 

 東南アジア友好協力条約・TAC加入国は、ASEAN加盟国十カ国のほか、東ティモールパプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、日本、中国、韓国、ロシア、モンゴル、インド、パキスタンバングラデシュスリランカ、フランス。計二十四カ国。人口は三十七億人で、地球人口の57%に達しています。

ドーナツ経済と人間性を育む

       ドーナツ経済と人間性を育む

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 ドーナツ経済学は、イギリスのオックスフォード大学のケイト・ラワースが2011年に提唱した新しい概念です。ケイト・ラワーズ著「ドーナツ経済」原書出版2017年、翻訳黒輪篤嗣・河出出版(2018年)

 経済学に、ドーナツを例えて考えようとする見方をどのように想像しますか。ドーナツは、甘い揚げ菓子でうちがわはふんわりしたケーキのようで、形状は、リング状で真ん中が大きく開いていますが、内側に社会的な生活土台を考えています。内側の社会的土台の壁から落ちて、飢餓や非識字の危険な窮乏になるというのです。

 外側の壁は、気候変動などの環境の上限を示して、それを超えていけば生命の危険になっていくというのです。ドーナツの二本輪に挟まれた甘い本体が、人間が生きている世界というのです。

 

 21世紀に生きる新しい経済学の視点

 

 21世紀の経済学は、ドーナツにたとえ、GDPという経済成長や需要供給という均衡論からは、全く別の新しい経済思考の目標をもっていくことが大切とするのです。その思考には、7つの視点を提言しています。

 第1は、限りある地球上の資源のなかで、すべての人々が人間的な生活を営めるようにする目標からです。これは、GDPという目標よりもはるかに大きな目標だといいます。
 第2に、経済は、社会や自然のなかにあるものとして、太陽からエネルギーを得ているという見方です。このように、新しい全体像からみることを求めています。
 第3は、人間性を育むということで、合理的な効率論の人間力ということではなく、人間は社会的に互いに頼りあって、生命に依存して、安全で公正な範囲内で生きる人間性を育む重要性を強調しているのです。
 第4は、システムに精通するこというのです。機械的な需要と供給という均衡論からではなく、金融市場、経済格差、気候変動臨界などダイナミックな複雑性の要素を考えてのシステムの精通です。
 第5は、経済成長によって、経済格差が拡大して、そして、やがて縮小に転じていくという成長と分配というクズネッツ曲線の論理ではない。その論理から抜本的に考え直して、土地や企業、技術、知識という金銭を産み出す力の再分配を社会的に共同していくことを提案しているのです。
 第6は、環境再生を創造するということです。ここでも成長と分配ということからの環境の軽減というクズネッツ曲線がありました。21世紀型の環境再生の創造は、循環型で、地球の生命環境循環という人類復帰の設計です。
 第7は、成長にこだわらない、新しい繁栄をもたらす経済の設計です。GDPの成長に盲進するのではなく、循環的で、自然と共生していくものです。それは、人類繁栄を設計する21世紀型経済学だというのです。
 この7つの視点は、自然と共生して、循環的で、持続性をもって、新しい人間らしい暮らしを豊かにしていくものです。この結果は新しい形で自由と平等性をもたらしていくというのです。このような大きな視点を提供しているのです。 7つの視点から、現代社会の孤立した競争社会からの自然循環の共生と相互扶助をもつ社会の形成です。まさに、人類史的な未来設計の新しい経済学というのです。

 ところで、7つの視点の実行していくには、国家との財政政策、公平なる再分配方式としての税の徴収方法や収支のあり方、社会保障制度、社会保険制度、法的制度、行政制度、経済の民主主義的社会的ルールとしての法律の役割、公営企業のあり方などをみていくことが必要です。それらとの関係で7つの視点の提言が活かされていくのです。また、中央銀行施策など金融機関も重要な意味をもっています。

 ドーナツ経済の7つの視点を実行していくためには、経済と政治の関係は強くあることを見落としてはならないのです。行政や企業の組織が巨大化することによっての官僚制の問題が大きく生まれています。ここでの様々な形の参加民主主義の課題を抜きに、7つの視点の課題遂行は進んでいかないのです。

 現実の新自由主義的な国家政策では、社会保障政策や公共的な役割を財政的に削減したり、切り捨てていくのですが、その政策の実行において、財政誘導政策と結んでいきます。一律的に削減、縮小ということではなく、さまざまな権力維持のための誘導を、奨励施策補助金の公募方式や国の原発などの事業施策での交付金の財政施策を各省庁と連携で行っていくのです。これらは、強大化した財政予算のなかでみることができます。単純に、社会保障政策や過疎化した地域政策を削減していくのではないのです。新自由主義施策は一方でアメの権力維持のための施策をもって、全体的に民営化を進めていくのです。

 格差と貧困化、雇用の不安定化のなかで生きている多くの人々は、現実に個々が孤立した状況があります。ここでは、目先の金銭的なぶら下がりの公募方式に典型にみるような競争も起きるのです。力の強いものに対する忖度もはびこっていくのです。

 現実に、金銭的な保障がなければ人間的な暮らしができない人々が数多くいるのも事実です。支え合いの社会の形成は、公平を求めての人々の社会的な運動によって実現していくのです。

 支え合いの社会ということから豊かな生活を充実していくには、地域レベルの役割が需要です。7つの視点から市場を考えていくうで、自治体、公営企業、コモンズという見方、協同組合、社会福祉法人、公益財団法人、一般社団法人、NPOなどの社会的セクター、公的なセクターを考えていくことが必要です。それらが、営利的な民間的セクターとの関係も踏まえてみていくことが必要です。

 とくに、自治体としての公営企業における水道事業、工業用水事業、下水道事業、病院事業、交通事業、ガス事業、電気事業、中央卸売市場事業、宅地造成事業、観光施設事業、駐車事業など、それぞれの自治体に即して、多様な分野で行われているのです。これらは、民間事業との重なりあいがあり、民営化の大きな議論になるところです。また、低所得者生存権保障としての公営住宅は極めて大切で、その整備は国民の文化的生活向上にとって不可欠ですが、その役割も自治体がもっているものです。さらに、重大なことは、最も公的な役割の教育や子育ての支援が民営化のなかで、競争の論理にまきこまれているのです。

 

 人間性を育む

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 K・ラワースは、合理的経済人から社会的適応人の人間性を育むことを強調しています。21世紀の人間像は、第1に利己的なことから、社会的であり、報恩行動を特徴とするのです。第2に、好みを固定されるのではなく、たえず何に価値を見いだすのかと流動的にしていくというのです。

 第3には、孤立しているのではなく、依存し合っていることです。第4に、計算高いということよりも、おおざっぱであることです。第5に、人間が自然を支配していることでは間違いという認識です。それは、生命の網のなかに深く自然がかかわっているという認識です。この5つの人間性の育みを問題提起するのです。
 利己的な人間像は、アダムスミスが指摘した市場論以来、市場擁護の経済学者が言われてきたきたことです。しかし、アダムスミスは道徳感情論で、人間のもっている親切さ、公正さ、寛大さ、公共心、他者への助けをもつ資質ということです。それは、人間のもつ大切な資質としていたことをK・ラワースはのべるのです。

 人間は利己心のみで動くものではないということです。しかし、ミル以降の経済功利主義者たちは、人間行動の富を欲することに関心を寄せ、効用を最大限にして、消費の満足度の計算をしていくのです。GDP成長をめざす経済学は、物欲、いい生活の必要ということです。都市では、消費文化が栄えやすく、人々の多くのニーズを満たされやすくなるというのです。

 現代社会における弱肉強食の市場社会において、その矛盾の社会運動からの人間的な助け合い、相互扶助、報恩の精神的自覚が生まれていくということが大切なのです。孤立した自然状態では、その認識は生まれてこないのです。このことをよく考えてK・ラワーズの問題の提起をみていくことが求められるのです。
 K・ラワーズは、人間は市場での取引をみるのではなく、人間は与えたり、分け合ったり、恩を返したりという性向をもっていると指摘するのです。21世紀経済の目標のコンパスは、GDP成長を脇において、人類の繁栄はなにかということを根本的に考えることだとしているのです。

 その答えは、すべての人が尊厳をもち、機会を与えられ、コミュニティのなかで暮らせる世界、地域の限られた資源のなかで持続可能性をもって暮らしていけることだと。つまり、ドーナツのなかで生きるということを強調しているのです。その社会的土台は、人類の福祉、食糧や教育や住居などの生活に不可欠なものを平等に与えられ、生命を育む地球の負荷が限界に超えないようにすべきとしているのです。

 

林保護の重要性


 地球に負荷の限界を超えないということが大切です。その事例では、森林の保護の重要性を指摘します。山の斜面から樹木が伐採されたら、生物多様性の喪失が加速させ、水の循環を妨げるのです。そして、広大な山の斜面での森林伐採は、気候変動を悪化させ、残った森林に負荷をかけるというのです。

 また、そこでは、森の減少と水不足のために周辺の村落では病気が広まり、農作物の収穫が減るのです。逆に、山の斜面の森を育てれば、生物多様性が増し、土地の保水力が高まり、大気中の二酸化炭素も減ることになるとみるのです。

 日本のように、雨が多く、傾斜地の激しいところを各地にかかえるところでは、森林は、防災機能として大きな役割を果たしているのです。砂防工事ということで、コンクリート工事が急傾斜の山林沿いの道路や施設・建物で実施されています。日本では、その工事を積極的に数多く行われています。森林の防災機能を積極的に評価して、自然を考慮して、自然に負荷をかけない道路の計画も大切なのです。

 水田の役割も防災的な機能をもっているのです。山間地帯の水田稲作の役割は、自然にやさしい循環的な農業でもあるのです。伝統的に、日本の水田と里山や奥山という森林をもっていたのです。その農村社会では、自然循環的な生産と社会がつくられていたのです。

 短期的にみるGDP経済成長の世界では、これらの自然循環的に地球に負荷をかけない循環経済の価値がみえないのです。自然循環的な繁栄は、安全と公正の範囲内での動的な均衡に向かうドーナツ経済になるのです。日本の農村社会は、ある意味ではドーナツ経済を続けてきたということになります。

 

21世紀の不平等の拡大

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 21世紀に入り、不平等の拡大により人々の怒りが世界に的に噴出しているとK・ラワースはみます。再分配の機能が重要性をもっていることになるのです。国の再配分の機能は、1,累進所得税と所得移転、2,最低賃金などの労働市場の保護、3,医療費や教育、公営住宅などの公共サービスの提供ということになります。

 新自由主義者は次のように三つの機能の保障は難しいとのべます。かれらは、80年以降、所得税を引き上げたら高額賃金者の労働意欲を下げるというのです。また、生活保護費を増やしたら低賃金労働者の働く気持ちを奪うと考えています。

 さらに、教育や皆保険、住宅サービスには国の大きな支出になると、その充実に反対するだけではなく、縮小または切り捨てをしてきたのです。新自由主義者は、この機能の充実は財政危機になるというのです。そして、国民の依存心をつよめ経済的に大きなマイナスになるとみるのです。現在の21世紀の新自由主義機能は、さまざまな理由をつけて三つの機能を実現に反対するのです。K・ラワースは、市場社会で矛盾することを解決しようとした三つの機能を新自由主義者の考えで、実現してこなたったと指摘するのです。 
 ところで、分配を設計する考えで、K・ラワーズは、様々な問題提起をします。土地は誰のもの、お金を生みだすのは誰、労働は誰のものか、ロボットは誰のもの、アイディアは誰のものと質問を投げかけます。
 土地は、市場、コモンズ、国家ということから人と場所によって三つの最良の組み合わせによって取り組んでいくことが大切とします。お金は、中央銀行の役割が国家主導の地域社会に根ざした再生可能エネルギー環境保護のインフラ整備など国民のための量的緩和が求められます。また、長期的な視野から豊かな暮らしを保障する地域通貨の発行などのひとつのアイデアとして提起します。このアイデアは、すでにいくつかの実践事例があると、その取り組みを紹介しています。
 社会の利益を考える労働は、従業員所有の企業や組合員所有の協同組合などによる労働のあり方を再設計する必要性を提起します。ロボットは、人間の役割を奪っていきますが、しかし、分配の設計に再生可能なネルギーの利用に課税することができます。しして、創造性や共感、洞察、人間同士の交流など、国家の財政からロボットよりもはるかにすぐれている分野への投資を増やしていく設計が必要とするのです。

 デジタル革命で、共同で知識を創造する時代が幕開けました。それは、富の所有を分散させる潜在力をもてつことになったのです。国の支援によって、その潜在力を発揮できるという知識のコモンズの形成ができる時代の到来です。
 ここでは、社会的企業や問題解決、コラボレーションを学校や大学で教えることによって、次の世代に継承されていくのです。公的資金で行われた研究成果は、公共の知識として利用できるというのです。

 不平等の社会では、経済成長が鈍ってしうというのが、K・ラワーズの見方です。多くの人の潜在的な能力が無駄にされるからだというのです。教師や、市場のトレード、看護師、実業家は大切な役割をします。現実に、コミュニティの富と福祉に積極的に貢献できる人たちが、家庭のぎりぎりの生活に必死で働かねばならない状況があります。最貧困層の家庭がお金がなければ生活必需品を買えないのです。労働者は必需品を提供する仕事を失うことがあるのです。これらの現実では、市場の活性化を停滞させるというのです。まさに、不平等社会は、経済成長は鈍くして、脆弱にさせるとK・ラワーズはのべるのです。 

 21世紀の経済学は、不平等を解消するため、所得の再分配だけに目をむけてきた。それだけではなく、市場とコモンズ、国家を活用して、土地の支配する力、貨幣の信用の創造、企業、技術、知識の分配的機能を創造することが重要であるとするのです。
 21世紀の人間像を育むうえで、現実の市場社会のなかで生きていることを直視していくことが大切です。K・ラワースがのべるように人間は、複雑性をもっていて、利己的で功利主義で生きているのではないという認識は重要です。

 人間は、孤立ではなく、相互依存社会的でなかで生きているのです。その認識は極めて大切なのです。この認識をどのようにして、形成していくかは、弱肉強食の競争社会で人々がとかく孤立していくなかで、どのようにして、認識を形成していくかは、さまざまな工夫が必要になっています。人間性を育むという中心的な取り組みとして、積極的に位置づけていくことが必要なのです。

 20世紀の近代化は、市場の発展のなかで、格差と環境問題に悩まされたのです。そのなかで、格差の解消、差別や偏見の根絶経済的な平等、社会保障の確立、人々の教育の充実などが社会運動として起きて、様々な形で社会権が確立していったのです。市場に対しての自由と民主主義の発展です。

 新自由主義がはびこっているなかで、この市場に対する自由と民主主義の充実を見直しなら、また、国家の税制・社会保険社会保障・福祉の再分配機能、分配や環境保護においての教育役割での問題点も再検討しながら、K・ラワーズの問題提起を深めていくことが求められます。

 

 人々の経済の行動意欲と金銭


 人々の経済的行動意欲は、金銭的なことできまるのですかと、K・ラワースは問題提起をします。社会や環境の問題を解決していくのは、金銭的なことではないと強調します。むしろ、お金ということで、報恩、相互依存、生命網で生きるという人間性の動機が失われていくことがあるのかではないかと人間にとっての本質的なことの考えを提起するのです。

 このようにK・ラワースは考えます。お金が介在しますと、生徒の自尊心や親の社会的に責任などの社会的規範が損なわれるということをコロンビアの首都ボコダの教育実践で体験したということです。

 市場、報酬、価格、評価などが人間の行動にどう影響するのかという行動経済学の視点も重要とするのです。お金を介在させると長期的な森林保護という生命の世界に対する畏敬の念が著しく低下するというのです。

 さまざまな環境保護という公共の領域に金銭的なことを持ち込むと危険が伴うというのです。所得が低くとも社会資本が豊かなコミュニティでは、社会規範が活性化していくおとをウガンダの農村医療の改善で体験したというのです。

 農村医療を改善する研究者たちは、村民達が求める医療水準を記した契約書を自分達で作成させ、診療所の業務点検する仕組みを設け、毎月、結果を村の公共掲示板に掲載するのでした。村民達が算して、公の説明責任を伴った社会契約です。この結果は、人間のもっている根底的な規範や価値観、義務や敬意、心遣いなどが呼び覚まされて、環境に配慮した人間的な社会規範の行動になるというのです。

 K・ラワースの問題提起は、農村に共同体的なコミュニティが残っていて、相互扶助の関係が存在しているなかでの実践です。経済的に物資的な貧しさがあるが、人間的な文化や精神が存在しているということでの実践であるということを認識しておくことが必要です。弱肉強食の競争社会で格差、差別と偏見、孤立した社会、著しく分業化した社会のなかでは、相互扶助の人間的な連帯の精神を取り戻していく運動が重要なのです。これらには、労働組合運動、市民運動、協同組合運動などによっての連帯的な精神の認識の高まりが重要なのです。個々の次元では、厳しい生活が強いられている状況では、目先の金銭が重要になっていく現実があるのです。それなしに、K・ラワースの問題提起は活きていかないのです。

 

相互依存の人間から経済を考える


 市場に対応しての弱肉強食のなかでは、孤立した存在でして人間をみがちです。負け組と勝ち組は結果として生まれます。負け組は、努力が足りないということで、自己責任を痛感するのです。

 この意識のなかでは、社会全体に少数の勝ち組と多数の負け組という分断社会になっていくのです。勝ち組は、尊大になり、地域や名誉を誇らしく、威厳をみせるのです。ここでは、相互依存のなかで生きていることが理解できないのです。自己の努力によって、合理的な功利主義能力主義のなかで成功したとするのです。

 K・ラワーズは,合理的経済人を孤立した人間として描くことは、経済をモデル化するうえで大変に都合がよかったと考えるのです。経済学者はこれまで、商品の相対的値段を変えることで、人々の行動を変えようとしたのです。砂糖に税を課すのも、太陽光パネルを安く買えるようにするのです。

 しかし、結果は、価格操作では結果が期待したように得られないのです。社会的つながりの効果がはるかに大きな効果を生むのです。社会規範に従い、周囲の人々と相互依存していくことによって、効果を得ていくとK・ラワーズは強調するのです。
 人間はけっして計算高く合理的に行動しません。経済行動には合理的な思考を妨げる認知バイアスがあるというのです。合理的人間というよりも非合理な直感的な人間として行動する側面があることを忘れてはならないと考えるのです。

 人間はリスクを理解することに根本的に無力です。たえずつつかれる必要があるとするのです。複雑なテクノロジーに生きている21世紀において、予期せぬことが起きるのです。

 予期せぬリスクにとって、大切なことは、官僚とか法律とかよりも精通した市民であると。経験則に従って、リスクに精通することであるとみるのです。医師や判事、学童にも経験をとおしての統計学的な思考方法を身につけることが重要とするのです。
 

 環境再生を創造する

 

 経済成長絶対主義者は、経済成長によって、経済的余裕が生まれ、環境に配慮した技術を使う余裕がうまれていくというのです。この結果、高い環境基準がもち、製造業からサービス業に移り、煙突がコールセンターにとって代わるというのです。

 現実は、市民達のはじめからのきれいな水と空気を求める気持ちと能力があったのです。自然環境がよく保たれているのは、所得がよく分配されている国、識字率が高い国、公民権や政治的権利が尊重されている国です。水や空気を守るのは、経済成長ではなく、一般の市民であることをK・ラワースは強調するのです。

 産業が取り、作り、使い、失うという非環境再生産な直線的な設計に基づいている限り環境問題は解決することができないという認識です。自然を模範、基準、助言とみなすことが、生命の循環的なプロセスを学ぶことができるのです。工業生産は、循環型経済の通じて、非生産的な設計から環境再生産へと大きな変貌を遂げていくのです。非環境再生的な産業では、価値はお金で計られ、コストの最小限と売り上げの最大化を追求するのです。その結果が、資源の一直線の流れになるのです。循環型経済という価値に対する新しい価値の理解です。生命なくして富はないという見方です。

 都市周辺のおしみない生態系の重視です。森や湿地、草原などです。太陽エネルギーを利用して、二酸化炭素を吸収して、雨水を保ち、土壌に栄養を与え、空気をきれいにすることです。都市を建設するうえでの大きな基準は、循環型経済の形成です。都市の屋根では、農作物を育て、太陽エネルギーを集めたり、野生生物の憩いの場になったりすることです。都市が豪雨を吸収して、ゆっくり帯水層に放出する舗装路であったり熱を吸収したりすることです。

 循環型経済の可能性は無限です。世界中のイノベーション、設計者、活動家からなるネットワークで、知識のコモンズを築くことで、無限の可能性をもつというのです。

 

参加民主主義を学習するーガート・ビースタから学ぶー

          参加民主主義を学習するーガート・ビースタから学ぶー

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はじめにー現代での参加民主主義の必要性ー

 

 歴史は、多数決原理の民主主義のもとに、世界大戦、ファッシズム・軍国主義体制、民族的な差別と排除が行われてきました。現代の新自由主義の世界的な矛盾は、人類的な悲劇をうみださないことが必要です。このためには、排他主義ではなく、尊敬と信頼、多様性を尊重する必要があります。ここでは、共に生き、共に産み出すため、話し合いと互いに認め合う熟慮の民主主義を深く学ぶことが不可欠です。
 現代日本は、新自由主義が闊歩し、社会全般が、弱肉強食で格差状況が深刻になっています。1%といわれる富裕層と貧しい層に両極に益々分かれ、社会の分断も厳しくなっています。日本の現代社会は、非正規雇用も増大することによって、将来の不安を訴える人々が多くなっています。また、政治や社会の退廃も深刻な状況です。
 若者をはじめ、公共的な生活に対する嫌悪観、無視が蔓延しています。様々な公共的な分野が民営化されて、医療や福祉、介護など、ケア労働などの公共性のあり方が問われる時代です。新自由主義の蔓延する社会から公平と公正が求められているのです。共に生きる、共に産み出していく共生の社会経済が必要です。

 そこでは、結果の平等ということからの社会福祉の充実という分配だけではなく、自然との共生関係が大切になっています。そして、経済の民主主義的なルールも大きな課題になっています。

 現代社会の民主主義の実現には、独占禁止法という市場の民主主義的ルールばかりではなく、最低賃金法による人間らしく生きるための生活的賃金保障、労働基準法による人権保障、地球気候危機に対する持続可能な自然循環など多くの課題があります。日常的な暮らしや労働、自然環境との関係のなかに、民主主義も問われているのです。

 民主主義は、選挙だけではないのです。現代の政治は、選挙による委任型といわれています。それは、おまかせ民主主義です。ここでは、国民が直接に参加していく仕組みが弱体している現実です。かつては、労働組合市民運動学生運動などがあった。その運動は、直接請求や団体交渉などを作り出した。これは、国民自身が直接に政治に参加したのです。これらの運動は、選挙の投票率の高さに反映したのです。
 現代日本の民主主義の学習を考えていくうえで、現実に民主主義の内容が形骸して、形式的な委任型をつくっています。選挙は、キャッチフレーズ的、利益誘導的な方法を伴っています。まさに、ポピリズムが隆盛な時代です。
 誰もがスマホンも持つ時代だ。SNSの情報などインターネットやテレビなどが大きな影響力をもつ今日です。感覚的に社会的不満をぶつけ、行動に走る傾向も強くなっています。

 

 シティズンシップ教育から参加型の熟議民主主義の形成

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 ガート・ビースタが民主主義を学習する提言では、政治への無関心と参加レベルの低さの現実に対して、若者の声に耳を傾ける大切さを指摘しています。そして、それぞれが民主的な関係をもって存在し、行動する機会を創造するための民主的教育の創造を強調しています。

 それは、民主主義の実験に参加する方法なのです。そして、学校などの教育の責任を地域や社会全般に及ぶことが大切とするのです。社会全体が福祉国家から新自由主義へ、社会権から市場権に移ったイギリスでは、サッチャー政権以降ですが、労働党政権が1997年に政権を握っても、市民を高品質の社会的サービスを受給する消費者として、位置づけていたのです。そこでは、集合的な資源を公正に分配する民主的な決定者への参加にはならなかったのです。
 イギリスのシティズンシップ教育理念は、3つの問題をもっていたとガート・ビースタはのべるのです。
 第1の問題点は、教育を通して民主的なシティズンシップを準備することをしなかった。そこでは、個人の適切な知識とスキル、正しい価値観ということで、個人責任に帰せられる新自由主義の見方を払拭できなかったのです。
 第2の問題点は、活動的で責任ある市民を形成する教育ではなかったのです。若者をまだ一人の市民ではないという問題のたてかたから、共通の関心事になる実践として、若者生活の全分野から教育者がさまざまな難しい要因をみつけだすことができなかったのです。
 第3の問題点は、教授の意味を解釈し、理解する方法に依存して、教育の本質である行為を基礎にしてのコミュニケーションのプロセスや予想できない要因をみつけだすことができなかったのです。
 学校は、若者の生活からみればほんの一部です。家庭や余暇活動の参加や仲間とのふれあい、メディア、広告、消費者として、多くのことを学習していることを教育は認識しなければならないのです。この現実のなかで、若者がいかに社会生活と公共生活のなかで活動的になれるかということです。

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 責任ある市民になるための民主主義の学習には、他者に対する尊厳、政治的、経済的、社会的、文化的な生活に参加すること、異なる信念と文化を理解することを必要としているとガート・ビースタはのべます。

 これらの課題は、学校内教育ではできないのです。コミュニティにおいて、責任感ある効果的参加者になることです。そこでは、自尊心、自信、イニシアティブの決意、感情の成熟など個人の特性が発達していきます。そして、自己、他者、環境に対する尊厳とケアの社会的責任感が育てられていくのです。
 すでに、1972年にユネスコは、未来の学習として、生涯教育と学習社会の発達支援を強力に推し進めることを強調した。ガート・ビースタは、その評価を現代に積極的にすべきとしています。そこでは、第1に、相違や対立の移り変わりでも政府間と人々の連帯を重視するのです。
 第2には、民主主義の信念として、自己の潜在的可能性を実現して、自己の未来の形成を共有する個人の権利を大切にするということです。このように、民主主義の重点に教育の役割をあげているのです。
 第3に、開発の目的は、人格を高め、複雑な表現やさまざまなコミットメントを行うことができるような人間の完全な実現です。
 第4には、生きることを学ぶために、全面的な生涯教育を実施して、完全な人間集団を創造することができるようにすべきです。
 これらの4つの課題は、連帯、民主主義、人間の発達の完全な実現からの生涯教育の設計というになるのです。


 
 雇用のための自己責任型生涯学習

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 ところで、1997年にOECDが「万人のための生涯学習」として、人的資本の開発を積極的に打ち出しました。これは、グローバル経済に対応した雇用と経済発展を促す生涯学習です。生きることを学ぶ未来の学習から生産的な雇用対象者になるための学習、収入を得るための学習に転換するのです。国民の権利としての生涯学習から個人の義務、個人の責任に変化したのです。国家セクターとしての生涯学習は、大きく減少していきます。このように生涯学習の自己責任として、生涯学習の変化をガート・ビースタはみるのです。
 そこでは、生涯学習の非公式な形態が急速に成長していくのです。自立支援セラピー、Eラーニング、自己教育ビデオ・DVD・CDなどを通しての学習が普及していくのです。

 近年では、デジタル革命と称して、生涯学習の分野でITによる個人学習が隆盛をみせています。この傾向は、日本では益々大きくなっています。また、学校教育では、GIGAスクールとして文部科学省が教育政策として、推進している現状です。
 生涯学習の個人的機能は、個人の収入創出を可能にするようなスキルアップになっていきます。そこでは、個人の義務と個人責任になっていくのです。ここに、民主的な社会を形成していく生涯学習との関係の大きな矛盾が生まれるのです。それぞれの違いや他者との出会いから共に生きていく能力形成という学習の課題が社会的に大きく削られるのです。この結果は、公共的な領域の意識形成がみられなくなっていくという弊害が生まれていきます。
 イギリスのシティズンシップ教育の大きな欠落は、成人学習の役割がないとガート・ビースタは指摘します。成人学習は、暮らしに影響を与える構造的な不平等を認識させてくれるだろう。それを出発点として、学習者に公共的な市民の探求を支えることになる。学習していくことは、行為主体やアクティブ・シティズンシップの発達を促すことが大切になってくる。

 これらは、公共的な意識の衰退という現実や新自由主義的な自己利益、効用最大化という価値観の現実からの大きな転換ということになります。つまり、公共的な市民としての学習の構築にもあるのです。
 
 市民としての生涯学習ー経験と実践的な主体形成と公共性形成の学習ー

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 市民としての学習は、自己の経験および実践とつながることです。既存の社会的、政治的な秩序の再編成に、個人を適応させる市民学習から政治的主体性と政治的行為主体の現れに寄与する学びにすることです。それは、市民学習の社会化ということから市民学習の主体化を積極的に提示することです。
 市民としての民主主義の学習は、民主的な政治のプロセスと実践です。それは、多数者の支配する民主主義ということから参加者の集団的な行為です。学習の目的から、それぞれの意志表示による議論をとおして決定されていくことを学ぶことです。つまり、公的な市民形成として学ぶ必要があるのです。真正の熟慮によって、非強制的な形で、意思決定が行われていくことが、民主主義による公共的な市民の形成なのです。
 民主主義は、権力操作、権力による教化、権力によるプロパガンダ、ごまかし、単なる私的利害、おどし、そして、イデオロギー服従からの排除であるとガート・ビースタは強調するのです。単純に教えられ、あらかじめ規定されたアイデンティティによる無知な市民から、民主的なプロセス、熟議民主主義の実践関与をとおして、人間的な連帯、公共性の市民形成によって、達成されていくというのです。

 個人の願いが政治的な力や政治的な潮流になるためには、集団的必要への変換の意識にならねばならないのです。公共的領域の鍵となるのは、公共的な利益と公共財を産み出すことです。市民がなにが公共的利益なのかを明らかにすることは、闘争、論争、議論、そして交渉によって、自己利益の価値ではなく、公共的な集団利益に転換していくことです。
 公共圏の存在も公共の利益の形成にとっても大切です。公共圏は、私的な自己利益、効用最大化から保護された空間です。見知らぬ人たちが社会の共同生活において民主主義のパートナーとして互いに出会う空間になるのです。公共圏の縮小は、市民の民主主義な学習の機会、共同生活の構築や維持を減少をさせていったのです。 
   公共圏、公共的領域ということで、公共性を理解することは、市民としての民主主義を認識していくうえで大切なことです。集団主義的ということと公共性をもっていることは別のことです。集団性のなかでもオウム真里教やテロ集団のように反社会的集団の存在があるのです。それぞれの特定の利益集団が社会のなかで存在して、必ずしも公共性をもっているとは限らないのです。
 新自由主義のもとで、公共的なケア労働や公的教育などが民営化されて、私的な利益の市場によって、福祉や教育の社会的サービスを担うということが普及しているなかで、公益性ということが曖昧にされている現状があります。公共性ということから参加と熟議の民主主義も曖昧にされていくのです。

 

 包摂と熟議民主主義の形成と生涯学習

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 市民のための民主主義形成は、公共のために参加者がお互いに理由をのべることからはじめます。そして、批判的にそれらを評価し合い、熟議をもっぱら合理的な議論の形式をとっていくことです。その軸となる柱が私的な利益、特定集団の利益では、対立的利益のなかで公共性が定まっていかないのです。利己的な利益、特定集団の利益ではない、公共的な利益を探求していくことが市民の民主主義形成にとって大切なのです。
 ガート・ビースタは、ヤングの排除社会から脱していく包摂民主主義の考えを踏襲した。それは、参加者の熟議をもっての合理的な議論形成の場が民主主義とするのです。熟議的民主主義は、尊敬と信頼から排除的傾向を改善するというのです。現代の排除は、議論や意思決定から外側において排除するのではない。内的に形式的な意思決定のプロセスに包摂されますが、平等な敬意をもってあつかわないということです。この排除の形態が現代は数多くあるのです。これが内的排除です。

 内的排除型の社会は、議会制民主主義の形態をとっている多くの国でみられるのです。日本でも議会における野党の答弁に対して、質問の問題に真正面から捉えずに、はぐらかしたり、質問からはずれて、自分達の政策や施策の自慢話をしたり、論点をずらしたりすることです。そして、ときには、答えずに、検討中とか、関係者の意見をよく聞いてからとことです。つまり、まともに答えないので議論にならない場面を作り出すことです。これは、多数決で、議論なしで、最初からの結論ありきで、野党の意見を聞かないことです。多数党の議会運営での政策決定は、多数決で決定していくという内的排除の観念があるのです。熟議の民主主義のプロセスに入っていかないのです。
 デモクラシーは、同一性と同質性からではなく、複雑性、差異性に基礎づけられていることをガート・ビースタは強調します。また、それらの知識の構成要素、熟議・集合的意思決定・差異への対処の技能取得が大切とするのです。さらに、次世代への性向ないし価値の構成要素という公共的自由からデモクラティックな人格形成が不可欠とガート・ビースタは力説するのです。

 日本の現実における民主主義の学習にとって、大切なことに、前記に指摘すること以上に、ITの普及、テレビの偏向というデマやうそ、偏見、差別の情報氾濫があります。ここでは、科学的思考やエビデンスを重視していくことが大切になっています。デマや噓がはびこるなかで、何が真実なのかという困難なことがあります。事実に基づいての真理探究の科学的な思考が民主主義の学習にとって重要になっているのです。
 
 人間の自由の形成と生涯学習

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 人間が自由になっていくことは、権力から自由になっていくことが大切ですが、同時に、人間らしく自由に生きるために絆をもって支え合いのなかで安心していける自由、その社会のなかで文化的に豊かに生きられる生存条件をもっていることの自由などがあります。さらに、自由になっていくことで、知らないことがわかっていくことの自由、できないことができるようになる自由、スポーツ・芸術・ことばのように優れた技能・コミュニケーションをもつことによって、自由になることがあります。

 これらは、教育によって達成することなのです。教育は人間の大いなる可能性の発達を促し、人は学習することによって、結果的に自由になっていくのです。自由があらわれる空間は、公共的な関心のもとに、他者と関わり合い、複雑性や多様性、差異性を抹消していく人間的主体性をもって活動することをガート・ビースタは強調するのです。
 教育の目的は、人間的主体性を確立し、理性的自律への問いかけです。他律から自律へ、依存から自立、幼児期から青年期、絶対的な固定した観念の理性ではなく、様々な創造性、価値の多様性を受け入れていく理性が求められる時代です。その理性の力をつくる生涯学習なのです。学習のニーズは経済的な関係に決してねじまげることなく、デモクラティックな人格形成の議論として、信頼、応答可能性、責任性ということが大切です。教育者は主体性に対する責任、教育的な関係を引き出すことで、決して限定されたものではなく、計り知れないものをもっているということです。まさに、人間とはなにかという本質的な問いを教育的な関係性はもっているのです。
 教育の説明責任と応答性は、大きな二つの流れがあります。ポスト福祉国家主義の流れと、新自由主義の流れです。ポスト福祉国家主義は、公共サービスの精神によって、平等性、ケア、社会的正義のような専門職的な基準や価値への関与、そして協働の強調です。
 一方で、新自由主義の流れでは、顧客志向の精神、能率や費用対効果、競争への強調です。消費者としての市民に対する説明責任が問われるのです。教育者は、顧客としての保護者や生徒に合わせての方向性になっていきます。

 二つの流れのなかで教育者は、説明性と応答性を問われるのです。社会教育においては、民営化が隆盛を極めている現状ですので、新自由主義的な消費者としての社会教育サービスからの利益優先のための顧客満足度が鋭く問われていく時代です。これに、抗しての主体的に参加して、熟議していく民主主義を学ぶ生涯学習の強い信念と戦いと社会的交渉があるのです。 
 市民の民主主義のための社会教育は、行政などの公的な分野、非営利的な分野によって担われていく必要性が大きくあるのです。新たな公的な社会教育の創造が、市民の民主主義形成のためには大切になっているのです。
 

ケア労働と民主主義の生涯学習 -ケアコレクティブのケア宣言を読んでー

       ケア労働と民主主義の生涯学習ーケアコレクティブのケア宣言を読んでー
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 コロナ禍でのケア労働の再評価

 コロナ禍で社会的にケア労働の重要性が非常に高まっている現状です。どんなに自立しても人は一人で生きて行けないのです。それぞれの社会的な役割をもって、支え合いながら人々は生きているのです。ケア労働は、支え合う社会基盤であるのです。
 しかし、ケア労働に携わる人々は労働力不足と過酷な労働、低賃金という状況のなかで、賢明になって社会的役割を果たしています。ケア労働を充実していくには、社会的な参加民主主義の充実が不可欠です。複雑化し、官僚化していく社会のなかでは、差別と偏見と重なって、本来の支え合いべきことが、社会から、地域から、家族から疎遠の場へとおしやられ、人間らしく生きることが奪われていることがあるのです。ケア労働には、個々の意思を尊重して、人間らしく生きていくために、ケア労働を受ける人、家族、地域での参加民主主義が求められるのです。
 ケア労働は、本質的に公的なセクターが支えていくものです。従って、国や自治体の公務労働または、公務労働に準じる社会福祉協議会社会福祉法人、非営利の協同組合、PO法人など担っていくものです。
 優しく強い経済をつくっていくうえで、地球危機に対する再生可能なエネルギー施策などの国家の役割、経営者の社会的貢献意識や働く人々のイノベーション意識などは大切ですが、最も重要なことは、ケア労働など人間らしく生きていくための公的な福祉と教育の基本的条件が求められると同時に、それを支えるための民主主義的参加が必須になるのです。 
 少子高齢化のなかで、福祉分野の社会保険や国家財政支出の比率も増大していくことと同時に、財政の収入と支出のバランスが大きく崩れて、国家の赤字財政が大きく膨らんでいる現実もあります。ケア労働を社会的に充実していくためには、公的な社会保険や国家財政、税制のあり方が大きく問われる時代にもなっています。
 官僚的傾向や財政赤字の現実のなかで、公的分野を改革と称して、ケア労働の公共性を否定して、利益追求による市場万能主義の新自由主義がはびこっているのも現実です。
 ケア労働は、民営化されることによって、利益追求の市場万能主義に陥れば、差別と貧困化、さらに偏見と孤立化が進んで行きます。この結果、社会を担っている多くの人々が不安とやる気、社会的なコミュニケーションを損ねていくのです。また、社会的に治安の悪化も繋がります。ここでは、安心で働き、生きがいをもって、イノベーションをしていける社会的基盤が極めて弱くなって、冷たくもろい社会になるのです。それは、人々が安心して、未来に向かっていく強い経済にはなりません。
 ケア労働は、保育園・学童保育などの子育て援助労働、病院や保健所、老人ホーム・介護施設、精神・生活・児童等の自立支援施設、社会的ハンデキャップをもっている人々の支援労働や教育労働、家事援助労働者など、様々な分野で社会的な支えをしているひとびとが居るのです。この労働が充実してこそ、差別と貧困を克服していく民主主義的な社会が充実していくのです。

 

 イギリスのジエンダー・フェミニズムの研究者によるケア宣言

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 イギリスの労働党を支えてきたジエンダー・フェミニズムの研究者によって、ケア宣言が出されました。そのケア宣言は、ケアを顧みない世界を克服して、相互依存における政治の構築のためです。そこでは、ケアに満ちた家族関係、ケアに満ちたコミュニティ、ケアに満ちた国家、ケアに満ちた経済、世界へのケアをあげているのです。
 イギリスの現実では、ケアを顧みない新自由主義のはじこる支配であるとするのです。コロナ禍で、この問題状況が明確になったしています。イギリスやアメリカなどは、過去に20年~30年間の間に新自由主義のもとで、社会福祉やコミュニティの理念が脇においやれ、ケアの危機が深刻になったのです。
 また、ケアは女性によって支えられてきたという歴史があったことも大切とするのです。社会的に、ケアの仕事は重要なことであったのですが、非生産的労働ということで、低賃金と社会的に低い地位にあまんじてきたのです。
 新自由主義は、このケア労働の社会的地位の低さや不平等に拍車をかけていったとみるのです。コロナ禍のパンデミックによって、この矛盾が医療崩壊という暴力を伴って、世界的に明らかになったとみているのです。ケアを提供する能力を失っているということです。
 そして、他者や環境の配慮に欠ける社会で、困難性と不安の耐えきれない生活によって、ポピュリズムに容易に火をつけられる状況があるというのです。そこでは、他者を思いやることができなくなり、全体主義的で、権威主義的論理によってのケアしない行為に走っていくのです。ケアは社会的能力の活動として、人々が相互依存意識の目的を醸成しなければならないとケア宣言ではのべているのです。
 イギリスでは、必要なケアを受けられない高齢者が150万人にあがるとされています。短期間のセラピーの公的な資金や自殺者の増大、精神的なセラピーを待つ期間が長くなっていると宣言ではのべています。
 パンデミックのなかで、高齢者、女性、黒人やアジア人をはじめとするマイノリティ、貧困者や障がい者たちに直撃したのです。社会福祉の民営によって、政府によって大企業に外注する社会福祉事業を食い物にしているというのです。
 社会福祉事業を行政から請け負う大企業の振る舞いによって、社会的給付と社会資源のいくつかが掘り崩され、さらに、地域の共同所有の空間が私有化されて、地域コミュニティティの福祉的機能がうちのめされているとするのです。このことによって、競争主義的な個人主義を煽り、孤独や孤立をもたらし、地域で参加する能力を破滅し、ケアのための諸制度は機能していかなくなったとするのです。 
  ケアに満ちた政治をつくるたには、相互依存をつうじて、私たちの生存と繁栄が様々な他者のおかげであるという認識からはじめなければならないとしています。ここには、人間相互作用の複雑さ、互恵性ということからあらゆる人の潜在力を育てるために必要な技術と資源を十分に評価できるように、社会のあらゆるレベルの民主的なプロセスが必要とするのです。

 この民主的プロセスに十分に参加できる能力を高めていくことによって、相反する感情や矛盾とつきあっていくことになるのです。ここに、ケアに満ちた相互依存の世界が創造するおとができるのです。

 

    ケアに満ちた親族関係
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   ケア宣言では、オルタナティヴな親族関係を問題提起しています。核家族を超えたケアです。母親業の理想は現実的に難しくなっているというのです。1970年代以降に、女性たちが公的な生活への参加をしていくため、給付付きの育児休暇、共同保育所などの多様な形の子育て制度を作り上げた。
 20世紀後半から21世紀にかけて、ケアの第一提供者は、パートナーや親戚ではなく、友人であるということが多くなったとするのです。友人たちは、同居し、互いの子どもを世話し、病人や死の間柄の人たちと苦痛を緩和するケアになっています。国家は、こうした友情関係を十分に承認していない。また、決定権を付与されていないばかりか、ケアに必要な資源も与えられていないというのです。
 ケア宣言の問題提起に、家族に代わる新しいケアの関係で、友情関係の存在が生まれていることも大切なことです。日本でもシェアハウスが広く普及しはじめています。自分の部屋とは別のキッチンやラウンジなどの共有スペースをもって、入居者が交流できる場づくりをしているのです。通常の一人暮らしからの転換です。
 共通の趣味をもつシエアハウスなどの工夫もされているのです。このシエハウスでケアしていくということがどのような関係になっているのか、とくに病気などになった場合などのケアの機能がどのように果たされているのか興味ある課題です。
 一人暮らしが増えているなかでの新しい動きですが、家族に代わる機能をはたしていくのかということでは別の問題です。核家族を超えたケアを促してくれるということで、現実家族生活の個人の尊厳と両性の平等、相互の協力ということで、親密に互いを尊重して、いたわりながらの家族関係をもって生きているのです。それは、多くの人々のケア問題を解くことにならないのです。
 家族は社会の基本的な単位です。生活の面でも子どもを育てるという面でも重要な役割をもつ。このことから、国家は、家族の保護を図る施策を採用する義務があります。日本国憲法二四条の精神は、個人の尊厳と両性の平等ということと、国家が家族の保護を図る施策の義務を内包しています。
 子どもの権利条約では、父母に子どもの発達の責任、権利及び義務を尊重しているのです。そこに、家族の役割があるのです。また、家族が機能していない場合、子どもを保護するために、親等による虐待・放任・搾取からの保護を立法、行政、社会、教育の措置をとることの義務を強調しています。
 イギリスのラディカルなフェミストの研究者のケア宣言では、乱交的なケアを提言するのです。ゲイを事例にして、表現があまりにも嫌悪的なもので、一夫一婦制の社会的な倫理から納得しがたいことですが、この表現は、大いに誤解をうけるものです。
 ここで、いいたいことは、ゲイ男性が互いに親密を表し、ケアする、複数化されて、最も親密な者から最も遠い者まで、ケアする関係を再定義するように外に向かって拡散する倫理ということを強調したいのです。
 乱交ケアというラディカルな表現は、行き当たりばったり、あるいは無頓着にケアすることでない。それは、市場と家族に頼ってきたものから、遠くであれ、近くであれ、他者への志向性を育成する能力を高めるという拡張的な方法でのケアという包容力のある考え方です。ケアは親族的なつながりだけではなく、見知らぬ者しか担えないことがあります。それは、ます。コロナ禍で経験したということです。
 ところで、日本では、社会的なケア施設と家族を日常的に結ぶということで、ディケアやディサービス、小規模多機能施設などがありますが、それらは、家族のケア負担の減少、ケアする人の社会活動や仕事の両立に意味をもっています。
 また、ケアされる本人自身の社会的交流の場、心の癒やし、身体的な機能回復に大きく役にたっているのです。介護施設児童養護施設の施設主義を克服するために、地域との関係や施設内をユニット制にして、家族的な状況をつくる努力をしているのです。これらは、家族のもっている人間らしく暮らして行ける生活単位としても、情緒的な側面からも重要な意味をもっているのです。 
 ケア労働が低賃金ということは、その担い手が女性ということに大きな要因があります。ジェンダー問題と深くかかわっているのです。家族とケアということで、歴史的にケアが女性の担ってきた仕事です。それが社会化されることによって、社会的労働として、ケア労働になってきたのです。という職業になってきたのです。しかし、社会的なジェンダー問題が女性の賃金を低いものにしていますが、女性の担い手が多いところのケア労働は、社会的な評価も低くなっているのです。

 ジェンダー問題は、歴史的にみれば封建時代から継承している家父長制の問題があります。さらに、資本主義の大工業制によっての単純労働者を大量に導入して、熟練的な職人労働を排除していったのです。この単純労働者は、低賃金で、女性や児童が労働市場に動員されていったのです。
 そこでは、女性や児童が過酷な状況に置かれ、子育て・教育放棄などからの退廃や社会的再生産の機能不全に陥ったのです。労働力の社会的再生産ということから、工場法の制定ということで、それらの改善の課題がだされていくのです。
 さらに、外国人労働者が奴隷的な家事労働者、低賃金労働者として、発展途上国から連れてこられたのです。ケア労働を社会的に価値あるものとして、ジェンダー問題の克服をも含めて、抜本的に改善していくことが求められています。
 
 ケアに満ちたコミュニティ

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 ケアに満ちたコミュニティの創造には、4つの核があるとしています。それは、相互支援、公的な空間、共有された資源、ローカルな民主主義です。
 第1の相互支援は、近所づきあいからコロナウイルスの相互支援グループまで幅広い相互支援があります。そして、自発的で下から上にひろがっていく相互支援があるというのです。また、長期的な活動にするためには、構造的な相互支援を必要とするのです。
 よき隣人は、病気に伏せた人の様子をみにいったり、ちょっとした使いをしてあげたり、植物の水やりやペットの餌をやったり、相互の支援によって、広くケアされていくのです。これは、地域に根づいた相互支援ということでの最良の形でケアに満ちたコミュニティというのです。
 相互扶助がコミュニティで拡張されることによって、それが公式なものとして発展していくのです。そこに、地域での協同組合の充実があるのです。この典型的な事例として、スペインのバスク地方で発展していったワーカーズコープやイギリスのウェールズ地方のトレデガー労働者医療扶助会があるというのです。
 第2には、公的な空間の必要性です。それは、誰もが共有しており、共同で維持され、私的な利益に左右されるものではないことです。公的な空間は、平等主義で、すべての人がアクセス可能であり、共に生きる喜び、相互のつながりをもっているということです。
 公的に所有された公園は、保護と拡張を必要として、地域のコミュニティが野菜を育て、人々が自然に触れ、体を動かして他者と出会える空間になるのです。共有の庭園は、存在することによって、あらゆるレベルでの共に生活を育てる相互連関があるのです。
 第3は、少数のものにより、資源の独占ではなく、一回だけの使い捨てのものではない資源の共有ということです。地域の図書館が地域空間と資源共有の最も強力の事例です。モノのライブラリーも再利用や再循環の形態を転換できることができ、切迫する環境破壊の時代に、電気ドリル、高価な子どものおもちゃなどを共有することができ、無料でさまざまな日曜大工のワークショップに参加することができると言うのです。
 第4には、公的なセクターの再建のために、地方分権よりもさらに自治を示した新しい市民による直接政治をめざしてということです。それは、公共サービスの提供や協同組合を通しての地域に根ざしての統治の拡大という地域の参加民主主義の充実です。これには、イギリスのプレストン市議会が、地域の労働者協同組合に働きかけて、予算削減に対処した事例なのがあります。
 このイギリスの事例は、アメリカのオハイオ州クリーヴランド・モデルにならったということです。そこでは、地域の協同組合の能力を高めようとする取り組みを積極的にしたのです。仕事が公的なセクターに戻ってくれば、労働者は安定した職を手に入れることができて、生活できる賃金と年金、さらに疾病手当や有給休暇を得ることができるというのです。 
 地方自治体のプロジェクトは、コミュニティレベルにおけるケアを根本的に創造することができるのです。私的な利益ではなく、地域住民の供給の社会的あり方に基づいて、計画と生産の段階に利用者が加わります。そこでは、その過程における民主主義が重要になってくるのです。

 

 ケアに満ちた国家

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 福祉国家は、ニューディール政策からゆりかごから墓場といわれるようにベヴァリッジ報告などケインズ義経済学で進められたのです。イギリスは、1950年代に経済の20%が公有化されました。1979年に人口の半数が公営住宅に住むようになったのです。
 ケアに満ちた国家は、質の高い学校制度や職業訓練、大学教育、医療制度が整備されたのです。教育と職業訓練は、ケアする実践を強調したのです。ケアする能力を初期の人生の段階から醸成していくのです。

 新自由主義の台頭によって、ケアに満ちた国家がくずされていくのです。以上のように、ケア宣言では、1980年代までのイギリスをはじめヨーロッパの福祉国家の施策を評価しているのです。 
 福祉国家では、相互に依存するということで、自律性と依存性から生涯にわたって意義深く価値ある生きる者として認知される必要があるとするのです。ケアに満ちた福祉国家は、父権主義的であり、人種差別的、植民地主義的であるというのです。
 それらを克服するには、伝統的な家庭内の役割分担の意識を乗り越える必要があるとケア宣言はみるのです。そして、階層的に構成されて、トップダウンで決定され、規律的で、強制的組織から、エコロジカルな民主的に参加によるケア国家の創造を強調するのです。
 さらに、ケア宣言のケアを支える社会的基盤は、有償労働に従事する時間を社会的なしくみから短縮することであると提言します。そして、家族的な環境であれ、人々がケアする自らの能力を拡張するために、そのケアする人々がのんびりとすごす時間と他者の状態をしっかり見定める関係性が求められるとするのです。また、ケアを受ける人々が主体的能力も必要になってくると考えるのです。これらのことから、週4日間労働を訴えることも必要というのです。
 福祉国家からケアに満ちた国家として、参加民主主義が重要な要件ですが、合衆国のクリーヴランドでの先進地では、協同組合主義的な草の根への支援が拡大しているというのです。イギリスでもプレストンの事例で、ホームレスになるような人々にコミュニティは住居提供をしているのです。
 イギリスのウエールズでは、2014年に「社会サービス法」で、ケアサービスの育成と促進は義務化され、ケアの提供者は、官僚的ではなく、持続可能な資源形成のためのケア提供をするようになるのです。連帯と行為能力、コミュニティ、そして帰属ということを重要な感性を制度化していく。
 こうした事例から学び、それを基盤にして、さらに発展させて、公共の資源に平等にアクセスできて、すべての人々が相互依存によるケアに関われることで、民主的な過程を大切にしたケアに満ちた国家を形成することができるとしているのです。国家とケア労働をみていくうえで、相互依存の政治として、過程における民主主義を重要な課題とするケア宣言は、大切な考えです。
 相互依存の支え合いケアを充実していくうえで、大衆的に、その能力をつけていく人々が増えていくことは、国家としてのケア教育としての役割です。国民が教育を受ける権利の内容として、ケア能力形成は、相互依存の社会形成にとって、不可欠です。
 貧困者、障がい者、高齢者、病をもった人など社会的弱者に対する偏見や差別を克服することは、すべての人々が相互依存で、自由に、参加民主主義の社会で人間らしく、楽しく生きていく社会のために非常に大切な課題です。このためには、多くの市民がケアにボランティアとして参加することは極めて重要なことです。そして、国民大衆の基礎的な能力の形成に、ケア能力は不可欠になっていくのです。しかし、このケアの大衆化とケアの専門的労働とは全く違うのです。独自に、ケアの専門的労働を相互依存の社会にとって考えていく必要があるのです。
 家族内での家事・子育てとして、位置づけられていたケアは、社会的関係の見方が弱く、私事としてみていたのです。しかし、ケアが社会的労働になることによって、保育士、介護福祉士社会福祉士、看護師、保健師、栄養士などのケアの専門的職業が生まれていったのです。 
 ケア労働の専門的職業の形成は、例えば、発達障がいをもっている子育て、認知症をもつ高齢者のケアにとって、人間らしく楽しく生きていくために適切な発達援助や対処ができるのです。医師が病を適切に治療して病気を治し、健康の体や心にしていくことと分野は異なるが同じ機能をもっているのです。この専門的ケア労働と一般大衆のボランティア的ケアとの関係をもって、有効な相互依存の民主主義的な社会が形成されていくのです。
 専門的ケア労働はケアを受ける人との関係ばかりではなく、ボタンティアをはじめ、一般大衆のケアに囲まれた社会のなかで、人間らしく、楽しく生きる相互支援のための有効なケアが可能になっていくのです。  
 専門的ケア労働の職業形成とその能力の充実には、国家の役割があるのです。専門的な資格制度を充実していくことと、その専門的な能力形成・発達の研修制度も国家の仕事です。さらに、ケア制度の法的な整備も国家の重要な課題です。
 国家としての社会福祉行政における民主的な意思決定における地域での一般大衆の参加は重要です。官僚的な地域の福祉計画策定から住民参加的地域の民主主義の形成が切実に求められているのです。ここには、専門的ケア労働と一般大衆のケアへの意志も含めて、社会福祉行政の地域計画とその遂行が必要なのです。
 国家のケアに対する財政問題は大切な課題です。それは、ケア労働の専門性の充実、ケア労働者の充実した給与の保障、ケアを受ける人々の生活援助、ケアの料金、ケア施設の充実や運営費など、多くの財政支出が国家に求められています。

 ここには、社会保険や税制のあり方も含めて、ケアを国民的な課題として深めていくことが重要なのです。そこには、ケアから新しい民主主義の国家像のあり方が探っていけるのです。

 

ケアに満ちた経済

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 ケアに満ちた経済は、新自由主義の市場絶対主義を止めることですとケア宣言でのべるのです。市場だけの交換だけではなく、世帯内、コミュニティ、国家、そして世界のなかで満たされいくという多様性をもたせるということです。
 ケア宣言では、経済的なものを市場での現象だけにみる考え方をとらず、ケアに満ちた交換のしくみを限りなく民主的でより連帯的なものにしつつ、所有、生産、消費を平等主義になるように取り組むというのです。市場化された関係からケアと相互性、自発的なネットワークという新しい交換の道ということです。
 ケアと資本主義の市場論理は相容れないという見方です。親密なケア労働は、個人的な関わりと情緒的な愛情をもって最もよく提供されるものです。ケア関係は相互性、連続性、忍耐という支えのもとで開花するというのです。
 ケアを価値づけることは、ケアを市場化することと同じということで、ケアに対する責任やサービスを購買力と同じように価値づけることに否定するのです。ケアの基盤は脱市場化というのです。
 ケアに関わる多様性と複雑さに配慮しながら、脱市場化していくことが必要ですが、財やサービスが交換される何らかの市場は、資源の再配分から常にみなければならないのです。市場の再設計、市場の再配分の機能は、富裕層ではなく、人々と地球であると確約される必要があるという立場です。
 市場の再設計は、協同組合、国営化、公共とコモンズのパートナーシップなど、さまざまな形態が考えられます。市場の商品の価値から集団化さえ、社会化されて、ケアの交換価値にとって代わる必要性を強調しているのです。具体的な事例として、モンドラゴン労働者協同組合を描いているのです。
 ケア労働は公的な分野で、国家や地方公共団体の役割は極めて大切です。また、非営利の協同組合やNPO法人なども社会的セクターとしての公共性から大きな意味をもっています。公共経済という立場は、営利的な市場でない。
 公共経済は、資源配分の効率性、所得分配の公平性、経済の安定性からからです。そこでは、租税や公共事業、社会福祉事業が大きな位置を占めるのです。そして、事業が社会にどの程度貢献しているかが大きな指標になっていきます。
 ケアを公共経済や公共政策から、いかに国民の一人一人の生活を豊かに、幸福に、人間らしく楽しく自由に生きて行けるかということ視点が大切なのです。ケアは公共性をもっている事業分野として、営利からの脱市場という論理は重要ですが、社会経済構造として、すべてが脱市場ということに意味することではないのです。
 ケア労働は、市場社会のなかでの貧困化による所得再配分、資源の再配分機能をもっています。その意味で、市場との関係は、強くもちます。したがって、すべてが国際的な市場絶対主義の新自由主義から市場の民主主義的なルール、公共経済・公共政策、そして、市民の暮らしからの参加が重要性をもつのです。

 
 世界へのケア

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 コロナ禍のパンデミックのなかで、世界へのケアの重要性が人々のなかでより強く認識されるようになりました。国境を越えた連携や協働が人々の命を救ううえで大切なことが明確になったのです。
 また、地球規模の気候危機がエネルギーシステムの脱炭素化、再生可能ネルギーの投資というグリーン・ニューディールへの投資を世界的に喚起したのです。国境を越えた機関や機構をたくさん必要としている時代になっているのです。
 世界各国で、今こそケアということで、あらゆる億万長者に課税、累進課税の促進、発展途上国での債務帳消し、国際的金融機関のケアに有効投資できるように再構築などの提言をケア宣言はしているのです。
 ここでは、国境を越えた革新的なネットワークの構築が世界のケアのために求められているとしています。ケア宣言の中心は、世界資源の分配要求です。環境的に持続可能性であるだけではなく、公平性であり、お互いに憎しみを減らし、違いを超えたつながりがあるというのです。

 日本ではケア労働関係の絶対的な労働力不足のなかで、発展途上国からの労働者の受け入れが必要になっていますが、ケアの専門性から日本語能力やケア自身の専門能力も含めて、大きな課題になっているのです。

 19世紀から20世紀初頭の植民地国からの労働力補充ということで、過酷な労働を強制した歴史をアメリカやイギリス、日本も、経験したのです。この歴史的反省のうえに、ケア労働者の専門性を大切にしての外国人労働者の受け入れが求められているのです。日本では、単純労働者として、外国人労働者を受け入れることができないという理念と法的な規制があります。入国管理事務にとって、それは、大きな課題になっているのです。
 
 

 

暮らしの学習権と地域主権への公務労働

   

    暮らしの学習権と地域主権への公務労働

                   

はじめにー人間らしく暮らしていける学習権ー 

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 本論では、暮らしの学習権と地域主権への公務労働の課題を人間らしく生きる権利として取り扱うものである。暮らしの学習とは、現実の社会的な矛盾のなかで、差別と貧困を直視し、多様性を尊重して、どんな立場の人々も人間らしく豊かに暮らしていくための学びである。
 その学びは、幸せをもてる豊かな消費と、生きがいを発揮する働き方を実現していくものである。また、家族や仲間、職場・地域での友愛精神による支え合い社会を造っていくためである。それは、為政者の支配や統治の動員主義的な教化・啓蒙でないことはいうまでもない。
 暮らしの学習権は、地域の民主主義を基盤に、国家としての暮らしを保障する主権在民の学びである。暮らしを基礎とした社会教育の充実は、民主主義発展の度合いを測る大きな指標でもある。この対局に、社会的退廃や金権支配、愚民政治やポピリズム、政治的無関心の充満がある。この傾向は、ファッシズムの社会的基盤をつくっていく。
 持続可能な物資的な豊かな暮らしの発展は、絶えざる知識の吸収と創造性、科学・技術革新、イノベション能力によるところが大きい。それは、弱肉強食の競争主義ではない。
 近代化による大量生産は、人々の物質的欲望を刺激し、大量消費になった。また、効率主義的利潤優先によって、自然循環を破壊し、大量廃棄物をつくった。まさに、地球的規模で環境問題を起こしたのである。暮らしの学習権では、これらの環境問題を学び、持続可能な社会をつくっていうことも大きな課題となる。
 弱肉強食の競争主義は、格差と差別を蔓延させた。貧困化は、様々な社会病理現象を起こした。母子世帯の貧困化に現れているように、ジェンダー問題も深刻である。また、高齢者の一人暮らしの増大もある。障がい者外国人労働者に対する差別もあり、ヘイトスピーチなど人権の問題も跡を絶たない。まさに、人間のもつ多様性、国際的な連帯と友情を否定する社会的な風潮である。助け合う地域社会の崩壊現象のなかで、無縁社会が生まれ、様々な社会的病理現象も起きている。
 コロナ禍のなかで、その矛盾は深刻になっている。現在は、これらの社会的な問題を克服していく地域での学びが切実に求められている。ここには、暮らしの学習権の保障が必要なことを示している。
 公民館などの公的社会教育は、趣味などの文化的側面に重きをおいている。それは大切なことであるが、暮らしの学習権の視点が極めて弱い。住民の暮らしから公務労働のあり方も問われる。公務労働を地域主権という視点からみるならば、それぞれの業務の専門的なことと社会教育・生涯学習との関係が強く求められている。

 本論では、さまざま地域社会の矛盾を直視しながら、それらを克服していく、地域における暮らしの学習権の視点から社会教育の課題を明らかにしていく。
 
    1,暮らしの学習権

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 暮らしの学習の権利構造
 人間らしく豊かに生きていくために、文化やスポーツの充実、健康で笑顔をもって生きたいということは誰でももっている。多くの国民は、現実の労働や生活、環境、政治などの諸問題を学び、それらを解決していくための生涯学習から遠ざかっている現実がある。このことが日本の民主主義に大きなマイナス要因になっている。
 生涯にわたって学ぶ権利は、民主主義社会では、当然のことである。日本国憲法は、すべての国民に教育を受ける権利(26条)を保障している。教育基本法3条は、国民一人一人が豊かな人生をおこくることができるように、あらゆる機会、あらゆる場所において学ぶことを保障している。
 1985年にユネスコは、国際成人会議で学習権宣言をした。その宣言では、人間の生存にとって学習権を不可欠な手段とした。学習権なしに人間的発展はありえないとたかだかく示した。そして、学習権の内容を次のようにかかげた。

 それは、読み書きの権利、問い続け、深く考える、想像・創造する権利とした。また、自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利とした。さらに、なりゆきまかせの客体ではなく、自らの歴史をつくる主体にかえていくことを強調した。つまり、学習権なくしては、人間らしく生きる人間的発達はありえないと宣言したのである。
 
無縁・消費の社会と社会教育・生涯学習の課題
 現代の大量消費社会は、新たな欲望を拡充し、文化的消費の快楽もマスコミや情報革命も進んだ。さらに、嘘・デマや詐欺、横領も横行した。法令違反や社会的倫理に反する金権支配をめぐる癒着問題も大きな問題となった。政治的退廃、企業の不祥事は、日本社会の社会的なリーダー層の道徳的劣化である。この状況は、社会的道徳と友愛や連帯性が希薄になっている証である。
 現代は、ものづくりや農林漁業業のような目にみえる直接的生産よりも、ITなどの著しい技術革新で、ロボット化や仮想空間も増大した。現代は、日本の社会経済を支配する特権的利益集団の既得権が強力に維持されている。このなかで、多くの国民は、弱肉強食の新自由主義がおしつけられている。景気変動による調整弁として、非正規雇用者が大幅に拡大した。個々に自己責任が強制され、著しい格差社会をつくりあげたのである。
 さらに、価格競争と、賃金抑制など「経費」削減を多くの働く人々におしつけ、働くことの生きがい、やる気を引き出すことが極めて不十分になった。そして、人間の心の飢餓状況、精神的貧困化も進行した。
 これらの結果は、経営自身の停滞を招き、イノベーションの動きから日本が、後退した大きな要因になった。日本の長引く経済の低迷は、これらが原因である。特権的な利益集団の社会的リーダー層は、目先の自己権力維持の固執と、貪欲性が著しくみられる。そこでは、人間としてのあたりまえの責任問題が鋭く問われている。
 企業の国際化は、腐敗問題の克服を提起した。国連グローバル・コンパクトは、原則的な腐敗の防止に関する国際連合条約をつくった。その内容は、2003年10月に国際連合総会で採択した。腐敗防止に関する国際連合条約の前文では、腐敗が国際的な現象になっており、民主主義と社会的正義、並びに持続可能な社会を危うくするとしている。
 国連は、SDGsの持続可能な開発のために2030年までに17の目標として、貧困・飢餓、健康・福祉、教育、ジェンダー平等、安全な水、クリーンエネルギー、働きがいと成長、イノベーション、不平等是正、住みよいまちづくり、生産と消費の責任、気候変動、海と陸の豊かさ、平和、パートナーシップをあげている。それぞれの国、地域の特有の課題は、自治体や企業がローカル課題の解決としてSDGsに取り組むことを積極的に示したのである。
 現代社会の精神的荒廃の大きなひとつとして、無縁社会としての孤立問題がある。限界集落といいわれるように農山村では、高齢者だけで暮らし、それも一人暮らしが増えている。都市でも、核家族化のなかで、配偶者にさきだたれるなど、様々な理由で、高齢者の一人暮らしという社会的孤立が増えている。
  2021年度の高齢社会白書によると、高齢化率28,8%であり、一人暮らしのが1980年に男性19万人(4,3%)、女性69万人(11,2%)が、2015年には男性192万(13,3%)、女性400万人(21,1%)である。
 内閣府平成28年度調査では、よくつきあっている人がいるというのは、男性73.8%、女性80.7%である。地域社会の崩壊現象のなかで、この比率も減少していくとみられる。一人暮らしの高齢者でも積極的に趣味や社会的活動で、楽しく豊かに生きている人々がいることは大切なことである。しかし、高齢者の孤立と無縁社会は大きな社会問題である。地域で、どのようにしたら、この無縁社会を克服していけるのか。
 さらに、8050問題がある。中年層の引きこもりとその親の高齢者が生活を支えるという問題がある。中年のひきこもりとして、内閣府が2018年調査で、61,3万人という数字が報告された。その理由に退職36,2%、人間関係21,3%、病気21,3%の数字がでている。これらは、日本の精神的な貧困化のなかでの現象であり、社会的孤立からの支え合いの構築が地域福祉と結びついた社会教育を求めている。
 子どもや青年も、家族遺棄社会現象といわれるように、孤独で暮らす人々も増えている。家族を棄てた父親の孤独死、ゴミ屋敷と餓死寸前という捨てられたという家族の問題、孤独死の実情ということで、著書「家族遺棄社会」が書いている。その著書において、菅野久美子は、孤立、無縁、放置の社会を告発した。
 地域の自治会などの地縁組織には、様々な地域行事や寄付など自分の意志に反する拘束力があるという。町内会に入らない現実がある。わずらわしいと思う人々が増え、加入者が減少している。

 現代の日本社会は、生活が個人化し、自己責任ということが強調され、社会的孤立の人々が増大している。ここでは、共助の意識が極めて弱くなっている。お互いに干渉しない、個々の生活を侵害しないということで、地域の絆を築くことも特別の努力が必要な時代である。

 従前の地縁組織のあり方も問われていることを重視しなければならない。従前の地縁組織には入らないが、スポーツや趣味のグループ、生協などの宅配や医療サービスに加入する人も少なくない。自己の要求を満足してくれる機能的な地域組織が大切になっている。
 地域の絆を築くためには、本人自身が、働きかけをしない限り難しくなっている。日常生活における個々人の自由な選択権の拡大と同時に、それぞれが関わり合いをもっていく新たなコミュニティの形成という友愛社会の構築が切実に求められている。それぞれの興味や趣味、地域の子育て、自己の特技や役割などが発揮できるボランティアをはじめ、小さなことでも仕事につながることや、未来へとつながる地域づくりなど様々な関わり合いができる場をつくっていくことは住民の学習権として大切な課題である。
 これらは、社会的関係資本の整備のうえに、社会的な信頼性、社会的信用を築いていくことが必要になっているのである。安心社会の形成は、社会的信頼性と社会的信用であり、詐欺のない、だましのない社会で、それを見破っていく社会支援と社会教育の徹底が不可欠なのである。
 無縁社会現象のなかで、支え合いの友愛社会の新たな構築は、公的な地域福祉と公的な社会教育が不可欠である。地域では、日常の生活活動、文化的・スポーツの活動、仕事にとっても友愛精神によって、支え合うことを目的意識化することが必要である。これには、独自に地域福祉の公助を基盤にしての新たな共助の支え合いの公的な社会教育活動が求められている。

 

 貧困問題からの暮らしの学習権と地域福祉
 新自由主義のもとで、格差と貧困が進み、この状況では、競争主義の能力主義や利益優先主義と出世教育が支配的になる。この傾向に対して、地域の民主主義には、人間尊重の多様性を尊重し、どんな人でも生きていくうえで、素晴らしい価値をもっている認識が地域社会で不可欠である。

 その実現には、地域での多様性を尊重する学びである。つまり、男女格差、発展途上国から労働者の差別、障がい者の差別などが存在しているなかで、それらの偏見と差別を克服していく学びである。
 アルコール依存症は、精神的な社会的孤立現象のひとつである。実数は、100万以上といわれる。依存症で治療を受けている外来は95579で、入院は25606人である(平成28年厚生労働省)。

 2020年度の児童虐待相談件数は20万5千人である(全国の児童相談所集計)。内閣府平成25年度の子ども・若者白書では、15歳から34歳の無業者63万人、フリーター180万人である。家でひきもり23,6万人、自分の趣味だけ外出46万人、広義のひきこもりの合計69万6千になっている。
  日本の貧困問題を考えていくうえで、母子世帯にその典型をみることができる。女性は、低賃金が多い。母子世帯の子どもの貧困問題はジェンダー問題でもある。貧困のなかで育つ子どもたちは、環境的に人間的に成長の基盤も弱い。
 ここでは、生活不安の増大ということだけではなく、人間的な成長の基盤が奪われている。家庭への成長の場の援助が切実なのである。このためには、地域、社会によっての教育援助体制が必要である。日本での子どもの貧困を論じる際に、親への非難、家族の責任問題に転化されやすい。この問題は社会教育として見逃せない。
  貧困の子どもに対して、具体的な発達の保障と人間的成長の手だてが、学校教師をはじめとして、公的な福祉と社会教育の役割がある。また、貧困のなかで未熟な面をもつ親自身の人間的な教育、自立していけるような教育や訓練も求められている。貧困などによる家族関係の破綻、子どもの生存が脅かされる虐待からの保護は、一時的な母子分離が原則になる。
 多くの母子世帯の現実は、子どもを育てるために朝晩、長時間で働かざるをえない。貧困の母子家庭は、子どもとゆっくりと接触する時間的なゆとりもない。子どもを育てるために必死に生きている現実である。それは、人間らしい生活からほど遠く、将来の希望を自由に選択できる幅が限定されている。家庭の経済的格差は、子どもにとってと大きな進路の制約があることを見落としてはならない。
 2019年の国民生活基礎調査によれば、552万円の平均所得以下が61%を占め、母子世帯は、社会的保障費も含めて270万円である。児童のいる世帯平均745万円の半分以下の所得の実態である。高齢者世帯は312万円である。母子世帯では、大変に苦しい41,9%、やや苦しい33,3%と多くが、生活の困窮の意識である。全体的には、大変に苦しい24,4%、やや苦しい33,3%と国民の半数以上が生活の困窮の意識をもっている。この現実からの解放も社会教育の課題として捉えていくことが求められている。
 

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    気候危機などの環境問題からの暮らしの学習権
 地球規模の環境問題は、気候危機、大気汚染、水の枯渇問題、開発による大規模な災害を起こした。そして、水俣問題など命を脅かす公害被害、人間と自然の無秩序のなかで感染症問題などを起こした。現代は、人間らしいくらしの復権ということで、環境破壊から復権していく自然循環的な人間的生活を取り戻すイノベションの学びも求められている。まさに、脱物資的な成長主義からの脱皮でもある。
 健康で安心して、豊かに暮らしていくために、自然災害や公衆衛生の問題は大きな課題である。人間が生きていくうえで、自然との関係は、心の癒やしや文化的な充実にも欠かせない。そして、自然は、台風、地震、火山、水害などで人々を襲う。
 コロナ禍では、感染症の恐ろしさを人々に教えた。公衆衛生が大きな課題として認識されたのである。地震や異常気象は、地域での防災対策を求めた。森林の伐採など大規模な開発による自然破壊も地域の人々にとって、大きな関心をもつようになった。
 2021年11月に実施した国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)のグラスゴー気候会議は、脱炭素が世界的課題になった。イギリスのグラスゴー会議の目的は、持続可能な開発と貧困撲滅に向けたなかで、気候危機の対処の国際協力である。そこでの基本合意は、人権、健康の権利、先住民の権利、地域社会、移民、子供、障がい者などの権利が気候危機との関連で議論を求めた。さらに、男女間の平等、女性の自律的な力の育成及び世代間の衡平を尊重を重視したのである。
 グラスゴー会議では、世界の人々に脱炭素社会を求めた。そのために森林、海洋、雪氷圏の生態系、生物多様性を本来の姿に戻すことが不可欠になった。そして、世界全体の温度を摂氏1.5に下げていく緊急性を提起した。2010 年比で 2030 年までに世界全体の二酸化炭素排出量を45%削減し、今世紀半ば頃には実質ゼロにするという確認を世界共通としたのである。
 ここでは、再生可能なエネルギーの創出、省エネが抜本的に求められ時代になったということである。自然破壊をしない生態系を大切にしての循環的なエネルギー創出である。このことから最も離れているのが、原子力である。大規模に森林を伐採してのメガソーラー開発も自然循環的ではない。自然の条件を活かした小水路発電、建物や施設の屋根をいかしたソーラー発電、植物残渣や家畜ふん尿を活かしたバイオマス発電、地熱発電、浮体式洋上発電など様々な方法があるが、これらも生態系を壊さず、十分な自然循環的な配慮が求められている。
 日本は、台風、大雨、地震津波、火山などからの自然災害の多い国である。それぞれ地域での細かい防災対策を住民ぐるみで実施している。東日本大震災のような津波被害で、多くの人命が奪われた。異常気象のなかで、大雨による水害が頻繁に起きるようになった。ここで、重大なことは、原子力発電所の水素爆発による放射能汚染であった。
  森林法での林地開発は、都道府県自治体が事務になり、住民の福祉増進を基本にして、国土保全、水源涵養、良好な生活環境、保健・文化・教育的作用、温暖防止等の地球環境保全生物多様性保全などの多様な機能をもつようになっている。
 保安林の拡大等による積極的な活用、森林セラピーや森林のもつ生物多様性の教育の活用、森林と共に生きてきた人々の知恵を学ぶなど保健・福祉、教育、観光などに森林自然との共生の経済を積極的に取り入れていくこともひつつの方法である。発展途上国の先住民や地域社会の生態系のなかで暮らす役割を重視していくことが新たな脚光になった。この脚光を持続的に大切にしていくためには、それらの人々の生活支援をすることが強く求められる。
 省エネ対策は、脱炭素化のなかで重要な課題である。AIの発達で自動制御で省エネも、スマートメーターで目にみえるようになった。ボイラーや配管の断熱装備、断熱材、断熱ガラス、排熱の再利用などの施設整備も大切になってくる。スマートコミュンティーやソーラと農業を結ぶシェアのビレッジなどの取り組みも可能になっている。
 日本のエネルギー政策の重要なことは、脱原発、脱石油、脱石炭である。2030年までに廃止の「脱石炭火力連合」で、「先進国は2030年に廃止、途上国は2040年に廃止」と、「石炭火力の新設を行わない」の声明がだされた。このための再生可能エネルギー創出の地域でのきめの細かいイノベーションが求められている。
 自動車に関しては、「世界の全ての新車販売について、主要市場では2035年、世界全体では2040年までに電気自動車(EV)などゼロエミッション車とすることを目指す」という内容に20を超える国や企業が合意した。
 森林に関しては、「その減少傾向を2030年までに止め、回復に向かわせよう」という声明が出され、100か国以上が賛同した。メタンガスを2030年までに2020年比で30%削減する「グローバル・メタン・プレッジ」を世界100か国以上が賛同しました。以上のように脱炭素の動きが世界で急速に進んでいるのである。

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 リカレント学習の権利
 人間らしい労働には、人々の暮らしの豊かな発展と結びついている。労働には、自己の暮らしの豊かさの発展というばかりではなく、奴隷、農奴、賃金を得るために、支配従属関係をもってきたことも見逃してはならない。人間らしい豊かな暮らしの実現には、偏見、差別、搾取からの解放ということがある。現代では、基本的人権思想、自由と民主主義の普及によって、人間らしく豊かに暮らしていけるような人間の尊厳の見方は共有されるようになっている。
 しかし、現代の新自由主義のもとで、非正規労働者が増大し、格差と雇用不安が生まれている。このようななかで、職業教育や職業訓練は重要である。リカレント教育の保障は、生きがいをもてる労働の探究と失業不安からの解放にとっての大きな課題である。
 リカレント教育生涯学習ということでは、2020年10月スイス・ジュネーブ で「仕事の未来レポート2020」がだされた。新型コロナウイルス感染拡大により、労働市場が急速に変化していることを世界経済フォーラムの調査結果はみせている。
 2025年の企業では、人間と機械が仕事を半分ずつ分担するようになると予測され、ホワイトカラーやブルーカラーの職種の中でも、情報やデータ処理、事務タスク、定型的な手作業の仕事等は、機械が主に担うことが予想される。
 そして、介護、保育、看護などに形成されるケアエコノミーの需要が高まる。第四次産業革命関連のテクノロジー業界(AI等)が大きく躍進していく。コンテンツ創造の分野で、新たな仕事が生み出される。エンジニアリング、クラウドコンピューティング、製品開発等の分野での新たな職種が生まれる。

 そして、グリーンエコノミー関連の仕事や、データやAI経済の最前線に携わる職種の需要も高まるというのである。5年後も今のポジションにとどまることができる労働者であっても、その内の約50%の労働者には、コアとなるスキルアップデート(リスキリング)が必要になる。
 パンデミックからの復興には、職場復帰支援のため、労働者が仕事に関連するトレーニングをどこからでも受けられるように、教育機関が連携してリスキリングの機会を提供する取り組みが不可欠というのである。

 

2,共生参加の民主主義の学習

 

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 人間の安全保障からの暮らしの学習権
 人間の安全保障という概念は、国家ではなく、個々の人々の恐怖や欠乏から、人間の尊厳を確実に保障していくためである。それには、教育や社会参加などの人間の能力強化が必要である。それは、人間発達・開発ということで、貧困からの解放のための社会的サービスや生存のための基礎的インフラ整備が求められる。
 共生と参加の民主主義は、個々人が参加していくということではない。人間は一人で生きているのではないことから、支え合い、友愛と共生の論理からの参加民主主義が必要である。
 主権在民地域主権から参加民主主義を考えていくには、中央集権的な国家観からではなく、地方自治による身近な暮らしの国家観が必要である。さらに、国のレベルの法律から地域独自の生活レベルの福祉を増進させるため、それぞれの異なる地方公共団体の実状から、住民参加型の条例制定が求められる。直接請求などの民主主義の原理によっての条例制定は、住民自らが学ぶ社会教育的側面がなければ難しい。
 教育の保障がなければ人間の安全保障を実現することはきわめて厳しい。働く者として、親として、社会を変えていこうとする市民としても、教育を受けなければ、大きな不利益を受ける。それは、単に確保されるだけではなく、市民的な寛容な社会をつくる教育内容であることである。
 国連における人間の安全保障の共同議長を務め、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、読み書きや計算という生きるために必要な基礎教育を普及を強調した。基礎教育には、世界の本質を、共通した人間の大切さを話し合う力、その多様性と豊かさのなかで、自分たち自身をどうとらえ決定づけられるか。それらを判断できる能力が求められている。 
 自分たちのアイデンティティを構成するさまざまな要素の教育も大切である。それらは、言語、文学、宗教、民族性、科学的関心などに目をむけていることである。そして、自由と論理的な思考を育む能力も不可欠になり、友情の大切さを理解することである。
 市民社会における議論に効力をもつために、選挙は重要な手段であるが、投票する機会とともに、おびやかされることなく発信し、他の意見を聞く機会が保障されていることを重視している。これらは、公共の理性と実践であって、その実効性をもつのである。
 アマルティア・センにとって、投票の民主主義は、西洋な価値観と慣習であるとする。広い見地から公共の論理における異なった意見、他者を認めあう公の議論に参加できるしくみの人類史的な理性の蓄積が大切とする。

 

 インターネット社会における体験的社会教育の役割
 AIという人間のかわりをしてくれる非常に便利な技術の発展がみられている。そのことによって、人間の労働力が軽減され、加重な肉体労働や危険な作業、不注意・不熟練による事故から解放された。ドローンの発達で、今まで困難であった空からの写真撮影が気軽にでき、荷物も郵便・宅急便から迅速に便利に運ぶことが可能になっている。
 しかし、無人飛行機として、爆弾を積んで、敵地を攻撃することが行われ、罪のない多くの市民が犠牲になっていることも見逃すことはできない。ここには、戦争やテロとの関係で利用される科学技術の人間的責任が鋭く問われている。責任には、信念的な無責任ということからではなく、その結果が生むところの責任倫理がある。
 現代はだれでもスマートホーンなど気軽にインターネットが利用できる時代である。その社会的役割は一層に大きくなっている。現代は、生活のすべてにスマートホーンやパソコンが深く浸透している。買い物のキャッシュレス決済、インターネットによる商品購入、オンラインの会議や授業、ニュース、ネットによる仮想的人間関係など、さざままな利用がある。
 社会経済の活動が直接的な人を介しての場面や実際的に見て、ためして、肌で触って商品を買う、人との関係をもつということから、ネットをとおしての映像判断になる仮想場面が多くなり、人の行動が個人的な感覚的な仮想空間の世界で起きる。ネットによって、知り合っての犯罪の場合もみられる。気軽に便利な側面と同時に仮想の映像が大きな役割を占め、重大な問題を起こすことがある。
 インターネットの社会がより日常生活に入り込んでいくことによって、人間関係も直接的な顔を見ながら、一歩おいての相手の感情表現をみながらのコミニケーションではない。インターネットは、葛藤や悩みなどの心の葛藤がまるだしになり、仮想空間で行われていく側面が大きくなっていく。周囲に相談して、人間関係をもちながら悩みなどを相談していく機会も少なくなっていく。
 ここでは、感情が高ぶった場合に、歯止めがきかなくなる場合もある。インターネットの暴言により、傷ついていくことが増えていく。自分の頭で、自立的に物事をみるのではなく、感情のままに極端な言葉を浴びせる場合が少なくない。それが一斉に拡散されて、一つの群衆心理的にインターネットをとして起きる。つまり、社会心理的には、本能的なものがまるだしの群衆的心理が働いていく。
 インターネットでは、相手の顔をみながらの感情を抑えたり、個々の直接的な人間関係による理性的なコミニケーションになりにくい。社会全体が個々の孤立化が日常生活のなかで強まっていくなかで、人々は群衆心理のなかで大きく影響されていく。そこでは、孤独化現象が進んで、個人を抑制する責任感が消滅していく。個人の利益は無造作に犠牲になり、群衆心理に感染しやすくなる。
 この現状に対して、どのようにして、人間尊厳の民主主義を確立していくのか。思い込み、偏見や差別に陥りやすい克服として、視野を広くもっていくための体験、観察、客観的にみる視野、科学的な根拠で対処していく日常的な訓練が求められるのである。そして、一人一人が友愛による絆と支え合うところの協働の実感体験をつくりだしていくことではないか。
 個々の暮らしのなかで、この協働の場づくりをどう体験していくのか。人間的な五感をもっての体験的な汗をかいて共に実感をもっていく社会教育活動が鋭く求められている。このしかけは、公的な社会教育の大切な仕事であるが、同時に、地域の様々な協働組織との社会教育活動の連携が求められる時代である。

 

3,地域主権への公務労働と社会教育

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 地域福祉計画の住民参加と公務労働の社会教育的役割
 地域福祉計画が市町村自治体で住民参加方式を取り入れてつくられるようになった。これとの関係の生涯学習も行政主導で行われるようになった。社会福祉協議会もノーマライぜーション、住民ニーズ、自己決定、継続性、総合性という原則で、地方自治体に代わり民間活力、ボランティア活動の推進、NPO団体の役割の推奨をしている。

 自治体が取り組む地域福祉の社会教育活動の多くは、地域における多様なグループや団体による町内会などの地域生活の場における学習としている。しかし、住民の要求にそって、共に学ぶということではなく、多くが行政施策の啓発的なものであり、地域福祉に無関心なひとたちへのボランティア活動の働きかけということが一般的である。
 ここでは、市町村行政の公的なサービスだけでは対応できない生活課題をボランティア活動によって、解決していこうとするものである。ボランティア活動は自発的意識で主体的に参加していくものであり、決して公的な責任ある立場ではない。あくまでも補助的なことであり、新しい生活課題にたいしては、公的な行政として独自に責任体制をつくりあげることが必要である。
 安心して、ボランティア活動に市民が参加するには、その責任体制の市民に対する周知徹底が重要である。公助を基礎にしての共助である。住民参加の地域福祉は、行政施策に住民が動員されることではなく、暮らしの学習権から、住民自身の切実な生活要求を地域福祉政策に反映させて、それを実行させる行政の体制をつくりである。それを前提にしての住民自身の自発的な意志に基づくボランティア活動である。

 これらの過程における社会教育の実施が大切である。地域福祉ばかりでなく、地域の暮らしの大切な課題は、地域環境政策、エネルギー政策、地域子育て・教育政策など様々なものがある。これらも社会教育活動と結びついての住民参加の施策が求められている。

 

 住民参加の条例制定と公務労働の社会教育的役割
 行政の官僚制問題は現代社会の弊害である。近代化の組織における目的合理性のなかで、効率的な分業体制の官僚制の問題が生まれる。公務員にとって、大切なことは、それぞれに与えられた業務の遂行能力ということだけではなく、公務員は憲法15条でいう「国民全体の奉仕者」ということである。

 地方公務員は、住民の福祉をはかることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担い、住民の暮らしを守る福祉の整備をして、豊かに、幸福に、生きがいのある生活のための地域づくりを仕事とするものである。
 近代化による行政事務の複雑性と量的な増大は、専門的に訓練された非人間化されたことが起きる。そこでは、個人的な同情、恩恵、感謝に動かされたことは消えていく。近代の官僚制は、非人格的で、専門化された目的合理的的支配であると、100年まえに、ドイツの社会学者マックス・ウエバーが支配の社会学で指摘している。
  住民の総意を活かすのに、住民自身が自らの要求に基づいて、直接請求の条例制定などがある。それには、国の法令との関連も含めて、地域政策を学ぶ学習が求められている。
 地域主権とは、国の住民への暮らしの役割を軽減するという意味ではない。分権ということで、財政や人的な資源を分け合うということではなく、中央政府のもっている責任性を軽減していくものでは決してないのである。
 実際の都市と農村の不均等発展、大都市への人口や資産の集中という矛盾のなかで、地方での生活を守るために、それぞれの市町村自治体がきめ細かに地域政策判断ができることが重要である。全国一律の基準で、中央集権的なひも付き補助では、地域の自主性が十分に働かない。

 市町村自治体が地域住民の自らの意志と判断できることは、具体的な細かな暮らしの地域課題に向かっていくことができる。しかし、財政的に地域の暮らしに責任を市町村自治体がもてるのかということは別である。市町村自治体へのひも付き一括交付、国の事務の見直し、直轄事業事務制度の廃止などが大きな検討課題である。
 市町村自治体の地域政策の遂行に、地域住民との協働的な関係は重要なことである。しかし、注意すべきことは、自己責任による拝金主義的な民間活力の積極的導入ではない。自治体の地域住民との協働は、住民自身が自発的、自立的に参加して、非営利の社会的セクターをつくるなどして、住民の人間らしい豊かな暮らしにを実現していくためである。
 憲法で保障された地方自治の尊重は、住民の暮らしからの自治と住民の基本的な権利から、地方自治財源の確保、住民参加の自治行政権など地方自治基本法の制定が求められている。
 自治基本条例は、自治体の自治(まちづくり)の方針と基本的なルールを定める条例として、平成13年に北海道ニセコ町からのまちづくり基本条例からはじまり、令和3年4月現在では、全国で397自治体に拡がっている。自治体情報の住民への共有は、市民参加、住民の協働ということで、憲法地方自治の本旨の内容が深まっていく。ここでは、住民の学習権との結びつきが不可欠である。この条例制定によって、自治体に対する住民参加の民主主義が充実していく。
 行政による住民説明会は、各地で実施されている。これには、一方的な行政施策の住民への啓蒙活動の場合が多くあり、市町村自治体の職員が、住民と共に学びながら、共に地域政策づくりとその実施を協働でしていくことは少ない。市町村自治体の職員の住民の参加を尊重することは、住民の暮らしを直視しながら、行政の施策との関係で、地方公務員のそれぞれの分野の専門家として吟味していくことである。
 市町村自治体職員が、社会教育の専門職員と共に、自らの職務の遂行に暮らしの学習権を保障していく活動を位置づけていくことが大切である。地域主権の公務労働には、社会教育を伴ってこそ、主体的住民参加と住民の積極的な協働活動ができるものである。この意味で、市町村自治体の職員の地域参加の施策遂行は、暮らしの学習権を伴って、社会教育活動の一翼をになっているという認識をもつことが重要である。

 
参考文献
 アマルティア・セン「貧困の克服」「人間の安全保障」集英社新書、NNKスペシャル取材班「無縁社会」・文藝春秋・菅野久美子「家族遺棄社会」角川新書、佐藤学「第4次産業革命と教育の未来」岩波ブックレット、クラウス・シュワブ「第4次産業革命を生き抜く」日本経済新聞出版社、辻浩氏「現代教育福祉論」ミネルヴァ書房、明日香壽編川「グリーン・ニューディール岩波新書、諸富徹「エネルギー自治地域再生岩波ブックレット、デボラ・テェンバース「友情化する社会」岩波書店、本多滝夫他「地域主権改革と自治体の課題」自治体研究社